同行二人・三割引きのお遍路⑤


四国へ

第44番大宝寺から第53番円明寺まで
2004年4月14日~4月14



  嘉藤洋至


 第四十三番札所の明石寺を打ち終えて半年になる。雑事が重なったこともあるが、冬の寒い季節を避け、2004年、4月になって伊予の国、菩薩の道場にやって来た。
 前回打ち終えた明石寺から第四十四番大宝寺までは国道56号線で、鳥坂、札掛峠を越え大洲市街を抜け内子町にはいり、そこから379号線、380号線を辿り小田町を経て、更に急坂な真弓峠を越えて大宝寺のある久万町までの道のりで、おおよそ90キロの道筋を歩かなければならない。
 ガイドブックでは、旧遍路道は82キロとあるが、今では、人里も無く、余りにも辺鄙で危険なため、利用する人が無くなり、廃れてしまったようだ。札所間の距離では第三十七番札所の岩本寺から、足摺岬の第三十八番札所金剛福寺間の95キロ、二十三番札所薬王寺から室戸岬の最御崎寺までの85キロに次いで三番目に長い。
 私は、この道順に沿って歩いていない。ここもキセル打ちである。道筋には、伊予の小京都といわれる大洲市や、かって木蝋と和紙の製造で栄えた白壁の町、内子がある。時間に制約が無ければ数日掛けてでも、のんびりと歩いてみたい道筋である。いつの日か訪れる機会があるかもしれない。
 今回の道程は乱れ打ちである。つまりは札所の順番に従って歩いていないのである。松山空港に降り立って最も近くにある札所から順番に歩き始めたので、逆に歩いたり、前後したりして順序が乱れている。


第五十二番札所 太山寺(たいざんじ) 

  熱田津に船乗りせんと月待てば・・・


 太山寺は、松山空港から北へ向かって約10㌔の場所にある。早朝に羽田を発ち、松山空港を出立したのは九時前である。
 海沿いに開発された工場地帯を抜け、松山港に差し掛かると、心地よい潮風が吹いてきた。松山港は南北にわたって広域に設置された港湾施設の総称のようで、北から堀江港、松山観光港、高浜港、三津浜港、松山外港、今出港などが連なっている。瀬戸内海交通の重要拠点であり、国際コンテナ船の寄港も有って、国内でも主要な港として位置付けされている。
 この中で三津浜港は、古くには「熱田津(にぎたつ)」の港として、万葉集にも詠まれている。

 熱田津に船乗りせんと月待てば 潮もかないぬ今は漕ぎいでな       額田王

 というのがそれである。ただ、三津浜港説には異論が有って、古代の地形は、海がもっと内陸に入り込んでいたのだから、今の松山市街地にあって、道後温泉の近辺ではないかという説である。
 太山寺は龍運山の中腹にあって、高浜港と背中合わせの位置にある。仁王門をくぐって、杉の大樹に覆われた参道を暫らく歩く。先程まで歩いてきた市街地の喧騒とは遮断され、静寂で心に沁みる雰囲気が漂う。本堂まではさらに急坂が続いている。
 仁王門、本堂ともに重要文化財で国宝に指定されている。本堂は、1305年に再建されたものだが、簡素で豪放な感じが鎌倉時代の特徴をよく表わしている。
 団体のお遍路さんに混じり、拍子木に合わせた般若心経を唱え終わり、杉木立に覆われた遍路道を辿って、次の円明寺にむかった。


第五十三番札所 円明寺(えんみょうじ)

