田内千鶴子(1912〜1968) 「韓国孤児の偉大なる母」と称えられた日本人女性の生涯


「梅干しが食べたい」
(前編)



岡登久夫
 
   

高知市若松町の東端に碑文が立っている。碑文には「田内千鶴子 生誕地」とあり、つぎのように書かれている。
 『田内千鶴子(一九一二〜一九六八)高知市若松町に生れ、七歳で両親とともに日本統治下の韓国全羅道木浦に渡る。韓国人キリスト教会道師ユン致浩と結婚。致浩創設の共生園で孤児を育てる。
 一九四五年、第二次世界大戦で日本敗戦。戦後の混乱に加え朝鮮戦争のさなか夫行方不明の荒波に翻弄されながらも三、〇〇〇人の孤児を守り育て「韓国孤児の母」と慕われる。
 一九六五年、韓国文化勲章受賞、
日本藍綬褒章受章。「至高の愛は永遠に語り継がれる」』

 田口千佳子は、田口徳治を父とし安田ハルを母として大正元年十月三十一日高知市若松町に生れた。小さなまるまるとした赤ん坊だった。第一声は確りとした泣き声だった。徳治とハルは、戸籍上正式な夫婦ではない。
 安田家は、代々御殿医を勤める士族であった。明治になって没落したとはいえ、士族としての気位は高かった。祖父は、時代の変化に押しつぶされそうになりながらも自由闊達に行動し、医者としての安田家を守った。士族であろうと平民であろうと差別無く受け入れ治療を施していた。ハルの兄は東京帝国大学で西洋医学を学び、医者の資格をとった。大学付属の病院で研究を続けている。

 ハルは、尋常小学校から高等女学校に進んだ。これからの女性は、手に職業を持つべきであるという父の強い勧めもあり産婆養成所に入り、産婆の資格を取った。自立心の強いハルにとってなにか物足りないものがあった。女子師範学校に入り教員を目指した。ハルは、父の所に患者として来ていた牧師に誘われ、子どもの頃から教会に出入りした。聖書に親しみ、教会の聖歌隊でオルガンを習った。中学校の音楽の先生になりたかった。

 田口家は、手広く回船問屋を営んでいた。土佐藩の御用商人であった。船を十数艘持ち、明治になり東京や名古屋への回船ばかりでなく中国や朝鮮とも取引をしていた。
 徳治は、三人兄弟の次男であり、自由な立場にあった。長男は、中等学校を卒業すると直ぐに家に入り、事業を引き継ぐ教育を受けていた。徳治は、師範学校に進んだ。真面目で融通の利かない性格が商売に向いていないと自分で分かっていた。小学校の教師になることを目指した。音楽が全く駄目だった。音楽を別に習おうと決心した時、指導教授が紹介してくれたのがハルだった。教会で落ち合いハルに指導を受けた。

 ハルが若い男の近くに寄るのは初めての経験だった。先生と生徒という関係ではあったけれど、男を意識せざるをえなかった。

 幼いころから両親に士族の娘としての厳しい教育を受けていた。行儀作法、言葉使いなどは勿論のこと、お花や茶道まで習わさせられていた。家には医者という立場もあり、老若男女、お客の出入りが激しかった。時には診療室の手伝いをすることもあった。男と二人だけになることもあったが、それは患者と看護婦という立場だった。抵抗は無かった。
 徳治は、女であるハルを無視するようにオルガンに向かい、声を振り絞った。小学唱歌を一曲、二曲と習ううちに、ハルのテキパキしたもの言いを頼もしく感じ始めていた。ハルはと言えば、一生懸命に音楽を自分のものにしようとする徳治に好感を持った。教会の広い礼拝堂の中ではあったけれども、若い男と女が二人だけの時間を過ごす当然の帰結であった、二人の間には淡い恋心が芽生えていた。

 噂になった。小さな街である。若い男と女が肩を並べて歩くということは許されない時代でだった。両親の耳に入った。二人は、お互いに離れられない存在となっていた。ハルの両親にしてみれば士族のそれなりの立場にある男との結婚を希求していた。こだわらなかった。時代の変化を察していた。二人を許した。学校を卒業してからの結婚を許した。
 徳治の両親にしてみれば、徳治が師範学校に入学したときから家業を手伝わせることを諦めていた。せめて嫁は商家から迎えたいと考えていた。士族の娘で、しかも御典医の家柄ともなれば格式に余りの違いがあり、結婚に反対せざるをえなかった。
 徳治の両親が、二人だけで結婚を約束したことを、ハルの両親に謝りに伺かがったところ、二人を許してやろうという申し出があり、困惑した。結婚を認めることになった。

