第371番岩本寺から第43番明石寺
2003年11月11日~11月13日
修行の道場、土佐は次の札所までの距離が長い。発心の道場、阿波最後の札所第三十三番札所薬王寺から室戸岬の第二十四番札所最御崎寺までは85キロもある。前回打ち終えた第三十六番札所青龍寺から、第二十七番札所岩本寺までが60キロ。さらに岩本寺から足摺岬の第三十八番札所金剛福寺までは95キロもあり、札所から札所の距離では、八十八箇所中、最も長い。また、金剛福寺から第三十九番延光寺までは63キロある。
私にとっては気ままな勤めであるのだが、一応、会社顧問という立場で週に三日か四日は出勤し、短い休暇を積み重ねては、お遍路の旅に出ている。おのずと日時の制約があり、長距離の行程は、バス、電車を利用して移動することになる。つまり私の言う、三割引のお遍路で、有効区間不連続のキセル打ちなのだ。
2003年11月、この日はJR高知駅から土讃線に乗り、窪川駅で下車して岩本寺に向かう。青龍寺から岩本寺、そして金剛福寺、今日の宿泊予定地中村市の間は全て乗り物を利用する予定なので、有効区間不連続の遍路旅となる。
第三十七番札所 岩本寺(いわもとじ)
今日もボトルの招き猫が呼んでいる
窪川は土讃線の終点であり、そこから先は第三セクターの「とさくろしお鉄道」になる。窪川の町は海抜200メートルを超える窪川台地にある。何処を歩いても感じるのだが、地方都市で県庁所在地から離れた町は寂れて活気が感じられない。窪川の町も例外ではなかった。山あいにくすんで、色彩を帯びる雰囲気が無い。
岩本寺の本堂にある天井絵には、全国から公募された500点もの作品がはめ込まれていた。花や仏像の絵が多いのは頷けるが、猫、虎、蝶、はては西洋の女性を思わせる絵まであって雑多だ。絵を描いた人には夫々に想いがあって送ってきたのであろう。人それぞれの雑多な想いを一箇所にあつめ、包み込んでしまうお寺という精神供養の場があることを改めて教えられた。
おみくじを引いた。招き猫がついたお御籤である。岩本寺と招き猫の関わりが分らない。昔から、黒い招き猫は「福猫」として魔よけや厄除けの意味を持つといわれているが、岩本寺の招き猫は黒猫ではない。金運を招き、客を招くといわれる猫が、お寺にあることに違和感を覚えた。
そう言えば、招き猫の発祥の地は東京都世田谷区の豪徳寺であるという説がある。江戸時代の彦根藩主、井伊直孝が鷹狩りの帰りに豪徳寺の門前にある木の下で雨宿りをしていたところ、一匹の三毛猫が手招きをしたので、直孝がその猫に近付いたところ、いま雨宿りをしていた大木に雷が落ち、難を避けることが出来た。そのことに感謝した直孝が豪徳寺に多くの寄進をしたと言い、後世になって境内に招猫堂がつくられ、招き猫の発祥の寺と言われる様になった。
豪徳寺は井伊家の菩提寺であり、何らかの縁があったことは確かであろう。ちなみに豪徳寺で販売されている招き猫は全部右手を挙げて、小判を持っていない。これは井伊家の菩提寺であり、武士の節度を表している。招き猫は機会を与えてくれるが、富という結果は与えてくれるわけではない。機会を生かせるのは本人の努力次第だという教えなのだ。なるほど、お寺に相応しい招き猫だ。豪徳寺の招き猫は、そこらそんじょの招き猫とは違って尊厳があるのだ。
岩本寺で求めた招き猫は、いまでも行きつけの小料理屋で、私のボトルにぶら下がっている。そして酒代がお店に入る仕組みになっている。
第三十八番札所 金剛福寺(こんごうふくじ)
歩いていると辛いことばかりではない
金剛福寺は足摺岬の突端にある。岩本寺のある窪川駅から、とさくろしお鉄道に乗り、35分もすると中村駅に着く。中村市は、日本一の清流といわれる四万十川の下流に位置している。ここから足摺岬の突端までは、さらに路線バスで2時間の距離がある。
足摺岬は四国の最南端にあり、太平洋に突き出していて展望がきき、地理的位置からして日の出、日の入りが一望できて、温暖で明るい土地である。なれど、自殺の名所として暗いイメージを持つ人も多い。田宮虎彦の小説、「足摺岬」が影響している。
自殺しようとして足摺岬まで来た主人公の「私」が、長雨で足留めされ、宿の女主人や宿泊客に助けられ、自殺を思い止まる物語である。描かれている「私」の境遇は、じつに不幸で惨めである。己の人生を変えることも出来ない、ひ弱な人間として描かれている。
