やれやれ六十五歳 


岡登久夫 
 
 



「おい、死んだらしい」

「そうか、死んだか」

「随分急だな」

「それにしても急だ」

「おととい一人で唄ってたって聞いたぜ」

「歌が好きだったな」

「短気だったから、彼らしい死に方だ」

「羨ましい死に方だ」

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 「彩菜」は、新橋・烏森の飲み屋街の一番端にある。八十の老人があと二十年は踏ん張るぞと仁王立ちになっているような風情のビルの二階にある。一階には、妖しげな貿易会社の事務所があり、六時ころには灯が消えてしまうので、通る人は、そこにビルがあるとは気がつかない。急な階段を昇った突き当たりに店はある。カウンターとボックス席とがあり、十人も入れば肩をぶっつけ合って飲むことになる。一元のお客は、まず期待できないから常連ばかりのお客となる。お客同志の仲がいいと言えばそうである。今日は、一人で静かに飲みたいと思ってもこの店ではそうはいかない。「おい、今日はどうしたんだ?いやに静かだな」となる。
 岡田は、定年退職組みであるが、「彩菜」が職場であるかのように六時半には定時入店、毎日通ってくる。遅刻もしない。ゴールデンタイムには、家に居られない事情でもあるのだろうか。池田は、小さな会社を経営しているが、六五歳を契機に経営を若手社員に任せ、重要な課題がある時だけの出社としている。その方が会社が上手くいくと考えそうした。岡田の誘いもあり、ほとんど毎日「彩菜」に来ることが多い。飯野は現役ではあるが定年が近い。独身であり、「彩菜」に夕食を食べに来るというきらいもある。岡田や池田より三十分遅れ位で入店するのが通常である。職場が横浜でありその分遅くなる。伊藤が今日はまだ来ていない。港区役所に勤める公務員であり、長年福祉関係の仕事をしている。二度目の妻は、ママに紹介されて結婚したことで「彩菜」に来ることは公認である。妻の職場が田町にあるので、店で待ち合わせ連れ立って帰宅することが多い。

       ・・

 ママの都が店を始めたのは十年前である。それまでは、大手洋酒メーカーの宣伝部に努めていた。経理部に短期間配属された経験はあるが、その後退職するまで宣伝部にあり、主のような存在であった。何人の男子社員を送り出したことだろうか。都は、疑問に思う。なぜ二十年も同じ部署であったのだろうか。
 
 子どもの頃から母親と一緒に台所に立つのが好きだった。料理が好きと言うよりも、隣に立つ母親のなんとなく温かな体温が好きだった。愛情に包まれているという感覚が好きだった。母親は、料理が上手かった。手間隙をかけて料理する、素早くもあった。都は、母親のようになりたかった。高校を出てすぐに調理師学校に入学した。この頃の調理師の世界は、男性の世界であり、学校には女子は、都一人であった。学校側では、都を入学させるか否かで大分議論があったことを、入学してから担当の教師より聞いた。一人ぐらいは良いだろう。女一人だからすぐに逃げ出すだろうと期待するむきもあったという。    
 都の出身高校は,女子高であり、躾の厳しい学校であったが、それに反発する生徒もおり、陰ではいじめ(?)が結構あった。その意味で女の恐さを知っていたが、男性に対しては無知であった。恐いもの知らずと言った方が正しいのかもしれない。そんなわけで調理師学校では、男性に伍して闘い無事卒業した。
 都は、子ども好きのせいもあり結婚願望が強かった。だから、後は、素晴らしい男性を見つけるだけであると思った。そのためにどういうところに就職すべきか考えた。その当時は、就職人気番付を見ると洋酒メーカーが上位にあり、イメージ的に「洋」という言葉からカッコ良い男性が居そうであった。少しは、調理師学校の経験が生かせそうにもみえた。
 
