同行二人・三割引きのお遍路⑦


四国へ

第76番金倉寺から第88番大窪寺まで
2004年11月14日~11月18


あとがき◆インドへ


嘉藤洋至

 靴擦れの痛みに耐えられず、途中リタイヤの憂き目にあってから1ヶ月が経過した。秋の深まりが感じられる11月中旬讃岐路にやって来た。いよいよ最後の四国お遍路、区切り打ちである。八十八番結願所、大窪寺までの道程は安穏であって欲しい。

 早朝の便で羽田を発ち、高松空港からバスと列車を乗り継いで、前回、歩き終えた土讃線善通寺駅にやって来た。第七十六番札所金倉寺のある金倉寺(こんぞうじ)駅は、一駅手間になるのだが、乗り過ごして歩いて戻ることにした。キセル打ちを繰り返しているのに、おかしな拘りだと思う。
 涅槃の道場を、煩悩の固まりが歩いている。歩くことに執念を燃やし続けているのだか、その執念の道理が、未だに上手く表現できない。小学生の頃に死別した両親、早くに逝ってしまった妻や弟への鎮魂なのか。親子の情、離別しながら育った姉弟との情、妻との慈しみに縁の薄かった心の飢えを充たそうとして歩いているのかもしれない。取り戻せるはずもない肉親の情を追い求めて歩いている。

第七十六番札所 金倉寺(こんぞうじ)

鬼子母神が最初に現れたお寺だそうだ


 金倉寺は住宅街の中にあった。途中で道を間違えたのか、商店街の裏手に続く古い軒並みを抜けて、山門の反対側に出てしまった。
 境内は広々としていて、その一角に「乃木将軍妻返し松」がある。明治の半ば、乃木将軍は善通寺第11師団長として、この地に赴任し、金倉寺に寓居していたのだが、東京から婦人が面会に来ても会おうとせず、婦人は面会の許しを得るまで、ただひたすらに松の下に佇んでいたという。

 なぜ、会おうとしなかったのか理由は不明だが、戦時下と同じ状況に置かれた職場に、のこのこと出かけてきた婦人と会うわけには参らぬ、という軍人の面子みたいなものが有ったのかもしれない。翌日、再び訪ねてきた婦人とは快く会い、婦人は金倉寺に一週間ほど滞在している。
 本堂の左、廻廊伝いに訶梨帝母(かりていも)堂がある。縁起によると、日本で最初に訶梨帝母が出現したのが、金倉寺なのだと書いてある。サンスクリット語では「ハーリティ」と呼び、その音のままに写したのであり、漢訳したのが鬼子母神である。子授け、安産、子育ての神様で、「恐れ入谷の鬼子母神」が有名である。
 鬼子母神は夜叉神の娘で、嫁して多くの子供を産んだが、その性質は凶暴残虐で、近隣の幼児をとって食べ、人々から恐れられた神である。釈迦は彼女が最も愛していた末っ子の愛娘を隠して、子を失う母親の悲しみを悟らせて、仏教に帰依させたという。  
 釈尊の戒めによって改心し、人々に尊崇されるようになったので、鬼子母神の「鬼」を表記するとき、第一画目の点を外して書いてあるお寺もある。角が取れた鬼子母神である。
 団体さんの後ろについてしまい、御朱印を頂戴するのに時間がかかってしまった。我慢、我慢だ。

第七十七番札所 道隆寺(どうりゅうじ)

遍路道の道筋が曖昧になってきた


 田園地帯を多度津に向かって進み、国道11号線を突っ切って、暫らくの間は金倉川の土手伝いに歩いた。少し遠回りになるかも知れないけれど、車が頻繁に行き交う県道よりも、歩くには快適である。
 阿波の国のお遍路道は、「四国のみち」として標識も整備されていて、歩き遍路には心強く感じられたのだが、伊予の終わりごろから、讃岐に入ると、どうも遍路道の存在が曖昧になってくる。瀬戸内に面して発展し、都市化が進み道路が拡幅されたり、付替えられたりした結果かもしれない。江戸期の丁石や道標が、時折り目に留まることがある。そんな時、「あぁ、お遍路をしているんだなぁ」という感慨に浸ることがある。
 土手伝いの道を左に折れ500メートルも進むと道隆寺の山門前に出る。大きな山門をくぐると正面にある本堂までの左側に、等身大の観音像が整然と並んでいた。さらに裏門までの参道には、西国三十三観音、坂東三十三観音、秩父三十四観音の百観音像が見事に整列している。
 百観音とは、日本を代表する百寺の観音様であり、祈願することが百寺巡礼である。その結願寺は秩父三十四観音の三十四番水潜寺とされている。
 西国三十三観音は、和歌山県那智の第一番青岸渡寺から始まり、岐阜県の第三十三番華厳寺で終わる。その総延長距離は1200キロメートルで、ほぼ四国八十八箇所の遍路道の距離に相当し、豪壮なお寺の連続である。
 坂東三十三観音は、鎌倉の杉本寺から始まり、関東地方全域を巡り房総半島の館山那古寺で、その全行程1300キロメートルが終わる。意外と知られていないのだが、浅草寺、つまり浅草の観音様は第十三番目の札所である。
 秩父三十四観音は、埼玉県西部の秩父盆地に全観音寺が点在していて、巡礼をするには、さほどの苦労を要しない。住職の居ない無人のお寺が有り、野良猫が集まって昼寝をしているようなお寺もある。
 私の百寺巡礼は、妻を亡くした翌年の平成6年3月に始まって、平成8年の11月までの2年8ヵ月を費やして、結願している。勿論、歩き巡礼ではない。電車、バスを利用して巡ったのである。それでも、交通機関の無い辺鄙な場所にある観音寺には、何時間もかけて歩き続けた。仕事の合間を縫って通い続け、奈良、京都には東京から日帰りで出かけたこともある。この頃、精霊に憑かれたかのように、観音巡礼を繰り返していた。
 百寺巡礼が定着して行った歴史は定かではないが、長野県佐久市の岩尾城址にある、大永5年(1525年)銘の石碑に、「秩父三十四番 西國三十三番 坂東三十三番」と彫られているそうで、それ以前の室町時代に日本百観音巡礼が考案されていたことが分っている。
 それにしても秩父三十四観音は、なぜ三十三観音ではないのか。観世音は三十三の身に姿を変えて、悩める人々を救うという観音経の諸説に基づいて、三十三箇所が定着して行ったのだという。それなのに、なぜ、秩父だけが三十四箇所になったのか。
 九十九箇所は九十九、つまり「苦渋苦」を連想させる。室町時代の知恵物が、一箇所を加えて切りのよい百観音にしたのだろう。現代のビジネスマンだったら、その宣伝効果抜群と言うことで、社長表彰ものだ。