足摺岬は、南方にある浄土に渡る船の出発地として、那智の勝浦と共に、補陀落信仰の舞台でもある。補陀落とは、観音菩薩の住まいがある場所とされ、極楽浄土である。伝説によると、インドのはるか南方の海上にあり、八角形をした島であると伝えられている。
中世には、観音信仰に基づき、熊野灘や足摺岬から小船に乗って補陀落を目指す「補陀落渡海」が行われたが、信仰の世界であって、死期を覚った多くの僧侶達が海原に消えて行ったのであろう。僧は食料や飲料水と共に船底に入るのだが、その後、蓋をし、釘を打ってふさいでしまうという、残酷な死出の行為である。
私が知る限りでも、補陀落山を山号にしたお寺が数箇所あり、いずれも一度は訪れている。千葉県館山市にある坂東三十三観音霊場の三十三番那古寺、西国三十三観音霊場で京都にある十七番六波羅蜜寺、同様に大阪府茨木市にある二十二番總持寺、四国八十八個所で、これから遍路することになる香川県さぬき市の八十六番志渡寺、八十七番長尾寺である。
納経を済ませ、御朱印を頂いたが、中村駅に向かうバスの時刻までには1時間以上もある。整備された公園に入り、足摺岬の突端に向かう。海抜80メートルの断崖絶壁の上からは、360度に広がるパノラマの風景を見渡すことができる。室戸岬と違って波打ち際まで降りるのは不可能だ。高所恐怖症の私には、近付きたくない場所だ。なるほど、自殺の名所だなと、妙なところで感心している。
既に時計の針は四時半を回っている。駐車場に止まっていた観光バスは次々に発ち、乗用車の数も減ってきた。なんだか心細くなってきて、バスの時刻表を何度も確認している。
バスは来た道とは違って足摺岬の西側を海岸線に沿って走る。山が海に迫り、断崖の上の狭い旧道を走る。ところどころに集落があり、その都度、律儀にバスの案内が流れるが、降りる人も、乗ってくる人もいない。乗客は私一人だ。
秋の日は夕闇が迫るのは早い。西の海に沈む夕日が美しい。突然バスの運転手が話しかけてきた。此の先に夕日を眺めるのに良い場所があるから、そこで停めてあげるという。観光バスではない。単なる路線バスなのだ。乗客が私一人だとは言え、運転手としての乗務規範を逸脱しているのではないかと心配になる。これがお接待の優しさなのだろうかと、快く受け入れて、暫らく荘重な夕日を堪能する。
バスは細い道を下って、漁師町に入って行った。ジョン万次郎が15歳まで育った中の浜だ。日はすっかり落ちていた。ジョン万次郎は、幕末の世、漁に出て漂流し、アメリカの捕鯨船に救助され、やがて船長にその才能を認められて近代的な多くの技術を学び、日本に帰国したのだ。民主主義のアメリカで学んだ多くの知識が、坂本竜馬や板垣退助、中江兆民などに影響を与えたであろうことは否めない。ジョン万次郎という呼称は、井伏鱒二が『ジョン万次郎漂流記』で用いたために広まったといわれ、本名は中濱万次郎である。
終点の中村駅に着くと、バスの運転手がまた声を掛けてきた。今日の泊る宿はどこかと聞く。ホテルの名前を告げると、そこだったら、これから帰る車庫に近いから、このまま降りずに乗って行けという。有り難い言葉に従って、またまたお接待を受けることにした。愛想のいい顔をしているわけでもないし、特別に話し好きでも無さそうだ。無骨な感じすら受けたバスの運転手なのだが、そこに人の心の温かさや、優しさを見ることが出来た。歩いていると、辛いだけではない。その分、いいこともある。
第三十九番札所 延光寺(えんこうじ)
追い越したバスを恨めしそうに眺めてる
ホテルを早朝に発った。延光寺まではおおよそ16キロはある。四万十川の清流で獲れた「鮎のうるか」の看板があった。山陰の清流、高津川の畔で育った私には、懐かしい味を思い出させる珍味である。早朝だし、お店は閉まっていて、買い求めることは出来ない。
きのう一日は、列車、バスを乗り継いだキセル遍路だったので、秋の柔らかい日差しの下で、歩き遍路の苦しさを忘れ、のんびりした旅を楽しんだことになる。きょうは違う。国道56号線を宿毛に向かって歩き始めたが、朝の通勤時間帯に遭遇し、学生の自転車の群れに巻き込まれ、歩き辛い。それに歩く身には、朝早いとはいっても南国の日差しは強く、昨日と違って目に眩しく、肌に突き刺さるような強さを感じる。
