ソウル、ソウル、ソウル、ソウル






 
                       
                    
岡登久夫 
 
 飛行機の窓から見えるソウルの空はどんよりと厚い雲に覆われていた。久しぶりの金浦空港は、人影が薄く寂れた薄暗い雰囲気に包まれていた。寒い。寒さ対策をしっかりとしてきたつもりであったが、なぜか薄ら寒い。観光客を迎える現地ガイドのお客さんを呼ぶ甲高い声だけが、騒々しく聞こえてくる。ハングルに交じって、英語や中国語が聞こえてきたものだが、変なイントネーションの日本語ばかりが、聞こえてきた。入館手続きさえなければ、国内旅行と錯覚する。青森空港に降り立つとき、津軽弁が聞こえてきて懐かしい想いをするのに似て、金浦空港の風景はとても懐かしく感じる。

 ソウルに行くことになった。これで何度目のソウルだろうか。今回は、家族旅行である。わが神さんは最近韓国のTVドラマにはまっている。姉や長女も時間さえあれば韓国ドラマを見ており、韓国へ行く話がまとまった。家族全員のコミュニケーションを深める機会ともなる。とても楽しみな旅行となった。義理の姉(以後、姉と呼ぶ)、長女夫婦と四歳の孫そして義理の娘(長男の妻、以後、娘と呼ぶ)と我が夫婦の七人である。息子は、仕事で上海に行く旅程と重なり参加できず、娘だけの参加となった。頼りない家長を中心とする旅である。


◇第一日
 朝五時、わが家を出ると、まだ暗い。四歳の孫が大きなリュックを背負って機嫌良さそうにるんるんと歩いている。この孫は、飛行機に乗り慣れている。旅行は、飛行機に乗っていくものと思っている。旅慣れている。パスポートも持っている。
「どこに行くの?」
「韓国、焼き肉を食べにいくの」
 毎週土曜日、わが家で娘家族、義理の姉と夕食を共にする。「韓国へ行こう」「カルビ発祥の地水原で焼き肉を食べよう」と言った大人の会話をよく聞いていて覚えている。孫の前では迂闊な事を話せない。

 羽田空港から二時間弱のフライト、金浦空港に着く。仁川国際空港が開港し、ここを利用することが多くなった。ひさしぶりの金浦空港である。仁川国際空港が世界中の飛行機の見本市会場のようであるのに比べて、金浦空港は田舎の小さな空港の様に感じる。周りを見ると日本人ばかりで海外にいるという緊張感が一変に解ける。税関の職員ものんびりと日本語で我々を迎えてくれる。あっちこっちに引っ張り回される仁川国際空港より金浦空港の方が韓国を身近な国と感じさせてくれる。

 今回の旅行では、梨泰院に連泊することになった。梨泰院は、皮製品や洋服をオーダーメイドで安く短時日で作ってくれる店が並び、ブランド・ショップも多い。近年、若者に人気のあるショッピング街である。米軍キャンプが近いため米国人家族がショッピングや会話を楽しむ姿を良く見かける。マクドナルドやスターバックス、ハードロックカフェ、米国風のバーも数多くある。我々が泊まったホテルは、部屋数も多い大型ホテルであったが、光に弱い米国人に合わせた照明が薄暗く部屋に入りベッドに横になろうものならすぐに眠くなるのには困った。

 チェックインしたとき、ロビーには盛装のチマチョゴリを着た沢山の御婦人方がうろうろしていた。結婚の披露宴が行われていた。新郎新婦の韓国式正装を見たかったのであるが、新郎新婦が洋装だったのには少なからずがっかりした。韓国人の結婚披露宴は、招待客が多い。通り掛かりの人がいつの間にか席について騒いだり踊ったりしているということもあるという。普通の家庭の知人の披露宴にはお客さんが、「二〇〇人しか招待しなかったのに五〇〇人にもなっていた」と彼は言う。招待客が勝手に友達を連れてくるなんていうことでそんなことになったらしい。駐車場には、赤や黄、青といった原色のテープで派手に飾った車が置いてあった。いかにも韓国らしい。

 荷物を紐解く暇もなく、ホテルの裏にある食堂に昼食を食べに出た。石焼きビビンバを食べるもの、冷麺を食べるもの、刺身定食を注文するものまでいてバラバラな食事となった。先行きが心配になった。食後、景福宮に行くことにした。

 飛行場からホテルに向かう途中から雨がポツリポツリとふっていたが、この頃になると本降りとなっていた。韓国で雨に遭うのは初めての経験、誰だ、雨女は。

 「景福宮」には、タクシーに分乗して行くことにした。長女一家と我々と二台の一般タクシーに分乗した。

 ソウルには、一般タクシーと模範タクシーとがある。観光客には模範タクシーが安心である。英語や日本語を話せる運転手が多く、相乗り客を取られる心配もない。模範タクシーの免許を取るのは難しいが、その分実入りが良いという。一般タクシーより料金が高いと言っても日本のタクシーに比べ割安である。

 「景福宮」東側「建春門」民族博物館口前で降りて待つと言っておいたが、いくら待っても来ない。十分、十五分、待っても来ない。相乗り客を取られて遠回りされているのか、それとも喧嘩になったのか心配になった。二十分も待ったろうかようやくやって来た。我々が乗ったタクシーの運転手は。五十年配であったが、怖いぐらい力ずくで走る、長女一家の乗ったそれの運転手は、英語を理解し安全運転の人だったという。タクシー運転手の様に肉体を使う職業は忌み嫌われる職業であったが、韓国も就職難の時代で大学を出た人達の進出も多いと聞く。