 経理部はそうでもなかったが、営業部にいくとアルコール臭い。都は、それまでお酒と言うものを飲んだことが無かった。父親も母親も家ではお酒に縁がなかった。父親は、お酒が飲めない訳ではない。夜夜中、べろんべろんになって帰宅することもあったからである。都もお酒を飲めない訳ではない。新入社員歓迎会で初めてお酒なるものを口にした。程ほどに付き合い酔うことはなかった。この世にこんなにおいしく楽しいものは無いと思った。そんな都であったが、手伝いで営業部に半日椅子に座っていると酔ったような気分になる。
 確かに、人気の会社であったから、一流大学出身の美男子が多かった。銀座辺りの高級クラブのママさんから可愛がられそうである。都はふと考えた。毎晩クラブやバーに通い続け、営業活動を続ける男は、良い連れ合いになりうるかと。結婚は、外見じゃないぞとも思った。そうやって三十年が経ってしまった。都は、いまもって独身である。
 宣伝部の仕事は、面白かった。広告撮影用の料理を作ることに学校の経験を生かせた。有名人に会うこともあり、ミーハー的な満足も味わえた。しかし女も五十に近くなると回りの視線が気になり始める。宣伝部員も若返り、自分が息子を持っていれば息子と同じぐらいの年齢の社員が増えてくる。うっとうしいと思われている感じが伝わってくる。寂しさも感じ始めていた。
 洋酒は、焼酎や地酒のブームに押され、会社の経営が苦しいと言う役員などの話声が聞こえ始めた。そんな時、早期退職割増金制度が発表された。都は、余り悩まなかった。後十年、後九年と定年から逆算するようになっていた。あと十年居れば七千万円はもらえるが、毎年それを食いつぶしているような感覚に襲われていた。貯金が毎年七百万円ずつ減っていくような感じがあった。今辞めれば、退職金として一千万円はもらえる計算だった。毎年三百万円を稼ぎ、二十年間働けばトントンになる。貯金が増えていくような感覚を持った。だから辞めよう。
 酒、料理と言えば、やれることは一つしかなかった。そう決心すると、会社には情報がいくらでもあった。情報が多すぎてかえって悩むことが多かった。親しかった営業部長の一言でお店を決めた。始めの一年間は、だれ彼と無く営業用の酒を隠し持ってきてくれたので店がお酒に溢れ返ることとなった。そのお陰で順調にスタートすることができた。

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「よく軍歌を歌ってたな」

「よく歌ってた」

「若鷲の歌とか同期の桜なんかが十八番だ」

「若い血潮の予科練の七つボタンは桜に錨・・・ってやつだな」

「貴様と俺とは同期の桜・・・」

「十八年だ」

「終戦の時、二つか」

「それにしては、軍歌をよく知ってた」

「血潮とか、同期とか、桜とか、そういうのが好きだったんだ」 

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 岡田が池田を知ったのは十年も前のことであった。岡田が広告会社にいたときの仕入先の担当が池田であった。大型ネオンなどのデザイン・ソフトを仕入れたが不具合が多く、喧嘩ばかりしていた。とは言え池田の誠実な対応に感心していた。無理難題を吹っかけても次の日には回答をくれた。二人は飲みにいくような関係になった。岡田も池田も映画が好きであった。岡田は邦画、池田は洋画が好きという違いはあったが、二人で映画を見に行くことも多かった。マーロン・ブランドが良いと言えば、いや志村喬の方が良いというレベルの言い争いをするのが常である。
 岡田は、会社を定年となるとき再就職先がないではなかったが、もういいと思った。自由になりたいと思った。好きな映画を観て、好きな本を読み、時には重い荷物を背負って東海道や中仙道を歩くのも良いと思った。ところが、女房の存在を忘れていたことに気がついた。それも定年になってからである。
 女房の実家がコンビニをやっており、人手が手薄になる夜に手伝いにいくことが多い。時給八百円や九百円ではなかなかアルバイトが集まらず、千円以上では経営が成り立たないと言うことで、手伝いに行くようになり今に到っている。そのため、ほとんど毎日、岡田が帰宅するときには女房が居なかった。そうしたことから、岡田の意識からは、女房の存在が薄れていた。
 家に居るようになって急に女房の存在が大きくなった。昼間は、毎日顔を突き合わせている。「家事を手伝え」と言われる。正直なところ掃除機の使い方すらしらない。幼時体験の所為かガスをつける時のボッという音が恐くて仕方がない。高所恐怖症でもあるから、電球の交換ができない。ましてやはしごに昇ってと想像するだけで震えが来る性質である。せいぜいできることといったら拭き掃除ぐらいである。毎日することがあり家計の足しにもなることとしてベランダ菜園を思いついたが、どうもみみっちいと思いやめた。本を読むにしても二十〜三十分も椅子に座っていると眠くなる。女房の手前もあり外出がしづらくなり映画を観る機会も減ってしまった。
 留萌の高校を出て東京の大学に入り、下町で下宿生活をした。就職してからもアパートを転々としてきた。自分の家を持つなどの考えはなく、今もって賃貸マンションの一階住まいである。それで良いと思っている。子どもも居ないし、「俺が死んだら女房は実家に帰れば良い」と思っている。金に関しては、全て女房任せにしてきた。
 岡田は、吝嗇という程ではない。会社での付き合いは、良い方であった。しかし割勘主義に徹していた。だから、それ程無駄使いをしてきたとは思わない。養護老人ホームに入れるぐらいの金はあるだろうと思っている。何しろ二人で稼いできたのだから。

