同行二人三割引きのお遍路④

四国へ


第31番竹林寺から第36番青龍寺
2003年10月27日~10月29日

第37番岩本寺から第43番明石寺
2003年11月11日~11月13日



嘉藤洋至


  第31番竹林寺から第36番青龍寺
   2003年10月27日~10月29日


 2003年10月、高知空港から一旦バスで高知市内に出て、播磨屋橋から第三十一番札所の竹林寺へ向かうことにした。
 市街地を歩き始めてすぐに地球33番地と書かれた案内板を見付け、興味を覚えたので左に折れ、閑静な住宅街に入って行った。たまにはお遍路の寄り道も良いだろう。播磨屋橋からは近いけれど目立つ場所ではない。ここは東経133度33分33秒、北緯33度33分33秒の地点なのだ。正確には高知市内を流れる江の口川の真ん中にあって、モニュメントが建てられている。表示板は川の南側に立てられていたが、注意して歩かなければ見過ごしてしまう。
 ある物好きな地理学者が調べたところによると、度、分、秒の数字が12個も並ぶ地点は、全世界の陸上では僅か九箇所しかなく、アフリカ四箇所、ロシア二箇所、スマトラ半島一箇所、オーストラリア一箇所、それに日本の高知なのだという。しかも日本以外は砂漠や大平原に位置して容易に近付くことの出来ない場所なのだ。だから地球33番地はユニークで貴重な地点である。

第三十一番札所 竹林寺(ちくりんじ)

簪を買った坊さんのお寺があった



 竹林寺のある五台山は市街地の外れにあって、海抜150メートルの小高い丘である。五台公園として高知市内では、高知城と共に整備された観光地となっていて、眼下に高知の市外を望み、それに陸地に深く食い込んだ浦戸湾が見える。一服の絵画を見ているような風景が展開する。

 いったん上り詰めて、やや下ったところに竹林寺の仁王門があった。石畳の参道から紅葉にはまだ早いが、カエデ越しに五重塔がみえる。重厚な仁王門と違って、本堂は入母屋作りの茅葺で、素朴な佇まいである。
 『土佐の高知の播磨屋橋で、坊さん簪買うを見た・・・』と、安政のころよりヨサコイ節で唄われ、近年ペギー葉山の『南国土佐をあとにして』で有名になった坊さんは、この竹林寺の脇坊に起居していた純信という坊さんである。純信は、近くに住む「おうま」という娘にカンザシを買って与え、それが評判となって、二人はいたたまれず関所を破って駆け落ちをしたものの、間もなく捉えられて追放されてしまったという。この逸話が唄にまでうたわれ、竹林寺は思わぬことで全国に知れ渡ったのでだが、弘法大師も、己が修行した五台山が、そんなことで世に知られたとあって、いまごろ苦笑しているかもしれない。
 竹林寺の本尊は文殊菩薩で、俗に「三人寄れば文殊の知恵」といわれるように、知恵の仏様である。邪念を追い払う知恵もなく、ただひたすら肉体に苦痛を与えて歩き回っている我が身には、一心に読経をするしか他に道はない。完全に諳んじてしまった般若心経を声高に唱え、我が身を叱咤している。
 土佐が生んだ偉人は多い。思い出すままに書き連ねてみる。野中兼山、坂本竜馬、板垣退助、大町桂月、中江兆民、浜口幸雄、寺田虎彦等々、枚挙にいとまない。高知城下で学び、竹林寺に詣でて、文殊菩薩の知恵を授かったのかも知れない。
 今では、純信のいた脇坊の妙高寺跡は高知が生んだ偉大な植物学者「牧野富太郎」の記念館として、植物園になっている。
 牧野富太郎は「日本の植物学の父」といわれ、多数の新種を発見、命名した、近代植物分類学の権威である。小学校中退でありながら、東京帝国大学の助手となり、理学博士の学位を得ている。小学生の頃読んだ「偉人の伝記」では、没落した酒屋に生まれて辛苦を重ねた末、偉大な植物学者として評価されるに至ったのだと記されている。
 確かにそうだろう。間違ってはいないが、牧野富太郎の型破りで、破天荒な生き方は、周囲の人々との間に多くの軋轢を生む結果となった。協力者、理解者が得られないまま、厚遇されず、実績を重ねていたにも関わらず、博士号を授与されたのは65歳になってからである。31歳のときに実家が没落し、実家からの経済的な援助は断たれ、やむなく妻が始めた料亭の収益も研究につぎ込んだという。
 牧野植物園は近年整備されたらしく広々としている。またまた寄り道をして入園はしてみたものの、今日の長い行程を考えると、のんびりと園内を散策しているわけにはいかない。

第三十二番札所 禅師峰寺(ぜんじぶじ)