もう、歩くことには慣れてきたっていい筈なのだが、2時間も3時間も、足の機嫌を伺い、ただひたすらに歩き続けるのは辛い。独りになりたいから歩いているのだとはいえ孤独である。同行二人、弘法大師様が同行しているのだけど、雑念と邪念に邪魔されて、弘法大師様の姿は見えない。
いつものことだけど、こんなときには般若心経を唱えながら歩いている。そばで聞いてる人も、また見ている人もいないのだけど、声高になって、はっと気付き、あたりを見回している。情けない仕種だと思う。
延光寺で御朱印をもらった。中央に亀の形をした朱印が捺してある。これは、境内の池に棲んでいた赤亀が、竜宮から鐘を背負ってきたと言う伝承によるものだそうだ。そういえば山門を入ったところに、鐘を背負った亀の石像があった。
来た道を引き返し、56号線に出た所で食堂を見つけ、少し早めの昼食をとった。次の札所、観自在寺までは30キロもある。今朝から、もうかなりの距離を歩いている。今日中に辿り着ける距離では無さそうだし、第一、私の足が言うことを聞いてくれそうもない。歩けるところまで歩いて、後はバスに乗ることに決めた。バス停に着く度に宿毛行きの時刻を確認する。次のバスまでに時間が有ると、再び歩き始める。
ここは意地だ。ぐっと堪えて一便は見送ったものの、かなりへばっている。バスは頻繁に走っているわけでもないので、結局、1時間半以上も歩き続け、市街地を真近にした所で、またまた宿毛駅行きバスが追い越していった。こんな時、道路際に設置されている飲料水の自動販売機はありがたい。現代版の茶店であり、一息つける。
延光寺を打ち終えて、修行の道場といわれる土佐16箇寺のお遍路は終わったのだ。なのに、だらしのないことにバスを頼りにしている。そして追い越して言ったバスを恨めしそうに眺めている。全く修行になっていない。足が痛み極度に重い。宿毛から出る宇和島行きの急行バスに乗り、次の札所観自在寺に向かった。
第四十番札所 観自在寺(かんじざいじ)
菩提とは阿耨多羅三藐三菩提
バスで松尾峠を越える。土佐の国から伊予の国に入ったのだ。ガイドブックにはお遍路道からの眺望が素晴らしい、と書かれているが、国道56号線は、そんな風景にはお構いなしで山間部を走っている。宇和海の複雑に入り組んだ海岸線を見ることが出来ないのは残念だけど、へばった身ではやむを得ぬ。
バスを降りて観自在寺までは僅かな距離なのだが、バスで休めた足が更に重くなって、暫らくは歩けない。道端に座り込んで靴を脱ぎ、足を空気に晒し、靴下を履き替える。観自在寺は第一番札所、霊山寺から一番離れた場所にあり、遍路には「裏の関所」とも呼ばれている。修行の道場、土佐を歩き終えたのだから、弘法大師の咎めを受けることも無く、無事に通ることが出来るだろう。
伊予、「菩提の道場」の入り口だ。菩提を広辞苑で引くと煩悩を断じ不生・不滅の真如の理を悟って得る結果、と書いてある。これが分ったようで分らない。究極の悟りとでも解釈すればよいのか。
般若心経に、得阿耨多羅三藐三菩提(とくあのくたらさんみゃくさんぼだい)という文言がある。解説をみると、阿耨多羅―この上も無く、三藐―正しく等しい、三菩提―悟り、と説明してあった。この上ない正しく等しい悟り、ということになる。発心し、修行をし、いよいよ悟りを開くための道場に差し掛かったということなのだ。それにしても、未だに煩悩から脱却できない軟弱者のお遍路がここにいる。このお遍路には、この上ない正しく等しい悟りには、縁が無さそうだ。
観自在寺のある御荘の町には、どこか古い歴史が感じられる。その地名からして、古代豪族の荘園があった場所なのかもしれない。
次の札所、龍光寺は宇和島市の中心街から北に10キロあまりの所で、ここからは50キロメートル以上もある。宇和島市内に宿を予約し、バスで向かう。
南伊予には平野が無い。山と海だけだ。バスは海岸に沿った山道を走る。山の傾斜は急で海際までせり出している。 バスの車窓には、宇和海の複雑に入り組んだ海岸線があり、その向こうには大小の島々が浮んでいる。岩手県の陸中海岸と共に、日本を代表するリアス式海岸なのだ。海ぎわから段々畑が山の頂上に向かってせり上がってくる。色づいたみかんが斜面を見事に染めている。春にはみかんの花が斜面を白一色に覆い隠すそうだ。