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「小豆島出身だとか言ってたな」

「そうだ、二十四の瞳の島だ」

「造醤油やの息子だ」

「ボンボンだったらしい」

「頭も良かったと聞いたことがある」

「名門の小倉高校に入れたんだからたいしたもんだ」

「小倉高校か」

「そして中央の法科だ」

「法科か」

「弁護士になる気はなかったみたいだな」

「家を継ぐ気もなかったようだ」

「ツテで広告代理店に学生時代から決まっていたらしい」

「コネだと言っていた」

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 池田は、小さなソフト会社を経営している。
 小さい頃より機械いじりが好きで、時計を分解しては組み立て直していた。宝石ラジオを作っては友達にあげ感謝されるのが誇らしかった。ハンダ小手から白い煙が上がり、針金の先にポッコと盛り上がりつくハンダの姿が女の乳房のようで綺麗だと思った。
 地元の工業高校を出て、集団就職で東京に出てきた。大森のラジオ組み立て工場だった。毎日が楽しかった。組み立て終わり、スイッチを入れ、ダイヤルを合わせる、音が聞こえる、この時の感動は今もって忘れられない。社長に「お〜い、池田、これ見てくれや」と言われたラジオから音が出たときは、俺は天才だと思った。
 社長は、結構先見の目が鋭く、昭和も五十年代に入ると「ワープロやで〜」と言うことでワープロの組み立てを始め、ついでパーソナル・コンピュータとなった。組み立てをするにもソフトが必要となり、池田が担当を命じられた。もともと緻密なことに向いていた池田であったので、PCソフトをさまざまに考案し、ヒット商品を作り出すことができた。社長が亡くなったことを機に独立することにした。池田は、まじめな性格で誠実に対応してきたお陰で、池田でないとというお客さんが多かった。順調にやって来られた。

 熊本県の人吉で郵便局長の次男として生れた。妹がいて三人兄弟である。士族の家柄で厳格な父親であった。十五歳にもなると許婚がいた。遠い親戚筋の娘であった。小学校六年生であったが、どこか大人びていた。人吉小町と呼ばれ近所でも評判の娘であった。池田としてもこれが俺の嫁になるのかと思うとどこか誇らしいところがあった。早く結婚したいと思った。早く自立したい、勉強もそれ程好きではなかったので工業高校で良いと思った。父親は、熊本高校から東大という筋道を考えていたようだが(兄はそういう道を辿った)。
 自分勝手に就職先を決め、集団就職とはいえ家出同然に東京に出てきた。許婚も一緒に東京に出たいと言っていたが、三年待つことを説得した。がむしゃらに働いた。希望があった。目標があった。
 ちょっと早いと思ったが自分が二十歳、彼女が十七の時結婚した。許婚は七人娘の六番目であり、両親は嫁出しに疲れていたのかあっさりと許可してくれ、どのようにしてか分からないが池田の両親を説得してくれた。両親と兄弟姉妹を東京に呼び会社の近くの神社で結婚式を挙げた。まま事のような新婚生活ではあったが、楽しかった。毎日に生きがいを感じた。四畳半からのスタートである。

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「奥さんは、まだ若いだろう」

「一回り違うと言ってたな」

「綺麗なおくさんだ」

「一歩下がって歩くという感じの人だ」

「彼のことだ、超亭主関白だろうな」

「文句言わず俺に付いて来い型だ」

「テレなんだろうな」

「愛妻家だ」

「女房のために泣けるタイプだ」

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 飯野は、外資系の工作機械メーカーに勤めている。
 入間のジョンソン基地の側で育った。父親は、小さな工務店を経営していた。ハウスの建築に関係していた。そのこともあり、家にアメリカ人の出入りがあり、片言の米語を覚え、外人に対するコンプレックスもなかった。大工の息子にしては不器用であり、一方で、勉強が好きだった。成績も良かった。中学生の頃から世界を股に掛けた仕事をしたいと思った。担任教師の勧めもあり、外国語大学を目指し、そのようになった。父親も後継ぎには無理と考え、応援してくれた。飯野にしてみれば父親に反対されると思っていた。大工に向いていないにしても後継ぎであり「後を継げ」と言われるかとビクビクしていたがあっさりと許してくれたことに少し寂しさを感じたのも事実である。
 飯野が生れた一九五〇年は、朝鮮戦争が勃発した年である。ジョンソン基地もその周辺も米軍兵士や家族に溢れ活況を呈していた。飯野は、二重でクリッとした目をしていた。ハーフのようであったのでいじめられることもあったが、アメリカ人からはラブリーと呼ばれ、可愛がられていた記憶がある。ホーム・パーティにも良く招待された。何人かの将校から養子にしてアメリカに連れて行きたいという申し入れがあったことを母親から聞かされた。今も五〜六人の将校とは家族ぐるみのお付き合いをしている。娘さんとの結婚話が話題に上ったこともある。何の連絡もなしに突然訪ねても、息子が帰ってきたように迎えてくれる。飯野が年に一回はアメリカに行くのは、仕事のこともあるが、そのためでもある。
 飯野は、いまだ独身である。女に興味がない訳でもないし、結婚をしたいと思っている。女にもてない訳ではない。むしろもてる方である。普通の日本人の男とは、どこか違った男と見られることが多い。バタ臭いと見られる。飯野は自覚していないが、考え方も話し方もアメリカ人的になっている。だから周りに来る女も、飯野から見れば外人好みの女であった。アメリカ人の女のいやらしさを知っていたから、日本人らしい日本の女と結婚したいと思っていたし、今もそう思っている。そうした意味からは、飯野は、女にもてないと言える。今も結婚願望がある。

