同行二人 三割引のお遍路
     
四国へ


第13番大日寺から第23番薬王寺まで
2003年5月14日~5月17日


嘉藤洋至
 
 思い立って四国お遍路の旅に出たのが2003年の3月。第一番札所の霊山寺から第十二番札所の焼山寺までの、おおよそ55キロの道のりを三日間かけて歩いた。その後、一ヶ月が経ったころには、辛かった焼山寺までの苦行を忘れ、次のお遍路計画を練り始めていた。しかし、所用が重なり2回目の旅立ちは、二ヵ月後の五月中旬になってしまった。
 八十八の霊場を、仕事や体調に合わせながら何回かに分けて歩くことを「区切り打ち」と言い、一度の旅で八十八箇所全てを回る事を「通し打ち」と言う。また順番どおりに回る事を「順打ち」逆に回る事を「逆打ち」と呼んでいる。順番を無視して、その時そのときの都合で回る事を、
「乱れ打ち」と言うこともある。

 私の場合は区切り打ちであり、それに「キセル打ち」でもある。お遍路さんの用語には、キセル打ちという使い方、言い方は無いが、東京から出かけて、それ以前に巡拝を終えた札所から、今度出発する札所までの区間を歩かないで飛ばしてしまうから、私が勝手にこう呼んでいる。
 「キセル」とは、今時なじみの無い言葉だが、煙草を吸う道具で、吸い口と煙草を乗せる雁首には金属が使われているが、中間は竹管が使われていることがほとんどである。かつては、交通機関を利用する際にキセル乗車という不正な行為が話題に上ったことがある。これは改札の入り口と出口では切符を買うが、中間は運賃を払わない。即ち金を使わないので、これがキセル乗車の語源となっている。 私のお遍路も有効区間が連続せず、所々途切れている。だから「キセル打ち」なのである。

第十三番札所 大日寺(だいにちじ)

   私の遍路はキセル打ちである


2003年5月中旬、この日も雨。徳島空港からバスを乗り継いで、大日寺までやってきた。前回歩き終えた、第十二番札所、焼山寺の麓にあるバス停から、大日寺までは、おおよそ23キロほどの道のりで、この間は歩いていないことになる。即ち、私の言う「キセル」で、歩き遍路不連続区間なのだ。
 四国八十八箇所には、大日寺と言う札所が3箇寺あって、第十三番札所大日寺は徳島平野の南に位置し、吉野川の支流鮎食川のほとりにある。門前の道を隔てて、鬱蒼と生い茂った森の中に、阿波一ノ宮神社があった。大日寺の栞によると、諸国に国の総鎮守である阿波一宮が建てられたとき、その別当寺として、一宮を管理したと書いてある。明治の神仏分離によって、今の姿になり、敷地は道路で分断されていた。
 札所を廻っていると、その境内に神社があったり、また鳥居が建っているのを見かけることがある。明治の神仏分離によって両者の関係が絶たれ、その名残として神社の痕跡だけが残っているのである。 もともと日本人の心の中では、仏と神は互いに融合しあい一体のもとして、素朴な信仰対象であったのだが、この神仏習合の慣習を禁止し、神道と仏教、神社と寺院をはっきりと区別しようとしたのが明治の神仏分離令である。神仏分離令は仏教の排斥を意図したものではなかったのだが、一部の神官や国学者が扇動して、廃仏毀釈運動が起こり、各地の寺院が焼かれ、貴重な仏像が破壊されてしまった。 大日寺と言うからにはご本尊は大日如来だと思い込んでしまうが、この明治維新の神仏分離を経て、なぜかそれまでの大日如来から十一面観世音菩薩に代わっている。また廃仏毀釈の騒動に巻き込まれ、貴重な寺宝は失われてしまったと言う。
 大日寺の屋根瓦は、黒々と雨に濡れていたが、今回は雨具の準備も怠り無く、雨の中を歩くことにさほどの抵抗はない。鮎喰川に沿って続く平坦な遍路道を常楽寺に向かった。

第十四番札所 常楽寺(じょうらくじ)

