男が、立っていた
高麗川が蛇行し、流れが激しくぶつかり合い、抉られた高さ五メートルはあろうかという崖の上である。深呼吸をしている。晴れ晴れとした顔つきをしている。三歳ぐらいであろうか小さな男の子が駆け寄る。抱き上げる。何かを話し掛けている。母親らしき女性がゆっくりと近づいてくる。三方を小さな山に囲まれた田園の中に平和で温かな風景があった。
序
林浩明、二十九歳。四大商社の一つであるM商事に勤務している。東京大学の文Tを出た。M商事では韓国や中国への工作機械の輸出を担当する部署に所属する。妻、美智子は、大学の同期生であり、文Vを出た。外務省に勤務している。大学を出てから間もなく結婚し、今、三歳の男の子がいる。
誰もが羨むであろうエリート家族といえる。将来に向かって安心で安定した生活を求めていた。家庭にそうした雰囲気があった訳ではないが、東京大学に入り公務員になるか一流商社に入るというのが吾が道であるように中学生の頃から思い始めていた。気負っていた。その道をまっしぐらに進んできたといえる。そのことを達成した今、なんとなく虚しさを感じてもいる。
美智子も今の生活に満足している訳ではなかった。「子ども中心に平凡な生活をしたい」と言う。キャリアであることが重荷になっている。日本のために心骨を削って貢献しているというプライドが満たされるにしても、自分の家庭が犠牲になっているという矛盾に疑問を持ち始めていた。
二人目の子どもを早く持ちたいと強く思う。とはいえ朝鮮人の血が八分の一であっても引き継がれることに少し恐れを抱いていた。時として朝鮮人の血が流れていることを意識させられる自分と同じ体験をさせたくなかった。それは一人で良いと思っていた。しかし、経済的に豊かな生活よりも精神的に豊かな生活をするべきと思う今、一人よりも二人の子どもが居ることの方が豊かな生活に結びつくと思った。美智子もそう思うと言う。
第一章
祖父は、昭和十八年、十八歳の時に日本軍に徴兵された。一人、強制的に日本に連れてこられた。当時、身長が一八〇センチはあり、体重も八十キロはあった。立派な体躯をしていた。そう言うと根っからの軍人のようであるが、祖父は、書斎の人であった。戦争が激しくなり騒然となっても、泰然自若と本を読んで暮らしていた。論語や詩経、礼記などの四書五経を読むのが常だった。儒教の大家李退渓を尊敬していた。若いのに国のために闘わないのかと揶揄する人もいたが、教えを願って尋ねる人も多かった。
安東金の家系である。両班であった。祖父の家系は、代々通師(通訳)を管理するエリート官僚であった。時代が時代であれば祖父も科挙を受けて通師になっていたはずである。日本語を子どもの頃より習い完璧に話せたという。
祖父は、岡山に連れて来られ、激しい訓練を受けた。死ぬほどの苦しみだった。なんとか耐えた。強靭な体に生んでくれた両親に感謝すると言う。軍服よりも平服で朝鮮と日本を何度も往復した。どんな兵務をしていたのか絶対に話をしてくれなかった。特務であったと言うばかりである。祖国を裏切ったと言う。洗脳された俺が馬鹿だったと涙を流す。
朝鮮が解放された八月十五日に解放されず、九月十五日にはじめて自由の身になった。岡山でのことであった。よれよれの兵服だった。お金は、ほんの僅かであったが隠し持っていた。朝鮮への帰還船が舞鶴から出るとの話しを耳にしたが、自分自身がやって来たことを考えると祖国が許してくれるとは思わなかった。両親を裏切った親不孝者で祖国に帰る資格がないと思った。舞鶴に行くことを諦めた。
朝鮮人が明石に集まっているという噂を聞き、明石に行くことにした。神社の軒下や物置小屋に盗み入るようにして雨を凌いだ。人を避けるようにして歩いた。柿の実や芋を盗んで食べた。「兵隊さん、ご苦労さま」と握り飯を恵まれたこともあった。日本語を日本人らしく話せたことで救われた。
明石は、戦災で焼け野原であった。その上、枕崎台風で明石川が氾濫し洪水で町中が水に覆われた。異様な臭いがしていた。急ごしらえの掘建て小屋が、寂しげに一軒二軒と建っていた。元商店街と思われる街角に十人、二十人という人が集まり呆然と立っていた。貧しい服を着た男ばかりであった。噂通り朝鮮人も多かった。祖父は、話を聞き回った。朝鮮人が火事場泥棒をしているらしいという話もあった。そういう話がある街中には住めないと思った。多くの朝鮮人が街から外れた線路沿いに小屋を建てて住んでいた。そうした仲間に加わるか一人で生きるか自問した。暫く様子を見ることにした、街中を離れ、明石川をのぼり、山陰に小屋を建てて住もうと思ったという。
農家が忙しい時期だった。男手の無い農家が多かった。年寄り夫婦とその嫁と子どもという農家が多かった。畑の中に一軒の農機具置き場があった。六畳一間ほどの広さがあった。藁が積んであった。潜りこんで死んだように寝てしまった。昼頃であっただろうか騒がしい声に眼を覚ました。老人夫婦だった。小さな人の良さそうな二人だった。嫁らしき女性も居た。事情を話した。暫く住まわして欲しいことを頼んだ。いとも簡単に許してくれた。祖父の丁寧な口の利き方が信用してくれたのだろう。毎日、稲刈りや野菜の収穫を手伝った。初めての経験だった。どうしたらよいのか分からなかった。手取り足取り教えてくれたという。隣近所の農家の手伝いもした。
