「事実と理論の緊張関係」の現代的意義ー現代日本と古代行政機構論ー
(目次)
Ⅰ はじめにー本稿の課題と手法ー
Ⅱ 古代行政機構論の現代的意義
Ⅲ 石母田正の「事実と理論の緊張関係」ー発表時の意義・内容ー
Ⅳ 石母田以後の諸学説ー「方法」・意義・問題点ー
Ⅴ 「事実と理論の緊張関係」の現代的意義
Ⅵ 結びー地方行政機構論の意義・「理論」と、「歴史家たちの住むせまい世界」-
〔Ⅰ はじめにー本稿の課題と手法ー〕
1.本稿の課題とその意義
本稿の課題は、古代地方行政機構論を構築する立場から、「事実と理論の緊張関係」の現代的意義を把握することである。
この「事実と理論の緊張関係」について、筆者は、石母田正が『日本の古代国家』第三章「国家機構と古代官僚制の成立」(一九七一年)及び『日本古代国家論』第一部(一九七三年)で発表した国家(行政)機構論*1)に注目し、検討を重ねてきた。そして、「事実と理論の緊張関係」を、古代国家論の基本的「方法」とした石母田は、(ア)行政機構論を含む「上部構造」論に、古代国家論における独自の意義を認めていたこと*2)、(イ)行政機構論においては、マルクス・エンゲルスの『共産党宣言』に基づく、国家を「一つの階級が他の階級を支配し抑圧するための『組織された強力』」とする見解に、問題提起の方向性を求めていたこと、(ウ)古代行政機構の歴史的特質を把握するための課題は、天皇と官人との「人格的身分的結合関係」の特質の解明にあること*3)、(エ)かかる関係の歴史的特質に迫るための「具体的課題」は、官人の「任用過程」の分析であること*4)、を明らかにした。
以上は、(A)石母田説が古代行政機構論を体系的に構築した唯一の学説であること、(B)「事実と理論の緊張関係」が行政機構論構築にあっても基本的「方法」としての位置を占めると考えられること((イ)参照)、(C)「事実と理論の緊張関係」はーその一環である歴史的事実の検証による一般理論の放棄が「学問の約束」とされているようにー、基本的には、時代の変化を越えて不変の一般的原則・基本的手続きとして提起されていること*5)、から当然と言える。
本稿の課題は、古代国家論・行政機構論構築の基本的「方法」という一般的意義に留まらず、「事実と理論の緊張関係」が、提起後四〇年以上を経た現代において、如何なる意義を有するのかを把握するものである。
この課題を設定する根拠は、第一に古代行政機構論を現代社会から孤立させず、その諸矛盾に対応する上で意義あるものにするのに不可欠だからである。
もとより、このような検討を経ずとも、「権限配分に関する意識的・計画的原則」*6)に基づく古代行政機構の歴史的特質の追究は一般的な歴史的意義を有している。まず、現代につながる行政機構の起源であるという点であり、次に、ーかかる原則が現代のほとんどの「組織」*7)に共通しているところからー企業・政党・学校・各種組合などあらゆる「組織」の起源であるという点である。
しかし、古代行政機構論を、前記の意味で有意義なものにするには、(1)かかる一般的意義に留めず、現代社会において古代行政機構論に何が要請されているのか、(2)その要請に対応し得る行政機構論を構築するには、如何なる「方法」が必要か、が把握されねばならない。この内、(1)は現代社会の状況把握であって、古代史研究ではないから、古代史研究者にとって、直接の問題となるのは(2)である。そして、(2)の基本的「方法」が「事実と理論の緊張関係」であるとすれば、当然ながらその社会的意義は四〇年以上前とは同一にはならない。その現代的意義を踏まえなければ、「事実と理論の緊張関係」を以て、現代社会の問題と十分に切り結び得る古代行政機構論を構築することも不可能になろう。
根拠の第二は、古代史学界の現状においては、前記の「事実と理論の緊張関係」の一般的意義を、一応、検討してみる必要があるからである。「石母田以後」、種々の学説が提示されており、それらはー十分に整理されたものかは別にしてー独自の「方法」論を有している。筆者は、前記の(A)~(C)から、かかる意義は否定し得ないと考えているが、現状においても、「事実と理論の緊張関係」が基本的「方法」としての位置を占め得るかはー言い換えれば、何故、「事実と理論の緊張関係」であり行政機構論なのかはー、一応、検討しておく必要があろう。かかる作業は、「事実と理論の緊張関係」の、四〇余年前とは異なる古代史研究における意義を把握する作業であり、古代史研究・学界の現状と、検討すべき課題を把握する上でも有意義と考える。
以上の課題から、本稿で検討対象となる「事実と理論の緊張関係」とは、行政機構論内部の「事実と理論の緊張関係」になる。しかし、国家論の基本的「方法」論である「事実と理論の緊張関係」全般の内容・現代的意義に関わると言える。さらに、この課題を通して、石母田が基本的には、『日本の古代国家』では、「第四章 古代国家と生産関係」において、生産関係論・共同体論として論じた地方の問題を、なぜ、機構論の枠で論ずるのかという問いへの回答を示すことも可能と考える。
2.本稿の手法
かかる課題に対応するために、以下の検討が前提となる。本稿では、この検討がそのまま課題に対応するための手法となる。
第一は、前記の現代社会の状況把握である。この検討は、「事実と理論の緊張関係」の、現代における社会的意義を把握する前提となる。
ここでは「個人の『多様性』の追求」と「組織」との関連を概観することでかかる把握を行いたい。ここで言う「個人の『多様性』の追求」とは、「個人の人格(個性)を尊重し、それらの共生を追求すること」といった意味である。かかる観点を設定するのは、「生き辛さ」「息苦しさ」が問題となり、一二年連続で三万人を超える自殺の背景の一つとされている状況*8)が端的に示しているように、現代日本において、かかる追求が切実な課題となっており、さらにそれは、「組織」の問題と不可分と考えられるからである(後述)。
第二は、「事実と理論の緊張関係」の(A)発表時における意義と(B)内容の把握である。(A)「事実と理論の緊張関係」が、そもそも如何なる意義を有するものとして提起されたのかは、その現代的意義の把握の前提となる。また、それは(B)「事実と理論の緊張関係」が如何なる内容を有するものとされていたのか、という問題とも不可分である。
(A)「事実と理論の緊張関係」の発表時における意義は、それによって生み出された行政機構論の発表時の意義と対応していると見るべきであろう。そして、行政機構論が古代国家論の一部として提起された以上、まず
(a-1)古代国家論における、古代行政機構論の位置付け
が問題となる。次に、石母田の古代国家論・行政機構論が、当時の国際的・国内的情勢(以下、国際的・国内的情勢を「情勢」とする)に対応するものとして提起された以上、
(a-2)当時の「情勢」と古代行政機構論との関連
の検討が必要となる。
その上で、
(B)「事実と理論の緊張関係」の内容
を検討する。前記のように、(B)の問題は、これまでも検討してきているが、それだけでは必ずしも十分ではなく、またあらためて付加すべき知見もある。従来の検討と重複する部分もあるが、あらためて検討することにしたい。
第三は、「石母田以後」の研究史の検討である。これは、前記のように「事実と理論の緊張関係」の一般的意義を確認するためのものである。
この際、検討の意義から、まず「方法」論が基本的問題となる。しかし、次に、「情勢」の推移との関連も重要となる。言うまでもなく、石母田の段階から「情勢」は激変しており、諸学説が、それとの関係でどのような意義を有するのかが把握されなければ、「事実と理論の緊張関係」の現代的意義の把握も一面的とならざるを得ないであろう。本稿では、「情勢」の変化との関連で諸学説の意義を把握することにする。最後に、その「方法」論の問題点を「事実と理論の緊張関係」に即して検討することにする。
以上の三点の検討を踏まえたうえで、「事実と理論の緊張関係」の現代的意義を把握する。
〔Ⅱ 古代行政機構論の現代的意義〕
ここでは、「個人の多様性」と「組織」との関わりを概観することから、古代行政機構論の現代的意義を把握したい。この際、問題となるのは国及び個人の生活の場である地域の内実である。ここでは、国・地域造りの直接の主体である政治勢力における「組織性」に注目する。また、検討時期を(1)冷戦期と(2)冷戦以後の二つの時期に分け、状況を概観することにする。政治勢力の在り方が国際的情勢と結びついているからである。
1.冷戦期の日本の「組織性」と「個人の多様性」
敗戦後、日本は復興の途を歩むが、言うまでもなく日本は一つの国家であり、「組織された強力」としての特性を有していた。かかる特性は、戦後の日本という国、および個人の生活の場である地域の内実を、強く規定したと考えられる。
戦後日本の国造り・地域造りの、直接の政治的主体は「保守」勢力であるが、実質的にはその中の官僚が主導したとされる。そこでは、特に六〇年代以降、経済的利益の追求が優先され、都市部を中心に「企業社会」が形成されることになった。かかる形成に、前記の特性が遺憾なく発揮されたことは想像に難くなく、「官僚支配」の語はそれを端的に示している。また、このような国造りの下では衰退せざるを得ない農村は、一層、「官僚支配」が浸透することとなった。
かかる特性もあって、そこでは、個人の「多様性」が真剣に追求されたとは言えなかった。むしろ、「企業戦士」「滅私奉公」の語が端的に示すように、まず「組織人」たることが求められ、「しがらみ」に象徴される「組織」内の種々の人間関係は、個人の自由な活動を有形無形に束縛した。
このような国・地域の在り方の背景に、資本主義国の盟主であるアメリカとの同盟関係があることは言うまでもない。外交・軍事関係は、国家の「組織された強力」の端的な所産であるから、日本のかかる在り方は、アメリカという国家の「組織された強力」としての特性の所産とみることもでき、その端的な矛盾は、今なお、米軍基地の大半が集中する沖縄に見ることができる。
一方、これに政治的に対抗したのは、マルクス・レーニン主義を奉じる「革新」勢力であり、人権・平和・福祉などの実現を理念とした。しかし、「革命」に対する強いこだわりは、多様な「市民」の声の軽視を生み出したとされる。これは、裏を返せば、「革命」さらには社会主義国家建設に資する「労働者」「革命家」などの重視であり、それ故、個人の「多様性」の軽視という点では「保守」勢力と共通する傾向があった。
例えば、政治勢力としての筆頭であった日本社会党は、前記の「滅私奉公」によって経済的な豊かさを手に入れた「市民」の多様な声に応える柔軟性を欠いていたとされる*9)。六〇年代に江田三郎によって提起された、資本主義の枠の中で改革を積み上げ、社会主義を達成するという「構造改革論」は、「市民」の声に応えるものとして、「保守」勢力からも密かに脅威とされていたが*10)、「(社会主義革命を捨てた)改良主義」として批判され、挫折していった。議会制民主主義を否定する「一党独裁」への志向も、常に胚胎していたとされる。また、同党の支持母体である労働組合では常に「団結」が強調され、「組織」の結束が重視された。このような体質の結果、同党は高度成長が進む中で長期低落していき、必然的に、野党第一党でありながら政権を奪取することはできず、「保守」勢力による地域・国造りを阻止することはできなかった。
さらに、社会党とならぶ政治勢力である日本共産党は、「組織性」はより強固で、したがって柔軟性の欠如もより顕著であった*11)。朝鮮戦争時の、コミンフォルムからの批判による「暴力革命」への転換(「極左冒険主義」とされる)は、敗戦から間もない民衆の支持を得ることはできなかったし、他国の共産党との友党関係の破棄後も「民主集中制」は維持され、「市民」の多様な声に基づいて党を運営する志向は弱かったとされる。
このような体質が、社会主義国の盟主であるソ連、さらには戦後に社会主義革命を達成した中国の影響によることは言うまでもない。しかし、「プロレタリア独裁」体制をとるこれらの国家では、「組織された強力」としての特性は、資本主義国よりも一層、顕著なのであって、その弊害の深刻さは秘密警察などによる人権弾圧が端的に示されている。にもかかわらず、後述の石母田正にも端的に示されているように、国内の「革新」勢力のかかる問題への批判は弱く、それはこの勢力の「組織性」が、権力奪取後には人権弾圧に使用される可能性を払拭しきれないことを示した。
もっとも、このような特徴を持つ日本社会は、一九八〇年代半ばにはすでに破綻しつつあった。
「保守」勢力による「企業社会」の矛盾は、教育現場における「受験競争」に端的に現れている。当時、有効法であった旧教育基本法第一条には「教育は、人格の完成をめざし、平和的な国家及び社会の形成者として、真理と正義を愛し、個人の価値をたつとび、勤労と責任を重んじ、自主的精神に充ちた心身ともに健康な国民の育成を期して行われなければならない。」*12)とあるが、学校はかかる理念とは裏腹に、実質的に「企業戦士」育成の機能を担わされることとなり、「校内暴力」「いじめ」などの問題に象徴されるように、当該期には荒廃が顕著になりつつあった。しかし、本条で述べられているような、本来の意味での「心身ともに健康な国民の育成」ができない国家に未来があるわけがない。したがって、本来、国家のあり方の根本的なところでの転換が要請されていたことは疑いがないが、対応はその場しのぎであった。
一方、「革新」勢力も、日本社会党は一時的なブームを除いて低落傾向に歯止めをかけることはできず、日本共産党も多数勢力となることはなかった。労働組合も、一九八三年以降、組織率が三〇%を割り、衰退が顕著となる*13)。これらの勢力は未来への可能性を拓くものとは認識されず、その生硬さや「組織性」は、「息苦しさ」「窮屈さ」を感じさせるものとなっていった。
2.冷戦後の日本の「組織性」と「個人の多様性」
冷戦終結後、バブル経済の崩壊もあって、日本では「新自由主義」的な「改革」が叫ばれるようになる。「小さな政府」の下、規制を緩和して企業の利益追求を「自由化」するこの改革は、一九九〇年代後半以降、本格化していくことになる*14)。
しかし、この「改革」は、前項で述べた意味での日本社会の破綻を是正するものではなかった。冷戦下の「官僚支配」こそ「改革」の対象とされたが、これは「小さい政府」が官僚の既得権益の縮小を必須とするからであり、前記のような個人の「組織」への従属はー「自由」という名や「自己責任」といったスローガンとは裏腹にー、むしろ、強化されていった。したがって、「生き辛さ」「息苦しさ」といった言葉が端的に示すように、個人の「多様性」の侵害は、一層、進行したと言える。
以上は、この「改革」が、憲法の三原則の一つであり、生存権の根拠となる「基本的人権の尊重」を蔑ろにすることに由来する。もともと貧弱であった社会福祉制度は、「小さい政府」の下で更に弱体化され、その上、終身雇用制をはじめとする、「企業社会」の中で、曲がりなりにも個人の生存権を支えてきた種々の制度を縮小、解体させた。どんな人間であっても、すべての「国民」に「健康で文化的な最低限度の生活」を保障する生存権が蔑ろにされる状況は、一定の基準を満たさない「人格」「個性」は生存に値しないと言っているのと同じである。一二年連続で三万人を超える自殺者や「うつ」の蔓延は、「改革」のこのような性質を如実に示している。
また、当然ながら「組織」への従属も増すことになる。いまや、全労働者の三三パーセント以上が非正規雇用者であり*15)、二〇〇八年後半の経済危機での「派遣切り」が端的に示すように、いつでも雇用が奪われる状況では、個人は、一般的には「組織」にしがみついて生きるよりない。そもそも、このような「改革」の人権軽視の性格は、憲法のもう一つの原則である「平和主義」の「改正」の動き、一向に改善されなかった教育現場の荒廃・沖縄の米軍基地問題*16)を見れば明らかである。とりわけ、教育現場における、「KY](空気が読めない)という語に象徴される、個人の意思の表明よりは、周囲への同調を事実上、強制する風潮は、個人の「多様性」の侵害を端的に示しており、またかかる集団への従属は、そのまま「組織」への従属につながる。
