同行二人・三割引きのお遍路E


四国へ

第54番延命寺から第65番三角寺まで
2004年4月14日〜4月14


第66番運辺寺から第75番善通寺まで
2004年9月19日〜9月22日


嘉藤洋至




   第54番延命寺から第65番三角寺まで
   2004年4月14日〜4月14

2004年9月下旬、5日間の休暇をとって、もう何度目になるのだろうか、飽きもせず四国お遍路に出かけてきた。
 足の痛みに耐えかねて路傍にうずくまったこともある。疲労困憊のはてに思考力が停止して、ホテルのベットで綿のように眠りこけたこともある。孤独感に圧し拉がれた精神状態になりながらも、ただ、ただ歩くことにのみに執念を燃やし続けている。これほどまでに我が身を痛めつけているのは何のためなのか。そこが良く分らないのだ。
 私の心の奥深いところに、得体の知れない固まりが沈んでいる。その正体が掴めない。このわだかまりは何なのか。この得体の知れぬ苦しみを背負い、心の片隅に暗い影を落しらがら生きてきたように思う。この旅は、私の心の底に沈んでいる固形物の正体を解き明かし、苦しみから開放してくれるのだろうか。
 難しく考えるのは止めにする。私のお遍路は三割引だ。いやいや、五割引かもしれない。ときによっては高価なホテルに宿泊し、贅沢な食事に舌鼓を打ち温泉で悠然と寛いでいる。これではなんの修行にもなっていない。お遍路に出てきた動機や目的を整理しようたって、これでは無理だ。

第五十五番札所 南光坊(なんこうぼう)

御朱印の重ね押しで真っ赤になった納経帳を見た


松山空港からバスでJR松山駅に向かい、予讃線で今治市に向かった。今治駅の売店で市街地の地図を買い求め、今日の歩く順序を考える。効率的な道順を考えて、五十四番札所、延命寺を打つ前に、今治駅に近い第五十五番南光坊から巡ることにした。お遍路も半分の道のりを経て、手順に慣れてくると、これまでのように東京を出発する前に練っていた緻密な計画は立てずに、その都度、都度の判断で一日の行程を予定しながら歩くようになっている。
 四国八十八個所のうち、坊のつくお寺はここしかない。坊とは、本来は僧侶の住居のことで、そこから転じて僧侶のことを坊さんと呼ぶ様になった。また、大寺院に所属する小さな寺院を指すことも有り、禅宗寺院では塔頭(たっちゅう)といっている。
 広い通りに面して二層の山門があった。町中にある南光坊は、市民の憩いの場となっているようで、広い境内では親子がキャッチボールをしていた。そこへ、バスツアーの団体お遍路さんが入ってきて、それまでの憩いの場所が一挙に騒々しくなり、様相が一転した。今朝、道後温泉を発った観光お遍路の一行のようだ。
 御朱印を何度も重ねて真っ赤になった納経帳を持った年配のお遍路さんを見かけた。どこかでお会いした方のような気もするが思い出せない。納経所の僧侶は、ただ無言でその上に御朱印を重ねて押している。そのお遍路さんもただ黙って納経帳を受け取っている。観光お遍路で騒々しい納経所にあって、静かさを感じた一瞬だった。

第五十四番札所 延命寺(えんめいじ)

梵鐘はお寺と村里との結びつきの象徴だ


逆打ちである。地図で道順を確認して脇道に入ったのだが、お遍路の道しるべが見付けられず遠回りをしているように思え、何度も地図に目をやっている。松山市内でもそうだったのだが、市街地を歩いていると、山道や田園の中の遍路道で見かける「道しるべ」のような、心の温もりや安堵感を感じることはない。
 両岸をコンクリートで固められた川に沿って歩き、護岸工事で迂回する道順をたどって、瀬戸内しまなみ街道(西瀬戸自動車道)の下をくぐり、再びバス通りに出る。道幅が狭くて交通量は激しく歩き難い。遍路道は右手の小高い山の中を抜けているようだが、逆打ちで歩いている私には見つけることが出来なかったようだ。
 延命寺の栞によると、境内にある梵鐘は宝永元年(1704)に住職が私財を投じて鋳造したものだと書かれている。それ以前の梵鐘は、戦乱の合図に用いるために持ち去られたが、夜になると叩かないのに「いぬる、いぬる(方言で、帰るという意味)」と鳴るので恐れをなして返しに来たという。また、いまある梵鐘も松山城に持って行こうとしたら「イヤ〜ン、イヤ〜ン」と響いたという言い伝えがある。
 梵鐘が自ら鳴り出すという伝説や言い伝えは、あっちこっちで聞く。以前、坂東三十三札所を廻った際に、二十九番札所の千葉寺にもそんな伝承が残っていた。古くなった梵鐘を江戸に運び改鋳しようとしたら、「ちばでら、ちばでら」と鳴り出し、恐ろしくなって、そのまま戻してしまったという言い伝えだ。
 三井寺の「弁慶の引き摺り鐘」は有名である。山門との争いで、弁慶が奪って比叡山に引き摺り上げて叩いてみると「いの〜・いの〜(方言で帰ろうという意味)」と響いたので、弁慶が「そんなに三井寺に帰りたいのかっ!」と怒って鐘を谷底に投げ捨ててしまったという。鐘には、その時のものだといわれる傷痕が残っている。
 梵鐘の由来について詳しいことは知らないが、お寺の存在を示し、仏教と村里の人々、信徒との結びつきを示す象徴として存在したのではないかというのが、私の解釈である。
 叩かないのに自ら鳴り出したという梵鐘の例は他にもあるが、おそらく戦乱時に持ち去られたり盗難にあうことを防ぐために信徒が創作した伝承であろう。
 にもかかわらず、第二次世界大戦時には、金属回収令によって梵鐘が供出され、お寺と村里との結びつきの象徴が失われ、精神的な豊かさが消えた。そして数年に及ぶ苦しく殺伐とした時代が続いたのである。
 延命寺の境内には土産物店があった。枇杷の葉茶の接待を受け、般若心経が書かれている手拭を買い、遅い昼食をとった。

第五十六番札所 泰山寺(たいざんじ)

   おじさん、どこから来たの?


 今治市の市街地を大きく迂回して、新しく開発された郊外の道を歩いている。第五十五番札所から、第五十四番札所へ逆打ちしたので、第五十六番札所へは、お遍路さんが歩かない道順である。市民の森公園入口に近い交番のお巡りさんが、怪訝な様子で私の方を眺めていた。道を間違えたお遍路さんかと思ったのかもしれない。すれ違ったとき、お巡りさんと目が合ったけど、何も声をかけてこなかった。
 泰山寺は、市民の森に沿って幾つかの曲がり道をたどった先にあった。お寺は山を崩し、石垣を積んで造成した土地に建立されている。石垣と、その上に廻らされた土塀は真新しくて、他の札所にあるような伝統のある山門は無い。それに鬱蒼とした樹木に覆われた、あの厳かな雰囲気も感じられないし、参道を歩きながら安らぎを覚える感動も無い。失礼な言い方だが、周辺の町並みと比べると、地元の成金が建てた屋敷のように思えてきた。
 住宅街に沿って流れている水路で子供達が遊んでいた。暫らく眺めていたら、「おじさん、どこから来たの?」と声をかけてきた。そして、次の栄福寺までの道順を説明してくれた。爽やかな気分になり、泰山寺で覚えなかった安らぎに似た感動が溢れてきた。子供に教えられた通りに歩き、住宅地を抜けるとバス通りに出た。
 蒼社川に架かる山手橋を渡った。泰山寺の縁起には、この川が毎年、雨時には氾濫し田地や家屋を流し、人命を奪ったという。そこでこの地を訪れた弘法大師が川原に檀を築き「土砂加持」の祈祷を行ったと書かれている。ここにも弘法大師と水の縁起が残っていた。
 古い佇まいが感じられる街道筋を歩き田圃道に抜けた。刈り入れ前の稲穂が頭を垂れていた。けれども台風で傷めつけられ、立ち直れないままに横たわっている稲群があって、あっちこっちが窪んでいた。

