「『上部構造』論と律令制国家論
ー石母田説と浅野・高橋説の検討からー」
(目次)
T はじめに
U 石母田説における「上部構造」論の位置づけ
V 浅野・高橋説における「上部構造」論の位置づけ
W 結び
〔T
はじめに〕
日本古代史研究においては長く国家論が課題とされてきており、筆者も国評制の問題を素材にこれに取り組んだことがある*1)。ただし、後述のように国家論それ自体が硬直化した状況にあったため、実証面を含め稚拙な内容となったが*2)、国家論の意義自体が失われたわけではない。第一に、古代諸史料にみえる様相の多くは日本律令制国家の特質と不可分であって、したがってかかる特質の解明抜きにはそれらを解することができないからである。第二に、「国家とは何か?」という課題への接近が、依然として社会的要請となっているからである。かかる要請の一端を近年の沖縄県の情勢に見ることができる。
第一に、米軍普天間基地の名護市辺野古への移設問題である。沖縄県における米軍基地の問題は、言うまでもなく「日本」が沖縄を「捨て石」にする構造の端的な表明であり、「日本人」(ヤマトンチュウ)が等しく責任を負うべき問題と言える。しかし、普天間基地の移設問題については、(一)一九九七年の住民投票において名護市民が移設を拒否する意志を明示したにもかかわらず、現段階においては移設が強行されつつある状況にあること、(二)沖縄県・名護市などの沖縄県側の行政が、史上初めて県内の新たな基地建設を容認する状況(=基地依存の地域作りを「主体的」に追求する状況)に追い込まれていること、などから、事態が深刻化している側面を指摘することができる*3)。しかし、同時に注目されるのは、経済的苦境にも関わらず、沖縄県への内地(以下、沖縄県以外の日本国の地域をこのように称する)からの移住者が急増している事実である*4)。このような移住者は、それまでの自分の生活の場であった内地の地域社会を放棄し、新たにその場を沖縄県に求めたわけであるから、かかる事態は国家によって行われてきた内地の地域作りが、地域住民によって否定されつつある状況を示している。沖縄県における基地依存の地域作りと、従来の内地の地域作りに共通する特徴は、地域住民の主体性の否定である。前者は、住民の主体的意志を否定している以上、当然であるが、後者も、本来、地域住民が生活していく上で真に「豊かな」地域社会は何か、が真摯に追求されていない結果と言えるのであって、両者は基本的に同根の性格を持つと言える。それ故、個々人が豊かに生きていくためには、かかる地域作りを行ってきた国家とは地域住民にとっていかなる意義を持つのか、が改めて問われている状況にあると言えよう*5)。そして、国家を問題とする上で、それがどこから来てどこへ行くかという国家の歴史解釈の有効性は言うまでもない。
以上から、問題とされるべきは国家論それ自体ではなく、国家論の方法論であることがわかる。そして、前記のようにかかる方法論なくしては、古代諸史料に見える様相を解することもできない以上、その模索は歴史学の持つ科学性を発展させつつ、現代的要請に応える道を模索することでもある。
日本古代における律令制国家の研究において、石母田正『日本の古代国家』*6)のもつ意義は改めて述べるまでもない。同書において、石母田が律令制国家自体を分析したのは第三章以降であるが、この分析は二つの系列から成り立っている。第一の系列は「支配階級が、その『共同利害』をまもるための共同の『機関』としての国家機構を統治の手段としてつくり上げ、みずからをそのなかに編成する過程」であり、第三章「国家機構と古代官僚制の成立」において展開されている国家機構論が、この分析に該当する。第二の系列は「その国家機構が全体として人民を統治し、そこから剰余生産物を収取する機構の成立過程」であって、第四章「古代国家と生産関係」での生産関係論・共同体論において、かかる過程が分析されている*7)。筆者の課題は、この内、前者の国家機構論に注目し、国家論の方法論を模索することにある。
かかる課題設定にあたって問題となるのは、国家論における機構論の位置づけーすなわち、日本律令制国家を論ずる上で、なぜ機構論を問題とするのかー、である。この問題はさらに二つの問題に分化する。第一に、生産関係論・共同体論との関係が問題となる。なぜなら、『日本の古代国家』において、総括的な位置を占めるのは、明らかに第四章「古代国家と生産関係」における生産関係論・共同体論だからである。かかる生産関係論・共同体論の総括的位置は、後述のように日本律令制国家の具体的分析から必然化されている。