札所は黒潮ラインで串刺しにされていた
 


 五台山を下り、下田川沿いを歩き始めた。1時間も歩いたろうか、標識を頼りに右折して暫らく歩くと、刈り入れのおわった田園風景が途切れ、緑の茂る集落に入った。
 武市半平太の旧宅と墓地の案内板があった。土佐藩の郷士で坂本竜馬とは遠縁に当るといわれ、幕末に土佐勤皇党を結成している。戯曲「月形半平太」のモデルと言った方が分りやすい。武市半平太の名誉のために言うが、月形半平太は女性を魅了する色男として描かれているが、武市半平太は、1歳年下の妻、富子とは睦まじい暮らしぶりであったと伝えられている。
 路線バスが追い越していった。方向幕には「十市パークタウン」の文字が見える。傍らの遍路道を歩いている私の目には、高知市内から遠く外れている田園の風景しか見えてこないのだが、この先にニュータウンがあるのか。
 旧道のトンネルを抜けると、緑が丘の地名とともに住宅街が現れた。新しく開発され、整備された街路が続き、見晴らしの良い高台からは石土池が見えた。一瞬、土佐湾の入り江なのかと見間違うような広さがある。ガイドブックで確認して池だと分った。暫らく石土池沿いの道を歩く。
 左手の小高い丘の上に禅師峰寺が見えてきたが、左に折れる道が無い。畑仕事からの帰宅途中と思われる婦人に道を尋ねることが出来たが、教えられた通りに歩くと、禅師峰寺からどんどん遠ざかるように思える。禅師峰寺は地元の人は峰寺と呼んでいるのだと、道を尋ねた婦人が教えてくれた。
 バイパスの上に架かった橋を渡った。黒潮ラインが禅師峰寺のある小高い丘の真下をトンネルで串刺しにしている。このバイパスが出来たおかげで、遍路道は遠回りをさせられたことになる。集落に入り道が突き当たり石灯篭を眺めて左折した。潮の香りを乗せた心地よい風が吹いてきた。海岸に近い。集落の佇まいは漁師町の様でもあり、禅師峰寺の門前町の様でもある。でも歩いている人もいなければ店先には人影も無い。
 麓から頂上にある禅師峰寺までは僅かな距離なのに、坂道は傾斜が急で、おまけにごろごろとした石で出来ており、足元が悪く、簡単には登れない。境内にも奇怪な容をした岩石が多くあって、樹木に覆われて幽遠な趣がある。だけどここは近代的に整備された黒潮ラインの真上なのだ。
 弘法大師は、この山に登り土佐沖を航行する船の安全を祈願して、自ら彫った十一面観音を安置したという。それ以来「船魂の観音」とよばれ、歴代の藩主は浦戸湾を出帆するときには、必ず禅師峰寺に詣でて、海上の安全を祈願したという。いまでも、周辺の漁師達の信仰が厚いと聞いた。納経をすませて山を下りると、遠くに桂浜が見える。砂浜は弓形に長く延びていた。これから、桂浜の向こうまで歩くのだ。

第三十三番札所 雪蹊寺(せっけいじ)

独りになりたいから歩いている



何故、お遍路に出てきたのかと問われても、そこまでに至った心の葛藤は上手く説明は出来ない。独りになりたくなったから歩いている。仲間の中にいれば、職場で仕事をするにも、行き付けの飲み屋で酒を飲むにも、常に他人の目がある。立ったり座ったり歩いたり走ったり、いつも人の目があり、関わりあっていかなければならない。たまには他人の目を気にしないで独立した自由な世界に埋没したいのだ。なれど、お遍路さんは、歩いているうちに独りでは生きていけないということに気付くという。たくさんの人に支えられて歩いているのだから。
 歩き始めて、既に4時間は経っている。早朝に羽田を発ったとは言え、とっくに正午は過ぎている。お腹がすいてきた。途中までは来た道を後戻りするのだが、道筋には食堂もなければ、食料を調達する商店も無い。朝出るときにお結びでも作ってくれば良かったのだが、いまさら悔やんでもどうにもならない。
 重たいものは身に着けない。旅に出る時には、できる限り持ち物は減らし、できるだけ身軽にする。これが私の主義だ。弁当を持参するなどという発想は私には無い。東京を発つときには、古くて捨てても良い下着を身に着けて出かけてくる。その日歩いて汗で汚れた下着は捨てて、百円ショップを見つけると、そこで下着を買って次の日身に着ける。身体に着けるものは下着に至るまで減らす工夫をする。重たいカメラなんぞは持たない。インスタントカメラで十分記録が出来る。地図は道路地図を必要な箇所だけ破いて持ってくる。ガイドブックは薄めの新書版を一冊用意し、ぼろぼろになるまで使う。なれど、我が身にとっては一番に重たい、邪念、妄念、雑念は一向に減らない。
 気が付くと歩きながら、般若心経をとなえていることがある。心に重石が圧し掛かったときに自然に唱え始めているようだ。
 見晴らしが良くて、田圃が広がる道沿いに雑貨屋があった。アンパンと牛乳を求めたのだが、店番の老婆は愛想が無い。一言も喋らずに品物を渡すと、さっさと店の奥に引っ込んでしまった。親切に声を掛けてくれる遍路道の人とも思えない。私が何か不都合なことでも仕出かしたのかと、気になる。
 アンパンと牛乳を歩きながら食べたのだが、空きっ腹に詰め込んだせいか、急にお腹の具合が悪くなってきた。こんな田園地帯に公衆トイレなんてあるわけがない。人影は無い、草薮にもぐりこんで用を足す。止むを得ぬ。
 観光バスで移動するお遍路ツアーの人々や、車で移動するお遍路は、浦戸湾に架かる黒潮ラインの浦戸大橋を渡り雪蹊寺に向かうのだが、歩き遍路はフェリーを使って浦戸湾を渡る。フェリーの乗り場に着いたのは運悪く出港した後だった。次の船便まで1時間近くも待つことになった。人、自転車、乗用車、バイクなどが乗るのだが、大型車両は乗ることが出来ない。対岸までは僅か5分の距離で、小規模のフェリーであり、生活のための渡し舟といったあんばいだ。渡し舟は古くからあったようで、これを利用するのが本来の遍路道なのだ。
 フェリー乗り場には待合室なんぞというものが無い。ベンチも無い。商店も無ければ、腰をおろしてお茶を飲むようなお店も無い。浦戸大橋が完成するまでは往来する人々の重要な足であり、生活の道であって賑わっていたようだが、そんな面影は全く無い。
 浦戸湾は瓢箪型をしていて、高知市街の中央近くまで大きく入り組んでいる。その瓢箪の口に蓋をするように、巨大な橋が架かっている。全長1500百メートルに及ぶ浦戸大橋だ。瓢箪の口に近いくびれた部分を紐でくくるようにしてフェリーが繋いでいる。
 金剛杖に鈴をつけた若者が、フェリーに乗ってきた。禅師峰寺を下るときにすれ違った若者だ。「若いのに感心だね。どこから来たの?」と声を掛けたのだが、なぜか、ニッといじけた様な表情を見せたっきり、言葉を発しなかった。
 フェリーから降りて再び歩き始めた。若者の鈴の音がだんだんと遠ざかり、間もなく聞こえなくなった。この若者も独りになりたいから歩いているのだろう。私の挨拶なんて邪魔なのだ。
 町中にある雪蹊寺には山門が無い。時間が遅くなったせいなのか人影もまばらで、静かな佇まいの中で般若心経を唱える。今日の歩行距離はおおよそ20キロメートル。バスで高知市内に戻り、ビジネスホテルに宿泊した。