第七十八番札所 郷照寺(ごうしょうじ)

庚申様に般若心経が伝わるのか、そこが問題だ


 郷照寺は、宅街の脇の高台にあった。簡素な佇まいの山門を潜り、坂を登った正面に本堂がある。眼下には宇多津の町並みが広がっていた。午後から雲行きが怪しくなり、小雨がぱらつき始めて、期待した瀬戸内海の眺望は全くきかない。瀬戸大橋が霞んで見える。
 大師堂は、本堂を更に登ったところにあり、その横の地下に万体観音堂がある。一万を越す観音像がびっしりと並んでいた。
 郷照寺は、八十八箇所のうち唯一、時宗の札所である。時宗の開祖、一遍上人が踊念仏の道場としてこの地に留まり、荒れ果てた伽藍を修復し、宗派を時宗に改めて再興したという。一遍上人は鎌倉時代中期の僧侶で、松山市道後温泉に近い宝厳寺の一角で生まれ、二十代の後半には、第五十番札所となっている繁多寺で修行している。
 本堂の右手に庚申堂がある。お寺の境内に庚申様が祀られているケースは珍しい。庚申信仰は中国より伝来した道教に由来するものであって、古くは庚申(かのえさる)の日には謹慎して、一夜を明かすという風習があった。庚申信仰の形は、様々な風習を伴って広がっているが、庚申塔、あるいは庚申塚に、その信仰の面影を残している。
 申塔の建立が行われるようになったのは江戸時代初期の頃からだといわれ、全国的な分布が確認されている。地域に差はあるが、相模の国を中心とした地域では数多くの庚申塔が建立されている。今では、街道の拡張、付け替え工事などで庚申塔の殆んどが撤去されたり、元の場所から移転され、目に付きにくい場所に集められている。
 庚申信仰の広がりの中で、庚申講という風習があった。人間の体内にいる「三戸(さんし)」という虫が、寝ている間に体内から抜け出して天帝にその人間の悪事を報告に行くというのだ。これを防ぐため、庚申の日には庚申堂に集まって、三戸の虫が出て行かないように、夜通し語りあい宴会などをする風習である。
 発心の道場、修業の道場、菩提の道場を巡り終えても、未だ、邪念、妄念を捨てきれないでいる。私の体内にいる三戸(さんし)の虫もあきれ果てて、天帝に、この軟弱者の正体を告げに行くに違いない。せめて罪業の一つをも許されんことを請い願い、庚申堂に向かって声高に般若心経を唱える。なれど、道教の庚申様に般若心経が伝わるのか。そこが問題だ。
 七十八番までの札所を巡り終えあと十番の札所を残すのみとなった。ここまでやって来たのに未だ頭の隅を妄想がかすめ、煩悩に苦しめられている。いままでの難行苦行が修行になっていない。ここに庚申堂があって、三戸の虫が待ち構えているなんて、実に憎たらしくも、私にとって皮肉な設定になっている。
 本堂の彫刻絵天井に暫らく見とれていた。小雨が煙る中、疲れた足をかばいながら、坂出市内に向かった。坂出駅傍の旅館川久米に宿を取る。

第七十九番札所 高照院(こうしよういん)

因果応報の輪廻からは抜け出せない


高照院はややこしい。
 白峰神社の三つ鳥居があって、その右側に四国第七十九番霊場「天皇寺」と書かれた大きな石版が建っている。通路を隔てた右側に、「金華山天皇寺高照院」と書かれた石柱が建っていたので、天皇寺と高照院は同じお寺なんだと言うことが分る。
 保元の乱で敗れて讃岐の地に流された崇徳天皇を祀ったのが白峰神社であり、天皇の棺を安置したのがこの寺であることから、天皇寺と呼ばれるようになった由である。
 通路を入って行ったら駐車場だった。そこから本堂に通じる参道が見当たらないのだ。何だか変だ。一旦後戻りして、白峰神社の鳥居を潜った。鳥居は、その両脇に小ぶりの鳥居を組み合わせた珍しい三つ鳥居の形をしている。  
 高照院は、白峰神社と同居していた。寺には山門もなく、境内の左隅に本堂、大師堂と鐘楼が肩を寄せ合うようにしてつつましく建っている。
 納経所に行くのにコンクリートの門を潜った。これが高照寺の山門なのだろうかと思ったが、境内の佇まいからして、そうでもないらしい。さほど広くもない境内なのに、あっちこっちウロウロしたせいか、どうも配置が良く思い出せない。結局、お寺を後にしたときには、最初に間違って入って行った駐車場に通じる路から外に出ていた。あぁ、ややこしい。
 道中の所々から讃岐富士が望める。昨日は小雨模様で、円錐形に整った、その美しい姿を見ることは出来なかった。讃岐富士とは正確には讃岐平野に点在する七つの郷土富士の総称のようだが、一般に讃岐富士と言えば、丸亀市と坂出市の境に位置し、海抜422メートルの「飯野山」を指すことが多い。
 讃岐富士は、地形輪廻説に従えば壮年期の地形といえるのかもしれない。同じ香川県に在る「屋島」は幼年期で台地状である。侵食が続けば、讃岐富士のような孤立した円錐峰の地形が出来上がる。なれど、隆起、堆積、浸食を複雑に繰り返し、再生していく大地は、地形輪廻説だけでは説明できない。
 自然に巨大なうねりの輪廻が存在すように、人間にも、死後の世界で何らかの形で存続するという、大きな信仰のうねりがある。それが輪廻である。
 人は、生前の業(ごう・行為)に従って、死後の世界をさ迷うのである。自らの行為の果報はかならず自分に現れる。今世でなければ来世、あるいはその後の生に現れる。自業自得である。因果応報の考え方は、現実社会の不平等を巧みに説明しているようだ。
 業は輪廻を引き起こす力にもなるし、輪廻から解脱する力にもなる。平等を来世で回復してバランスを取るのが輪廻だ。それでも、今生の業を来世にまで持って行きたくはない。なんとかバランスをとって人生を終わりたいものだ。なれど、どんなに修行を積んだって、因果応報の輪廻から抜け出すことができない。さぁ、歩け、あるけ。
 
讃岐富士を詠んだ歌、句がある。

暁に駒をとどめて見渡せば讃岐の富士に雲ぞかかれる       昭和天皇

讃岐にはこれをば富士といいの山朝げ煙たたぬ日はなし      西行法師

稲むしろあり飯の山あり昔今                  高浜虚子

 讃岐富士は、市民が身近に訪れる山としても人気を集めていて、近年では体力づくりもかねて登山する人が増えているそうだ。

第八十番札所 国分寺(こくぶんじ)

