2003年3月15日、早朝の飛行機で徳島へ。お遍路の第一歩。未知の体験に踏み出す期待と不安が過ぎる。
徳島空港から一番札所の霊山寺へは、一旦バスで徳島市内に出て、ローカルバスに乗換え、霊山寺へ向かうという方法もあるが、仕事の合間を縫って時間を作っているので、お遍路が始まる前の無駄な時間を省くことにして、タクシーを利用した。徳島は雨、それに寒い。空港の西10キロほどのところに板東という小さな町があって、一番札所の霊山寺はその町外ある。徳島にはサラリーマン時代に仕事で何度も訪れているが、タクシーの車窓から見る田園地帯の風景には接する機会も無く、全く知らない土地にやってきた気分になる。
第一番札所 霊山寺(りょうぜんじ)
白装束は死に装束である
雨に濡れた霊山寺の山門に立つ。坂東、西国、秩父の百観音を廻り終えたばかりだし、まだまだ遠い先のことだと思っていた四国遍路への旅立ちのときがやってきたのだという感慨にとらわれる。山門には草鞋が奉納されていた。これから歩く人が、健康を祈願して奉納したものである。足の下に踏みしめる土に命を貰い、無事に満願の時が訪れる事を願い、私も奉納することにした。
山門をくぐれば修行遍路となる。ご本尊は弘法大師が彫刻したと伝えられる釈迦如来。団体さんのお遍路に混じって、先ずは、般若心経を唱和する。
大師堂では、十善戒を唱え、弘法大師の弟子となる。十善戒は、不殺生(殺生をしない)不ちゅう盗(盗みをしない) 不邪淫(邪淫をしない) 不妄語(偽りは言わない) 不奇語(へつらいを言わない) 不悪口(悪口を言わない) 不両舌(二枚舌を使わない) 不慳貪(貪らない) 不瞋恚(嫉み心を持たない) 不邪見(邪心を持たない)の戒めで、
私の人生、まさか人は殺していないがゴキブリなんか、しょっちゅう殺しているし、十善戒全てに違反している。だから三割引のお遍路なのだ。
本堂の脇にある納経所に、巡拝に必要なグッズが用意されている。事前準備はドライバー用に編集された四国の道路マップと、数珠、般若心経の経本だけなので、ここで最低必要な遍路用具を調えることにした。
遍路グッズの定番は、金剛杖、菅笠、白衣、納札、納経帳、納経軸だが、その外にずた袋 手甲脚絆、白地下足袋、袈裟、鈴、経本、数珠、それにガイドブックなどで、狭いスペースに並べられている。私は、白装束で歩くのが照れくさいので、ガイドブックと納経帳、袈裟を求めた。袈裟を掛けていれば、これだけでお遍路さんだということが直ぐに分かってもらえるだろう。
そう言えばお遍路さんの白装束は死に装束を思わせる。死んでお棺の中に入るときの姿そのものではないか。今では、お遍路が観光化しているが、古い時代は四国の山や野に分け入って、死に場所を求めて歩いたのである。四国は「死の国」とも読める。何れ人間には死が訪れる。お遍路は死ぬことの予行練習なのかもしれない。
歩き始めて気が付いたことだか、売店に置かれていた無料配布の遍路地図は、あまり当てにならない。絵地図の感覚で描かれているので距離感がつかめないのだ。東京から必要ページを抜き取って持ってきた道路マップが、最後まで役に立った。後日談だが、遍路の旅が終盤に近づいた頃に、やっと詳細な遍路地図が発行されていた。
第二番札所、極楽寺(ごくらくじ)
お遍路は物見遊山ではない
霊山寺から極楽寺までは約1キロ、歩いて10分の距離しかないのだが、歩いているお遍路さんの姿を見かけない。雨の霊山寺境内で見かけた大勢のお遍路さんは一体どこに行ってしまったのか。
降り続いていた雨が上がって、薄日が差してきた。極楽寺の朱塗りの仁王門が、鮮やかな姿を見せている。本堂に向かう石段の下に、お釈迦様の足跡を刻んだ石がある。大きな足跡である。インドでは、釈迦の仏像を作ることは恐れ多いことと考えられた時代があり、代わりに足跡を刻んだのだと言う。
本尊の阿弥陀如来は鎌倉時代の作で、重要文化財に指定されているとのこと。一人で般若心経を唱えていると、背後にどやどやと白装束のお遍路さんの団体が近づいてきた。観光バスで移動するお遍路ツアーの一行なのだ。先ほど頭を過ぎった疑問は解決したが、こんどは、僅か1キロの距離をバスに乗って移動し、歩く苦行を放棄するのは、本来のお遍路精神に反するではないのか、という疑問が浮んでくる。