  寿限無、寿限無、五劫の擦り切れ


常楽寺の本尊は弥勒菩薩である。八十八箇所の霊場で、本尊が弥勒菩薩なのは、常楽寺だけだ。弥勒菩薩は、釈迦が入滅して56億7千万年後に如来になり、釈迦の救いが得られなかった人々を救済すると言われている。なんとも気の遠くなるような、想像をはるかに超えた、遠い未来の話しだが、仏教の説話の中には壮大な宇宙感があって、そこから見る地球は、小さな存在である。ましてや、その中でウロウロしている人間なんて、微生物の様なものだ。
 落語に「寿限無」というのがある。「寿限無、寿限無。五劫の擦り切れ、海砂利水魚の水行末、雲来末、風来末。食う寝る処に住む処。やぶら小路ぶら小路。パイポ、パイポ、パイポのシューリンガン、シューリンガンのグーリンダイ、グーリンダイのポンポコナー。長久命の長助。」と言うこれである。 生まれた子に、めでたい名前を付けようという話になり、縁起の良い言葉を紹介してもらって、迷った挙句に全部つけて、とんでもなく長い名前になってしまったと言う話。
 その中に「五劫の擦り切れ」と言う部分がある。「劫」とは仏教説話の時間の単位で、一劫はおよそ43億年と言われている。どのくらい長いのかと言うと、四十里四方の岩に、3年に一度天女が舞い降りて、その衣で岩を撫ぜ、その繰り返しで岩が擦り減って無くなってしまうのが一劫である。だから、弥勒菩薩が如来になるには、寿限無の五劫より近未来と言うことになる。いずれにしても、仏様の世界から程遠い暮らしをしている私には、この宇宙観は「未来永劫」理解できないだろうし、考えるのも「億劫」なくらい遠くて想像もできない時間なのだ。
 こうやってテクテク歩いている八十八箇所の道のりは遠く、いつ満願出来るのか分からないけれど、弥勒菩薩の説話から見れば、こんな動きなど、ちっぽけなものなのだ。私の存在なんて、寿限無の「海砂利水魚」じゃないけれど、海の中の砂利の一粒か無数の魚の一匹でしかない。なれど、八十八箇所を歩き終えたときには、何か生かされていることの意味を悟ることが出来るのかもしれない。
 常楽寺は岩盤の上に建っている。まさか天女が舞い降りると言う四十里四方の岩ではないが、境内はでこぼこの奇岩で覆いつくされていて、雨に濡れた足元は滑りやすく危険である。雨を避けて本堂脇の軒下を借り、途中で買ったアンパンと牛乳で腹ごしらえをした。第十五番札所の国分寺までは700メートルの距離。のんびり行くことにしよう。

第十五番札所 国分寺(こくぶんじ)

道は時空を越えて繋がっている


 四国八十八箇所には国分寺という札所が4箇寺ある。第十五番札所阿波の国分寺、第二十九番札所土佐の国分寺、第五十九番札所伊予の国分寺、第八十番札所讃岐の国分寺である。
 国分寺は、聖武天皇が741年に国状不安を鎮撫するために各国に国分尼寺とともに、建立を命じた寺院である。各国には、国分寺と国分尼寺が国府の側に置かれ、その国最大の建造物であって、壮観を呈していたと言われている。
 東京都下に国分寺という地名が残っているが、近接して府中がある。府中とは、国府の別称であると私は解釈している。阿波国分寺も、徳島市国府町にあり、近くをJR徳島線が走っているが、最寄りの駅は「こう駅」だが、「府中駅」と書いてある。
 府中は徳島市に合併する前の、名東郡国府町府中であって、江戸時代に徳島藩が「府中」は「不忠」に通じるため、「孝」即ち「こう」と読み変えさせたのである。
 国分寺本堂の周りには広大な庭園がひろがっていた。栞によると、桃山時代初期に造られたものだという。自然の巨大な石を配置して、力強さを感じるものの、美的感覚に乏しい私には、その造型から何を感じ取ったらいいのか分からない。
 国分寺の西に気延山と言う海抜200メートルほどの山がある。そこには多くの古墳があり、古代の人々の生活の様子を伝える出土品が多数見られ、麓には阿波史跡公園が整備されていた。
 この地方には、弥生時代から人が住み着き、古墳時代、飛鳥時代、奈良時代、平安時代、そして現代に至るまで、二千数百年にわたる長い人間の営みがある。古代の人達が踏み固めて出来上がった山裾の道を、今の私は歩いている。この道は古代から時空を超えて繋がっている。そして四国八十八箇所を廻る一筋の道にも繋がっているのだ。私は不思議な感覚にとらわれながら、雨に濡れた道を、ただ黙々と歩いている。
 「私の前には道は無い、私の後には道が出来る」と言う意味の事を言った人物がいる。人生訓としては理解できるけれども、その人は私にとっては、羨ましいほどの自信家だ。先人が道を付けてくれたからこそ、今の自分が有るのだと思っている。

第十六番札所 観音寺(かんのんじ)

