��崎さんの「神田川」　　　　　　　　荒川佳洋

��崎靖士さんが亡くなって、まもなく一年になる。
　��崎さんは、若い頃に文学をやり、木下順二に師事したが、東大法学部を卒業したあと仕事に追われてひとたびは筆を折ったという。高度成長期の日本を支えた｢企業戦士｣のひとりだったのだろうと想像される。名を上げれば誰でも知っているアニメーションを数々手がけたと聞く。企業人としての自己実現が、退職と病という形でピリオドを打たれたあと、ふたたび表現欲求が頭をもたげたのだろう。
　会社組織のなかで生きてきて、ふとふりかえると、なんてつまらぬことを躍起になってやっているのだろう、と思うことがある。自分の自己実現などこんなものか、と思うとき、深い挫折の感情にとりつかれる。言葉が押し寄せてくるのはそんなときだ。��崎さんもそういうふうにしてふたたび書くことにとりつかれたのではないか。その表現活動も、教養の巾を感じさせるユーモアの充溢したものから、ご自身の人生に真っ向からむきあった私小説まで、多彩で、��崎靖士という人間を立体的に見るようである。
　絶筆となった｢神田川｣は、わたしにはもっとも印象深い作品である。かなり濃密に年上の女との性愛が描かれているが、少しも不潔ではない。中間小説誌に投稿するために書かれたそうだが、��崎作品に頻出する常套句も少なく、主人公と居酒屋の女もよく描きだされている。読後、セピア色の写真をながめているような印象が残った。神田川の傍に建つ、二階が住まいとなっている飲み屋。もうこの設定だけでも昭和の匂いがする。あの頃の神田川の匂いがするのである。｢神田川流れ流れていまはもうカルチェラタンを恋うことも無き｣と道浦母都子は昭和四十年代を歌ったが、同時代に��崎靖士にも��崎靖士の神田川があったのだと知って、いまさらに��崎さんともっと話をしたかったと思ったものだった。
　��崎さんは私小説作家外村繁を読んでいただろうか。��崎さんとは読書遍歴についても話した記憶がない。これも今さらに残念なことだった。ヰタ・セクスアリスとして評判となった｢澪標｣が発表されたときは昭和三十五年、わたしより八つ上の��崎さんは十七八で、文学青年であれば評判作を手にとっていた可能性がある。外村繁は、自身の性をあからさまに書いた作家で、そこにこそ生命の輝きがあると信じていたような私小説を残した。��崎さんの｢神田川｣｢喪春記｣を読んで、その昔読んだ外村繁を思い出した。
　もちろん��崎さんには｢花は桜木｣以外、あきらかに私小説といえるものはない。ないけれども、｢神田川｣｢喪春記｣はあきらかに青春の挽歌である。デフォルメされてはいるが、��崎靖士その人の青春が投影されているはずである。
　｢神田川｣の最後は、かつて別れた女からの手紙で終わる。��崎さんは、なぜその手紙を男に開封させなかったのだろう。読みもせずに破って川に流してしまったのだろう。��崎さんの小説のいまいち分りづらいところがここにもあり、この手紙の内容がどんなものであったのか読む者が想像しえないことで、｢神田川｣の青春は完結を迎えられない。そしてそれは永久に謎のまま、この遺稿集の中に閉じ込められることになった。
　晩年、力をこめた作品や箱に眠っていた作品はことごとくその後、まり子夫人の手によって清書され、三号、四号、五号、六号と『烏森同人』に掲載された。そういう良き伴侶を��崎さんは得たのである。もって瞑すべしというものだろう。さらにまた、晩年に短い縁を持った嘉藤洋至さんの手によってこのたび遺稿が一本になるのである。
　��崎さんの棺を送った直後に書いた追悼文をここに再録して、短くはあったがたしかに存在したわたしたち同人の友情の記念としたい。


　��崎靖士さんのこと

　同人誌をはじめるいきさつはこうだった。
　菜華でおこなわれていた異業種会が、あれよあれよという間に合名会社の設立をみた。それに刺激されたわたしは、同人雑誌をいっしょにやる相手をさがしていた。