お遍路の目的は、堅苦しい言い方をすれば、自己の宗教的目的を達成したいという行為であり、弘法大師と縁を結ぶことによって、何らかの宗教的恩恵を被ることを願う旅である。私が描いていたお遍路さんのイメージは、一人か数人の信仰深い人々の徒歩旅行であり、団体さんの白装束は異様に見える。旅行業者が全て段取りをして、バスで来て、拍子木に合わせた般若心経の唱和もそこそこに、次の目的地に去っていく。あなた任せのお遍路さんに宗教心は芽生えるのか。これでは弥次さん喜多さんのお伊勢参りと同じではないのか。
団体お遍路さんが去った後の境内は、元の静寂を取り戻す。
境内の一隅に、「無縁遍路供養観音」と書かれた観音像がある。ここで行き倒れたお遍路さんの供養のために建てられた観音様で、四国霊場には、道半ばにして病や疲労で倒れた人たちの供養塔が方々に見られる。古くは、罪を犯し、故郷を追われてお遍路の旅に出た例が多いという。帰るあても無い旅路で、物乞いをしながら、ただひたすらに歩き続け、望郷の念に駆られながら亡くなっていったお遍路さんの話も聞いた。
第三番札所、金泉寺(こんせんじ)
お接待には慈悲の心が宿っている
極楽寺から3キロ少しの道のり、徒歩で約40分。縁起によると、古くは金光明寺と称していたが、弘法大師が訪れ仏法を説いたとき、黄金の霊水が湧き出したので、金泉寺と改めたという。ここにも弘法大師伝承がある。
境内の奥には、実際に「黄金の井戸」と呼ばれる井戸があって、この井戸の水に顔が映れば長寿、映らなければ3年以内に死ぬという。幸いなことに私の顔ははっきりと映っている。当たり前のことだけど、私の顔が映っているということは、誰の顔も映るわけだから、お遍路にはそぐわない言い伝えの様に思ったけど、これは生きるための励ましなのだと受け取っておこう。
四国八十八か所には「お接待」と言って、お遍路さんをもてなす習慣がある。境内の片隅に接待場所を設置して、お茶菓子を出してくれるところもある。良いことをすれば必ず良いことが返ってくるという、因果応報の考えが根底にあり、そのことが仏の慈悲につながっていくという思想であり、昔から今日に至るまで連綿と受け継がれている。
けれども、「お接待」と言う行為に馴染めない俗物の私は、何処までが「お接待」で、何処からが商行為になるのか判断がつきかねることがある。こんな事を言うと、純粋に「お接待」の志で接して下さる多くの方々には無礼千万、極まりないのだが、設備が整った接待所には、売店があり記念品、みやげ物が売られている。お茶をご馳走になり、疲れを取る飴玉を頂戴すれば、なにか一品でも買わなければ、私の心にわだかまりが残ってしまう。こんな心配しながら「お接待」を受けているのは、私だけかもしれない。
会社勤めの長かった私の意識の中には、「お接待」と取引先との「接待」が混同している。会社での接待は見返りを求めるが、お遍路さんを「お接待」するのは、何の見返りも求めない。お遍路道の周辺に暮らす人々は、お遍路さんに優しさを施せば、自らの心の中に慈悲の心が芽生え、仏弟子になれると信じ、「お接待」を続けている。
観音堂の地下には、八十八か所の本尊が納められた簡易霊場がある。簡単に巡拝できる八十八か所はあっちこっちのお寺にあるが、今のところ足腰が丈夫な私には、簡易版霊場の有り難味は分からない。そんなに簡単に霊場巡りをして、なんのご利益があると言うのだ。歩け歩け、苦しめ、苦しめ。
第四番札所 大日寺(だいにちじ)
道しるべには温もりがある
金泉寺から大日寺までは、約7キロの道のり。途中、自動車道から離れ、標識に従ってお遍路道に入ってみたけれど、山裾に入って右に行くのか、左に行くのか迷ってしまった。道を尋ねる人影は全く無い。まだ歩き始めたばかりだし、ここは無理をせずに来た道を引き返し、元の自動車道を歩くことにした。
お遍路さんが行き来する道中には、地元の人達が工夫した色々な「道しるべ」がある。その道しるべは粗末だが、分かれ道に差し掛かったときに、迷わず足を運ぶことが出来るように、さりげなく建ててあったり、家の塀や、入り口に掲げてあったりする。沿道に暮らす人々の、心の温もりを感じ、歩いている道に間違いないのだろうか、と不安を感じたときに出合う道しるべに、これぞ「お接待の真髄である、」と私は思ったのだ。