  千社札と隠れキリシタンの歴史があった


 下り坂が続いている。快調に足を運んでいる。市街地に溶け込むようにして円明寺が見えてきた。円明寺は納札のある寺として知られている。日本の民衆文化に関心の深かった、アメリカの人類学者スタール博士が、大正13年に四国八十八箇所を巡拝しているが、そのとき、円明寺の本尊厨子に打ち付けられていた銅版の納札に興味を持ち、高く評価したという。
 この納札は縦24㎝、横9.5㎝、厚さ1㎜の銅版で、「慶安三年京樋口ユ奉納四国仲遍路同行二人今月々日平人家次」の銘文がある。慶安三年といえば1650年で江戸時代の初期に、京都の住人家次が四国を巡拝したのである。この札は今でも円明寺に保存されている。
 スタール博士は、自ら「壽多有」の納札を作って日本全国の神社、仏閣を行脚し、17年間にわたって日本の大衆文化に触れ、特に納札の研究が有名で、「御札博士」の異名をもっている。ただ、著名になるにつれて、日本の外交姿勢に口出しをするようになり、アメリカ、日本両国から疎まれる人物になっている。
 納札とは社寺に参詣する人が信心の意を表わし、祈願してお札を納めることであり、札には生国、生年、姓名、屋号、雅号などが記入されている。今では紙札が主流だが古くは木札や金属製のものであった。納札の風習はいつごろから始まったのか定かではない。古いものとしては滋賀県の石山寺や岩手県の中尊寺などに残された天文年間(1532~1555)のものが知られている。
 江戸中期に、稲荷千社詣でが盛んになり、千社札が流行してきた。千社詣でをする者が、社殿の天井や柱に糊付けするのである。題名を記した札が貼られている間は、お参りしているのと同じ功徳があると信じられていた。今日では、貴重な文化財に釘を打ち付けたり、糊で貼り付けたりすることを禁止しているが、参拝者も自重し、ルールを逸脱する人は見かけなくなった。
 千社札は、初めは信心から起こったものであるが、次第に趣味的なものとなり、仲間同士が交換するようになって、神社仏閣に貼り付ける「題名納札」に対して、「交換納札」の流れが出来てきた。
 交換納札は、墨一色刷の「題名納札」と違って、千社札文字と呼ばれる独特の書体に、絵や柄を配し、色彩も豊かである。愛好家同士では図柄を競って作られるようになった。今の世でも千社札の図柄を見掛けることがある。たまにトラック野郎のボディに描かれているのを見ることもある。
 境内の片隅に聖母マリアを刻んだ石塔があった。高さが僅か40㎝ほどの小さな塔である。豊臣秀吉がバテレン追放令を出し、布教を禁じ、信仰の絶滅を図ったのだが、ここには遍路に混じってマリア像に礼拝した隠れキリシタンがいたのである。ひどい空腹を覚え、門前の食堂で遅い昼食をとった。


第五十一番札所 石手寺(いしてじ)

遍路にあるまじき贅沢、道後温泉に泊まる


 五十三番札所から五十一番札所へ逆打ちである。一面に広がる菜の花畑に感嘆の声を発し、しばし見とれていた。なれど田園風景に癒されたのもつかの間で、騒音で気分が圧迫されるような市街地に入り松山市の中心を抜け、3時間も歩き続けて、やっと石手寺の三重塔が見えてきた。
 石手寺は町中にあり、道後温泉が近い。遍路だけではなく、湯治に訪れた観光客で賑わっていた。参道にはお土産物や食べ物を売る店が並んでいて、どこか東京下町の門前町の風情に似ている。いつもの様に団体さんなのお遍路に混じって、拍子木に合わせながら般若心経を唱える。すっかり諳んじていてこの頃では経本を見ることがなくなった。
 歩き疲れて大師堂の縁に腰を下ろし、門前で買ってきた草もちを食べた。古くから名代の草もちとのことで、素朴な味がしてうまかった。
 道後温泉に宿を取った。今日はこのあと、五十番繁多寺、四十九番浄土寺まで打ち終える予定であったのだが、思った以上に時間を費やしてしまい、それに足の疲れもピークに達していることから、あらかじめ予約していた道後プリンスホテルに向かうことにした。お遍路に有るまじきハイクラスのホテルに泊まるのである。
 歩く苦しみの後に安堵の境地にたどり着くのが遍路の心境なのだろうが、私って奴は、歩いた苦しみの後に、贅沢を準備している。自分のやっていることに矛盾を覚えながらも、ここでは同行二人である事をさっぱりと忘れて、温泉に浸ることにした。

 疲れた足をなだめながら、坊ちゃん湯とも呼ばれる道後温泉本館に行った。宿泊した道後プリンスホテルでツアー客をまとめ、送迎してくれたのである。入浴に必要なタオルや石鹸はホテルで準備してくれた。
 現在の道後温泉本館は明治27年に立てられたものだという。館内の歴史がある設備や什器備品を見て、お湯に浸かった後、二階大部屋の座布団に腰を下ろし、お茶を飲み、煎餅をほうばって帰ってきた。費用は、980円なり。三階には家族連れや仲間と寛ぐ個室がある。こちらは1240円なり。