 師範学校を卒業後、一年が経った頃、身内だけの結婚式を挙げることとなった。しかし、安田家の多くのものが、士族の娘を平民に嫁に出すことを激しく反対した。勘当も辞さないと脇本家筋の長がいう。結局、結婚式を挙げられず、入籍もできずに二人は同居することになった。徳治の実家が、小さな商店が並ぶ一角にある一軒のしもた屋を用意してくれた。六畳間と三畳間と台所の小さな家だった。新婚の二人には十分な広さだった。徳治は、教員にならずに実家の手伝いをすることになった。帳簿を付けたり、お得意さんを集金に回る仕事だった。

 一年が経った秋、子どもが生れた。千佳子である。父田口徳治の籍に入った。

 高知は、坂本竜馬を排出し、板垣退助を中心とする自由民権運動の発祥の地となったように自由な雰囲気を持つ土地柄ではあったけれども、いざ家ということになると古い根強い因習の残る土地柄でもあった。さがない人たちは「不倫の子」と、ハルを、千佳子を、揶揄した。徳治、ハルに対する風当たりは強かった。特にハルに対して「士族の娘のくせに」という冷ややかな目が注がれていた。千佳子が近所の子ども達の輪の中に入ろうとすると、大人たちから汚いものを触るようにのけ者にされた。
 救いは、ハルの両親にとっても、徳治の両親にとっても初孫であり、とても喜んでくれたことであった。ハルは、育児に没頭した。子どもが好きだった。甘やかし過ぎとも言われるほどに可愛がった。大きな病気もせずにすくすくと育っていた。一人遊びが好きだった。誰かに話し掛けるようにしながら人形遊びをしたり、ままごとをしていた。本を見ることも好きだった。ハルは、千佳子を実家や教会に連れて行くことが多くなった。

 徳治は、ハルと千佳子が不憫でならなかった。こうした高知から離れたいと思うようになっていた。実家には、商売柄、朝鮮人や中国人も多く出入りしていた。親しくなった一人の朝鮮人から朝鮮に行くことを誘われてもいた。
 千佳子の小学校入学までに朝鮮に渡り、確りした仕事に就こうと徳治は決心していた。ハルや実家の反対を押し切り単身朝鮮に渡った。木浦だった。
 
 徳治が朝鮮に渡って、丁度一年が過ぎようとしていた、新年が明け、お屠蘇気分が抜けた頃だった。朝鮮総督府木浦府庁に経理課長として奉職することになったとの便りがきた。四月を待って、ハルと千佳子は木浦に渡ることになった。


 千佳子は七歳になっていた。分別のある小学生になっていた。父に会えるという喜びがあった。しかし、母親に地図の上で朝鮮や木浦を指し示されてもそこがどのような土地なのか理解できなかった。真っ暗な洞窟の奥深く一人置き去りにされたような気持ちになった。ハルは、気丈だった。朝鮮への移住に反対し続ける両親の説得に勘当を覚悟で毎日のように実家に通った。年に一度は千佳子を連れて高知に帰ることを条件に許された。

 ハルは、渡航の日が近づくにつれ無口になった。そのことが、千佳子をますます不安にした。


 大阪で乗船した。船の中では、猿の子どものようにただ母親にしがみ付いているだけだった。不安が頭の中を走り回り続けていた。千佳子もハルも一言も話さなかった。うつらうつらと時間が通り過ぎるのを待つばかりだった。


 木浦は、明るかった。高知の港とは違い、小さな島々に囲まれた港だった。波に揉まれて沢山の漁船と島々を巡る小型の貨客船らしき船が四、五隻停泊していた。白壁の今にも倒れそうな家々が密集していた。
 大勢の男が迎えに来ていた。大荷物を両手に抱えた女ばかりがタラップを降りている。兵隊の一団は別のタラップを下りていた。千佳子は、父親を探す余裕などなかった。真っ暗な船倉の中から突然光の中に放り出され、何も見えなかった。ハルに引き摺られるようにしてタラップを降りた。
 徳治が大きな声で千佳子を呼んでいた。三つ揃えのスーツをピッチと着て走り寄って来た。高知時代の父親の記憶は、頭を短く刈り、着古した厚手の和服に前掛けを付けた姿だった。父親に会えた喜びよりも恐怖があった。ハルのひざを抱えて後ろに隠れた。抱き上げられた。千佳子は、父親に母親とは違った温かさを感じた。しかし「お父さん」とは呼べなかった。