半月も経つと母屋の横にある離れに住まわせてくれた。天国と地獄の違いがあった。ご夫婦の親切に涙したという。まだ復員しない長男が帰ってきたように思えると話すご夫婦だった。この親切になんとか報いなければいけないと毎日一生懸命に働いた。祖父は、この頃まだ二十歳であった。朝鮮人であることは話していない。林仁政で通していた。軍隊時代の名前である。
農作業が一段落したころ、町に出て働きたいことをご夫婦に話した。聞き回ってくれた。近くの農家の息子を紹介してくれた。足の悪い四十歳そこそこの男だった。町工場を一人でやっていた。親方と呼ばれていた。川崎重工業の下請けをやっていた。二輪車の歯車やピストンの製造をやっているという。働くことにした。旋盤工場であり、旋盤の機械が三台あり遊んでいた。毎日機械の掃除に追われた。油まみれになって働いた。機械の使い方を暇を見つけては教えてくれた。祖父は、飲み込みが早かった。一月も経つと旋盤を曲がりなりにも使えるようになった。簡単なピストンの筒位は一人で作れるようなっていた。
正直なところ祖父にとってこうした肉体作業は、最も忌み嫌うことだった。儒教を自分のものとし政府の中枢で働くか書院で弟子に教えることを天性の職と考えていた。肉体労働は卑しい奴らがやれば良いと考えていた。それを今自分がやっている。葛藤が凄まじかったという。しかし、祖国を、親を、裏切った今、卑しい立場にあると考えたと言う。どうせやるならとことんやり通してやろうと思った。死ぬ覚悟でやったという。朝早くから夜遅くまで働いた。工場の角で寝泊りした。
祖父が働く工場の製品は、仕事が丁寧で狂いが無いと評判が高かった。仕事が集まり始めていた。一人、二人と復員してきた若者を雇い、二年も経つと十人になっていた。それでも、毎日、徹夜に近い夜を過ごした。働ける場があるだけ良いと皆必死に働いた。祖父は、営業的な仕事もこなした。その篤実で熱心な営業態度が発注元から絶大な信頼を受けることになった。親方も真面目な性格で、どんなに仕事が忙しくても従業員に旋盤の使い方を教えていた。研究もしていた。仕事が好きで好きでならないといった風だった。
この頃になると少しばかりの余裕ができた。望郷の念が芽生えていた。祖国の両親に会いたいと枕を濡らす夜もあった。しかし裏切り者である自分を許せなかった。明石駅前の飲食店に出入りするようになった。朝鮮人の集まる店に行った。ハングルを使うことで望郷の念を少し和らげることができた。一日中酒を飲んでいる朝鮮人が多かった。喧嘩が絶えなかった。何人かの親しい仲間もできた。彼らには仕事が無なかった。あっても日雇い仕事だった。
工場に朝鮮人が訪ねて来るようになった。物陰で話した。就職させろと強言する者もいた。祖父は、朝鮮人仲間の一人を雇ってくれるよう頼んだ。親方は、頑として首を縦に振らなかった。朝鮮人を差別する訳ではなかった。戦争に行けなかった自分に劣等感を持っていた。苦労して復員してくる日本人を雇った。
今まで日本人は俺達を酷い眼に合わせてきた、雇って当たり前だという態度を嫌った。祖父もそれを嫌った。日本人であろうと朝鮮人であろうと必死に努力し認められることが重要だと諭した。お前だって朝鮮人だろと捨て台詞を投げつける輩もいた。殴りかかる者も居たという。
祖父が朝鮮人であることを親方に知られた。親方や皆で昼飯を食べている時、怒鳴り込んできた輩がいた。雇うことを一度断った男だった。酔っ払っていた。祖父を指差し「朝鮮人のくせに、偉そうに」と喚き散らしたという。
親方は、真っ青な顔をして呆然と立っていた。祖父に朝鮮人であることをなぜ言ってくれなかったのだと慟哭したという。謝ることができなかった。その夜、祖父は身を隠そうと姫路に出た。ただ街中をうろうろするばかりだった。ドヤ街の飲み屋に住み着いた。一月もすると金が尽きた。毎日、朝から晩まで油まみれになる生活だとはいえ、まともな生活が身に着いていた祖父は、その時の生活に心底耐えられなくなっていた。明石に戻った。
馴染の店に再び出入りするようになった。親方が探しているという話を聞いた。今思うと親方との生活が全てだった。親方に謝ろうと決心した。プライドを捨ててでも謝ろうと思った。工場の年長の工員を呼び出し仲介を頼んだ。親方が駆けつけてくれた。工員仲間もやって来た。皆の前で謝った。親方が本当に喜んでくれた。この親方に全力で尽くそうと思ったと言う。
また忙しい油まみれの日々が始まった。毎日が楽しく感じるようになった。お客さんに喜ばれることの素晴らしさを知った。
親方の奥さんに妹がいた。新婚早々に旦那は応召し南方で亡くなった。出戻っていた。まだ二十代だった。いくら戦争のためだったとはいえ、出戻り毎日ぶらぶらとしていることに近所の口が煩かった。周りに男がいなかった。二十代三十代の男がいなかった。祖父に白羽の矢が立った。親方の命令に近い頼みだった。
祖父は、まともな結婚はできないと思っていた。ましてや日本人との結婚は、想像もできなかったという。一生独身を通し、年老いたら誰にも知らせずに祖国に帰り、山の中で風化したいと考えていた。祖国を、一族を、両親を二重三重に裏切った。祖国に帰ってはいけない、両親に会ってはいけない、卑しい人間だと慨嘆していた。一方でこういう男でも幸福になる資格があるはずだと矛盾した考えを持つこともあった。葛藤していた。幸せになりたい。親方に義を返さねばならないとも思った。半分自暴自棄だった。結婚を了承した。祖国を捨てることにした。二十四歳になっていた。