第四十四番札所 大宝寺(たいほうじ)

  やっとこさ、これで半分が終わった


 早朝にホテルを発ち、松山市駅に向かった。伊予鉄バスを利用して四十四番大宝寺に向かうためである。大室寺、四十五番岩屋寺は遍路にとって難所であり、松山市からの片道距離が35キロはある。時間に制約のある私にとっては、のんびりと歩いてはいられないので、バスを利用して一日で往復することにした。とはいっても、大室寺と岩屋寺の間は10キロもあり、この間はあるいて往復することになるので、きょうの行程は徒歩20キロである。
 バスは、松山から高知に抜ける国道33号線、土佐街道を石鎚山地に向かって上って行く。海抜710メートルの三坂峠を越えて、目的地の久万町は海抜490メートルの高地にある。ビジネスマン時代には、広島に赴任していたことも有り、松山市から高知市に向かう当時の国鉄バスを何度も利用している。晴天であれば三坂峠からの眺望は素晴らしいのだが、あいにくの曇りで、雲が低くたちこめて、石鎚山系の峰々や、遠くに広がる松山平野を望むことが出来ない。
 天明7年(1787)2月17日、世にいう土佐の紙漉き一揆が起きている。逃散した600人の農民達が国境を越えて伊予の大宝寺に逃げ込んできた。百姓一揆はさらに広がって、2月4日には100余人が加わり、寺内は混乱を極めたという。
 解決までには一ヶ月半を要したとの記録があるが、大宝寺の住持が土佐藩と折衝し、逃散農民の罪は問わないとの赦免状を取りつけたので、700余名の農民は開放されて国境いの峠を越えて土佐に帰って行ったという。大宝寺は、それほどまでに権威の高い寺院であった。
 大宝寺は、今でも格式の高さを思わせる面影を残した佇まいである。杉の巨木に覆われた参道は、夜半に降った雨でぬかるんでいて足元がおぼつかない。老樹に囲まれた境内には、幽玄さが漂っている。
 朝が早かったせいか、お遍路さんの姿は無い。静かな雰囲気の中で般若心経を唱えていると孤独感に襲われてきて、たまらなく人恋しくなる。まだまだ、修行が足りない。何のために般若心経を唱えているのか。
 自動車道に出る手前で参道を登ってくる数人のお遍路さんに出会った。四十四番を打ち終え、やっと四国お遍路の半分を廻ったことになる。


第四十五番札所 岩屋寺(いわやじ)