第三十四番札所 種間寺(たねまじ)

なぜ柄杓の底が抜けているのか分らない


朝早くホテルを発って、きのう打ち終えた雪蹊寺までバスで向かった。広々とした吾南平野の田園地帯を歩く。米どころであり野菜の供給基地でもある。整備された田圃の用水に沿って真っ直ぐで、平坦な遍路道がどこまでも続いている。田圃一面にコスモスが栽培されていた。広大な面積に、赤、白、ピンクが入り混じった光景は壮観である。
 種間寺は田圃の中にあり、なんとなく田畑から収穫する五穀の恵みを感じさせる名前である。本尊は薬師如来で安産の薬師として信仰されていて、妊婦が柄杓を持参して祈祷する。寺ではその柄杓の底を抜き、安産の祈祷を行い妊婦に返えす。妊婦はそれを床の間に祀り、安産すれば柄杓を寺へ納め、ご本尊に感謝するという。
 この寺には、たしかに底のない柄杓がたくさん奉納されていた。なぜ柄杓の底を抜くのか分らない。通りがよくなるからと言うことらしいが、底を抜いたら通りがよくなりすぎて、流産してしまうではないのか。それと「種」の字が安産祈願に結びついたのは、なんとなく分るような気がする。
 再び、用水路に沿って整備された遍路道を歩き始める。単調なリズムで歩くと眠くなる。歩いていて眠気を感じたのは初めての経験だが、それだけ歩くことに慣れてきたのかもしれない。はたまた雑念すら湧き上ってこないくらいに疲れてしまったのか。般若心経を唱え、眠気を追い払う。
 国道56号線に出て西に向かうと、仁淀川大橋にさしかかる。全長633メートルと書いてあった。橋を渡ると土佐市に入る。土佐市役所の前にある食堂で昼食をとり終え、折角だから土地の情報誌を探そうと思い立ち、市役所に入って行った。興味ある資料も無いので、そのまま立ち去ろうとしたら、女子事務員が怪訝な顔をして見送っていた。お遍路が市役所に入ってくることなんか無いのかもしれない。
 これから清滝寺に登るのだが、同じ道を帰ってくることになり往復で5キロ以上はある。第三十六番札所の青龍寺までは、ここから16キロもあり今日中に辿り着くには厳しい行程だと考えて、市役所に近いビジネスホテルを予約し、荷物を預けて清滝寺に向かった。

第三十五番札所 清滝寺(きよたきじ)

  度一切苦厄、なれど拘りから開放されない


 急峻な遍路道を800メートルほども登ったところに清滝寺がある。荷物を預け、身軽な出で立ちで登ってきて良かったと思う。境内には濃い緑を背景に薬師如来の巨大な像が立っていて、像の内部は「戒壇めぐり」が出来るようになっていた。手探りで暗闇を進み、まぶしい光とともに緑の空間に出てくる。
 戒壇めぐりは、これまでの自分自身を省みて、積み重ねた罪業を取り除くための精神修養の場所になぞらえられる。四国をめぐる八十八箇所もまた、自らが再生するための巨大な空間であり、今の己は暗闇の中を歩いているのである。未だ全行程の半分にも満たない。果たして、八十八個所を歩き終えたときには、この暗闇から抜け出すことが出来るのだろうか。まぶしい光の世界に辿り着けるのか。
 戒壇とは仏教用語で、戒律を受けるための場所を指し、戒律とは仏教において守らなければならない道徳規範や規則のことをいう。本来、出家修行者には夥しいほどの戒律があるのだが、日本の鎌倉時代に定着して行った仏教では、戒律が大幅に変更され、緩和されている。現在でも、東南アジアの南方仏教では、戒律が厳しく守られている。だから日本の仏教は異端視されている。
 般若心経の初めの方に、「度一切苦厄(どいっさいくやく)」という文言がある。直訳すれば、「一切の苦厄を越えなさい」ということだろうが、私は、常に自分の心の動きや、過去の経緯にこだわって生きている。私には、幼少年時代、青春彷徨時代の疎ましい記憶がある。この記憶への拘りが、苦しみの元凶なのかもしれないが、そこからは簡単に開放されるものではない。
 戒壇めぐりの暗闇から、まぶしい光の空間へ出てきた。さぁ、拘りを捨てて、軽くなろう、軽くなろう。歩け、歩け。
 ビジネスホテルに早めに入り、一階にある居酒屋で疲れた身体を労わりながら寛ぐことにした。生ビールを一気に飲んだら、くらくらっと目眩がした。これだこれだ、これがあるから歩くのが止められない。