 家は、木浦の港から歩いて直ぐの街中にあった。高知の家より大きかった。千佳子には豪邸に見えた。日本風の二階建ての建物だった。木の塀に囲まれ、塀越しに五、六本の大きな木が見えた。
 ハルは、荷物を解かずに掃除を始めた。千佳子は、邪魔をしながら手伝った。母親の側を離れたくなかった。鍋釜を揃える時間もなかった。食事に夜の街に出た。無口な印象のあった父親が饒舌になっていた。ハルもありたっけの不満を壁に硬いボールをぶっつけるように喋った。
 こうして、木浦の生活が始まった。

 朝鮮語より日本語が聞こえた。高知では感じられなかった戦争の臭いがした。カーキ色の服を着た男達が闊歩していた。日韓併合条約が結ばれ、三・一独立運動が決起した直後でもあり、騒々しい時代であった。

 一週間も経つと一つの家族になった。千佳子も「お父さん」と呼べるようになっていた。周りの日本人家族が遊びに来てもくれた。ハルは、いろいろと生活相談をしている。

 千佳子は、国民学校に入学した。日本人と朝鮮人の混合の学校だった。高知訛の無い日本語を聴くのは始めての経験であり、全く聴いたことの無い言葉を喋る子ども達が不思議だった。街中に出ると薄汚れた白い服装の男達がいるかとおもうと赤や黄色、青といった原色の縦縞模様のスカートを穿いた女性もいる。店の看板には漢字に混じって見たことの無い模様が書いてある。後で分かったことだがハングル文字だった。千佳子にしてみれば外国であり、外国にいるということがこういうことなのかと実感し始めていた。

 木浦に来て半年が経った。親子三人が揃ったといったこともあり安定した生活となっていた。回りからの冷たい目もない。朝鮮総督府経理部長という肩書きは大きく、経済的にも恵まれていた。来客が絶えなかった。そのことで、ハルは忙しかった。生活に笑いがあった。高知時代よりも安穏な生活であった。千佳子は、人生の中で最も平和で穏やかな日々を過ごしていたといえる。オルガンを買ってもらい音楽に夢中になった。千佳子だけが朝鮮語での日常会話を曲がりなりにもできるようになっていた。買い物の時の通訳は、千佳子がした。

 ハルは、近所に住む日本人に頼まれて産婆の仕事を始めていた。日本人も朝鮮人も差別無く取り上げようと思っていた。看板を掲げてまでするつもりはなかったが、口コミで一人二人とやって来るようになった。
 徳治は、木浦への日本人の出入りが激しくなるにつれ忙しくなった。父親としての役割も大切にしてくれた。どんなに忙しくても、日曜日は千佳子に一日付き合ってくれた。子どもが好きだった。まるでガキ大将のように子ども達を引き連れて儒達山を登ったりした。親子三人で夕方の海岸を散歩するのが一番の安らぎになった。

 千佳子は、国民学校を卒業後、木浦高等女学校に入学した。ここでも音楽部に入り毎日が音楽に囲まれた生活だった。母親が通う教会で賛美歌の伴奏などもした。中学校か高等学校の音楽の先生になることが先ずの目標だった。努力をした。免許を取った。
 木浦高等女学校を卒業すると、ミッションスクールの貞明女学校で音楽教師として教鞭をとることになった。朝鮮人の子どもが生徒の半数以上を占める学校だった。父は役人として、母は産婆として、そして自分は教師としてそれぞれが職を得て働き始めた矢先だった。徳治が過労で血を吐き急死した。千佳子二十歳のときだった。
 母ハルは徳治の死を与えられた運命と素直に受け止め気丈に振舞っていた。産婆として取り上げる赤ん坊を徳治の生まれ変わりとして慈しんだ。千佳子は、父徳治の面影を振り払うかのように音楽に没頭した。

 半年も経つと女二人だけの生活が軌道に乗った。徳治が生きていた頃と同じような安穏な生活とは言えなかった。高知に帰ることを考えないわけではなかった。高知の両親からは、戻ることを強く言ってきた。しかし、高知に戻れば、千佳子が私生児として扱われ、偏見の目で見られることを恐れた。木浦に生活の基盤ができていた。千佳子にしてみれば、木浦が今まで生きてきた人生の全てになっていた。木浦に留まることにした。