発注元の会社の部長が動いてくれた。親方が日本への帰化を強く要望していた。結婚が最も障碍が少ない機会だった。日本人になった。日本に帰化した。一族が通師の家柄であったこともあり日本人に対しての抵抗感が少なかった。日本は、祖国より一段低い国であるという感覚が拭い去れないでいたが、日本の復興の速さを見るうちに、勤勉な日本人のよさを感じるようになっていた。自分が朝鮮人であろうと日本人であろうと、どうでも良いではないか、努力して認められる人間になろうと決心した。それでも祖国への思いが忘れられなかった。かえって強くなったとも言えた。親方の実家の庭に小さな四畳半程の小屋があった。そこに住むことになった。丸卓袱台一つからの出発だった。
発注元からの要請もあり、株式会社にすることになった。親方が当然のこととして社長となった。祖父は固辞したが役員にさせられた。工場長と呼ばれるようになった。親方の信頼を感じた。
工員の数も三十人と増え、工場が手狭になった。社長の実家の畑に工場を建てた。木造の物置小屋を大きくしたような建物であったが誇らしかった。器は作ったけれど中身が無かった。機械が無かった。旋盤に加えて研削盤や歯切盤を入れることにした。発注元が斡旋してくれた。借金が嵩んだ。正念場だった。
戦争の臭いがしていた。仕事がどんどん増えた。工員を、機械を増やさねばならなかった。チャンスだった。社長は、慎重であった。無闇に会社を大きくすることを嫌った。製品の質を落とす訳にはいかないと言う。それでもなんとか十人の工員を雇うことを認めてくれた。初めは足手まといの面が無い訳ではなかったけれども必死に教えた。死にもの狂いで働いた。皆、耐えた。
戦争が始まった。祖国での戦争であった。朝鮮戦争である。居ても立ってもいられなかった。祖国に帰りたい、両親を守らねばならないと思った。日本人になったことを後悔した。南朝鮮軍に参加したいと思った。酒に溺れた。社長は理解してくれた。救いだった。日本人になった自分が何をすべきか葛藤した。自分の今やっていることが南朝鮮に貢献することであると社長に説かれた。欺瞞的にも納得せざるを得なかった。がむしゃらに働いた。
ガチャ万だった。機械を動かせば動かすほど儲かった。これで良いのか疑問を持ちながら徹夜徹夜で働いた。工員を一人二人と雇った。五十人になっていた。そうなるとますます仕事が集まってきた。
祖父は、まだ二十六歳だった。恐くなったと言う。社長も祖父も地道にやることだけを考えた。時流に流されるのを避けたいと懸命に努力した。しかし、会社が膨らむ一方だった。一人二人と雇う中に、気が付けば七十人になっていた。戦争は、始まればまたいつかは終わることを知っていた。早く終わって欲しいと二人とも願っていた。大きくなり過ぎた会社をどうするか機会あるごとに、二人は、話し合った。
祖父は、書斎の人であったから、机の上の仕事を志向していた。設計をする部署を創り力を入れようと相談した。そうした。社員の中から三人の男が希望してきた。設計を担当させた。勉強家だった。努力家だった。祖父も寝る時間を短くしてでも専門書を読んだ。鉛筆を使ったことが無かった。ましてや烏口や三角定規、T定規などは見たことも無かった。時間を見付けては発注元の設計士の邪魔をしに行ったという。この努力が報われるのはまだ先にしても、祖父の知的部分が刺激され、自らの士気が鼓舞されたという。
朝鮮戦争も終末を迎えた。安東地域も大変な災禍を受けたが、両親の住む洞は、被害が少ない方であることを聞いた。心配であった。なんとか生き延びてくれただろうと、自らを納得させるばかりであった。
子どもが四歳になっていた。結婚して直ぐに子どもができた。生れてくる子どもに責任は無いが、パンチョッパリ(半日本人)であることの苦労からまぬがれないだろうと心配した。子どもがいとおしかった。可愛かった。平和で、安穏な生活を保証してやらねばと思った。この子のために生活を確りしたものにしようと決心した。子どものために、その母親である妻のために苦労しようと思った。祖国と日本の橋渡しになってくれればと期待した。朝鮮語ハングルと論語を身に着けさせようと考えた。そうした。
時代がまだまだ騒々しかった。とはいえ、少しずつ落ち着きを見せ始めていた。会社も右往左往することが少なくなってきた。安定してきた。余裕をもてるようになっていた。
社長は五十歳を超えたとはいえ現場の人だった。職人だった。経営をお前に任すと度々言っていた。祖父は、まだ三十歳そこそこだった。発注元から来た役員と二人で毎日議論した。必死に勉強した。祖父は、商工団体や中小企業の集まりに顔を出した。朝鮮人経営者の集まりにも出席した。もともと朝鮮人であることを隠し立てしなかった。朝鮮人でありながら日本人であるという矛盾に悩みもしたが、仕事がそれを克服させてくれた。
「若造のくせに偉そうにするな」「朝鮮人のくせに」という陰口が聞こえてくる。面と向かって言う人はいなかった。祖父が集まりに出ると苦々しい態度をとる人がいたと言う。年齢とか朝鮮人であることは関係ないではないか、今まで死ぬほどの努力してきた結果が社会に認められ、会社が大きくなったという自負もあった。会社をもっと立派なものにしてやろうと言う反骨精神も生れてきていた。