古い遍路道で山道に入ると、目の高さで、木の小枝に結ばれた「同行二人」と書かれた小さな道しるべに出合う。同行二人と書かれた札は、木の板であったり、紙であったり、また赤い布であったりするが、「へんろみち」とだけ書かれているものや、お遍路さんの姿をかたどった図柄だけのものもある。次々と目に触れるこの道しるべが道案内をしてくれる。
古いお遍路道を歩いている人はみかけない。雨にぬれて垂れ下がっている赤い布の「道しるべ」に励ましを受けながら、独り足を運んでいると、間近に人と人との触れ合いが感じられて、口笛を吹きたい感覚にとらわれる。昔ながらの遍路道を大切に守っている人々に感謝、そして感激する。
7キロの道のりは遠い。白装束のお遍路さんを乗せた観光バスが2台、歩き遍路の私を追い越して行った。
途中、第五番札所地蔵寺を左手に見ながら、上り坂に差し掛かる。先に地蔵寺に寄って行く方法もあるが、大日寺からは、行った道を帰ってくるのだから、通り過ぎることにした。
大日寺の朱塗りの山門が見えてきた。鐘楼も兼ねた珍しい山門である。本堂で般若心経を唱え、大師堂に向かったが、本堂と大師堂とは、西国三十三観音像が安置されている廻廊でつながっていた。私は、1996年の3月から約2年半の歳月を掛けて、西国三十三観音巡礼を終えている。
第五番札所 地蔵寺(じぞうじ)
羅漢さんは友達に似ている
たどってきた道を約2キロほど後戻りして、地蔵寺に辿り着く。地元の人には「羅漢さん」と言って親しまれているお寺である。本堂裏手の石段を登ると、五百羅漢を安置した奥の院がある。羅漢堂はコの字型になっていて正面には釈迦如来、その左右には弥勒菩薩と弘法大師を安置した御堂があり、廻廊には等身大の五百羅漢がところ狭しと立ち並んでいる。五百羅漢には彩色がほどこされていて、私が想像していた石仏の連なりとは異なり、その賑々しさに驚いてしまう。
羅漢とは、お釈迦様の弟子達のことで、修行中の身分である。だから、どの顔をみても、仏の顔とは違って、喜怒哀楽を表現し、人間味のある身近な人々を思わせる表情をしている。そう言えば誰かに似ているなと思わせる羅漢像もある。
仏には階層がある。まず如来が先に来て、菩薩、明王、天部と続き、ここまでが仏で、羅漢は仏ではない。従って弘法大師や一遍上人などの高僧は、修行の身であるので仏とは言わない。
またまた不謹慎極まりない発想だが、私はこの仏の階層を覚えるのに、会社組織になぞらえて、如来が取締役、菩薩は部長、明王を課長、天部は係長として覚えている。修行中の羅漢や高僧は、その他一般社員である。差し詰め釈迦如来は取締役社長と言ったところか。
如来は一般的に、釈迦如来、阿弥陀如来、薬師如来、大日如来などが知られているが、詳しく調べていくと多くの如来がある。菩薩は如来の候補生であり、その中でも弥勒菩薩は、釈迦如来が入滅して56億7千万年後に如来に昇格することが約束されているエリート菩薩であり、将来の社長が約束されているのである。明王を代表するのが、すぐに頭に浮ぶ不動明王で、大日如来の命令を受け、修行者を守る仏であると言われている。
天部は菩薩に比べてその数ははるかに多い。よく知られているのは、帝釈天、毘沙門天、吉祥天、弁財天、大黒天などだが、「恐れ入谷の鬼子母神」も天女である。鬼子母神は子育てを守護する仏様であるが、もともとインドの鬼神で、それにまつわる有名な物語もあるが、この項では省略することにしよう。
歩き始めてから10キロを超えた。ぼつぼつ脚に疲れが溜まってくる。今日の予定は、あと6キロ。のんびり行こう。
第六番札所 安楽寺(あんらくじ)
御朱印帳はスタンプ帳ではない
地蔵寺からの距離は約5キロ。1時間と少しの行程である。やはり歩いているお遍路さんは見かけない。たまに、観光タクシーのお遍路さんとおぼしき人達を見かけることがある。遍路道を歩いている人はほとんど見かけないけれど、境内には観光バスに乗った団体さんで、白装束姿のお遍路さんが溢れている。