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「奥さんが、がんの手術をしたと言ってた」

「そうだ、乳がんだ」

「可哀相だと泣いたことがあった」

「温泉に行けないと残念がってた」

「夫婦で山によく行ってたね」

「登山が好きだった」

「山を下りて、温泉で一杯なんていうのは、最高だ」

「そのために山をやる」

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 伊藤は、彩菜の常連の中では最も若い。飯野とは浦和レッズのサポーター仲間である関係で彩菜に連れてこられた。伊藤は、中学、高校、大学とサッカーをやってきた。キーパーで高校時代、県の代表に選ばれたこともある。筋金入りのサッカーファンである。Jリーグが出来てからは、熱狂的な浦和レッズ・サポーターとなっている。当然のこととして年間シートを持っている。駒場グランドの側に家を買った。サポーターが歌う応援歌が聞こえ、時には試合開始のホイッスルが聞こえる距離である。一年中、浦和レッズ漬けになっていると言える。水曜日と土曜日は、浦和レッズの試合があるので、伊藤は来ない。
 伊藤にとって高校時代が一番華の時代だった。スターだった。その当時としては、背が高いほうであったし、サッカーも上手かった。勉強も悪い成績ではなかった。監督は、養護学校の教員を長くしていた。練習の合間には擁護学校に手伝いに行かされた。伊藤は、面倒見がよく優しかった。子ども達に好かれた。試合になると子ども達が応援に来てくれた。伊藤!伊藤!と叫ぶ声が今も耳に残っている。そうした経験もあり、将来は福祉関係の仕事をしようと思い、福祉関係学部のある大学に進学した。大学にサッカー部があった。すぐに入部した。伊藤からすれば遊びレベルであり、一年からレギュラーであった。東京都の三部であったが、伊藤の活躍もあり、二年目に優勝し、東京都の二部に昇格した。
 公務員試験を無事パスし、希望通り福祉施設に入所した。少し早いと思ったが高校時代のステディと結婚をした。妻は、成績が良く、しかも気立ての良い子であった。彼女にしてみれば高校時代の伊藤のスター性に惚れたのであってサッカー選手としての伊藤に惚れた訳ではなかった。むしろサッカーは嫌いな部類であった。結婚してからは、伊藤は、サッカーを封印せざるをえなかった。  
 結婚生活も五年も経つとマンネリとなる。それまでは、家に居ることが楽しかったが、だんだんと苦痛になってきた。もともと体を動かすことが好きであったし、動かしてきた。仕事にも慣れた。サッカーのムシが騒ぎ始める。まだ二十八であり、十分に体は動く。周りを見ると、それまで気がつかなかったがサッカーチームが結構あり、リーグを結成していることが分かった。メンバーを募集しているチームがあることを知り、すぐに応募、入会した。朝五時に起き、早朝サッカーをする生活が始まった。妻は、血圧が低い方で朝が弱い。寝ている。勤務先が近いこともあり、洗濯を自分でして、出勤しても間に合った。こうした生活を一年ほど続けた時、転勤となった。勤務先まで一時間の距離である。泥まみれのユニフォームを洗濯機に入れたまま出勤する。初めは良かったが、妻の不満が爆発した。もともとサッカーが嫌いであったし、まして洗濯までさせられるとなると不満が蓄積するのは、当然のことであり、喧嘩が絶えなくなった。そうなると、伊藤は、ますますサッカーにのめり込むこととなる。結果として離婚の話しとなり、離婚した。子どもがいなかったし、アパート生活でもあったので、こじれた話にならなかった。
 
 伊藤が彩菜に連れてこられたのは、オープンして間もなくのことだった。この日、弘江がアルバイトに来ていた。飯野と三人でJリーグの話で盛り上がった。

 弘江も浦和レッズのファンであった。横浜住まいであったが、なぜか浦和レッズの赤いユニフォームが好きだった。横浜では肩身の狭い思いをしていた。伊藤に連れられて三ツ沢競技場や駒場に浦和レッズの応援に行くようになった。伊藤と弘江は、うまがあった。弘江にしてみれば三〇を超え、結婚に焦っていた。父親は宝石ブローカーをしており、飲む・打つ・買うの三拍子揃っている。母親が苦労しているのを見てきた。そのため弘江は安全で安心できる男を結婚相手として求めていた。伊藤は格好の男であった。趣味も合う。スポーツマンの一途さも好きだった。バツ1であることは気にならなかった。男女のことになると伊藤より弘江の方が世間ずれしていた。伊藤が弘江に上手く乗せられて、結婚を申し込んだのは、初めて会って半年も経たない頃であった。