国分寺のあるところ、必ず良質の水がある


 国分寺町は讃岐の国府が置かれた場所で、古くから政治・文化・宗教の中心地として栄えてきた歴史の街である。水と緑の田園風景が広がり、いまでは高松のベッドタウン化が進んでいる。 予讃線に沿った県道を歩き続ける。国道11号線の下を潜って、国分駅前を左に折れ、旧道に入っていった。細い通りの住宅街は、門前町の様にも感じられる。国分寺の脇に、真新しい資料館が建っていた。
 門前の狭い駐車場には、団体お遍路さんの大型バスが止まっていた。御朱印を貰うのに、またまた並ばなければならないかと思うと、すこし、うんざりした気分になる。
 仁王門をくぐると、広い境内には松並木が続き、四国八十八ヶ所の本尊をかたどった石仏が並んでいた。讃岐国分寺の礎石も残っている。本堂はどっしりとした構えで、鎌倉時代に建立され国の重要文化財に指定されてる。白装束の集団に混じって般若心経を唱和した。先達が叩く拍子木がリズミカルに響く。
 第十七番井戸寺の項で、国分寺の在るところ、あるいは国府や府中の地名が残っている所には「必ずと言って良いほど井戸を表す地名が残っている、」という意味のことを書いた。東京都下の例で言えば、国分寺市であり府中市であり小金井(こがねのいど)市である。栃木県には、合併によって下野市になっているが、国分寺町があり最寄り駅に宇都宮線小金井駅の名前が残っている。
 予讃線の国分駅の次は讃岐府中駅で、国分寺町と府中町は隣り合わせになっている。そこで、讃岐の国分寺にも、必ず井戸を現す地名があるはずだと考え、地図を眺めていたら在ったのだ。国分寺から南東に3キロほど離れた楠井という集落だ。ここに、「楠の井の泉」と呼ばれている泉がある。山麓から清水が湧き出ており、干ばつ時にもその水量が減らないという霊泉である。
 その昔、薬師如来が現れて、その手に持った杖で地面を掘り下げたところ、清らかな水が湧き出し、その後、「光連坊」という山伏がお守りしたという故事があり、その由来が石碑に刻まれている。この地域に住む人々は、いまでも、料理や飲料水など日常的に利用していると言い、毎月20日には薬師如来の祭祀をとり行っているという。
 納経を終え、門前の駐車場に出たところで、客待ちのタクシー運転手が声を掛けてきた。次の第八十一番札所白峰寺、第八十二番根来寺は、讃岐の難所だから乗って行けという。丁重にお断りして歩き始めた。とは言うものの、今日の行程は、まだ23キロも残っている。それも此の先、「へんろ転がし」といわれる高低の激しい遍路道が待ち受けているのだ。

第八十一番札所 白峰寺(しろみねじ)

  落葉の積もった遍路道は疲れた足に優しい


 落ち葉の遍路道を歩き、枯れ木のトンネルを抜ける。山道は階段を上がるようだ。今朝から10キロメートル以上を歩いているので、かなりきつい。登りきったところに東屋の休息所があったので少し休むことにした。
 直ぐ近くを自動車道が走っていた。一本松と書かれた標識があり、一旦、自動車道に出て暫らく歩き、再び遍路道に入って行った。根来寺との分岐点、一九丁というところに道標があって、白峰寺2.7キロと書かれていた。自衛隊施設の傍を抜け起伏の激しい山道を喘ぎながら歩いて行った。なんとかしてよ菩薩様、なんとかしてよ大師様、だ。
 白峰寺は、香川県の観光地、五色台の最も西寄りにある。この五色台は、香川県の中央部から瀬戸内海にせり出した、広大な面積を占める溶岩台地である。300メートルから400メートル級の峰々が連なっていて、それぞれ黄峰、黒峰、青峰、赤峰、白峰と呼ばれている ここから五色台の地名が生まれたようだ。香川県はこの五色台によって東西に二分されていて、そのことから東讃、西讃という地理的な呼称が定着している。
 白峰には、保元の乱(1156年)により讃岐の国に流罪となった崇徳上皇の御陵がある。参道にある十三重石塔は、崇徳上皇の供養塔といわれ、重要文化財に指定されている。
 七つの棟がある珍しい山門(七棟門)を潜ると、境内には鬱蒼と茂った老松、古杉に覆われた厳粛な霊場が広がっていた。般若心経を唱え、納経を済ませて、遅い昼食をとる。
 根来寺へ通じる遍路道は、「昨今は余り利用されていないので、自動車道を歩いたほうが良いですよ」と、納経所の職員が教えてくれた。これまでにも殆んど利用されていなくて、荒れ放題の遍路道を歩いたことがある。お天気は良いし、落葉の積もった足元は柔らかい。足の疲れは落葉が吸収してくれるだろう。遍路道を辿ることに決めた。
 もと来た道を戻り、一九丁と書かれた道標がある根来寺との分岐点まで、1時間近くも掛かってしまった。疲れた足は弾んでくれない。納経所が閉まる五時までには何としても根来寺へ行き着かなくてはならない。白峰寺から約8キロの道のりがあるのだ。あと3時間足らずしかない。

第八十二番札所 根来寺(ねごろじ)