この日宿泊したホテルで、郷土料理「ふくめん」を食べた。千切りにしたこんにゃくの上に紅白のそぼろ、ねぎ、みじん切りにしたみかんの皮など、四色の素材が綺麗に敷き詰められていた。見た目の美しさとは裏腹に、実に不味かった。お腹がすいていたので何とか食べた。
第四十一番札所 龍光寺(りゅうこうじ)
稲荷と狐と油揚げの関係が分らない
宇和島は伊達十万石の城下町である。観光旅行のつもりでお遍路に出て来たのではないのだが、宿泊したホテルが宇和島城に近かったので、城山に登ることにした。老木が生い茂り、蔦草が絡んでいて、城山のふるい歴史を思わせる。朝が早いので、誰も登って来る人はいない。天守閣の開館時間は九時からだし、間がある。市街地の向こうに続く宇和海は、島と入り江が重なり合って、複雑な海岸線を見せてくれる。絶景である。
突然、背後に人の気配がして、天守閣の開館にはまだ早いけど、旅の方のようだし、準備は出来ているので、入館されたらどうですか、と声を掛けてきた。併設されている郷土館の職員の方だった。好意をありがたく頂戴し、20分ほどの時間をかけて天守閣に登り、武具を中心として展示された郷土館の見学を終えた。
市街地を抜けて田園地帯に出た。三間(みま)平野が広がっている。何も遮るものが無く、田圃の中の真っ直ぐな道を進んでいると、歩く速度がひどく遅く感じられる。遠くに龍光寺のある丘は見えるのだが、なかなか近付かない。
龍光寺は、古くには、この土地に住む人々から稲荷寺として信仰されていた。明治の神仏分離令により、それまでの本堂が稲荷神社となり、稲荷寺の本尊であった十一面観音を祀る寺として龍光寺が誕生した。その名残として、参道入口には今でも鳥居が立っていて、正面階段を登ったところに稲荷神社があり、龍光寺の本堂は参道途中の左脇にある。道を尋ねる時には、三間のお稲荷さんと言わなければ、土地の人には分らない。
稲荷神社からは、広々とした三間平野を見渡すことが出来る。稲荷は「稲生り(いねなり)」あるいは「稲成り(いねなり)」が転じたものだといわれており、古くは、この土地に住む人達が五穀豊穣を祈願して参詣し、賑わったのであろうが、いまの寂れた佇まいからは、その面影が見られない。
お稲荷さんのお使いは狐ということになっているけど、これがよく分らない。穀物を荒らす野ねずみを狐が食べてくれるので、狐を穀物の守り神と考えて、そこからお稲荷さんと結びついたのだという説が有力のようだが、定かではない。これでは物語性が無さ過ぎて、面白くもなんともない。
狐は、古来から日本人にとって神聖視された動物であり、白狐に関わる伝説や物語が多くある。だから、お稲荷さんと狐の結びつきには、古代からの物語性を感じるのだ。
もうひとつ分らないのが、狐と油揚げの関係である。油揚げを使った、いなりずし、油揚げを使ったうどんが、きつねうどん。稲荷と狐と油揚げは、一体どんな関わりがあるのだろう。
第四十二番札所 仏木寺(ぶつもくじ)
札所の縁起は里人の暮らしに活きている
山裾にそった田圃道を歩き始めた。先を行く女性遍路に追いつき、かるく会釈をして先にたった。先ほど龍光寺で出合った若い女性のお遍路さんである。
道沿いの民家に並んで仏木寺の仁王門があり、石段を上ったところに藁葺きの鐘楼があった。赤く染まった紅葉と藁葺屋根のコントラストが美しく、足の疲れを忘れさせてくれた。
仏木寺の縁起によると、この地を巡錫していた空海、弘法大師が、牛を引いていた老翁に勧められるまま、牛の背に乗って進むと、楠木の枝にかかった宝珠を発見した。この宝珠は空海が唐を離れるときに有縁の地を求めて東に向かって投げた宝珠であったので、空海はこの地が霊地である直感し、楠木で大日如来を刻んで本尊とし、堂宇を建立して開創したという。
弘法大師が牛の背に乗ってこの地を訪れたという縁起から、仏木寺は牛馬安全の守り神とされているが、前の札所龍光寺と同様に、三間平野で農耕に携わった人々の守護寺として信仰を集めてきたのであろう。