にもかかわらず、「改革」が断行されたのは、冷戦終結後、唯一の超大国となり、グローバリゼーションといわれる形で世界に覇権を拡大していったアメリカとの同盟関係によることは言うまでもない。アメリカの覇権拡大に協力すべく、「国際貢献」の名の下に、自衛隊が実質的な戦地に派遣され、憲法九条の「平和主義」の「改正」が声高に叫ばれたのは、この状況を端的に示している。前項で述べたものと同じ理由で、この「改革」もまた、アメリカの「組織された強力」の所産とも言える。
もっとも、このような「改革」の欺瞞性は、旧「革新」勢力によって既に指摘されており、「改革」の結果も概ね、指摘されていた通りである。しかしながら、この勢力は、「国民」・民衆から未来を拓く可能性をもつものとは認められなかった。
日本社会党は、一九九六年に消滅し、大半は民主党に合流したが、かかる民主党内左派は党運営の主導権を握れず、「改革」に正面から対抗したわけではない。社会党の後裔たる社会民主党は「市民政党」への脱皮を試み続けたが、小党と化し政治力を低下させるに至った。日本共産党の「民主集中制」は相変わらず堅持されており、近年でも幹部が離党し内情を告発するといった事態が生じている*17)。また、一般に正社員で構成される労働組合は、派遣労働者の人権擁護に消極的であったとされ、実際、松下電工労組では派遣労働者の基本的人権をさらに侵害する「偽装請負」を黙認していたとされる*18)。必然的に、リストラ・非正規雇用の拡大などの労働条件の悪化を食い止めることはできなかった。
また、中国・北朝鮮などの、現在も社会主義国を名乗る諸国においては、一党独裁が継続されており、直接の関係は想定し難いとは言え、これらの勢力の支持拡大の阻害要因となった。
未来を拓く可能性を持つ人物として高い支持を得たのは、二〇〇一年に自由民主党総裁・内閣総理大臣に就任し、「新自由主義的改革」を断行した小泉純一郎である。注目すべきは、彼自身は「組織性」とは無縁と思わせる人物であったことである。それまでの有力政治家は、「保守」「革新」を問わず、複雑な人間関係への配慮から発言に一定のコードがかかっており、それ故、かかる人間関係とそれから成り立つ「組織」の束縛をいやでも連想させた。そのため、与野党を問わない「政治の閉塞」を打破する能力(したがって、「失われた一〇年」などの難局への対応能力)にも疑問を抱かせた。しかし、小泉は「自民党をぶっ壊す。」などの奔放な「小泉節」を駆使し、さらに従来のタイプの自民党の有力政治家を「抵抗勢力」と位置付け、それとの対決構図を印象付けることによって、「改革者」としてのイメージを喚起することに成功し、熱狂的な支持を集めた。さらに、難局に追い込まれれば追い込まれるほど、自らの個性にしたがって、自由奔放に振舞い(正確には、振舞っているように見せ)、二〇〇五年には「郵政選挙」を敢行し、衆院選で圧倒的勝利を収めるに至る。
これは、「正論」を述べるよりも、「しがらみ」や閉鎖性で機能不全に陥った旧来の「組織」を打倒する方が、未来への可能性を開くと判断されたためと見られる。実際、小泉は「改革」による未来像を明示したわけではなく、耐用年数が過ぎたといわれて久しい自民党の「改革」に成功したわけでもない。小泉政権の一枚看板は「郵政民営化」であるが、それによって有権者に何のメリットがもたらされるのかを把握した上で、自民党に投票した有権者はほとんどいなかったはずである。また、結局、自民党の性格が変わらなかったことも、その後の「改革」の揺り戻し、更には二〇一〇年の政権からの転落に明らかである。にもかかわらず、小泉は、そのような「組織」と真剣に戦う姿勢を見せることで、高支持率を得たのであった。
以上の経緯は、少なくとも二〇〇〇年代前半には、現代社会に相応しい「組織」とは何かが、切実に追求されていた事を示している。言い換えれば、「生き辛さ」や「息苦しさ」を感じさせるような「組織」では、事態を根本的には改善しないと判断されていたと言えよう。
そして、二〇一〇年代に入った現在でも、この問題は追求すべき課題として残されていると考えられる。もとより、二〇〇〇年代前半とは状況も異なりつつある。政治勢力の点でも、その後、「改革」の弊害が顕在化し、結局、自民党中心の政権は瓦解することになった。替わって政権の中心となった民主党は、「新自由主義」とは距離をとる政策を掲げている。労働運動においても、個人の資格で加盟できるインディーズ系労組*19)なども結成され、二〇〇八年末には「年越派遣村」が実現し、政府の政策に直接、影響を与えるにいたった。その他、政党・労組などを基盤としない市民運動は根強い。現代に限らず社会に何らかの「組織」は不可欠であり、それによらねば個人の生存もあり得ない以上、かかる変質・脱皮の意義を否定することはできない。
しかし、「現代にふさわしい『組織』とは何か」という前記の問いを避けて通ることは不可能であろう。そもそも、政党は政党であるが故に、企業は企業であるが故に、労組は労組であるが故に、「生き辛さ」や「息苦しさ」をもたらしたのではないのであって、それが「組織」というもののいかなる特性によるのか、どうすればそれを最小限に食い止められるのかが追求されなければ、変質・脱皮した「組織」がまた「生き辛さ」「息苦しさ」を生み出す恐れがある。小泉のような「役者」が再び出現した場合には、日本がさらに荒廃する可能性も否定できないと言えよう。実際、地方においては、マスコミ操作にたけた首長が、政策の内実も問われないまま、高支持率を得ている状況が存在するのである。
古代史研究もまた、かかる問いに対応するための知見を提示する意義を有することは言うまでもない。古代行政機構論は、現代においては、我々の基本的人権を守るためにー言い換えれば、生き残るためにー不可欠の意義を持っていると言える。
〔Ⅲ 石母田正の「事実と理論の緊張関係」ー発表時の意義・内容ー〕
ここでは、「事実と理論の緊張関係」の、発表時における意義・内容を把握する。「Ⅰ はじめにー本稿の課題と手法ー」で述べたように、
(a-1)古代国家論における、古代行政機構論の位置付け
(a-2)当時の「情勢」と古代行政機構論との関連
(B)「事実と理論の緊張関係」がいかなる内容のものとして提起されたか
の三点が問題となる。
1.古代国家論における、古代行政機構論の位置付け
まず(a-1)の問題を検討する。
結論から言えば、古代行政機構論は、古代国家論において不可欠の位置を与えられていたと考えられる。この点は、他ならぬ、古代行政機構論における次の記述に明らかで、その紹介でほぼ事足りると言える。
・〈引用1〉 『日本の古代国家』(一七四頁)
「組織された強力」または「公的強力」であるという属性は、それを欠くときもはや「国家」ではなくなるという意味において、国家の本質的な、固有の属性である
行政機構は、文中の「組織された強力」という国家の属性の端的な表明であるが、かかる属性を欠けばもはや「国家」ではないとすれば、行政機構論を欠けばその論はもはや「国家論」ではない、とさえ言えるであろう。
もとより、『日本の古代国家』執筆に当たっての石母田の主たる関心が、「第四章 古代国家と生産関係」の在地首長制論として結実する、生産関係・共同体論の構築であったことは確かである*20)。石母田においては、同論は、国家存立の本質的条件を示すものと位置付けられており、それを欠いては「国家とは何か」という理論的要請に応えることも、事実認識レベルでの要請に応えることも不可能とされていた*21)。また、後述のように、石母田は古代国家論構築を以て、「国家の『死滅』」の可能性を提起しようとしていたと考えられるが、その上でも同論は本質的位置を占めた。国家が生産関係の特定の段階の所産であることを実証し得て、はじめて、生産関係が特定の段階に至れば、国家が「死滅」する可能性を提起できるからである(三二九頁)。石母田が、同論の構築に心血を注いだのは当然であった。
しかし、同論は、あくまで「組織された強力」である国家の基礎を論ずるものである。国家の成立・存立の本質的条件を示すものではあっても、国家それ自体の特性の把握がなければ、意義を失うと言っても過言ではない位置付けになっている。そして、かかる特性(〈引用1〉の言葉で言えば「本質的な、固有の属性」)が「組織された強力」であるとすれば、国家論においては行政機構論は不可欠となり、特に支配の具体相から国家を論じなければならない歴史学においては、なおさら重要と言えた。後述の、国家「理論」の問題からしても、生産関係・共同体論が総括的位置を占める『日本の古代国家』においても、行政機構論が不可欠であったと考えられる。
2.古代行政機構論と「情勢」
次に、(a-2)の問題を検討しよう。結論からいえば、行政機構論と最も深くかかわる「情勢」は、前記の「国家の『死滅』」の問題であったと考えられる。
(1)石母田国家論と「国家の『死滅』」
石母田が、「国家の『死滅』」について言及したのは、『日本の古代国家』の準備論考の一つである「国家史のための前提について」(以下、「国家史」*22)である。まず、その記述を整理しておく。
ここで、石母田は、この時期の歴史学が「『国家の死滅』が歴史の議事日程にのぼっている時代の歴史学でなければならない」とした上で、「どのような歴史の過程を経て、国家が『死滅』するか、またはその『死滅』の客観的・主体的条件はいかなるものでなければならないか」を問題とする。そして、国内の階級及び階級対立を否定するソ連のスターリン憲法に触れた上で、当時、中国で進行していた「文化大革命」(以下「文革」)を
社会主義国家一般に共通に内在している普遍的な課題の解決をめざしている
と高く評価する。この「普遍的な課題」に「国家の『死滅』」の問題が含まれることは疑いなく、「文革」を「国家の『死滅』」に至る、少なくとも契機とみていたと考えられる。
「国家の『死滅』」の問題はー「文革」が契機になっていることから見てもー、六〇年代に入って、新たに提起されてきた問題と認識されていたと考えられ、それまで国家それ自体を検討対象とすることのなかった*23)石母田を、この時期に古代国家論構築に駆り立てた、最も主要な「情勢」であったと考えられる。
(2)行政機構論と「国家の『死滅』」
行政機構論と「国家の『死滅』」との関わりを最も端的に示すのは、石母田が、行政機構論における基本的「理論」と位置付けた(後述)『共産党宣言』の記述の、同書における位置付けである*24)。『共産党宣言』の該当箇所*25)は、次の通りである。
・〈引用2ーA〉 『共産党宣言』(1)
本来の意味の政治権力は、他の階級を抑圧するための一階級の組織された強力である。
前述のように、この「組織された強力」を石母田は国家の本質的な属性と見ているが、『共産党宣言』は続いて次のように述べる。
・〈引用3〉 『共産党宣言』(2)
プロレタリアートは、ブルジョアジーにたいする闘争のなかで必然的に階級に結合し、革命によって自ら支配階級となり、支配階級として(A)強力を用いて(B)古い生産関係を廃止するが、
ここでは、社会主義革命によって支配階級となったプロレタリアートが、「強力」(太字部(A)。言うまでもなく「組織された強力」)を用いて、資本主義的な古い生産関係を廃止する(同(B))旨が述べられている。つまり、〈引用2ーA〉はかかる古い生産関係の廃止・社会主義革命における「組織された強力」の有用性を述べるための記述である。
これに以下の記述が続く。
・〈引用4〉 『共産党宣言』(3)
彼らは、この古い生産関係とともに階級対立の、階級一般の存立条件を廃止し、それによってまた階級としての自分自身を廃止する。
ここでは「階級の廃止」が述べられているが、これが「国家の『死滅』」を伴うことは明らかである。
この内、〈引用3〉の部分、つまりプロレタリアートが「組織された強力」によって、資本主義的生産関係を「廃止」した段階を、石母田が、当時のソ連・中国などの社会主義国と見ていたのはほぼ確実と考える。つまり、〈引用2-A〉の「組織された強力」は、当然ながら、資本主義国の特徴でもあるが、より該当するのは社会主義国と認識されていたはずである。
前項の整理から明らかなように、「国家の『死滅』」において問題とされたのは、基本的に社会主義国である。その際、中国がソ連よりも高く評価された背景に、後者における人権弾圧があったことは想像に難くない。フルシチョフの「スターリン批判」はすでに一九五六年に行われていたし、その他の断片的な情報も入っていたであろう。
そして、その弾圧は、「組織された強力」の端的な表現たる、強大な国家機構を武器とするものであった。『共産党宣言』では、革命と軌を一にして、「組織された強力」は「死滅」するとされていたが、現実には長く残存し、民衆の基本的人権を圧殺していたのである。六〇年代に入って、革命から「国家の『死滅』」への道筋が改めて問われていると考えた石母田が、先ず以て「組織された強力」としての国家の特性を問うのは当然であった。
もとより、「国家の『死滅』」の問題は、前記のように古代国家論構築の主要な動機と考えられるのであって、行政機構論のみと関わるわけではない。しかし、行政機構論もまた、「いやしくも学者として現代において国家について語る以上は、社会主義における国家の問題について無関心であることはできない。」とする石母田にとって、それを欠けば、かかる「無関心」を示すものと位置付けられていたと考えられる。
すなわち、行政機構論は、ソ連をはじめとする社会主義国の人権弾圧に対応する意義を有していたと考えられる。
3.石母田機構論における「事実と理論の緊張関係」
ここでは(B)機構論において「事実と理論の緊張関係」がどのような内容のものとして設定されたかを検討する。冒頭に述べたように、基本的な検討対象は機構論内部における「事実と理論の緊張関係」であるが、先ずその全般的な概要を押さえた上で検討に入ることにする。
(1)「事実と理論の緊張関係」の概要
「事実と理論の緊張関係」の問題は「国家史」で提起された後、『日本の古代国家』に結実するが、後者におけるその手続きは、大別すれば、次の二つから成り立っていると考えられる。
(ア)国家「理論」で検討される諸課題の把握
(イ)「内的連関」を基本的根拠とする論点・概念の設定
以下、それぞれに関わる問題を検討する。
ア.「理論」の意義と特徴
手続き(ア)については、「国家史」で強調されている。すなわち、「歴史家が理論的思考の主体として確立されていないから、その研究成果にも理論と事実との対立が生み出す緊張が足りなくなる。」と、古代・中世の研究者を批判した上で、「一般国家論で検討され、深められつつある理論的諸課題を個別的な国家の歴史研究にさいしてたえず念頭におき、それを実地に検証する態度」とそれにより「個別的・一回的な事例の研究をたえず普遍化する努力をし、国家論の一部門としての国家史を研究しているという自覚」の意義が強調される。
その上で、後文で「そもそも『国家』とはなにか、その本質、構造、機能はなにか、それは日本でどのように形態変化したかについて少なくとも自分の理論をみがくことなしに、(ⅰ)どのような方向で問題を提起し、(ⅱ)国家のどの側面を(ⅲ)どのような方法で分析することができるであろうか。」と述べられる。
「理論」のさしあたっての意義は、
(ⅰ)問題提起の方向性
(ⅱ)研究の国家論的位置
(ⅲ)研究方法
の三点の把握にあるとされていたと考えられる。
