韓国愛想  第一日目  
 
 ソウル・金浦空港から大韓航空国内線で麗水空港に向かった。山の上まで高層マンションが広がるソウルから三十分も経つと金色に輝く田園風景に窓から見える景色が変わる。全羅道は、穀倉地帯であり、古来からの食糧供給基地である。一時間も経つと麗水飛行場が見えてくる。
 麗水飛行場では、Sさんが迎えてくれた。頬骨が張り厳つい顔をしている。身長百八十センチはあろうか、ガッチリとした体躯をしている。とはいえ顔には微笑みが見られる。人の良さが全身から溢れていた。麗水の石油コンビナートで働く四十四〜五歳の男であった。後で聞けば年収一億二千万ウォン超という。恐らく役職者であろう。奥様も幼稚園を経営しているという。ヨットマンで日本での国際大会への出場経験を持ち、選手を連れて日本を訪れることもあるという。日本語が達者であった。外人訛のない日本語だった。
 麗水では、「麗水世界博覧会」(EXPO2012 YEOSU KOREA)が開かれる。街中にフラッグがあふれていた。大統領が来ると誇らしげに話していた。韓国の英雄である李舜臣が活躍した場でもあるので世界博覧会を開くことになったのであろう。EXPOのPR館で二〇分位のVPを観た。日本語のナレーション付きだった。日本人の誘致に力を入れるのであろう。しかし、日本人の間で麗水が、はたまた李舜臣が知られ、魅力ある存在として映るかは心もとない。
 韓国人が最も嫌う豊臣秀吉が一五九二年から一五九七年にかけて起こした壬辰倭乱(文禄の役)・丁酉再乱(慶長の役)において活躍した武将が「李舜臣」である。
 李舜臣(一五四五年〜一五九八年)は、幼少の頃から武道に優れていた。勉強の方は苦手であったようである。科挙(中央官庁採用試験みたいなもの)を受けるが、落ち、武班に合格したのが一五七六年で三二歳になっていた。彼の幼馴染である柳成龍は、早くに文班に合格し、出世街道をまっしぐらに歩んでいた。領議政(首相にあたる)にまで進む。李氏朝鮮時代、科挙の試験は、武班コースと文班コースとがあり、文班合格者の方が一段地位が高かった。柳の引きもあり、壬辰倭乱の前年、全羅左道水軍節度使に大抜擢された(後日、忠清・全羅・慶尚三道水軍統帥使になっている)。節度宮を麗水に設けた。
 壬辰倭乱が起きると何百もある島々や四〜五メートルはある干満の差を利用して、上陸しようとする加藤清正・九鬼嘉隆軍を翻弄し打ち破った。豊臣軍本体への補給路を断ち、西進を防いだ。朝廷の彼への評価を妬む者やライバルの諫言もある。彼自身の豪放磊落な性格も災いし、一兵卒(白布兵)になって闘うこともあった。浮沈が激しかった。
 丁酉再乱が起きると、初めは藤堂高虎・脇坂安冶の豊臣軍が優勢であった。領議政となっていた柳の再びの引きがあり、節度使に復活した。壮絶な闘いになった。李舜臣は、闘いを勝勢に導いたという。秀吉が死んだ。日本幕府から倭軍に引き上げ命令が下った。一五九七年に築城された順天倭城に立てこもっていた小西行長も日本への帰還命令を受け、海上で李舜臣軍と闘うことになる。李舜臣は、この戦いの中で傷を負い、死んだ。「勝利するまで吾が死を明かすな」と遺言し死んだ。死後、「忠武」とおくり名された。
 国民的英雄である「李舜臣」の銅像は、ソウルを初めとしていたる所に建てられている。全ての銅像が日本に鋭い目を向けている。
 李舜臣の主翼船「亀甲船」と造船所跡を見に行った。造船所跡は、小さなものであった。只の石組みしか残っていなかった。あまり印象がない。
 復元された亀甲船は、小さな岸壁に係留されていた。年老いたオモニが所在無さげに丸椅子に座っていた。岸壁への門は、鍵が閉められていた。お客が少ないから帰ろうと思っていたと言う。個人が管理している。