第三十六番札所 青龍寺(しょうりゅうじ)

  歩いても歩いても・・・、滅入ってしまう


 早朝、ホテルを発つ。これから16キロの道のりを歩いたあと、青龍寺を打ち終え、バスを乗り継いで高知空港に向かう予定である。
 新しく整備された県道39号線を歩いていると、「塚地峠入り口」と書かれた標識があり、表示にしたがって峠に入る。青龍寺に向かう遍路道だ。遍路道といっても「四国のみち」として整備されていて、近郷の人達のハイキングコースになっている。
 峠の入り口から30分も登ったら、塚地峠に着いた。展望はきかない。ハイキングを楽しむ人は、さらに大峠展望所まで登っていく。一瞬、展望台まで行って見たいという誘惑に駆られたが、時間と体力の事を考えると、ここは諦めざるを得ない。標識に従って目的地の「宇佐」に向かう。峠を少し下った所で展望が開け、美しく広がった宇佐湾の風景が目に飛び込んできた。
 宇佐大橋を渡る手前の県道にバス停があり、帰りの時刻表を確認して、メモを取ろうとしたのだが、潮風の影響なのか、古びて錆び付いた表示板からは、肝心な箇所の数字が読み取れない。高知行きは一時間に一本はありそうだから、心配は無いのだけれど。
 宇佐大橋は浦ノ湾の入り口に架かっている。宇佐の漁港と横波半島を結んでいて、全長645メートルと表示されていた。観光名所なのだろうが、誰も歩いていなかった。乗用車が1台、追い越していった。かなりの高度があるので橋の真ん中辺りに来ると強い風に煽られる。
 青龍寺は横波半島の谷間にあった。本堂は170段もの階段を登らなければならない。モンゴル出身の大相撲、横綱朝青龍が留学していた高校はこの近くにあり、この階段を駆け上って身体を鍛えたという。四股名はこの青龍寺からとって名付けたものだ。
 来た道を戻り、宇佐大橋の際にあるバス停に向かった。朝から5時間も歩き続けている。疲れた足をかばいながら歩いている。海沿いの横波スカイラインを歩いているのに、眼前に広がる風景を堪能する余裕が無い。邪念も雑念も湧いてこない。思考がとまっている。何でこんな苦しい事をしているんだろうと思い滅入ってしまう。歩いても歩いても目的地に辿り着かない。こんな時、自然に涙が出てくる。もう、お遍路なんか止めてしまおうかと思う。
 気持ちの有り様が、日々変化している。足の痛みも手伝ってか、昨日と違って今日はなんだか沈んでいる。躁と鬱の繰り返しだ。宇佐行きのバスが通り過ぎて行った。あのバスが、この先から折り返して来るのだ。  
 高知駅でバスを乗り継ぎ、高知空港に向かう。キャンセル待ちで座席を確保して帰途に着く。


   第371番岩本寺から第43番明石寺
   2003年11月11日~11月13日


修行の道場、土佐は次の札所までの距離が長い。発心の道場、阿波最後の札所第三十三番札所薬王寺から室戸岬の第二十四番札所最御崎寺までは85キロもある。前回打ち終えた第三十六番札所青龍寺から、第二十七番札所岩本寺までが60キロ。さらに岩本寺から足摺岬の第三十八番札所金剛福寺までは95キロもあり、札所から札所の距離では、八十八箇所中、最も長い。また、金剛福寺から第三十九番延光寺までは63キロある。

 私にとっては気ままな勤めであるのだが、一応、会社顧問という立場で週に三日か四日は出勤し、短い休暇を積み重ねては、お遍路の旅に出ている。おのずと日時の制約があり、長距離の行程は、バス、電車を利用して移動することになる。つまり私の言う、三割引のお遍路で、有効区間不連続のキセル打ちなのだ。
 2003年11月、この日はJR高知駅から土讃線に乗り、窪川駅で下車して岩本寺に向かう。青龍寺から岩本寺、そして金剛福寺、今日の宿泊予定地中村市の間は全て乗り物を利用する予定なので、有効区間不連続の遍路旅となる。


第三十七番札所 岩本寺(いわもとじ)