この「理論」の意義は種々の論理的位相で機能するとものと認識されていたと考えられる。もとより、「国家とは何か」を総括する国家論全体の論理体系の構築において不可欠であるとされていたことは確かであり、石母田の力点もまたこの点にあるが、国家論を構成する個別の論点の分析・構成(個別の「歴史的事実」の分析)においても、不可欠と考えられていたと思われる。この点は、(ⅱ)について「国家のどの側面」と個別的研究に関わる記述があることや、後述の行政機構論の分析・論点構成などから想定される。
また、後文に「国家論の一部としての国家史をつくり上げるという理論的責務を自覚しなければ、いつまでたっても理論と論理を欠く歴史的事実の集積にとどまる」とあるように、「理論」による(ⅰ)~(ⅲ)の把握が古代国家研究を「歴史的事実の集積」から脱却させる上で不可欠の意義を有すると考えていたことが知られる。
ただし、(ⅰ)~(ⅲ)は整理された弁別ではない。そもそも「国家史」全体について、石母田は系統性・正確性に不安を表明しており(二八二~三頁)、(ⅰ)問題提起の方向性が、そのまま(ⅱ)研究の国家論的位置、(ⅲ)研究方法であるような場合も、あり得る。しかし、石母田が、古代国家論構築における「理論」の意義に、最もまとまって言及しているのは、この記述であり、『日本の古代国家』における「事実と理論の緊張関係」の在り方を把握する上では、不可欠である。
この把握の意義の指摘は、『日本の古代国家』では、
(引用者註、国家の問題に)無概念・無前提に接近する(四頁)
ことを可能と思う、日本史研究者への批判となっている。概念・前提は、(ⅰ)~(ⅲ)の集約とも言えるから、基本的には「国家史」の見解が踏襲されていると見てよいであろう(ただし、概念・前提の問題として、この意義が論じられた点については後述)。
では、この「理論」とはどのような特徴を有するのだろうか。ここで言う「理論」の概念には、特に限定が付されているわけではない。したがって、基本的には「個々の事実や認識を統一的に説明することのできる普遍性を持つ体系的知識」(『広辞苑』)という一般的規定を出るものではないし、さらに、石母田は、後述のようにこの規定で言う「体系性」にも必ずしもこだわっていないと考えられる。
しかし、ここでの「理論」には一つの特徴がある。それはー当然のことではあるがー、国家「理論」であるということである。
そもそも、石母田はそれ以前においても、「歴史的事実の集積」を発表してきたわけではなかった。しかし、その際、強調されたのは、例えば『中世的世界の形成』においては「資料の導くところに従って事物の連関を忠実にたどってゆく対象への沈潜と従来の学問上の達成に対する尊敬」*26)であり、『古代末期政治史序説』では、(1)従来の学説の批判と(2)資料的根拠と(3)首尾一貫した一定の理論に基づく「時代の全体に対する一定の展望」*27)(=仮説)であって、国家「理論」ではなかった。『日本の古代国家』を論ずる以上、そのための「方法」は一九四〇~五〇年代と同一ではあり得なかったのである*28)。
もとより、『日本の古代国家』執筆において、参照された「理論」が、「国家とは何か」を直接、論じた国家「理論」のみであったわけではないが、
少なくとも第一義的意義を持つのは、国家「理論」でなければならない
点に、「事実と理論の緊張関係」の一つの独自性があると考えられる。
なお、『日本の古代国家』における「理論」と言うと、マルクス『資本制生産に先行する諸形態』(以下、『諸形態』*29)に基づくアジア的共同体論が想起されるが、前記のように国家の基礎を論ずるためのものではあっても、「国家とは何か」を直接、示すものではないので、第一義的意義を有するとはいえない。もとより重要性は否定できないが、「理論」と言えば「アジア的共同体論」が想起される状況は、『日本の古代国家』刊行後、古代史学界の議論が「第四章 古代国家と生産関係」をめぐって行われたためと見られ、石母田本来の「理論」の在り方を示すものではない。
イ.概念・論点の必然化ーその根拠と「内的連関」ー
次に手続き(イ)について。
この手続きの前提となるのは、まず、歴史的事実による「理論」の検証である。かかる検証については、すでに「国家史」の段階で、
カトリックから近代政治学にいたる多様な国家理論が正しいかどうかを、日本の古代または中世の国家史に即して検証する必要がある。
とその意義が強調されている。ここでは、かかる検証に堪えない「理論」は破綻せざるを得ないとされており、国家「理論」に対する歴史学の独自の意義もまたそこに求められていると言える。
かかる意義づけは、基本的に『日本の古代国家』においても、継承されている。しかし、『日本の古代国家』においては、以上の検証の意義を述べた後で、従来の「理論」が西欧型の国家から帰納された「理論」であることに触れた上で、次のように記されている。
検証はもはや検証にとどまっていることはできず、理論と事実の緊張関係の中から新しく何かを生みだす作業にならなければならない。(四頁)
ここでは、検証がそのまま「新しく何かを生みだす作業」につながるとの認識が示されている。「国家史」では、かかる検証による「理論」の破綻には触れているが、この点には触れていない。恐らく、『日本の古代国家』執筆を通じて、生みだされたものと考えられる。
では、「国家史」から『日本の古代国家』の間に何があったのだろうか。手掛かりになるのは、同書中の、「総体的奴隷制」という概念に関する記述である。言うまでもないが、「総体的奴隷制」は、マルクスが『諸形態』で、アジア的共同体の生産関係の基本的特質を示す概念として提起したものである。『日本の古代国家』においては、それなしには首長制の生産関係の「社会構成史上の地位」(二八四頁)を捉えられない、古代社会の歴史的特質を捉えるための主要概念としてー後述のように、それを「適用」したわけではないがー、採用されている。この採用について、石母田は次のように述べている。
…(A)前記のような収取と支配の事実の分析そのものが、この範疇を必要ならしめるのである。(B)総体的奴隷制という範疇は…もし『諸形態』がそれを定式化しなかったとしたら、(C)たれかがいずれはつくらなければならなかったであろうような範疇として、私はそれをうけとめたいとおもう。(D)歴史学にとって必要なことは、個々の範疇の「適用」ではなくして、なぜ特定の範疇が必然であるかを(または必然ではないかを)、古代日本の具体的事実の内的連関の分析によってしめすことだからである。(二八八頁)
ここでは、太字部(A)では、この概念を採用する基本的根拠が、日本古代の「収取と支配の事実の分析」に求められている。その上で、(B)・(C)において、「総体的奴隷制」という概念は、仮にマルクスがそれを作らなかったとすれば、日本古代史研究者が自ら作り上げるべき範疇である旨が述べられている。注目されるのは、(B)・(C)の根拠を示した太字部(D)である。ここでは、概念(範疇)設定が「古代日本の具体的事実の内的連関」(以下、「内的連関」)の分析を根拠とすべき旨が述べられている。すなわち、『日本の古代国家』の段階では、石母田は
(1)日本古代国家・社会論の概念(範疇)・論点の必然性は、「内的連関」の分析によってしめすべきである
(2)したがって、日本古代国家・社会の歴史的特質を把握するための主要な概念・論点でさえ、必要であれば、西欧型の国家から帰納された理論に負うのではなく、日本古代史研究者が自ら作り上げるべきである
と考えていたことが知られる。
(1)の前提には、当然、概念・論点の意義(「理論」の体系と不可分)と内容の把握がある。例えば、石母田は、「総体的奴隷制」の特徴の第一を、『資本論』第三巻四七章の著名な記述によって、「あらゆる臣従関係と共通なもの以上に過酷な形態をとる必要がない」(二八四頁)としている。この記述の前提には、『諸形態』における「総体的奴隷制」という概念の意義・内容の把握があり、具体的には、かかる生産関係の具体的表現とされた土地所有論の、国家論・共同体論における意義とその内容の把握がなければならない。また、前項で述べたように、「理論」の意義として(ⅲ)分析方法に触れているように、それが「内的連関」を把握する際の手掛かりとなることーすなわち、かかる把握において不可欠であることーも、指摘しておくべきであろう。
しかし、(1)は、概念・論点の必然性が、「内的連関」から生み出されるとしている。前記の「総体的奴隷制」の第一の特徴で言えば、その意義・必然性はあくまで「直接生産者がその共同体の成員として土地にたいして持っている世襲的な占有権と用益権を否定しないばかりか、それを前提としている」(二八四頁)点にあり、日本古代国家の具体例に即して言えば、それによって
(引用者註、民戸の『自立性』によって生み出される)集落共同体…の存在にもかかわらず、なぜ、その上にアジア的首長制または律令国家という体制が存在するか(二七三頁)
を、世界史認識レベルで説明できるからである。「総体的奴隷制」という概念が設定された必然性・基本的根拠は、概念提示に先立つ、(土地所有を主軸にした)所有論による日本古代の村落・共同体の分析になっている。これは、『日本の古代国家』においては、「総体的奴隷制」という概念・論点の必然性は、日本古代の事実による、その意義・内容の検証によって生まれたことを示している。
(2)は、仮に、「総体的奴隷制」という概念が、この問題を説明できなければ、別の概念を創造すべきだと述べている。また、「総体的奴隷制」も、前記の検証を経ている以上、マルクスのそれとまったく同一ということはないだろう*30)。
概念・論点の設定は論理全体の体系性と関わるのであり、ーそれが有効なものであればー一つの論理体系の「創造」につながる。石母田が、歴史的事実による「理論」(一義的には国家「理論」)の検証が「新しく何かを生みだす」と述べているのは、基本的にはこの点を念頭においてのことであろう。 『日本の古代国家』において、かかる認識が示されたのは、同書執筆による論理体系の構築の中で、かかる「創造」の意義が強く認識されたからであり、手続き(ア)が、『日本の古代国家』では概念・前提の問題として述べられているのも、このためと考えられる。
(2)石母田機構論における「事実と理論の緊張関係」
次に、石母田機構論内部における「事実と理論の緊張関係」のあり方について検討しよう。前記した手続き(ア)・(イ)それぞれに即して検討する。
(ア)機構論における「理論」
まず、手続き(ア)から検討する。
機構の問題が「国家『理論』で検討される諸課題」の一つであるとすれば、かかる「理論」とは何かが、問題となる。前項で示したように、かかる「理論」は(ⅰ)問題提起の方向性、(ⅱ)研究の国家論的位置、(ⅲ)分析方法の把握の上で、不可欠の位置を占めていたと考えられる。
結論からいえば、かかる「理論」は、拙稿*31)で指摘したように〈引用2ーA〉に示した『共産党宣言』の記述であると考えられる。
石母田はこの記述を次のように言い換えている。
・〈引用2-B〉 『日本の古代国家』(一七四頁)
本来の意味の政治権力または国家権力は、一つの階級が他の階級を支配し抑圧するための「組織された強力」に他ならず…
ここでは、〈引用2-A〉の「政治権力」を、「政治権力または国家権力」としているが、これは意味をより明確にするためのものなので、基本的には〈引用2-A〉の記述が踏襲されて引用されていると見てよい。この〈引用2-B〉に続いて、〈引用1〉の「組織された強力」を国家の「本質的な」、固有の属性であるとする記述がなされており、行政機構論を必然化する根拠となっている。そもそも、国家の特性を「組織された強力」であることに求める見解は「国家史」でも提示されていた。また、行政機構論の内部構成も、〈引用1-B〉が記述された「第二節 『政ノ要ハ軍事ナリ』天武・持統朝」はもちろんのこと、第四節「古い型の省と新しい型の省」、第五節「古代官僚制」の第1~5項の論点が、「組織された強力」としての国家の特性の解明と対応関係にあることは指摘した通りである。さらに第一節「過渡期としての天智朝」の、(イ)冠位二六階制、(ロ)大氏・小氏・伴造等の区別と氏上の決定、それぞれにたいする大刀・小刀・干楯(弓矢)の賜与、(ハ)民部・家部の設定のそれぞれの意義を、国家機構の整備・官僚制の成立の観点から把握する手法も、根本的にはこの記述に基づくものであろう。
しかし、〈引用2-A〉を、前記の国家「理論」と見るには次のような問題がある。
「体系性」の欠如である。前記の『広辞苑』の規定を見るまでもなく、理論とは一般に体系的著作・知識を指す。この点からすれば、〈引用2ーA〉は、理論とは言い難い。そもそも、〈引用2ーA〉が記述された『共産党宣言』は、「共産主義者同盟」の綱領であって*32)、(分業化・専門化されたという意味での)学問的著作ではなく、ましてや「国家とは何か」を体系的に論じた国家に関する理論書ではない。実際、〈引用2-A〉以外に国家それ自体の性格について触れた箇所はなく、この記述は同書においても傍系的な、極めて断片的な記述である*33)。
にもかかわらず、筆者はこの記述を、機構論における国家「理論」と見てよいと考える。根拠は次の通りである。
第一に、「事実と理論の緊張関係」において、「理論」とはまず、(ⅰ)問題提起の方向性、(ⅱ)研究の国家論的位置、(ⅲ)分析方法を把握するものとして位置付けられていることである。前記の機構論の各論点との対応関係から言っても、石母田が機構論における(ⅰ)~(ⅲ)を見出す根本的「理論」となったのは、この〈引用2-A〉と考えざるを得ない。
第二に、前記のように、「事実と理論の緊張関係」における「理論」とは、第一義的には国家「理論」でなければならないが、『日本の古代国家』において、〈引用2-A〉に基づく〈引用2-B〉の「一つの階級が他の階級を支配し抑圧するための『組織された強力』」という記述ほど、「国家とは何か」についての見解を端的に示した箇所はない。
もとより、石母田が、『日本の古代国家』において、「西欧型」の「理論」に基づいて国家の特徴に触れた箇所は他にもある(別表参照)。例えば、№4では、『起源』に基づいて、国家の基本的属性として税制(97頁)・領域による人民の区分(105頁)が挙げられ、さらに№10ー196頁では、『ドイツ・イデオロギー』に基づいて、国家の基本的特徴のひとつが「支配階級の諸個人が、かれらの共同利害を主張する形態」である旨が述べられている。しかし、国家は、税制や領域による人民の区分とイコールではないのに対し、「一つの階級が他の階級を支配し抑圧するための『組織された強力』」という記述は、そのまま「国家とは何か」を示している。№10-196頁の特徴も、国家の〈引用2-B〉のような性格に基づくものであって、逆ではない。
「組織された強力」が、「国家の本質的な、固有な属性」(〈引用1〉)である以上、これらは当然と言える。恐らく、〈引用2-B〉の下敷きとなった〈引用2-A〉は、石母田にとって「国家とは何か」を最も端的に示した記述だったと考えられ、したがって、『日本の古代国家』全体を考えても問題提起の方向性を見出す上で不可欠の「理論」の一つと見てよく、まして行政機構論においては、そう考えざるを得ないであろう。
第三に、体系性の欠如は、〈引用2-A〉を「理論」に該当すると見ることを否定する根拠にならない。石母田が、『日本の古代国家』において(ⅰ)~(ⅲ)を見出したのは、ほとんどが、論理の体系ではなく、その中の断片的記述だからである。
例えば、前記の国家の諸特徴に触れた事例から任意の例を挙げれば、№4-97頁の「国家の属性と税制の成立」は、「改新」の史料批判の一環として、「改新」における「校田」の目的が税制の成立であることを論じる中で言及されている。言い換えれば、「校田」を税制との関係で論じることに、「校田研究」の(ⅰ)問題提起の方向性を見出し、(ⅱ)研究の国家論的位置、(ⅲ)(校田を基本的に税制と結びつけるという)分析方法が把握されたと言える。しかしながら、この記述は『起源』の論理体系とは直接には関係せず、その中の断片的記述が引用されているに過ぎない。もとより、「改新」を人民の「領域的編成」(「領域による人民の区分」)の成立と見る石母田が、『起源』の国家論の全体的体系に影響を受けていないとは言わないが、ここでは体系自体に(ⅰ)~(ⅲ)が見出されているわけではない。