   白衣は遍路のセフティジャケットだった


国分寺の山門を出て、石柱に刻まれた「右へんろ道」の標識を頼りに観音寺に向かって歩き始めた。既に雨はやんでいる。今回の遍路のために、大枚を払って買い求めた、ゴアテックのレインウエアを脱ぎ、身軽になった。ハイテク技術で通気性の良い素材だと言うウエアだが、この季節、長距離のテクテク歩きにはやはり不向きで、雨具を取ったら、蒸れきった身体から熱が発散されて、気分爽快になる。この時期は雨に濡れながら歩いた方が良いのかもしれない。
 広々とした田園地帯に出た。遠くに府中の町並みが見える。町並みの遥か向こうには、讃岐山脈が霞んでいる。足元の道端には、雑草が生い茂り、季節の終わりを迎えたレンゲの花も、まだまだその可憐さを失っていない。長閑である。
 もの思いに耽りながら歩いていたのかも知れない。遍路道から外れているようだ。このまま真っ直ぐに伸びている農道を進むべきなのか、それとも後戻りして遍路道を確認すべきなのだろうか。迷っていると、自転車で追い越して行った老人が、50メートルも先から引き返してきた。
 「あんた、お遍路さんかい。十六番は、もう一つ向こうの道だよ」と、教えてくれた。
 「どうして白衣を着てないのかねぇ、白衣を着よったら遍路さんちゅうて直ぐに分かるから、みんな親切に道を教えてくれるんよ。白衣を着んとあかんでぇ」と、忠告されてしまった。なるほど
そうだったのか。白装束はお遍路さんのユニホームであり、セフティジャケットなのだ。前にも触れたけれど、白装束はなぜか照れくさくて、普段着のままで歩いている自分を恥じた。

 観音寺は町並みの中に溶け込んでいた。道の両側には商店が軒を連ね、その一角に、重層の山門があり、日常生活での信仰の空間がそこにある。一日の暮らしが始まる前に、地元に暮らす人たちが門前で手を合わせ昨日までの無事を感謝し、そして今日からの平穏を祈る空間といった雰囲気が漂っている。四国八十八箇所の札所は、修行の場所であったため、多くの寺院が参詣を拒むかのような難所にある。観音寺のように、周辺に住む人たちの生活の一部として溶け込んでいる例は少ない。
 観音寺の本尊は千手観音で、その御影から想像されるように、ヒンドゥ教の影響を受けた観音様である。またまた不謹慎だが、その容姿は不気味で、私には親しみが持てない。

第十七番札所 井戸寺(いどじ)

国分寺と府中と小金井


井戸寺の山門は朱に塗られた立派な門構えで、武家屋敷の長屋門に似ている。本堂は昭和43年の火災で全焼し、現在はコンクリートの建物になっていて、境内もコンクリートで固められている。だから鬱蒼とした樹木に包まれ、踏みつける砂利の音を聞きながら参道を歩いている時のような、あの厳かな雰囲気はまるでない。
 井戸寺は国分寺の北、ほぼ4キロの所にあり、地名は徳島市国府町井戸北屋敷である。国分寺の在るところ、あるいは国府や府中の地名が残っている所には必ずと言って良いほど井戸を表す地名が残っている。東京都下の例で言えば、国分寺市であり府中市であり小金井(こがねのいど)市である。栃木県には、合併によって下野市になっているが、国分寺町があり最寄り駅に宇都宮線小金井駅の名前が残っている。
 各国に点在する国府が、それぞれいつの頃に設置されたのか、その詳細はいまだ不明な点が多いが、律令国家の形成とともに展開されたことには間違いない。このとき、国府の位置を定める条件の一つとして、良質の水が得られる場所を選んだことが、現代に残された地名によって分かる。
 井戸寺の縁起によると、この地に留まった弘法大師が、水質の悪いのを憂いて、錫杖で井戸を掘ったところ、清水がこんこんと湧き出て、大師の姿を写したという。弘法大師が掘ったという井戸は、今でも本堂の脇にあり、「面影の井戸」と呼ばれている。面影の井戸に自分の影が映ったら、3年間は無事平穏に過ごせるが、映らなかったら3年後に何か良くないことが起きると言う言い伝えがある。私も映してみたが、ちゃんと映っている。迷信だと分かっているが、先ずは一安心である。それにしても3年間と言うのが気になる。3年経ったら、またお遍路に来なければいけないことになるのか。
 十三番大日寺から十七番の井戸寺まではおおよそ7キロの道のりだが、地元にはこの五つの札所だけをお参りする五箇所参りと言う風習があるという。春の田植えのころに家族や隣近所を誘って出かけるのである。この風習に従えば、面影の井戸に毎年自分の影を写し、無事平穏を願うことが出来る。
 大日寺に着いたのが午前11時。そこから歩き始めて4時間半が経っている。歩いた距離はおおよそ7キロだが、のんびりと歩いてきたので予定外に時間を費やしてしまったようだ。次の十八番恩山寺までは20キロの距離があり、今日中に辿り着くのは無理である。今日の宿泊地は中間地点の徳島市内と決めて、7キロの道のりを歩き始めた。広々とした平野には、青々とした水田が遠くまで重なっていた。 徳島平野は、吉野川を挟んでほぼ東西に細長く続いている。西日本の地図を広げてみると、愛知県の渥美半島、三重県の櫛田川、和歌山県の紀ノ川、そして徳島県の吉野川、愛媛県の石鎚山脈、佐多岬半島、大分県を経て熊本県天草諸島まで、直線状に奇妙な地形が浮かび上がってくる。
 小学校六年の時、社会科の時間に地図を見ながら、「線が見える」と言ったら、先生に、「お前乱視じゃないのか」と、言われた記憶がある。とっくに廃校になった片田舎の小学校でのことだから、笑い話で済ましておくが、これは1億年から2億年前の白亜紀、ジュラ紀に日本列島が変成された痕跡であり、中央構造線と呼ばれている。私は乱視ではなかった。
 鮎食川を渡り、市街地に入ると、徳島市のシンボルである眉山と、それに続く山並みが右手に見え初める。徳島市の中心街はまだまだ先なのに、足の親指の付け根に違和感を覚え始め、道端に座り込んで足の手入れをすることにした。足の手入れと言ったって、特別の事をするわけではない。靴の中の湿気を丁寧にふき取り疲れた足を空気に晒し靴下を取り替え、親指の付け根に絆創膏を張るだけなのだ。 その日は、徳島市内の繁華街に近いビジネスホテルに宿をとった。