 雨の中、四歳の孫がひょっこりひょっこりと長女夫婦の間に挟まれ、一つ傘でうれしそうに歩いているのが微笑ましい。

 ソウルの王宮へ入場するのに制限が行われるようになった。「景福宮」も入場制限があり、日本人は日本語ガイドのいる時間のみしか入場出来ない。時間表を見ると、日本語ガイドは、二時間おきであったが、タイミングが良く十分後であった。中年のおばちゃん連中の長蛇の列であった。孫に、皆が、
「雨に濡れるから一番前に行きなさい」
と門の軒下を案内してくれる。日本人の良いところだよな。

 ガイドは、まだ大学を出たばかりと思える女の子だった。韓国人女性がありがちな日本人に見せるギスギスした態度はなかった。日本人の多くの女性に似て薄化粧でふっくらとしていた。背も余り高くない。お嫁さんにしたい女優ナンバーワンだった竹下景子に似ている。日本人を繰り返しガイドし、日本語を話し、日本人に囲まれてきたためもあろう、長年、一緒に暮らしてきた夫婦の顔が似てくるように日本人に似てきたのであろう。

 ソウルには、建立年代が古い順番に言えば「景福宮」「昌徳宮」「昌慶宮」「慶き(もとひ部に臣と巳)宮」そして「徳寿宮」の五つの王宮が現存している。その王宮の多くの宮殿が、豊臣秀吉の壬辰・丁酉倭乱の二回の遠征で焼き払われ、再建されたものである。「景福宮」は、李氏朝鮮を起こした李世桂が建てた王宮であったが、他の王宮と同様に焼失し、李氏朝鮮末期、大院君の時代に再建され落成したものである。豪壮な建物が広大な敷地の中に所狭しと並んでいる。屋根は、楕円を描き小宇宙を抱えている。棟木屋根には雑像が並んでいる。三蔵法師や孫悟空、猪八戒、沙悟浄、麻和尚などであり、その一行が地を望見している。魑魅魍魎が渦巻く宮廷で両班一人一人はどのような生活をしていたのだろうか。


 「トイレにいきた〜い」 
 大雨の中、大勢の大人の中に交じって何も分からず、だらだらと歩いていると、三〇分も経たずに体が心底冷えて、四歳の女の子ならずともトイレに行きたくなる。トイレを探して目配りしていたが余りにも広く、それらしい場所を探し出せないでいた。これは、結構辛いものがある。ファンジャンシルとハングルで書いてあるはずであるがパッと目に入ってこない。トイレ・マークが万国共通であることはありがたい。歴史的建造物が密集する場であるから、景観を重んじたそれなりの建物と想像し目を凝らすが見出せない。困った。あった。建物群から遠く離れた大きな木の陰にひっそりとあった。田舎の厠のような小さな建物だった。ガイドに導かれてようやく行くことができた。
 トイレといえば、昌徳宮のトイレは工事現場やお祭りによく置いてある移動式トイレであった。二十台ぐらいちょっとした広場にデーンと並んでいた。工事中という訳でもなかった。ソウルを代表する歴史的遺産なんですけれどね。

 韓国の暖房装置といえば第一にオンドル(温突)を挙げることができる。オンドルは、高句麗時代五世紀には使用されていた。王宮にもあった。王宮の裏、庭園との境に丸刈りされた黄楊の様な木が植えられた雛壇の中段に、三メートル位の高さの煉瓦作りの煙突が四本ニョキと立っていた。オンドルの排出坑だという説明があった。燃料は、松の枝が多く使われた。オンドルは、優しい暖かさだ。ソウルを囲む低山は、禿げ山が多い。オンドルやお墓の所為だ。
 韓国では、ガイドという職業は、賃金が低く余り割の良い商売ではない。釜山の大学教授から必ずチップを渡してくれと言われていた。三千円ばかりを渡した。ガイドは、さっと受け取りポケットに入れた。優秀な人は、ガイドをしながら英語や中国語、日本語を学び熟達すると三星物産などの大手貿易会社や海外企業を目指すという。

 
長女や娘の要望もあり買い物をすることにした。新しくなったソウル駅に直結してスーパーマーケットがあると聞いていたのでそこに向かった。大きなスーパーマーケットだった。人でごった返していた。出口の脇に沢山の段ボール箱が山積みされていた。買い物客が、大きな段ボール箱に買った商品を詰めて出て行く。娘達は、三〇cm×四五cmはある韓国海苔や朝鮮人参茶、コチュジャン(唐辛子味噌)などを買い求める。そんなに買ってどうするんだ。おみやげにするという。貰った方も困るぞ。

 明洞で夕食にする。明洞には食事所が多いが、観光客向けが多い。煌びやかな看板の店ばかりが目立つ。ここぞという店を探すがない。中年のご夫婦の後をついて歩く。裏路地の店に付いて入った。こざっぱりとした焼き肉の店だった。焼き肉を本格的に食べるのは明日の楽しみにしてカルビなどの肉類は少しにして冷麺。孫は肉をよく食べる。大人はマッコリで疲れを癒した。娘が強い。身長一七八センチ、体重六〇キロ、さすがに体力がある。娘のために擁護しておくと、ほっそりとスマートに見える。


