三角屋根のホッパー
新夕張駅は昭和56年(1981)10月、石勝線開業と共に、
『紅葉山』から改称された。
旧駅跡は駐車場とバス乗り場となっている。
国道を西へ向かうと登川市街地だ。
JR石勝線が高架で跨ぎ、
国道もバイパス化、街は静かだ。
かつてのメインストリートには家屋が並び、
営業はしていないものの、
呉服屋の看板もあり、繁栄が偲ばれる。
北海道物産センターの裏手には、
消防団施設があり、
裏手には火の見櫓がある。
火の見櫓は火災の発生を見張るための塔で、
半鐘を吊るしてその叩き方の緩急と回数などで、
火災の遠近などを知らせるのに利用された。
夕張線旧登川支線の廃橋である。
紅葉山〜登川7.6qは三井鉱山専用線として開業、
昭和56年(1981)に廃止されている。
付近には登川神社がある。
明治期に炭鉱事故が多発し、
山神を鎮めるべく建立された由緒正しい神社だ。
神社の裏手にあるのは、大正2年(1913)完成の北炭真谷地炭鉱楓坑発電所跡だ。
石炭ガラス工芸館という観光施設として運用されていたが、
現在はご覧の廃墟と化している。
そこから北に進むと、
楓坑時代の本卸水平坑口が密閉され残っている。
ただしこれ以上の接近は不可能。
なぜなら接近するための道路橋下に、
巨大なスズメバチの巣ができている。
気づかれないうちに退散だ。
付近の道路を遡ると北炭真谷地炭鉱楓坑時代の遺構がある。
明治35年(1902)開坑の北炭楓坑に対し、
明治42年(1909)に更に奥地の三井登川炭鉱が開坑した。
この楓坑は北炭系列とは言え、
当時の北炭は三井財閥の傘下にあり、
楓坑も広義の三井の掌握下にあったと言える。
積込施設の上部に登ると、
こちらも密閉された坑口が残る。
ガス抜きの配管が接続している。
密閉された坑口に残る銘板。
坑口名:楓本卸斜坑々口、完成日:昭和62年11月10日、
会社名:北炭真谷地炭鉱(株)。
坑道内からのメタンガス等を排気する配管だ。
太さは80A程度で、ビクトリックジョイントで接続された、
ゲートバルブが据付られている。
坑口付近の高台から楓坑発電所を望む。
2棟が並んだ切妻屋根が特徴的だった。
後半は楓坑事務所、そして健康保険組合事務所としても活用された。
付近には未だ楓炭山橋という名称も残る。
昭和34年(1959)竣工の古い橋だ。
ここから山中の登川坑に向かう。
楓から西へ進む。
付近には炭住街や学校が犇めいていたはずだが、
現在は無人の原野が残るだけだ。
付近の滝沢川には煉瓦製の橋台が残る。
登川支線の廃線跡だ。
更に山中に向かう。
川の上流域に達すると、廃橋や盛土が辛うじて残る。
しかし道東自動車道の建設に伴い、
付近の景色は一変したようだ。
山中に残る数少ない遺構だ。
登川坑の閉山は昭和28年(1953)と、
非常に早かったため、遺構の残存も少ないようだ。
かつて付近に残存していたホッパーである。
三角屋根の個性的な形状をしていた。
現在は高速道路の工事に伴い消滅してしまった。
中央の空き地がかつての楓駅の跡である。
左が石勝線の本線。
右が登川支線であった。
楓駅跡付近に残存する炭住の廃祉だ。
高速道路の建設、そして廃線。
遺構の多くはその時代の変化に埋もれつつある。
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