しかし、そこにおいて提示された在地首長と人民との間の生産関係を基本的生産関係と見なし、国家対人民との間の生産関係、支配・隷属関係を二次的派生的関係と見なす見解は、直ちに「国家は、いかに独立的・超越的存在に転化しようと、またそれによって社会が、国家とその『権威』によってはじめて秩序づけられているようにみえようと、国家が一定の歴史的条件のもとに、二次的生産関係として社会の中からつくりだされた体制にすぎないという歴史の事実を変えることはでき」*8)ないという指摘を生み出すこととなる。この指摘をそのまま敷衍すれば、一定の歴史的条件の下では国家は消滅することもあり得ることとなるのであり、明らかに「現在の歴史学が、『国家の死滅』が歴史の議事日程にのぼっている時代の歴史学でなければならない」「国家の問題は、また日本の人民の解放の問題として、より切実な現実的な形で提起されている。」*9)という、石母田の認識する当時の歴史学に対する社会的要請に対応する意義をも持つものであった。
このような生産関係論・共同体論の重要性もあって、その歴史的特質を規定した在地首長制論は、提起以来三〇年近く、日本律令制国家論の中心課題であったといっても過言ではない。また、近年では在地首長制論における共同体内部の階級対立論の弱さを克服すべく村落首長制論が提起されており、律令制国家の本質を「第三の権力」として捉える国家論を生み出すに至っている*10)。さらに、石母田機構論においても「官僚制国家と人民」*11)において、国家機構成立の必然性を社会内部の「融和しがたい対立」から説く見解が取られており(三九四頁)、社会内部の「融和しがたい対立」(=共同体内部の階級対立)が分析されねば、なぜ国家機構が成立するか、も不明な論理となっている。一方、機構論に関する研究は膨大な蓄積を見せているが、それが「国家とは何か?」という問題といかに関わるのかという国家論的意義が、明確にされたとは言い難い状況にある*12)。以上からすれば、国家論の方法論の模索の上で、かかる生産関係論・共同体論ではなく、なぜ国家機構論に注目するかが問題とならざるを得ないであろう。この問題は、機構論のみならず生産関係論・共同体論に対置される「上部構造」*13)論一般の問題と言える。
第二に問題となるのは、第一の問題をクリアーしたとしても、「上部構造」の内、その権力組織の問題を機構論の範疇で捉えることの国家論的意義はどこにあるのか、という点である。この問題を論ずるには、石母田機構論の全体的構想を把握する必要があるが、現在のところ、石母田の機構論は部分的活用に留まっており*14)、まず、かかる構想の整理が必要である。
本稿では、紙幅の都合でこの内、第一の問題について論ずることとする。
〔U 石母田説における「上部構造」論の位置づけ〕
まず、石母田における「上部構造論と」生産関係論・共同体論の相互関係について整理しておく。石母田は第四章「古代国家と生産関係」冒頭で次のように述べている。
…政治的上部構造としての国家のかくされた土台が、この時代の社会的・経済的諸関係または生産関係にあることはいうまでもなく、両者のあいだに存在する古代独自の関連のあり方をあきらかにすることが、国家の成立論の第一義的な課題でなければならない。これは理論的要請として存在する課題であるばかりでなく、上部構造自体の考察が、その課題を否応なしにわれわれに設定するのである*15)
理論的要請についても触れられているが、ここでは基本的に生産関係論・共同体論が「上部構造自体の考察」の要請として意義づけられていることが注目される。かかる要請の具体例としては、日本古代における国際的・国内的な「交通」の問題、「大化改新」における王民制から公民制への転換(=伴造ー部民制的秩序から国造制的秩序への転換)、律令制国家機構存立のための経済的土台または条件などが挙げられているが、『日本の古代国家』において、生産関係論・共同体論が総括的な位置を占めるのは、基本的に「国家の成立と存立の問題は、地方の首長制の構造の分析なしには、基本的に何一つ解決できないことは明らか」(二三四頁)だからである。したがって、石母田の古代国家論における「上部構造」と生産関係論・共同体論との関係は、後者が前者を説明し得なければ、その総括的位置を失う関係にあると言える。
以上から言えることは、石母田はその古代国家論において「上部構造」論の独自の意義を認めていたということである。「上部構造」を説明し得て初めて、生産関係論・共同体論の総括的位置が存在しうる以上、前者がなくては後者も存在し得ない。また、かかる関係設定においては、言うまでもなく、前者の分析は後者からは自立して、独自に行われなければならない。したがって、歴史学の立場から国家を論ずるには、生産関係論・共同体論のみを問題とすればよいのではなく、「上部構造」自体の分析もまた問題とされねばならないわけで、その研究は十分に意義を持つとされていると考えられる。