あぁ・・・あ、ひどく疲れたなぁ


これぞ遍路道だと言えるような、自然の道が残っていた。登り、そして下りを繰り返す。良かった、まだまだ遍路道の佇まいが残っていた。
 一昔し前までの遍路道は、修行の道であった。定められた一定の道筋を外れることは修行に反する行為なのだ。また、その土地に住む人々にとっては、生活の道でもあった。今では、平坦部のほとんどの遍路道が拡張され、舗装されてその姿を変えてしまっている。また、山間部の遍路道も直ぐ脇に自動車道が開通して、生活道路の役割をなくしてしまった。団体バスツァーのお遍路や、自家用車で次々と来ては去っていくお遍路さんばかりで、歩き遍路は少なくなった。遍路道が廃れかかっている。そして遍路道の貴重な歴史遺産である道標や丁石が、苔むして埋もれて行こうとしている。
 ある研究論文()がある。香川県下の遍路道に分布する丁石と道標を調べた貴重な資料が収録されている。それによると、第七十九番高照院から第八十九番八栗寺までの区間で、181の丁石、142の道標が確認されたという。それも、国分寺、白峰寺、根来寺を結ぶ遍路道に集中している。 道標は石柱に、右、左の方向を指差した手形で示したものが多いが、単純に右、左の文字で示したものもある。丁石には、菩薩の姿と次の札所までの丁数が刻まれている。おおよそ100メートルの間隔で立てられていて、仏の功徳を求め、遍路道の無事を願って立てたものであるという。
 道標、丁石には地蔵菩薩のほかに大師像、梵字、経文などが刻まれていて、単なる道標ではなくて、信仰の対象としての性格を持っているものが多い。国分寺の山門を出たところに立てられていた石柱は、「遍ん路道是より白峰」と刻まれた単純な道標で、これは信仰とは関係がなさそうだ。
 丁石のほとんどは先の尖がった船形をしている。土地の人によって建立されていて、修業の道場である遍路道と、そこを巡るお遍路との関わりが、自らの生活と一体になっていたこを示しているようだ。
 遍路道は江戸時代の初期には、今日の形で定着していたといわれているが、先の研究論文による調査結果では、初期の道標、丁石は確認されなかったという。現存しているものは江戸中期以降に建立されたもので、明治になってからも道標が整備されていったと書かれている。道標や丁石からは、それぞれの時代に生きてきた人々の心情や、時の流れが反映されているようだ。この素朴な心情や佇まいを大切にして、後世に残して行かねばならぬ、と思う。
 下乗と書かれた石柱があった。ここからは聖地だ。どんなに高貴な方でも乗り物から降りて参拝しなければならない。根来寺が近いのだ。
 紅葉の季節、境内は団体さんで混雑していた。そして、一斉に引き上げて行った。秋の日暮れは早い。今日の宿泊予定は予讃線、鬼無駅前にあるただ一軒だけの旅館、百百家である。疲れた足ではたっぷりと2時間はかかるだろう。
 夜の帳が降り始めた。狭くて樹木に覆われた遍路道では方向感覚がつかめなくなるので、自動車道を下ることにした。ときたま走る自動車のヘッドライトがまぶしい。だれも歩いていない。四国に来るようになってから暗い山道を歩き続けるのは初めてだ。心細くなる。やっぱり歩くのは明るいうちでないといけない。九十九折の坂道をくねくねと回りながら降りる。右に左に姿を変る讃岐平野の夜景は美しいのだが、疲れていて、それを堪能する余裕はない。 
 1時間余りも下って来ただろうか、高松西高校が見えるころから平坦な道路になり民家が増えてきた。ほっとする。自動販売機でスポーツドリンクを求めて喉を潤し、百百家旅館に電話を入れ、到着が遅くなる旨を伝える。
 とぼとぼと歩いている。宿の明かりが見えてきた。ひどく疲れた。

(註)川田裕史「遍路道踏査―道標・丁石を中心として―」(「香川県自然博物館研究報告」Ⅰ   (1979年刊行)

第八十三番札所 一宮寺(いちのみやじ)

一番初めは一宮・・・、母が唄った数え歌


 寝覚めは悪い。昨日の疲れが抜けきっていない。布団の中で二転三転している。何とか布団から這い出して、七時半には宿を発った。
 鬼無駅の観光案内板に、桃太郎の伝説が描いてあった。お爺さんが芝刈りに行った山や、お婆さんが洗濯に行った川や、猿、雉、犬にまつわる神社などが書かれていて面白い。
 高松市の郊外に広がった市街地を歩いている。遍路道らしきものは見当たらないし、道標も目につかない。昨日歩いた山路とは一変した空間が続いている。地図を頼りに右折、左折を繰り返して香東川に突き当たった。河原の中のコンクリート道を歩き、整備された緑地帯を歩き、堤防伝いに南に向かって歩き続ける。昨日からの疲れが、歩く速度を鈍くしている。追い越して行ったお遍路さんの姿が、だんだんと遠ざかっていった。
 香東大橋の東詰めを左折し、住宅街の真ん中にある一宮寺に着く。山門は小道を挟んで、讃岐一宮田村神社の鳥居と向かい合っていた。
 本堂手前の参道脇に大きな楠の木があって、その根本に薬師如来を祀るという小さな石の祠があった。この中に首を突っ込むと地獄の釜の音が聞こえるという言い伝えがあるそうだ。試しに頭を突っ込んでみたら、風の流れる不気味な音が聞こえ、石の冷たさが首に突き刺さってきた。なんでも、心がけの良くない人が頭を突っ込むと、石の扉がしまって、首が抜けなくなるのだという。
 その昔、近くに住む「おたね」という意地悪婆さんがいて、頭を入れて抜けなくなったので、行状を反省して許しを請い、やっと扉が開いたという話が、縁起に書かれていた。私は、無事に頭を抜くことが出来た。やれやれだ。
 私は、子供の頃に母をなくしているので、母親にまつわる記憶は薄いが、母が歌っていた数え歌を、途中までだが、はっきりと覚えている。

  一番初めは一の宮

  二は日光東照宮

  三は讃岐の金比羅さん

  四は信濃の善光寺

  五つは出雲の大社

  六つ村々鎮守様

 だが、記憶に残っているのはここまでである。
 一番初めの一の宮は、ある地域の中で最も社格の高いとされる神社で、律令国家として全国に国府が設けられ、赴任した国司が最初に巡拝した神社である。

 阿波一宮神社の別当寺が第十三番札所の大日寺であり、土佐一宮、土佐神社の別当寺が第三十番札所の善楽寺である。伊予一宮は瀬戸内海に浮ぶ大三島の大山祇神社であり、第六十二番札所宝寿寺が、その別当寺である。讃岐一宮田村神社の別当寺が、この第八十三番札所の一宮寺なのだ。
 数え歌の、一番初めの一宮は何処の一の宮を指すのか定かではないが、尾張一宮だという説がある。私は、特定された一の宮ではなくて、それぞれ数え歌が唄われた地域の一の宮を指すのだろうと解釈している。それを思わせる理由として、三の讃岐の金比羅さんは、関東地方では、三は佐倉の宗五郎、と唄われている。
 七つから後を調べてみた。

七つ成田の不動様

  八つ八幡の八幡宮

  九つ高野の弘法様

  十で東京二重橋(あるいは、東京招魂社)

 である。

 まだ九時を少し回ったところなのだが、団体お遍路さんが到着した。厳かな雰囲気は掻き消されてしまった。騒々しい境内を早々に抜け出した。

第八十四番札所 屋島寺(やしまじ)