私の感覚では、お遍路さん100人のうち95人までは観光バス遍路で、あと4名が観光タクシーか自家用車で来て、僅かに1名が歩き遍路の割合のように思う。いや、歩き遍路はもっと少ないかもしれない。ごく最近では、歩き遍路のツァーもあるようなので、団体さんの、てくてくお遍路さんが増えたかもしれない。
観光バスが到着すると、添乗員が大きなバッグを肩に背負って駆け出していく。目的は「御朱印」を貰うために「納経所」に少しでも早く到着しなければいけないためだ。大きなバッグの中には、団体客と同数の御朱印帳が入っている。御朱印を貰うためには時間が掛り、もたもたしていると、次の行程に差しさわりがある。だから添乗員は急いでいるのだ。
「御朱印」とは、簡単に言うと、参拝の記念として押してもらう朱印のことである。元々は、寺院に写経を納めた際の受付印だったらしい。だから御朱印を頂く場所を納経所と言っている。御朱印料は一ヵ寺、300円也。
納経所には、寺院の職員や僧侶が控えていて、墨書で、山号寺号と、中央に本尊の名前を記し、その上から御朱印を押してくれる。文字は、それぞれの寺院で競うかのような特徴がある。だから読めない。でも、なんとなく有り難味を感じる。
四国八十八か所の霊場では、他の寺院と違って、御朱印帳に参拝月日は書かない。これは同じ納経帳を持って何回もお遍路を繰り返し、その都度、御朱印を重ね押しするため参拝月日は意味を成さないのだ。真っ赤に朱で塗りつくされた御朱印帳を持ったお遍路さんに出会ったことがある。一方で、飛び込み遍路らしき人物が、参拝日時をなぜ書かないのか、書いて欲しいと強要している場面に出合ったこともある。寺院の人も書かない理由が説明できなくて、困惑していた。
安楽寺の山号は温泉山と書いてある。縁起によると、もともとこのお寺は北西の山の中にあって、万病に効くといわれた温泉があり、この温泉に弘法大師が、ご本尊の薬師如来を納めて出来上がったのが、このお寺の始まりであると言う。そういえば、地図を見ると安楽寺の北西5キロぐらいのところに御所温泉という地名があったが、なんとなくそれらしい地名である。
第七番札所 十楽寺(じゅうらくじ)
八苦からは逃れられない
安楽寺から十楽寺までは近い。十楽寺の山門は竜宮城を思わせるような、普通の寺院には無い門構えだ。
人間には八つの苦難があるという。即ち、生、老、病、死が四苦で、愛別離苦、怨憎会苦、求不得苦、五薀盛苦と合わせて八苦である。日常用語で使っている四苦八苦の語源と言うことになる。初めの四苦は身体に関わる苦しみを示しており、後の四苦は精神的、心に関する苦しみを示している。言ってみれば、人間は生まれて死ぬまで、八苦から逃れない宿命を背負っていると言う、仏の教えなのである。光明山十楽寺の山号寺号は、この八苦を離れ、極楽浄土では、十の光明に輝く楽しみが得られると言う教えから名付けられたと言う。
徳島平野は、北に讃岐山脈、南に四国山地に挟まれた平野であり、南寄りに吉野川が流れている。まだ寒さの残る三月とはいえ、薄日が差す平坦な道を歩いていると、額に汗が滲み、広々とした田園地帯の眺めはどこか、のどかでもある。次の熊谷寺までは約4キロある。遍路初日でもあって足の疲れはピークに達している。時間の余裕は有るが、第一日目はここで終わりにすることにした。
早速、今日の宿泊場所を探すことにした。はじめに十楽寺の宿坊を尋ねてみたが、団体さんの到着で混雑しており、これでは一人遍路の泊まる余地は無さそうだと、かってに判断し、早々に諦めた。民宿の看板も散見したが、相部屋にでもなったら気は休まらないので敬遠し、歩いている途中で見かけ、電話番号を控えていた御所温泉の旅館に電話をすることにした。5キロほどの距離だから、タクシーで行けば近い。ところが、一人だと言ったら、見事に断られてしまった。こうなったら、一旦、徳島市内まで戻ろう。そして一番良いホテルに泊まって、贅沢をすることにしよう。お遍路とは贅沢と決別するための旅でもある。あぁ、それなのに・・・である。これで16キロを歩いた苦行は水泡に帰してしまった。
納経所で職員の方に頼み、電話でタクシーを呼んでもらった。三番札所の金泉寺がある高徳線の板野駅まで後戻りすることになる。3時間も掛けて、てくてく歩いた10キロの道のりは、僅か15分でもとに戻ってしまった。何をしてるんだろう。