かかる位置づけの意義は、「上部構造」に関わる諸事実と、生産関係論・共同体論に総括的位置を与える国家理論との間に緊張関係を設定できる点にあろう。すでに、石母田は『日本の古代国家』執筆に先立って、歴史学の立場からの国家論が、事実と理論の緊張関係の中から生み出されなければならないことを強調していた。すなわち、「そもそも『国家』とは何か、その本質、構造、機能は何か、それは日本で歴史的にどのように形態変化したかについて、自分の理論をみがくことなしに、どのような方向で問題を提起し、国家のどの側面をどのような方法で分析することができるであろうか。」との一文に見えるように、歴史家が国家論の一部としての国家史を作り上げるという理論的責務を自覚しなければ、その業績は「理論と論理を欠く歴史的事実の集積」に留まることになる。しかし、他方、「カトリックから近代政治学にいたる多様な国家理論が正しいかどうかを、日本の古代または中世の国家史に即して検証する必要がある」。なぜなら、「もしそこで、それらの理論が事実と論理によって正しくないことがしめされるならば、たとえ一国であっても、それらの理論は普遍性を失い、理論としての妥当性が破綻をきたすからである」*16)。この内、過去の事実を扱う歴史学*17)の、国家論における独自の意義が、後者の過去の国家の分析に基づく従来の理論の検証にあることは言うまでもない。
もっとも、石母田がこの問題に触れる場合、「…われわれが持っている国家についての諸理論が主として古典古代から近代国家にいたる西欧型の国家の歴史から帰納され、抽象された理論であること、したがってそれを歴史的特質が異なる東洋的社会から発生した日本の古代国家の成立史のなかで検証しようとするとき、検証はもはや検証にとどまっていることはできず、理論と事実の緊張関係の中から何かを生み出す作業にならなければならない。」(四頁)とあるように、西欧型の国家から帰納・抽象された理論の適用ではない、「東洋的社会から発生した」日本の古代国家を扱う立場からの独自の国家論の提起の必要性に力点がある。したがって、それは生産関係論・共同体論の総括的位置自体と言うよりは、それを踏まえた上での「東洋的社会」(=アジア的共同体)の独自の特質の検証につながる性格のものであり、第四章「古代国家と生産関係」における在地首長制論の提起に結実していく指摘であった。
しかし、歴史学の立場からの国家論が事実と理論の緊張関係の中から生み出されねばならないという指摘自体は、「…国家についてのどのような理論も、歴史的に存在した個々の国家について厳密に検証されなければならず、それにたえない理論はすてられなければならない。これが学問の約束であろう。」(四頁)との一文に明白なように、歴史学が国家を扱う場合の一般的原則・基本的手続きに関する指摘である。石母田においては、生産関係論・共同体論の総括的位置さえも、基本的にかかる原則・手続きに基づいて設定されていると見るべきであろう。
「上部構造」に関する諸事実と、従来の国家理論との間に緊張関係を設定するとすれば、検証対象は生産関係・共同体の特質の「上部構造」への規定性になると考えられる。なぜなら、現在のところ、日本律令制国家の成立を、一定度、整合的に論じた学説は、「上部構造」の歴史的特質は生産関係・共同体の歴史的特質に規定されるという、後者に総括的位置を与える国家論だからである*18)。しかし、以上は直ちに生産関係論・共同体論の総括的位置を否定するものではない。「上部構造」論と生産関係論・共同体論の間に緊張関係を設定した石母田自身が、結論的には後者によって前者を総括させていることを見れば、それは明らかであろう。むしろ、「上部構造」を説明し得て初めて、生産関係論・共同体論の総括的位置が存在しうる以上、前者の進展は後者の進展の素材たりうると考えられる。すなわち、かかる関係設定自体が後者、及びそれに総括的位置を与える国家理論の進展に寄与するものと考えられる。したがって、筆者は石母田の関係設定を全面的に正しいと考える。必然的に、律令制国家を論ずる上で、機構論を含む「上部構造」論に注目することは十分に意義があると考えるのである。
〔V
高橋・浅野説における「上部構造」論の位置づけ〕