札所の寺々には、それぞれの縁起があり、歴史がある。そして里人の信仰心と結びついて、様々な行事や、しきたりの中に根付いている。そして豊かな緑があり、静かな佇まいの木造建物がある。こんな環境が人々の心を癒し、新しい風を送ってくれるのだ。
途中で買ったお結びで昼食をとり、次の札所明石寺に向かう。明石寺までは13キロ。
第四十三番札所 明石寺(めいせきじ)
娘遍路は心の病を癒しながら歩いていた
龍光寺で出合った若い女性のお遍路とは、後になったり先になったりして歩いている。いまや観光バスで札所を廻るお遍路がほとんどで、歩き遍路に出会うことは、めったに無い。ましてや若い女性が独りで遍路に出てくるというのは、よほどの曰くがあってのことだろうと思えて、気になる。
独りで歩いているお遍路さんは、なにか心に病を抱えているから歩いている。私だってそうだ。何か満ち足りないものがあって、心のよりどころを探しながら歩いているのだ。その満ち足りないものが何なのか、自分では良くわからない。ましてや上手く表現することなんか出来ない。両親とは早く死別した。姉弟も早世した。妻も亡くした。だけど物故した身近な者への鎮魂の旅をしているんだという自覚も無い。
歩いていると足が痛む。疲れてくると気力は萎える。そして思考力は散漫になる。そんなときには苦しいお遍路を続けている目的が、ますますもって分らなくなってくる。もう止めようか、もう止めようという思いを引き摺りながら、ここまでやってきた。それでも歩く執念に取り付かれた自分がいるのだ。
昔のお遍路には、常に生と死の問題が付き纏っていた。遍路に出ることは死ぬことであり、八十八箇所を廻り終えたときには生まれ変わっていたのだ。いまでも、遍路は、その人の生き方を大きく変えてしまう場所であるという。私にとっての遍路は、これからの生き方を模索する旅なのである。
明石寺の急な参道に取りかかった所で雑木林の中から、あの女性遍路が勢いよく飛び出してきた。私の顔をみるなり、「あれっ、先に行ったんじゃなかったのですか」と、人懐っこい笑顔で話かけてきた。私はお遍路道の入口を見過ごして、自動車道を歩いてきたのだが、彼女はお遍路道を歩いて、近道をしてきたのだ。
そのことが切っ掛けになって、会話が進み、彼女がお遍路をしているいきさつを話し始めた。彼女は心に病を負っていると言い、福岡市内の病院に入院をしているが、主治医の勧めでお遍路に出て来るのだという。何度かに分けて四国に渡って来て歩き続け、今までに長い時間がかかったけど、症状も軽くなって安堵していると言っていた。歩くことは辛いけど、美しい自然の中を歩いていれば、病気が良くなることも有るんじゃないでしようか、とも言っていた。
歩き遍路の方とお話しすると、皆さん、何かしら自分と同じような苦しみを抱えて歩いていらっしゃるから、何でもお話が出来るし、ありのままの自分に出会うことが出来て心が休まります、と語っていた。
彼女は、満願すれば社会復帰が出来ると信じて、ひたすらに歩いている。長い距離だけど、そこに目的とする八十八番札所の大窪寺が確実に存在するからだ。彼女にとって見れば、遍路道は光に満ちた一筋の道であり、八十八番札所に辿り着くには着実に歩き続けることなのだ。
私のように、掴みどころの無い目的と、歩くことだけに執念を燃やしている輩とは違って、彼女の姿に本物のお遍路を見た。
もと来た道を5キロほど戻り、国道56号線に出てバスで松山に向かうことにした。松山空港から、東京行き最終便には間に合うだろう。彼女は八幡浜からフェリーにのり、明日早朝までには病院に戻るという。先に来た八幡浜行きバスのステップに足をかけて振り向き、あの人懐っこい笑顔で、さようならと言って車中に消えた。
今回の区切り打ちは、三十七番岩本寺から、四十三番明石寺まで、二泊三日のお遍路だったが、移動距離では今までに一番長い。おおよそ250キロの行程であり、そのうち180キロ近い距離はキセル遍路である。だから今回は三割引ではなくて、七割引のお遍路になってしまった。
移動距離が長い分だけ、長い時空を過ごすことが出来たようで、その分、人の心の温もりや優しさに出会うことが出来たようだ。
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