       ・・

「確か娘が二人だったな」

「そうだ、二人だ」

「上の娘のことをよく心配してた」

「鬱だと言っていた」

「一人では、何処にも行けないと言ってた」

「友達の結婚式の送り迎えをしてた」

「駐車場で四時間待ったと言う」

「鬱の原因は、父親だな」

「そうだ、彼だ、そんなことはないと言うけれど、彼だ」

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カウンターは、六時台に来る客で一軒目の人たちである。岡田をはじめとする常連客が座ることになる。料理と酒で忙しくなる。つまみの好みや酒の飲み方を知っているので手順はすぐに思い浮かぶ。注文を聞く必要もない。都は、切るだけの刺身とか板山葵とかは料理ではないと思っている。煮たり焼いたりの手を加えた料理が金を取れる料理だと考えている。会社時代は、洋食系のつまみも作らされていたが、店では和食系しか作らない。本当はルール違反だとお互い分かりながらお土産と称して食べたいつまみを持ってくる輩もいる。常連客のつまみ代は、二千五百円と決めている。常連客が安心して飲めればそれで良いと思っている。
 ボックス席には、九時以降にやって来る客が座ることになる。ほとんどの客が二軒目である。料理より酒である。ボックスの方は、一見のお客や月に一〜二度のお客の席と決めた、というか自然にそのように決まっていった。社用のお客が多いから少しぐらい高めでもと思う。その代わり季節の花を活けたり、壁に掛ける絵を一週間に一回は変えるように心掛けている。この日は、一輪挿しに水仙が活けられ、高橋秀年の福寿草の絵が掛けてある。日本の花や草を描いた日本画家の作品を掛けるようにしている。チューリップやバラは活けない。お茶室の雰囲気にしたいと思っている。都のいた会社の宣伝広告は、センスが良いことで有名だった。世間的に有名なデザイナーやカメラマンがいた。芥川賞や直木賞を取ったコピーライターもいた。そんな環境の中にいたせいか、都も自然とセンスが磨かれた。豪華なものは店の中にないが、センスがいい店と誉めてくれるお客も多い。
 常連客は、九時半には、帰るようにしている。連れ立って帰ることはない。一遍に立ち上がって帰り支度をし、カウンターが空くのは、都に失礼だという暗黙の了解がある。伊藤が一番に帰り、岡田が最後になることが多い。岡田は、真っ暗な家に鍵を開けて入るのがいやだった。手を引っ張られてお化け屋敷に連れ込まれた時の感覚を思い出す。

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「長女を溺愛してた」

「下の子は、男の子みたいだと言ってた」

「長女の話ばかりだった」

「大泉逸郎の孫は歌ってたけれど雁之助の娘よは歌わなかった」

「絶対に歌わなかった」

「一度だけ歌った。泣いてた」

「孫は欲しい、娘は嫁に出したくない」

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 飯野は、退職後のことを考えるようになった。働くべきか自由になるべきか。結婚のためには、働いていた方がチャンスはあるし、有利な条件ともなると考える。技術系の翻訳者が少ないことを知っている。今もアルバイトで結構な収入を得ているから退職しても生活の心配はない。
 「結婚しません」とは言ってるけれど、本心は「結婚します」と言いたいのである。多くの人は、いまさら結婚しても何のためにもならないと言う。拘束ばかりだと言う。しかし、飯野は思う、一度も結婚を経験しないのは人間失格であり、そうなりたくないと。家に近づく、玄関灯が明るく点いている、玄関を開ける、「ただいま〜」と言う、「お帰りなさい」という明るい声が返ってくる、それだけで幸せを感じると思う。結婚という拘束以上のものがあると思う。
 飯野は、自分のことを分析してみる。今まで四十年近く外人を相手に仕事をしてきたから考え方や行動の仕方が外人的になっているのは事実である。見た目は決して悪くない。一七五センチ、六十三キロの体躯である。また外国人相手の正式なパーティに出ることが多いので、背広や靴に比較的金を掛ける方で三越本店でオーダーすることが多い。美容院にもいち早く行き、カットしてもらうようになった。運動神経はどうかと問われると否と答えるしかない。体操をすると右足と右手が一緒になってしまう。平泳ぎをすると体が沈んで前に進まない。キャッチボールをすると女投げになり子どもに笑われる。しかし長距離走は好きで公式なマラソン大会にも出たことがる。東京マラソンに出たいとも思っている。T―シャツにGパンといったカジュアルな格好が出来ない。どうしても気恥ずかしい気持ちになる。休日はトレーナーで一日過ごすことになる。料理も、一人であるから当然作る。どうせ食べるのなら上手いものを食べたいと思うから料理雑誌を見て研究することもある。今は、オムレツに凝っている。趣味はと問われれば、浦和レッズのサポーターとジャズやブルースのライブ鑑賞と答える。マンションのローンも終わっている。こうしてみると結婚相手として条件は悪くないではないか。