第八番札所 熊谷寺(くまだにじ)
納め札にも階級があった
早朝、徳島駅を発ち、昨日とは違って徳島線に乗り、牛島駅に向かった。昨日歩き終えた十楽寺に一番近い駅だろうと判断したからである。無人の牛島駅で壁に張られたタクシー会社の電話番号を頼りに、車を呼んだが、なかなか来ない。その筈だ。タクシーは二つ先の駅、鴨島からやって来た。最初から鴨島まで行けば良かったのだ。土地勘が無いと、こんな失敗をしてしまう。車は吉野川を北に向かって渡り、昨日、お参りを終えた十楽寺に向かう。
十楽寺の門前で一礼して、次の熊谷寺に足を向けた。行程は約4キロ、高速道路に添って、立派な道が続いている。車のお遍路さんには快適だろうが、歩き遍路の私には、狭い田舎道の方が良い。その方が集落に根付いた様々な情報に出会えるから楽しいのだ。
熊谷寺には立派な山門がある。高さは13メートルで、徳島県の指定文化財になっている。山門の内部には色鮮やかな天井絵が描かれている。極彩色の天女の図である。車でやってきた熟年夫婦が真剣な眼差しで見上げていたが、その出で立ちからするとお遍路さんでは無さそうだ。
山門からお寺までの距離は400メートルもあって、自然の景観を生かし、渓谷に沿った上り坂の参道が続いている。
霊場のことを札所という。願い札を納めて歩くからだ。札所は、「ふだしょ」と言うのが一般的だが、重箱読みになるので、「さっしょ」と言う人もいる。四国八十八か所の霊場には、本堂と大師堂に納札箱が置かれていて、納め札を入れていくお遍路さんを時々見かけることがある。納め札は第一番札所の霊山寺で求めることが出来るが、霊場の中でも比較的大きい寺院では納経所で販売されていた。
納め札は遍路の回数によって色分けされていて、1回から4回までが白札、5回から7回までが青札、8回から24回までが赤札、25回から49回までが銀札、50回から99回までが金札、100回以上が錦札と決められている。白札百枚セットで100円也。表には、「奉納八十八ヶ所霊場巡拝同行二人」と印刷され、弘法大師の姿が描かれている。裏側に願い事を書いて、納札箱におさめるのだが、要は「お参りに来ましたよ」ということを伝えるわけだから、私製の短冊でよいのだ。
街道沿いの古びたお堂などに、自分の名前と住所を記した紙製の札が貼られているのを見かけることがある。これを「千社札」と言うのだが、古くは木製の札であって、釘で本堂の柱や軒下に釘で打ちつけたのが、納札の始まりである。だから、四国八十八か所でも、霊場にお参りする事を「打つ」と言っている。
お札は、後に木製の札から紙製の札に変化したが、文化財に釘を打ちつけたり、糊でベタベタ貼られては困る。それで納札箱を置いて、その中に入れて下さいと言うことになったのが、今日のスタイルである。
次の札所、法輪寺までは二キロ。空模様が怪しくなってきた。いつ雨が降り出すのか気になる。
第九番札所 法輪寺(ほうりんじ)
「とうりゃんせ」はなぜ帰りが怖いのか
寒々とした田園地帯が眼前に広がる。そんな田圃の中に、一箇所だけ木々が生い茂った場所があって、そこが法輪寺である。遠くに法輪寺の森は見えるのだが、歩いても歩いても、なかなか近づけない。四国にはビジネスマン時代、仕事で何度も来ているが、こんな広々とした田園地帯を歩くのは初めてのことである。どこか日本人の心の故郷を見ているようで、懐かしさを感じる。
法輪寺を取り囲むように農道があり、何処で間違えたのか、お寺の裏手に回ってしまい、山門が分からず一瞬戸惑ったが、「入り口はここですよ」と言わんばかりに、小さなお土産屋と食堂の店構えがあった。法輪寺の狭い参道は、子供の頃に歌った童謡、「とうりゃんせ」のイメージに似ていた。
「とうりゃんせ、とうりゃんせ。ここはどこの細道じゃ。天神様の細道じゃ。ちょっと通してくだしゃんせ。ご用の無いもの通しゃせぬ。このこの七つのお祝いに、お札を納めに参ります。行きは良い良い帰りは怖い。怖いながらもとおりゃんせ、とおりゃんせ」