今日もボトルの招き猫が呼んでいる


 窪川は土讃線の終点であり、そこから先は第三セクターの「とさくろしお鉄道」になる。窪川の町は海抜200メートルを超える窪川台地にある。何処を歩いても感じるのだが、地方都市で県庁所在地から離れた町は寂れて活気が感じられない。窪川の町も例外ではなかった。山あいにくすんで、色彩を帯びる雰囲気が無い。
 岩本寺の本堂にある天井絵には、全国から公募された500点もの作品がはめ込まれていた。花や仏像の絵が多いのは頷けるが、猫、虎、蝶、はては西洋の女性を思わせる絵まであって雑多だ。絵を描いた人には夫々に想いがあって送ってきたのであろう。人それぞれの雑多な想いを一箇所にあつめ、包み込んでしまうお寺という精神供養の場があることを改めて教えられた。
 おみくじを引いた。招き猫がついたお御籤である。岩本寺と招き猫の関わりが分らない。昔から、黒い招き猫は「福猫」として魔よけや厄除けの意味を持つといわれているが、岩本寺の招き猫は黒猫ではない。金運を招き、客を招くといわれる猫が、お寺にあることに違和感を覚えた。 
 そう言えば、招き猫の発祥の地は東京都世田谷区の豪徳寺であるという説がある。江戸時代の彦根藩主、井伊直孝が鷹狩りの帰りに豪徳寺の門前にある木の下で雨宿りをしていたところ、一匹の三毛猫が手招きをしたので、直孝がその猫に近付いたところ、いま雨宿りをしていた大木に雷が落ち、難を避けることが出来た。そのことに感謝した直孝が豪徳寺に多くの寄進をしたと言い、後世になって境内に招猫堂がつくられ、招き猫の発祥の寺と言われる様になった。
 豪徳寺は井伊家の菩提寺であり、何らかの縁があったことは確かであろう。ちなみに豪徳寺で販売されている招き猫は全部右手を挙げて、小判を持っていない。これは井伊家の菩提寺であり、武士の節度を表している。招き猫は機会を与えてくれるが、富という結果は与えてくれるわけではない。機会を生かせるのは本人の努力次第だという教えなのだ。なるほど、お寺に相応しい招き猫だ。豪徳寺の招き猫は、そこらそんじょの招き猫とは違って尊厳があるのだ。
 岩本寺で求めた招き猫は、いまでも行きつけの小料理屋で、私のボトルにぶら下がっている。そして酒代がお店に入る仕組みになっている。


第三十八番札所 金剛福寺(こんごうふくじ)

歩いていると辛いことばかりではない


 金剛福寺は足摺岬の突端にある。岩本寺のある窪川駅から、とさくろしお鉄道に乗り、35分もすると中村駅に着く。中村市は、日本一の清流といわれる四万十川の下流に位置している。ここから足摺岬の突端までは、さらに路線バスで2時間の距離がある。
 足摺岬は四国の最南端にあり、太平洋に突き出していて展望がきき、地理的位置からして日の出、日の入りが一望できて、温暖で明るい土地である。なれど、自殺の名所として暗いイメージを持つ人も多い。田宮虎彦の小説、「足摺岬」が影響している。
 自殺しようとして足摺岬まで来た主人公の「私」が、長雨で足留めされ、宿の女主人や宿泊客に助けられ、自殺を思い止まる物語である。描かれている「私」の境遇は、じつに不幸で惨めである。己の人生を変えることも出来ない、ひ弱な人間として描かれている。
 足摺岬は、南方にある浄土に渡る船の出発地として、那智の勝浦と共に、補陀落信仰の舞台でもある。補陀落とは、観音菩薩の住まいがある場所とされ、極楽浄土である。伝説によると、インドのはるか南方の海上にあり、八角形をした島であると伝えられている。
 中世には、観音信仰に基づき、熊野灘や足摺岬から小船に乗って補陀落を目指す「補陀落渡海」が行われたが、信仰の世界であって、死期を覚った多くの僧侶達が海原に消えて行ったのであろう。僧は食料や飲料水と共に船底に入るのだが、その後、蓋をし、釘を打ってふさいでしまうという、残酷な死出の行為である。
 私が知る限りでも、補陀落山を山号にしたお寺が数箇所あり、いずれも一度は訪れている。千葉県館山市にある坂東三十三観音霊場の三十三番那古寺、西国三十三観音霊場で京都にある十七番六波羅蜜寺、同様に大阪府茨木市にある二十二番總持寺、四国八十八個所で、これから遍路することになる香川県さぬき市の八十六番志渡寺、八十七番長尾寺である。
 納経を済ませ、御朱印を頂いたが、中村駅に向かうバスの時刻までには1時間以上もある。整備された公園に入り、足摺岬の突端に向かう。海抜80メートルの断崖絶壁の上からは、360度に広がるパノラマの風景を見渡すことができる。室戸岬と違って波打ち際まで降りるのは不可能だ。高所恐怖症の私には、近付きたくない場所だ。なるほど、自殺の名所だなと、妙なところで感心している。
 既に時計の針は四時半を回っている。駐車場に止まっていた観光バスは次々に発ち、乗用車の数も減ってきた。なんだか心細くなってきて、バスの時刻表を何度も確認している。
 バスは来た道とは違って足摺岬の西側を海岸線に沿って走る。山が海に迫り、断崖の上の狭い旧道を走る。ところどころに集落があり、その都度、律儀にバスの案内が流れるが、降りる人も、乗ってくる人もいない。乗客は私一人だ。
 秋の日は夕闇が迫るのは早い。西の海に沈む夕日が美しい。突然バスの運転手が話しかけてきた。此の先に夕日を眺めるのに良い場所があるから、そこで停めてあげるという。観光バスではない。単なる路線バスなのだ。乗客が私一人だとは言え、運転手としての乗務規範を逸脱しているのではないかと心配になる。これがお接待の優しさなのだろうかと、快く受け入れて、暫らく荘重な夕日を堪能する。
 バスは細い道を下って、漁師町に入って行った。ジョン万次郎が15歳まで育った中の浜だ。日はすっかり落ちていた。ジョン万次郎は、幕末の世、漁に出て漂流し、アメリカの捕鯨船に救助され、やがて船長にその才能を認められて近代的な多くの技術を学び、日本に帰国したのだ。民主主義のアメリカで学んだ多くの知識が、坂本竜馬や板垣退助、中江兆民などに影響を与えたであろうことは否めない。ジョン万次郎という呼称は、井伏鱒二が『ジョン万次郎漂流記』で用いたために広まったといわれ、本名は中濱万次郎である。
 終点の中村駅に着くと、バスの運転手がまた声を掛けてきた。今日の泊る宿はどこかと聞く。ホテルの名前を告げると、そこだったら、これから帰る車庫に近いから、このまま降りずに乗って行けという。有り難い言葉に従って、またまたお接待を受けることにした。愛想のいい顔をしているわけでもないし、特別に話し好きでも無さそうだ。無骨な感じすら受けたバスの運転手なのだが、そこに人の心の温かさや、優しさを見ることが出来た。歩いていると、辛いだけではない。その分、いいこともある。