　そんなとき��崎靖士さんは、菜華の女将城野秀子さんの友人の旦那さんとしてあらわれた。城野情報では、��崎さんもむかし書いていたという。数年前に癌の手術をして奇跡的に生還した人だという予備知識があった。しかしわたしは敵情視察よろしくすぐには声をかけなかった。東大卒という経歴にもこだわるものがあった。もとから東大には反撥も親しみもこもごもあるのだが、菜華にその当時来ていた東大卒がいやな客だったこともある。
　��崎さんと雑誌の話をしたのは、三回目くらいのときだったのではないか。
　「同人誌、やりませんか」
　「そうですね」
　ちょっとそっけなかった。わたしは、たたみかけた。
　「三、四十代に書いて、そのままほっといた作品があるんですよ。もうこっちも齢をくったので、ああいうものに形をつけて残しておきたいと思っているんですよ」
　これは本当だった。わたしはそれを、老いを意識したものならだれでもそうするように、《人生に少しずつケリをつける》というつもりで言った。��崎さんにはまっすぐに通じたようだった。
　「わたしもあります。若い頃、木下順二に褒められたものがあります。それをいつか書き直してみたいと思いながら、そのままにしてしまって」
　顔つきからして皮肉屋っぽく見えた靖士さんは、いがいと率直にそう言った。それは��崎さんがたいせつにしている初恋物語のようであった。わたしは木下順二を知らないと思われてはいけないと、『オットーと呼ばれた日本人』を持ち出したりした。
　その後、わたしは十八歳と二十五、六歳のころの小説が載った同人誌三冊を秀子ママに託した。��崎さんから、メールで短い感想が来た。「懐かしさを感じたのです。ただメールですと誤解を生じますので、これ以上は述べません。会って話せば多分喧嘩になるでしょう。それもまた良しというべきでしょう。」というものだった。若い日に書いたものを今ごろになって貶されて、喧嘩になるわけがないですよ、と返信した。昨年、七月のことだった。
　��崎さんのワープロ原稿も秀子ママの手を通して、わたしに来た。読んで、しばらくして感想をメールにしたためた。これは十月十五日のことだ。わたしが��崎さんの作品の感想を書いた（言った）のは、それが初めで最後だった。たしかこの七月と十月の間に、城ヶ島旅行があり、��崎さんご夫婦もたのしげに参加していた。しかし、残暑の強い日ざしの下のバーベキューで、飲むのと食べるのにいそがしく��崎靖士さんとはろくに話もしなかった。��崎さんは、やや緩慢な動作で岩場に坐り、いつものようにまり子さんがかいがいしく世話を焼いていた。
　その後、わたしは嘉藤洋至さんと城野秀子さんを口説いて雑誌の仲間に引き入れた。嘉藤さんは手先の器用さで、雑誌のイメージを作ってきた。わたしの計画では、それぞれがワープロを打ち、その製本を印刷会社に頼むつもりだったのだが、嘉藤さんのサンプルはビックリするような出来栄えだった。わたしはそのサンプルを今もたいせつに書架にならべてある。嘉藤さんの力で、いつ形になるかわからなかった同人誌は進捗し、十二月の刊行をみたのだった。
　こういきさつを思い浮べていると靖士さんとは一年にも満たない付き合いだったことがわかって、ふしぎな気がする。お互いに、菜華という磁場で出会い、嘉藤さんとの出会いに結びついて濃厚な付き合いができたからだな、といま思う。
　わたしが��崎さんに渡した同人誌三冊は、また秀子ママの手を通してかえってきた。それなのに、この一月だったか、菜華のカウンター席で話すと、わたしのその三冊の小説の題名を覚えていて、靖士さんはそれぞれ感想を話し、とくに十代に書いた作品について、
　「あの作品がいちばんいいね」
　と言ってくれた。それはガリ版印刷の同人誌に載せたもので、この四十枚ほどの小説は推敲に長くかかったものだった。
　「ぼくもあの小説がいまでもいちばん好きです。学生運動に刺激されながらまだ参加の決意もできず、毎日目的もなく生きていて、これでいいのかと少年は考えているんですよ」
　「わたしもじつはああいう時期があって、懐かしかったのです」