◇第二日


 建築設計をやっている息子の希望もあり長女一家と別れて行動することにした。サムソンリウム美術館に行くという。世界的に活躍する三人の建築界の巨匠が設計した美術館だ。レム・コールハース、マリオ・ボッタ、ジャン・ヌーベルの三人が三つの建物それぞれを設計した。この三人が一同に会することは金と時間がなければできないことですごいことだと息子は言う。建物一つ一つがアートだという。ホテルに五時集合と約して分かれた。

 我々は、韓屋村から昌徳宮そして東大門市場へと向かうことにした。ホテルの裏で一般タクシーを拾う。運転手に北村韓屋村とハングルで書いたメモ用紙を渡し、ガイド・ブックを見せた。返事がないが車は動き始めた。向かう方向が違うが、メモまで渡したのだからと安心していた。景色が違う。南山に向かっているようだった。南山ゴル韓屋村に連れて行かれてしまった。料金が三百円ぐらいのことであったから文句を言わず降りることにした。娘は、一言言わねば気が済まないと日本語と英語で金を返せと言うが、暖簾に腕押し手応えがない。諦めた。南山ゴル韓屋村は、民家や李朝時代の両班の家を移築した広々とした公園でとても景観は良いが趣がない。
 五十代らしき運転手を選んで乗り込んだ。親切だった。少し日本語が分かるようでメモを渡す必要がなかった。行き先が分かるまでくどく聞いてきた。大丈夫だろうと思ってはいたが、緊張して乗っていた。車が通れないような細い坂道の入り口で降ろしてくれた。

 道に足を一歩踏み入れると木造の家屋が一見長屋と見まがうように軒を接して立っていた。真っ白な漆喰の壁と格子の窓が美しい。ごつごつとしたコンクリートの冷たいビルに比べて、木造の家は優しく温かい。反り返った屋根の湾曲が心地よいリズムを呼んでいる。北村地区には、約九百棟の韓屋があり、街並みを形ち造っている。
 木戸の開いている家を覗くと、建物が、意外と広い中庭をコの字型に囲んでいた。中庭には鉢植えの花木が並べられたりしていて小綺麗で気持ちよい。
 途中「嘉会博物館」を覗いてみた。鬼神や呪術、魔除けなどの伝統的民俗品の展示が中心の小さな博物館だった。四畳半の部屋がコの字型に六つ連なった普通の家という感じだった。我々が訪問した時は、民画の展示が行われていた。子供の遊びの画だった。毬遊びやお手玉らしき遊び、カルタを使った遊び、そして縄跳びだろうか、我々が子どものころした遊びと似ていて懐かしい想いをした。若い女の学芸員がハングル混じりの日本語で一生懸命説明してくれた。お茶までご馳走になった。展示室の奥のオンドル部屋では、二人の米国人がpcの前に横座りして学芸員と夢中になって話していた。オンドルの暖かさが優しく部屋を包んでいた。都会育ちの娘が言う。
 「こんな家に住みたい」

 坂道が多い。道が迷路の様に入り組んでいる。迷った。坂道の中頃、学校の正門の前に出た。向かいになぜか土産物屋があった。ぺ・ヨンジュンやチャン・ドンゴンをはじめとする韓流スターのブロマイドやカレンダー、携帯ストラップが店中に並んでいた。店主らしきオモニに訪ねると「冬のソナタ」のロケ地になった学校だと日本語で答えてくれた。日本語がやけに上手いと思ったがそうゆうことだった。中年のおばちゃん達が大挙して押し寄せたことだろう。韓流ドラマのファンである我が神さんは、ィ・ビョンホンのカレンダーを買った。

 歩いて「昌徳宮」に向かった。昼時でもあったので食堂を探し探し歩いた。ラーメン屋やマクドナルドのようなファーストフードの店ばかりであった。韓国まできてラーメンやホットドッグでもないだろうと韓国らしい店を探すがない。あった。路地裏に韓屋風の食堂を発見、入った。ちょっとした土間があり、靴が一寸の隙間もなく並んでいた。二十畳ほどの板の間に重そうな机が十台ほど並んでいた。お客は、皆、丼と皿を抱えて、大声で話しながら食べている。メニューがない。店員は忙しそうに座敷を走り回っている。メニューを頼もうとして手を挙げても、無愛想に横を通り抜けていくだけだった。キョロキョロとしていると、隣に座っていた方が、片言の日本語で話しかけてくれた。手打ちうどんカルグクスと韓国餃子マンドウの専門店だった。カルグクスにしてもマンドウにしても一種類しかなかった。分量だけを注文するということが分かった。中を注文した。これが美味、絶品だった。カルグクスは、小松菜のような野菜が具として載っているだけだった。出汁が魚系で確りと効いたさっぱりとしたスープだった。うどんも腰が強い。マンドウのあんこはなんだろうか。肉汁が受話―と出てくる。甘味の中の辛みが何とも心地よい。いく皿でも食べられそうだった。食通の娘もにこにこして頬張っている。
 