 精神的な余裕が出始めた頃だった。千佳子が風邪をこじらせ、軽い肺炎を起こして寝込んでしまった。学校を休職した。一年近く寝たり起きたりの生活だった。ハルは、今度は産婆の看板を掲げて生活を支えることにした。徳治が日本人も朝鮮人も差別無くお付き合いしてくれていたおかげで沢山の方が尋ねてくれた。経済的には、女二人が生活していくのに十分な収入になった。戦争の臭いが強まる中で、男がいない家庭は、何かと無用心な面もあったが、かつて取り上げた子ども達の両親がハルの家をサロンのようにして毎日のように集まってくれ、安心だった。千佳子もその輪の中に加わり話をするようになった。

 その頃だった。女学校の恩師・尾崎益太郎が千佳子の様子を見に尋ねてくれた。家の中にばかりいて、手足を引っ込めた亀のようになっている千佳子に言った。
 「音楽を子ども達に教えてくれる人を探している朝鮮人の若い牧師がいる。手伝ってみないか」
 ハルも、外出しない千佳子を心配し、命令口調で、
 「尋ねてみなさい」
 と言う。千佳子は、正直いやいやであったが、音楽と聞いて尋ねることにした。
 
 春の日差しが心地よい日だった。儒達山に向かう細い道は、新緑に覆われていた。菜の花が咲いていた。胸が新鮮な空気で一杯に満たされ、千佳子は、自分が青春真っ盛りにある女であることを思い直していた。なぜかショパンの「別れの歌」が頭の中でなっていた。

 緩やかな坂道の途中に三十畳もあろうか、急ごしらえの掘っ立て小屋があった。雨風除けに板切れが打ち付けてあるだけの建物だった。床には麻袋が敷かれている。薄汚れた服を着た子どもが、十二、十三人、中学生位の年長者の話をちょこなんと座り話を聞いている姿が見えた。少し離れた日当たりの良い畑では、四、五人の子ども達が働いていた。中に埋もれるようにして一人の男が見えた。千佳子が尋ねる林致浩だった。春の陽気の所為か、元来内気な千佳子でも大声で叫びたくなった。叫んだ。素直に声が出た。
 「イムさんですか?尾崎先生のご紹介で来ました」
 背の低い痩せた坊主頭の男が鍬を投げ捨てるようにして置き、坂道をゆっくりと登って来た。わらじを履いている。
「イムですが」ぶっきらぼうな言いようだった。
「尾崎先生からお聞きしております。お願いできますか?」
 そう話す致浩の目に千佳子は圧倒されていた。深い深い井戸が満々の清涼な水を蓄え、その奥底が太陽の光を強烈に反射しているような二つの目だった。爛々と輝いて見えた。千佳子は、その目の中に吸い込まれるような感覚を持った。
「はい、お手伝いさせてください」と言うことばが、自分の意志とは関係なく、自然に口からほとばしり出た。致浩との出会いは、千佳子にとって生涯忘れ得ないものとなった。

 千佳子は、毎日、致浩の所に通うようになった。自然と足が向いた。朝食をそこそこに済ませ、朝七時には家を出る、荒れた細い道を二十分ぐらい歩く。致浩は、いつも子ども達に聖書を読み聞かせていた。千佳子は、賛美歌を子ども達に教えた。時には、日本唱歌を教えた。いつの間にか病気のことを忘れ、致浩に会うことに夢中になっていた。

 千佳子が通うようになって子ども達の顔つきがやさしくなっていくのを感じた。初め千佳子を警戒していた子ども達が、千佳子を母親のように慕ってくれるようになった。致浩には言い難いことを千佳子には話してくれた。特に女の子は千佳子から離れなかった。千佳子にとっても子ども達がいとおしくてならない存在になっていた。正直どうしたら良いのか分からなかった。ただ、ただ、手を繋いだり、確りと抱きしめてやることしかできなかった。
 千佳子は、初めの中は、子ども達と一緒になって賛美歌を唄ったり、オルガンの弾き方を教えたりしていた。致浩が不器用な手で繕い物をしたり、煮炊きをする姿を見るに見かねて、昼ご飯の用意をしたり、子ども達の服の継ぎ接ぎを手伝うようになった。そうなると、音楽を教えるだけではなく、生活の全ての面倒をみなければならなくなっていた。      
 なにもなかった。鍋釜に箸などの必要最小限の食事用品しかなかった。子ども達は着たきり雀だった。食事も滞り勝ちだった。一日一食しか食べられないこともあった。致浩は、子ども達のために寝食を忘れ、情熱的に働いていた。午前中は早くから畑の開墾をしたり野菜の世話をしていた。午後になると四〜五人の年長者と荷車を引いて港や街中の家々を食糧を求めて訪ね歩くのが日課だった。三時間も四時間も陽が暮れるまで歩き回った。いつも小さなお茶碗に盛ったご飯と漬物が全員に行き渡る程度の量であった。たまには、大きなかご一杯に詰まったお魚や山盛りの野菜の切れ端を持ち帰ることもあったが、子ども達は、いつもひもじい思いをしていた。我慢していた。