         ・・

「若い頃、手術をしたと言ってたな」

「結核だ」

「そのときの輸血が良くなかった」

「C型肝炎になった」

「C型だ」

「四、五年前、手術をした」

「肝臓ガンの手術だ」

「大成功だったと言ってた」

「酒もガンガン飲んでた」

        ・・

 今日は、岡田も池田も飯野も定刻通り集まった。伊藤夫婦も遅れてやって来た。都の会社時代の上司が、若手二人とボックス席に座っている。

 伊藤夫婦が揃って一緒に来ることは珍しい。また二人とも赤い顔をしている。夫婦共通の知り合いの菓子職人がなくなり、その通夜の帰りだという。ひな祭りのお赤飯の注文を受け、蒸かし、一口口に入れ、「今日は上手く出来た」と言って倒れ、そのまま息絶えたという。六十三歳であったという。

 岡田も池田も飯野も、最近は悪魔の招待状よりも葬式の案内の方が増えていることを実感している。友人知人の多くが六十歳を超えており、その親となれば九十歳前後である。順番だから仕方がないと思っている。ところが、友人知人が一人、二人と欠けていく、どうしてなんだと思う。タバコを吸わない、お酒を程ほどにしか飲まない、「健康第一だ」という奴ほど六十五歳に届かないで亡くなる。なぜ。概して夫婦仲がよく、俺も行く族で、なにをするにも夫婦でするという奴が多い。なぜ。会社時代は、妻をないがしろにしてきたから、定年後は妻と優しく付き合おうとする健気な男が多い。なぜだ。

 岡田も池田も、年に一回は、女房と一緒に海外旅行をすることに決めている。年に一回は、女房孝行をしなければならないと思っている。一緒に行くことが多い。女房同志も話が合い仲がよい。女房同志で温泉に行くこともある。お互いの旦那の悪口を言い合っているのであろう。それはそれとしてストレス解消になり良いと思う。
 岡田も池田も、普段は、ほとんど夫婦一緒に行動しない。俺も行く族になりたくないと思う。現実は、女房におっ放り出されていると言った方が正しい。文句だけは言われる。現役時代は、仕事上のストレスはあったが、夫婦間のストレスは少なかった。それに反し、今は、女房からの強迫観念に追われ、女房と一緒にいるとストレスに押しつぶされそうになる。だから女房から逃げ出しているのだと思っている。
 そうなんだ。どんなストレスでも良いからストレスがあることが刺激になって長生きすることができるのだと二人とも思っている。程よい量のストレス。ストレスを程よい量にするために彩菜に来ていると自分自身を納得させている。

 
 伊藤は、仕事の関係上「死」というものに直面することがある。今の勤務先は養護老人ホームである。入所者の平均年齢は八十歳に近い。何らかの病気持ちであるにせよ生を全うしていく人達である。それ故に六十四〜六十五歳での「死」ということには余り実感がない。介護保険的に言えば要介護に該当する人達である。家庭にいるときは、寝たきりであったという人が、ホームに入所すると元気になり、よちよち歩きではあるが歩くようになる人も多い。狭い部屋で孤独に過ごすストレスから解放されると人間は元気になるのを見てきている。だから、ストレスがないほうが良いと伊藤は思っている。池田や岡田のストレス論を理解できないでいる。
 岡田は、会社時代の先輩が作ったカラオケを楽しむ会「一木会」に、入っている。月に一回、第一木曜日に行われる。二十人ちょっとの会で、役職経験者といっても課長職までであるが、三人しかいないので気楽に話が出来る。前橋や熱海から来る人がいる。六十代から八十代の男ばかりが集まってカラオケを真昼間、五時間楽しむ風景は、ちょっと異状である。変る代わりに歌う。暗黙のルールでどんなに音痴であっても誉めこそすれ貶したりはしない。十曲以上歌う人もいれば二〜三曲しか歌わない人もいる。岡田は、歌うのが好きであるし、上手いと言われる。演歌は苦手ではあるが、皆が演歌を歌うので演歌を五〜六曲歌うようにしている。会社の話はしない。人の噂話が多くなる。健康の話が多くなる。孫自慢が始まることも多い。女房の悪口に花が咲くこともある。