  狸に高尚な化け方があるのか


 高松市内に向かって、のろのろと歩いている。途中、栗林公園のバス停で、ベンチに座って一休みすることにした。これまで、ビジネスマン時代には、何度も高松市に来ているのだが、栗林公園を訪れたことはない。
 栗林公園が造営された歴史は室町時代に遡り、我が国を代表する回遊式の大名庭園である。一度は訪れてみたいと思った場所なのだが、その機会はなかった。今日も、この後の行程を考えると、時間も、また足の疲労度合から、寄り道している余裕なぞは無い。またいつの日か訪れる機会もあるだろう、今回もまた、諦めることにしよう。
 高松市役所の前を大きく右折して、国道11号線を徳島方面に向かって歩く。左手に、頂上が平らで、あの独特な台地状をした屋島が見えてきた。
 屋島寺は、海抜270メートルのところにある。足の痛みもあり、屋島登山鉄道のケーブルカーを利用することにして、登山道の入口を通り過ぎ、山麓の駅に向かった。
 ところが、である。駅舎は廃屋状態で、一か月前に営業を休止したとの張り紙がしてあった。通りすがりの人が駅舎に向かって歩いて行く私を、怪訝な顔をして眺めていた訳が分ったのだ。屋島を訪れる観光客が年々減少し続け、営業が立ち行かなくり、休止の憂き目にあったという。
 もと来た道を引き返し、登山道に向かった。往復で1キロメートルも無駄にしたことになる。疲れた足には大きく負担が圧し掛かる。ぐちぐちと悔やんでも仕方がないのに、ガイドブックを頼りにした自分に腹が立ち、挙句の果てにはガイドブックにケチをつけている。
 登山道に入り住宅地を抜けたら、途端に急坂な山道になった。昨日からの疲れも溜まっているし、身体に負担のかかる辛い山道である。それでも、軽やかな足取りで登って行く人がいるし、弾む足取りで下って来る人がいる。どうも、お遍路さんでは無さそうだ。屋島寺や、その周辺の観光施設で働いている人々の通勤路になっているのかもしれない。また、屋島寺にお参りする地元の人々が通う道になっているのだろう。観光客は屋島ドライブウェイを車で登って行く。
 やっとの思いでたどり着いた本堂で般若心経を唱え、大師堂でも唱え終え、納経帳に御朱印を頂戴する一通りの行程は終えた。しかし、疲れていて、周辺の観光スポットをぶらついて見ようなどと考える余裕はない。
 本堂の横に、大きな白い狸の夫婦像があった。その姿かたちは、どこか滑稽である。
 説明版があった。そこには、「その昔、弘法大帥さんが四国八十八ヶ所開創のみぎり、霧深い屋島で道に迷われ、蓑笠を着た老人に山上まで案内されたと言う。のちにその老人こそ屋島太三郎狸の変化術の姿であったと信じられております。
 屋烏の屋島太三郎狸は、佐渡の団三郎狸、淡路の芝右衛門狸と共に日本三名狸に称されています。太三郎狸は屋島寺本尊十一面千手観音の御申狸又数多くの善行をつんだため、土地の地主の神として本堂の横に大切に祭られ四国狸の総大将とあがめられ、その化ケ方の高尚さと変化妙技は日本一であった。
 尚、屋島太三郎狸は一夫一婦の契も固く家庭円満、縁結び、水商売の神、特に子宝の恵まれない方に子宝を授け福運をもたらす狸として全国よりの信者が多い。」と、書かれていた。原文のままだが、御申狸は「おんもうしたぬき」と読むそうだ。それにしても、狸の高尚な化け方とはどんな化け方なのだろう。

 説明版を読み終えて、もう一度狸の夫婦像を眺めた。柔和な顔していて、手には数珠を持っている。気持ちが和んできた。
 次の八栗寺までは、おおよそ8キロメートルだから五時までにたどり着けない距離ではない。なれども、昨日からの疲れが尾を引いていて、活力、気力は鈍くなるばかりだ。それどころか、リュックを背負っている背中まで痛くなってきた。
 八栗寺へ向かうのは諦めて琴平電鉄の屋島駅から高松市に戻り、今日は、とびきり上等のホテルに泊まり、身体を休めることに決めた。全日空ホテル、クレメント高松に予約の電話を入れたら、幸いなことに空いていた。

八十五番札所 八栗寺(やくりじ)

賽銭箱が大きすぎるよ、滑稽だね


 あと四箇寺で結願だ。ゆっくりと身体を休め、九時にホテルを発った。今日の予定は八十七番の長尾寺までにして、最後の大窪寺は明日の行程としよう。それにしても、こんなに長い月日を費やして、よくもまぁ、へこたれずに四国に通って来たもんだと思う。
 昨日、高松に向かうために乗った琴平電鉄の屋島駅で下車して、八栗寺に向かうことにした。八栗寺は、二つ先の八栗駅で降りた方が近いのだが、またまた、歩き遍路不連続区間のキセル打ちを避けようという拘りから、二つも手前の駅から歩くことにした。
 駅に降りたら、客待ちしていたタクシー運転手が声をかけてきた。屋島寺に行くんだったら乗って行けという。これから八栗寺に行くんだといったら怪訝な顔をしていた。昨日、屋島寺を打ち終えて、歩き終えた場所からスタートするのだといったら、笑って納得していた。そして「気ぃつけて、行きなさいや」と、声を掛けてくれた。
 農村風景には秋の深まりが感じられる。なだらかな登り道が続いている。この辺りは白御影の庵治石が産出されることで有名であり、あっちこっちに石材店が見える。店先には売り物なのか単なる看板なのか、招き猫や、狸の巨大な石像が並んでいた。世界的に著名な彫刻家、イサム・ノグチがアトリエを構え,成熟した作品を数多く生み出してきた場所である。
 八栗ケーブルの乗り場に着く。こちらは、昨日の屋島登山鉄道とは違い、ちゃんと運転されていた。遍路道はケーブル横の谷筋に続いていて、20分も登ると八栗寺正面の尾根に辿り着いた。眼前には八栗寺に覆い被さるような五剣山の姿が迫ってきた。
 五剣山とは、五つの峰が剣の尖のように聳え立っていることから名づけられたのだが、江戸中期に、豪雨や地震で一番西の峰が崩壊し、いまでは四剣山になっている。山の全域が八栗寺の所有となっていて、危険でもあり、一般の人は立ち入り禁止になっているようだ。修行の場所として許可を得れば入山することは可能であると聞いた。
 参道には鳥居があって、その先に寺の山門がある。ここにも神仏混淆の痕跡が残っていた。本堂から大師堂を経て、本坊に向かった。道筋の岩の窪みや割れ目には、必ずと言っていいほど石仏や石碑が祀られていて、その前には賽銭箱が置かれている。小さな石仏の前に仏像の身の丈に余る賽銭箱が置かれているけれど、すこし滑稽に感じる。
 ケーブル山頂駅の脇を抜け、登ってきた道とは反対方向の自動車道を下って行くことにした。

第八十六番札所 志度寺(しどじ)