  今の生き方が先の明暗を分ける


 岩屋寺に行くのに遍路道を登っていくか、自動車道を歩くか暫らくためらったが、ガイドブックで調べると自動車道のほうが僅かだが距離が短いので、歩きやすい自動車道を選んだ。新緑の季節にはまだ早い四月だが、道沿いに流れる谷川に映える緑は美しい。
 岩屋寺は石鎚山系の山懐にある寺なのに、なぜか山号を海岸山という。そして寺号そのままに奇岩怪石で囲まれた岩屋の中にある。本堂は岩壁に密着して、巨大な岩石の直下に建てられていて、これまで見慣れてきた札所の雰囲気とは明らかに異なる。
 この寺には、逼割禅定(せりわりぜんじょう)がある。逼割とは、一人がやっと入ることが出来る巌の隙間のことで、その隙間を鎖でよじ登ったり、梯子を使って頂上に上って行く修行のことを禅定というのである。
 逼割禅定に行くには、本堂からさらに300メートルほど上っていかなければならない。入口には柵があり鍵がかかっていて、勝手には入れない。柵の隙間から覗いてみると、確かに逼割りがある。規模は思ったほどの広がりは無い。向こう側の樹木が透けて見える。
 修行場なのである。上から小石などを絶対に落としてはならない、遊び気分で上ってはならない、不注意で怪我をしても責任は負いません、と書かれた注意書きが見える。
 折角、ここまで来たのだから逼割りに入って見たい誘惑にかられる。けれど、納経所に申告をして鍵を借りてくることになるので、もと来た山道を往復しなければならない。じくじくと痛む足裏の事を考えると、それほどの気分的な余裕はない。
 納経帳に紙が挟まれていて、次のような文章が書いてあった。
 「お納経」の揮毫・朱印は、美術品や趣味のスタンプ収集ではありません。お参り下さったあなた御自身が心を込めて、ご本尊様に納められたお経を、確かにお取次ぎさせて頂きます、との住職の受取証印です。
 さらに続けて、自分自身を尊いと思えますか? 今に最善を尽くしていますか? 今を精一杯生きていますか? そして、今の生き方が先の明暗を分ける鍵となります。と書かれていた。数々の反省はともかくとして、「今の生き方が先の明暗を分ける」というくだりには、心にずしんと響くものがあった。何かつかみどころが無く、心に溜まっている鬱積を発散させたいがためにお遍路に出てきている。そんな己に対して「これからの人生目標を明確にしろ」、という叱責に出くわしたような気がした。
 岩屋寺は、愛媛県上浮穴郡久万高原町七鳥にある。七鳥の地名が気にかかったので後日、久万町役場の教育委員会に電話をして聞いてみた。物好きな人がいるもんだと思われたかもしれないが、親切に教えてくれた。なんでも、この山には、古くから七つの霊鳥が住んでいるという言い伝えがあり、それが地名になって今日まで残っているとのことだ。七鳥の名前を書き取ったのだが、どのような字を当てるのか分らず、そのままになっている。
 深山幽谷の趣のあった岩屋寺を後にして、来た道を引き返し久万に向かった。熟年夫婦のお遍路さんとすれ違った。どんな切っ掛けがあって遍路の旅を続けているのだろう。やり直しのきかない人生に区切りを見つけようとしているのだろうか。
 バスで松山市に戻り、この日も道後温泉に泊まった。


第五十番札所 繁多寺(はんたじ)

捨ててこそ・・・、なれど愚者には捨てきれぬ


 今日は逆打ちである。道後温泉から程近い五十番繁多寺からスタートして、四十六番の浄瑠璃寺までの5ヶ寺を遍路することにした。全長約15キロ。
 朝から小雨が降っている。雨具の用意はしているものの、足元が気にかかる。足裏に押さえつけるような鈍痛を感じているし、靴の中に滲み込んでくる雨水は、疲れた足を更に重くする。
 繁多寺は松山市郊外の小高い丘の上にある。郊外といっても住宅が密集していて、人の行き交いは多い。山門は貯水池のそばにあった。浄水場がある。境内からは松山市街が望め松山城も見える。ただ、雨に霞んでいて遠望はきかない。
 繁多寺は一遍上人ゆかりのお寺である。一遍は鎌倉時代中期の僧侶で、時宗の開祖である。生まれたのは松山市道後温泉に近い宝厳寺の一角であるといわれ、二十代の後半に繁多寺で修行している。
 鎌倉時代の中期は、平治の乱、源平の合戦、承久の乱などの戦が続き、転変地変による飢饉などで乱れた世相にあった。この時、皇族や貴族などを中心に広まっていた仏教を、真に人々の救済のために生かそうとした宗教家達が現れたのである。それが、法然、道元、親鸞、日蓮、一遍などの鎌倉新仏教の開祖達である。
 一遍は、各地を遊行し、民衆と共に念仏踊りを行い、南無阿弥陀仏の名号を書いた札を配って(賦算)、民を苦しみから救おうとした。この札(算)を貰おうと民衆は貴賎を問わず、一遍上人の傍に群がったのだ。
 一遍上人は「捨聖」ともよばれ、全てを捨て去って全国を遊行している。「捨ててこそ」とつぶやきながら、諸国を歩き続けている。旅立ちから入滅するまでの16年間、ひと時も立ち止まらず、北は秋田、岩手から、南は鹿児島に至る広範囲に足跡を残している。歩くこと以外に移動手段の無かったこの時代に、これだけの道のりを歩き続けるのは容易なことではない。想像を絶するのみだ。これが信仰の力なのか。
 一遍は、「念仏の行者は、知恵をも愚痴をも捨て、善悪の境界をも捨て、貴賎高下の道理も捨て、地獄をおそるる心をも捨て、極楽を願う心をも捨て、また諸宗の悟りをも捨て、一切の事を捨てて、申念仏こそ弥陀超世の本願に尤もかない候へ」と、説いている。
 それなのにだ、この愚者には、知恵も、道理も、思惑も、思慕も、邪心も、妬みも、物欲も、愚痴も、煩悩も、全て捨て去ることが出来ない。ただひたすらに、痛む足をなだめながら歩くだけだ。