 「昌徳宮」の正門「敦化門」の前は人の波でごった返していた。世界文化遺産であり、ごった返すほどの人を呼んでいた。韓国人は無論、欧米人が多いのに驚く。日本人は、中年のご婦人連中や我々の様な老人夫婦が大部分。若いペアーは、歴史的建造物を見るよりも明洞や南大門市場などに殺到していることだろう。

 入場券を買おうと並んでいたら六十五歳以上は入場料が無料だという話がなんとなく伝わってきた。列を見ると韓国人のお年寄りが見受けられない。娘が窓口で確認した。六十五歳以上は無料だった。英語表示があったが日本語表示はなかった。
 三十分は待たろう。日本人の入場時間となった。二つのグループに分かれて入場した。それでも五十人はいた。我々のグループのガイドは五十歳前後のいかにもヴェテランという感じの女性だった。両班のもののような鍔広の帽子をかぶり、藍色の和服の丈を膝上にしたような、制服を着ていた。拡声器を通して聞こえる声が落ち着いていて聞きやすい。しかし、何十回、何百回と口に出してきた言葉を投げつけるだけで心に響かない。それでも日本人は偉い、真剣に聞いてあげている。冗談までもが定番化していて笑えなかった。二〜三人の笑い声が聞こえるだけで、皆、下を向いて苦笑いしているだけだった。

 「昌徳宮」は、第三代「太宗」により一四〇五年に建てられたが、秀吉の遠征により焼失し、一六一一年に再建された宮殿である。五宮の中で最も原型を留めている。「敦化門」をくぐり、錦川橋を渡り奥に進むと巨大な建物が見えてくる。「仁政殿」だ。王様の即位式や外国使臣の接見、朝賀の礼など国家的重要儀式を執り行った場であり「昌徳宮」の最高殿閣である。前庭には、文班・武班のそれぞれが位別に並ぶための目印、五十センチほどの石の柱が立っている。貴族や官僚が赤や黄色、青などの色鮮やかな正装で並ぶ光景は壮観であったろう。

 百メートルも進むと「崇武堂」や「大造殿」に至る。「崇武堂」は、王様が最も多くの時間を過ごした中心的な建物で、床にはカーペットが敷かれ、ガラス窓、天井にはシャンデリアが見える。「大造殿」は、正式寝殿であり、王妃の生活空間である。洋式ベッドやヨーロッパから取り寄せたであろう調度品が置かれている。他の四宮とは違って「昌徳宮」は、李氏朝鮮末まで使われていたこともあり、当時の王族の生活を伺い知ることができる。    
 最も奥には「楽善斎」がある。弧を描く黒い屋根と板木の壁、白い障子の慎ましい建物だ。一部屋一部屋は三畳間程度の狭い部屋が連なっている。元は、第二十四代王憲宗が書斎兼舎廊として建てたものである。日本人に馴染みが深いのは李氏朝鮮の最後の王子「ウン・土偏に艮」に政略結婚させられた「梨本宮方子妃」の居所であるからである。

 「李ウン殿下」は、第二十六代王高宗の四男、一九〇七年皇太子に冊封されたが、日本に人質として連れてこられた。一九二〇年には、昭和天皇の后候補であった「梨本宮方子」と政略結婚させられ日本に留まった。朝鮮解放後は、無国籍状態になり、朝鮮・韓国に帰ることさえできず、心労の余り病に倒れ歩行も困難になり、精神にも異常を来した。一九六三年朴大統領の好意により韓国籍を得て帰国することになるが、ベッドの上での帰国であって、自らの足で韓国の土を踏むことはなかった。「方子妃」は、「楽善斎」に居所を構え献身的に介護をしたが、その甲斐もなく「李ウン殿下」は、一九七〇年金婚式が祝われた四日後に七十二歳の波乱に満ちた生涯を終えた。「李ウン殿下」死後も「方子妃」は、韓国に留まり、「慈恵学校」「明き(日偏に軍)園」などの身体、精神障害者の教育施設の設立・運営に二度の癌手術を負いながら奔走した。チマチョゴリを着て、たどたどしいハングルを使い朝鮮人・韓国人になりきってのお姿は、痛々しくもあったという。一九八九年八十七年の生涯を終えた。今、ソウル郊外の金谷陵に「李ウン殿下」と「方子妃」は、安らかに眠っている。「楽善斎」を訪れるたびにお二人の生涯を想い涙を禁じ得ない。

