僕が彼に会ったのは、銀座に本社を置く中堅の広告会社に途中入社して十日も経たないころ、大学の後輩から紹介された。髪をオールバックにし、鼻の下には立派な鬚を蓄えていた。表地がミッドナイト・ブルーで裏地が真紅の背広をキチッと着こなしていた。金縁の眼鏡を架けていた。立派な体躯をし、威厳を感じた。ドスの効いた話し方をした。立派にやくざの親分だった。僕は一瞬たじろぎ恐いと思った。
まてよ、後輩だって髪を短く刈り、ベージュのジャケットにグリーンのパンツとIVYルックで固め、どう見ても普通のサラリーマンの格好ではない。チンピラに見えるではないか。暴力団の親分・子分に会っているような気分になってきた。
「おい!ステレオに詳しいんだってな」
「好きな横好きです」
「店に連れて行け」
「ハッ、はい」
真夏のギラギラする日差しの強い日であった。その時の僕の出で立ちは、濃い青のスーツにピンクのネクタイであった。髪を短くしていた。彼に連れ添って歩けば、誰が見ても親分に二人の子分が連れ立っているという風情になった。嵐寛寿郎、高倉健、田中邦衛といったところだ。僕は、これでも富士通や日立のお嬢様方から高倉健に似ていると騒がれているのだ。
店長の対応がいつもと違う。言葉遣いが違う。
「おい、俺だ、西だ」
「どちらの西様で?」
「西だよ、西、西だ」
「な〜んだ、西さんか〜」
後で聞けば、久し振りに緊張したと言う。本社の社長がきたとき以来の緊張だったと言う。関西方面の偉い親分と子分に見えたし、有力政治家と秘書にも見えたと言う。そう言われてみれば、三人とも真夏だというのにダークスーツを着ていて、上着を脱がずにいれば、一見してヤクザに見える。新宿と言う土地柄かその筋のお客さんが多いと言う。一遍に何百万の買い物をし、意外とクラッシク・ファンが多いという。普段はクラッシクや浪曲を聞き、戦闘態勢のときはロックを流すという。本当だ!と言うが本当だと思うか。
「予算は、二十万円。お前に任せる」
「ご自分でお使いになるのですか?」
「娘だ」
「何をお聞きになるか分かりますか?」
「義太夫や浪曲じゃない、西洋音楽だ」
「・・・・・」
タンノイの小型スピーカー、デンオンのプレーヤー、デッカのカートリッジ、そしてラックスのアンプ、ソニーのカセット・レコーダーも追加した。これなら万能だ。最高の組み合わせだと思わないか。定価で三十万円を超えたが二十万円を切った。見栄えも良い。こういう親は、ロックやジャズを聞く娘を赦さないであろうと思った。敵性音楽だと言うであろうと思った。クラシックを聞くと看破した。事実クラシックであった。娘はそれまでラジカセで音楽を聞いていたが、その音の違いに大感激であったという。女と言うものはこいうとき値段を調べる性を持つ。秋葉原に行ったらしいという。親の存在感を示せ大満足であると彼は言う。
このことがあって、彼とは急速に親しくなった。なにかと相談を持ちかけられるようになった。彼が所属する部署は、国鉄や地下鉄・私鉄の職員を相手にする職場であって、現場保線区の屈強な男を相手にすることも多い。確かに彼の職場の社員は、強面の人物が多い。担当常務を親分とするヤクザ集団に見える。二十五人そこそこで百五十億円という非常に大きな数字を稼いでいた。報奨金もあって金を使い放題にしているように見えた。会社とは違う別の組織だと言われていた。担当常務はヤクザの親分に見える。言葉が荒い。声が大きい。話をしてみると優しい。部下思いであった。業界全体のことを考えていた。面倒見が良かった。僕はマーケティング企画の担当であったが、この職場の人たちと気が合った。ウマがあった。担当常務と共通の友達もいた。
雑誌部の主と言われる男が名古屋への転勤命令を受けた。雑誌部に二十年以上所属し、雑誌社からの信頼も厚かった。日本で初めて漫画誌のノンブロに広告を入れた男である。雑誌社からの売上の多くは、この男の力で維持されているとも言えた。
「名古屋に行くのか?」
「命令ですから」
「一ツ橋や音羽は、駄目になるな」
「サラリーマンの宿命ですから」
「なんでお前なんだ。バカな会社だ。社長に言う」
涙ながらに激昂する。友情に厚く、愛社精神も強い。転勤や配置転換は四十歳までであって、その間に適性を見極めて配置を決め、定年までそこに置くと言うのが人事であり組織であると彼は考えていた。だから友情からでもあるが五十歳を超えた男が転勤になることに義憤を感じざるをえなかった。