第五十七番札所 栄福寺(えいふくじ)

優柔不断は日本人の優れた特性だ


 小高い里山があり、麓から急な坂道になった。参道の突き当りには勝山八幡になっている。明治初年の神仏分離までは神社と栄福寺が同居していた。日本人の精神構造は神仏混淆であり、今でも実に柔軟な受け止め方をしている。 
 日本人が神として崇拝の対象としてきたのは、太陽・月・星・樹木・岩石などの自然物や自然現象である。即ち自然崇拝であり、もう一つは、天照大御神や大国主命に代表されるような万物の創造主であったり指導者である。
 仏教が渡来したのは、552年説と538年説があるが、歴史書を見ると「蕃神」という記述があるので、隣の国の神様という認識で、日本固有の神と区別しながらも同列に扱っていたのだろうと思う。
 神々の誕生、仏の渡来から定着、神仏の融合から、それを柔軟に受けとめて信仰の対象としてきた日本人の精神構造などは学者が論述する領域であり、私の思考領域にはない。なれど、私がそうだからと言うつもりはないが、この一見して、優柔不断で主張の無い精神構造は、周囲への気配りや配慮の現れであり、日本人の優れた特性だと思っている。
 日本人が考えていることは、曖昧模糊として何を考えているのか良く分らないという。全てがグローバル化していく現代社会において、そんな精神構造は全世界から孤立するだけだと説く人が多い。排他的な宗教戦争や民族間の争いが絶えない世界にあって、この日本人の柔軟で許容範囲の広さが、これからの時代、紛争を解決するに必要な精神構造だと、私は思っている。 
 何十年後か、あるいは百年後には、この極東の島国が全世界の精神的な拠り所として、その存在を示すときがきっと来ると思っている。こんなことを言っても誰も聞いてくれないが、これは私の持論である。
 栄福寺は小さくまとまったお寺で、団体お遍路さんで混雑していた。本堂は一段と高くなった石段の上にあり、太子堂と薬師堂、金比羅堂、納経所などがコの字型に結ばれていた。本堂の廻廊にはイザリ車と松葉杖が置かれていた。体の不自由なお遍路が、納経を繰り返し祈りを続けながら、ここまで来て歩けるようになったので置いていったのだという。ガイドブックには、昭和8年に奉納され、実在の人物で15歳の少年であったと書かれている。

第五十八番札所 仙遊寺(せんゆうじ)

  遍路も歩かぬ遍路道を歩いた


 遍路道に入った。犬塚池の堤防に添ってどんどん歩く。集落に出て遍路道を見失い、小川沿いの畦道を歩いて行くと、道が分かれていて、どっちの道を進むべきか一瞬迷ったが、ままよとばかり小川を離れて続いている広い方の道を進んで行った。100メートルも進んだところで、やはり不安になってきた。前方には山が迫っているし、山道に迷い込んでしまったら、今日のうちに仙遊寺にたどり着くことは出来ない。引き返していると畑仕事から帰って行く夫婦に出会い、道を尋ねた。先ほど迷った小川沿いの道が遍路道だと教えてくれた。
 上り坂に差し掛かったら右手に家畜小屋があって、周りには異臭が漂っていた。足元は家畜小屋から流れてくる汚水でグシャグシャになっている。つま先立ちで、なんとか汚泥地帯を通過したものの、雑草が生い茂った道は、とても人が歩いた遍路道とは思えない。地元の方が親切に教えてくれた遍路道なのだから、間違いはないと思うけど、少々不安になる。
 不安は続くのだ。山肌の斜面に、人一人がやっと歩ける幅の道が続いている。それも、二週間ほど前の台風で崩れた箇所があっちこっちにある。木が倒れて道をふさいでいる。倒木を跨ぎ、崩れた道は斜面を登るようにして迂回する。それでも、遍路道を示す赤と白のリボンを見かけると安堵する。
 右側斜面からの土砂崩れが、左側斜面の下の池にまで続いていた。遍路道は跡形も無い。万事休すだ。これより前には進めそうにない。さてどうしたものかと暫らく思案したが、やはり斜面を登って大きく迂回するしかない。このまま池にまで滑り落ちてしまったら、人里はなれた山の中では、助けを呼ぶことも出来ない。慎重に進むしかない。この道は本当にお遍路さんが辿る道なのか。土砂崩れの障害を無事に通過した先に、遍路道を示すリボンが下がっていた。ほっと一息はついたものの、時間と体力の消耗は甚だしい。
 仙遊寺に到着したのは既に五時を過ぎていた。納経所は本堂の中にあって、二人ほどのお遍路さんが御朱印を貰っている。時間が気になっていたけれど、何とか間に合ったようだ。宿坊は相部屋だとのことで、今治市の市街地に宿を取ることにした。戻りのタクシーと今夜の旅館は、御朱印を押して下さった方が親切に電話で手配してくれた。住職夫人だったのかもしれない。私が遍路道を登ってきたと話したら、「・・・今は、利用する方はほとんどいらっしゃいません。歩いて来られる方も自動車道を利用されます」と、驚いていた。
 山道を下るタクシーの窓から、夕暮れの瀬戸内海を遠望することが出来た。しまなみ街道の大橋が見える。
 明日訪れる国分寺に近い宿の女主人が、私の疲れを癒してくれるように笑顔で迎えてくれた。この笑顔が心の休まるお接待なのだ。

第五十九番札所 国分寺(こくぶんじ)

  大型トラックの風圧は恐怖だ


 国分寺は宿から歩いて10分ほどの所にある。朝は遅い出立でよいのだが、早くに目覚めたので、七時半には宿を出て、旧伊予国分寺跡に向かった。現在の国分寺から100メートルほど東に寄った所にあり、13個の巨大な礎石が残っていた。国の重要な史蹟である。
 天平13年(741年)、聖武天皇が発した詔によって建立された国分寺は諸国にあり、周辺は国府の所在地である。阿波の国第十五番札所が国分寺であり、土佐の国第二十九番札所が国分寺である。讃岐の国にも第八十番札所国分寺がある。
 国分寺の多くは歴史の変遷の中で廃れ、その存在場所が特定できない地域が多い。四国の国分寺は、廃寺、再興の歴史を繰り返しながらも、当初の国分寺とは異なる性格をもった寺院として存在し続けている。
 朝が早く誰も居ない境内。人影が見えない本堂で一人般若心経を唱え、納経所が開くのを待って御朱印を頂いた。
 次の第六十番札所横峰寺まではガイドブックによると30キロの距離があり、石鎚山系に位置する難所である。宿の女主人に伺ったら、遍路道はあるが、途中からは、ほとんど利用されないままの危険な山道になるから、国道を歩かれた方がよいという。横峰寺には、六十三番の吉祥寺を打ち終えてから、自動車が通う林道を利用された方が良いというアドバイスをもらった。
 国道に沿って歩くと小松町に入って、第六十一番札所香園寺の傍らを経由することになるので、今日の順路は六十一番から六十四番札所前神寺を遍路することにして、横峰寺は明日打つことにした。
 国道一五六号線は片側一車線で狭く、自動車が頻繁に行き交いするので歩くのが危険だ。1時間も歩いたろうか、道幅が広がった国道196号線に入り、歩道も整備されているので自動車と身近にすれちがう危険は去った。けれども高速で唸りをあげで走り去っていく大型トラックの風圧には恐怖を感じる。険しい山道を辿る遍路道よりも、平坦でアスファルトに固められた道のほうが難所である。
 国道を一日歩いていると、トラックの轟音が耳に残り、排ガスの臭いが鼻にこびりつき、神経が苛立ち夜の寝つきが悪くなる。それにアスファルトの固い道で負担をかけたくるぶしの周りが痺れ火照って、余計に寝つきを悪くする。