山号は補陀洛山、次の札所も補陀洛山、なぜだ


 歩いているところは牟礼町だ。牟礼という地名は全国に分布している。牟礼の語源は古代朝鮮語に由来し、「人が集まって住んでいる場所」という説が有力である。また、同じく古代朝鮮語の、「木の茂る険阻な中低山」を指すという説もある。角川地名辞典では、「山、高地」を採用しているが、牟礼(ムレ)、群(ムレ、ムラ)、村(ムラ)は、同じ語源であって、人々の住む集落を表していることに間違いはなさそうだ。
 琴平電鉄とJR高徳線の間を国道11号線が走っている。自動車の往来が激しくて、歩き難いのだけど、わき道が見つからないので、国道を志度寺に向かって歩くことにした。
 琴平電鉄の塩屋駅を過ぎると志度湾が見えてきた。この辺りはその地名が示すように、昔は塩田が広がっていたところである。大量の海水から水分を蒸発させて、塩だけを取り出したのである。昭和の高度経済成長期までは、瀬戸内の主要産業として、様々な技法で食塩が製造されていた。その後、塩田の多くは埋め立てられ、工場が建ち並び、あるいは大きな物流拠点にその姿を変えていった。
 志度寺は町中にあって、志度湾のほとりに建っている。山門の両脇に巨大な草鞋が奉納されていた。志度寺の栞には、山門は三つ棟木という珍しい工法で建立されていて、日本三大名門の一つだと書かれている。どこがどのように珍しいのか、棟木が三本あるのだろうけど、よく分らない。確かに、どっしりとした構えの山門ではある。境内には鳩が群がり、近所に住まう人々であろう、普段着のままの姿を見ると、庶民のお寺だという思いを深くする。
 もう、すっかりと諳んじてしまった般若心経を唱え終えて、志度湾の風景を眺めようと思いたち本堂の裏手に回って海端に出てみたら、目の前は埋立地で、味も素っ気もない物流施設が広がっていた。
 志度寺の山号は補陀洛山だ。次の札所、長尾寺も補陀洛山である。補陀洛とは観音菩薩の住まいがある場所とされる極楽浄土である。八十八番の結願所、大窪寺に至る前の二カ寺が補陀洛山になっているのには、何か意味があるのだろうか。結願まではあと僅かの努力と辛抱だ。その先には極楽浄土が待っていると言う暗示なのか。・・・詮索するのはやめておこう。

第八十七番札所 長尾寺(ながおじ)

達磨みくじを引いた、大吉だっ


 志度寺を出て県道を南下する。左手に高徳線が走っていて、その向うの高台には新興の住宅街が広がっていた。辺りの田園風景とは似つかわしくない、洒落た「オレンジタウン駅」という名前の道路標識があった。高松市からは、かなり外れた郊外なのだが、住宅地として開発の手が伸びている。
 長尾の町は、長尾寺の門前町として開けた町であり、かつては、諸街道が集まる交通の要衝として、活気に溢れた街であったと聞いている。市街地に入り、讃岐うどんの看板を見つけて昼食をとった。
 町はくすんでいて、活気がまったく感じられない。歴史の古い門前町も、時代の流れには抗し切れなかったのか。長尾街道の旧道沿いには、昔日の面影は見られない。あっちこっちに空き地が目立ち、伝統的な家並みの面影はない。
 長尾寺の山門にも、両脇に高さが4メートルもあろうかと思われる巨大な草鞋が奉納されていた。昔のお遍路たちは、生と死の狭間をよろけつつ苦しみを重ねて、やっとここまで辿り着いたのだ。結願所が近付き、ここで擦り切れた古い草鞋を奉納し、新しい草鞋に履き替えて、最後の大窪寺を目指したに違いない。心の傷から開放されるのは、あと僅かな道のりなのだ。んなことを考えていたら、なんだか感傷的になってしまった。それにしても足が重い、背中が痛い、ひどく疲れたなんて言っているけれど、私のお遍路なんて、気楽なものである。
 境内に、静御前剃髪塚という五輪の塔があった。静御前がこの寺で得度し、剃髪して髪を埋めたといわれる塚である。源義経の愛妾であった静御前は、長尾町の東、20キロほどの所にある、大内町小磯で生まれ、若くして京に上り、白拍子となり、義経に見そめられたのである。鎌倉鶴ヶ岡八幡宮で、「吉野山峰の白雪踏み分けて入りにし人の跡ぞ恋しき」と唄ったのが、頼朝の怒りに触れた話は有名である。義経と別れてからは讃岐に戻り、長尾寺で髪を切り得度して、この地で一生を終えたと伝えられている。
 達磨おみくじを引いた。大吉だった。
 この日は、長尾寺そばにある、ただ一軒のお遍路宿、「あずまや旅館」に泊まった。お遍路のスタイルも変わり、車でこの町を素通りしてしまう。参詣客相手の旅館や料理屋も、ほとんど姿を消してしまったそうだ。

第八十八番札所 大窪寺(おおくぼじ)