第十八番札所 恩山寺(おんざんじ)

何んにも無い、何んにも無い


早朝7時にホテルを発って、小松島市に向かって歩き始めた。徳島市にはビジネスマン時代、仕事で何度も訪れているので、年月は経たと言うものの、懐かしい建物が目に飛び込んでくる。恩山寺までは市街地が続く13キロの道のりで、難所は無い。3時間を予定している。
 しかし、3時間歩き続けるのは辛い。藤井寺から焼山寺までの山道に比べれば、ずっと楽なのだが、なんせコンクリートの自動車道を歩くのは足に負担が掛かって疲れる。それに、目に映る風景は、東京の郊外とさほど変わることが無い。疲れを癒してくれるような風景には出会わない。だから余計に疲れる。 何も考えないで、ただひたすら歩いてみたい。なれど邪念と雑念と妄念が次から次へと入り乱れて一向に落ち着かない。先人はただひたすら歩いて無の境地に辿り着くと言う。凡人の私には、そんな心境になれる心のゆとりは無さそうだ。私は呪文を唱えながら歩いている。「何んにも無い、何んにも無い。忘れろ、忘れろ。」
 3時間以上は歩き続けている。足の疲れがピークに達し、歩く速度が鈍っている。川の向こうにお寺らしき大きな甍が見えてきた。やっと辿り着いたのかと思い勇躍。橋をわたって左手に折れ、土手伝いに歩をすすめる。
 違った。恩山寺ではなかった。恩山寺はまだ1キロ先だとの標識があった。早く休みたい。難行苦行修行だ修行だ、歩け歩け。
 樹木に覆われた参道を登り、さらに石段を登って、本堂に辿り着く。石段の両脇には薬師如来と書かれた数本の赤い幟がはためいていて賑々しい。
 ツアーお遍路の一行と一緒になって、般若心経を唱えるのが恒例になってきた。その繰り返しで札所を十箇寺も廻れば、般若心経を諳んじてしまう。般若心経は262の文字で、仏教の悟りを説明しているのだが、そこには「無」という文字が21字も出てくる。般若心経が覚えられない間は、ただひたすら、「何んにも無い、何んにも無い」を繰り返して唱えていればよいのだと私は思っている。
 「空」の文字も6字ある。「空」と「無」はどこがどのように異なるのか、私にはよく分からない。しかし般若心経では明らかに区別している。私は「空」は数字のゼロで、空っぽと言う概念なのだと、勝手に解釈している。だから、全てを忘れて頭の中を空っぽにしたいのである。私が歩きながら唱えている呪文の訳は、そういうことなのだ。
 般若心経の中に「色即是空、空即是色」と言う文言がある。般若心経は知らなくとも、この文言だけは知っている人が多い。一方で、この文言が般若心経の一部だと知る人は少ない。色は、すなわち、これ空なり。その意味を問えば、不倫は、おもてに表れないときは楽しいものだが、ひとたび発覚しようものなら、苦しい代償を支払わなければならない。だから「不倫は虚しいものだ」と答える人がいるかもしれない。
 「色即是色」つまり仏教は「かたちあるもの(物質・事物・現象)それは空と同じことなのだ」だから「あらゆるものにとらわれるな」と説いている。凡人には理解できないが、取敢えずは物事に執着するな、執着したって無駄だよ、何にも実体が無いのだから、という意味に捉えておこう。
 つまりは、目の前にどんなに素敵な人が居ても、それは実体の無いもので、いずれ無くなって行くのだから執着してはならないのだ。そのように解釈すると「色事は空しい」と言う解釈も、必ずしも間違ってはいないかもしれない。