第三十九番札所 延光寺(えんこうじ)

追い越したバスを恨めしそうに眺めてる


 ホテルを早朝に発った。延光寺まではおおよそ16キロはある。四万十川の清流で獲れた「鮎のうるか」の看板があった。山陰の清流、高津川の畔で育った私には、懐かしい味を思い出させる珍味である。早朝だし、お店は閉まっていて、買い求めることは出来ない。
 きのう一日は、列車、バスを乗り継いだキセル遍路だったので、秋の柔らかい日差しの下で、歩き遍路の苦しさを忘れ、のんびりした旅を楽しんだことになる。きょうは違う。国道56号線を宿毛に向かって歩き始めたが、朝の通勤時間帯に遭遇し、学生の自転車の群れに巻き込まれ、歩き辛い。それに歩く身には、朝早いとはいっても南国の日差しは強く、昨日と違って目に眩しく、肌に突き刺さるような強さを感じる。
 もう、歩くことには慣れてきたっていい筈なのだが、2時間も3時間も、足の機嫌を伺い、ただひたすらに歩き続けるのは辛い。独りになりたいから歩いているのだとはいえ孤独である。同行二人、弘法大師様が同行しているのだけど、雑念と邪念に邪魔されて、弘法大師様の姿は見えない。
 いつものことだけど、こんなときには般若心経を唱えながら歩いている。そばで聞いてる人も、また見ている人もいないのだけど、声高になって、はっと気付き、あたりを見回している。情けない仕種だと思う。
 延光寺で御朱印をもらった。中央に亀の形をした朱印が捺してある。これは、境内の池に棲んでいた赤亀が、竜宮から鐘を背負ってきたと言う伝承によるものだそうだ。そういえば山門を入ったところに、鐘を背負った亀の石像があった。
 来た道を引き返し、56号線に出た所で食堂を見つけ、少し早めの昼食をとった。次の札所、観自在寺までは30キロもある。今朝から、もうかなりの距離を歩いている。今日中に辿り着ける距離では無さそうだし、第一、私の足が言うことを聞いてくれそうもない。歩けるところまで歩いて、後はバスに乗ることに決めた。バス停に着く度に宿毛行きの時刻を確認する。次のバスまでに時間が有ると、再び歩き始める。
 ここは意地だ。ぐっと堪えて一便は見送ったものの、かなりへばっている。バスは頻繁に走っているわけでもないので、結局、1時間半以上も歩き続け、市街地を真近にした所で、またまた宿毛駅行きバスが追い越していった。こんな時、道路際に設置されている飲料水の自動販売機はありがたい。現代版の茶店であり、一息つける。
 延光寺を打ち終えて、修行の道場といわれる土佐16箇寺のお遍路は終わったのだ。なのに、だらしのないことにバスを頼りにしている。そして追い越して言ったバスを恨めしそうに眺めている。全く修行になっていない。足が痛み極度に重い。宿毛から出る宇和島行きの急行バスに乗り、次の札所観自在寺に向かった。


第四十番札所 観自在寺(かんじざいじ)