子供の頃にはよく唄ったが、なんとなく切なく、なんとなく恐ろしい感じがしたものだ。生まれた子の成長を天神様に祈り、無事に育った七歳のお祝いに、授かったお札を返しに行くのだろう。この唄を聴くと、孫の手を引きながら、天神様にお礼参りをする老婆の姿を思い浮かべる。なれど、帰りには子供の姿は無く、老婆が一人トボトボと、小さくて狭い天神様の入り口から出てくる光景が見えてくるのだ。
天神様の帰り道はなぜ怖いのだろう。これには色いろな説があって、食事の量が増えてくる七歳頃から必要でない子供の口減らしに、天神様のお山に捨てに行ったのだという説。「この子の七つのお祝いに・・・」は、不安がる子供を誤魔化す方便で、「行きは良いよい帰りは怖い」は、親の悲しい心情を唄ったものだと言う。
一方、帰りの道に老婆の姿は無く、子供が一人で天神様の山門から出て来るのだ、と言う解釈もある。子供は七歳までは神の領域にいると信じられ、七歳を過ぎると神の庇護から離れて、人間界に一人で放り出される。これからは自らの力で多くの災厄を払いのけ、力強く生きていかなければならないから、世間は怖いのだと言う説。
その他に、河川の氾濫が多かった地方で、七つの子供を天神様に人柱として差し出し、難を避けようとした人柱説。女の子は七歳頃からが仕事を仕込みやすいので、人攫いに狙われやすく、天神様の帰りは、人攫いの目が怖いという説などがある。
法輪寺は、江戸末期の火災で本堂が全焼し、現在の本堂は明治になって立て替えられたものだ。本尊は釈迦如来の涅槃像である。涅槃とは、釈迦が亡くなる前に、沙羅双樹の下で、最後の説法を終えて横になった姿である。
四国八十八か所、全ての霊場で本尊の「御影」を頂くことができるが、涅槃の釈迦如来が描かれているのは法輪寺だけであり、図柄としては珍しい御影である。御影は無料で頂戴できるが、西国三十三霊場、坂東三十三霊場、秩父三十四霊場ともに、芳志料は150円である。
次の切幡寺までは、約4キロ。整備された「四国のみち」は、コンクリートやアスファルトで固められていて、想像していた土の香りがするお遍路道は、まだ歩いていない。
第十番札所 切幡寺(きりはたじ)
煩わしいことは忘れて歩け歩け
切幡寺は山の中腹にある。昨日から歩き始めて最初にやってきた試練の参道である。麓には遍路宿や遍路用品のお店があって、小規模な門前町の体をなしていた。
一番札所霊山寺から、約40キロの道のりで、お遍路が一日で歩く距離である。だから初日の打ち止めとなるのが切幡寺で、門前に町が形成されているのは、そのためである。私の一日目は七番札所の十楽寺で終わったが、歩きなれていない私にとって、一日で40キロを歩くのは無理と言うものだ。25
キロを歩くのが精一杯である。
本堂に辿り着くには、仁王門から800メートルの参道を登らなければならない。女やくよけ坂、男やくよけ坂と書かれている石柱がある。手元にあるガイドブックには三百三十三の階段があると書いてあり、数えながら上って行ったけど、途中で一息ついた途端に、そのあと、数えるのを忘れてしまった。
このお寺にも、弘法大師と里の娘との物語が、縁起として伝えられていた。修行を終えた大師が山を下り、里の機を織る娘の家を訪れ、破れた衣服の繕いのために、布を娘に求めたところ、娘は織りかけの布を惜しげもなく差し出し、大師に与えたと言う。感動した大師は、娘の願いを聞き、彼女を得度させたところ、娘は即身成仏して観世音菩薩に化身した。この娘が化身した観世音菩薩が、切幡寺の本尊になっているが、弘法大師が刻んだといわれる千手観音菩薩も本尊とされ、切幡寺には二つの本尊がある。
境内の裏手、一段と高いところに切幡寺の大塔がある。標高150メートルから眺める徳島平野はゆったりとした拡がりを見せ、あくせくしながら過ごしている東京での生活を忘れさせてくれる。煩わしいことは全て忘れて、歩こう歩こう。無心になって、さぁ、気持ちよく歩くことにしよう。
第十一番札所 藤井寺(ふじいでら)
逆境は潜っていれば通り過ぎる
気になっていた雨が降り始めた。切幡寺から藤井寺までは9キロ余り。今朝から歩いた距離は既に11キロになっている。今日は藤井寺の近くに宿を予約しているので、宿泊の心配は無い。