「ちょっと行ってくる」と彼は立ち上がった。
「少し落ち着いてから行ったらどうですか」
「いや、今行ってくる」
二時間も経っただろうか、社長室から出てきた。
「業務変更はできないとさ」
「バカな社長だな、二時間も俺に付き合うんだから」
「電話の一本もかかってこない。暇な奴だ」
その頃の社長は、放送局の編成局長を経験した男であり、奥さんは結構有名なタレントである。先代の社長が三顧の礼を以って迎えた。恰幅がよく、話が上手い。駅伝であり、次の社長を育てるのが私の役割であると、公式の席で何度も繰り返した。結局十二年居座り、身分不相応な研修所を造ったりして借金だらけの会社にした。最後は印籠を渡される形で会社を去った。送別会をやろうと言う者が一人も現れなかった。
「すまんな。今日はとことん飲もう」
「見送りには、五十人は連れて行く」
もう一人の大阪転勤者と四人で飲むことになった。一軒、二軒、三軒までは記憶にあるがその後の覚えがない。いつもは、一軒目に食事のできる店に行き、二軒目はバーのカウンターで飲むというのが決まりのようなものであったが、この日は、初めからバーに行った。しかも女のいる店であった。彼は泣いた。会社の話にはなったが、会社の悪口は言わなかった。歌った。騒いだ。近場に居た社員を呼び出し、最後は十人位で騒いだらしいというおぼろげながらの記憶はあった。僕以外の三人は、船橋から松戸を径由して取手まで帰ったという。後で聞いた。会社の仮眠室で寝ているところを掃除の叔母さんに起こされた。「今日は、三人。この季節になると誰かが泊まっているわね」
「昨日は、ありがとうございました」
「昨日のは、社長のツケにした。文句言えるほど勇気が無いから大丈夫だ」
家族的な会社である。部署ごとに一家を構えているような趣がある。担当役員を親父とする一家である。派閥とは違っていた。局対抗野球大会があり、局別社員旅行が年一回ある。少し前までは局対抗運動会もあった。局によっては、麻雀大会を毎月やり年間の勝率で順位を付けているところもある。勿論女性も参加する。ゴルフ大会を催す局もある。そうしたこともあり、局内の仲間意識が強い。まとまっている。
彼が所属する交通局では、ゴルフが盛んで、年に四回ゴルフ大会を催している。賞品が豪華である。旅行券とか宿泊券、軽井沢72ゴルフ場ご招待券、デパートの商品券まで出ていた。皆、羨ましがった。我々の局の麻雀大会の賞品に廻してもらうこともあった。
彼は、参加しなかった。物乞いのようで否だった。田舎ぺっのように感じた。彼は、ゴルフをしない訳ではなかった。体作りのためにとゴルフ練習場に毎週のように通っていた。ジャンボ尾崎のファンでプロ・ツアーのTV番組をよく観ていた。しかし、ゴルフ場は、子ども達の公園にするべきであり、また、除草剤を大量に撒き公害の素を出しているところへは行きたくないというのが彼の主張であった。だからといって、彼は、局の仲間かから疎外されることはなかった。信頼されていた。
彼は、交通局と言う立場で洋酒メーカーのS社の担当であった。全ビール会社の宣伝担当者と広告会社の担当者が集まり年四回連絡会をやっている。幹事はビール会社の持ち回りである。彼は、どこの連絡会へも担当のS社のビールを提げて行った。普段飲みに行くバーにしてもそのS社の名前がついたバーか商品が置いてある店にしか行かない。置いていない店があれば、その商品を置かせるのが常であった。置いてもらえるまでとことん通った。競合ビール会社の担当者は、誰もがそのことを知っていた。彼を認めていた。S社が羨ましいと言っていた。彼の手帳にはS社の社長や役員、その奥様を始めとして、元を含む宣伝部員や受付の女の子の誕生日や趣味嗜好などがびっしりと書き連ねてあった。どこでどうやって調べたのだろうか。誰彼の誕生月になると、贈り物をするのが常であった。決して高価なものではなかった。が、こころはこもっていた。