   菩提とは阿耨多羅三藐三菩提
 


 バスで松尾峠を越える。土佐の国から伊予の国に入ったのだ。ガイドブックにはお遍路道からの眺望が素晴らしい、と書かれているが、国道56号線は、そんな風景にはお構いなしで山間部を走っている。宇和海の複雑に入り組んだ海岸線を見ることが出来ないのは残念だけど、へばった身ではやむを得ぬ。
 バスを降りて観自在寺までは僅かな距離なのだが、バスで休めた足が更に重くなって、暫らくは歩けない。道端に座り込んで靴を脱ぎ、足を空気に晒し、靴下を履き替える。観自在寺は第一番札所、霊山寺から一番離れた場所にあり、遍路には「裏の関所」とも呼ばれている。修行の道場、土佐を歩き終えたのだから、弘法大師の咎めを受けることも無く、無事に通ることが出来るだろう。
 伊予、「菩提の道場」の入り口だ。菩提を広辞苑で引くと煩悩を断じ不生・不滅の真如の理を悟って得る結果、と書いてある。これが分ったようで分らない。究極の悟りとでも解釈すればよいのか。
 般若心経に、得阿耨多羅三藐三菩提(とくあのくたらさんみゃくさんぼだい)という文言がある。解説をみると、阿耨多羅―この上も無く、三藐―正しく等しい、三菩提―悟り、と説明してあった。この上ない正しく等しい悟り、ということになる。発心し、修行をし、いよいよ悟りを開くための道場に差し掛かったということなのだ。それにしても、未だに煩悩から脱却できない軟弱者のお遍路がここにいる。このお遍路には、この上ない正しく等しい悟りには、縁が無さそうだ。
 観自在寺のある御荘の町には、どこか古い歴史が感じられる。その地名からして、古代豪族の荘園があった場所なのかもしれない。
 次の札所、龍光寺は宇和島市の中心街から北に10キロあまりの所で、ここからは50キロメートル以上もある。宇和島市内に宿を予約し、バスで向かう。
 南伊予には平野が無い。山と海だけだ。バスは海岸に沿った山道を走る。山の傾斜は急で海際までせり出している。 バスの車窓には、宇和海の複雑に入り組んだ海岸線があり、その向こうには大小の島々が浮んでいる。岩手県の陸中海岸と共に、日本を代表するリアス式海岸なのだ。海ぎわから段々畑が山の頂上に向かってせり上がってくる。色づいたみかんが斜面を見事に染めている。春にはみかんの花が斜面を白一色に覆い隠すそうだ
 この日宿泊したホテルで、郷土料理「ふくめん」を食べた。千切りにしたこんにゃくの上に紅白のそぼろ、ねぎ、みじん切りにしたみかんの皮など、四色の素材が綺麗に敷き詰められていた。見た目の美しさとは裏腹に、実に不味かった。お腹がすいていたので何とか食べた。


第四十一番札所 龍光寺(りゅうこうじ)

稲荷と狐と油揚げの関係が分らない


 宇和島は伊達十万石の城下町である。観光旅行のつもりでお遍路に出て来たのではないのだが、宿泊したホテルが宇和島城に近かったので、城山に登ることにした。老木が生い茂り、蔦草が絡んでいて、城山のふるい歴史を思わせる。朝が早いので、誰も登って来る人はいない。天守閣の開館時間は九時からだし、間がある。市街地の向こうに続く宇和海は、島と入り江が重なり合って、複雑な海岸線を見せてくれる。絶景である。
 突然、背後に人の気配がして、天守閣の開館にはまだ早いけど、旅の方のようだし、準備は出来ているので、入館されたらどうですか、と声を掛けてきた。併設されている郷土館の職員の方だった。好意をありがたく頂戴し、20分ほどの時間をかけて天守閣に登り、武具を中心として展示された郷土館の見学を終えた。
 市街地を抜けて田園地帯に出た。三間(みま)平野が広がっている。何も遮るものが無く、田圃の中の真っ直ぐな道を進んでいると、歩く速度がひどく遅く感じられる。遠くに龍光寺のある丘は見えるのだが、なかなか近付かない。
 龍光寺は、古くには、この土地に住む人々から稲荷寺として信仰されていた。明治の神仏分離令により、それまでの本堂が稲荷神社となり、稲荷寺の本尊であった十一面観音を祀る寺として龍光寺が誕生した。その名残として、参道入口には今でも鳥居が立っていて、正面階段を登ったところに稲荷神社があり、龍光寺の本堂は参道途中の左脇にある。道を尋ねる時には、三間のお稲荷さんと言わなければ、土地の人には分らない。
 稲荷神社からは、広々とした三間平野を見渡すことが出来る。稲荷は「稲生り(いねなり)」あるいは「稲成り(いねなり)」が転じたものだといわれており、古くは、この土地に住む人達が五穀豊穣を祈願して参詣し、賑わったのであろうが、いまの寂れた佇まいからは、その面影が見られない。
 お稲荷さんのお使いは狐ということになっているけど、これがよく分らない。穀物を荒らす野ねずみを狐が食べてくれるので、狐を穀物の守り神と考えて、そこからお稲荷さんと結びついたのだという説が有力のようだが、定かではない。これでは物語性が無さ過ぎて、面白くもなんともない。
 狐は、古来から日本人にとって神聖視された動物であり、白狐に関わる伝説や物語が多くある。だから、お稲荷さんと狐の結びつきには、古代からの物語性を感じるのだ。
 もうひとつ分らないのが、狐と油揚げの関係である。油揚げを使った、いなりずし、油揚げを使ったうどんが、きつねうどん。稲荷と狐と油揚げは、一体どんな関わりがあるのだろう。


 

第四十二番札所 仏木寺(ぶつもくじ)