ある程度、まとまった「理論」は『諸形態』だが、これも『日本の古代国家』では、断片的な記述が引用されるに過ぎない。例えば、『諸形態』によった認識として、著名な「初期の支配形態」の二類型(別表、№1)がある。「共同体の『共同性』が首長によって『代表』される型と、成員相互の関係として、すなわちなんらかの形の『民会』によって『代表』される型がある。」(一六頁)というものである。この認識は、在地首長制論のある意味でベースになった認識であり、同論・『日本の古代国家』の種々の論点と関連するが、少なくとも№1は首長の対外的機能について述べるために、この記述を引用している。したがって、マルクスが、この認識の典拠となった「共同性」の「代表」の問題に*34)に触れる際、本来の主題とした(1)小規模な共同体が独立・併存する形態と(2)労働そのものの共同性までが統一される形態という、共同体所有の二類型と直接に関わるわけではなく、(2)について述べる際、言及した断片的・傍系的記述を引用しているに過ぎない。
これは、体系の引用が、「理論」の「適用」に他ならない以上、当然と言える。石母田が述べるように、理論のほとんどは「西欧型」の国家から帰納されたものであり、アジアについて触れた『諸形態』も、アジア・歴史の専門的著作ではなく、しかも『経済学批判要綱』執筆のための草稿であるから、体系的に整理された記述とは言えない。「体系」それ自体を「適用」できない以上、(ⅰ)~(ⅲ)は断片的記述に見出されざるを得ないのである。したがって、〈引用2-A〉を機構論における「理論」と看做すことに、何ら問題はない。
以上から、機構論における国家「理論」とは、〈引用2-A〉と見てよいと考える。
(イ)機構論における論点・概念の基本的根拠
手続き(イ)について検討する。ここでは機構論における基本的な論点・概念の必然性の基本的根拠が、「内的連関」から得られているかを確認する。当然ながら、検討対象となるのは、「第四章 古代国家と生産関係」で言えば「総体的奴隷制」に当たるような、各節の論理体系において基本的位置を占める抽象的・理論的な概念・論点である(ただし、抽象度や理論的側面の比重は、各節の目的によって異なる)。すべての論点を網羅することは、結局、石母田機構論の論旨をたどることになるだけなので省略するが、基本的位置を占める論点が(イ)の手続きによって根拠づけられていることが確認できれば、石母田機構論の論点設定の基本的手続きについては確認できるであろう。
ただし、行政機構論の「第五節 古代官僚制」「第六節 官僚制国家と人民」については、手続き(イ)は必ずしも貫徹していないようである*35)。これは、現在、見ることのできる両節が草稿であり、本来、三分の一程度に圧縮されるべきものであったこと(三三九頁)によると考えられる。したがって、ここでは『日本の古代国家』に収録された「第一節 過渡期としての天智朝」~「第四節 古い型の省と新しい型の省」までを検討対象とする。
「第一節 過渡期としての天智朝」において、基本的な位置を占める抽象的・理論的論点は、「中央の国家機構の整備と官僚制の成立」と考えられる。これは、言い換えれば、なぜ、天智朝が国家機構論の枠の中で問題となるのか、という問題でもあり、機構論における本節の意義を規定すると言える。かかる論点の根拠は、六六四年(天智三)における、前記の、(イ)冠位二六階制、(ロ)大氏・子氏・伴造等の区別と氏上の決定、それぞれにたいする大刀・小刀・干楯(弓矢)の賜与、(ハ)民部・家部の設定の、三項目からなる改革の意義と内容が明らかになることに求められていると考えられる。「第二節 『政ノ要ハ軍事ナリ』天武・持統朝」のかかる論点は、前記の〈引用2ーB〉である。もとより、この見解は機構論全体に関わるが、この節においてそれが問題となるのは、「(1)『組織された強力』の『純粋で典型的な表現』である、公的な武装力の建設→(2)統一的な税制の成立→(3)国家機構の成立」という順序で、天武・持統朝における国家機構の成立を説明できると考えられているからである。
「第三節 東洋的専制国家 天皇制と太政官」の、かかる論点は「律令制国家が、全体としていかなる類型の国家であるか」である。この問題が取り上げられるのは、それが「基本的問題」であるにもかかわらず、「一致した意見または共通の立場さえ存在していない」(以上、第三節の引用は一九三頁)からである。この問題が「基本的問題」であるのは、類型的特質ー石母田の弁別で言えば、専制国家であるか貴族共和制国家であるかーが把握できなければ、太政官を中枢とする国家機構の意義・性格、その権力の特質を把握できない以上、当然と言える。なお、この論点は、〈引用2-B〉の見解からは、直接には導き出されないが、問題の重要性から石母田が「新しく創り出した」ものであろう。手続き(イ)の(2)の見解に基づいたものと考えられる。
「第四節 古い型の省と新しい型の省」は、「国家機構の体系」(二一四頁)を問題とするが、これはそれによって律令制国家が特徴づけられているからである。この節は『日本の古代国家』における古代行政機構論の一応の総括と言える節であるが、「理論的」著作がほとんど引用されていない*36)ことは、各論点及びその関連が「内的連関」によって根拠づけられていることを物語っている。
もとより、叙述のスタイルによって「理論」に基づくと見られる概括的記述が先行している場合はあるが、論点の必然性がその「適用」によって根拠づけられているケースは見られない。基本的に手続き(イ)によって、行政機構論が構成されていると考えられる。
〔Ⅳ.「石母田以後」の諸学説ー概要・「方法」・意義・問題点ー〕
1.「情勢」の変化と「支配の具体相の把握の緻密化」
本章では、「石母田以後」の研究史を検討する。
〔Ⅰ はじめにー本稿の課題と手法ー〕でも述べたように 基本的な論点となるのは、(a)学説を構築する際の基本的「方法」、(b)「情勢」の変化との関連、(c)問題点である。
ここでは、(b)「情勢」の変化との関連について補足しておく。前章で述べたように、石母田を古代国家論・行政機構論構築に駆り立てた最も主要な「情勢」は、「国家の『死滅』」であったと考えられる。しかし、一九八〇年代には、それが「歴史の議事日程にのぼっている」とした石母田の「情勢」認識の誤りが明らかになりつつあった。社会主義革命への支持も失われ、事実、一九八九年には「東欧革命」によって欧州の社会主義国の方が崩壊することになる。国内的にも、かつて石母田が「手負いの『怪物』」(四頁)と見た国家はその力を強め、「過労死」や前記した教育現場の荒廃に見えるように、その支配の矛盾はむしろ拡大して展開されていく。イデオロギー面でも、特に「戦後政治の総決算」を掲げた一九八二年の中曽根内閣成立以降、国家主義的な志向が強化される。
以上の「情勢」の変化は、古代史研究も、他の学問同様、社会主義の「夢」が潰える中で、如何に未来を描き、国家あるいはそれに関わる現象を論ずるかという困難な課題に直面する時代に入っていたことを示す。「石母田以後」の、とりわけ、一九八〇年代以降の諸学説は、かかる課題への対応の模索でもある。
かかる「情勢」下で重要な要請となったのは「支配の具体相の把握の緻密化」であったろうと考える。前記のように国家の支配の矛盾は拡大して展開したいたわけであるから、未来への模索は当然、必要となる。しかし、社会主義国の崩壊は、人類に共通する「あるべき未来像」が崩壊したことを示す。冷戦の崩壊とは、「未来を創る」という作業を、まずは一人一人がそれぞれの立場で行わねばならない時代に入ったということでもある。この際、重要となるのは、まず眼前で展開している状況が何なのかを把握することであろう*37)。過労死や教育現場の荒廃の例でいえば、心身を削ってまで働き、意味が実感できないのに学校に行かねばならないのは何故であり、このような現象は何なのかを把握することが要請されていたことを示している。これは、前記のように国家の在り方に関わるものであるが、石母田のように国家を生産関係の所産というように総括するだけでは対応できないのであり、その支配の在り方・具体相を緻密に把握することが要請されていたと考えられる。古代国家論においても、かかる要請に応える研究が必要とされていたと考えられ、生産関係・共同体論を直接の前提とする国家の「本質」論にとどまらない「支配の具体相の把握の緻密化」が要請されていたと考えられる(以下、この「支配の具体相の把握の緻密化」の要請を、「要請」とする)。
以上の「情勢」・「要請」は、今日においてもなお存在する。というより、「新自由主義」の台頭で、企業人としても明確な未来像が描けなくなった現在、「情勢」はますます混迷し、それに応じて「要請」は強化されている。したがって、以上の「情勢」・要請に応える上での、「石母田以後」の学説の意義を把握することは、「事実と理論の緊張関係」の現代的意義を把握する上で重要と言える。
以上の認識から、本稿では基本的に一九八〇年代以後に提起された学説を検討対象とする(したがって、ここで言う「石母田以後」とは、さしあたり同年代以降、「情勢」の変化を受けて提起された学説ということになる)。内容面から、対象となるのは、まず(ア)第三権力論、(イ)畿内政権論である。これらは、石母田同様に古代国家論を構築したものであり、それがどのような「方法」により、「情勢」変化の中でどのような意義を有しているかは、「『事実と理論の緊張関係』の現代的意義」の把握にとって重要と言える。次に、(ウ)王権論が挙げられる。これは行政機構論とかかわりが深いからである。最後に、(エ)「一国史」批判、(オ)首長制批判を取り上げる。これらは、石母田批判として提起されており、本稿の検討目的からも重要となる。
ここでは、まず
(1)学説の概要
(2)「方法」
を概括した上で、主に「情勢」「要請」との関連で
(3)意義
を把握する。その上で
(4)問題点
を把握することにしたい。
2.第三権力論
(1)概要
第三権力論は、在地首長の下位の村落首長を共同体の支配者と見、支配階級の一部であるそれが国家機構に編成されていないことから、律令制国家を、社会を分裂に追い込む村落首長の私富追求を規制するために成立したものとする。かかる規制は、村落首長の支配を維持することであり、従って、律令制国家は支配階級の利害を体現する存在ではあったが、外見上は、支配階級・被支配階級を超えた「第三の権力」ということになる*38)
ここでは、主要な提起者である大町健の学説*39)を取り上げる。
(2)「方法」
「方法」論的特徴としては、「事実と理論の緊張関係」の重視があげられる。大町は、この緊張関係を特に強調しており*40)、ここで検討する学説の中では石母田の「方法」論を最も忠実に継承しようとしたものと言える。
(3)意義
「情勢」の変化との関連では、前記のように国家の支配の矛盾がむしろ拡大していく中で、石母田の「情勢」認識の誤りを受けつつ、国家の「本質」・機能に関する議論を新たに提起した点に意義があると言える。
石母田は、国家を支配階級の統治・抑圧のための装置と見たが、これは、そのまま「現代国家は打倒の対象である」との見方につながり得る。しかし、「国家の『死滅』」や社会主義革命への支持が失われている「情勢」においては、かかる見方自体が一つの検討対象でもある。「外見上」との注記を付しているとはいえ、国家が支配階級・被支配階級を超えて社会の分裂を抑止するという形で、国家の「本質」・機能について議論を提起したことは、国家の支配というものを古代の事実を踏まえて改めて考えさせる意義を有していたとすべきであろう。もとより、単純に敷衍すれば、国家の支配の正当化につながりかねないが、「情勢」変化に対応する意義があったとすべきであろう。
また、「方法」論の問題としては、「事実と理論の緊張関係」が強調された点が重要と言える。後述のように、一九八〇年代以降の諸学説においてこの問題に言及したものはほとんどなく、仮に第三権力論が存在しなかったとしたら、古代史学界は、古代国家研究の基本的な「方法」を見失うところであったろう。
その他、既に指摘があるように*41)、石母田説の弱点とされた、国家成立をもたらす首長制の内部矛盾を、村落首長の私富追求による共同体の秩序の破壊として具体化した点も、当然ながら意義として挙げるべきであろう。
(4)問題点ー「事実と理論の緊張関係」・「情勢」への対応の不足-
問題点としては、(1)「事実と理論の緊張関係」、(2)「情勢」への対応が、不足していると考えざるを得ないことを指摘し得る。
まず、(1)の「事実と理論の緊張関係」の不足について。
石母田の場合は、(ⅰ)問題提起の方向性、(ⅱ)研究の国家論的位置、(ⅲ)分析方法の把握の上で、不可欠である「理論」の内、少なくとも第一義的意義を有するのは国家「理論」でなければならない。そのため、石母田にとって「国家とは何か」を最も端的に示したと見られる、〈引用2-A〉の『共産党宣言』の記述は、『日本の古代国家』全体においても不可欠の意義を有し、行政機構論は必然化される。
しかし、大町の場合、〈引用2-A〉や石母田機構論*42)は、このような「理論」と位置付けられているわけではない。大町が、(ⅰ)~(ⅲ)を見出したのは、「序章 在地首長制論の成果と課題」によれば、基本的には、石母田が「第四章 古代国家と生産関係」で展開した在地首長制論と吉田晶の村落首長制論*43)であったと考えられる*44)。必然的に大町の第三権力論では行政機構論が存在しない。
これは、古代国家論としての大町の第三権力論の、基本的欠陥とみるべきと考える。以上の現象は、大町が、石母田との「事実と理論の緊張関係」を継承しようとしつつも、その内実は石母田とは異なるものとなったことを示している。もとより、「事実と理論の緊張関係」の内実は、研究状況によっても変わる*45)から、その変化自体は問題とされるべきではない。しかし、行政機構論は、『日本の古代国家』においてはそれを欠けばもはや「国家論」ではないとさえ言えるほどに、不可欠の位置付けを与えられており、国家が「組織された強力」であることを否定できないとすれば、当然ながら、その位置付けは継承されるべきであろう。すなわち、第三権力であることを論証できれば、古代国家を論じ得たということにはならないと考える*46)。
以上は、「国家とは何か」に迫るための、(ⅰ)問題提起の方向性が限定的であったことーすなわち、「理論」の把握が一面的であることーを物語っており、「事実と理論の緊張関係」が不足していると判断せざるを得ないであろう。
次に、(2)「情勢」への対応の不足について。
この点は、行政機構論は「組織された強力」たる国家の支配の具体相を把握する上で不可欠であり、したがってその欠如が「要請」への対応を不可能にしていることを示せば十分であろう。特に、社会主義国の問題が顕在化していく一九八〇年代においては、行政機構論の重要性はますます強まっていったはずである。また、第三権力論自体も、国家の支配というものを考えさせる意義を有していた以上、石母田国家論以上に行政機構論を不可欠としていると考えられる。したがって、その欠如は、「事実と理論の緊張関係」を重視する古代史研究者が、石母田が「文革」を受けてー結果として、その評価は誤りと考えられるがー、古代国家論を構築したような、「情勢」に対する明敏な反応*47)を失っていたことを示す。すなわち、石母田の「方法」を踏襲しようとしつつも、この立場の研究者は「歴史家たちの住むせまい世界」(四頁)の住人になっていったと考えられる。発表当時、村落首長制論・第三権力論が古代史学界においては必ずしも主流とはならず、後述の畿内政権論や「王権」論の方がむしろ盛行したのは、このような欠陥が、漠然とではあるが古代史研究者に認識されていたからであろう*48)。