 

第六十一番札所 香園寺(こうおんじ)

  これがお寺なの? ミュージアムだよね


国分寺を発って、もう4時間以上が経過している。雲行きは怪しいけど、雨が降ってくる気配はない。香園寺は市街地の裏手にあった。前方には田圃が広がり、背後には小高い山がある。山懐に広がった広大な敷地の中に色々な施設が建てられていて、今まで辿ってきた寺院とは全く異質な空間が展開されていた。間違ってミュージアムに迷い込んだのかと、一瞬戸惑ったが、その美術館のような建物が本堂であった。コンクリート製の大聖堂である。付属して、300人収容の立派な信徒会館があって、宿坊と呼ぶには全く趣の異なる立派な建物である。
 縁起によると、この地を訪れた弘法大師が、身重で難産の女性を救おうとして、身軽になるように加持され、女は玉のような男児を安産したという。弘法大師が、安産、子育て、身代り、女人成仏、の四つの誓願と秘法を伝えて霊場と定めたと書いてある。この縁起から、香園寺が子安の弘法大師と呼ばれるようになり、今では子安講の信者が数十万人にも及ぶそうだ。青い幔幕が張られたコンクリート造りの子安大師堂があった。
 途中のコンビニで買って来た弁当を開き、近代的な施設に続く公園の中で寛いでいると、お遍路なんだという感覚が途切れ、違和感を覚える。
 来るときには単なる道標として見てきたけれど、市街地から香園寺に向かう参道の入口に、飾り気の無い石柱が建っている。その香園寺を示す素朴な道標の佇まいを眺めて、先程から頭の中でぐるぐる回っていたミュージアムにも似た香園寺と、お遍路との違和感が消えた。
 六十二番、宝寿寺は近い。

第六十二番札所 宝寿寺(ほうじゅじ)

  車の騒音で般若心経は途切れがち


 宝寿寺は街中にあり、交通量の激しい国道11号線に面していた。数年前に発行されたガイドブックには、山門の写真が載せられているが、今は跡形も無い。国道が境内に接していて、多くの札所に見るような、鬱蒼とした樹木に囲まれた厳かな雰囲気とは、まるで無関係な佇まいだ。般若心経を唱えている耳にも、国道を走り抜ける車の騒音が絶え間なく飛び込んでくる。
 入口に建つ石碑には、「一国一ノ宮、別當、寶壽寺」と刻まれていた。伊予一宮は、大三島にある大山祇神社(おおやまずみじんじゃ)であり、宝寿寺はその別当寺である。
 大山祇神社は、山の神、海の神、あるいは戦いの神として歴代の朝廷や武将から崇拝された神社であり、源氏、平家の武将をはじめ、多くの武将が武具を奉納して武運を祈願した神社である。重要文化財に指定された甲冑のおおよそ四割はこの神社に集まっているという。
 今では大三島までは、しまなみ街道の大橋を渡って簡単に行くことが出来るが、古代には海路を辿って参拝しなければならず、難儀であったろうと思われる。そのためか国府のあった今治市の別宮町に、第五十五番札所、南光坊に隣接して別宮大山祇神社があった。
 静岡県三島市にある三島大社は、この大山祇神社の分社であるという説、逆に大山祇神社の方が分社であるという説がある。あるいは、全く関係のない別の神社であるという説もあって、これらの説は歴史的に定かではない。大三島と三島という共通する地名の成り立ちから考察していけば、興味のある相互の結びつきが分るのかもしれない。

 

第六十三番札所 吉祥寺(きっしょうじ)

団地に住んで中古車に乗る、細やかな夢だった


 吉祥寺も国道11号線沿いにある。宝寿寺からおよそ15分の道のりなのだが、硬いコンクリートの道は足に負担が掛かるし、激しく行き交う車から身を守らなければならず、険しい山道同様、これまた難行である。
 吉祥寺の本尊は毘沙門天である。仏の階層では如来、菩薩、明王に続く四番目の天部である。つまり、私流に言えば、取締役、部長、課長に続く係長クラスということになる。ほとんどが如来か菩薩が本尊である四国八十八箇所のなかで、天部が本尊になっているのは吉祥寺だけだ。だからって、吉祥寺が格の低いお寺だなんて言っているわけではない。毘沙門天はインド神話に出てくる神で、多聞天とも訳され、日本で言う四天王の一人であり本尊を護衛する守護神である。 境内に「成就石」というのがあった。本堂前から目隠しをして願い事を念じながら金剛杖を突き出すようにして歩き、石の穴にその杖が通れば願い事が成就するというのである。私は金剛杖を持っていないので、試してみることはしなかった。
 吉祥寺(きちじょうじ)という地名がある。これには苦い思い出がある。昭和30年代の半ば、大学への進学を夢見て上京し、生活の糧を得るために武蔵野市吉祥寺でタクシー運転手をしていたことがある。都心まで客を運んで、空車のまま帰るところへ、吉祥寺まで行ってくれと言う客を拾って、その幸運を喜んで走り始めたら、方向が違うと言って客が怒り出した。客が言った吉祥寺は、文京区駒込の二宮尊徳が祀られているという、由緒のある吉祥寺だったのだ。当時は都電に吉祥寺前という停留所があって、下町を流しているタクシー運転手には馴染みのある地名だった。
 この頃、武蔵野市、三鷹市で営業しているタクシーは、23区内での営業は禁止されていて、営業地域の片足が、どちらかに掛かっていなければならなかった。つまり、客の乗車地か降車地のどちらかが武蔵野市、三鷹市でなければならないという規制があった。
 客には武蔵野市のタクシーであり、営業が出来ない事を説明して乗り換えてもらい、罵声を浴びながら、ほうほうの体で吉祥寺に向かい逃げるように帰って行った。もちろん料金を貰うわけには行かない。その日の収入はその分だけ減ってしまった。明暦の大火によって駒込吉祥寺の門前町が焼失し、住まいを失った人々が移住して形成されたのが、今の武蔵野市吉祥寺なのだ。当時の私には、そんな知識はなかった。
 短い期間だが、日雇いタクシー運転手をしていたこともある。運転手が不足して未稼働の営業車があるとタクシー会社から連絡があり、車庫で遊んでいる営業車に乗務させてもらうシステムである。
 その日は上野広小路から客を乗せ、渋谷と日比谷を聞き違えて失敗したのである。日比谷まで走ったら、「渋谷だよ」と念を押され、あわてて都電の右側を追い越してしまったのだ。お巡りさんに捕まって、営業日報を取り上げられ、渋谷で客を降ろしたあと交番まで引き返し、何度も何度も謝って勘弁してもらったことがある。
 昭和30年代後半、高度経済成長の時代に突入し
設備投資や技術革新は新たな需要を生みだし、不足した労働力は地方からの出稼ぎ、集団就職などによって補われていた。とくに若年労働者は「金の卵」と、もてはやされた時代である。タクシー運転手も不足し、全国から「都内の道が分らないタクシー運転手」が大勢集まって来ていた。私をその一人だと思ったらしく、お巡りさんは親切な扱いをしてくれたのだ。まっ、よき時代の話ではある。
 大学進学を諦め、タクシーの運転手をしながら、土曜日が半ドンで、日曜、祭日が休日の仕事に就きたい、そして団地に住んで、中古車で良いから車を持ちたい。それが当時の私にとって、最大の夢だった。
 その後、専門学校に通い経理と法律知識を身につけ、タクシー運転手をしながら念じ続けていた「夢」は成就した。吉祥寺の「成就石」の穴は直径50センチもあっただろうか。杖で穴を突き通すには十分な大きさである。目標を定めて着実に歩みを進めれば願いは叶う。