第十九番札所 立江寺(たつえじ)

お遍路の関所を無事に通過した


 恩山寺から5キロ弱の道のりを一気に歩いて、立江寺に着く。疲れた足も歩くことに慣れてきたようだ。立江寺は小松市の町中にあり、関所寺である。関所寺は阿波、土佐、伊予、讃岐の各国に一箇寺ずつあって、罪人や邪心を持っている人は、弘法大師の咎めを受け、これから先の札所には進めないと言われる遍路の関所なのだ。私は、十善戒全てに違反はしているけれど、罪人と言われるほどの罪ではないし、私の邪念は人を陥れようと言うほどの妄執ではない。
 関所寺の仁王門を無事に通過して境内に入る。高野山の別格本山であり、広々とした空間に諸堂が建ち並んでいる。
 立江寺には、恐ろしい「お京伝説」が伝わっていた。立江寺の栞から抜書きする。
 石見の国、浜田の城下町に、桜屋銀兵衛というものがおり、その娘お京は大阪で芸妓をしているうちに要介という男と結ばれて、郷里に帰って夫婦になった。ところが、お京は鍛冶屋長蔵と密通し、長蔵をそそのかして夫要介を殺害し、四国に逃れてきた。この時、お京27歳とある。
 追っ手からの逃れるためなのか、罪滅ぼしのためなのか、二人は遍路となって、立江寺までやってきた。春の夕方、本堂にぬかずくや否や、お京の黒髪はたちまち逆立ちとなり、釣り下がった鉦の紐に絡まって巻き上げられてしまった。お京が住職に懺悔をすると、髪の毛ごと頭皮がはがれ、かろうじて命だけは助かったと言う。その後、二人は罪を悔い、立江寺の近くに庵をむすび、地蔵菩薩を念ずる日々を送った。と言うのが伝説のあらましである。
 立江寺は、やはり遍路の関所だった。お京伝説を知ると己の罪を多少なりとも懺悔しないと、なぜか不安になってしまうような雰囲気がある。いつもよりは声高に般若心経を唱え、亡き妻の冥福を祈り、いたらなかった己を責めていた。涙がこぼれてきた。
 次の鶴林寺までは14キロの道のりがある。今朝から18キロは歩いているので、一日の歩行距離としては私にとって限界が近づいている。しかし、まだ日は高い。出来る限り歩き遍路でありたいと言う気持ちが強く、躊躇いはあったが、ガイドブックの記述を頼りにバスで移動することにした。

第二十番札所 鶴林寺(かくりんじ)

倒産会社のオヤジに間違われてしまった


 途中でバスを乗り換え、鶴林寺への登山口、生名鶴林寺下で下車する。鶴林寺は標高570メートルの山頂にあり、遍路ころがしと言われる胸突き八丁の参道がこれから4キロメートル以上も続くのだ。  自動車道があり、山肌を蛇行しながら山頂に向かっていて、お遍路道の急坂は、その自動車道を串刺しするように頂上に向かっている。自動車道を横切るたびに、目の前を車遍路が通り過ぎる。疲れた足を労わりながら歩いている私には、自動車のエンジン音が無常に響く。
 お遍路道は道幅が狭く、雑草が生い茂り、おまけに石がごろごろと転がっているので、歩き難いことこの上もない。山道の木の枝には、遍路道と書かれた札が掛かっている。札には同行二人とも書かれている。「あと一息」と励ましの言葉も書かれている。ほんとに歩き遍路には出合うことがないのだが、ぶら下がっている道しるべを見るたびに、仲間が側にいてくれるような安堵感が湧いてくる。
 道端の丁石に二丁と書かれていた。一丁が109メートルだから、山門まではあと220メートルと言うことになる。
 納経所で声を掛けてきた人がいた。「早いですねぇ、もう登ってきたんですか」、遍路道を歩いて登っている私を、途中で見かけた車遍路の人だった。
 本堂は安土桃山時代に立てられたものだといい、鎌倉時代の運慶の作だといわれている四天王の像もある。四天王とは持国天、増長天、広目天、多聞天で、寺院の須弥壇の四隅に安置され、如来や菩薩を守る役割を担っている。私はこの四天王の名前を覚えるのに「じ(持)ぞう(増)に、こう(広)た(多)、つまり、地蔵に乞うた」と覚えている。
 この日は宿坊に泊まることにした。ツアーお遍路の団体客が既に入っていたが、幸いなことに一人部屋が空いていると言う。疲れた足を投げ出し、鼾を気にせずゆっくりと休むことが出来る。宿坊に泊まれば、翌日は早朝から本堂に集まり勤行に参加しなければならない。別に義務付けされ、縛られているわけではないけれど、一宿一飯の恩義に預かり、ましてや仏の世界を垣間見ようとする遍路にとっては、当然の勤めと言うものである。住職の法話を拝聴し、心洗われて次なる札所に向かうことになる。ツアー遍路ご一行様と、大広間で朝食をとっているとき、隣に座っていた老婦人が「大丈夫ですよ、必ず景気のよいときも来ますよ」と、声を掛けてきた。寝足りなくて、視点が定まらず、ぼんやりとしている私をみて、不渡り手形を抱え、資金繰りに悩んだ零細企業のオヤジが一人遍路に出てきたとでも思ったらしい。「はぁ、有り難う御座います」と、応えたものの、後の会話が続かない。確かに悩みは抱えているのだが、私の悩みはそんな現実的な悩みではない。夢を追い求め、なかなか実現に至らない焦りからくる贅沢な悩みなのだ。
 それにしても、そんなに暗く、腑抜けた顔をしていたのか。