 「楽善斎」を後にして「昌徳宮」の後園である「秘苑」に向かった。
 小高い丘が連なる自然の地形が生かされ、四つの谷間それぞれに形の違った池と楼が造られている。うっそうと繁る木々の緑が美しい。中心となる庭園は、「芙蓉池」とそれを囲む七つの建物から成っている。一段高いところに建つのが「宙合楼」である。威風堂々とした二階建ての大きな建物で、王室図書館ともいえるものである。池に面して「映花堂」が威厳のある姿を現している。ここは、現在の上級公務員試験ともいえる科挙の“王が立ち会う最終面接”が行われた処である。
 我々が「映花堂」を訪ねたとき、宮廷生活再現イベント「朝鮮の太子教育・聖君を目指す」が行われていた。王位継承第一者・東宮の学識を「書筵官」(李氏朝鮮時代、太子の教育を担当した官吏)が一同に集まって評価をする「会講」が、舞台作りの中で行われていた。儒教の根本聖典とされる五経四書について「書筵官」が東宮に質問するもので、時には王が同席して厳しく質問したという。月に二回行われたと記録されている。とは言えね、東宮が王になったとき弾劾されるのではと思ったりする。そこはそれです。
 「秘苑」には、池を中心にさまざまな形の楼や亭が配置されている。「宙合楼」のように大きく豪壮なものから「清い(もと犬部に奇)亭」のような藁葺きの屋根を持つ二間四方の亭など木々の間に二十八の楼閣が配置されている。今回「秘苑」を訪ねたときは、様々にイベントが行われていて観光客も多く騒然としていた。普段は、訪ねる人も少なくひっそりとしている。本の一冊も持ってのんびりするのもよい。吹き抜ける風が心地よい。清々しい。時の東宮が一人になれる場所だったろう。観光客の喧噪から一人離れ「愛蓮亭」の縁に座り古を想うと歌うような小鳥の鳴き声しか聞こえなかった。三〇〇坪の庭を持ち、北側の角に六畳二間の居室。庭の中心に一メートル位の小高い丘があり、沢山の菫や片栗の花が咲いている。頂には一本の傘仕立てのしだれ梅の木が一本、庭の周りには雑木が繁っている。僕は、文机を前に春の緑にうっとりとしている。なんていうことを夢想している自分がいた。夢見る夢夫さんだった。
 娘も我が神さんもチンプンカンプンのハングル劇に飽きて「早く出ましょうよ」という顔をしていた。ガイドさんはといえばのんびりとたばこを吸っていた。我々は、ガイドさんと別れて一足先に「昌徳宮」を後にすることにした。

 「東大門市場」向かった。娘は、身長があるだけに足も長く歩幅が広い。年寄りにしてみれば付いていくのが大変だった。娘にしてみれば気を使ってゆっくりと歩いているつもりだろうが、それにしても早い。途中、女性陣の足が止まった。金銀製の装身具を扱う店が並ぶ通りに迷い込んでしまった。こりゃまずい。女が三人寄ると長くなるぞと思った。そうなった。一軒、また一軒と覗み込む。どの店も日本語が通じる。下町にしては明洞のきどったブティックほどではないにしろ小綺麗な店が多い。姉は、勤め先が東京・銀座にあることもあり、装身具には目が肥えている。安いがデザインが古くさく良くないという。助かった。
 「東大門市場」の入り口に立つと美味しそうな臭いが漂っていた。日曜日のせいかほとんどの店は閉まっていた。しかし、通路には食い物の屋台がずらりと並んでいた。トッポギをはじめとしてキムパプ(海苔巻き)やおでんもある。なんの鍋だろうか美味しそうな臭いを発している。中年の男達が、まだ三時だというのにソジュ(焼酎)やマッコリを顔を真っ赤にして飲んでいる。
 屋台の中に立つのは、いかにも元気が良いというおばちゃん達だ。我々が日本人と分かっても声を掛けてくる。姉や娘は、一杯引っかけたそうであった。誘惑に負けない様に足早に屋台通りを抜けた。ファッション商品や食料品の店は閉まっていたがアウト・ドアー用品を扱う一角だけが開いていた。百軒そこらでない数え切れないほどの店が軒を連ね亭居る。韓国人は山登りが好きだ。初対面の著者に対し「今度、ハイキングに行きませんか?」と誘ってくる輩もいる。山登りが社交の一つになっている。それにしても商売としてよく成立するものだ。軒に吊してあるブランドものも確かに安い。種類も豊富だ。わが日本では登山用品店に行くと中年女性ばかりだが、ここでは女性の姿をほとんど見かけない。沢山の真っ黒な顔をした男性どもがウロウロしている。肉体を使う仕事や遊びは、低俗な奴らがすることだと軽蔑されていた。いまもそういう風潮がないでもない。しかし、健康志向ということもあるが、ファッショナブルな服を着ての登山やジムで肉体を鍛えることが格好良いこととしてもてはやされている。いかにも見た目を重視する韓国人らしい。
 待望の焼き肉夕食である。若干疲れ気味であったし、小さな孫もいるのでホテルの近くの店を探すことにした。ガイドブックなどに載っている店は避けたかった。今更探すのも面倒で、ガイドブックに載ってはいたが、友達の多い釜山という名前に惹かれ、しかも、現地ガイドが推奨していたこともあり、「釜山カルビ」という名前の店に行くことにした。予約の電話をするとすぐに迎えに来た。予想通り観光客が多い。英語も日本語も通じた。とはいえ、紳士風の主人を中心とした韓国人家族が何組か居たので少し安心した。現地の人も来る店なのだろう。
 骨付きカルビ、ロース、サンナクチ(小さな蛸をぶった切ったもので辛子醤油をつけて食べる。動いている)、無論マッコリやソジュ(焼酎)も頼む。店員に奨められるままにサムギョップサル(豚バラ肉)まで注文してしまった。「うまい、うまい」、肉もだが“垂れ”がすこぶる美味かった。ちょっとした辛みが美味い。韓国唐辛子が隠し味になっている。孫は、サンナクチ気に入ってしまった。「口唇にくっつく」と言って喜んでいる。困ったことで、この子は枝豆や雲丹、塩辛みたいな酒の肴が好物だ。将来どうなってしまうだろう。娘は、よく食べ、飲み、しゃべっている。さすが体力がある。長女夫婦は、食べ役に徹し、姉は飲み役に徹しているようだ。わが夫婦はと言えば、財布の中身を心配しながら夢中になって飲み食う。大いに愉快、時間が経つのが早かった。気が付けば、三時間以上経っていた。孫もハイになっていて良くしゃべっていた。眠そうな気配を見せない。わが神さんは財務大臣、予想以上に高いものになったと言う。食べ役が三人もいれば、追加注文も多くなった。何を何皿注文したか分からなくなっている。金は問題外。家族が本当の家族になった。今回の旅行はこれだけで大成功だ。娘が「ベルトが苦しい」と言う。