 

第六十四番札所 前神寺(まえがみじ)

遍路の達成感は心の奥深くに止めておく


 吉祥寺からは50分程の距離である。国道11号線を歩き、石鎚駅前を右に折れると、町並みの中に忽然と石鎚神社の赤い大鳥居が現れた。これから打つ前神寺は、石鎚神社の別当寺で、元は石鎚山系の天狗岳にあり、明治の神仏分離によって現在の場所に移っている。石鎚神社は、石鎚山を神体とする神社で、本社、成就社、頂上社、遥拝殿等を総称した呼び名である。前神寺に近い石鎚神社は石鎚山総本宮と称し、宗教法人石鎚本教の本部になっている。  
 石鎚山系は西日本を走る中央構造体の一角で、四国山地の西部に位置し、西日本での最高峰、天狗岳の標高は1982メートルである。険しい自然環境から山岳信仰の霊山として知られており、修業の場として役小角によって開かれたと伝えられている。神仏融合の道場として、空海をはじめ多くの高僧が修行した場所である
 前神寺の参道には桜が植えられていて、まだ紅葉までには間があり、青い葉が茂っていた。その一角にお遍路さんの石像が建っている。巡拝を記念して信者が建てたもののようだ。しかし、達成感を形に残したいという願望を持つ人より、心の奥深くに止めて置くことを選ぶ人の方が多い。遍路の達成感は他人に顕示するものではない、と私は思う。
 本堂に続く石段を上る足元が覚束なくなって来た。先ほど足を休めるために参道の脇に腰を降ろし、暫らく休息をとったのがいけなかった。二十数段の階段で喘いでいる。
 再び国道11号線に出て、西条駅前にあるステーションホテルを目指した。途中、加茂川に架かる長い橋を渡った。国道を歩いていると、トンネルの中で擦れ違う大型トラックに恐怖を感じるけど、橋の上で擦れ違うと、空中に飛ばされるような感覚になって、やはり恐い。

第六十番札所 横峰寺(よこみねでら)

  歩いたなぁ〜、ビールが美味い


六十四番から六十番への逆打ちである。早朝六時にホテルを発った。地図で確認すると横峰寺まではおよそ17キロだ。今日はゆっくりと往復して、夕方までには西条駅まで戻り、ステーションホテルにもう一泊するつもりである。疲れが溜まっている足では往復35キロに近い道のりは不安だが、とにかく歩いてみよう。
 東京を発つ前に調べておいたメモには石鎚駅前から横峰寺まで、せとうちバスが、午前と午後、一日2便マイクロバスを運行しているとなっていたのだが、先達ての台風で道路がずたずたに切断され運休中であるとのこと。万が一、足の痛みに耐えられなくなれば帰りはバスを利用するつもりでいたのだが、その逃げ道が完全に断たれてしまった。
 夜半からの雨で外気は湿っているが、再び雨が降ってくることも無さそうだ。ダムで堰きとめて造られた黒瀬湖を左手に見ながら、地図を頼りに林道を登って行った。
 人影は見えない。誰も歩いていない。小型トラックがゆっくりと追い越していった。工事現場に向かう車両のようで、荷台にはシートをかぶせた発電機のようなものが積まれていた。
 山肌の方々に土砂崩れでえぐられた跡があって、道路は湧き水で泥んこになっている。大きく平らな石ころを見つけながら足元を固め、ゆっくりゆっくりと歩く。斜面の修復工事をしていた人が、こんな条件の悪い日に歩いて上ってくる遍路がいるのか、といったように呆れた顔をしながら誘導してくれた。そして「気ぃつけて行きんさいよ」と声をかけてくれた。
 途中、新居森林組合と書かれた「関所」があった。乗用車は1800円を支払って、「平野林道利用許可証」を貰わないと、これから先へは進めない。横峰寺は伊予の「関所寺」である。関所に来ると邪心のある者は弘法大師の咎めを受けて、これから先へは進めなくなるのだが、現代の関所は、通行料を払えば難なく進むことが出来る。
 現代版「関所」の人に尋ねたら、横峰寺までは、まだ1時間は掛かるだろうという。時計の針はもう十時を回っている。これまでに4時間も費やしたことになる。予定した時間を大幅に超えていた。横峰寺は標高700メートルにあり、これはちょっとした登山で、時間を費やすのは当たり前だ。
 最後の上り坂は急勾配で辛かった。昼でも薄暗く感じられる杉木立の中に山門が建っていた。境内は自然の地形を生かして、広々とした広がりを見せている。大師堂の前には、お地蔵さんがずらりと並んでいて、お地蔵さんの前に、お賽銭を入れる籠が、これも、ずらりと並んでいた。全部のかごにお賽銭を入れるわけには行かない。そんなに多くの小銭は準備していない。
 用意してきたお結びを頬張って、しばし休憩を取る。靴下を脱いだ足を空気に晒し、登ってくるときから気になっていた親指の付け根に、絆創膏を貼り付けた。
 帰り道もまた難行が続く。これまでにも辛い山道を辿ってきたけど、八十八個所の中では、最も辛い最大の難所かもしれない。
 疲労困憊の末に帰りついたホテルで、部屋に入るや否や、ベッドに倒れこんでしまった。思考力は完全に停止していた。2時間も眠ったかもしれない。目覚めた後、辛うじてホテルのレストランで食事をする体力だけは残っていた。でも、しっかりと好きなビールは飲んでいた。

第六十五番札所 三角寺(さんかくじ)