札所の縁起は里人の暮らしに活きている


 山裾にそった田圃道を歩き始めた。先を行く女性遍路に追いつき、かるく会釈をして先にたった。先ほど龍光寺で出合った若い女性のお遍路さんである。
 道沿いの民家に並んで仏木寺の仁王門があり、石段を上ったところに藁葺きの鐘楼があった。赤く染まった紅葉と藁葺屋根のコントラストが美しく、足の疲れを忘れさせてくれた。
 仏木寺の縁起によると、この地を巡錫していた空海、弘法大師が、牛を引いていた老翁に勧められるまま、牛の背に乗って進むと、楠木の枝にかかった宝珠を発見した。この宝珠は空海が唐を離れるときに有縁の地を求めて東に向かって投げた宝珠であったので、空海はこの地が霊地である直感し、楠木で大日如来を刻んで本尊とし、堂宇を建立して開創したという。

 弘法大師が牛の背に乗ってこの地を訪れたという縁起から、仏木寺は牛馬安全の守り神とされているが、前の札所龍光寺と同様に、三間平野で農耕に携わった人々の守護寺として信仰を集めてきたのであろう。
 札所の寺々には、それぞれの縁起があり、歴史がある。そして里人の信仰心と結びついて、様々な行事や、しきたりの中に根付いている。そして豊かな緑があり、静かな佇まいの木造建物がある。こんな環境が人々の心を癒し、新しい風を送ってくれるのだ。
 途中で買ったお結びで昼食をとり、次の札所明石寺に向かう。明石寺までは13キロ。


第四十三番札所 明石寺(めいせきじ)

娘遍路は心の病を癒しながら歩いていた


 龍光寺で出合った若い女性のお遍路とは、後になったり先になったりして歩いている。いまや観光バスで札所を廻るお遍路がほとんどで、歩き遍路に出会うことは、めったに無い。ましてや若い女性が独りで遍路に出てくるというのは、よほどの曰くがあってのことだろうと思えて、気になる。
 独りで歩いているお遍路さんは、なにか心に病を抱えているから歩いている。私だってそうだ。何か満ち足りないものがあって、心のよりどころを探しながら歩いているのだ。その満ち足りないものが何なのか、自分では良くわからない。ましてや上手く表現することなんか出来ない。両親とは早く死別した。姉弟も早世した。妻も亡くした。だけど物故した身近な者への鎮魂の旅をしているんだという自覚も無い。
 歩いていると足が痛む。疲れてくると気力は萎える。そして思考力は散漫になる。そんなときには苦しいお遍路を続けている目的が、ますますもって分らなくなってくる。もう止めようか、もう止めようという思いを引き摺りながら、ここまでやってきた。それでも歩く執念に取り付かれた自分がいるのだ。
 昔のお遍路には、常に生と死の問題が付き纏っていた。遍路に出ることは死ぬことであり、八十八箇所を廻り終えたときには生まれ変わっていたのだ。いまでも、遍路は、その人の生き方を大きく変えてしまう場所であるという。私にとっての遍路は、これからの生き方を模索する旅なのである。
 明石寺の急な参道に取りかかった所で雑木林の中から、あの女性遍路が勢いよく飛び出してきた。私の顔をみるなり、「あれっ、先に行ったんじゃなかったのですか」と、人懐っこい笑顔で話かけてきた。私はお遍路道の入口を見過ごして、自動車道を歩いてきたのだが、彼女はお遍路道を歩いて、近道をしてきたのだ。
 そのことが切っ掛けになって、会話が進み、彼女がお遍路をしているいきさつを話し始めた。彼女は心に病を負っていると言い、福岡市内の病院に入院をしているが、主治医の勧めでお遍路に出て来るのだという。何度かに分けて四国に渡って来て歩き続け、今までに長い時間がかかったけど、症状も軽くなって安堵していると言っていた。歩くことは辛いけど、美しい自然の中を歩いていれば、病気が良くなることも有るんじゃないでしようか、とも言っていた。
 歩き遍路の方とお話しすると、皆さん、何かしら自分と同じような苦しみを抱えて歩いていらっしゃるから、何でもお話が出来るし、ありのままの自分に出会うことが出来て心が休まります、と語っていた。
 彼女は、満願すれば社会復帰が出来ると信じて、ひたすらに歩いている。長い距離だけど、そこに目的とする八十八番札所の大窪寺が確実に存在するからだ。彼女にとって見れば、遍路道は光に満ちた一筋の道であり、八十八番札所に辿り着くには着実に歩き続けることなのだ。
 私のように、掴みどころの無い目的と、歩くことだけに執念を燃やしている輩とは違って、彼女の姿に本物のお遍路を見た。
 もと来た道を5キロほど戻り、国道56号線に出てバスで松山に向かうことにした。松山空港から、東京行き最終便には間に合うだろう。彼女は八幡浜からフェリーにのり、明日早朝までには病院に戻るという。先に来た八幡浜行きバスのステップに足をかけて振り向き、あの人懐っこい笑顔で、さようならと言って車中に消えた。

 今回の区切り打ちは、三十七番岩本寺から、四十三番明石寺まで、二泊三日のお遍路だったが、移動距離では今までに一番長い。おおよそ250キロの行程であり、そのうち180キロ近い距離はキセル遍路である。だから今回は三割引ではなくて、七割引のお遍路になってしまった。
 移動距離が長い分だけ、長い時空を過ごすことが出来たようで、その分、人の心の温もりや優しさに出会うことが出来たようだ。

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