梅雨時の蒸し暑い夜だった。会社の幹部社員五人と飲み屋で会社の将来について議論した。祖父は、酒の席が苦手であった。酒を飲むにしても一人で考え事をしながら飲むのが常だった。好きだった。これではいけないと思った。週に一度は社員と飲もうと決めた。酒の上だからこそ話し合えることがあるとつくづくと思ったという。酒を飲みながらも本音で話し合うことの大切さを知った。
飲み屋を出て五十メートルも歩かない時だった。四〜五人のやくざ風の男に襲われた。「朝鮮人は、臭〜え、朝鮮に帰れ!」と叫びながら、バットのようなものを振り回し襲ってきた。一撃を食らった。軍隊時代の経験が生きた。リーダーらしき人物を叩きのめした。日本人だった。
祖父は、強かった。精神的に強かった。負けてなるものかと思ったと言う。会社は、順調に伸びていた。家も持った。生活は質素に心掛けた。必要以上の金を使わなかった。吝嗇ではなかった。周りから見れば確かに成功者であったが、それにおごることはなかった。やっかみがあった。嫉妬があった。揶揄されることもあった。負けなかった。
朝鮮人にとって生きる道は、飲食店をやるかパチンコ屋をやるか港で荷役をやるかヤクザな道に入るかしかなかった。祖父のように実業の世界に入れたのは運が良かったとしか表現の仕方がなかった。しかも今、百人を超える社員を抱える中堅企業の役員でもあった。朝鮮人社会では、目立つ存在となってしまった。日本人よりも朝鮮人に攻撃されることの方が多かった。日本国籍を持つということが拍車をかけた。暴力的なことがないではなかったけれど、金銭を要求されることの方が多かった。訳の分からない朝鮮名の団体が数名で押しかけてきた。祖父は、絶対に支払わなかった。祖国愛が誰にも負けずに強かった。相手を論破した。負けなかった。汚い言葉を投げて逃げて行くのが関の山だった。
東京オリンピックの特需があった。車が売れていた。歯車やピストンへの要求が強かった。売れた。設計部を設けたことも功を奏していた。社長は、地道に地道にとさかんに言う。品質第一でやろうと言う。祖父も派手なやり方を嫌っていた。
会社は、二百人という社員数を越えていた。会社がここまで大きくなると、社長と祖父二人だけの会社ではなくなってきたと思い始めていた。家族経営と同じであった。これではいけないと思った。順調すぎるくらいに順調であった。反面、将来について不安も芽生えていた。後進を育てなければとつくづくと思った。そして後七年、五十歳を区切りに引退しようと決心した。
強い勧めがあって上場した。
社長も祖父も、会社がここまで来られたのは、一緒に苦労してくれた社員のおかげであるという感謝の気持ちを忘れなかった。汚い吹き曝しのような工場で、徹夜徹夜で働いてくれた社員を大切にしていた。株を持たせていた。喜んでくれる社員を見て、三十年間の疲れが吹き飛ぶような気持ちになれたと言う。
本当に久し振りであった。社長と祖父とが二人だけで飲み語り合った。三十年間、全速力で走り続けてきた。お互いに感謝の言葉を投げあった。全てを許しあえる仲になっていた。社長が七十歳、祖父が五十歳になっていた。引退を決めていた。
心地よい酔いを持って外に出た。二つの影がす〜と重なり合った。満月の夜だった。
第二章
父は、祖父の影響もあり、工業学校に進学した。卒業したら電機関係の会社に就職したいと思っていた。しかし、「貴方には、就職の世話をできない、大学を受験したら」と学校に言われ、朝鮮人の血が流れていることを意識させられた。仕方なく大学に進んだ。東京の二流の私立大学だった。理工学部に入った。パルス信号を勉強しオーディオ関係の会社を目指した。祖父が裸一貫から初めて会社を一流会社とも言えるように育て上げた姿を見てきて、自分も小さな会社を育てる仕事をしたいと思っていた。いわゆる中小企業というところの就職試験を受けたがことごとく採用されなかった。身元調査で不採用になった。朝鮮人の血が半分流れていることを恨みもしたが、事実として受け入れられるだけの分別も持っていた。どうしようも無いことだと諦めてもいた。朝鮮人を、血で人間を差別する社会に対する抵抗心もあったが、それ以上に祖父の様に社会から認められるだけの力を溜めることの大切さも感じていた。
仕方なく韓国系の企業を受けることにした。半分日本人の血が流れていることで拒否されることが多かったが、韓国系の電気部品を扱うS電子になんとか就職することができた。ソウルに本社のある電子部品メーカーの日本支店であった。政商とも言われる大財閥に属していた。ハングルが片言しか話せない在日二世に対してハングルを流暢に話せることが父を救ってくれた。
日本の大手電気メーカーに電子部品を売り込む部署に配属された。日本語とハングルを話せることが重宝にされた。本社からの指示は、ラジオやテレビの設計図をもらって来いという理不尽な要求が多かった。「日本人は、朝鮮人に酷いことをした」、「今まで我々が日本人にいろいろなことを教えてきたから今の日本がある」という理屈だった。「設計図くらい我々に提供するのが当たり前だろ」と言う。父は、企業秘密である設計図を渡してくれるはずが無いと思っていたが、粘り強く折衝した。