◇第三日

 長女一家と娘は、仕事の都合で夕方の便で帰国することになっていた。長女は、今時の女の子?で史跡や観光地を巡り歩くよりショッピングが好きだというタイプだ。ホテルでゆっくりして、梨泰院のブティック街や、明洞でウィンドー・ショッピングをすると言うことで別行動となった。娘は、夕方五時の便なので我々に付き合ってくれることになった。宗廟から仁寺洞あたりをぶらぶらして明洞でお茶をしようということになった。
 宗廟へは、地下鉄で向かった。地下鉄は、丁度通勤時間であったが、日本の地下鉄でのように混んでいるとはいえ、社内で鉄棒や吊り輪をするようなことはなかった。日本では疲れた表情をしたサラリーマンや化粧をするオフィス・レディばかりであるが、ここ韓国ではよ〜しやってやるぞという精気に満ちた顔々に見える。うらやましい。座っていると中年のおばちゃんが新聞を膝の上に置いていく。押しつけ販売である。要らなければ座席に置いておけばよい。それにしても観光客である小生の膝の上に、韓国人サラリーマンに見えたのかな。嬉しくもあり悲しくもあり、複雑な気持ちだった。

 宗廟前の公園では老人達がのんびりと花札をしたり囲碁らしきものをしていた。太極拳のような体操をする者もいる。けたたましく大声でおしゃべりをするオモニも多い。
 門を一歩入ると前庭の喧噪が嘘のように、ひんやりとした静寂な空気を感じた。うっそうと繁る木々の間を抜けると突然に長大で荘厳な建物が目の前に逼っていた。正殿だ。平屋で一〇〇メートルはありそうだ。

 宗廟は、李氏朝鮮時代の歴代王と王妃の神主(日本で言う位牌のようなもの、木製で上面が丸く下面が四角い直方体)を祀って祭祀を行うところであって、国家最高の祠堂である。儒教の世界では、「人間は、生きているときは魂とたましい(白偏に鬼)とが結合している。死ぬとこの二つのたましいは分かれ、見えない精神すなわち魂は天に、肉体であるたましいは地に帰る」とされている。そして魂を祀る祠堂とたましいを祀る墓それぞれを造り祖先を崇拝しなければならないとしている。儒教の礼法によれば、「宮廷の左側にあたる東側に宗廟を建てねばならない」とあり、景福宮の東側に宗廟が建てられている。李氏朝鮮の太祖が漢陽(現在のソウル)を国の都として定めた一三九五年に建設が始められ翌年に完成した。現在の宗廟は、秀吉の文禄の役で焼失し、一六〇八年に再建された。正殿には王と王妃の神主四十九位が神室十九間に祀られている。
 正殿の奥には永寧殿がある。正殿の神室が不足したために一四二一年に建立されたものだ。永寧殿には、王、王妃、そして皇太子、皇太子妃の三十四位の神主が十六間の神室に祀られている。
 宗廟では、毎年五月の第一日曜日祭祀が行なわれる。李氏朝鮮時代の初めから行なわれていた。王を神として迎え、供物を捧げ、礼楽を奏え、歴代の王を慰めるというものだ。その当時在位中の王が主催者であったが、王のいない今は、王家の血筋を引く全州李氏の総領が主催者となり、李氏の一族が祭官を勤める。(韓国には、二八〇前後の姓しかなく、李を名乗る一族は、五〇〇万人以上といわれる。一族は、金海李、安東李等々に分かれる)祭祀では、先王の一人一人の徳がひたすら読み上げられ、鉦や太鼓、琴などによる雅楽に似た礼楽が奏でられる。また、建物の前庭一〇九m×六九mの凸凹した踏み石が敷き詰められた月台では、若い女性達の集団踊が舞われる。祭祀は九〇分近く淡々と厳かに進められる。祭官や楽人、舞人は、黒色の鳥帽子のような帽子を冠り、赤紫や濃紺、真っ赤な和服のコートのような上着、下には真っ白なズボンと袷を着ている。煌びやかだ。目にまぶしい。祭祀は、午前中に永寧殿、午後に正殿で行なわれる。

 宗廟が世界遺産であるにもかかわらず四〜五人の観光客に出会っただけだった。昌徳宮の観光客の多さに比べてどうしてだと不思議に思った。儒教精神が根強くあり、祖先を敬う意識が日本以上に篤い韓国だ。国父であった李氏の影は薄くなってしまったのだろうか。宗廟にくると、先祖を祀るいわば仏壇が一九壇、一つ屋根の下に一列に並ぶのを見ると、やはり身が引き締まる想いをし、謹厳な気持ちとなった。

