まえがき◆四国へ
題名からして容易にお分かりだと思うが、この雑文は、四国八十八か所を廻ったお遍路の記録である。志を同じくした相棒が居たわけでない。独りてくてく時にはとぼとぼと歩き続けた旅枕である。
では、なぜ同行二人なのか。お遍路さんのことに多少でも興味のある方はお分かりだと思うが、同行二人は、「どうぎょうににん」と読み、私の相棒は弘法大師さまなのである。弘法大師を相棒と呼ぶのは真に不謹慎極まりないが、弘法大師とともに廻り、自分の何たるかを知り、生きていることの大切さを悟り、生かされている自分がこの先、何をしなければならないかを発見する旅の相棒が弘法大師さまなのである。だから、お遍路さんが持っている杖や菅笠、ずた袋や白衣にも同行二人と書かれている。
なれど、初っ端から書くのは憚かれるが、信仰心の無い私の心には、最後まで弘法大師さまの姿が見えず、三割引のお遍路で終わってしまったのだ。
払い退けても払いのけても、次々と雑念が過ぎり、挙句の果ては、歩くのが苦しくなり、辛い遍路道に差し掛かると、思考力も疲労困憊気味で、尚更、冷たい雨にでも降られると、「俺は何でこんな事をしているんだろう」と考え込んでしまう。その時は、もう止めた、もう止めた、もう四国になんか来ないぞ、と思うけれど、東京に帰って暫らくすると、そんな苦しみを忘れて、次のお遍路の計画を練っている。同じことの繰り返しで、結局は一年八ヶ月をかけて、行ったり来たりの、三割引お遍路は完結したのである。
お遍路の旅を思い立ったのは、独り身となって無聊を囲っていたときに友人に進められて、坂東三十三観音霊場を廻ったのがきっかけである。その後、西国三十三観音霊場、秩父三十四観音霊場を廻り百観音の巡礼を終え、歩くことの楽しみを覚え躊躇することなく選んだのが、お遍路の旅である。
八十八か所を廻る道は遠い。第一番札所から第八十八番札所までは1200キロの道のりであり、時間が必要である。気ままな勤めだと言うものの、一応、会社顧問という立場にある。短い休暇を積み重ねていけば、何とかなるだろうと考えたが、日時の制約から1200キロを歩き通すことは出来なかった。次の札所まで数十キロもある行程は、バス、電車を利用して移動した結果歩いた距離は全体の70パーセントで、これが本当の「三割引のお遍路」の所以である。
四国霊場の寺々には弘法大師の開創縁起が伝わっている。それが仏像の彫刻であったり、修行の足跡や、清水、温泉、井戸などの恵みをその地に与えたとする伝承である。この伝承は多岐に亘り、一つ一つ拾い上げるときりがない。弘法大師ほど日本各地にわたって伝説が点在している人物は少ない。謎の多い人物でもある。
四国霊場のもとを質せば平安時代の末頃から僧侶や修行僧の厳しい修行の場として開かれたものが、室町時代に入り一般庶民も参加するようになり、八十八か所の霊場が固定したものである。したがって初期の霊場は今のように八十八か所が存在していたわけではない。平安時代初期には後に修業の場となった札所寺院が四十三か所ほど存在したと言う記録も残っている。
八十八という数字は、八十八の煩悩に由来するとか、米の字を分解したことによるとか、あるいは男四十二、女三十三、子供十三の厄年を合わせたものだとするなど、諸説があるが、末広がりの八の字を重ねて、後の世に伝えた人物はとてつもないアイデアマンだったと思う。
遍路は古い時代には「辺路」と書かれていた様に、四国の周辺を囲み海に面して開かれた路である。歩く苦行によって滅罰されるという日本人の信仰心から時代を超えて定着したものであろう。さて、邪念、妄念、妬み、憎しみ、悲しみ、色欲、強欲、貪欲、妄想、猜疑、偏見、短慮、浅はか、虚飾、虚言、傲慢・・、煩悩の固まりのような我が身である。歩く苦行によって、幾ばくかでも滅罰されるのだろうか。
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