会議は、壮絶であった。本社の幹部は、全員が慶尚道出身でソウル大学か高麗大学を卒業していた。日本支店の店長もそうであった。三十人ばかりの社員も地縁、学縁で序列がついていた。在日は、最下層の奴隷のような扱いだった。会議で幹部の発言に反対した社員が廊下で殴られている姿を度々見たという。父は、会議に出ても発言が許されず、上司の指示に絶対服従だった。日本人には絶対に受け入れてもらえないだろうと思う指示が多かったが、反対できなかったという。
ハングルを理解して日本語で営業折衝できる社員は、父しかいなかった。仕事が集まってきた。便利に使われた。本社から派遣されてきている社員は、三年の間に実績を上げねばならなかった。そうで無いと本社の良い地位に戻れないことを知っていた。花火を上げるために、父を利用した。在日という差別をあまり受けなかった。父にしてみれば、いろいろな経験ができるのでかえって楽しかったという。
父は、T電機から小型テレビの設計図とOEM生産を受注した。誠実な態度が、相手のS部長を動かした。T電機担当のR幹部は、自分一人の実績として本社に報告した。本部の幹部が来日し、挨拶にT電機を訪問する際にも父は枠外であった。本社転属が間近いR幹部は、父を避けるようになった。在日のくせにと事あるごとに言うようになった。父は、それで良いと思った。実績を提げて本社に転勤したいとは思っていなかった。
T電機のS部長が、度々会社に呼んでくれた。父の未熟だが若々しい意見を聞くのが楽しいと言う。刺激になると喜んでくれた。だからといって、父は、増長することはなかった。パンチョッパリであることの苦しみも話した。S部長を尊敬するようになっていた。
S部長が、子会社の役員として転属することになった。電気製品の販売会社であった。父は、誘われた。天に上るような嬉しさだった。S部長のために全知全霊を傾けて働こうと思った。
初めは、S部長直下のIR部に配属された。株主対策の企画を立てる業務を担当した。入社して一年が経ったころプロジェクト・グループの一員として抜擢された。プライベート・ブランド製品の企画だった。製品開発のプロや営業、宣伝広告、経理などの錚々たるメンバーだった。各部署を代表するメンバーだった。父に会社全体のことを良く知ってもらいたいというS部長の温情だった。父に対する期待でもあった。
父は、祖父と違い現場の人であったが、経理や営業の本を必死に片端から読んだ。勉強した。秋葉原などの電気街を毎日のように巡り歩いた。その甲斐もあってメンバーから一目置かれる存在となった。自分が半分日本人であり、半分朝鮮人であることを隠さなかった。皆にそのことが知られていた。だからと言って差別されることは無かった。開放的な会社だった。平等な会社だった。
父が仁美を知ったのは、このプロジェクトに参加している時だった。仁美は、メンバーの一人である経理課長の助手として参加していた。たった一人の女性だった。
会議では、一時間も経つとお茶が出る。お茶当番は、仁美だった。十四〜五人のお茶を一人で出すことは大変な作業だった。仁美は、それを楽しそうにやっていた。あるとき、父の茶碗を落し割ってしまった。仁美が私の責任で買ってきますと言う。次の日、仁美がデパートに茶碗を買いに行くと言うので父も付いて行った。仁美が支払った。昼食に誘い、今度は父がご馳走した。
このことが切っ掛けで一緒に昼食に行ったり飲みに行ったりするようになった。誘うのは、いつも仁美からだった。
父は、祖父に似て身長が高く百八十センチはあった。ガッチリした体つきをしていた。決して美男子とは言えないが目鼻立ちがはっきりして男らしかった。髪毛を短く刈り清潔そうだった。プロジェクト・グループでの父の活躍ぶりを仁美は、見てきていた。仁美は、父に恋心を抱き始めていた。父も同じであったが、それを押し殺していた。パンチョッパリであるというコンプレックスがそうさせた。
日曜日、初めて父から仁美を青梅の梅祭りに誘った。仁美は朝が弱い。この日に限って朝早く起き、弁当を二人分作った。二人は、満開の梅の下を黙々と歩いた。会話が途切れがちだった。父にしても仁美にしても期待するものがあった。仁美が不機嫌になった。気まずくなり、三時には東京駅に戻り別れた。
一月余り二人だけで会うことはなかった。父は、仁美がなくてはならない人になっていることを知った。結婚を申し込もうと決心した。仁美を誘った。仁美がついて来てくれた。自分のことを話した。朝鮮人の血が半分流れていることを公式に話した。祖父のことを話した。仁美も良く話した。結婚を申し込んだ。仁美が受けてくれた。涙を流して肯いてくれた。桜が散り始めたお堀端を、初めて手をつないで歩いた。温かった。別れられなかった。終電がなくなっていた。
仁美の家は、業平である。父親は、家具職人であり、頑固者だった。典型的な下町の人間であった。兄と二人兄妹であった。兄は、父の後を継ぐために修行中だった。その点では、仁美は自由だったけれど、父親に溺愛されていたことが心配だった。二十四歳になっていた。どんなことがあっても結婚したかった。母親は、賛成してくれた。どんな時でも仁美の味方だった。