 一木会の仲間が三人欠けた。それも若い方から。岡田よりも後輩である。一人は会社の野球部の仲間であった。ピッチャーで甲子園の経験があった。豪快であり、酒を底抜けに飲んだ。会社でスターだった。愛されていた。定年後三年もしないうちに突然逝ってしまった。脳溢血だという。
 あとの二人は会社に対する忠誠心が強かった。仕事に関して言えば猛烈人間であった。出世を考えるよりも仕事のためを考える性質であったから上司とぶつかることが多かったという。会社時代、岡田は二人との付き合いはなかったが、一木会で親しくなった。会社時代にもっと付き合っておけば良かったと思う。もう直ぐ六十五歳に届くという時に逝ってしまった。

 誰彼が入院したとか寝たきりになったという話も多い。一木会の代表幹事も最近出てこない。歩行困難だという。岡田は、声量一杯に幾山河を歌う姿が目に浮かび涙することがある。面倒見の良い男で、例えば会社の慰安旅行の準備でも、忙しい仕事の合間をぬって担当の総務部を手伝う姿を思い出す。まだ六十五歳になっていないだろうと思う。

 岡田は、男というかサラリーマンにとって定年から六十五歳までの期間が鬼門だと思っている。長生きするかしないかは、六十五歳を超えるか超えないかで決まると思う。六五歳を超えれば八〇歳までは生きられると思う。池田もそれに賛同する。岡田も池田も六十五歳を超えることができ、やれやれと思っている。物忘れをする、足腰が弱ってきていると感じるが、年相応であり、生活には全く支障がない。会社の検診でも赤マークが点いたことがない。そのことに気恥ずかしさを感じていた。定年後も医者に行ったことがない。だから八〇歳までは大丈夫であろうと思っている。八〇歳までで良いと思っている。

        ・・

「定年後も嘱託でいた」

「お客さんの要請らしい」

「献身的だ」

「それにしても文句が多かった」

「正義感が強い」

「味方も多かったが敵も多かった」

「上司にとっては厄介な存在だ」

「組織人としては難しい」

         ・・

 都は彩菜を開店してからお客の誰彼が亡くなったという話を今まで聞いていない。今回のことが初めてなので葬式に行くべきか考える。都にしてみれば常連客の中では一番好きなタイプの男である。恋心を感じている。話をするとき女になっている自分に気付き赤くなることがある。送りに行きたいと思うが、奥様を見るのが恐い。失礼だとも思う。電信柱の陰で涙を浮かべて見送るという歳でもないし。
 真っ白な麻のスーツ、白い靴、パナマ帽が良く似合っていたのを思い出す。広告代理店の社員の着るものが少し派手なことを知ってはいたが、それにしても上から下まで白とはと驚いたのを覚えている。鬚もよく手入れがされていて好ましかった。都は恋愛を何度かしてきたが結婚までには到らなかった。失恋というより都が結婚に踏み切れなかった。母親離れができなかったのが原因だったと今は思っている。しかしこの恋は違うぞ、大人の恋だ、片思いでもよい、結婚は出来ないがそれで良いと思っていた。六十四歳とは早すぎる、それにしても早すぎると思う。岡田や池田、飯野に悟られないように泣くのを我慢している。酒の量がいつもより多い。酔いたいが酔わない。今日は、料理を一品多く出そう。

         ・・

「夏ごろから入退院を繰り返してた」

「検査入院だ」

「もうそろそろと思ってた」

「あきらめてた」

「絡み酒になった」

「よく喧嘩になった」

「彼の言うことは、正しい」

「正論過ぎる」

「自分にも他人にも厳しい」

「根は人並み以上に優しい」

・・

 池田は、思う。女房も元気だ、二人の子どもも独立した。事業も時流に乗って上手くいっている。文句無い人生だと。ただ一つ言えるのは仕事仕事の人生だったと。趣味は何ですかと問われれば仕事としか言いようが無い、それでよいと。事実仕事が面白かった。
 これからどうする。借金はない、程ほどに金はある。家も郊外だとはいえ、人気の国立に戸建がある。二人で住むには十分な広さである。人吉に戻ろうと考えたこともあるが止めた。東京住まいが長くなると友人知人のほとんどが東京であるし、田舎の人付き合いができる自信もなかった。長男が家を継いでいることも理由の一つであった。
 あと十年、どのように過ごすか。死を待つだけの生活はいやだと思った。そうかといって本当に楽しいこととは何だろかと自問自答するのが常であった。旅行か、映画か、ガーデニングか・・・。人の役に立つことをしたいと思った。月並みだがボランティアをすることにした。身体障害者のためのキーボードを作ったり、発音装置を作ったり、会話ボードを作る。会社でやる。道具もある程度揃っていた。困っている人を伊藤に紹介してもらい、個人個人にあった装置、いわばオーダーメイドで作っている。無償に近い。女房も喜んでくれている。女房は「命の電話」のボランティアをやっているからこうしたことに理解がある。今では、北海道や九州から訪ねてくる人もいる。