結願、物足りない幕切れに戸惑っている


 昨晩のうちに、女将さんに頼んでおいたお握りを頂戴して、早朝に宿を発った。出来ることなら今日のうちに東京まで帰りたい。まっ、体力次第ではあるけれど。
 歩き始めて1時間も経ったころ、人の気配を感じて振り返ったら、背中に大きなリュックを背負った大柄なお遍路さんが近付いて、にこにこと愛想の良い笑顔で声をかけてきた。その姿は、一昔前に北海道を旅する「かに族」といわれた若者のスタイルにそっくりだ。横に張り出した大きなリュックは、蟹の甲羅のようである。左右に揺れながら歩いている姿を後ろから見ると、蟹が歩いているように見えるから、この名前がついた。北海道の大地を、酪農農家に泊まり、一宿一飯の恩義を労働力で返して、旅を続けた若者がいた。
 この人は、昨夜は神社の床下で野宿したという。寒くてよく寝られなかったようだ。陽気の良い季節は、虫との戦いで野宿するのは辛いとこぼしていた。四国のお遍路道を辿りながら絵を描き、東京で画廊を経営している友人に買い上げてもらって、そのお金で旅を続けているのだという。1ヶ月も前に送った絵の代金が、まだ振り込まれて来ないので、いまは無一文で、止む無く野宿を繰り返し、歩き続けているのだと言っていた。
 「前山おへんろ交流サロン」の看板があった。そこには、前山地区活性化センターの建物があり、その中に、「へんろ資料展示室」があって、四国霊場に関わる貴重な資料が展示されているという。開館は九時からで、1時間以上もの間があり、見学することは出来ないので、建物の前で暫らく休憩をとることにした。
 放浪画家氏と並んで腰を降ろした。 「いよいよ大窪寺で、お遍路も最後ですね、東京に帰るのですか」と尋ねたら、いや、私はお遍路じゃないから、その先も歩いて、第一番札所の霊山寺に向かうと言っていた。
 目の前に車が止まり、村役場の職員のようなスーツ姿の人が降りてきた。丁寧な言葉遣いで、この放浪画家氏に声をかけてきた。二言、三言会話があって、放浪画家氏は、その人の運転する車に乗って、去って行った。
 よく分らないなぁ。どこへ行くんだろう。あの放浪画家氏は一体、何者なんだろう。ひょっとしたら、けっこう著名な画家だったのかもしれない。
 前山おへんろ交流サロンを後にして、今まで歩いてきたバス道路をはずれ「四国の道」に入って行った。傾斜は緩やかで、農家が点在し、田畑が広がっている。どこにでも見かける長閑な山間の田園風景だ。車道から遍路道に反れ、また車道に戻ってくるという繰り返しが続いている。
 山深くなってきた。文字が消えかかっているが、「大窪寺、中間点、残り3.5km」と読める標識があった。険しい遍路道の標識に書かれた距離程から、この後の所要時間は換算できない。2キロと書かれていても1時間も掛かることだってある。登ったり下ったりして、小さな尾根を何度も越えながら、少しずつ高度が上がっていく。
 女体山の登山口に到着した。女体山頂上まで1138米と書かれた標識があった。その向うに四国の道の標識があって、山中に向かって伸びている石段がある。自動車道を外れて石段を登って行った。階段と歩幅が合わないので歩き難い。
 青年のお遍路が追い越して行った。二人連れのお遍路も追い越して行った。挨拶を交わしながら、その都度道を譲っている。私はセッカチな性分だし、どちらかというと人を追い越して歩いてきたのに、最後の遍路道では道を譲っている。かなり体力を消耗しているようだ。 
 山頂709米、是より大窪寺2.1粁と書かれた標識の縁に腰を降ろして、お握りを頬張った。それからの登りがきつかった。岩場の急斜面を這いつくばるように進み、最後には鎖を伝って登った。女体山越の遍路道を選んだのは間違いだった。自動車の通う道を歩いたほうが良かったのだと思ったが、もう遅い。とにかく最後の難関を越えなければ、結願所には辿り着けない。
 下りも酷かった。急斜面を、岩や木の根っこを掴みながら、必死で身体を支えて、下って行った。こんな所で引っ繰り返ったら誰も助けに来てはくれない。命の危険すら感じる。お大師様は最後まで修行の手綱を緩めてはくれなかった。
 大窪寺までは、あと一息の距離だ。山道の下りは膝に堪えた。直ぐ下に大窪寺の屋根が見えてきた。ついに八十八番大窪寺に到着だ。それにしても山門から入るのではなくて裏山から降りて来ると言うのは、様にならない。
 境内の佇まいからは、結願所に相応しい静けさと格調を感じたのだが、参詣している人々の動きや表情からは、なぜか満願の感動が伝わってこない。今まで廻って来た札所と、何ら変わりのない雰囲気しか伝わってこない。多くのお遍路さんたちは自家用車や、観光バスでやってきて、通り一片の儀式を済まして去っていく。
 何はともあれ、満願だ。納経所で御朱印を貰ったら、納経印は大窪寺ではなくて、「結願所」と押されていた。お金を払うと「結願証明書」を書いてくれるというのだが、三割引のお遍路には、はばかれるので、止めた。
 満願の感動を親しい友人に伝えようと思い、携帯電話を取り出したら、無常にも「圏外」、と表示されていた。一日に3便しか走っていないコミュニティバスに乗り、途中でバスを乗り換えて高松駅に着き、さらに乗り継いで高松空港に向かった。


 私は、どちらかというと暗い人間である。10代から20代にかけての生活環境が、私を内向的な人間に育てあげてしまったのだ。私の心の奥深いところには、得体の知れない固形物が沈んでいる。お遍路の旅が終わりに近付くにつれ、それが、不遇な幼年時代、青春彷徨時代の疎ましい記憶を封じ込めた固まりであることに、気付かされたのだ。

 幼年時代には親戚に預けられ育った。反抗の許されない境遇である。同じ経験を経てきた弟とは、心に受けた傷が余りにも大きすぎて、成人した後も、辛かった境遇を語り合うことはなかった。弟が亡くなって久しい。健在でいても、互いに口を噤んでいるだろう。
 中学生の頃、親孝行について教師から質問があった。「お前は親が居ないんだから、親孝行のことなんか分らなくていいだろう」と、ニヤニヤしながら私に回答を求めてきた。明らかに教師失格の科白である。酷く腹が立ち、傷ついた。
 神戸のドヤ街で寝起きしたこともある。大阪梅田駅で、家出少年と間違われて、一晩警察に厄介になったこともある。上京し、職探しに疲れて、デパートの屋上で、何時間もぼんやりと過ごしたこともある。
 幼、少年時代に育ってきた環境は、私の一生を左右し続けてきた。多くの記憶は、口が裂けても語るまいと思っていた。自分の記憶の中から、完全に消し去ってしまいたいと思っていた。
 満願が近付くにつれて、疎ましい記憶を閉じ込めた固形物を、ナイフで少しずつ削りながら、身近な人にボツボツと語れる心境になってきた。それでも、なお且つ、鋭利な心のナイフを持ってしても、削り取ることが出来ない記憶が残っている。奥深いところにある固形物の重さが、ずっしりと心に影を落としている。
 お遍路に出る前と、結願した後では明らかに心境の変化は感じられる。それでも、何かが足りない。満足感がこみ上げてこない。そんな幕切れに戸惑っている。