父は、結婚の許可をお願いに伺った。父親は、一言も言葉を発しなかった。父は、仁美の助けを借りながら自分のことを話した。一方的に話すだけだった。朝鮮人の血が流れていることも話した。このことに少し引っ掛かっているようだった。それ以上に自分の愛する娘の結婚そのものに反対したかったのだろう。時間が掛かるけれども大丈夫だと仁美は言う。安心した。
父は、一升瓶を提げて毎日のように伺い、酒を飲み交わした。酒が好きだった。すこしづつではあったけれど話をしてくれるようになっていた。修行時代のことや娘への思いを話してくれた。朝鮮人に対する偏見があることも話してくれた。一兵卒としての軍隊生活がトラウマになっていた。家族思いだった。そんなことが半年も続いた。首を縦に振ることはなかったけれど心が通じ合うようになっていた。父親が母親に「しかたないな」と言ったという話を聞き嬉しかった。
新内がどこからとなく流れていた。兄が仕事場で黙々と仕事をしていた。木槌の乾いた音がしていた。父と仁美は正座して頭を下げた。父親は、諦めた風だった。首を縦に振ってくれた。仁美は、泣いていた。
S部長に婚約を報告した。大変喜んでくれた。仲人をさせろと言う。お願いした。
父は、祖母に逐次仁美のことを報告してあった。自分のことは自分で決めなさいと言う態度だった。難物は祖父だった。こと結婚となると朝鮮風の考えから抜け出せないでいた。朝鮮人のしかるべき家柄の女性との結婚を望んでいた。父が中学校を出た頃、祖父は、同じ安東出身の経営者の娘との婚約を進めたことがあった。祖母が大反対したためその話は壊れた。心の底では、朝鮮との繋がりを断ち切れないでいた。自分のことを棚に上げて父に期待することが大きかった。朝鮮との掛け橋になって欲しかった。自分は、もう戻れない裏切り者だと思っていたから父に期待していた。
この頃、祖父は会社の顧問になり、会社に行くのは週に一、二度で、後は小さな塾を経営していた。朝鮮人に日本語を、日本人にハングルを教えていた。漢詩や儒教的な礼儀作法も教えていた。書斎の人になっていた。十代の頃の両班の生活に戻っていた。社長も引退し、工場の角で身体障害者用の車椅子などの製作をしていた。月に二、三度社長と会って、作業を手伝い、酒を飲み交わすことが唯一の楽しみとなっていた。
父は、祖父・祖母に仁美を紹介するために明石に行った。祖母は、一目で仁美を気に入ってくれた。自分の娘のように扱ってくれた。
祖父は、普段自分の感情を表さない人であったが、このときばかりは不快な感情を露にした。仁美がどうのこうのということではなく、自分の知らないところで結婚を決めたことに対してであった。恋愛結婚なんていうことは考えられないことだった。結婚相手は、親が決めることであった。父にすれば予想できたことだった。説得しようとは思わなかった。時を待つしかなかった。
結婚式を東京で挙げた。どう祖母が祖父を説得してくれたかは分からないが祖父が出席してくれた。終始黙っていた。本当に親しい人だけの人前とも言える結婚式だった。祖父・祖母は、その日に明石に帰った。次の日、父と仁美は、明石に行き、朝鮮式で結婚の報告をした。仁美は、祖母が誂えてくれたチマチョゴリを着ていた。三礼をした。祖父の顔に微笑みが浮かぶのを観た。
新婚旅行に韓国へ行った。祖父のふるさとを見てみたかった。祖父から幾度も聞かされていた安東に向かった。陶山書院の近くにあるという祖父の実家を探し歩いた。祖父と同年輩の男が床机に座っていた。祖父を知っていた。曽祖父、曽祖母、二人とも朝鮮戦争で亡くなったことを告げられた。曽祖父は祖国愛が強かった。義の人だったと言う。京城に向かった。文官であったから皆で止めたが、義勇軍に参加すると言って同じ書院の仲間と出かけた。戦死した。綺麗なお顔だったという。曾祖母は、曽祖父に殉じたともいう。祖父と同じ書院で学んでいたという十人ばかりの男を呼んでくれた。お墓に案内してくれた。立派なお墓だった。直径三メートルはある大きな土饅頭だった。二つ並んでいた。祖父は、神童であって皆が期待していたという。戻って来いと口々に言う。父は、祖父が今、塾をしていることを話したが、日本国籍であることは話せなかった。父も仁美も、祖父が皆から愛されどんなに無念であったかを知り涙した。
明石に向かった。安東での出来事をどのように報告したら良いのか分からなかった。曽祖父、曾祖母のことは絶対に言わねばならなかった。そう考えるだけで涙が出てきた。韓服に着替え、祖父に報告した。祖父は、一瞬顔を強張らせただけで何も言わなかった。不動の姿勢をとりいつまでも座っていた。祖母と父と仁美は、一時間ほど経って、祖父の前から静かに辞去した。
仁美が父のアパートに転がり込む形で新婚生活は始まった。六畳間と三畳間そして小さな台所があった。家財道具は、何もなかったけれど、それでよかった。
新婚生活が二年目に入ろうとするとき、父は大阪への転勤を命じられた。係長という立場だった。S部長の配慮だった。将来のためには外を見て来いという。これを契機に仁美は、会社を辞めた。
大阪は、M電気の牙城だった。毎日、電器屋回りをした。酒を飲む機会が増えた。大阪は、東京とは違った活気があった。毎日に生きがいがあった。営業は苦戦の連続であった。M電機に隙がなかった。