 ハルは、病み上がりの千佳子が心配でならなかった。どちらかと言えば体が弱くお嬢様育ちの千佳子が、毎日泥だらけの格好をして疲れきって帰ってくる。無口であったのが子ども達のことを雄弁に話すようになったことは、安心ではあった。口出しはしなかった。二人がいずれは結婚するのではないかという予感があった。朝鮮人と日本人の結婚ということをどう考えれば良いのか分からなかった。本人がよければそれで良いと思った。

 木浦は、ブサンと並んで日本や中国との主要貿易港の一つとなっていた。一万人を超える日本人が住み、日本の朝鮮進出の拠点ともなっていた。日本人が朝鮮人を馬鹿にし、支配者顔して闊歩していた。目に余るものがあった。そうした環境の中で、死んだ徳治も、またハルも朝鮮人を温かく迎えていたので、家に出入りする朝鮮人も多かった。ハルや千佳子が日本人から奇異に見られることも多かった。

 千佳子が致浩を手伝うようになって一年も経つと、お互いの中に強い絆と信頼関係が育ち、お互いがなくてはならない存在となっていた。預かる子ども達の数も二人、三人と毎日のように増えていく。朝鮮人の子どもばかりでなく日本人の子どもも一人、二人と預かるようになった。
 千佳子は、父徳治の知り合いを頼って木浦府庁に日参し、孤児院としての認可を得るために奔走した。「なぜ、朝鮮人のために。非国民だ」と汚い言葉でののしる輩もいたが耐えた。半年以上の根強い交渉で、千佳子の苦労が実った。孤児院としての認可を得、援助のお金を引き出すこともできた。
 「協生園」と名付けた。建物も建て増し、補修もした。オンドルも一部入れることができた。お米も五十人分は、配給してくれることになった。教会の古いオルガンを譲り受けることができた。千佳子のせめての贅沢だった。

 致浩は、夕食もそこそこに港に行き、子どもを一人、二人と連れ帰ることが多くなった。朝、子どもの泣き声で起こされることもあった。二年も経つと、一〇〇人近くの子どもになっていた。千佳子は、毎日ハルのところに戻っていたが、子ども達がそれを許さなくなっていた。お母さんは、どこに行くのかと泣き叫ぶ子どももいた。勿論、致浩も同じ思いだった。心の中で泣いた。

 突然だった。致浩から結婚を申し込まれた。千佳子にしてみれば、何時結婚を申し込んでくれるのか待つ思いだった。それにしても突然だった。子ども達に聖書の読み聞かせをしているのを中断して、結婚の話を始めた。申し込まれた。「はい」と言うことばが自然にでた。子ども達に祝福されたかった。子ども達に本当のお母さんになるぞっと認めさせたかったという。

 ハルは、覚悟をしていた。祝福した。回りの日本人は、非難軽蔑するほどに反対した。千佳子の決心は固かった。子ども達に専心全霊を注ぎ込もうと思った。これからの苦難は承知だった。致浩と二人であればどんな困難であろうと乗り越えられると思った。ハルの強い希望もあった。千佳子が一人娘でもあったので、致浩が田口家に入った。田口致浩となった。千佳子二十六歳、致浩二十九歳、昭和十三年秋のことだった。