 岡田は、池田が羨ましいと思う。しかし俺は俺だと思う。人生をそれ程深く考えない。のんびり死を待つのも善いと思う。その日その日を無駄に過ごすのもよいと思っている。人に迷惑を掛けさいしなければそれでよいと思う。会社時代は二十四時間働いてきた。会社からも評価を受け優遇もされてきたから、会社時代を取り戻そうとは思わない。満足している。だから今は今だ思う。こうして毎晩のように来て、飲み、親しい友と語り合えるだけでよいと思う。地元で自治会をやったり、趣味の教室に通うのは自分の生活ではないと思う。ボーと一日を過ごすのが自分の人生だと思う。女房はボケるとか体に悪いと言って詰る。岡田は、健康に注意し、ジョギングをしたり、食事制限をし、はたまた頭の体操ということで川柳や短歌の教室に通いながらも、脳梗塞や癌で寝たきりや亡くなった人を何人も知っている。それも六五歳前に。だから、自分がやりたいようにするのが一番よいと思う。なにを言われようが家が好きだし、家にいてのんびりするのが善いと思う。家の前をすれ違う人を見たり、飛ぶ鳥を見たりして季節の移ろいを感じることに幸せを感じる。一番心休まる自分がいるのを感じている。ウイスキーを飲みながら、タバコをゆっくりと燻らす。好きなオペラを聞きながら本を読む。週に一度会社の仲間に会う。五時に家を出て彩菜に出かける。理想的な生活だと思わないか。諸君。女房さえ邪魔しなければ。


 飯野は、一生働こうと思っている。結婚をしていれば女房を通じていろいろなくだらない近所の噂話を含めて情報が入いってきて社会との繋がりを保てると思う。一人なので会社や仕事のつながりがなくなると、社会との繋がりが全くなくなってしまうのではと思う。また、外人との付き合いは自然にできるが、仕事以外で日本人との付き合いを上手くできるか心配する。レッズ・サポーターとの付き合いだけというのでは日常的な生活にとって寂しいと思う。英国の小説の翻訳をしたことが何度かあり出版社からの評価も高かった。出版社からの依頼が今もある。軽い読み物の方が得意で、SF小説の翻訳が多い。八十歳を越えてもできると思う。老人ホームに入ってもできる年金とこの収入があれば十分以上のものとなるではないか。浦和レッズの試合は週二回ある。スイングやママに週一回ライブを聞きに行く。出版社に打合せに行く。勿論、掃除や洗濯もある。食材の買い物にもいかねばならない。結構忙しい生活ではないか。
 
 伊藤は、老後のことに現実感はないが、老人のいろいろな姿を見てきているので考えることが多い。子どもに頼りきっている老人、孤独死になりかかった老人、子ども達に相続させたくないと言う老人・・・。弘江との間にできた星子と宙のことを考える。少なくとも大学を卒業するまでは確りと育てたい。子ども達に頼り切る老人になりたくない。ボケたり健康を害することがあるのは運命であって防ぐことはできないと思う。だからその時を考えて準備しておきたいと思う。その点に関しては弘江も確りしている。金の準備はしておきたいと思う。年金型の生命保険に入ったし、弘江の収入は貯金に当てている。ライフ・プランナーに話を聞いたりしたりもして計画を立てている。六十歳までに五千万円は準備しておこうと思う。五〇歳になったら定年の無い仕事をやろうと、例えばスポーツ喫茶をやろうと弘江と計画している。浦和レッズのサポーター仲間が、サロン的に集まれる店をやろうと話している。老人喫茶になっても良いと思う。弘江は、父親からの遺伝か商売が好きで、都に才覚があると言われている。幸にして家は駒場に近く、戸立てだから一階を改造して店にすれば良いと思う。

         ・・

「幸せな生き方だった」

「自分に正直だった」

「うらやましい」

「俺にはできない」

「それにしても早すぎる」

「純粋な奴ほど早い」

「奥さんが心配だ」

「女三人、反って上手くいくんじゃないか」

         ・・

 都は、思う。彩菜をできる限りやりたいと思う。開店以来のお客さんが三十人はいる。店を開いている限り来てくれると思う。開店のころ面倒を見てくれた「芙美」姉さんは九十歳まで店に出ていた。九十歳までとは言わないまでも八十歳まではやりたいと思う。できると思う。両親は畑をやりながら元気に暮らしている。食べることには心配が無い。近くに住む妹夫婦が面倒を見てくれているし、高校生になった男孫がお婆ちゃん子で両親の家に入り浸っていると言うから安心している。都は美人ではない。森光子に似ているとよく言われるから可愛いお婆ちゃんになれると思う。若いときから化粧もあまりしないで過ごしてきた。そのせいか肌もきれいだと言われる。今のところ体にも悪いところは無い。ちょっと腰が痛い程度だ。やるぞ。少なくとも八十歳まではやる。

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『あ〜、今日は死ぬほど疲れた』

 
 
 
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