  煩悩の一つも断つことができない


 昨日の疲れが残り、寝覚めが悪い。足ばかりではなく身体全体が疲れを通り越して痛む感じがしてきた。
 ゆっくりした時間にホテルを発ち、予讃線の特急列車に乗って、次の三角寺がある伊予三島に向かった。仕事の都合もあって、今日中には東京へ戻らなければならない。六十四番札所の前神寺からは40数キロもの道のりであり、時間に制約があるので、最初からこの区間はキセル遍路をするものとして予定を立てていた。特急列車による移動時間は僅か30分で、伊予三島駅からの徒歩時間を加えても1時間半で三角寺に着くことができるだろう。歩いたら私の足では2日は掛かってしまう。
 向かいの席に老夫婦のお遍路が座っていた。会話は無いけれども、労わりあいながらお遍路を続けているのだろう、その表情からは、穏やかな雰囲気が伝わってきた。鳥取県から来たというその老夫婦は、私と同じ伊予三島駅で下車したが、タクシー乗り場に向かった。タクシーで三角寺に向かうのだろう。私は右足首に重苦しい違和感を覚えているのだが、市街地を歩いて三角寺に向かった。
 急な坂道を登る。杉木立の参道を抜けると、自然石を重ねて造られた不揃いで、急な傾斜の石段があった。足場の悪い段を上り終えると仁王門があり、なんと天井から鐘が吊るされていた。菩提の道場、最後の札所だ。思いっきり鐘を撞いて本堂に向かった。
 境内に、小林一茶が寛永7年に三角寺を訪れた際に詠んだという、「これでこそ登りかいある山桜」の句碑が建てられていた。一茶は、三角寺山の中腹にある寺までの遍路道を、喘ぎ喘ぎ登って来たのであろう。そして満開の山桜に感歎の声を発したに違いない。
 伊予路は「菩提の道場」であり、悟りを開くための道場である。これで伊予路を歩き終えたことになる。三割引のお遍路とはいえ、伊予26箇所の札所を打ち終えたのだ。果たして煩悩の一つでも断つことが出来たのかどうか、これがすこぶる疑わしいのだ。
 重い足を引き摺るようにして、来た道を伊予三島駅まで引き返し予讃線で高松市に向かった。かなり疲れているのだが、明日の仕事が気になる。何としても今日中には東京へ戻らなくてはならない。



   第66番運辺寺から第75番善通寺まで
   2004年9月19日〜9月22日

 2004年10月中旬、心地よい秋の風に吹かれながら、讃岐時の田園地帯を歩いている。ただひたすらに歩いている。過去の記憶が蘇ってくる。こんなときには必ずといって良いほど、心に負担が残る記憶が蘇ってくる。そして後悔と懺悔にさいなまされさながら「参ったまいった。参ったなぁ」と、呟いている。これが、もう口癖になっている。
 ある弱電メーカーに勤務し、全国の販売網を整理統合、構築していくビジネスを永年に亘って担当していた。高度経済成長のさなか、驚くほどの勢いで製品が売れていった。それと共に放漫経営から得意先が次々に倒産していった。
 債権保全のために全国を飛び回っていた。在庫商品を押さえ、帳簿を調べて売掛金を差し押さえた。隠している不動産を徹底的に調べ上げた。法的手続きを経て、会社の什器備品を競売に掛けたこともある。だから取引先からは、消防士、サルベージ、あるいは取立屋とよばれ、好ましからざる人物として敬遠されていた。組織に組み込まれている一人として、その役割を果たしながら、心の負担に堪えるには、辛くて苦痛な日々の連続であった。
 ある時代から、流通機構の改革が進み、それまで各県で独立していた物流エリアが、あっと言う間に崩壊し、都市部で販売された商品が、次の日には地方都市の末端まで供給される販売チャンネルが構築されていった。このため地方得意先の多くが経営難に陥り、連日のように資金繰りの相談電話が入るようになって来た。諸問題を抱えて右往左往している私に向かって、ダストシューターと呼ぶ上司がいた。軽蔑されているような響きもあるが、内心ではこの呼び名が気に入っていた。己の役割として、後始末に徹していたのだ。
 徳島市、高知市、松山市、高松市にも得意先があって、四国には何度か渡って来た。時代の流れには抗しきれず、それぞれの得意先も経営に行き詰まり、店を閉じて行った。閉店の引導を渡したのは、他ならぬ私である。四国に向かう飛行機が「欠航してくれないかなぁ」、と思ったことが何度もある。問題を先延ばしにしても何の解決にはならないのだけど、それほど苦痛な出張の繰り返しであった。
 仏教の教えに、怨憎会苦(おんぞうえく)がある。四苦八苦の一つで、心に関わる苦しみを示している。会いたくない人とも会わなければならない苦しみである。私のことではない。経営難に陥った得意先の店主のことである。最後の救いを求めて私に会うのである。なれど、私は更なる苦しみを与える加害者の一端を担ってきたのだ。だから後悔と懺悔の複雑な気持ちが相まって、「参ったなぁ・・・」、の呟きがもれてくるのである。
 仏陀は、この世は苦しみの世界だと説いている。そりゃ、そうだろう。だけど、交渉ごとで他人を追い込んではいけない。一箇所だけでも逃げ道をつくって置かなければ、相手以上に、己が苦しみ、己の心に負担が残るだけなのだ。
 今回でお遍路に出かけて8度目の四国である。「涅槃の道場」讃岐路に入った。涅槃のことを広辞苑には「煩悩を滅却し絶対自由となった状態」と書いてあるが、よくは分らない。煩悩を滅却することなんて無理だろう。せめて「参った、参った」の呟きからは開放される遍路であらねばならぬ、と思う。

第六十六番札所 雲辺寺(うんぺんじ)

帰るとき、来たときよりも美しく


 羽田を午後の飛行機で発ち、観音寺市に着いたのは夕方の五時。あらかじめ予約しておいた観音寺駅に近いビジネスホテルに宿泊する。二泊の予定だ。
 ここから雲辺寺までは20キロ以上の距離があり、札所は四国八十八箇所の中では最も標高が高く海抜927メートルの位置にある。
 第六十五番札所の三角寺を打ち終えて、一旦東京に戻ったので、今回は、雲辺寺に近い観音寺にホテルを取ったのだが、交通の便が悪く路線バスは走っていない。止む無く、観音寺駅からタクシーを利用して、雲辺寺ロープウェイ山麓駅に向かった。三角寺から雲辺寺の遍路道、約23キロは、歩き遍路不連続区間のキセル打ちと、いうことになる。
 山麓駅でタクシーを降りる際に運転手が、この駐車場で待っているから、納経が終わったら次の第六十七番大興寺、それから観音寺の市街地にある第六十八番神恵院まで利用してくれないかと、話を持ちかけてきた。丁重に断って、ロープウェイの乗り場に向かった。広い駐車場の先に、綺麗に整備された駅舎があった。
 ロープウェイで簡単に登れるのだから遍路道を歩く苦しみは無い。第六十番札所の横峰寺が、これまでに最も辛く感じ苦しんだのだが、雲辺寺は遍路道を辿って海抜1000メートル近くまで登るのだから、四国は八十八箇所のうちで、最大の難関、難所なのであろう。私は、この最大の難関を避けてしまった。時間に制約が無ければ歩いてみたかった。なれど、どこかで妥協してしまった己がいる。もう一人の自分が、それで良いのか、それでいいのか・・・、とブツブツと言っている。これでは三割引のお遍路なんてもんじゃない。半値八掛けのお遍路だ。
 雲辺山の頂上近くにある寺の境内は広々としている。どこからが境内で、どこからが自然林なの区別がつかない。本堂の裏手に羅漢の石像群があった。どの石像も高さが2メートル以上もあり、その手に犬、猿、豚、魚、蛇などを抱いているのもある。これが何を表しているのか分らない。ただ、巨大で100体以上もあろうかと思われる石像の群れと、その異様な姿に不気味さを覚えた。
 本堂から更に登って行くと、頂上が公園になっていた。雑草が生い茂って、整備が行き届いているとは言えない。巨大な毘沙門天像のある展望台からは、南側に広がる祖谷の山系と、その東側には、ひと際目だって剣山が見える。西側の山並みは、はるか先の石鎚山系にまで連なっている。眺望に見とれて下山の予定時間を越えてしまった。  
 再び境内に戻ってトイレに入ったら、「帰るとき、来たときよりも美しく」と書かれた標語が貼られていた。その通りだ。般若心経を唱え、厳かな境内の雰囲気に浸り、納経帳に御朱印を頂いて寺を去るときには、心が洗われた気分になる。この真摯な祈りの姿勢がいつまでも続けば、美しくなれる。分っているのだが、我が身の妄念、邪念、雑念は簡単に消えない。
 ロープウェイ山頂駅に向かう道を右に逸れて、遍路道を大興寺へと向かって下山をはじめた。大興寺までは12キロ。