 生活は、日々厳しくなった。子ども達の人数も増え、配給米だけでは足りなかった。年長の子ども達は、畑を耕し開墾をしたが追いつかなかった。致浩は、毎日、雨の日も強烈な太陽の光が降り注ぐ日も、荷車を引いて木浦の町を歩き回った。子ども達も頑張った。
 食事の前には手を洗う、感謝の言葉を祈る、生活時間を守る、そうした基礎的な生活習慣から教えた。風呂が無かったので、二十〜三十人のこども達を引き連れて海に向かった。千佳子の役割だった。一人の子どもが風邪を引けば直ぐに二十〜三十人の子ども達に移った。ハルに相談することも多かった。時には駆けつけてくれることもあった。

 戦争が激しくなっていた。木浦の街も騒然としていた。柱の陰で二人三人の子どもが寝ている風景を見ることも日常的になってきていた。協生園も一〇〇人、一二〇人という人数のこども達を抱えるようになった。収容しきれるものではなかった。子ども達に手伝わせ、小屋の増築、増築を繰り返した。子ども達はよく働いた。
 
 千佳子と致浩との間には二人の子どもが生れていた。ハルが取り上げてくれた。清美と基である。十日も立つとハルの心配をよそに協生園に戻った。麻袋の中で育てた。年長の女の子達がよく面倒を見た。子ども達と全く同じに扱った。清美も基も「お母さんは、僕の本当のお母さんじゃない」と怒りを込めて言ってきたが、千佳子も致浩も無視した。

 終戦が近づいていた。日本人がどんどん引き上げ始めた。日本人兵が長刀を振り回す。喧嘩沙汰がいたるところで起きた。朝鮮人が、集団になって日本人家族を襲い、略奪しているという噂もあった。女一人が安全に生活していける状況になかった。
 ハルは、千佳子と離れることに寂しさを禁じえなかった。千佳子が心配でならなかった。高知に戻ることにした。取り上げた子ども達の一家と木浦を離れ、終戦間際に高知に戻った。
 日本人と朝鮮人の確執が拡大していた。致浩も千佳子も、こども達を守ることに必死だった。子ども達は、そうした雰囲気を敏感に感じていた。怯える子どももいた。置き去りにされる子どもも多く、一五〇人を超える子ども達が協生園で寝泊りしていた。致浩は、「乞食大将」と呼ばれた。それで良いと思った。乞食であれば、物乞いであれ物拾いであれ、子ども達のために何でもできると思った。何をしても非難されることがないと思った。そうした。

 終戦になった。日本人と朝鮮人の立場は逆転した。引き上げる日本人を怒りの目で追いやった。石を投げつける人もいた。泣き叫ぶ子どもや女もいた。

 多くの市民が協生園を好意的に見てくれてはいたが、千佳子に注がれる視線は違っていた。日本人であることそのことだけで憎しみの対象だった。
 あるとき、三十人位の集団が、銃や棍棒を振り上げ振り上げやって来た。
「日本人を殺せ」
 と叫びながら清美や基を小突き回し、庇う千佳子に殴り掛かる男達がいた。凄い勢いで子ども達が走り寄って来た。
「僕たちのお母さんに何をするんだ」
 致浩も「私を殺してからにしろ!」と兵士の銃の前に立ちふさがる。
 その剣幕に集団はたじろぐしかなかった。リーダーらしき男が子ども達に囲まれ、口々に罵られていた。引き下がるしかなかった。千佳子は、子ども達に救われた。

 千佳子は、致浩と一緒にいたい、子ども達と一緒にいたいという気持ちが強かった。協生園にいたかった。いつ何時同じことが起きるか分からなかった。高知に戻らざるを得なかった。清美と基そして一人の日本孤児を連れて高知に戻ることにした。お腹の中には三人目の子どもがいた。辛い別れだった。

 高知での生活は安全で安穏であった。清美も基も千佳子を母親として独占できる喜びを味わっていた。三人目の香美が生れていた。そうした三人の姿を見るにつけ、千佳子は、協生園の子ども達が不憫でならないという情愛を日ごと募らせていた。致浩の慈愛に満ちた目とやせ細った姿が千佳子に眠られない夜を過ごさせていた。木浦に協生園に戻る切っ掛けを探し求めるようになっていた。決心した。
 ハルは、仕方がないと諦めていた。安田の祖父母も、田口の祖父母も孫を危険な目に会わせたくないと大反対であった。千佳子にすれば子ども達を置き去りにする訳にはいかない。危険な目に会うだろうことは承知であった。それ以上に大切なことが協生園にあると思った。高知に戻って一年も経たない時だった。朝鮮とは国交がなかった。伝手を頼って密出国した。福岡から船でブサンに渡り、木浦に向かった。

 
 

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