 

第四十九番札所 浄土寺(じょうどじ)

口から仏の姿が飛び出してくる絵を見た


小雨が降り続いている。止む気配は無い。菜の花畑がけむっている。
仁王門を潜り石段を上った左手に正岡子規の句碑があった。「霜月の空也は骨に生きにける」と刻まれている。何を詠んだのか、予備知識がないと、さっぱり分らない句である。キーワードは空也であり、空也上人のことである。念仏を唱え、その一言一言が小さな仏の姿になって口から飛び出している絵を見たことがあるが、そこに描かれた奇妙な姿をして、痩せこけた老人が空也である。

 空也は、平安中期の僧侶で、天台宗空也派の開祖である。後醍醐天皇の第五皇子といわれているが、定かではない。踊念仏の開祖とも言われているが、こちらも確証はない。ただ、念仏聖の先駆者で、後の一遍上人に影響を与えたことは否めないようだ。本堂西側にある谷は、今でも地元の人たちが空也谷と呼んでいる。空也が修行時代に庵を編んだ所だ。
 お遍路の団体さんで境内は賑わっていた。納経所に並んで御朱印の順番を待つ。一人遍路には順を譲ってくれることが間々あるのだが、いつもそうだとは限らない。ひたすら順番が来るのを待つしかない。
 お遍路に出てきた第一番の目的が、御朱印を貰うことにあるように見て取れる人が多く、納経諸に向かって我先に駆け出していく。団体さんが来ると納経所の周りは俄然騒々しくなる。「お納経」の揮毫・朱印は、美術品や趣味のスタンプ収集ではありません。と書かれた岩屋寺のチラシに、札所寺の困惑と苦笑が見え隠れする。

第四十八番札所 西林寺(さいりんじ)

足をなだめて・・・、まっ、のんびり行こう


 この辺りも松山市の郊外として、田圃が埋め立てられ住宅地に変わっている。
 西林寺は田園の中に建っていた。内川沿いで川の土手より低いところにあり、その地形から、罪ある人が門を入ると無間地獄に落ちるといわれ、伊予の関所寺になっている。石段を下ったところに仁王門があり、十善戒の罪を犯し続けている我が身だが、そこはお大師様には大目に見ていただくことにして門を潜る。
 正面には本堂、右手に大師堂、その横に閻魔堂がある。本尊は秘仏で後ろ向きに安置されていると聞いたので本堂の裏側に回ってお参りしたが、そんな酔狂な事をする人は誰も居なかった。 ここにも正岡子規の句碑が建っていた。「秋風や高井のていれぎ三津の鯛」と刻まれていた。高井とは西林寺がある場所で地名である。三津も瀬戸内に面した地名である。「ていれぎ」は、清流に自生する緑色の水草で、爽やかな辛味があり、この地の人達にとっては、刺身のつまとして欠かせないものである。松山市指定天然記念物になっていた。
 雨水に濡れて、すっかり重くなった靴を脱ぎ、足を休めることにした。空気に晒した足が心地よい。タオルで靴の中の水気を丁寧にふきとる。足の親指の付け根に絆創膏を張り、靴下を履き変えて再び足を靴に戻そうとしたのだが、入らない。むくんだ足が元に戻る事を拒否している。それに湿気を含んだ靴の中はすべりが悪くて、靴までが拒んでいる。
 まっ、のんびり気楽に行こう。


第四十七番札所 八坂寺(やさかじ)

修験道と般若心経の接点はどこにあるの?