3.畿内政権論
(1)概要
律令制国家の本質を「大化前代」以来の畿内政権と見る学説である。律令制国家の支配は、畿内政権が畿外の政治的諸集団を制圧した結果、生じたものとされる。一九五〇年代に関晃が提起し*49)、一九八〇年代に、石母田の影響も受けつつ、主に吉田孝*50)・早川庄八*51)が展開し、一九九〇年代に入って大津透*52)が継承した。
(2)「方法」
この学説の、「方法」論的特徴の第一は、「理論」が忌避ないしは否定されていることであろう。
例えば、石母田が、(ⅰ)~(ⅲ)を見出すべき「理論」と位置付けたのは、基本的にマルクスの見解であったが、これらの学説では否定的な位置付けとなっている。提起者の関晃はマルクスのアジア論によりつつ日本の古代国家・社会の特質を捉えることに終生、否定的であった*53)。吉田孝の学説の特徴の一つは、日本における国家成立の主要因を、事実上、国際的関係に求める点にあった*54)が、これは国家成立・存立論における生産関係・共同体論の否定を意味し、マルクス批判という意味では関よりも徹底しているとも言える(ただし、吉田のこの見解は誤りであることが、既に指摘されている*55))。早川は、自らを「マルクス史学とは無縁な、もしくは無関係な私」*56)と公言し、大津も、ほとんど関心を示していない。これは石母田生産関係論も、(ⅰ)~(ⅲ)を見出すべき対象とは看做されなかったことを示し、「在地首長制」といった用語は使われながらも、石母田とは異なる内容となっている*57)。
一方、畿内政権論の立場から、代わるべき「理論」が示されているとは言い難い。わずかに吉田孝が、社会人類学の「理論」を引用しているが*58)、畿内政権論の立場に立つ者の中では例外的であり、同論の間でも継承されているとは言えない。
もっとも、単に「われわれが日本の古代史を考えてゆく場合に、ウェーバーやマルクスの論述を…日本の古代社会はそこにあげてある二つの道や三つの型の中のどれに当たるかを最初にまずきめてかかり、そこから出発して実際の日本古代史の内容を考えてゆくというやり方で利用することは、果たして妥当であろうか」*59)というだけであれば、「理論」の「適用」を否定する石母田と変わりはない。しかし、石母田がこのような「適用」を否定し、概念・論点の必然性を「内的連関」によって示す「方法」をとりつつも、「理論」に(ⅰ)~(ⅲ)を見出す意義を認めていたのに対し、この学説は基本的にそのような意義を認めていない。
特徴の第二は、史料の検討の周密さである。関も、「改新詔」はじめ関係史料の徹底した分析を不可避とする「大化改新」に関する詳細な研究を発表していた*60)が、早川・吉田も史料の一字一句に至るまでの徹底した検討を行っている。注目すべきは、検討手法や検討史料においても新たな領域を開拓した点で、例えば吉田は古訓への注目や中国史料と日本史料の比較の徹底といった新たな手法での史料検討を行った。早川は律令制国家の公文書のみならず、従来、古代史研究ではさほど重視されなかった儀式書・古記録なども、前記の周密さで検討している。大津も、吉田の中国史料の検討や早川の古記録・儀式書などの検討をさらに徹底して行っている。史料が限定されがちな村落首長制論*61)と異なり、新史料の開拓という点では大きな寄与を果たしたと言える。
(3)意義
「情勢」との関連については、吉田孝がコメントしている。すなわち、「東欧革命」進行中に刊行された『石母田正著作集』第四巻の「解説」で、「いま私たちは人類史上の大転換期を迎えつつある。」(三〇四頁)と述べている。しかし、一九八三年の『律令国家と古代の社会』発表時から、石母田の段階との「情勢」の相違は強く認識していたのではないだろうか。国家成立・存立論における生産関係・共同体論の意義の否定は、石母田と同様にマルクスに(ⅰ)~(ⅲ)を見出したのでは時代の要請に対応できないとの認識の表れとみられ、国際的関係を国家成立の主要因としたのは、世界情勢の激変の中で、古代日本にとっての「世界」であった東アジア世界との関わりの中で、古代国家を捉える視角が強く要請されているとの問題意識の表れと考えられる。他の論者は「情勢」について特にコメントしているわけではないが、社会主義国の衰退・崩壊という「情勢」の激変に、一定度、対応する意義は有していたと考えられる。
「要請」に一定度、対応する意義があったことも指摘できる。マルクスが否定的な位置付けになっているので、生産関係が検討対象となることはないが、(1)官僚制、(2)公文書、(3)親族組織、(4)財政制度などの諸側面が、前記の周密な史料検討により分析されており、「支配の具体相」に関わる知見が豊富に提示されていることは認めるべきであろう。
畿内政権論は、第三権力論の「情勢」「要請」への対応の不足を補完する意義を持っていたと考えられる。畿内政権論については、第三権力論の立場から批判が提起されつつも*62)、八〇~九〇年代に盛行したが、このような意義が多くの研究者に可能性を感じさせたためであろう。
(4)問題点
問題点としては、「事実と理論の緊張関係」が存在しないことを指摘できる。(ⅰ)~(ⅲ)を見出すべき「理論」が基本的に存在しない以上、当然であるが、必然的に、石母田においては第一義的意義を有していたであろう国家「理論」との関係も不明である。
そもそも、律令制国家が畿内政権であることが、「国家とは何か」を考える上でどのような意義を有するのかは明らかにされていない。言い換えれば、国家「理論」にたいする(ⅰ)問題提起の方向性が把握されているとは言い難い。また、吉田孝が、国家成立の主要因を国際的関係に求める過ちを犯したのも、根本的にはかかる「理論」との関係が曖昧であることが原因であろう。
また、(ⅱ)研究の国家論的位置、(ⅲ)分析方法も把握されていないので、「支配の具体相の把握の緻密化」にもー一定の意義はあるがー成功しているとは言い難い。機構論に関する例を挙げれば、『日本古代官僚制の研究』を発表した早川庄八は郡領の「試練」について初めて本格的に追究したが*63)、本来、在地首長層に対する「意識の内部の支配」の基本的手段たる「試練」の意義を、畿内政権と畿外の在地首長層との「外交」と捉える過ちを犯すことになった*64)。「意識の内部の支配」の問題という、「試練」の位置付けが踏まえられず、「外交」という、機構論のものではない概念が、その意義を捉える基本概念となっている点に、国家論的位置付け、「方法」論の混乱が示されている。吉田孝も、太政官に対する八省の独立性の高さを素材に八世紀初頭における「機構による支配」の未成熟を指摘しているが*65)、太政官と八省の関係の問題とは、基本的に「権限配分に関する意識的・計画的原則」の問題であることが認識されていないので、「機構による支配」の問題は「未成熟」との指摘にとどまりその後、展開されていかない。当然ながら、これらの研究では国家機構に関わる諸現象の「内的連関」が把握できていないことを示している。
畿内政権論が、第三権力論を補完するものとして一定度の意義を有していることは確かであるし、史料検討の周密さは敬服に値するが、この学説によって、古代国家の特質・本質をとらえ、「情勢」に対応することは不可能と考えられる。
4.「王権」論
(1)概要
天皇のみならず、太上天皇・皇后・皇太子などの各要素によって構成される「王権」を分析する学説である*66)。
(2)「方法」
その「方法」については、何らかの共通見解があるわけではなく、論者によって異なっているのが実情であろう。「王権」の語義・概念規定についても、必ずしも一致しているわけではない。ただ、古代国家の権力中枢を天皇だけでなく、前記の諸要素と天皇との、補完と対抗の関係でみる「多極化」の視点*67)は、ある程度、共通している。
(3)意義
「情勢」との関係では、一九八九~九〇年の、昭和天皇の死去・現天皇の即位に伴うマスコミの過熱報道、大喪の礼・大嘗祭の挙行との関係が重要と言える。「王権」論は、この「情勢」を直接、受けて提起されたものではないが*68)、生産関係・共同体の分析のみによってそれに対応できると考える研究者は少数であったと考えられる。、「王権」論の形であらためて古代国家における天皇制の特質・機能を捉えることは、このような「情勢」に対応する意義があったと考えられる。
「要請」に応える意義があったことも認めるべきであろう。前記の諸要素は、『日本の古代国家』は取り上げられておらず、その分析が「支配の具体相の把握の緻密化」に寄与する意義を有することは否定できない。「王権」論も、畿内政権論同様、盛行したが、かかる意味で第三権力論を補完する意義があったと考えられる。
(4)問題点
問題となるのは、国家「理論」との関係が曖昧であること、したがって、歴史的事実とそれとの緊張関係が存在しないこと、が挙げられる。
「王権」論の場合、論者にもよるが、「理論」一般が必ずしも忌避されているわけではない。例えば、荒木敏夫はプリチャードの、王と王権を区別すべきとの議論(一種の「理論」)を引用している*69)。
しかし、これは国家「理論」ではない。したがって、この「理論」との関連を追究しても、「王権」論から、如何に「国家とはなにか」という問題に提起を行うかという、(ⅰ)問題提起の方向性は明らかにならない。これは「王権」論一般に共通する欠陥であり、あえてこの問題に提起を行おうとした学説は、村落首長制論を機械的に「適用」する結果になっている*70)。当然ながら、(ⅱ)研究の国家論的位置、(ⅲ)分析方法も不明である。
以上の問題は「王権」論に致命的欠陥をもたらしたと考えるべきである。なぜなら、古代国家論において、「王権」論は独自の(ⅱ)国家論的位置を占め得ず、したがって、「王権」独自の(ⅲ)分析方法は、基本的にあり得ないからである。すなわち、「王権」論という範疇・ジャンルは、古代国家論においては本来、存在し得ないと考える。
根拠は、天皇・天皇制は支配層を離れて自己運動することはなく(註(1)書、二六三頁)、太上天皇などの「王権」の他の構成要素もこの点は同様と考えられることである。このことは「王権」に関わる現象の意義とは、支配層全体の中での「王権」の各構成要素の位置・機能を踏まえて把握すべきであり、「王権」それ自体の分析によっては析出できないことを示している。
筆者は、「王権」自体の個別的分析ー言わば、「王権」研究ーが必要な場合があることは否定しないがー、それは機構論の枠の中で行われるべきと考える。「王権」の各要素の位置・機能を支配層の中で捉えようとする時、重要なのは支配層の結集が、(α)天皇との人格的身分的結合関係と(β)官職体系と官僚制の二つの秩序を媒介に行われていることである*71)。したがって、前記の位置・機能もかかる二つの秩序との関係で捉えるべきと考えられる。(α)は、支配層の具体的歴史的形態をも規定し、(β)は彼らが専有する国家機構の古代における歴史的形態であるから、結局、「王権」の問題は機構論の枠の中で捉えるべきということになる。「王権」論が、「要請」に一定度、対応する側面があることは否定しないが、それは機構論の中の個別的研究として位置付けるべきで、そうでなければ、かかる「要請」に本来の意味で対応することもできないであろう。
また、「多極化」の視点も再検討の余地があると言える。上記の(α)・(β)の秩序の核にいるのは天皇である。「王権」の各要素の特質も天皇制の歴史的特質に基本的に規定されたと考えるべきで、(α)良人共同体の首長、(β)統治権の総攬者との天皇制の歴史的特質を踏まえなければ把握できないと見るべきである。その意味で、「王権」の各要素は基本的に天皇制の特質に准ずる存在であり、「補完と対抗」の関係にある場合があるとしても、それはあくまで部分的・個別的な問題である。
5.「一国史」批判
(1)概要
「一国史」の内実については、論者*72)によって相違があるだろうが、近現代に成立した「国民国家の枠組み」の中で歴史を捉えることが批判の対象になっていることは、大方の一致するところであろう。
石母田批判としては、(1)民族が国家成立の前提となっている点*73)、(2)「大化前代」における大王・オオキミを介さない在地首長層の対外「交通」が踏まえられていない点、(3)対外「交通」の経済的影響が掘り下げられていない点*74)、などが挙げられている。
(2)「方法」
「方法」については、これも一定の共通見解があるわけではないが、(a)主権の行使主体が政府に一元化され、(b)政府の統治領域が国境によって「外」と明確に区分され、(c)統治対象となる領域内の人間が、支配層・民衆ともに「国民」「民族」として編成される(ただし、編成される人間は政治的・経済的・文化的に多様であるので、「国民」の条件に適合しない「マイノリティ」などが生まれることになる)、という近現代の国民国家の在り方*75)を過去の国家に投影させ、「歴史像」として国民国家を再生産させることを批判の対象としている点は、共通していると言えるであろう。
前記の石母田批判のうち、(1)は主に(c)、(2)は(a)の投影に対する批判と考えられる。(3)は、倭王権が鉄を朝鮮半島に依存したことを以て「古代の分業や生産関係が『一国』を超(ママ)えた多様な社会に成り立っていた事実」*76)を強調するもので、太字部から主に(b)の投影に対する批判と考えられる。
また、(1)は、第三権力論を提起した大町健によって展開されており、大町はここでも「事実と理論の緊張関係」を強調している*77)。
(3)意義
「一国史」批判は、『日本の古代国家』発表時にも存在したが、特にクローズアップされたのは一九九〇年代に入ってからである*78)。背景となる「情勢」としては、冷戦終結後の、(ア)国境に捉われない政治・経済・文化などの諸活動の進展、(イ)それへの反動としてのナショナリズムの台頭への対応の二点が挙げられよう。(ア)の具体例としては、グローバリゼーションの進展、地域紛争、NGOなどの市民組織の台頭、以上とも関連する「国民」の枠に収斂されない「マイノリティ」などの人権擁護の強化などが挙げられ、(イ)の具体例としては「教科書攻撃」*79)などが挙げられる。
石母田古代国家論に、「国民国家像」を再生産させかねない部分があることは確かで、前記の「批判」(1)は、この点を端的に示していよう。石母田に対する「一国史」批判とは、かかる冷戦後の「情勢」に対応しうる「古代史像」を構築するために、石母田古代国家論の問題点を明らかにしようとした点に意義があったと考えられる。
(4)問題点
基本的な問題点としては、「王権」論同様、国家「理論」との関係が曖昧であること、したがって、歴史的事実とそれとの緊張関係が存在しないこと、が挙げられる。
まず、石母田批判の(1)民族が国家成立の前提となっている点について。この批判を展開した大町健は、前記のように「事実と理論の緊張関係」を強調しているが、民族の問題が「国家とは何か」という問題とどのように関わるのかー言い換えれば、後者の問題に対する(ⅰ)問題提起の方向性をどのように設定し、前者の問題の(ⅱ)国家論的位置付けをどのように把握しているのかーが、十分に明確にされているとは言い難い。もとより、国家・古代国家論における論点への関説はあり、(1)の問題は、石母田が(1)’国家を二次的とはいえ独自の生産関係とみた点、(1)”国家的支配を支配の制度化とみた点の、少なくとも「一つの要因」*80)とされている。言い換えれば、(1)’(1)’’の見解を修正する点に、(1)民族の問題からの(ⅰ)問題提起の方向性、(ⅱ)国家論的位置があることになる。しかし、(1)民族の問題は、(1)’(1)”の論理的前提として位置付けられているわけではなく、「一つの要因」ではあっても、これを批判したからと言って、(1)’(1)”の見解が直ちに修正されるわけではない。