「予算五千円、十人ぐらいで打ち上げをやりたいんですが」と言えば、「酒中心か。それじゃ峰にしろ、電話しておく」と即座に答えてくれた。どんな電話をしてくれたのかは分からない。峰は、銀座七丁目にあった。カウンターとボックス席のあるどっしりとした落ち着きのある店であった。派手ではないが、ヨーロッパ調のクラシカルな調度品で埋められていた。どう見ても一人一万円はしそうであった。六十歳ぐらいの支配人とその奥さんという感じのママさんとが、若造の僕らを丁重に迎えてくれた。三十歳前後のホステスさん二人が接待してくれた。まだ六時であった。早出してくれたのであろう。ボトルは、当然S社の商品であった。つまみは決して多くはなかったが、キャビヤやフォアグラもあった。ゲストのお客さんは、感激して店を出ることになった。時には「ご会計済みですが」となる。親しい経理の人間に聞いても伝票処理をしていないという。不正を働けるような男では決してなかった。いったいどうしていたのだろう。
彼には、週に一度は行く店がある。カウンターと一つのボックス席だけの小さな店である。新橋烏森の古びたビルの二階にある。彩菜である。
ママの都は、S社の宣伝部で媒体デスクをしていた。彼は、担当になって直ぐに都と知り合いになった。三十年も昔の話である。彼は、都から会社を辞めて飲み屋をやりたいと相談を受けた時、少なからず驚いた。安全で安定した生活をなぜ捨てるのかと説教した。しかしどうしてもやりたいと言う。決心が固かった。彼は、納得した。担当役員や宣伝部長が辞表を受け取ってくれないという。彼が二人を説得し協力を取り付けた。そうなると、彼は、全てを仕切るようになる。S社の営業部長に店探しや仕入先の交渉を頼み、店の名前やレシピーなどは宣伝部に制作させた。看板や小物類をS社に提供させた。
都にしてみれば、自分好みの店にしたかった。店のつくりのすみからすみまで自分流でやりたかった。半分も自分の主張が通らなかった。S社流になった。経費は少なく済んだ。彼は、都を叱った。お客が定着する三年間は我慢しろと言う。彼も内心では心配で仕方がなかった。
問題は、お客であったが、広告会社や制作プロダクションの社員を引き連れて毎晩のように通った。都もその種の人間とは付き合い慣れていたから、客あしらいが上手い。知り合いよりもその連れを大切にした。お客も満足していた。常連になった。
経営が安定している今、思う。彼も都も、そうして良かったと思う。都は、彼に恩返しをしたいと思うが、彼は何も受け取ろうとしなかった。彼のお勘定を内緒で値引くと、彼は気がつき猛烈に怒った。暫く来なくなった。
桜が満開を迎え疲れたからもう好いだろうというような頃だった。桜吹雪の中を、市ヶ谷から四谷、そして国立競技場の横を通って代々木方面に抜けた。彼と営業部長と僕の三人であった。ワンカップ大関を三個づつ呑み干していた。足取りも軽かった。「飲み足らねえな。たまにはいかがわしい店にでも行ってみるか」ということになり、新宿の歌舞伎町をうろうろすることになった。赤い顔をして、目をきょろきょろさせていれば、どうしたって客引きに捕まることになる。しかしその類の店には行かない。
風鈴会館の近くで我々三人を呼んでいるような風情の店があった。白いビルの間に挟まれ、薄汚れた黒っぽい三階建てのビルの一階であった。アーリータイムズという古びた看板が吊り下がっていた。重々しい扉がついていた。一歩入るとジメ〜とした感触が伝わってきた。カウンターがあり、丸テーブルが五つ乱雑に置かれていた。ジョニー・キャッシュのウォーク・ザ・ラインが聞こえてきた。バーテンダーらしき人物とウェイター二人がいた。お客の多くがよれよれのジャケットかダウンにジーパンであった。スーツ姿は、我々三人だけであった。お客の誰もが黙々と酒を飲みタバコを吸っていた。話をしない。とはいえなぜか騒々しい音が聞こえてくるように思えた。アーリータイムズというバーボンがS社にあることを思い出した。注文した。アーリータイムズがあった。
彼は、こういう店が嫌いではなかった。学生時代によく通ったジャズ喫茶・ママやオレオを思い出すという。それにしてもいかがわしいという。一時間もしないうちに、なんとも言い難い甘酸っぱい臭いと煙とで部長と僕とは気持ち悪くなってきていた。酔いも回ってきていた。
「チョコ買ってくれない。三千円でいい」
部長と背中合わせに座っていた、薄汚い、歳の頃なら三十歳位の男が小声で言う。ナイキの赤いスニーカーだけがいやに目立っていた。高いと思ったがバーボンのつまみにチョコレート、いい組み合わせではないかと酔っている勢いもあって買ってしまった。折り紙のようなもので包んであった。松脂の塊のようなものであった。彼は、その方面の知識がなかったのでチョコの意味することが分からなかった。好奇心もあった。バーでお客がチョコレートを三千円で売るなんてどうみたっておかしくはないか。