　と、靖士さんは言った。メールで「懐かしさを感じた」と書き送ってきたのは、このことだったらしい。東大卒の人が、定時制に通う少年と境遇が似ているはずもなく、たぶん青春期の「ああいう時期」ということなのだろうと、わたしは大雑把に理解した。
　その晩、わたしは靖士さんとじっくりいろんな話をした。明治維新のこと（靖士さんは肥後の出だから、薩長土肥の側から、関東人たるわたしは奥羽列藩同盟の側から近代史を話し、これはなかなかおもしろかった。）、六〇年安保と東大闘争のこと、七〇年代のこと、文学のこと。しみじみじっくりと、話をした。まり子さんや贔屓客がワイワイしていたが、あの二人はほっとけ、という感じでほっておかれたわたしたちはじっくり話ができた。靖士さんは酔って、またわたしのマンションで飲み会をしよう、と言った。一月に、みなで調布のマンションにおじゃまして、たのしい飲み会をしたのだった。そのご招待状も稚気があふれていて、わたしは靖士さんが逝ってから、いただいたメールのプリントアウトしたものと一緒に綴じておいた。わたしの書架にはその訪問のさいのたのしい写真も飾ってある。
　同人誌が出てすぐ、靖士さんがこんどは目次の巻頭はじぶんに、と言っていると聞いた。紅白歌合戦のトリ争いみたいな話だなと思ったが、その稚気もかわいかった。それで２号は巻頭に名前が載った。ずっと巻頭にしてあげて、とわたしは嘉藤さんに言った。
　靖士さんは同人誌を出しはじめて、それが強い張り合いになったようだ。わたしや嘉藤さんは、菜華で、酔った��崎さんから、親交を持ったあるプロゴルファーのノンフィクションの構想を聞いた。雑誌は、（三号雑誌で終わる場合が多いから）まず五号までは出しましょうねと約束した。��崎さんは、わたしよりリキがはいっていたと思う。それが根治したはずの癌細胞をふたたび活性化させた、ということはなかったか。
　四月二八日、メールのやりとりがあって、靖士さんは「私の書くものは純愛ものばかりと言われております。荒川さんに見習ったらと、まり子さんに言われ、激しいＳＥＸシーン満載のものを書きました。しかし、純愛小説になってしまいました。もっと多くの女性を知るべきだったのでしょうが、もう遅い。」とあった。「荒川さんに見習」うとは何か、ちゃかした返信をしようと思ったが、どのみち五月二日に菜華で会うのだからと、そのままになった。その二日も、わたしは先約があり、もしかしたら店に顔をだせぬ場合もあったので、「お会いできればうれしいですね」という��崎まり子さんへの返信に、「お会いできたらいいですね」と微妙な言い回しになってしまった。予定が変更されたので、いさんで菜華の扉をひらくと、いつもむつまじくカウンターに座っているご夫妻はいなかった。秀子ママが、旦那さんの具合が悪いらしい、とわたしに耳打ちしたとき、いやあな気がした。まさかその翌日に、逝ってしまうとは思ってもみなかったが、あれは予兆というものだったろうか。
　別れはいつもとうとつである。わたしは小さい頃から、たいせつなものとの別れに慣れてきた。
　棺に花をつめるとき、わたしは漱石がひそかに愛した女性の死をきいてつくったという相聞の句「あるほどの菊抛げ入れよ棺の中」を思いだした。なんだか急速に気力が落ちるのを感じた。靖士さんはレム睡眠状態のように微笑みながら棺のなかにあった。棺には、わたしたちの二冊の雑誌も納めてあった。たいせつな初恋の話。父母のこと。自分のこと。妻への思い。この二冊には、それらがつまっている。��崎さんはたしかに、わたしがあの日言った意味で人生に整理をつけて逝ったのだった。　「ほら、あなたのライバルがきてくれましたよ」
　と、涙声でまり子さんは靖士さんに呼びかけた。
　わたしは唯物論者だから、あの世を信じないが、もし岸の向こうというものがあるとすれば、��崎さん、そこで待っていてください。遠からずわれわれもそちらに行きますので、またにぎやかに同人雑誌を作りましょう。　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　
　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　平成２００９年５月記す