第二十一番札所 太龍寺(たいりゅうじ)

疲労性思考停止で無の境地になる


 明け方の鶴林寺境内は静かである。ツアー遍路のご一行様はまだ出発前のようで姿が見えない。それぞれが宿坊の部屋にこもっているようだ。頬にひんやりとした朝の感触が伝わってくる。清々しい雰囲気に浸りながら、明るい表情を取り戻そうと意識している。さぁ出かけるか。
鶴林寺から太龍寺までの遍路道は、ガイドブックによると6.7キロとある。それほど長い距離ではないが、自動車で移動するには大きく迂回するので、30キロの道のりはありそうだ。
 昨日、喘ぎながら登ってきた遍路道とは逆方向に続く山道を下り始める。枯れ葉が積もった山道は滑りやすく、足元に気をつけながら、ゆっくりと下る。
 30分ほどして那賀川のほとりに出た。自動車道を500メートル歩き、水井橋を渡る。自然に溶け込んだ那賀川の緩やかな流れを見ていると心が和んできた。再び遍路道に入った。太龍寺は標高600メートルの山頂近くにあり、これから4キロほどの急峻な山道が続くのだ。
 誰も歩いていない。道には蜘蛛が巣を張っていて、手で払い除けながら歩いている。倒木は道をふさいでいるし、石はごろごろ転がっている。水を含んだ落葉が積もっている。歩き辛いこと、この上もない。人が歩いた痕跡は見当たらない。
 本当にこの道で良いのだろうか、と言う不安が湧き上がってくる。そんなときに遍路道を示す赤い布切れを見つけると心底から安堵する。道しるべを付けてくれた人がいたからこそ、私は歩くことが出来ている。人は何かしら不安を抱えながら暮らしている。道しるべになれる人間でありたいものだという殊勝な気持ちが湧いてくる。 
 急な坂道が続き、喘ぎながら足を進めている。鶴林寺を出発するときに調べたガイドブックの距離から、かなり甘い判断をしていたようで、遍路道の厳しさは距離では測れないことを思い知らされた。兎に角、「ゆっくり、ゆっくり」と、足に言い聞かせるようにして、少しずつ少しずつ歩を進める。息遣いは激しくなり、足は重く、すでに思考力は無の状態になっていて、雑念など湧いてくる余裕は残っていない。疲労性思考停止で無の境地になるなんて、情けないことだ。
 見晴らしのよい場所に出たので、すこし休むことにした。チョコレートを口にして草の上に寝転び、雲の流れを目めで追った。自動車道からは遠く離れているので、騒音は全く無い。耳に聞こえてくるのは、鳶の長閑な啼き声だけだ。
 すこし元気が出てきた。立ち上がろうとして、よろけ、転んでしまった。ズボンのポケットから食べ残したチョコレートが転がり落ちた。ついでに邪念の一つも落ちてくれれば良いのにと思う。
 4キロの険しい山道はあまりにも遠い。何度となく、道に迷ったのではないかと言う不安と戦いながら、麓から歩くこと二時間、老杉が林立する中、太龍寺の仁王門が見えてきた。私が歩いてきた遍路道とは反対側にロープウェイがあって、ツアー遍路の一行が次々に登ってくる。ロープウェイの所要時分は僅かに10分である。私は二時間も掛けて、喘ぎながら登ってきた。この違いはなんだろう。歩く苦行によって滅罰を願い、宗教的な目的を達成したいと言うのが、お遍路の本質ではないのか。と、まぁ堅苦しく考えることは止めて、帰りはロープウェイを利用することにしよう。
 納経所には御朱印を頂く長い列が出来ていた。団体のお遍路さんの後に付くと、長い間順番待ちをさせられる。「この方はお一人のようだから、先に御朱印を押してあげて・・・」、団体遍路の老婦人がそう言って納経所の職員に声を掛けてくれた。あり難くお礼を述べて、先に御朱印を頂き、太龍寺を後にした。