 宗廟を後にして、仁寺洞に向かう。街並みの雰囲気がどうもおかしい。山谷のような場所に迷い込んでいた。人の数は結構多い。三〜四人が塊になって大声で話をしていたり、酒を飲んでいた。道路に座り込んでいる人もいる。薄暗い食堂や雑貨を売る店、小さな旅館が並んでいた。うっそうと繁る街路樹が太陽の光を遮っていた。高速道路の橋脚が雰囲気をますます暗いものにしている。
 韓国は、日本以上に激しい競争社会であり、失業率も高い。企業内競争は激烈であって、出世競争に遅れをとると退社せざるを得なくなると言う。再就職もなかなか難しいものがあるらしい。韓国は、コネ社会で血縁閥、学閥、地縁閥等々のコネクション・ネットが薄いと自分で起業するしか手がないとも言う。その手立てがつかない者が、昼間から巷に立ち、酒で憂さ晴らしをすることになるようだ。プライドの高い韓国人が最も忌み嫌う建設現場などの肉体労働に従事せざるを得ないが、なかなかプライドが許さないとも言う。事実はどうなのか分からないが、昼間からたむろして酒を立ち飲みし大声で怒鳴りあっているのは尋常ではない。無意識に足早になり通り抜けた。

 仁寺洞の約六〇〇メートルのメインストリートには高麗青磁や李朝白磁を扱う陶磁器店そして水墨画や彫り物を売る古美術店が多くあり、骨董収集を趣味とする者にとっては、心が騒ぐたまらない地域である。最近では、彫金作家などの工房やアートギャラリー画廊も進出している。画材店や書道用品店までもがある。古くさい街という印象を克服して、芸術的香りのする街へと変貌している。裏道に入ると伝統茶を飲ませてくれる茶房やコ洒落た喫茶店もあり、のんびりすることもできる。
 真実、奥の深い街になって、かつては小金を持った大人と骨董趣味の観光客が一軒一軒じっくりと見て歩き、店の主人と値段交渉をすることを楽しむ街であったが、今や老若男女誰もがウインドーショッピングだけでも楽しめる街となっている。
 娘は、叔父さんのやっていた小料理屋を手伝う中で古食器が好きになったと言う。古道具屋を目を輝かして楽しそうに覗いている。李朝白磁らしい茶碗を買ってやろうと価格を見ると十万円、二十万円の値札が下がっていてとても買ってやれるものではなかった。仁寺洞には何度か訪れたことがあり、古道具屋を素見し歩いたものだが、価格がこの四〜五年で急激に値上っていたのには驚いた。
 少々歩き疲れたのでお茶をしようと伝統茶のお店を探したが、どこも観光客、それも日本人客で溢れ一杯であった。仁寺洞に別れを告げ明洞でお茶をすることにした。
 明洞も人の波でごった返していた。化粧品店や、食べ物屋の呼び込みの声がけたたましくうるさい。銀座というよりも渋谷センター街入口前に近い。人がいろいろな方角に向かって歩いている。肩がぶつかりそうになっても避けないのは日本の若者と同じだ。右や左と人を避けながら歩くのは年寄りには辛い。
 韓国の喫茶店ではインスタント・コーヒーに砂糖をこれでもかと入れたものしか出された経験がない。店を慎重に探した。ルネッサンス建築風の丸窓のついた古色蒼然とした建物の二階に喫茶店を見いだしたので入ることにした。古着のようなクラッシックなデザインの洋服が所狭しと吊されている衣料品店の上だった。重々しいドアを開けると背中の高い黄色いソファーが向かい合わせに並んでいた。六セットあった。観葉植物がソファーのそれぞれの横に置いてあり、テーブルの上には白いバラや小菊が活けてある。三〇歳前後のなかなかの美人が一人所在なさげにカウンターの中に立っていた。メニューを見るとコーヒーに並んで生ジュースやアイスクリームが種類豊富に書かれていた。カウンターの上を見るとuccのレギュラーコーヒーの缶とドリップが置いてあったのでコーヒーを頼むことにした。娘達は生ジュースを頼んだ。韓国の喫茶店にしては珍しく本格的なレギュラーコーヒーで疲れた身体に心地よかった。ジュースもちゃんとした果物のジュースで美味だったという。
 娘とは初めてといっても良いぐらいに実家や仕事のことなど様々に話すことができた。躾の確っかりした心優しい人であり、息子にはもったいない嫁であるとつくづくと思った。息子と二人でより一層幸せな家庭を作ってくれよと願った。一時間はいたろう。帰国のフライトの関係もありここで別れた。我々は余韻を楽しみながら目的もなく明洞をぶらぶらとした。