以上で、日本律令制国家を論ずる上で、なぜ機構論を含む「上部構造」に注目するかという、本稿での問題に対する回答は、ほぼ得たわけであるが、本章では、以上を踏まえて、A高橋浩明「国郡制支配の特質と在地社会」*19)・B浅野充「日本古代の社会と国家ー宮都の成立・展開と社会・国家ー」*20)の所説を検討する。これらの研究については問題も多く、すでに一定の批判が提示されている*21)。にもかかわらず、改めて検討するのは、同じ地方行政機構を扱っているということが一つの理由である。しかし、むしろ重要なのは第一に「国家論の一部門としての国家史を研究している」という自覚がこれらの研究の前提であること、第二に冒頭に述べたように「国家とは何か?」という課題への接近が、依然として社会的要請であること、である。第一点が、第二点の社会的要請に応えるための前提となることは言うまでもなく、したがってこれらの研究の持つ自覚は正しいと考える。したがって、次の課題は、正しい自覚から出発したこれらの研究のどこに問題があり、それが、どのような原因によるのかを明らかにすることである。かかる課題への接近は、もとより前章で述べた見解の補強という意味も持つ。しかし、むしろ、個別の研究ではなく、学界全体で豊かに上記の要請に対応するために、必要な作業であると考える(この点、後述)。なお、かかる自覚はこれら二研究に限定されるわけではもちろんない。その中で、特に、この二研究を取り上げるのは地方行政機構を取り扱っているからであるが、本稿で指摘するような問題は他の研究にも見られる。本稿での批判はそれらの研究についても有効であると考えていることをあらかじめ申し述べておく。
まず、この両説に「上部構造」の説明を見てみよう。
A 高橋説
即ち、首長制的な共同体の解体により、郡司は従来のような共同体的諸関係を総括する必要がなくなるのであり、国家は在地支配を貫徹するためにこの新たな共同体を支配するシステムとして国郡制を整備する必要が出てきたのである。 そこで、国家が選んだ道は郡を国と同様な性格の領域と化し、国務を分掌させるという道であった。(六六頁)
また、浅野は、大町健説によりつつ、(1)村落首長の階級収奪の激化により、当該期の共同体が分裂の危機に陥っていたこと、(2)かかる共同体の分裂=社会の分裂を抑止するため、国家のになう「幻想」としての共同性・公共性は擬制的な首長制的共同体構造を取ること、を指摘した上で
B 浅野説
日本古代国家は宮都・国府・郡家を作ることによって、幻想としての公共性・共同性を持つ擬制的な首長制的共同体構造を自己表現し、貫徹させたのである。(四三頁)
とする。また、日本古代国家、及び宮都・国府・郡家の展開について、村落首長の階級収奪の進行により、かかる公共性・共同性を宮都のみが表現するようになり、擬制的な首長制的共同体構造は抽象化するとされる。
次に、本稿での課題である、「上部構造」論の国家論における位置づけについてみてみよう。これらの説に共通する特徴は地方行政機構*22)の特質・変質を、当該期の共同体の特質・内部矛盾・変質によって説明する点にある。この説明は、後者が前者を規定することが前提になっているから、生産関係・共同体の歴史的特質が国家の歴史的特質を規定するという、生産関係論・共同体論の国家論における総括的位置が前提になっていると考えられる*23)。両説がともにこのような特徴を持つのは、歴史学研究会日本古代史部会運営委員会「首長制論の新展開にむけて」*24)を共通の前提としているからである。ここでは、生産関係論・共同体論の国家論における総括的位置の必然性が強調されており、この見解を無批判に前提にしている以上、以上のような特徴を持つのは当然と言えよう。
しかし、このような前提に立つ以上、必然的に、国家の歴史的特質・変質を論ずるには、「上部構造」ではなく、生産関係・共同体を論じなければならないことになる。事実、高橋は「今後の課題」として、地方行政機構ではなく、「在地社会(引用者注。共同体がその特質を規定するとの立場に立っていると見られる)の具体的様相の分析」(六七頁)をあげている。すなわち、これらの研究においては「上部構造」に属する地方行政機構の研究から国家を論ずるという立場を取りながらも、結果的には国家論における「上部構造」論の独自の意義を否定していると言わざるを得ない。
このような「上部構造」論の位置づけの問題は、生産関係論・共同体論に総括的位置を与える国家理論、及びそれをふまえて日本古代の共同体の歴史的特質・内部矛盾に迫った在地首長制論・村落首長制論を適用して「上部構造」を説明することである。しかし、この説明は「上部構造」、生産関係・共同体、国家のいずれについても不十分である。