「ヤバイですよ。大麻です」
「赦せん。出よう」
彼と部長と僕は、新宿署の取調室にいた。麻薬不法所持の現行犯だという。調書を執られた。店の名前は思い出したが、売人の顔も服装もうろ覚えであった。若い警官が店に行ったがそれらしき人物はいなかったという。結局二時間拘束された。彼が年寄りの警官を掴まえて説教した時間の方が長かった。
「奴は赦せん。警官も赦せん。犯人扱いしやがって」
「サザンのチケットをもらった」
「成海と川端と笹野を誘え、俺の名前は出すな」
成海は交通局の、川端は営業局のデスクであり、笹野は経理局員であった。全員が、入社三年ちょっとといった立場の社員であった。彼が日頃から最も接触する機会の多い部署に所属していた。僕にとって、若手社員、それも女子社員を引き連れてコンサートに行くことは、荷が重いと思った。五十面を提げてのロック・コンサートでもないと思った。丁度良いことにマーケティング局に彼女達の同期の女子社員がいた。この業務を託すことにした。彼女だけが四大出であった。少し心配になった。サザンがその杞憂を乗り越えさせてくれた。
「きのうは、チョ〜楽しかった。ありがとうございます。」
と僕が言われることになってしまった。ゴディバのチョコレートをもらった。ここのところチョコレートに憑いている。彼の名前をよほど出そうと思ったが止めた。彼は、本気で怒ることを知っていたからである。彼は、照れ屋であり、彼女達が挨拶に行けば、返事もせずそっぽを向くであろうことを知っていたからである。彼は、女子社員を食事に誘ったり、物をあげたりして、女子社員にもてようとする魂胆を嫌っていた。品が悪いと思っていた。卑しいと思っていた。脚光を浴びない縁の下の働きをしている女子社員を尊重していた。感謝していた。チケットは、恐らく彼が自前で買ってきたのであろう。
彼には、二人の娘がいる。上の娘は、四年制の大学を卒業し、大手の調査会社に就職していた。大手経済新聞社の子会社であった。下の娘は、彼の反対を押し切り美容師学校に通っていた。彼は、上の娘を溺愛していた。彼は、彼女が男と接触することを嫌っていた。大学は、お嬢様学校として風評のある女子大であり、その付属の中学校、高等学校を卒業した。体が弱かったこともあり、彼は、一貫教育をしている学校に入れたかったし、そうした。大学時代には、他の大学の男子学生と合コンが盛んに行われ、彼に隠れて参加していた。彼は、門限を九時に決め厳しく守らせていた。彼女が激しく抵抗したが許さなかった。調査会社に入り、男と初めて深く接触したとも言えた。悩んでいたという。
上の娘は、母親似で、日本的な美人であり、深窓の令嬢といった雰囲気を持っていた。品がある。黒のタイト・スカートが良く似合う。会社では、親会社の担当であり、新聞記事の裏付けデータを作ったり、記事になりそうなデータをデスクに提供する業務の担当である。記者と接触する機会が多かった。社会部の記者から結婚を申し込まれていた。そのことでも悩んでいた。どう考えても、彼が反対することが目に見えていたからである。彼の高校時代からの親友で中央紙の専務をしている男がいる。その男は、社会部の記者出であったから、彼は、社会部の記者の生活をよく見聞きしていた。女房がどんなに大変かを知っていた。その話を聞かされていたから、娘は悩んだ。家族と縁を切って家を出るほどの勇気はなかった。辛かった。諦めた。
「娘がおかしい」「会社に行かなくなった」「誰か良い医者を知らんか」
会社の診療所の診察でうつ病の初期と判断されたという。そこで、僕は、松沢病院や大学病院で精神科の看護師を長く勤め、今は大学の教授職にある女性を紹介することにした。「親離れ子離れしていない結果である」と言う。彼に教育的指導をした。娘が可哀想だと言って泣いたという。彼に親しい友人連中は、半分からかい気味に「お前が悪い。嫁に出してしまえ」とはやし立てるが、娘が出て行かないと言い張った。
娘の大学時代の友人が結婚をすることになり招待状が来た。池袋の立教大学のチャペルでの結婚式であった。娘は、この友人にはいろいろと相談をしていた。一人では電車に乗れないことを告げてあった。新郎の友人が送り迎えをしてくれることになっていた。そのことを彼は知り「俺が送り迎えをする」と言う。そのようになった。車の中で結婚式と二次会の間、待った。五時間待った。娘が友達に囲まれ楽しげに話をしている。晴れ晴れとした顔つきをしていた。それを見て、彼はショックを受けたと言う。家にいる時には決して見せない生き生きとした姿を見せていた。「俺が悪いのか」と思い悩んだと言う。結婚式の後、娘は、件の記者の話を盛んに言うと下の娘から聞いた。