第四日

 わが神さんと姉は、鷺梁津水産市場に行くという。魚介類が全国から集積する市場である。新鮮な海の幸を鍋やスープにしてくれる店も多い。ヘムルダン(海鮮鍋)を食べるという。
 二人とは別れて一人新装なった国立中央博物館に行くことにした。今回の旅の目的の一つでもある。日本の韓国併合時景福宮の中に建造された朝鮮総督府が、朝鮮解放後国立中央博物館となっていた。韓国人にしてみれば旧朝鮮総督府の建物は忌み嫌う建物であった。建物の解体運動が激しく行なわれていた。二一世紀を迎えるにあたり取り壊しが決定され、一九九五年から三年掛かりで解体された。元来その地にあった「光化門」も再興されている。それに伴い国立中央博物館は、漢江に近い龍山区二村に新しい地を得て移転され、二〇〇五年十月に開館した。世界六位の規模と言われるほどに大きなもので、一五万点ほどの歴史的遺物や資料が収蔵されている。広大な敷地の中にゆったりと三階建ての建物が立っている。東館と西館の二層に分かれている。東館には歴史観、考古館、美術館などがあり、西館にはこども博物館、図書館、八〇〇人規模の劇場もある。入口に立っただけで建物の規模に圧倒される。
 とても一日では見切れない。考古館と歴史館とを観ることにした。展示は連続していて有史以前から三国時代、李氏朝鮮時代と朝鮮の歴史が流れを追って理解できるようになっている。国宝も数多く展示されている。展示品を観ていると我が国との密接な関係を印象付けられることとなる。
 三国時代の金冠や冠飾に付けられている「金製出字型垂飾」の細工の繊細な美しさは言葉では言い尽くせない。東ホールには統一新羅時代の「敬天寺十層石塔」があった。その威容には圧倒される。高さは三階建てのビルに相当し、巨大なものでありながらバランスがとれていて一層一層のリズムが心地よい。
 真っ黒になった版木が展示されていた。木版印刷が朝鮮で始められたのが八世紀前半であり、様々な仏教法典が印刷され、日本に持ち込まれたことは、意外と日本人に知られていない。代表的なものが海印寺にあり、十三世紀に完成した「大蔵経」の版木約八万枚が伝えられている。展示されている版木に彫られている漢字の角が丸くなっている。時の人々の知識欲の高さを窺い知ることができる。
 折角の機会なので仏教彫刻の展示室も観ることにした。ここには、国宝「半か(足偏に加)思惟像」をはじめ「延嘉七年銘金銅仏立像」などの優れた仏像を観ることができた。こうして展示品を観て回ると、歴史以前から朝鮮半島と日本列島との間には活発な人的文化的な流れがあり、相互に影響し合っていたことが分かる。近くて遠い国ではなく、お互いに歴史を理解し合い親密で近い国にならねばならないとつくづくと思った。
 いつの間にか三時間が経っていた。名残り惜しかったが、フライトの時間の関係もありホテルに戻ることにした。

 わが神さんと姉はと言えば、ホテルから模範タクシーで鷺梁津水産市場に向かった。運転手が日本語を理解できたのは良かったが行きたくもない「戦争記念館」や国会議事堂を望める「汝牟島公園」などにも連れて行かれたと怒る。予定していた漢江遊覧船に時間が無くなり乗れなかったという。市場での海鮮鍋が超絶品だったと赤い顔をしてにこにこと機嫌がよい。運転手と三人で十二分に食事とマッコリを堪能したようだ。運転手は大丈夫だったろうか。

 旅行には、神さんと二人で行くこともある。姉が加わって三人のこともある。旅は一人でも二人でも、三人でも楽しいが、今回のように大人数の家族旅行は話が弾んで楽しさが倍加する。いつまでも共通の話題として話が尽きない。こうした機会を与えてくれた神に感謝せずにいられない。ソウルよ!ありがとう。            


おわりに

 東京新橋・烏森に十人も入れば満席になる小さなスナックがある。「菜華」である。古びたビルの急な階段を昇り、店に一歩踏み込むと温かな別世界に入り込んだような気分になる、ママの心遣いに溢れ生花がほのかに香る。「おい!ここに座れ」お客さん皆の目が語る。
 確かに一元の客は入り難い。とは言え、止り木に十分も座っていれば十年来の知己のように親しくママやお客さんの話題に巻き込まれてしまうことになる。誰ともなく話題が文学論となり、それじゃ同人誌を作ろうということになったと聞く。「烏森同人」である。
 著者は新参者である。友人ご夫婦に連れられて初めて「菜華」にお邪魔したとき、いきなり文章を書くことを約束させられてしまった。それまで業界誌に論文を発表する機会は数多く頂いてはきたが、小説や随筆などは縁遠い存在であった。困った。あわてて「文学界」や「オール読み物」を買い求め読んでみたが、ますます混迷するばかりであった。どうするか。約束は約束である。どうするか。そこでふっと思いついたのが、若い頃より関心を持ってきた「朝鮮半島・韓国関連」のことである。著者のルーツは、朝鮮半島・高句麗にあり、七世紀末、我が国に渡来した。天武天皇の時代である。
 資料もあり、韓国人の友人一人一人の顔を思い出しながら書けばそれなりの雰囲気は出るだろうと考えた次第である。数多くの韓国人と話す中で気付いたのは彼らの持つ「反骨精神」と「恨」と言うことである。日本人である著者にはその本質が何なのかは分からないが、著者なりに理解したことを伝えようとしている。一貫したテーマである。
 最後に、文章を書く機会を与えてくれ、つたない文章をいつも温かく受け入れてくれる「烏森同人」の編集者嘉藤さんに感謝、感謝を申し上げる。また、ママや菜華に集うお客さま方々からは良い刺激をいただき励まされた。韓国人の友人達、特に林先生、金君、朴君の友情にありがとう。心友崎さんと吾が神さんに全ての文を捧げる。


 ほかの作品もお読みください。
     『韓国愛想』
     『梅干しが食べたい』 
     『小カラス、克つ。』

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