まず、「上部構造」について見てみよう。Aの高橋説においては、首長制的共同体の解体の結果、国家は郡を国と同様の領域とし、国務を分掌させたとするが、かかる解体が起こればなぜ、国家がこのような道を選択するのかーたとえば、首長制的共同体の解体の結果、郡司が共同体的諸関係を総括する必要がなくなったとすれば、なぜ、郡自体が廃止されないのかー、といった点は説明されておらず、高橋がこの論文で論じた国郡制の変質がなぜ、九世紀以降に起こるのかが十分、説明されているとは言えない。Bの浅野説も同様である。例えば、近年、考古学の成果によって八世紀初頭には、後の平安期につながるようなコの字型配置の国府は存在せず、その成立は八世紀第U四半期以降であることが明らかにされている*25)。仮に浅野の説に従うとしても、単に律令制国家が、「幻想」としての公共性・共同性を持つ擬制的な首長制的共同体構造の自己表現として、宮都・国府・郡家を設定したことを指摘するのみでは、かかる自己表現の上でなぜ、八世紀初頭にはコの字型配置の国府が存在しないのかー換言すれば八世紀第U四半期中葉以降はなぜ、かかる国府が必要となるのかーは説明されない。また、前記のように浅野は九世紀以降、宮都のみがかかる公共性・共同性を担うとするが、なぜそれを担うのが宮都のみなのかー換言すれば、なぜ九世紀以降国府・郡家は衰退していくのか*26)ーは、単に村落首長の階級収奪の激化を説くのみでは不明である。すなわち、これらの研究は地方行政機構に関わる諸事実の内、八〜一〇世紀における国・郡の行政処理や官衙の構造を扱っているが、かかる諸事実は既知の生産関係論・共同体論を適用しただけでは十分説明できないことが分かる。前章で指摘したように、やはり「上部構造」は独自に分析されねばならないのである。
次に生産関係論・共同体論、国家論を見てみよう。これについては既知の生産関係論・共同体論を適用している以上、進展がないのは当然である。八世紀の共同体は両者とも「首長制的共同体」であり、かかる共同体論自体は言うまでもなく石母田が提起し、その後の研究で深化されてきたものである。一方、九世紀以降の共同体論については、高橋は「首長制的共同体の解体」にとどまっている。浅野は九世紀以降は村落首長が階級収奪の側面を強化しつつも、共同体内部の個別経営は共同体内部から完全に自立しない段階としているが、しかし、この二つの側面を統一的に捉え、当該期の共同体の歴史的特質の規定に迫るものとは言えない。そして、国家論における生産関係論・共同体論の総括的位置が前提であるにもかかわらず、そこに進展が見えない以上、国家論の進展も著しく制約されざるを得ないのであって、村落首長制論に基づき律令制国家を「第三の権力」として捉える見解を踏襲することとなっている。国家を論ずるには生産関係・共同体を論じなければならないという立場に立っているにも関わらず、直接の分析対象は地方行政機構で、生産関係・共同体ではないのだから既知の生産関係論・共同体論、国家論を踏襲する結果になるのはやむを得ないと言える。この点についても、やはり「上部構造」論に独自の意義を認めた方が生産的と考えられる。
以上から、既知の生産関係論・共同体論を適用した「上部構造」の説明では、「上部構造」、共同体、国家のいずれの特質の把握も不十分であり、歴史像の固定化・硬直化が生じてしまうことが明らかとなった。前章で述べたように、「上部構造」論の独自の意義を認め、生産関係論・共同体論に総括的位置を与える国家理論との間に、緊張関係を設定しなければならないことが分かる*27)。
では、両者がかかる説明に陥った原因はどこにあるのであろうか。筆者は、その基本的原因は「日本の古代や中世の国家をわれわれが問題にするさい、その態度に大事なものが一つ不足していたのではないかと年来感じてきた。一つは、国家理論と歴史的事実との緊張関係が足りないことである。」*28)との石母田の指摘の意義が十分に認識されていないことにあると考える。まず、「上部構造」論の独自の意義は、歴史学の立場からの国家論は事実と理論の緊張関係のなかから生み出されなければならないとする立場を前提にしている。両説に見える前記の問題は、あきらかにかかる前提の無視に基づいている。第二に、しかし、かかる前提は、歴史学の立場から国家を論ずる際の、一般的原則・基本的手続きーすなわち、「学問の約束」ーであって、それを無視しては「新しく何かを生み出す」ことはできない性格のものである*29)。この点をふまえていれば、国家論はかかる前提から出発されるはずで、それが結果として無視されていることは、明らかにその意義の認識が不十分であることを示している。冒頭に述べたように、国家論は依然として歴史学に対する社会的要請であるが、かかる要請に対応しようとすれば、まずこの石母田の指摘の意義の再確認から出発しなければならないと言える*30)。
〔W 結び〕
本稿は、機構論に注目して国家論の方法論を模索するための前提として、「なぜ、国家論の方法論の模索の上で、生産関係論・共同体論ではなく『上部構造』論に注目するのか」という問いに一定の回答を得ることを課題とした。まず、第一章では石母田正の古代国家論における「上部構造」論の位置づけを検討し、
(一)石母田は「上部構造」論に独自の意義を認めていること、