第二十二番札所 平等寺(びょうとうじ)

ヘンロ小屋で出会った若者が羨ましい


 鶴林寺、太龍寺の難所を越えたあとは、苦行をしないで歩ける道になる。ただ、足の疲れは相変わらずで、歩く速度は遅い。山村風景は私が子供の頃に育った中国山地の山あいの村に似ていて、懐かしさを覚える。
 平等寺に向かう途中、阿瀬比と言う部落で、真新しい休憩小屋を見かけたので休むことにした。休憩小屋の脇にお遍路さんをデフォルメした標識が建っていて、「ヘンロ小屋・第3号・阿瀬比」と書いてあった。ヘンロ小屋は国道脇にあり、民家に近く、辺りには田圃が広がっていた。
 この「ヘンロ小屋」と言うのは、徳島県海南町出身で近畿大学教授・建築家の歌一洋氏が提唱して、歩き遍路のためにボランティアで設置した休憩小屋である。2001年から推進されて15年間で、四国一円、89箇所に設置しようと言う、大プロジェクトなのだ。
 歌一洋氏のヘンロ小屋展開趣意書のなかに、ヘンロ小屋を通して、「人と人、人と自然とのふれあいや支え合いの精神が広がり、深まることを祈って・・・。」と書かれていた。また、「お遍路の文化は、1200百年ものあいだ、地元の人たちによって脈々と受け継がれ、祈りを体現したシステムとして『お接待』と『循環性』というカタチは世界では類をみない。」とも書かれている。
 私の後から白装束に身を固めた若いお遍路さんが入ってきた。「お若いのに、感心ですね」と、声を掛けると、笑顔で頷いた。「どちらから?」「京都からです」、短い会話のあとは、話すこともなく沈黙が続いていた。
 ヘンロ小屋にはお遍路さんが様々な感想を書き連ねているノートが置かれていた。ページを繰りながら、「・・・皆さん、色々な思いで、お遍路に出て来たんですねぇ・・・」と、それとなく若者がお遍路の旅に出てきた動機を探ってみた。すると意外な答えが帰ってきた。「お遍路のことを卒業論文のテーマに取り上げようとおもって、先ず自分で歩いて見なければと思ったのですが・・・。一口にお遍路と言ってみても・・・。ここまで歩いて来たけど、テーマが絞りきれません。」
 若者は土地の人たちが「接待」と言う行為を通じて、どのように信仰と関わっているのかに興味を持ったようだ。しかし、それは土着の人でしか理解できそうもなく、未熟な自分には重過ぎるテーマだったように思う、と言う意味のことも付け加えていた。私にはこの若者が羨ましく思えてならなかった。
 私は、長いビジネスマン生活から開放され、その後の四年間、大学に通い地理学を学んだ。歴史地理学の見地から四国八十八箇所の成立過程を捉えてみたかったのだ。しかしテーマが過大で、大学生活の四年間では手に余るものであった。後日、子供達には、「あれだけ楽しそうに大学に通っていたお父さんが、なぜ四年で卒業してしまったのか。卒論を提出しないで、もっと長く勉強する機会を持てばよかったのに・・・」と、言われてしまったのだが、今になってみれば、その通りだったのかな、と残念に思っている。
 ただ、私には4年間で卒業しなければならない拘りがあった。職場では、上司も部下も皆な大卒であった。そんな中にあって高卒の私は劣等感を持ち続けていた。長年の劣等感から開放されるためには、4年間で、それも優秀な成績で卒業をしなければならなかったのである。今になってみれば滑稽な拘りであったような気もする。
 平等寺の納経所には「お茶堂」が併設されていた。熱いお茶が疲れを癒してくれた。
 もう午後四時に近い。足の疲れは極限に達している。次の札所薬王寺までは23キロ近くあり、宿坊に泊まって明日に備えることも考えたが、明日中には東京に帰りたいし、暫らく思案して、今日の内に次の薬王寺がある日和佐まで列車で移動することにした。歩き遍路不連続区間の「キセル打ち」である。

第二十三番札所 薬王寺(やくおうじ)