また、「理論」と呼べる議論も参照されているが、そもそも石母田が想定したような「理論」とは異なることが指摘できる。すなわち、古代の諸事実からの(ⅰ)問題提起の方向性を見出し、その(ⅱ)国家論的位置、(ⅲ)研究方法を把握し、かつかかる諸事実の「内的連関」を把握するために不可欠とされた、「理論」とは言えない。
大町は、「民族とは何か」という問題に関して「理論」を参照しているが*81)、それは、主としてヨーロッパのNationの成立に関する議論、文化人類学のエスニック・グループに関する議論であり、基本的に近現代の「集団」プロパーの議論である。したがって、古代国家・社会の諸事実とは、直接には関わらず、前記のような意味での「理論」とは言い難い。実際、結論になるのは、Nationやエスニック・グループなどの「民族」は、近代国民国家の成立とともに「創出」されたものであって、前近代には遡らないというものである。存在しない「民族」から、古代国家・社会を論ずることはできないから、これでは(1)民族の問題の、(ⅰ)問題提起の方向性、(ⅱ)国家論的位置を否定しているに過ぎない*82)。実際、前記の(1)’(1)”の見解は、これまでも独自の手続きによって批判されてきており*83)、(1)民族の問題の批判による独自の論点とは言い難いから、(ⅰ)(ⅱ)の否定と対応するものとも言える。
以上は、「事実と理論の緊張関係」の内実が、石母田とは基本的に異なるものになっていることを示している。しかし、これでは、(ⅰ)~(ⅲ)及び「内的連関」が把握できないから、古代国家・社会論の「方法」としては欠陥があると言わざるを得ない。
次に、(2)「大化前代」における大王・オオキミを介さない在地首長層の対外「交通」が踏まえられていない点、(3)対外「交通」の経済的影響が掘り下げられていない点への批判について。
(2)は古代国家論の一部として提起された対外「交通」論の問題となるが、ここで問題とされる在地首長層独自の対外「交通」が、どのように位置付くのかは明らかにされていない。言い換えれば、この問題からの(対外「交通」論を通しての)(ⅰ)問題提起の方向性、その(ⅱ)国家論的位置が明らかにされているとは言い難い。必然的に、この問題は現象の指摘にとどまっており、大王が倭を代表して行う「外交」といかなる関係にあるのか、その独自の意義はどこにあるのか、といった点は明らかにされていない。また、この批判を展開した田中史生は、その後、この批判を前提の一つに「アジアンネットワーク」研究を提起したが*84)、結論は「結局のところ、…国際交流の世界にあって、そのあり方や歴史を規定する要因は、政治的関係から個々の人間関係にいたるまで、極めて多様で多層的で複合的であった」(二二三頁)という、「内的連関」の把握を放棄した非歴史的説明に終わっており、「アジアンネットワーク」の(ⅲ)分析方法が把握できなかったことを露呈している。もとより、「アジアンネットワーク」研究は、後述の首長制批判同様ー(2)の在地首長層独自の「交通」に見えるようにー、律令制国家(倭王権)の国家的制度以外の現象・事物を対象とする場合が多い。したがって、国家的位置付け((ⅱ)国家論的位置付けではない)が不明な場合が多く、「内的連関」の把握は実証それ自体による部分が多くなる。したがって、国家「理論」との関連を踏まえるだけでは、(ⅲ)分析方法の把握には限界があるが、(2)の問題に関しては、最低限、大王の「外交」との関係などは踏まえなければ、やはりその独自の意義を踏まえるのは不可能であろう。(ⅲ)分析方法の未把握は、やはり(ⅰ)(ⅱ)の不明確さによる部分が大きいと思われる。
(3)については、鉄の供給の朝鮮半島への依存を以て、分業のみならず生産関係をも「一国を超えた多様な社会」から成り立っていたとするもので、この生産関係をも「国境」を越えるとする点が、(b)の批判としては重要と思われる。しかし、これは成立し難いであろう。例えば、石母田は、生産関係の具体的形態として、徭役労働と貢納を挙げたが*85)、鉄を供給しているからと言って、朝鮮半島の民衆が列島内の在地首長層にこれらを課せられていたとは言えない。生産関係の具体的形態の理解は、その後の村落首長制論の展開などによって変わってきているが*86)、単に鉄の供給を以てその析出の根拠とすることはできないことは明らかである。この批判は、「多様性」の追求のあまりに社会論・国家論を否定した結果となっており、前記の「アジアンネットワーク」研究において特に取り上げられていないのも、当然と言うべきであろう。この原因も、国家「理論」における生産関係論の位置・内容が踏まえられていないこと、言い換えれば、国家「理論」と生産関係・鉄の供給との関連が曖昧にされていることにあると考えられる。
以上、「一国史」批判の問題点として、国家「理論」との関係が曖昧であることを指摘した。もとより、国家「理論」とは古代から現代の国家にまでつながる国家の一般的性格を問題にするものである。一方、「一国史」批判とは、前記のように近現代の国家像の過去への投影を「批判」する。とすれば、国家「理論」の関連の強調は「一国史」を再生産させかねないとの危惧もあるかもしれない。しかし、それは全くの誤解である。そもそも、「一国史」批判とは「国家とは何か」という問題への接近を、少なくとも主要な目的の一つとするもので*87)、国家論自体を否定するものではない。大体、「内的連関」を把握できなければ、古代の諸事実の意義をつかむことができず、「歴史的事実の集積」にとどまらざるを得ない。国家「理論」との関係の曖昧さは、「一国史」批判の基本的問題点とせざるを得ないであろう。
6.首長制批判
(1)概要
石母田が、律令制国家の支配の基礎である共同体の歴史的特質を把握するために構築した在地首長制論を批判する学説である。在地首長制論の基本的論点は、「共同体の共同性を首長が『代表』する」専制性にあるから、基本的議論はこの点に関するものになる。
ここでは、古代村落を分析した田中禎昭の研究*88)を取り上げる。田中(禎)は、石母田が「一個の共同体」*89)(「集落共同体」)として存在を認めつつも、「首長制(または国家)の内部の問題」とした、「民戸の『自立性』」の問題を取り上げる。この石母田の理解は、従来の村落論・村落首長制論においても、「集落共同体」自体の結合の特質が軽視されるとして批判の対象となってきた。しかし、長老制的・年齢階梯制的編成、同族的・地縁的結合などの自然制的秩序を有し、専制的な首長制的秩序とは異なる特徴を有する「集落共同体」自体の結合は、かかる研究においても捨象されてきており、それ故、村落は首長制的秩序が貫く場とされてきた。この研究は、かかる結合に着目することで、新たな村落論・共同体論を構築しようとしたものである。
具体的には*90)、古代村落における年齢集団を「ヨチ」とし、この「ヨチ」を包摂する「サト」を「民戸」(民衆・個別経営)の相互関係として構成される集団とする。そして、かかる集団の担う秩序が、村落首長(田中(禎)の用語では「在地支配層」*91))による首長制的秩序に包摂されず、独自の位置を占めていたとする。必然的に、古代村落は首長制的秩序と「サト」的集団による秩序の二元的構造からなることになり、前記の専制性は批判されることになる。
(2)「方法」
「方法」としては、石母田の「事実と理論の緊張関係」のような形で整理されているわけではないが、特徴の一つとして、生産関係論ではないことが挙げられる。すなわち、「年齢集団」の存在、その特質と社会的機能、それが帰属する「サト」の秩序の社会的位置は、集団それ自体、農業労働、集団構成員の意識、儀礼、婚姻、田地経営などの分析によって析出されている。勿論、生産関係に関わる部分もあるが、基本的にはその析出を目的としたものではない。多様な視点・素材から古代村落を分析する「方法」が採用されている。
(3)意義
この研究の場合は「情勢」「要請」との関連は、明示されているわけではない。しかし、村落・共同体論ではあっても、生産関係論ではなく、これらに一定度、対応する意義があることは指摘できるであろう。
例えば、前記のように、「情勢」が混迷を極める中、「古代の民衆が如何に生きたか」を追究する研究は社会的意義を増していたと見られる。しかし、石母田は生産関係の分析を共同体論の主たる課題としたために、村落・民衆の多様な諸活動を十分に取り上げたとは言い難い*92)。生産関係ではなく、村落の多様な活動をクローズアップした田中(禎)の村落論はかかる「情勢」に応える意義があったと言える。また、「要請」への対応を主眼とするものではないが、それへの対応においても重要と考えられる。
他に、検討史料の多様化が指摘できる。村落首長制論の場合は、前記のように検討史料が限定される傾向にあったが、田中の研究においては、『万葉集』・『風土記』・『古事記』・『日本書紀』・木簡・律令など多彩な史料が駆使されている。古代村落論におけるこのような傾向は、この研究以前から存在するが、このような成果を踏まえ、一個の古代村落論を構築した意義は認められる。
(4)問題点
まず、畿内政権論・「王権」論・「一国史」批判同様、国家「理論」との関係が明示されていない点を指摘できる。国家は「サト」の集団的秩序と首長制的秩序の矛盾を、後者を擁護しながら止揚する存在とされるにすぎず、その支配の具体相との関連、引いては「国家とは何か」という問題との関わりは具体的に明らかにされているわけではない。この点は、石母田共同体論とは明らかに異なっている*93)
もっとも、年齢集団たる「ヨチ」やそれを包摂する「サト」は、必ずしも国家的制度ではなく、国家から一応、離れて独自の存在形態を有していたと考えられる。したがって、国家「理論」によって(ⅰ)問題提起の方向性、(ⅱ)研究の国家論的位置を把握しても、それのみではむしろ、その存在形態の一面しか把握できない可能性が、機構や「王権」に関わる諸現象よりも高くなる。したがって、直ちに(ⅲ)分析方法が示されるわけではない。また、共同体論は、そもそも、石母田においても「国家とは何か」を直接示した国家「理論」によって構築したわけではなく、『諸形態』のアジア的共同体論や人類学における首長制論など、それ自体は国家「理論」ではない「理論」を媒介としつつ(ⅰ)~(ⅲ)及び「内的連関」を把握しているのである。したがって、国家「理論」との関連の不明確さは、直ちに、村落・共同体論構築の上で致命的欠陥になるわけではない。
問題は、言うまでもなく、「ヨチ」「サト」に体現される「民戸の『自立性』」が、専制的な首長制的秩序に対して独自の位置の占めるとする古代村落論が成立するかにある。結論から言えば、筆者は田中(禎)の村落論は成立しないと考える。
その最大の根拠は、「所有とくに土地所有」*94)の問題の検討が不十分だからである。
首長制的秩序とは異なる特徴を持つ「集落共同体」の存在を認めつつも、石母田が、それを「首長制内部の問題」とする(当時の共同体の基本的特質を首長制論によって把握する)のは、田中も指摘するように*95)、「集落共同体」が
(1)所有とくに土地所有の主体たり得ていないこと
(2)首長との権力関係の中で法的主体としての位置を占めていないこと
の二点であり、特に、主要な根拠は(1)である。もっとも、古代の、村落と生産関係の歴史的特質を「所有とくに土地所有」を基礎に論じる手法は、その後の村落首長制論の展開によって変わってきているが*96)、「ヨチ」「サト」による集団的秩序が、首長制に対して独自の位置を占めているとするためには、やはりこの点を、その後の研究蓄積を踏まえて、事実と理論によって批判しなければならない。
しかし、田中(禎)の研究では特にこの点は問題とされていない。もとより石母田在地首長制論提起以後の、古代村落論の研究史、それによって提示された諸事実が詳細に整理され*97)、
〈引用1〉
(引用者註、古代村落論の)問題は、(A)首長制『内部』に包摂された『自立』できない村落という、共同体と国家の「アジア」的特殊性の解明を試みる(B)石母田氏に起源する(C)古代村落の理論的把握の再検討に連なる諸課題として提起せざるを得ない。(七二頁)
との結論が導き出される。すなわち、石母田の、村落を「首長制内部の問題」とする理解(A)が、批判の対象となる(C)。しかし、その根拠は
〈引用2〉
(A)在地社会の首長制的秩序という論理的前提から「村」の位置を論じるのではなく、(B)逆に民衆「相互」の諸関係・集団的秩序の展開を共同体論として構築していくなかから、(C)各段階の首長の「位置」と国家成立を問題にし得る新たな村落論が求められている(同頁)
との記述に端的に示すように、「在地社会の首長制的秩序」が村落論・共同体論の「論理的前提」になっているとの理解である(太字部(A))。
〈引用2〉に明らかだが、この理解では(1)は問題とされていない。すなわち、田中(禎)の首長制批判は(1)への批判を出発点にするものではない。
また、そもそも〈引用2〉の「批判」は、石母田批判とは言えない。石母田はあくまで「内的連関」を基本的根拠とする論点及びその相互関連によって首長制論・共同体論を構築したのであって、「首長制的秩序」が「論理的前提」になっているわけではないからである。民衆「相互」の諸関係・集団的秩序を把握し(同(B))、その中で首長の「位置」・国家成立を論ずる(同(C))という手法は、「内的連関」を重視した石母田と、基本的には同じ手法とみるべきである。太字部(A)の問題は、石母田に「起源する」(〈引用1〉太字部(B)部)とされているが、首長制が「論理的前提」となったのは、ー「民戸の『自立性』」の問題が捨象されていったことが端的に示しているようにー石母田説というよりは、それが所与の前提となったその継承者・批判者たちであろう。したがって、石母田以後の学説に対する批判としては有効であっても、石母田批判とは言えず、かかる検証から石母田説・首長制論の本来の問題が析出されているとは言えない。以上は、田中(禎)の研究においては、石母田批判・首長制批判という論点自体が「内的連関」からは生みだされていないことを示している。
必然的に、「サト」的集団の、村落首長が体現する首長制的秩序に対する独自の位置は実証されていない。この点の実証は、(ア)農耕儀礼、(イ)婚姻、(ウ)経営の三点の検証によって行われているが、(ア)~(ウ)がなぜ、「サト」的集団の「独自性」を把握するための指標となるのかは、理論的にも実証的にも明らかにされていない。とりわけ、(1)の「所有とくに土地所有」と比べて問題なのは、村落の生産・再生産における機能がはっきりしないことで、村落の構成員が生き延びる上での意義が不明であるにもかかわらず、なぜ(ア)~(ウ)を担うことで、「サト」的集団が首長に対して独自の位置を占めることになるのか、仮に占めるとすれば、その場合の「独自」とはいかなる意義があるのか、は不明のままになっている。
もとより、前記の田中(禎)の村落論の社会的意義に照らして、(ア)~(ウ)を取り上げたことは重要とは思うが、それと古代村落論・共同体論における位置付けは別の話である。これは、田中(禎)の村落論においては、「事実と理論の緊張関係」が踏まえられていないことを示している。すでにこの研究には、「首長制の範疇で捉えきれない」「首長制の再検討」といった論点に疑問が呈されているが*98)、それはかかる緊張関係が踏まえられていないためと考えられる。
7.小結
本章で検討した諸学説の問題点を整理しておこう。
第一に、第三権力論については、「事実と理論の緊張関係」の不足を指摘し得る。もよとり、石母田の「方法」の継承は強調されているが、石母田国家論においては不可欠の位置を占めたと考えられる『共産党宣言』の記述(〈引用2-A〉)や石母田機構論は、「理論」とは位置付けられておらず、その基本的内容を異にしている。しかし、国家が「組織された強力」であることを否定できない以上、歴史学の立場からの古代国家論としては基本的欠陥とせざるを得ない。以上は、これは問題提起の方向性が限定的であることを示し、「事実と理論の緊張関係」が不足していると考えるべきである。