僕は、女房が好きなこともあり、山登りをしていた。会社の寮が水上にあり、ここを基点にして三国峠や尾瀬に行ったり、日光白根を登ったりしていた。山菜取りに出かけることもあった。彼を誘って大峰山に登ることにした。所沢のインターで待ち合わせ合流した。奥さんと一緒だった。僕は、運転をしない。わが神さんは、運転が好きだ。彼は、マークU、吾が方は、ワーゲンである。彼の先導で追い越し車線を百五十キロ前後の猛スピードで水上まで一気に突っ走ることとなった。助手席に座る僕は、恐怖を感じた。神さんも恐かったと言う。
彼の出で立ちと言えば、モンベルのダウンにパタゴニアのパンツであり、靴はザンバランであった。ピットナーのチロリアン・ハットをかぶっていた。ザックはミレーの四十リッター、杖も持っていた。イタリア製であった。完璧であった。会社の登山同好会のベテランと一緒に秋葉原の好日山荘に行き揃えたと言う。帽子にはこだわりがあり、いろいろな店を探し回り、東京大丸で買ったという。奥さんの装備も彼が揃えた。よく金があるな〜。
僕の装備のほとんどは、イトーヨーカドーで買ったものだ。靴だけは、専門店で買った。諸君、靴とパンツだけは、良いものを揃えねばならないぞ。ジーパンは、絶対に駄目だ。死にたくなかったら。
水上の寮に先着していた彼の同期の諏訪部夫婦も合流し、三組の夫婦で大峰山を登り始めた。諏訪部夫婦も僕夫婦も、花や景色を楽しみながらゆっくりと登る。彼は、一気呵成に登ろうとする。急がず休まずのんびりと登った方が良いと繰り返し言ったが、聞く耳を持たない。下山する時は、彼の荷物を持たねばならないだろうと覚悟した。二時間も登っただろうか、急な上り坂に差し掛かり、頂上まで後三十分という尾根で、彼は「駄目だ」と座り込んだ。こういう時の彼は、玩具売場で駄々を捏ねる子どもと同じであった。動こうとしない。瀕死の重傷という感じで喘いでいた。彼の奥さんを連れて頂上に登った。戻ると、彼は清清しい太陽の光線を浴びながら寝ていた。涼しい風が通る。幸せそうな顔をしていた。四葉のクローバーを手に持っていた。予想通り彼のザックを持って下りることになった。四十リッターのザックの中には何が入っているのだろうか。ずっしりと重い。S社のワインが二本入っていた。頂上で飲みたかったと言う。
「体調が悪い。疲れが抜けない」と言う。C型肝炎だと自己判断していた。彼は、中学一年の時、結核になり手術をした。量は少なかったが輸血をした。彼の実家の醤油工場で働いていた仕事師が血をくれた。フィリピンから復員してきた屈強な五十代の男であった。たとえこの血が原因だとしても、この男に今も恩義を感じると言う。従兄弟が千葉大学の付属病院にいた。助教授であり、肝臓の専門家であった。彼は、この従兄弟を同胞の中で最も信頼していた。大学病院は、彼の自宅から近い。運が良いと思った。心強いと思った。彼は、五十歳を過ぎて死を思うようになった。C型肝炎になり、そして肝臓ガンになるという死への筋道を考える。寝る時、明日の朝は起きられるかとも思う。予感があると言う。現実に近づきつつあると冷静に言う。
彼は、結核を体験したせいか健康に対して敏感であった。酒は飲むがタバコは吸わない。東京の魚は不味いと言いながら魚しか食べない。肉は食べない。何処に行くにも一駅前で降りて歩くのが常だった。散歩が好きだった。休みの日には、女房を連れ出して散歩するという。女房が五十五歳の誕生日を迎えた日、散歩をしながら「愛してる」と結婚以来初めて言ってしまったとテレながら言う。なぜなのか突然この言葉が口から出たと言う。打算が働いていたかもしれないと言う。
薄ら寒い雨の日だった。彼から電話があり、ちょっと来いと言うので会議室に行った。女房が癌になったと言う。涙混じりに言う。乳癌だった。手術の結果は良好であり、十日も経たずに退院してきた。転移もないと言う。可哀想だ、温泉に行けなくなったとしきりに言う。
彼も女房も、風呂が好きだった。大浴場が好きだった。内風呂があっても、週に一度は、銭湯に行った。年取った工員や倶梨伽羅紋々の棟梁などから職人の世界の話を聞くのが好きだった。いなせな世界に憧れていた。女房は、葛飾の育ちで子どもの頃から銭湯に行くのが楽しみだった。風呂上りの冷たいコーヒー牛乳の味を今も忘れられないという。