(二)それは、歴史学の立場からの国家論は事実と理論の緊張関係の中から生み出されねばならないという、歴史学の立場から国家を論ずる際の一般的原則・基本的手続きの適用であること、
(三)かかる石母田の「上部構造」論の位置づけは全面的に正しく、日本律令制国家を論ずる上で、生産関係論・共同体論のみならず、「上部構造」論に注目することは十分に意義があること、
を指摘した。次に、第二章では浅野・高橋説を検討し、
(一)これらの研究においては、結果的には国家論における、「上部構造」論の独自の意義が否定されていること、
(二)その結果、既知の生産関係論・共同体論を適用して「上部構造」を説明することとなり、歴史像の固定化・硬直化が生じてしまうこと、
(三)その基本的原因は、歴史学の立場からの国家論は事実と理論の緊張関係の中から生み出されねばならないという、歴史学の立場から国家を論ずる際の一般的原則・基本的手続きーすなわち、「学問の約束」ーの意義が、十分に認識されていないことにあること、
を論じた。以上、とりわけ、第一章の分析によって、本稿の課題は果たし得たと考えるが、至極、当然のことを長々と論じた観もある。しかし、「国家とは何か?」という課題への接近が、依然として社会的要請であることを考えれば、「上部構造」の研究がそれといかなる関わりを持つのかを明らかにしておくのは、研究の社会的役割を明示する上で当然のことである。逆に、それがなければ「上部構造」自体の研究を通してどのようにかかる課題に対応するのかが明らかにならず、方法論上の混乱をもたらすものと思われる。既に述べたように、かかる課題に対応する上での問題は、国家論の方法論であることを考えれば、生産関係論・共同体論に対する「上部構造」論の位置づけが明確化されていないことの方がむしろ問題であろう。また、歴史像の固定化・硬直化はかかる課題に対応する上では、阻害要因となるものと考えるが、問題は、日本古代史学界が三〇年前には『日本の古代国家』という、事実と理論の緊張関係から生み出された豊かな業績を有していたにもかかわらず、なぜこのような現象が生じたかである。それが分からなければ、個別にいかにかかる課題に対応する研究が提示されても、学界全体としてそれに対応することにはならないだろう。したがって、上記のような問題を有した研究を検討し、その原因に迫ることは、上記の課題に豊かに対応する上で必要であると考える。
しかし、「『上部構造』に関する諸事実に、日本古代の立場から国家を論ずる上で独自の意義を与えるべきだ。」と言うだけでは、「上部構造」のどの側面をどのような方法で分析すべきかは不明とならざるを得ないだろう。すなわち、その「上部構造」の分析は「理論と論理を欠く歴史的事実の集積」に留まり、「上部構造」論の枠内で、事実と理論の緊張関係の不足を生み出すこととなると考えられる。必然的に、「上部構造」の内、権力組織の問題を機構論の範疇で捉える国家論的意義はどこにあるのかが問題となるが、冒頭で述べたように、これについては別稿で論ずることとしよう。
以上で、本稿の課題は尽きているのであるが、最後に近年の石母田評価について述べておこう。近年、戦後歴史学の歩みを市民主義的歴史学との相克として描いた小路田泰直は行論の最後に石母田に触れ、彼が「英雄」「在地領主」「首長」といった「政治的中間層」の主体性を機軸に歴史の発展を描こうとした歴史家であるとし、彼こそ市民主義的歴史学との恒常的接点を持ち続けた数少ない歴史家の一人とする*31)。こうした評価からすれば、日本古代における「政治的中間層」を分析した第四章「古代国家と生産関係」の在地首長制論ではなく、第三章「国家機構と古代官僚制の成立」の国家機構論に注目した本稿の課題設定は、石母田の業績の意義を軽視・あるいは否定するものとの批判を受けかねない。それ故、議論の混乱を避けるためにも、あらかじめ、かかる問題につきコメントしておく必要があろう。
筆者は、石母田の業績の内、『日本の古代国家』における「上部構造」論の位置づけを整理したにすぎず、石母田の歴史家としての歩みを総括的に評価することはできないし、ましてや、戦後歴史学を総括することもできない。したがって、小路田の石母田評価について論ずる資格は持たないが、本稿の整理からのみでも確実に言えることが一つだけある。それは、『日本の古代国家』は別に市民主義的歴史学からの批判に応えるために書かれたわけではないということである。『日本の古代国家』が問題としたのは、あくまでも国家だったのであって、「国家とは何か?」という問題に、日本古代史研究の立場から独自に問題提起を行うことが、その基本課題であった。かりに、それが市民主義的歴史学からの批判に応える内容を持っていたとしても、それは機構論と同じく、かかる基本課題を豊かに達成するための方法論の一つにすぎない。そして、石母田が設定した基本課題を、今なお意義あるものとして認め、その為の方法論を模索しようとするとき、単に「政治的中間層」の分析に留まらないその方法論の豊かさは今日においても十分に意義を有すると考える。そして、冒頭に述べたように、かかる方法論の模索が歴史学の科学性を発展させつつ、現代的要請に応える道の模索でもある以上、必然的に学界が進むべき方向性の一つの提示であって、今日、指摘される歴史学の閉塞状況の打破の上でも、意義を有するものと言えよう。