第二に、畿内政権論・「王権」論・「一国史」批判・首長制批判については、「事実と理論の緊張関係」の欠如を指摘し得る。
まず、いずれの説においても、国家「理論」との関係は曖昧である。これは、(ⅰ)問題提起の方向性、(ⅱ)国家論的位置、(ⅲ)研究方法が不明であることを示し、畿内政権論・「王権」論・「一国史」批判に致命的欠陥・基本的問題をもたらした。
主たる検討対象として、国家的制度ではない素材を扱う首長制批判においては、状況は前記の諸学説と同一ではない。しかし、ここでも石母田説が事実と理論によって批判されているわけではなく、「事実と理論の緊張関係」の欠如を指摘し得る。これは、問題とした村落の「集団的」秩序の、専制的な首長制的秩序に対する独自性が実証されない原因となっているから、結局、学説に致命的欠陥をもたらしたと考えるべきである。
もとより、これらの学説に「情勢」の変化に対応する独自の意義があったことは、本稿で論じた通りである。しかし、基本的「方法」の問題としては、「事実と理論の緊張関係」の不足・欠如を指摘できる。
〔Ⅴ.「事実と理論の緊張関係」の現代的意義〕
以上の検討を踏まえて、本章では「事実と理論の緊張関係」の現代的意義を把握することとしたい。
まず、現代においても、なお「事実と理論の緊張関係」が古代国家論・行政機構論構築における基本的「方法」としての位置を占めているかーすなわち、その一般的意義を有しているかーを確認しておく。これは、古代史研究の「方法」論の問題である以上、まずは、「石母田以後」の諸学説がかかる位置・意義を否定するかが問題である。
結論から言えば、このような位置・意義は現代においても不変と考える。もとより、その後の諸学説の多くは、「事実と理論の緊張関係」と異なる「方法」論によって構築されていたと考えられるが、それは明確な根拠と整理を以て提示されたものではなく、それによる欠陥を抱えていた。「事実と理論の緊張関係」の内実は状況に応じて変化するが、かかる手続き一般の意義が否定されることはない。
ただし、発表時においては、「事実と理論の緊張関係」の「情勢」に対応する意義が、冷戦下の言説構造に規定されていたことは、留意しなくてはならない。これは、時代状況からすれば当然とも言えるが、今日の視点からすれば看過し難い問題をもたらしている。
そのもっとも端的な例は、「事実と理論の緊張関係」の、社会主義国における人権弾圧に対応する意義が明確化されていないことである。行政機構論は、かかる問題に対応する意義があったと考えられ、その基本的「方法」論である「事実と理論の緊張関係」も、かかる意義を有していたと考えられるが、『日本の古代国家』、その他の関連論考においては明示されていない。これはマルクス主義者であり、基本的な糾弾対象を資本主義国に置いた*99)石母田の言説構造によるものである。しかし、かかる言説構造は、社会主義国の人権弾圧の犠牲者を「見えなく」してしまうものであり、結果として、「生命の価値」に「格差」をもたらすこととなった。また石母田の、今日では無条件には受け入れられ難いであろう「文革」の高評価、それに基づく「『国家の死滅』が歴史の議事日程にのぼっている」という「情勢」認識の誤り*100)の一因ともなったと言える。人権擁護が一層、喫緊の課題となっている冷戦後の今日、かかる規定性を継承することはできない。
しかし、以上の問題は、「事実と理論の緊張関係」の一般的意義を否定するものではない。かりに、その意義を否定してしまえば、現在の中国・北朝鮮などの人権弾圧に、日本古代史研究の立場から対応するための「方法」も見失われることになり、古代史研究者としてかつての先学の過ちを克服することも不可能になろう。
では、以上の一般的意義を前提とする「事実と理論の緊張関係」の現代的意義はどこにあるだろうか。結論から言ってしまえば、かかる一般的意義が、かつてないほど重要な位置を占めている点にあろう。言い換えれば、現代ほど「事実と理論の緊張関係」が要請されている時代はないのである。この意義は、「情勢」と古代史研究をめぐる状況の二点に根拠づけられる。
まず、「情勢」について。この点については、〔Ⅱ.古代行政機構論の現代的意義〕で述べたように、古代行政機構論の構築が我々の基本的人権を守るために不可欠となっていることを指摘すれば十分であろう。かかる「情勢」に応じて、行政機構論構築のための基本的「方法」たる「事実と理論の緊張関係」の社会的意義が高まるのは当然と言えよう。
次に、古代史研究の状況について。〔Ⅳ.「石母田以後」の諸学説〕で指摘したように、「石母田以後」の研究においては、「事実と理論の緊張関係」が不足・欠如しており、学説に基本的・致命的欠陥をもたらしていた。これは、現代の「情勢」に古代史研究が対応できないことを示すが、古代史研究の側にとっても、如何なる問題に如何なる「方法」で取り組むべきかが混乱せざるを得ない状況をもたらしている。「事実と理論の緊張関係」は、現代においては、このような問題・混乱を是正する意義を有しているとすべきであろう。そして、かかる緊張関係の問題を踏まえない一切の学説は、結局は問題・混乱を再生産するものではあっても、基本的には是正の意義は担えないと考えるべきである。
以上から、「事実と理論の緊張関係」の現代的意義とは、
(a)「情勢」の緊迫によって、かつてない重要な意義を有していること、
(b)古代史研究の問題・混乱を是正する意義を有すること
の二点に求め得る。
〔Ⅵ.結びー地方行政機構論の意義・「理論」と、「歴史家たちの住むせまい世界」ー〕
まず、本稿で論じてきた内容を整理しておこう。ただし、〔Ⅳ.「石母田以後」の諸学説〕は小結を付したので簡便にする。
〔Ⅱ.古代行政機構論の現代的意義〕では、
(1)「新自由主義」的改革の中で、「現代にふさわしい『組織』とは何か」という問いへの対応が切実な課題となっており、現代においては古代行政機構論が我々の基本的人権を守るために不可欠の意義を有していること
を指摘した。
〔Ⅲ.石母田正の「事実と理論の緊張関係」ー発表時の意義・内容ー〕では、
(2)行政機構論は、石母田古代国家論においては、それを欠けばもはや「国家論」ではないと言えるほどの意義を与えられており、不可欠の位置を占めていたこと
(3)行政機構論構築と、最も深くかかわる「情勢」は「国家の『死滅』」であり、同論はソ連をはじめとする社会主義国の人権弾圧に対応する意義を有していたこと
(4)石母田の「事実と理論の緊張関係」において、「理論」は、(ⅰ)問題提起の方向性、(ⅱ)研究の国家論的位置、(ⅲ)研究方法を把握するために不可欠とされているが、その中で、少なくとも第一義的意義を持つのは国家「理論」でなければならないこと
(5)「事実と理論の緊張関係」においては、「理論」に前記の意義を認めつつも、概念・論点の必然化の根拠を「内的連関」に求めていること
(6)機構論において「理論」としての位置を占めるのは、〈引用2-A〉の『共産党宣言』の記述と考えられること
(7)機構論における基本的論点・概念設定の根拠も、「内的連関」によっていること
を指摘した。
〔Ⅳ.「石母田以後」の諸学説ー概要・「方法」・意義・問題点ー〕では
(8)「石母田以後」の諸学説は、いずれも「事実と理論の緊張関係」の不足・欠如を指摘せざるを得ないこと
を指摘した。
〔Ⅴ.「事実と理論の緊張関係」の現代的意義〕では
(9)「事実と理論の緊張関係」の現代的意義は、(a)「情勢」の緊迫によって、かつてない重要な意義を有していること、(b)古代史研究の問題・混乱を是正する意義を有すること、の二点に求め得ること
を指摘した。
次に、以上を踏まえて、地方行政機構論の意義と「理論」について述べておこう。
地方行政機構論の構築は、中央の行政機構論と比較した場合、基本的に在地首長の支配下にあった地域社会が如何に国家機構に編成されていったかを追究し得る点に独自の意義がある。本稿で述べた「情勢」の緊迫は、その構築を緊急に要請していると言ってよいであろう。また、先行学説や発掘調査などにより、地方の行政機構に関わる知見が提示されており*101)、それを「事実と理論の緊張関係」を踏まえて意義づける作業は、地方制度に関わる古代史研究の問題・混乱を是正する意義を有する。
もとより、石母田が地方の問題ー特に郡司制の問題をー、第四章「古代国家と生産関係」において、生産関係・共同体論として論じたことは確かである。その意義は、踏まえる必要があるとしても、それを以て郡司制を行政機構論の枠の中で論ずることを否定することはできないであろう。かりに、地方行政機構論が存在しなければ、律令制国家における行政機構論も不十分な形で展開せざるを得ず、第三権力論で述べた問題を再生産することにつながりかねないであろう。
また、その構築における「理論」とは、石母田機構論に他ならない。石母田が、〈引用2-A〉 を「理論」としたのは、「西欧型」の「理論」しか持ち得なかったからである。「事実と理論の緊張関係」とは、古代国家の特質・意義を把握し、そこから「国家とは何か」という問題に、古代史研究の立場から問題提起を行うための「方法」論であり、「事実と理論の緊張関係」から石母田が古代行政機構論を構築し、かつそれを克服する学説が存在しない以上、「理論」としての位置を占めるのは石母田説を措いて存在しない。とりわけ重要なのは、石母田説によって「内的連関」が一定度、把握されていることで、かりにその意義を否定すれば、地方行政機構論を構成する基本的論点・概念さえ把握できないであろう。今日においても、なお「西欧型」の「理論」を参照しようとする研究が見える*102)のは、「事実と理論の緊張関係」の本来の意義が踏まえられていないことを示すものである。
地方行政機構論を構築するための「具体的課題」である、官人の「任用過程」の分析から、地方における古代行政機構の特質とその展開を把握するのが次の課題になる。
最後に「歴史家たちの住むせまい世界」の問題に触れておく。
そもそも、石母田は「事実と理論の緊張関係」を提起した際、日本古代・中世史学界におけるその不足を批判していた。そして、かかる緊張関係から古代国家論を構築し、石母田個人としてはその問題に対する克服を示したのである。
にもかかわらず、「石母田以後」の諸学説において、古代史学界を代表すると言ってもいい論者たちによって「事実と理論の緊張関係」の不足・欠如が再生産されている様は、異様と言うよりない。これは、結局のところ、国家の問題に無概念・無前提に接近する研究が量産されてきたことを示している。
この問題の直接の原因としては、『日本の古代国家』刊行後、第四章「古代国家と生産関係」における在地首長制論を中心に、古代国家論の議論が展開されてきたことが挙げられる。同論に関わる研究には、概念・論点の内容・意義の検討を真摯に行っているものもあるが*103)、それは主として生産関係・共同体論に関わる部分に限られており、行政機構論に及ぶものではなかった。第三権力論が「事実と理論の緊張関係」の不足に陥ったのは、明らかに在地首長制論の展開を受けて構築されたためである*104)。
しかし、行政機構・権力組織の問題も、無概念・無前提に迫り得るわけがない。また、第四章「古代国家と生産関係」だけで古代国家を論じ得るのであれば、石母田が『日本の古代国家』において第一~三章を設定するわけがなく、その意義を確認・否定できない以上は、第三権力論においても、扱っている問題が限定的であることを明示しておくべきであっただろう。もし、その手続きが踏まえられていれば、その後の古代国家論の硬直化*105)は防ぎ得た可能性がある。
以上は、-古代国家論が現代国家論の一部をなすことを強調した*106)第三権力論の論者を含めてー「歴史家たちの住むせまい世界」が、拡大・再生産されてきたことを示している。それが如何なる条件によるのかを追究する作業は、古代史研究から真に「情勢」に対応する上で不可欠であろう。それは学説の構築とは、また、別箇に追究されるべき問題である。そして、この際、留意すべきは、石母田もまた、この「歴史家たちの世界」を代表する存在であったことである。本来、この世界は大学・研究機関・学会などの「組織」と不可分だが、「文革」の高評価に端的に示される、マルクス主義者であり日本共産党員であった石母田が、終生、身に纏った冷戦下の「組織性」も、この検討においては問題とならざるを得ないであろう。
註
*1)『石母田正著作集三 日本の古代国家』(岩波書店、一九八九年)。以下、同書引用の場合は、基本的に頁のみを記す。
*2)「『上部構造』論と律令制国家論ー石母田説と浅野・高橋説の検討からー」(http://7b.biglobe.ne.jp/~inouch/joubukouzou.htm。以下、拙稿A)
*3)「機構論の意義と課題」(http://7b.biglobe.ne.jp/~inouch/igitokadai.htm。以下、拙稿B)
*4)「機構論における『人格的身分的結合関係』とは何か?-任用過程研究の意義ー」(http://7b.biglobe.ne.jp/~inouch/jinkaku.htm。以下、拙稿C)
*5)拙稿A参照。
*6)拙稿B参照。
*7)本稿では、かかる原則に基づく集団を「組織」、かかる原則から派生する「組織」の特性を「組織性」とする。
*8)差し当たり、雨宮処凛・萱野稔人『「生きづらさ」についてー貧困、アイデンティティ、ナショナリズムー』(光文社新書、二〇〇八年)など参照。
*9)日本社会党については、原彬久『戦後史の中の日本社会党ーその理想主義とは何であったのかー』(中公新書、二〇〇〇年)、石川真澄『戦後政治史』(岩波新書、一九九五年)など参照。
*10)原註(9)書、一八四頁以下。
*11)筆坂秀世『日本共産党』(新潮新書、二〇〇六年)、兵本達吉『日本共産党の戦後秘史』(新潮文庫、二〇〇八年)など参照。
*12)「改正前後の教育基本法の比較」(文部科学省HP〔http://www.mext.go.jp/b_menu/kihon/about/06121913/002.pdf〕)による。
*13)「労働組合の組織率」(「たむたむページにようこそ」〔http://www.cc.matsuyama-u.ac.jp/~tamura/index.html〕)
*14)以下、「新自由主義」については、渡辺治「新自由主義と現代日本の貧困」(『貧困報道ー新自由主義の実像をあばくー』〔花伝社、二〇〇八年〕)など参照。
*15)表9「雇用形態別雇用者数」(総務省統計局HP「労働力調査 長期時系列データ」〔http://www.stat.go.jp/data/roudou/longtime/03roudou.htm#hyo_9〕)
*16)二〇〇四年四月には、沖縄国際大学に米軍のヘリが墜落する事件が起こったが(詳しくは「米軍ヘリ墜落事件」〔沖縄国際大学HP、http://www.okiu.ac.jp/gaiyou/fall_incident/index.html〕、黒澤亜里子編『沖国大がアメリカに占領された日-8・13米軍ヘリ墜落事件から見えてきた沖縄/日本の縮図-』〔青土社、2005年〕など参照〕、「夏休み中」の小泉純一郎首相(当時)は直接の対応を避けた。
*17)筆坂註(11)書。
*18)『偽装請負ー格差社会の労働現場ー』(朝日新書、二〇〇七年)
*19)最近の出版面での成果として、『フリーター労組の生存ハンドブックーつながる、変える、世界をつくるー』(大月書店、二〇〇九年)などがある。
*20)周知のように、『日本の古代国家』執筆に先立って、「民会と村落共同体ーポリネシアの共同体についてのノート(一)ー」(一九六七年)、「東洋社会研究における歴史的方法についてーライオット地代と貢納制ー」(一九七一年)の二つの論文が執筆されている(いずれも『石母田正著作集一三 歴史学の方法』岩波書店、一九八九年)。一方、かかる準備論考として行政機構の専論は執筆されていない。