部下を連れて鶴橋の焼肉屋に行く機会があった。朝鮮人のお客がいた。ハングルで話した。部下は、不思議な顔をしてなぜハングルを流暢に話せるのかを訊ねた。父は、自分のこと祖父のことを語った。隠すことではないと思ったという。
このことが切っ掛けになって、社内で業務用の冷蔵庫などを焼肉屋や食材の店に売り込むことが話題になった。M電機に勝つ方法だということになってしまった。プロジェクトが組まれた。父がリーダーにさせられた。確かに、ハングルを話せることが親しみを与えた。有利に働くことが多かった。一方では、パンチョッパリと蔑まれることもあった。両班顔して偉そうにと言われることもあった。純粋な日本人でもなく、朝鮮人でもない中途半端な存在であることを痛感させられもしたと父は言う。実績は上がった。
在日一世とはいえ、朝鮮戦争の時に、日本に逃げてきた人が一部にはいた。祖父とは立場が違っていた。祖父に相談する訳にはいかなかった。それこそ祖国を守ろうともせず逃げてきた奴らだと激怒することが分かっていた。
飲食店の店主をいつか脱して普通の会社の社長になるという希望を吐露する店主が多かった。父は、誠実に対応した。相談を持ちかけられることも度々だった。店主の前でお茶をいただく時、お酒を飲む時、祖父に対するのと同じように恭順の礼を尽くした。朝鮮人になっている自分が寂しかった。可笑しかった。
大阪に転勤になって二年目に子どもが生れた。男の子だった。祖父に相談し浩明と名づけた。朝鮮風に五行図に則った。祖母に聞けば、祖父は、呪文のように男の子男の子と唱えていたという。大変な喜びようだという。生れて直ぐに挨拶に行った。祖父は、知る限りの知人を呼び寄せ大宴会となった。明石はむろん大阪からもやってきて百人規模になってしまった。入れ替わり立ち代りやって来る。韓服の正装をした祖父は、誇らしげだった。父は、女の子だったらどうなっていただろうかと不安になったと同時に安心もした。正直に言えば、仁美は女の子が欲しかった。しかし、祖父の喜び様を観てホッとしたと言う。男の子で良かったという。男の子をという強いプレッシャーを感じていた。つぎは女の子を絶対生んでやるぞと思ったと言う。
月に一度は、孫を祖父に合わせるために明石に行った。相好を崩して抱く。浩明は恐がる。大声で泣く。一歳も過ぎると祖父の横に行き座る。親子の達磨のようだった。何も話さない。血筋は争えなかった。絶対に触らせなかった顎鬚を触らせて嬉しそうだった。
大阪生活は、五年間だった。東京に呼び戻された。課長だった。S部長に赴任の挨拶に行った。社長になっていた。大阪での活動振りが知らされていた。朝鮮人の血が流れていることは、S部長はご存知のことであったけれど、多くの幹部に知られることになっていた。高い実績を上げたことが知り渡る理由になっていた。だからと言って差別されるようなことはなかった。朝鮮系企業担当部署を創ろうと皮肉めかして言う人がいる程度だった。無視した。
父が新しく担当したのは、都下を担当する部署だった。団地がどんどん建っていた。電化住宅ブームでもあった。飛ぶように売れた。めざましく忙しかった。
会社に於ける地位が上がるにつれ風当たりも強くなった。朝鮮人のくせにとか中途入社のくせにと陰口をきく社員もいた。ぞんざいに包装されたキムチが机の上に置かれていることがあった。ハングル文字の新聞が広げて置かれていることもあった。大人数の社員の中にはそうした卑怯な社員が一人や二人はいるだろうと思い割り切った。父は、立派な日本人であり、立派な社員であり、なんら恥ずかしいことはないと思ったと言う。たしかに、一流大学を出て、そのまま入社してくる社員が大部分である会社の中にあって、父は異質だった。S社長が退任したらどうかといった不安がないではなかった。部下と一緒に実績を上げることだけを考えようと思ったという。
子どもが成長するにつれ二DKの社員寮では狭いと感じ始めていた。小さな子ども連れに貸してくれるアパートが少なかった。あっても高かった。探し尽くした。勤務中にたまたま飛び込んだ国立の不動産屋に手ごろな値段の平屋があった。古いが手入れの行き届いた家だった。営業活動で走り廻るうちに国立という町そのものも気に入り始めていた。決めた。仁美は、ごみごみして人情味のある街が好きではあったけれども、国立の緑の多い開放的な町も良いと言ってくれた。子どものためにも良いと言う。
国立は、大学や進学校の多い文教都市だった。緑も多く、季節季節の花々が一年中咲く。観梅会だ観桜会だと言っては仁美の会社時代の友達が訪ねてくれた。父も親しい社員を集めては宴会をやっていた。仁美は、母の影響があり三味線や小唄が好きだった。地元の趣味の会に入り、友達が結構たくさんできた。大学が多いせいか留学生との交流もあった。お客さんの多い騒がしい家となった。下町も良いけれどここ国立も良い町だと仁美は盛んに言うようになった。父は、とても安心したという。ここで安穏な生活を一生持とうと決心したのはこの頃だと言う。浩明が小学校高学年になる頃だった。