あとがき◆インドへ 



2004年11月、1年8ヶ月の歳月を要した四国お遍路の旅が結願した。それでも何かを残しているような物足りなさを感じていた。そんな私の目に飛び込んできたのが、ある旅行社の「こころの旅、四国八十八ケ所の延長線、インド釈尊七大仏蹟参拝の旅九日間」という企画である。迷うことなく参加することにし、2005年1月下旬、仏陀の聖地、インドへと旅立った。
 デーリー空港の上空で、1時間近くも待機させられ、挙句に、空港からホテルに向かうまでの道は混雑していて、乗っているバスは一向に進まない。それに街路は暗くて、町並みは良く見えない。電力事情が悪く、停電はしょっちゅうだと、ガイドが説明していた。
 原子力爆弾を持っている国なのに、なぜ、原子力発電が出来ないのか。この単純な疑問をガイドにぶっつけてみた。答えは簡単で、「原子力爆弾を作る技術は優しいが、原子力発電の技術は難しい。それに膨大なお金がかかる。」と、いうものだった。  
 宿泊したホテルでも、時々停電したが、インドの人は慌てない、慣れっこになっている。ざわめくのは、我々日本人ツアーの一行だけだ。
 翌日、デーリーから飛行機で南西に40分の地方都市ラクナウへ向かい、そこからバスに乗り、仏陀の生誕地であるネパールのルンビニを目指した。途中、仏陀が雨期に滞在して説法を行ったサヘトに立ち寄った。平家物語にも引用されている祇園精舎である。
 夕闇が迫り、景色は何も見えない。トンネルの中を進んでいるようだ。はるか前方に灯かりの帯が見えてきた。ガイドが説明した。灯かりの見えているところがネパールとの国境であるとのこと。ネパールは水資源が豊富で、水力発電のインフラが整っていて、この辺りでは、インドとの格差が歴然としているのだという。
 ルンビニでは、もと、日本人が経営していた法華クラブに宿泊した。遠く離れた外国の僻地で、畳の部屋に宿泊できるとは以外であった。今の経営者はインドの実業家だそうだ。
 朝霧が立ちこめる中を仏陀生誕の地を巡った。その後、仏陀入滅の地、クシナガルに向かった。大涅槃堂の中に巨大な涅槃像が横たわっていた。
 バイシャリに行った。仏陀が、出生の故郷ルンビニ向かって最後の旅に出た途中で滞在し、托鉢や説法を繰り返した土地である。仏陀の荼毘塚がある。荼毘塚は仏陀の弟子、八人に分骨され、八つの荼毘塚があるとされているが、その全ては発掘されていない。
 次に訪れたラジキールには、仏陀が法華経を説いたと伝えられた霊鷲山がある。仏陀が経を唱えた場所があり番人が居て、お参りしようとしたら、お賽銭を要求された。100円は受け取らない。千円札をヒラヒラとかざして要求してくる。お布施名簿があって、ページをめくったら、沢山の日本人氏名があった。日本人は高額の布施を置いてくるようで、一万円の数字も書かれていた。私はへそ曲がりだから、100円の布施を拒否されたので、お参りはしなかった。
 仏陀が、菩提樹の元で悟りを開いたといわれる、ブッダガヤのマハーボディ寺院にも行った。この日、ダライ・ラマが訪れるということで、沢山のチベット僧が集まっていた。ダライ・ラマが入場してくるという通路の近くで、カメラのシャッターを押そうとしたら、飛んできたSPに制止された。
 サルナートは、仏陀が初めて説法を行った場所である。ムルガンティ寺院の壁画に、仏陀の生誕から入滅までが精彩に描かれていた。
 延々と続く凸凹道をトラックシャーシーの中古バスに揺られる旅が続いた。凄まじいまでの悪路である。上下左右に揺れ続ける座席では居眠りなんかしていられない。前の座席に手を添えて、身体を支え続けていなければならない。こんな悪路を、13時間も掛けて移動した日もあった
 道路の穴凹は連続していて、バスの運転手はスピードを落とさずに、右に左にハンドルを切りながら、穴凹を避けようとするが、こんなに多くの穴凹を避けられるわけもなく、そのまんま突っ込んで行く。乗っている方は座席から飛ばされてしまう。まさに命がけの旅である。
 トラック野郎は、頻繁にクラクションを鳴らす。追い越すぞ、早く行けよ、と言わんばかりに警笛を鳴らして追い立てる。この騒々しさには辟易する。よく見たら、どのトラックにも車体の後部に大きく、BLOW・HORN、つまり警笛を鳴らせと書いてあった。
 数キロごとにトラックが道路わきに横転している。悪路で擦れ違うトラック同士が、スピードを落とさないから、穴凹を避け損なってゴロリと横転するのである。道路の外に引っくり返るのはまだ良い。道路上に横転されたら堪ったものではない。通行が出来るようになるまで、何時間も待たされる羽目になる。
 一度だけだか、広々と開けた田園地帯を走る道で、3時間も待たされてしまった。運転手も、運転助手も、ガイドも少しも慌てる様子はない。バスの外に出て歩いてみたら、トラックの運転手は頭から毛布をかぶって眠っていた。まさに「悠久のインド」と、言ったところである。
 こんなにも悪路なのに、有料道路になっている。村に入るたびに粗末だが、通行止めのゲートが設えてあって、通行料を要求される。その度にガイドは通行料の交渉をして、領収証の発行を求めている。このやり取りには結構時間がかかる。古い時代、ヨーロッパでは通行税を徴収したシステムがあったようだが、その名残のようだ。政府公認だが、この制度を悪用している輩もいるようだ。
 インドはIT先進国で、中国に続いて経済大国になりつつある。デーリーやムンバイから遠く離れた、このインド北部のビバール州やウッタラプラデッシュ州は、インフラの整備が極端に遅れていて、IT先進国とはまったく異なった別の国の様相を呈している。
 インドの田園風景には、仏陀の時代から続いたであろう素朴な風景が広がり、多様な香辛料と生活慣習からくる臭いが入り混じって、複雑な空気が醸し出されていた。
 いまでも貧しい農村地帯では、家屋の中に厠を作るという風習はない。屋外で排便することが習慣になっている。手水壺を持った人の姿が、朝靄の中から浮き上がってくる風景を何度も見た。
 民家の壁のいたるところに、直径30センチ位の丸い煎餅状のものが貼り付けてある。規則正しく貼り付けられているので、遠くから眺めると壁に書かれた模様のようにも見えるが、牛の糞を貼り付けて、燃料にするために乾かしているのだ。
 ナーランダ大学の遺跡にも行った。世界でも最も古い大学であり、仏教の最高学府として栄え、あの玄奘三蔵が学んだ場所である。
 東京を発つ前に用意して来た、父と母、早世した姉弟、そして妻、それぞれの戒名を書いた紙を火で燃やし、ガンジス河に流した。さらに、アグラ城、タージ・マハルなどを廻って、九日間の旅を終えた。
 帰国する飛行機の中で、長い間の呪縛から開放された満足感と、目的を達成した爽快感を味わうことが出来た。
 「ものごとは、全て過ぎ去るものである」とは、仏陀の残した最後の言葉である。私の心の奥底には、疎ましい過去の記憶が沈んでいる。四国の旅を終え、インドの旅を終えて、やっと、この疎ましい記憶と付き合える平穏な心境になってきた。歳のせいばかりではないだろう。過ぎ去ってしまった過去の記憶は、心を痛めてまで削り取ることはない。自然に語る時が来れば、それで良いのだ。


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