 西林寺を発って逆打ちだから普通のお遍路さんとは反対の方向に歩いている。高速道路の下をくぐり、重信川をわたり市街地を歩き続ける。歩きお遍路さんには全くすれ違うことがない。 八坂寺は町中にあった。コンクリート造りの立派な本堂である。境内はバス3台分もの団体お遍路さんでごった返していた。このぶんだと納経所で長い間並ばなければならない。団体お遍路が去っていくまで、途中で買ってきたお握りで、のんびりと昼食を取ることにした。
 八坂寺の縁起によれば役小角(えんのおづの)によって開基され、一時荒廃するが、のちに弘法大師が再興したとある。言われてみれば、八坂寺の山号は役小角が修行した「熊野山」となっているし、歴史的にも熊野権現を勧進して、修験道の根本道場として栄えた時期があったようだ。 役小角は飛鳥時代から奈良時代の呪術者である。実在の人物だが、後世に伝えられた人物像は伝説的である。通称を役行者(えんのぎょうじゃ)といい、修験道の開祖とされている。
 続日本紀(797年に完成した史書)や、日本霊異記(822年の完成といわれる歴史説話集)には、役小角にまつわる荒唐無稽な逸話が収録されているが、史実として受け止められる記述はほとんどない。
 大阪市立美術館編集「役行者修験道の世界」によると、役小角は、634年正月1日に大和国葛城上郡茅原、今の奈良県御所市茅原で生まれ、生家跡には吉祥草寺が建立されている。17歳の時に生家を出て、金剛山で山岳修行を行い、熊野や大嶺の山々で修行を重ね、吉野の金峯山で修験道の基礎を築いたという。呪術宗教的活動を中心として、神仏調和を唱えたが、その呪術的活動から、699年に時の天皇に謀反の疑いをかけられ、伊豆大島へ流刑となった。  
 701年に疑いが晴れて生まれた土地にかえり、同年6月7日に母とともに昇天している。
 今日の行程は次の浄瑠璃寺で終わりである。浄瑠璃寺は近い。疲れが溜まっている両足のふくらはぎを、手の平で思いっきり叩いて歩き始める。


第四十六番札所 浄瑠璃寺(じょうるりじ)

浄瑠璃寺は、ご利益のよろず屋だった


 浄瑠璃寺は田圃が続いた先にあって、小高くなった森の麓に煙っていた。山門の前に長珍屋という名前の立派なお遍路宿があった。お遍路宿というより鉄筋コンクリート四階建てのビジネスホテルだ。参道には樹木が生い茂っている。団体遍路さんが去った後の境内は静かで、落ち着いた雰囲気である。
 浄瑠璃寺は、ご利益のよろず屋だった。境内の一角に、樹齢1000年といわれる伊吹百槙、立て札に松山市指定文化財「いぶきびゃくしん」と書かれていて、白檀の巨木がある。根元には、豊作や長寿を叶えて呉れるという地像が安置されていた。
 本堂左手奥にある一願弁天堂には天女が祀られていて、お参りすれば、音楽、知恵、美貌、財宝、福徳の霊験があるという。
 菩提樹の下には仏手指紋があった。木柱に「仏手花紋 ほとけの指紋」と書いてあり、釈迦の手形である。傍らの石柱を撫ぜると、文筆達成の霊験あらたなりという。
 さらに仏足石がある。第二番札所の極楽寺でも見たのだが、仏像を作ることは恐れ多いと考えられた時代に、釈迦の足跡を刻んで礼拝の対象としたのである。浄瑠璃寺の仏足石は色々な紋様が刻まれていて興味深い。傍らに建つ石柱には、「佛足石」と大きな文字で刻まれ、その脇に健脚、交通安全と彫られていた。石柱を撫ぜて、足の痛みが和らぐのを願った。
 午後まだ早い時間だが、朝から5ヶ寺を廻り終えた。松山市郊外に点在する札所で、効率よく歩けるとはいえ、次々に納経帳に御朱印をもらって歩いていると、何だかスタンプラリーのような気分になってしまう。これは良くない。もう一人の自分が怒っている。いつまでも掴みどころの無い目的でお遍路を続けるんじゃない。菩提の道場を歩いているんじゃないか、いい加減に煩悩を断ち、心の想いを整理して歩けっ、と忠告している。
 これから東京に帰る。松山市内でバスを乗り継ぎ、松山空港に向かった。

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