冷たい雨は本降りになってきた。歩いているので寒さは感じないが水が靴の中にまで浸みてきて、歩き辛いこと、この上も無い。寒々と拡がる田園風景を眺めながら、ひたすら徳島平野を南下する。 昨日は、春まだ浅い田園風景に、のどかささえ感じ、先程までは日本の原風景を眺めているような心地良い気分に浸っていたのだ。にも関わらずである。雨に濡れて歩くのは惨めで、そんな心地良かった気分など、何処かへすっ飛んで行ってしまった。でも、とにかく歩くしかないのだ。
とぼとぼ歩き続けて一時間が経ったころ、道が土手に突き当たり、土手を登ると突然、目の前に吉野川と橋が見えてきた。川幅は意外と狭く感じられたが、その筈でこれから渡ろうとしている川は、吉野川にある善入寺島(ぜんにゅうじとう)という中州の北側を流れている川なのだ。善入寺島は、吉野川の河口から上流30キロのところにあって、広さが約500ヘクタールもある川中島である。大正4年までは3000人の人が住んでいたという記録が在るが、度重なる洪水から下流域を守るため、国が全島を買い上げ、今では遊水地として管理されている。
善入寺島に渡る大野島橋は潜水橋であり、欄干が無く、水面近くに設置されている。洪水時には水面下に潜って、橋の上を通過する流木や土砂をやり過ごし、水が引き、再び水面上にその姿を現すまで、じっと奔流に耐えている。人の世もまた然りである。我が身が逆境にあると自覚したときには、おかれた境遇に逆らわず、嵐が過ぎるまで息を潜めて耐えていれば、明るい未来が見えてこようと言うもの。止まない雨はない。
橋の幅も狭いので車はすれ違うことが出来ない。あくまでも近在に住む人々の生活道路である。でも、車が渡っている。歩行者は橋の途中に作られている出っ張りに体をよけて、車をやり過ごしている。大野島潜水橋を渡り、広い川中島を横切り、吉野川の本流に差し掛かると、今度は川島潜水橋を渡る。川幅は広く、潜水橋の規模も大きいが、その構造は先程渡ってきた大野潜水橋と同じである。橋の長さが大野潜水橋より長いので、それだけ歩行者にとって危険度は高い。
橋を渡ったところに休憩小屋があったので、暫らく休むことにした。雨水は靴の中まで染み通り、靴の中をタオルで丁寧に拭いて、濡れた靴下を取り替えた。しかし、一度靴を脱いで休めた足は、再び靴の中に入ることを拒む。まだ日は高い、藤井寺までは4キロ足らずの距離なので、ゆっくりと足を休めることにした。
疲れた足をなだめながら、再び歩き始める。相変わらず、雨は降り続いている。下半身は下着までびしょ濡れで、足も重いが、体も重い。国道192号線に出ると、鴨島の方向へ走る空車のタクシーを見かけた。一瞬、「タクシーに乗ろうか・・・」と言う誘惑に駆られたが、堪えた。でも・・・、やっぱり・・・、今度タクシーが来たら止めることにしよう。
タクシーが来た。乗ろうか、乗るまいかと迷っている間に、私を追い越して行った。3台目のタクシーが来た。運転手が私の方を覗き込むようにして、速度を落として通り過ぎた。
足が痛くて、体が重くて、その上冷たい雨が降り続いているので、気分まで滅入ってしまう。いよいよ四国お遍路の難行苦行が始ったのだ。何で、こんなこと、してるんだろう。お遍路二日目にしてこんな体たらくでは、先が思いやられる。
古い山門をくぐると、石段の向こうに本堂が見える。こじんまりとまとまったお寺である。藤井寺にお参りして、門前の「ふじや本家旅館」に泊まった。濡れた靴を拭き、明日の朝までに乾くように新聞紙を詰めておく。まだ、冬の名残のある寒い季節だし、宿泊しているお遍路さんは、私を含めて3名しか居なかった。
第十二番札所 焼山寺(しょうさんじ)
重たいものは捨てて軽くなろう
藤井寺から焼山寺までは、16キロの山道で、登り下りを繰り返しながら、標高800メートルにまで登り詰める。昨日まで歩いてきた自動車が走る道とは違って、本物の遍路道である。四国八十八か所を歩き始めて最初の難所であり、遍路ころがしと呼ばれている。
観光バスや、自家用車でやってくるお遍路さんは、大きく迂回して焼山寺に向かう。だから、門前の旅館に泊まっているのは、焼山寺道を歩くお遍路さんだけである。雨が降り続いている。早朝、まだ暗いうちに、宿の心づくしのおにぎりを頂き、足元を固めて出発する。