第六十七番札所 大興寺(だいこうじ)

丁石には近郷の人々の祈りが見える


 下り道は急坂である。この道は登山コースにもなっているようで、比較的歩きやすく、整備はされているのだが、斜面に生い茂った羊歯の群生を手で払いのけ、足場を固めながら下る。
 丁石に気が付いた。舟形の石に菩薩の姿と、次の札所までの丁数が刻まれていて、丁石にも近郷の人々の祈りが見えてくる。丁石に導かれながら、祈りの道を下っていく。
 道標や丁石が建立された歴史は江戸時代まで溯る。その後300年に及ぶ時の流れの中で、弘法大師を信仰する民衆の手によって、その一つ一つが建立され続けてきた。今では遍路道を歩く人は稀にしかいない。丁石に癒されながら歩く信仰の道は、東京の喧騒とは別世界だ。時を忘れる。
 展望が開けた。広々と連なる平野の所々に、独立した円錐状の美しい小山がみえる。他の地では見かけない讃岐平野独特な地形である。溜池が点在するその先に、観音寺の市街地が霞んでいる。用意してきたお結びを食べながら、しばし休憩をとる。
 雲辺寺を下り始めて既に2時間半は経っている。勾配は緩やかになり、道は舗装されていて歩きやすい。でも人一人、誰にも出会わない。慣れているとはいうものの、心細い。麓の逆瀬池にたどり着いた。大きな溜め池の畔を周り、県道に出た。
 名称は大興寺だが、地元の人は山号そのままに小松尾寺と呼んでいる。だから、道順を聞くのに大興寺と尋ねても分らない。お遍路だと分ると「小松尾寺のことかね。それならこっちの道が近いよ」と、教えてくれた。四国八十八個所の札所の中には、他にも同じような例がある。
 大興寺は、樹木が鬱蒼とした丘の上にある。仁王門を入り、参道の右手には、弘法大師お手植えといわれるカヤと楠の大木があり、傍らの木柱に「香川県の保存木」という文字が読み取れた。大興寺の縁起によると、仁王門は、八百屋お七の恋人だった吉三が、お七の菩提を弔うために遍路となり、その途中で寄進したのだと書いてある。
 お七は実在の人物であるようだが、後に井原西鶴の「好色五人女」や、浄瑠璃で「八百屋お七歌祭文」などで戯画化され、今日に伝わっているのであって、お七の伝承には歴史的な根拠は全く無い。八百屋お七と大興寺が、なぜ結びついたのだろう。これも分らない。
 太ももから膝にかけて、急坂な遍路道を下ってきた名残が残っていて、足はがたがた震えている。力が入らない。

第六十八番札所 神恵院(じねいん)

第六十九番札所 観音寺(かんのんじ)

一度に二箇寺の御朱印、こりゃ儲かった
                 

讃岐平野の田園地帯を歩く。緩やかな起伏が続き、大きいのから小さいのまで、あっちこっちに溜池がある。瀬戸内の讃岐平野は降雨量が少なく、農業用水確保のために、古くから開削、構築された1万5千以上もの溜め池がある。灌漑用の溜池としては日本一の規模を誇る満濃池は、讃岐平野が終わり、讃岐山脈に分け入って行く山懐にある。
 満濃池は、701年から704年に讃岐の国守道守朝臣(みちのもりあそん)が築いたと伝えられているが、それ以前から池の原型はあったと思われる。その後、決壊と修復を繰り返したが、技術的な困難を伴って抜本的な改修には至らず、821年に弘法大師空海が築池別当として派遣され、大規模な改築を行っている。
 空海は、唐で学んできた土木工学を駆使して、僅か3ヶ月で、この難事業を成し遂げたという。その背景には、空海の超偉人的な頭脳による工夫があったことは否めない。一方で空海の出身地、讃岐に郷土入りをすることによって、信奉する地元の人々の協力があったことは、容易に想像できる。

 その後も、地震による崩壊、洪水による決壊などの補修や改修を繰り返しながら、今日の姿を見せたのは、第二次世界大戦後の1959年のことである。ビジネスマン時代には、高松から高知に向かう土讃線の車窓から垣間見て、その規模の大きさに驚いたことがある。
 朝から20キロ以上は歩いている。それに急坂な山道を下ってきたので、足全体が宙に浮いたような感覚で、踏ん張りが利かず、よろよろと歩いている。
 観音寺の市街地を流れる財田川を渡ると、琴引山の麓に出る。民家に続く石段を登ったところに仁王門があり、向かって右側の柱に、四国第六十八・六十九番霊場と書かれている。左側の柱には七宝山観音寺・神恵院と書かれている様だが、下の方の文字が、雨露で消されて読み取れない。つまりは同じ敷地内に二つのお寺が同居するという珍しい札所なのだ。
 仁王門を抜けて右手に本堂があるのが、六十九番の観音寺であり、さらに石段を上って奥まったところに、辺りの雰囲気とは、まるでそぐわない、豆腐を立てたような四角いコンクリートの建物があった。改修中なのか、これが六十八番神恵院本堂の入口である。
 神恵院は、通称八幡宮と呼ばれており、もともと祀られていた阿弥陀如来が、明治の神仏分離によって観音寺境内に移された結果、止む無く居候をするはめになってしまい、肩身の狭い存在なのだ。
 納経所では、一度に二箇寺の御朱印を押してくれる。不謹慎だが、歩き疲れた身には、こりゃ儲かった、という感じになる。だけど、納経料はちゃんと二箇寺分の600円が請求される。
 境内の右手から琴引山に上る道が続いていて、頂上の展望台からの眺望は素晴らしいと聞いていた。眼下の砂丘には周囲約350メートルもある大きい寛永通宝の銭型砂絵があり、観光の名所になっている様だ。残念だが、九月に瀬戸内地方をたて続けに襲った台風によって跡形も無く波にさらわれてしまったという。この銭形砂絵を見ればお金に不自由することなく、健康で長生きできるのだそうだ。
 足の疲れもあって、琴引山に上るのは諦めた。健康長寿は本人の節制次第もある。だがお金には縁が無さそうだ。

第七十番札所 本山寺(もとやまじ)