女房は、高校時代、テニス部に所属していた。その時の仲間が箱根の小さな旅館の女将に収まっていた。年に数回夫婦で訪ねていた。夫婦の何よりの楽しみだった。「温泉と言うのは、大浴場で手足を思い切り伸ばした至福の時のために行くんだよな。女房だってそうだ」「温泉療養に行こうと誘っても、恥ずかしいから行かないと言うんだ」
彼の自宅の周辺では、テニスがブームであった。コミュニティ・アリーナという、テニススクールに通うおばさん連中が多かった。女房がテニスに誘われていたが、彼は許可しなかった。彼は、女房が一人で外出することを好まなかった。中年の女が集まり亭主の悪口や近所の噂話をすることを許せなかった。しかし、今回の健康のためにテニスをしたいという女房の申し入れに、彼は反対することはできなかった。気が弱くなっていた。女房がやりたいことをやらせたいと思った。
みるみるうちに顔色が良くなり、癌のことを話さなくなった。近所の噂話だとしてもお喋りになった女房を見て、彼は安心した。俺より先に逝くことはないだろうと思った。大丈夫だと思った。
彼が六十歳で定年になるとき、鉄道会社やお客さんからの申し入れもあり嘱託という形で残ることになった。
彼としては、女房や娘の病気のこともあったし、自分の体のこともあったから、もうのんびりしたいと思っていた。今日生きていても明日は分からないとも思っていたから、今日一日一日を、好きな旅行や行き付けの店周りなどをして女房と二人で生活を楽しみたいと思っていた。だから、会社からの誘いを断ろうと思った。しかし、彼は根っからの会社人間であった。働くのが好きだった。広告会社の仕事が好きだった。お客さんを裏切ることになるとも思った。会社からの誘いを受けることにした。仕事も楽になるし、休みも取り易い。毎日行く場所があるだけでもありがたいと思った。運動にもなる。二年間の契約であった。その時になれば年金ももらえる。常務の思いやりを思った。
本社には、嘱託制度がなかったので子会社に転籍した。五十人ばかりの小さな会社である。社員は、皆若い。元気が良い。その当時、本社は六本木にあったが、この子会社は銀座のど真ん中、銀座五丁目にある。彼が入社した頃は、本社がここにあった。入社して十年以上をここで過ごした。懐かしい場所であった。事務所は、五階と六階にあり喫茶室が一階にある。近くに来たからと用事もないのに寄ってくれるお客さんや本社の人間が多かった。ちょっと一杯の暗黙の了解が多くなった。
彼は、一木会に誘われた。月に一度、銀座のバーを貸し切り昼間からカラオケをやっている。そのバーは、会社からほんの二〜三分のところにある。古い社員は、誰でもが知っている店である。利用したことがある。先輩社員が二十人ほど集まる。彼は、参加することにした。いい年をして昼間からカラオケかよ〜と揶揄する人もいたけれど入会することにした。お世話になった先輩が多く参加していた。入会審査は結構厳しいらしい。幹事の好き嫌いが当然ある。元役員や元局長も入れないと言う。定年になる社員の中で誰を誘うかの議論があるらしい。僕は、入れるかな〜。
会員は、四十人ほどいるが、毎回の出席者は二十人そこそこだという。前橋や御殿場などからも来る。八十を過ぎた先輩も来る。定年になると社会との繋がりが全くなくなるといって寂しがり来る先輩が多い。一〜二曲しか歌わない人もいれば十曲以上歌う人もいる。マイクの取り合いになるという。地元でカラオケをやっている人も多い。彼は、カラオケが好きだった。歌が上手かった。情感を込めて歌う。この会では、五〜六曲は歌うらしい。寮歌や軍歌が好きだった。先輩の前で寮歌や軍歌を歌うのは失礼であると、艶歌を唄うことにしていると言う。彼は、若い社員とカラオケに行き新しい歌を仕入れていた。山本譲二や鳥羽一郎などの男ぽい歌を唄う。彼が娘を溺愛していることを皆が知っていた。「娘よ」を歌わせようとしたが決して唄うことはなかった。
彼は、銀座、僕は六本木と別々になったので会う機会が少なくなった。七月、梅雨払いをやろうということで会うことになった。待ち合わせは彩菜だ。久し振りに二人揃って彩菜に行くことになった。僕は、彼の顔を見ておや?と思った。いつもは、悪戯小僧のような顔をしているのに真剣な眼差しをしていた。
