「今まで本当にありがとうございました。」     崎まり子



 かつて文学青年だったあなたが再び「書くこと」に目覚めたのは、調布コミュニティ財団のイベント企画への応募からでしたね。日頃言いたくても面と向かって素直に言えない「ありがとう」という言葉を手紙に託し、相手に伝えようというもの。
 その手紙を下條アトムさんが国分弘子さんのピアノとサーカスさんのコーラスを織り交ぜながら朗読するというコンサート形式でした。
応募者へはチケットは配られたものの、読んでもらえるかどうかは当日にならなければわからない。プログラムには、十三曲の曲が印刷されていました。応募したからには・・・、密かに期待に胸を膨らませつつ、それぞれが感動的な「ありがとう・・・」の手紙に聞き入っていました。

朗読と歌のハーモニー「ありがとうって言いたくて」
     我が妻へ                        崎靖士

 あれは七月の始め、暑い日でした。
 国立がんセンターの医師は通告しましたね。「進行性食道がん、ステージWです。手術は不可能、放射線と抗がん剤の治療を行いますが、生存率は十五%です。」と。
 気丈なあなたも、さすがに泣き崩れましたね。六十一歳の私は、死に対する恐怖はあまり無く、「わりに早く死ぬもんだね。」と開き直ったような心境でした。ただ、頑健が取柄でほとんど病院に行ったことのない私は、噂に聞くがん治療の闘病生活に、耐えられるかどうかが心配でした。
 四人部屋の無機質な天井を見るのみの日々が始まりました。
 心に去来するものは、我儘な私は多くの人々に迷惑をかけてきたことでした。特に貴女に。
 あれほど楽しく通っていた会社もすっぱりと辞め、がんセンターへの定期券を買って通う毎日。貴女は医師や看護士や同室の方々ともすぐ仲良くなりましたね。
 私はその明るさと、私を見るやさしい目に勇気づけられました。
 がん克服の第一歩は本人の治ろうとする意思にあるそうです。いい加減な私ですが、病魔と闘っているのは、貴女と二人で、でした。
 治療を開始して二週間。医師も後日話されたように奇跡的なことが起きたのです。
 殆んど喉を通らなかった食事が入るようになりました。やせ衰えた身体にも、何となく力が戻り始めたので
す。
 二ヶ月間の治療が終わり、驚くべきことにあのおぞましいがん細胞は消え去ったそうです。
 そして今、私は健康を取り戻し、社会復帰を目指しています。友人たちは、「それは神がくれた命なのだ。今後はまじめに生きろ!」と言ってくれます。
 しかし私はそうは思いません。この命は貴女がくれたのです。私は熊本県の生まれ育ちです。『肥後もっこす』の典型であり、貴女に素直に「ありがとう」と言ったことはありません。しかし、今度こそ初めて言えます。「本当にありがとう。」

 十二曲目が始まった頃、二人で「だめだったようだね・・・」と言い合いましたね。
 奇跡的に生還したとはいえ、やはり病気のテーマは少し重かったかな・・・最後の曲は
 「夜空のムコウ」。すっかり諦めた瞬間、「最後のお手紙のご紹介です・・・」の後であなたの名前が読み上げられた時は二人で顔を見合わせて、嬉しいというより驚きの方が強かったですね。
 体力と気力に自信を取り戻したあなたは、執筆意欲に満ち溢れているようでした。
 「オール讀物」に投稿する目的で執筆した「神田川」へ対する思い入れには凄まじいものがあり、まさに寝ても覚めても、という状態。そして自らの命の終わりを知っていたかのように、書き終えたとほぼ同時に逝ってしまいました。
 私はその意志を次いで原稿を整理し投稿しましたが、やはり、二匹目のドジョウとはなりませんでした。しかし、あなたと共に何かを成し遂げた、という清々しさは残りました。
 あなたが旅立って一年が経とうとしていますが、それが速いのか遅いのか今の私にはよくわかりません。人一倍喜怒哀楽が激しく私を日々、一喜一憂させていたあなたが、今ではお仏壇の隣でいつも同じ表情で微笑んでいる、ということが未だに現実とは思えないのです。
 一人になってみて改めて気付かされたことがあります。いくつになってもある意味子供のような心を持っていたあなたを支えているのだと、大きな顔をしていた私でしたが、その実、私の日常の心の安定を支えていたのはやんちゃなあなただったということ。
 もう今は聞いてもらえないあなたに、尽きぬことの無い溢れる思いと共に心から言います。「今まで本当にありがとうございました。」・・・と。
 最後になりますが、心温かな「序文」を寄せていただいた荒川佳洋氏と、「遺稿集」を出すことを勧めていただき、企画、編集、印刷すべてに力を貸していただいた嘉藤洋至氏、そして今まで崎靖士と関わったすべての方に心からの感謝を捧げます。

                2009年5月                 崎まり子

                                                                                                               

 
 
   崎士 遺稿集
     

   『花は桜木』  『翁と媼の物語』  『神田川』  『蝉しぐれ』  『SFもどき』  『ある愛』  『狂歌』


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