明と暗の接点が空なのか


 JR牟岐線の新野駅から普通列車で日和佐までは約30分だが、ローカル線は運行本数が少なく、乗り遅れると一時間以上も待たねばならない。案の定寂しい無人駅で一時間近くも待つことになった。日和佐に着いたときには、薄暮の気配が漂っていた。日和佐の駅は想像した以上に小さくて、気持ちが萎んでしまった。たった1台だけ止まっていたタクシーに声を掛け、ホテルを探してくれるよう案内を乞うた。お遍路の旅も慣れてきたとは言え、暗くなって宿を探すのは不安で、侘びしくなる。こんな時、宿の主人に暖かく迎えてもらうと、心底、ホッとする。四国の人達は、お遍路に優しい。
 朝の門前町は静かだった。薬王寺は日和佐の町を見下ろす山の中腹にあった。仁王門を入ると33段の女厄坂、本堂までは42段の男厄坂となる。女は33歳、男は42歳が厄年にあたり、その厄除けに登る石段なのである。石段には10円玉や、100円玉が落ちている。落ちていると言う表現は正しくないが、厄年の人が一段上がるごとに、落としていくのである。
 本堂より更に61段登ったところに、瑜祇塔(ゆぎとう)がある。この坂を還暦の厄坂と言うのだが、この時、私はすでに還暦を越えていた。
 瑜祇塔は、一見、中国風の建造物で、朱と白壁の円筒形の建物である。密教の教義に従って建てられたものであろうか。塔の中には大日、阿閃(あしゅく)、室生、阿弥陀、不空成就の五智如来が安置されていた。上階は資料室になっていて、薬師寺の寺宝が陳列されている。
 世の中は二つの相対するものが組み合わされて出来ているという。天と地が一つに融合することによって、万物が豊かになり世界の平和や家庭の幸福が実現する。その象徴が瑜祇塔であるというのだ。天と地、陰と陽、明と暗、干と支、プラスとマイナス、有と無。プラスが有るから、マイナスが存在する。有がなければ無はない。
 昨日、列車に乗って来た牟岐線はトンネルの連続だった。緑の空間から、暗闇に潜り、再び緑の空間がまぶしい光とともに、浮き上がってくる。トンネルの入口と出口は、明と暗、暗と明が融合する接点なのだ。
 二つの相対するものが融合する接点を般若心経が説く「空」と言う概念と捉えて良いのかもしれないとも思った。接点は質量の無いゼロの位置なのだ。有から無へ、無から有へ。明から暗へ、暗から明へ。人間はその狭間で揺れ動き、行ったり来たりしながら暮らしている。お遍路の旅は苦しいこと、楽しいことの繰り返しだが、苦がなければ楽しいことは無い。
 早朝参拝を済ませ、時間を持て余していたので、海亀産卵地である大浜海岸に向かった。「日和佐うみがめ博物館・カレッタ」では、減少していく海亀の生態を捉え、再び海亀の産卵地とし蘇るための努力を繰り返してきた中学生の観察記録が、ハイビジョンシアターに映し出されていた。海亀は、2億年も前から、その営みを繰り返しているという。
 うみがめ博物館・カレッタの栞には、次のような言葉が書かれていた。
『・・・そしてもし・・・いつか遠い日、人が地上から消えても、かめは、なお、めぐり行く時を、無表情にのそのそと、歩みつづけるだろう。』
 私は、残された人生を、のそのそと、そして不器用に歩き続けることになるんだろうなぁ。
 
 薬王寺を打ち終えれば、「発心の道場」と言われる阿波一国を廻り終えたことになる。四国八十八箇所の道場は、土佐国「修業の道場」、伊予国「菩提の道場」、讃岐国「涅槃の道場」と続く。
 今になって考えてみれば、阿波の札所は苦しみに耐え抜く道場であった。この先も、まだまだ難行苦行が続くのである。百観音を廻り終えて、歩くことの楽しみを覚え、その延長線上でと軽く考えたお遍路の旅であったのだが、歩くことは途轍もなく苦しいことなのだと教えられたのが発心の道場である。 
 「何とかしてよ大師様、何とかしてよ仏様」と、虫のいい科白を繰り返しながら、苦しい山道を越えてきた。苦しいときの神頼みならぬ、仏頼みである。未だ信仰心の芽生えない私の頼みなど、仏様にとってはいい迷惑だと言うものだ。

 広辞苑によると、発心とは、発意、発起、菩提心を起こすこと、即ち仏を信じる心になること、と書いてある。確かに発意してお遍路の旅に出てきたのだが、この時になっても、仏を信じると言うことの概念すらも理解できていないのが本当のところである。
 二十三箇所も札所を廻ってきたのだから、邪念、雑念、妄念の三つや四つは落っことして来ても良さそうなものだが、私の心には、一向に変化が無く、そんな気配すらも無い。

 なれど、次なる土佐の国「修行の道場」を歩き終えたときには、邪念も妄念も消えて、ちょっとばかりの雑念を残した私になっているかも知れない。そうならなければいけない。こんなにも孤独で、苦しい遍路を続けているのだから・・・。



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