「俺は、人並み以上に一生懸命やってきた。でも、なぜか不運が付き纏う」と彼は、慨嘆した。僕は、何も言えなかった。彼は、言う。サラリーマンとしてどうであったろうか。仕事が好きでならない。確かに出世はしなかった。役職に付くこともなかった。社員からは認められ、慕われてきた。事実、周りからそう言われる。お客さんからも信頼された。そして今、二年間は収入が保障された。延長される可能性も高い。
彼は、女に対し馬鹿がつくほど正直だった。真面目だった。銀座のホステスや女性社員から誘われることも多かった。女が好きだった。もてた。しかし一穴主義だった。女房一人でよいと言う。家庭を大事にしていた。女房が、娘が、病気になったとはいえ良い家庭に恵まれている。こんなに幸せなことはないじゃないかと言う。
友人と思っていた奴の保証人になり借金を背負った。男の甲斐性と一戸建ての家を借金して買った。俺も苦労したが女房も苦労した。なんとか返し終えた。いろいろとあった。今、こうして家族と豊かに暮らせている。それで十分じゃないかと思うと言う。さあ〜これからだと思ったとも言う。ところがC型肝炎になった。重いという。医者に宣告されたという。
女房が、娘が、小豆島で一人暮らしている母親が心配だと言う。「死ぬ覚悟はできている。でも、今日よりも明日までは生きてやる。あさっては分からないけれど、少なくとも明日までは生きてやると言い聞かせるんだ」と言う。「今、生きている以上は男の平均寿命まで生きないと損だ」と言う。僕は、これだけ気力があれば大丈夫だと思った。
僕は、毎年、浅草に住む友人から隅田川花火大会に誘われる。桟敷を用意するから来いという。友人は、先祖代代の浅草ッ子である。新門に列なる男で、先々代からの不動産屋を継いでいる。四人までは、席を確保できるという。今年は、彼を誘った。奥さんを連れてやって来た。いやいやながら付いて来たようだった。とはいえ二人とも浴衣を着ていた。よく似合っていた。いなせな男とそのお上さんという風情だった。桜橋の側で、目の前に仕掛花火の筏があった。対岸が日本堤であり、長屋の花見と違って煮物や焼物の重箱が幾重にも置いてあった。三十人ぐらいの集団だった。他の集団とは違っていた。粋だった。職人らしき男に芸者らしき女性が混じる。若造から棟梁とか組頭といった男もいた。木遣りや端唄を謡う。
彼は、八十歳は超えているだろうと思える威厳のある男の隣に座らさせられた。奥さんは一歩下がって座った。S社のビールを抱えて来てはいたが、流石にそれを飲むことはできなかった。始めから日本酒であった。コップ酒だった。隣の男は浅草を代表する鳶の頭だった。彼を歓迎していてくれた。意気投合しているように見えた。よく話をしている。そこだけにスポット・ライトが当たっているように感じられた。頭は、二時間もいただろうか、仕切りがあると言って出て行った。全員が立ち上がり見送った。
彼は、興奮していた。男らしい男に会った、憧れるという。還暦を迎えたという大工の棟梁や鳶など十人ほどで吉原に行った。皆、職人だった。年をとっても、頭とは話ができない、貴方が羨ましいという。彼は、皆から一目置かれた。彼のような旦那に連れそう女房は、神様だということになってしまった。言葉は荒いが気のいい人ばかりであったから、奥さんも気を許していた。よく喋っていた。楽しそうだった。多いに笑った。それを見て、彼も僕もうれしくなった。飲んだ。三社祭の時は忙しくて相手にできないが、四月の花見に屋形船を出すから来いということになり、再会を約した。
子会社では、自宅に割合と近い亀戸のショピングセンターの担当になった。JRと東武鉄道が共同経営するショピングセンターだった。春のハワイ招待セールをやっていた。三十組ペアで招待を謳っていた。ガラポンによる抽選であった。セールが終わり、当選者名簿が彼の手元に回ってきた。下の娘の名前があった。なんと恥ずかしいことをしてくれたんだと思った。そのことをなぜ俺に言わないのか、と腹立たしく思った。お客に謝らねばと思った。お客の役員に辞退を申し出た。「正々堂々としたものだ。いいじゃないか。担当としてお前も行って来い。奥さんも割り込ませてやる」ということになってしまった。社長も「ご家族で是非行ってください」と言う。彼は、引くに引かれなくなってしまった。