註
*1)「国評制・国郡制支配の特質と倭王権・古代国家」(『歴史学研究』七一六、一九九八年)
*2)田中聡「井内報告批判」(『歴史学研究』七一八、一九九八年)
*3)普天間基地移設問題は、現在進行中の問題であること、内地と沖縄との情報格差もあって、必ずしもその全容を把握できる文献に恵まれているわけではないが、さしあたり、沖縄タイムス「特集 基地と沖縄」(沖縄タイムス社HP、http://www.okinawatimes.co.jp/spe/k_index.html)、『週刊金曜日』九五、一二二、二〇七、三一〇(一九九五年・九六年・九八年・二〇〇〇年)の各特集、「特集 基地・自立・地域ー名護の記憶ー」(『けーし風』一八、一九九八年)、「特集 物乞い政治との訣別」(『同』二六、二〇〇〇年)などを参照。一九九六年までの動きをまとめたものとして、新崎盛暉『沖縄現代史』第七章(岩波新書、一九九六年)、一九九八年までについては石川真生『沖縄海上ヘリ基地ー拒否と誘致に揺れる町』(高文研、一九九八年)がある。「沖縄とともに関西連絡会」(http://www3.osk.3web.ne.jp/~hattorir/okiren.htm)、「名護平和電脳組」(http://www.cosmos.ne.jp/~miyagawa/nagocnet/index.html)などがある。
*4)総務庁統計局の「住民基本台帳人口移動報告年報 平成一一年統計表」(総務庁HP〔http://www.stat.go.jp/data/idou/1999np/index.htm〕)によれば、一九九九年度の沖縄県への他都道府県への転入者数は二五三二二人である(ただし、筆者はパソコンにエクセルをインストールさせていない関係で、総務庁に直接、問い合わせた)。この中には、沖縄県出身者のいわゆる「Uターン」も入るが、県外からの移住者がかなり含まれていると見られる。移住の原因などについての詳しい調査はないようであるが、最近の全国紙の特集として「沖縄から元気をもらおう」(『朝日新聞』二〇〇〇年一月八日号 夕刊)などがあり、旅行雑誌などでの特集は多い。
*5)近年、国民国家の相対化の動きの中で、近代歴史学が国民国家とともに形成され、体制的であれ反体制的であれ、国民国家を強化する機能をはたしてきたとする見解もある(西川長夫「戦後歴史学と国民国家論」〔『歴史学研究』七二九、一九九九年〕)。また、これと関連し、石母田の民族への愛着・愛国心などについての批判的見解も呈されている(川本隆史「民族・歴史・愛国心」〔『ナショナル・ヒストリーを越えて』東京大学出版会、一九九八年〕)。しかし、仮にこれらの側面を認めるとしても、国家論の意義自体は否定されない。国家論を否定してしまえば、本文で述べたような近時の沖縄県の情勢の性格を把握することさえできなくなり、歴史学の立場から地域住民を真に主体と位置づけた地域作りに寄与する有力な方法を失うことになるからである。同時にそれは、国民国家の相対化が本来、課題としてきた沖縄の問題についてのアプローチさえ、困難にすることでもある。そして、国家論の意義を認めれば、今日においてもなお、石母田の業績の意義を認めざるを得ないことは本文で詳論するとおりである。
*6)初出は一九七一年。引用は『石母田正著作集』第三巻(岩波書店、一九八九年)による。なお、以下、同書からの引用は出典を略す。
*7)以上の引用は、一五五頁から。
*8)三二九頁。石母田の二つの生産関係論については、すでにいくつかの批判が提示されている。まず在地首長と人民の間に基本的生産関係を設定する見解に対して、後述のように在地首長の下位の村落首長と人民との間にかかる関係を設定する村落首長制論が提起されるに至っている。また、国家と人民に対する支配を生産関係と見る見解については、かかる見方自体に批判が提起されている(原秀三郎「日本古代国家論の理論的前提」〔『歴史学研究』四〇〇、一九七三年〕)。しかし、これらの問題についてはここでは措く。
*9)「国家史のための前提について」(『石母田正著作集』第四巻〔岩波書店、一九八九年〕。初出は一九六七年)。引用は八五頁、八九頁。