*21)国家と社会的・経済的諸関係、生産関係との「古代独自の関連のあり方をあきらかにすることが、国家の成立論の第一義的な課題」(二三三頁)とされている。
*22)『石母田正著作集四 古代国家論』(岩波書店、一九八九年)。引用は、基本的に八三~九頁から。
*23)例えば、一九四〇年代の『中世的世界の形成』(『石母田正著作集五 中世的世界の形成』岩波書店、一九八八年)や、一九五〇年代の『古代末期政治史序説』(『石母田正著作集六 古代末期の政治過程および政治形態』『同七 古代末期政治史論』〔ともに岩波書店、一九八九年〕)は、国家それ自体を分析したものではない。
*24)ただし、「国家史」においても「社会主義国家独自の官僚制」について言及がある(八八頁)。
*25)『マルクス・フォー ビギナー① 共産党宣言』(大月書店、二〇〇九年)による。引用は七六頁から。
*26)註(23)書、三頁。
*27)註(23)前掲『石母田正著作集七 古代末期政治史論』、二七六~七頁。
*28)加藤友康「『日本の古代国家』と平安期の国家・社会」(『歴史学研究』七八二、二〇〇三年)は、平安期の国家・社会を考える上での『古代末期政治史序説』の指摘の有効性を強調するが、『日本の古代国家』の段階との「方法」の相違は必ずしも踏まえられていない。
*29)引用は、『マルクス・コレクションⅢ ルイ・ポナパルトのブリュメール一八日ほか』(筑摩書房、二〇〇五年)による。
*30)原秀三郎によれば、『諸形態』の「総体的奴隷制」とは原始共産制社会における人格的依存関係を指しており(原「階級社会の法則性と多様性」〔『講座マルクス主義入門 四 歴史学』青木書店、一九七四年〕)、これに従えば、階級社会における階級関係・生産関係を指す石母田の「総体的奴隷制」は、マルクスのそれとは根本的に異なることになる。しかしながら、この批判の上に構築された原の「国家的奴隷制」論などに比し、石母田の「総体的奴隷制」が国家存立の基礎条件を説明し得ているのは(原説の問題については、大町健・加藤友康「奴隷制論と首長制論」〔『現代歴史学の成果と課題 Ⅱ 前近代の社会と国家』青木書店、一九八〇年〕など参照)、それが「内的連関」から必然化されているからであろう。なお、「奴隷制論」のその後の展開については、吉村武彦「古代は奴隷制社会か」(『争点 日本の歴史 三』新人物往来社、一九九一年)など参照。
*31)拙稿B
*32)浜林正夫「解説ー『共産党宣言』をはじめて読むあなたへー」(註(25)書)
*33)なお、〈引用2-A〉が記述された箇所の主旨も、「プロレタリアートを支配階級に高めること、民主主義をたたかいとること」である「労働者革命の第一歩」(七四頁)を実現させるための、一〇項目の方策を述べることにある。
*34)マルクスは「初期の支配形態」の類型として、この問題を取り扱っているわけではない。
*35)例えば、第五節の「1.有位者集団」で、基本的問題と位置付けられているのは「支配階級がどのような仕方において国家機構と結合されるかという問題」(三四二頁)であるが、この論点設定の必然性は「内的連関」によって根拠づけられているわけではない(論理展開から、この論点設定の意義は、「支配階級」の具体的・歴史的形態を析出しうる点にあると考えられ、この項の基本的問題は、実質的にはかかる形態の析出にあると見るべきであろう。拙稿C)。「内的連関」によって根拠づけられているのは、この問題に迫るための具体的素材・論点である「有位者集団」に過ぎず(「制度的には、位階を保持する集団が、国家の官職を専有して、官位をもたないいわゆる「白丁」身分を統治するという形態が律令制国家の特徴だからである。」〔三四二頁〕という形で、根拠づけられている)、第一節~第四節と比べて手続き(イ)が貫徹しているとは言えない。詳細は省くが、同様の傾向は、両節の論点に共通して見出すことができる。
*36)№13で、ランゲ『政治経済学』が引用されているが、これは資本主義社会の「計量化」について引用したものである。
*37)この問題は、当時の「社会史」の盛行とも一定の対応関係があると考えられる。
*38)大町健『日本古代の国家と在地首長制』(校倉書房、一九八六年)三四一頁など。本稿では、「村落首長制論を前提に、律令制国家を、外見上、社会の諸階級を超えた第三権力とする学説」を第三権力論とする。なお、この学説は、国家を「一つの階級が他の階級を支配し抑圧するため」(〈引用2-B〉)に存在すると見る石母田説とは、基本的に異なる学説とされるが(伊藤循「国家形成史研究の軌跡ー日本古代国家論の現状と課題ー」〔『歴史評論』五四六、一九九五年〕など)、律令制国家の「第三権力」との側面はあくまで「外見上」の問題とされているので、石母田説との基本的相違は論証されていない。石母田説と基本的に異なる学説とするためには、村落首長の私富追求の規制の本質的目的が、支配階級の階級支配のためではなく、社会の分裂回避のためであることを論証する必要があると思われる。また、伊藤は一九七〇年代以降の律令制国家論の研究史を、石母田説にも見られる「国家=階級抑圧装置説」と第三権力論との相克として描くが、これでは後述の、(1)第三権力論の問題点、(2)第三権力論と畿内政権論の相互補完関係などは見落とされることになり、律令制国家論の、同年代以降の展開と現状を把握することはできないと考える。
*39)註(38)書。以下、第三権力論に関する大町の見解は同書による。
*40)三四二頁。ただし、大町の用語は「理論と事実の緊張関係」。
*41)浅野充「日本古代国家研究・都市研究の現在的課題」(『日本古代の国家形成と都市』校倉書房、二〇〇七年。初出は一九九五年)など。
*42)後述のように、現状においては石母田説は、一つの「理論」になり得る。
*43)『日本古代村落史序説』(塙書房、一九八〇年)など。
*44)吉田孝の学説(『律令国家と古代の社会』〔岩波書店、一九八三年〕など)も、検討されているが、これはむしろ批判の対象となっており、(ⅰ)~(ⅲ)及び「内的連関」を見出すべき「理論」と位置付けられているとは言えない。なお、大町の著書では、西欧型の国家から帰納された「理論」は、エンゲルス『家族・私有財産および国家の起源』を除いて引用されていない(五四頁。なお、「第三権力」という概念の典拠は同書だが、この概念との関係で引用されているわけではない)。これは「内的連関」から論点・概念を設定する傾向が、石母田よりも強まったことを示し、在地首長制論によるアジア的共同体論の具体化が進んだことによると考えられる。
*45)註(44)参照。
*46)他に第三権力論への批判としては長山泰孝「国家成立史の前提」(『古代中世の社会と国家』清文堂、一九九八年)などがある。但し、筆者は長山の「理論」の理解などには賛成しない。
*47)吉田晶は、石母田歴史学における「衝迫」の重要性を指摘している(「石母田古代史学の批判と継承」〔註(28)前掲『歴史学研究』七八二〕九~一〇頁)。
*48)第三権力論の前提ともなる村落首長制論について、畿内政権論の立場に立つ早川庄八は「その試みはあまり成功しなかった」と批判している(「解説」〔註(1)書〕四九七頁)。この批判については、大町健の反論があるが(「律令国家と村落首長制」〔『日本古代の国家と村落』塙書房、一九九八年〕)、村落首長制論・第三権力論が必ずしも支持されなかったことは否定できない。なお、畿内政権論の盛行を「素朴実感主義」(伊藤循「畿内政権論争の軌跡とゆくえ」〔『歴史評論』六九三、二〇〇八年〕二四頁)に求める見解もあるが、第三権力論以外の研究者の見識を過小評価している。
*49)『関晃著作集四 日本古代の国家と社会』(吉川弘文館、一九九七年)所収の諸論考参照。
*50)註(44)書。
*51)『日本古代官僚制の研究』(岩波書店、一九八六年)
*52)『律令国家支配構造の研究』(岩波書店、一九九三年)
*53)「日本古代社会の基本的性格」(註(49)書。初出は一九八八年)など。
*54)註(44)書、二九頁。
*55)大町註(38)書、浅野註(41)論文など。
*56)註(48)論文、四九九頁。
*57)大町註(38)書など。
*58)註(44)書、一四三頁など。
*59)関註(53)論文、九~一〇頁。
*60)『大化改新の研究 上・下』(『関晃著作集一・二』吉川弘文館、一九九六年)
*61)基本史料としては、『常陸国風土記』行方郡条の箭括氏麻多智の開発伝承、儀制令19春時祭田条及び同条『令集解』諸説、「魚酒労働」の在り方を示す「延暦九年四月一六日 太政官符」(『類聚三代格』巻一九)の、三点になる。
*62)大町註(38)書、伊藤註(38)(48)論文など。
*63)「選任令・選叙令と郡領の『試練』」(註(51)書。初出は一九八四年)。
*64)拙稿「郡領の『試練』の意義ー早川庄八説の意義と課題ー」(http://7b.biglobe.ne.jp/~inouch/shiren.html)
*65)註(44)書、四一三~四頁。
*66)諸説については、荒木敏夫「王権論の現在ー日本古代を中心としてー」「日本古代の王権・国家と社会」(『日本古代王権の研究』吉川弘文館、二〇〇六年。初出は、それぞれ一九九七年、二〇〇一年)などを参照。
*67)荒木註(66)論文。
*68)例えば、-是非はともかくー「王権」の語について概念規定を行った数少ない研究とされる大平聡「古代王権継承試論」(『歴史評論』四二九)は一九八五年に発表されている。
*69)註(66)書、一四頁。
*70)遠山美都男「古代王権の諸段階と在地首長制」(『歴史学研究』五八六、一九八八年)、大平聡「天平期の国家と王権」(『歴史学研究』五九九、一九八九年)。
*71)石母田正「有位者集団」(註(1)書)。
*72)後掲の大町健・田中史生のほか、李成市『東アジアの王権と交易』(青木書店、一九九七年)・新川登亀男『日本古代の儀礼と表現』(吉川弘文館、一九九九年)などが、近代日本の表象としての日本古代史像や「日本」という枠組みの相対化を強調している。
*73)大町健「『日本の古代国家』における二元的構造論の克服と残存ー古代国家の成立と民族ー」(註(28)前掲『歴史学研究』七八二。以下、大町A)、同「日本古代の『国家』と『民族』・『帝国主義』」(『宮城歴史科学研究』六五、二〇〇九年。以下、大町B)、他に同「東アジアのなかの日本律令国家」(『日本史講座二 律令国家の展開』東京大学出版会、二〇〇四年)も参照。
*74)田中史生「ゆらぐ『一国史』と対外関係史研究」(『歴史評論』六二六、二〇〇三年)。
*75)大町Bなど参照。
*76)田中(史)註(74)論文、一八頁。
*77)大町A、七四頁。
*78)田中(史)註(74)論文、参照。
*79)差し当たり、君島和彦「歴史教育と教科書問題」(『歴史学における方法論的転回』青木書店、二〇〇二年)、三谷博編『リーディングス日本の教育と社会 六 歴史教科書問題』(日本図書センター、二〇〇七年)など参照。
*80)大町A、一八頁。
*81)大町B。
*82)大町は、「多様に分裂した社会を王権が統合するのが前近代の社会編成の原理」(大町B、一一頁)とした上で、七世紀後半の身分制と中華体制の成立を古代国家成立の画期とするが、かかる古代国家の歴史的特質に迫るための課題が特に示されているわけではない。筆者は、律令制国家の身分制・中華体制とも良人共同体を基礎としており(「王権」が自己運動しない〔前記〕のは、身分制・中華体制との関わりにおいても同様と考えられる)、この擬制的共同体は天皇と共同体成員との人格的身分的結合関係に規定されるから、かかる関係の歴史的特質に迫るための「具体的課題」の析出が喫緊の課題と考える。なお、拙稿C参照。
*83)大町註(38)書、伊藤註(38)論文など参照。
*84)『越境の古代史ー倭と日本をめぐるアジアンネットワーク』(ちくま新書、二〇〇九年)。
*85)「第四章 古代国家と生産関係」。
*86)大町註(38)書。
*87)「一国史」批判と表裏の関係にある国民国家論については、阿部安成「『国民国家』の歴史学と歴史意識」(註(79)前掲『歴史学における方法的転回』)など参照。
*88)「古代村落史研究の方法的課題ー七〇年代より今日に至る研究動向の整理からー」(『歴史評論』五三八、一九九五年。以下、田中(禎)A)、「日本古代における在地社会の『集団』と秩序」(『歴史学研究』六七七、一九九五年。以下、田中(禎)B)。他に、関連論考として「『ヨチ』についてー日本古代の年齢集団ー」(『古代史研究』一三、一九九五年)。
*89)二七二頁。
*90)主に田中(禎)B。
*91)田中(禎)B、二五頁参照。
*92)小林昌二「『村』と村首・村長」(『日本古代の村落と農民支配』塙書房、二〇〇〇年。初出は、一九八九年)など参照。
*93)石母田は「集落共同体」の問題を、第四章「古代国家と生産関係」の「4.班田制の成立」で論じている。この際、「集落共同体」を「首長制内部の問題」とするのは、後述のように「所有とくに土地所有」の問題からその位置を論じたためだが、この手法の採用に先立って、「かかる共同体の存在にもかかわらず、なぜその上にアジア的共同体または律令制国家という体制が存在するか」(二七三頁)と問題を提示している。かかる手法とそれによって「集落共同体」を「首長制内部の問題」とする見解は、この問題に対応するためとみられ、当然ながらそれは律令制国家に、なぜ班田制(項目名参照)が存在するかを説明することにもつながる。
*94)二七三頁。
*95)田中(禎)A、六二頁。
*96)大町註(38)書など。
*97)田中(禎)A。
*98)小林昌二「田中報告批判」(『歴史学研究』六七九、一九九五年)。
*99)例えば「国家史」では、当時の佐藤栄作内閣の策定した『期待される人間像』について「退屈でくだらない文章」(九四頁)、アメリカ大統領について、例示とは言え「ベトナム人の血に汚れたジョンソン大統領」(一〇一頁)といった表現が見えるが、多大な人権弾圧を行ったスターリンについては類似の表現は見られない。石母田が高く評価した「文革」を遂行した毛沢東については勿論である。
*100)紅衛兵を用いた「文革」は中国の正規の国家機構によるものではないが、その遂行を可能にした毛沢東の権威は「組織された強力」によるものとすることができる。そういう意味では、このような「情勢」判断の誤りは、戦前の全体主義国家による苛烈な弾圧を経験し、戦後も国家と戦い続けた石母田にして、「組織された強力」の現実の在り方を見誤ったものとすることができる。この点に、マルクス主義者であるが故の、石母田の「情勢」認識の甘さを指摘することは可能であろう。
*101)近年の成果として、中村順昭『律令官人制と地域社会』第Ⅲ部(吉川弘文館、二〇〇八年)、森公章『地方木簡と郡家の機構』(同成社、二〇〇九年)など。郡制・郡司制の問題に迫るためには、機構論的観点が不可欠であると考えられ(拙稿「地方行政機構論の必要性ー郡制の特質ー」〔http://7b.biglobe.ne.jp/~inouch/hitsuyou.htm〕)、この点は「試練」の意義の把握からも裏付けられる(註(64)前掲拙稿「郡領の『試練』の意義ー早川庄八説の意義と課題ー」)。
*102)古尾谷知浩『律令国家と天皇家産機構』(塙書房、二〇〇六年)など。
*103)吉田晶註(43)書、原秀三郎『日本古代国家史研究』(東京大学出版会、一九八〇年)など。
*104)大町健「序章 在地首長制の成果と課題」(註(38)書)参照。
*105)拙稿A参照。
*106)大町註(104)論文。
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