藤井寺の本堂脇に焼山寺への上り口があり、歩き始めると、山道に沿って四国八十八か所の霊場を模した古色蒼然とした趣の祠が続いている。まさしく信仰の道だ。この道は、空海が修行し、足跡を残して行った当時のままなのだろうか。
雨は小降りになり、霧雨になってきた。1時間ほどの上り坂が続いて、少し下ったところに茶店の長戸庵がり、暫らく休憩することにした。海抜416メートルとあり、一気に400メートルを上ってきたことになる。次の茶店、柳水庵までは約3キロで、登り下りを繰り返しながら雨に濡れた山道が続く。後から登って来た若い男性のお遍路が、私を追い越して行った。夕べ、ふじや本家旅館に同宿した一人だ。
柳水庵から一本杉庵に向かう道は、急な上り坂が続き、木の根が張り出し、石が転がっている。足元に注意を払いながら一歩一歩進んでいくのだが、疲れている足は時々石を踏んでは滑り、木の根につまずいてはたたらを踏む。ここで転んだら、本当に遍路ころがしだ。背中の荷物が重たく感じられる。重たいものは捨てて、身軽になって歩きたい。
軽くなろう、軽くなろう。重いものはみんな捨てて、軽くなろう。何一つ身につけずに、念仏唱えて歩きまわった一遍さんのように、軽くなろう。 坂村真民
これは1998年版の私の手帳に書きとめられていた詩である。今から10年も前で、それまで勤めていた会社を定年になり、子会社の嘱託になった年である。こんなメモを記していたと言うことは、長いビジネスマン生活から開放された筈なのに、まだ何か重たい荷物を背負って苦しんでいたのかもしれない。もう忘れてしまっている。
一本杉庵からの道は下りになり、左右内集落を過ぎると、また急な上り坂に差し掛かる。焼山寺の山門までは、あと2.5キロ。杉木立は霧雨に煙って、見上げる風景は乳白色に覆われている。その向こうには空が広がっているのか、杉木立が続いているのか判別がつかない。もう、いい加減に焼山寺が見えてきても良い筈なのだが、歩けどもあるけども辿り着かない。見上げる杉木立の向こうに白い壁の様なものが見える。やれやれ着いたか、と思ったのも束の間、それは濃い霧が壁を造っていたのである。
霧の中から忽然と、焼山寺の山門が現れた。山門の屋根にも本堂の屋根にも、うっすらと雪が積もっていた。
お参りを済ませ、納経所で御朱印を頂く。御朱印料300円を支払うと「お車代、800円を頂きます」と言われたが、何のことか分からない。焼山寺では、特別に車代と称して入山料を取っているのかも知れない、と一瞬考えたものの、どうも納得がいかないので、何のことか聞き返したら、駐車場料金のことで、私が車で登ってきたのだろうと勘違いしたらしい。そりゃそうだ、こんな寒い雨の日に、歩いて登ってくるお遍路なんて、そうそういるわけが無い。歩いて登って来ました、と応えたら怪訝な顔をしていた。疑われているようで、ちょっと、不愉快になる。
藤井寺を発って、五時間半が経過し、時計の針は11時30分を指している。境内の脇に、お遍路さんが休憩する食堂と売店がある。ストーブで暖を取りながら、きつねうどんを注文し、今朝、宿を発つときに頂いたおむすびを食べた。
仕事の都合もあり、今日中に東京まで帰らなければならない。事前に調べておいた路線バスの時間を再度確認して、12時に焼山寺を後にした。麓の焼山寺バス停までは、3キロ強。神山町営バスが、神山町の寄井まで、午前と午後の二便に分けて走っている。1時15分のバスに間に合わせなければ、今日中に東京には帰り着けない。
バス停の周りには三軒の民家があったが、真昼間だというのに人影は一切見かけない。こんな山奥まで、本当にバスが来てくれるのだろうか、不安になる。バスは焼山寺バス停が折り返しになっており、10分ほど遅れてマイクロバスが到着した。運転手は役場の職員で、出掛ける前に用事が入って、遅れたとのこと。15分間の車内には、私以外の乗客はいない。神山町役場前から始発の徳島行きバスに乗り換え、1時間10分で徳島市に到着した。
第一回目のお遍路の旅は三日間で、第一番札所の霊山寺から、第十二番札所の焼山寺バス停まで。歩行距離は約55キロ。
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