 立派なものだった。三十五メートル×五メートルはあろうか、意外と大きな船だった。安定もよさそうである。鉄板に囲まれ、天井から外に向けて長い鉄釘が何本も打ち込まれている。木造船にはとても勝ち目がないだろうと思えた。それにしても、このように大きな鉄に覆われた船を浮かべるのは大変な技術だ。近海での闘いには、大変な威力を発揮すると思える。船内も広い。二階建てで多くの大砲が装備されている。食糧倉庫や医務室も広い。豊臣軍は、島の陰から龍頭を持つ真っ黒な大きな船が向かってくれば恐怖を感じたことだろう。弓は当然のこととして柔な鉄砲の弾は弾き飛ばされたことだろう。この頃の闘いは船と船をぶっつけ合う肉弾戦でもあった。木造船の倭軍は亀甲船の前ではひとたまりもなかったであろう。
 節度宮に向かった。リアス式海岸のせいか急坂が多い。途中Sさんの奥様とお会いした。若い。可愛いい。幼稚園の経営者とはとても思えない。小さな子とも達と毎日接触していると年を取らないのかもしれない。食堂街を抜ける時。Sさんにご夫婦ともに働いているから頻繁に外食するのかとお聞きした。毎日、奥様が食事を作り、男は手伝わないと言う。そうしたもんだと言う。 節度宮は、小高い丘の上にあった。現在、国宝三〇四号に指定されている鎮南館(潮望館)のみが残されている。壮大な建物だった。韓国特有のそりあがった入母屋屋根に欅造りの柱が何本も他を威圧するように林立している。天井や長押には煌びやかな装飾が施されている。横幅は七十bはあり、奥行きは雄に二十bはありそうである。客を接待する場として建てられた。往時を偲べば客殿の規模から言って豪壮な建物群であったろうと思える。鎮南館からは、麗水湾が一望できる。戦いの様子が手に取るように見えたことだろう。宮城・松島のように沢山の島々が浮かんでいる。島と島の間は狭い。潮の流れが早そうである。今は、島々を巡る観光船が運行している。夕方であった。海がぎらぎらと輝いて見える。小船が家路に向かって急いでいた。
 韓国に行けば、毎日が宴会になるだろうと予想していた。早速、宴会となった。前菜にキムチが十五〜十六種類並んでいた。白菜や山菜のキムチや蛸、烏賊のキムチであった。なぜか薩摩芋を蒸かしたものが置いてあった。女性陣が真っ先に手を伸ばしたのが可笑しかった。ちなみに前菜のキムチは、サービスであり、お代わり自由である。麗水は、海に面し、漁港もあるので魚が美味い。刺身が新鮮で絶品であった。鮑、貝類、烏賊、蛸、鯛、石持、鮪・・・。具に大蒜や人参、キュウリを加え、コチュジャンをつけ、サンチュの葉で捲いて食べる。醤油も山葵もある。最近は、刺身専門店が増え、本物の山葵を出す店もあるという。多くは、粉山葵で不満が残る。ここ麗水でも刺身専門店が何十店かが軒を連ねている。道路に車が溢れていた。チャミスルやマッコリを飲み、よく喋り、よく食べる。Sさんは、我々の倍は飲み食いし、まだ足りなそうだった。韓国人は、世界でも有数の菜食人と言われるが、野菜をよく食べている。これでは、メタボリック・シンドロームになりそうもない。
 満月が出ていた。潮風がほろ酔い加減の体に気持ち良かった。沖には、烏賊釣り船の灯りが見える。日本と同じ風景である。
 ご馳走になった。韓国人には、割勘という考えがない。誘った者か一番の年上が支払うことになる。若い学生の間でも割勘をあまりしないという。韓国に来てジャパニーズ・スタイルでやろうと言うと嫌がられる。今度はご馳走しろよという含みもある。うっかり日本にいらっしゃいませんかと言おうものなら一族郎党を連れてくる。全員にご馳走をしなければならない。俺には迷惑をかけても良いほど親しい仲間が外国にもいる。偉いだろうという顕示になる。
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