馬頭観音は人の煩悩を食い潰してくれる


ホテルを8時に発ち、一旦、昨日下ってきた観音寺に向かって歩き、財田川を渡って右折、川に沿って整備された自転車道のコースを辿ることにした。20分も歩くと自転車道は途切れて、その先は車が頻繁に行き来する県道に繋がっていた。歩きにくい県道を避けて、橋を渡り、南側の土手道を辿ることにした。
 雑草に覆われた道は、昨日の疲れが残っている足の裏に、柔らかい感触を与えてくれて、心地よい。河口が近い財田川には、黄色く色づき始めた葦が茂っていた。川面には白い秋の雲が映っている。気分爽快。予讃線の踏切を渡ると、左手に田園が開け、その向うに本山寺の五重塔が見えてきた。
 本山寺の五重塔は重要文化財に指定されている。仁王門も本堂の建物も重要文化財に指定されていて、歴史が刻まれ、楠木に囲まれた荘厳な佇まいである。ご本尊は馬頭観音である。頭に馬をいただいて、憤怒の形相をしている観音様である。顔は三面で腕は二つ、または八つを持っていて、その雰囲気からは、明王の部類に属する仏様ではないのかと思う。
 馬は大食であることから、人の煩悩を食いつくし、災厄を取り除くといわれ、厄除けの仏として信仰されている。馬頭観音に煩悩を食い尽くしてもらうよう、声高に般若心経を唱える。参拝者に混じって、明らかにお遍路さんと異なる雰囲気の人を見かけた。厄除けのお参りに来た近郷の信者なのだろう。
 西国三十三観音の四番、弘法大師が剃髪したという聖地、槙尾寺でも同じような参拝者に出会ったことがある。その女性は本堂に向かわず、右に逸れて木立の中に入っていった。そこには観音馬の像があった。参道を下る30分程の道すがら伺ったのだが、厄除けの効があって、月に1度はお礼参りをしているのだと言っていた。私が、これから京都に向かうと言ったら、電車の乗換え手順を丁寧に教えてくれた。

 

第七十一番札所 弥谷寺(いやだにじ)

  無縁仏に祈りの光景をみた


足の裏、親指の付け根部分が痛み始めた。今朝からなんとなく気になっていたのだが、靴の履き心地がいつもとは違っていた。靴紐はしっかりと締めている積もりなのだが、足は靴の中にしっくりと納まっていない。履きなれた靴なのだが、昨日の急坂な下り道で足先に力が入って靴が微妙に変形してしまったのかも知れない。靴底とソックスと足の皮膚との摩擦係数が拡大してしまったのだ。
 歩く速度がガックンと落ちてしまった。緩やかな坂道に続いて、仁王門を入ったら、本堂までには500段以上もの石段と坂道を繰り返し登ることになる。足裏に痛みを抱えた身にはこれは辛い。とにかく本堂にたどり着いたら手当てをしなければならぬ。
 苦しい。石段を登りきった爽快感なんてまるでない。お参りをする前に本堂の脇に座り込んでしまった。何とまぁ、直径5センチもの靴擦れが出来ていた。これは酷い。大きな水ぶくれを見たら歩く気力が失せてしまった。携帯している絆創膏では小さすぎて手当てにならない。
 歩く動きは、靴底からソックスに伝わり、ソックスから皮膚に伝わって皮下組織を傷つける。だから、この間のどこかに摩擦係数を和らげる工夫をすれば良いわけだ。
 先ず、足が汗で湿っているから摩擦係数は拡大する。足を丁寧に拭き、風に晒して乾かす。靴底も乾いたタオルで拭き、日光に当てて乾かす。靴下は新しいのと取り替え、試しにポケットテッシュを数枚重ねて絆創膏で固定し、靴下と皮膚の摩擦係数を軽減させる事にした。が、これは見事に失敗した。数メートルも歩かないうちに剥がれてしまい、テッシュは爪先に寄ってしまった。とどのつまり、足のつま先を立て指先に力を入れ、身体を踵で支えるようにして、O脚気味のスタイルで歩く。無様な恰好だが、靴底とストッキングの摩擦係数を軽減させる方法はこれしかなかったのだ。
 弥谷寺は、標高382メートルの弥谷山の中腹にあった。仁王門の手前に茶店があり、俳句茶屋と書かれていた。路傍には無縁仏の墓碑があって、みかんが一つ供えられていた。行き倒れたお遍路を弔ったものだろう。その佇まいに哀れさを感じ、おそらく近くに住む人だろう、みかんを供えた方の祈りの光景に想いをめぐらした。

第七十三番札所 出釈迦寺(しゅっしゃかじ)

靴擦れで無様なO脚スタイルで歩いている


 ガイドブックを読むと、歩き遍路には、七十二番の曼荼羅寺を打つ前に、七十三番に向かった方がよいと書いてある。逆打ちである。
 無様なO脚スタイル、覚束ない足取りで歩いている。バスを利用する事を考えたのだが、バス停の標識が見当たらない。それに、どこ行きのバスに乗って、どこで降りたらよいのか分らない。空車のタクシーが走っていたら間違いなく手を挙げただろう。国道11号線に出て大きな溜池を過ぎ、善通寺と書かれた矢印の標識を見て右折し、県道からさらに右折して遍路道に入って行った。
 出釈迦寺の本尊は、その名の通り釈迦如来である。仏教の開祖、ゴーダマ・ブッダを、仏として敬う呼び方が釈迦如来、あるいは釈迦牟尼仏であり、現世における唯一の仏が釈迦如来であるのだと私は思っている。だからこそ、日本人の多くが、お釈迦様として特別に親しみをこめて呼んでいる。シルクロードを経て、中国、韓国、日本に伝播した大乗仏教では、諸仏の一つとして釈迦牟尼仏を捉えていて、各宗派によって、本尊とする本当の仏様は、いったい誰なのかという論争が過去にはあったようだ。
 稲の刈り取りが終わった田圃が広がっている。点在する大小の溜池には秋の雲が映っている。赤とんぼが群れになって微風に乗っている。長閑な田園風景が広がっているのだが、靴擦れの痛みで目に映る風景を愛でる余裕なんてまるで無い。痛みに堪えながら、不自然な動作を繰り返し、ゆっくりと足を運んでいるお遍路が、ここにいる。
 出釈迦寺は我拝師山(がはいしざん)の麓にある。縁起には、弘法大師が「真魚」といった7才のとき、この山の捨身が嶽から「仏道に入って衆生を救いたい。成就するなら霊験を給え、さもなくば、この身を諸仏にささげる」といって、切り立った断崖から身を躍らせた。すると大師の下に紫雲がわき起こり、釈迦如来と共に現れた天女の羽衣で抱えられ、釈迦如来から「一生成仏」の宣を授かった、と書いてある。
 弘法大師は、7歳にして身を捨て衆生を救わんとした。歩く修行に挑戦した我が身は、涅槃の道場を歩いているというのに、邪念の一つも捨てきれなくて苦しんでいる。
 山門の先にある石碑に、釈迦如来と童子姿の弘法大師が山頂から身を翻す姿が刻まれている。眼下には讃岐平野が広がっていた。

第七十二番札所 曼荼羅寺(まんだらじ)