最初で最後の家族揃っての外国旅行になると思った。四泊五日の旅行だ。好意を受けることにした。上の娘が心配だった。首に縄をつけても連れて行こうと思った。行くというので安心した。家族の中で一番うきうきしていたのは彼だった。海外旅行経験者は、彼しかいなかった。鉄道会社の招待で香港やシンガポールなどへの海外旅行を経験していた。俺が確りしないといけないと思った。
彼の旅行鞄が一番大きかった。何しろ着替えが多い。アロハが四枚、麻のスーツが二セット、真っ白なディナージャケットまで入っている。ショートパンツ、ベージュのメッシュの靴と、白い短靴、帽子。それに加えて梅干、のり、納豆、醤油、漬物、昆布茶漬けまで持っていくという。
昼間は、添乗業務を全うした。夜は自分の時間として許してもらい、家族と行動を共にしたという。下の娘の主導になったと言う。しかし、彼のことだから家族を引っ張り廻したことだろう。ホテルは、ロイヤルハワイアンズで、リッチな気分を多いに楽しんだという。回りは、外人ばかりであり、ハワイアンが聞こえていた。女房が若返えったように見えた。椰子の木の下で、娘とはいえ若い女を前に飲むカクテルはすこぶる美味かった。S社のことをすっかり忘れてしまったという。娘達が大きくなって初めての家族旅行だった。家族って良い。女房孝行もできた。娘も元気になってきた。これが幸せというものかと思ったと言う。
六本木本社に珍しく彼が現れた。真夏の暑い日だった。真っ白な麻のスーツに真っ白なワイシャツ、ピンクのネクタイ、白いメッシュの靴。真っ白なストローハットには真紅色のリボンが着いていた。交通局の社員は、初め彼だと気が付かなかった。社員当時は、ミッドナイトブルーのスーツを着ることが多かった。初めて見る姿だった。常務の席にツツツと進み横の椅子に座り、帽子を取った時に彼だと分かった。ほとんどの社員が立ち上がり挨拶した。声を掛けた。ある社員は、「お帰りなさい」と言った。
「借金を払いに行く」と言う。銀座の老舗クラブ「蔵」に一緒に行くことになった。彼は、入社以来、蔵に出入りしていたから、四十年近くの付き合いだった。今日は五千円で頼むと言えばそれで済むといった付き合いの店だった。マスターとママ、それにいつも四〜五人の若い子がいる。マスターは、ベストテンに入ったヒット曲を持つ元艶歌歌手である。そのことを自慢するようなことはなかった。下手な歌を唄ってもニコニコして聞いてくれる。唄い方を聞けば、そっと教えてくれる。水商売の男というより、一流ホテルのフロアー長といった印象の男だ。彼の作るブラディーマリーは、絶品と言われる。
お盆入りの日であり時間も早かった。お客は、一人もいない。頭の天辺から足のつま先まで真っ白な彼の出で立ちは、舞台に立つプロ歌手のように見えた。彼は、軍歌や寮歌を唄った。「加藤隼戦闘隊」や「同期の桜」を唄った。僕は、菊池章子の「岸壁の母」や、大津美子の「ここに幸あり」を唄うことになった。珍しくマスターが唄ってくれた。うっすらと記憶に残る曲だった。故郷の母親を想う歌詞だった。僕は、マスターと策略を練った。今日は、芦屋雁之助の「娘よ」を歌わせよう。
僕は、川島英五の「時代遅れ」を唄った。彼が好きな歌だった。彼が僕にいつも唄えとリクエストする曲だった。僕とマスターは、孫の話をした。理屈なしに可愛いと話をした。彼が珍しく話しに載ってきた。誰か良い人がいないかと言う。カラオケに「娘よ」を入れた。彼は、唄った。眼にうっすらと涙を溜めていた。矢継ぎ早に、村田英雄の「夫婦春秋」を入れた。唄った。泣いた。怒らなかった。嬉しそうだった。とことん飲んだ。いつもと違ってお客が少なかった。十一時には店を閉めてしまった。彼とマスターと三人になった。娘のこと、女房のこと、幸せとは何かという哲学的な話にもなった。「女房がいて、子供がいて、窓から温かな明かりが洩れている。玄関を開けると直ぐにお帰りなさいという声と一緒に女房が走り出てくる。これこそが幸せだ」と虎さんのようなことを繰り返し言う。マスターが最後まで付き合ってくれた。二時だった。ドアについた小さな窓から一筋の灯りが洩れていた。朝焼けのように見えた。
彼が亡くなった。あの日、深夜、機嫌よく帰ってきたという。お前も飲めということで夫婦二人、コップで一杯づつビールを飲んで寝た。昼になっても起きてこなかった。そのまま帰らぬ人となった。娘のことを盛んに話し、お前に感謝していると言ったという。六十四歳。 完
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