父は、四十歳頃からNEBA店や大型店の担当になっていた。S社長は、本社に戻っていた。紆余曲折があったにせよ会社に於ける立場は順調だった。そろそろ部長にという声が挙がっていた。父は、日本人の社員が七十点を取ればよいところを八十点取らねばならないことを知っていた。出世したいとは思っていなかった。媚を売ったりへつらうことが嫌いだった。しかしS元社長や部下のことを思えば期待に答えねばならなかった。一生懸命に頑張った。外部の異業種交流会や勉強会にも出て必死に勉強した。振り返れば一生涯で一番勉強をしたと言う。辛かったけれど楽しくもあったと言う。
会社では、父が在日二世であり朝鮮人の血が半分流れていることは、忘れられていたが、自分自身がいつまでもそのことに固執していた。事実は事実として認め割り切ろうと足掻いてもいた。四十歳を越えてこれではいけないと反省もしていた。そうした気持ちを仕事に打ち込むことで超えていこうと思った。そうして来た。仕事の鬼とも言われた。
部長に推薦された。なった。役員候補だった。出世は早い方だった。部下が喜んでくれた。こいつらのために働こうと思った。
営業上の必要から電気店の店主や担当と飲み屋に行くことが多かった。上野や神田辺りの飲み屋が多かった。部下を必ず連れて行った。
電気店の先行き不安があった。白物からパソコンに主力を移す店もあった。商売のやり方が少しずつ変わり始めていた。毎日議論した。M電機やS電機の社員が加わって議論することもあった。父は、競合メーカーの社員であろうと構わず仲間に加えた。酒の上とはいえいつも真剣な議論になった。部下が必死に議論に加わろうとする姿が頼もしかった。店主や担当の信頼を勝ち得ることができた。
父は、この店と決めたらその店しか行かないという性癖があった。そうした店が三・四軒あった。社員や電機関連社員の溜まり場となっていた。いつも活発な議論がされていた。時には、飲み屋の親父も加わった。情報交換の場になっていた。神田や秋葉原、上野地域には朝鮮人が経営する飲食店が多かった。大阪時代と同じように何件かの店主と付き合いができた。古くからの店主とはハングルで話すこともあった。懐かしく思ってくれた。若い店主は、朝鮮人であってもハングルを流暢に話せる人は少なかった。むしろ朝鮮人二世であることを隠していた。父に親しみを感じてくれる人が多かった。帰化すべきかの相談を受けることがあった。祖父の苦労を話すことがあった。
不動産屋さんが来て、土地を買ってくれと言う。持ち主が仙台に転勤している間の賃貸契約であったが、向こうに永住すると言う。買うことにした。仁美がこの土地を気に入り愛着を持っていることが何よりだった。浩明も高校生となり沢山の友達を得て、この土地を去るなんていうことは論外のことだと言う。
蓄えが十分にある訳ではなかった。国立は、都下であり田舎だった。思ったほど高くなかった。買えない金額ではなかった。とは言え建物を建て替えるほどのお釣りはこなかった。我慢することにした。三人で住むには十分な広さであり、住み慣れた家であり、大事に使ってきていたから、後十年や二十年は大丈夫だと結論付けた。三十坪に満たない庭だけど仁美の趣味のガーデニングを手伝いながら菜園もやろうと思った。自分のものになるとなると夢が膨らんだ。
祖父母は、八十歳にならんとしていた。元気で意気軒昂だった。それが救いだった。盛んに明石に戻れと言う。塾を手伝えと言う。韓国に関心が高まっていた。祖父の塾では、ハングルばかりでなく儒教的な礼儀作法、韓国文化まで教えていた。朝鮮人に日本語も教えていた。パンソリを教えることもあった。人気があった。祖父の両班然とした風貌も人気を呼ぶ一つの原因だった。収入のほとんどを地元の福祉施設に寄付をしていた。自分は、清貧に近い生活をしている。
一度は両親の墓参りに行こうと説得するが、絶対に首を縦に振らなかった。何も口から言葉を出さない祖父が、心の中で泣いているのが分かった。肩を震わせてくいしばっているのが分かった。父は、どんなことがあっても一度は連れて行こうと思っている。最後のたった一度の親孝行をさせてやりたいと思っていた。安東の書院仲間が生きている内に連れて行かねばと考えていた。
定年を一年後に控えて、嘱託社員として残るようにという要請があった。断った。父は、仕事仕事で過ごしてきた四十年近くの生活だったので、定年後は、仁美との生活を大切にしたいと思っていた。安穏な生活を楽しみたいと思っていた。これを契機に家を建て替えることにした。年老いた祖父母を東京に呼んで一緒に暮らしたいと思った。祖父母は、明石に世話になり、育てられた。明石に恩義を返さねばばらない。明石に骨を埋めると言う。父は、祖父母が一人になったときに考えようと思った。私に一緒に住もうと言う。子どもの面倒を見てくれると言う。美智子は、今は外務省を辞める訳にはいかなかった。ベビーシッターに来ていただいてはいるが、子どもが可哀想だと思っていた。一緒に住むことにした。父は、大層嬉しそうにしていた。
二世帯住宅にした。祖父、祖母のどちらが来ても受け入れられるように工夫もした。父は、外国人に日本語を教えるボランティアをしたり、趣味の水墨画を習いにいったりと毎日が結構忙しそうだった。仁美と一緒に毎月のように温泉巡りに出かけた。私の子どもと一緒に行くことが多かった。
ほかの作品もお読みください。
『韓国愛想』
『梅干しが食べたい』
『ソウル、ソウル、ソウル、ソウル』
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