悟りではない、老人性感傷癖だろう


 だらだらと坂道を下った先に曼荼羅寺があった。500メートルほどの距離で、靴擦れの痛みに堪えて、ごきごきと不自然なスタイルで歩いている身には助かる。曼荼羅寺は田園の中にあって、辺りの集落に溶け込んでいた。
 縁起には、弘法大師の先祖である佐伯家の氏寺として推古4年(596)に創建され世坂寺と称したが、後に唐から帰国した弘法大師が金剛界・胎蔵界の曼荼羅を持ち帰り安置したことから、寺号を曼荼羅寺と改めたと書かれている。
 曼荼羅の仏画は日常生活の中に溶け込んでいる。掛軸や壁画になっているので、仏教に興味を持たない人でも良く知っている。密教の複雑な教義を図式化したもので、密教界における全ての仏様の地位を整然と並べ、図形化したものである。悟りの真理を表現したものであると解釈されているが、勿論、凡人のことだから何のことだか分らない。ただ、色彩が豊かで、幾何学模様の美しさには引かれる。
 朝から誰とも喋っていない。言葉がでるのは、納経所でお礼を述べるときだけだ。唱える般若心経も、ぶつぶつと呟いているだけで言葉とはいえない。独りになりたいから歩いているのだが、会話が無いのも寂しい。滅入ってくる。ひたすらに歩き続け、独りでいることに慣れてきたころには東京に戻る。周囲の人達と日常を過ごすと、こんどは独りで歩き続けることに慣れるまでに時間がかかる。人間の気分なんて、いい加減なものだ。
 独りで歩いていると、自分を厳しく見つめていることに気が付く。その一方に、路傍の無縁仏に哀れさを覚え、集落の佇まいに郷愁を感じ、老夫婦のお遍路を優しく見つめている自分がいる。ほんの少しだけ、悟りの境地に近付いているのかも知れない。いや、単に齢を重ねて来ただけの老人性感傷癖だろう。
 本堂と大師堂の間に、漂泊の歌人、西行法師の「昼寝石」というのがあった。諸国を行脚中にこの地に草庵を結び、滞在していたことがあり、時々訪れては休息して行ったのであろう。西行は、祖先が藤原鎌足という恵まれた家系に生まれている。前途洋々たる生活が保障されているにも関らず、もっとゆうゆうと、もっと気ままに暮らしたいのだという、孤独な生き様を選択したのだ。

第七十四番札所 甲山寺(こうやまじ)

  お遍路さんも遍路道の里人もみんな優しい


 靴擦れの痛みに堪え、指先に力を入れながら善通寺に向かう県道を歩いている。足元をしっかりと踏みつけることが出来ないから、大型トラックが通過するたびに、その風圧でよろけてしまう。途中から、地図を頼りに田圃道に入っていった。
 お椀を伏せた様な、小高い山を背にして甲山寺はあった。山門の先には弘田川が流れていて、田畑が広がり、長閑な田園地帯が広がっている。この辺り一帯は、弘法大師が子供の頃に遊んだ場所だそうで、弘法大師の故郷である。
 境内の隅に腰を降ろし、足の手入れをすることにしたが、赤く膨れあがり、広がっていく靴擦れを眺め、なすすべもなく、ただ、ため息をつくだけだ。靴擦れがこんなにも大きく広がるなんて、初めての経験である。靴の圧迫から開放された足を、再び靴に納めるのが、これまた至難である。 そんな私を、気の毒そうに眺めていた年配のご婦人が、声をかけてきた。これから善通寺に行くので、ご一緒しませんかと、車に誘ってくれた。もう一人の自分が、だめ、だめ、今日の予定は善通寺までだし、あと僅かな距離なんだから我慢して歩け、修行だ修行だ、と言っている。 
 なれどギブアップ。ご婦人のご親切を快く頂戴することにした。後部座席で足を動かし、歩いたつもりになっていればよい。次の善通寺までは、1500メートルの距離で、またまた歩き遍路不連続区間のキセル打ち。
 車の主は老夫婦で、甲山寺に向かう県道を走りながら、私の不自然な歩き姿に気が付いていたという。私が田圃道にそれて行ったので、声をかけることが出来なかったのだと、詫びるような口調で話してくれた。お遍路さんも、遍路道の里で暮らす人々も、みんな優しい。

 

第七十五番札所 善通寺(ぜんつうじ)

裏門から入って表門に抜けた


 善通寺の裏手にある駐車場入口で降ろしてもらい、老夫婦の好意に感謝しつつ、小川に掛かる橋を渡って境内に入っていった。そこには広大な空間が広がっていた。境内には裏側から入ったことになり、山門の位置は反対の東側にあるので、参拝順路としては逆である。
 弘法大師、空海は讃岐の国、善通寺の出身である。空海の父で豪族であった佐伯直田公(さえきのあたいだぎみ)から土地の寄進を受けて建立されたのが善通寺で、寺号はその父の法名「善通」から採られて命名されたという。しかし、善通寺の歴史はそれ以前にさかのぼり、境内からは奈良時代の瓦が発掘されており、実際には佐伯一族の氏寺として創建されたものであろうと推定されている。
 巨木の茂みの中に誕生院があった。規模の大きい建造物であり、納経所の案内板もあるので、てっきり本堂だと勘違いしてしまったが、ここは西院で弘法大師の誕生所である。本堂の金堂で般若心経を唱えた後に引き返して御朱印を頂くべきなのだが、靴連れの痛みもあり、気力が萎えているので先に誕生院の右側にある納経所に寄った。ちょっと後ろめたい気持ちになる。
 「超照金剛閣」と書かれた仁王門を抜け、東院に入り中門を抜けた先に金堂があった。参道の両側には土産物を売る店があり、多くの観光客で賑わっていた。孤独な旅を続ける遍路には、別世界に紛れ込んだような戸惑いを感じるが、これもまた旅の楽しみである。
 広い境内を裏口から入り、逆にたどって表門の赤門を抜け、善通寺駅に向かった。今日の泊まりは琴平温泉、金刀比羅宮の麓に開かれた温泉郷だ。またまた、お遍路さんにあるまじき贅沢をすることになる。

翌朝、早くに宿を発ち、靴擦れの痛みをかばいながら、金刀比羅宮の石段を登った。《こんぴら船々、追風に帆かけてシュラシュシュシュ・・・》と、民謡で親しまれ、海の神様として知られる「こんぴらさん」である。ビジネスマン時代には、高松市までは何度も訪れているが、金比羅さんにお参りするのは初めてである。
 長く続く参道の石段は、奥社まで登ると1368段とあるが、本宮までの石段は785段を数えるという。その昔、「東海道中膝栗毛」の弥次さん、喜多さんも、清水次郎長の子分、森の石松もこの石段を登ったのである。
 気になっていた空模様が怪しくなり、石段の半ばにたどり着いて、境内の入口にある大門を潜ったころから、冷たい雨が降り始めた。十月の半ばだというのに寒い。それに足が痛む。
 本宮では朝の祭事が賑々しく行われていた。時間が早かったせいか、参詣の人影は、まばらである。雨に煙って、瀬戸内海の遠望もきかない。おみくじを引いて早々に下山。おみくじは「凶」、そりゃそうだろう、こんな贅沢なお遍路をしていたら、海の神様にだって叱られる。それにしてもついてない。
 足の具合が良ければ、土産物屋を冷やかしながら歩くところだが、いまの気持ちにそんな余裕はない。この後、今日の予定をどうするのか、思案しながら歩いている。
 琴平駅の待合室で上り列車を待つ間、あれこれ思案のはてに、今回の区切り打ちは、昨日の第七十五番善通寺で終わることに決めた。東京を発つ前には、第八十番札所国分寺までの予定で休日をとってきたのだが、靴擦れの広がりには抗しきれず、ついに途中リタイヤの憂き目にあってしまった。
 今日中に東京へ帰り、明日は靴擦れの治療をして、足を休ませることにしよう。

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