*10)大町健『日本古代の国家と在地首長制』(校倉書房、一九八六年)。村落首長制論の意義については、浅野充「日本古代国家研究・都市研究の現在」(『人民の歴史学』一二四、一九九五年)、伊藤循「国家形成史研究の軌跡」(『歴史評論』五四六、一九九五年)など参照。近時の「第三権力論」批判として、長山泰孝「国家成立史の前提」(『古代中世の社会と国家』清文堂出版、一九九八年)。長山の見解について、ここで詳論する余裕はないが、同論文においては本稿が重視する、事実と理論の緊張関係の問題は触れられていない。
*11)『石母田正著作集』第三巻(註(6)前掲)。この論文は、『日本古代国家論』(岩波書店、一九七三年)に収載されたが、本来、『日本の古代国家』の第三章「国家機構と古代官僚制の成立」の一部をなすものであったことは、『日本の古代国家』「あとがき」、『日本古代国家論』「はしがき」参照。
*12)たとえば、近年の成果として吉川真司『律令官僚制の研究』(塙書房、一九九八年)、古瀬奈津子『日本古代王権と儀式』(吉川弘文館、一九九八年)があるが、かかる点について明確にされているとは思われない。
*13)「上部構造」については、便宜的に、後掲引用部に見える石母田の用法に従う。
*14)近時の官僚制研究における研究史整理として吉川真司「律令官僚制研究の視角」(註(12)書)があるが、石母田の研究は早川庄八・青木和夫・井上光貞などのそれと一括して論じられており(七頁)、その構想の独自性がふまえられているとは言えない。また、石母田の国家機構論の内、「第二節 『政ノ要ハ軍事ナリ』天武・持統朝」について、井上亘の批判があるが(「『天武系』王権再考」〔『日本古代の天皇と祭儀』吉川弘文館、一九九八年〕)、筆者は石母田の構想を踏まえての批判とは考えていない。
*15)二三三頁。なお太字は引用者による(以下、特に断ることのない限り同様)。
*16)註(9)論文、八四〜五頁。
*17)ただし、この石母田の引用文では、かかる意義は日本の国家史の内、古代・中世国家史に限定されているが、ここではひとまず、この問題は措くこととする。
*18)石母田前掲書、大町註(10)書。これらの立場と異なり、なお、生産関係論・共同体論に総括的位置を与える石母田と異なり、当時の国際的緊張を国家成立の主要因とする見解もあるが(吉田孝『律令国家と古代の社会』岩波書店、一九八三年)、既に多くの批判があるように、筆者も日本古代における国家の成立を説明しえていないと考える(大町前掲書、歴史学研究会日本古代史部会運営委員会「首長制論の新展開に向けて」〔『歴史学研究』六二六、一九九一年〕、浅野充「日本古代の社会と国家ー宮都の成立・展開と社会・国家ー」(『歴史学研究』六六四、一九九四年)、同註(10)論文など参照。
ただし、主要因ではなく、あくまでも契機にとどまるとはいえ、石母田が『日本の古代国家』において国家の成立を論じる上で対外「交通」の問題を重視したことは明らかである。同書の第一章は「国家成立史における国際的契機」となっている。また、筆者が問題とする機構論も、本来の構想では最終節となるはずだった「官僚制国家と人民」が「律令法継受の史的意義」を最終項(第三項)としている。すなわち、「中央集権的官僚制国家の必然性」(第二項)を前記のように社会内部の「融和しがたい対立」から説きながらも、最終的には律令法継受にみえる対外「交通」の問題に収斂させる論理となっている。既述のように、本書が事実と理論の緊張関係の中から日本古代史研究独自の国家論を提起することを課題としていたことを考えれば、かかる対外「交通」史研究の重視は、西欧型の国家理論の検証としての意味を持ち、さらにかかる検証自体が「新しく何かを生み出す作業」であったことからすれば、それは石母田の古代国家論において不可欠とも言うべき独自の位置を占めていたことは間違いない。しかし、石母田が対外「交通」史研究の成果を以て、どのように西欧型の国家理論を検証しようとし、それがどのような形で石母田の古代国家論の構想の中に位置づけられているかは、未だ具体的に明らかにされていない。
*19)『歴史学研究』六五一、一九九三年。
*20)註(18)前掲
*21)福島正樹「高橋報告批判」(『歴史学研究』六五三、一九九三年)、今津勝紀「浅野・平野報告批判」(『歴史学研究』六六六、一九九四年)。なお、浅野自身も近年ではここで問題とするような「上部構造」論の位置づけを踏襲しているわけでは、必ずしもない(たとえば、「日本古代における都市形成と国家」〔『国立歴史民俗博物館研究報告』七八、一九九九年〕)。しかし、これらの研究を検討することが意義を有すると考えられることは、本文で述べるとおりである。
*22)浅野の場合は、国郡制のみならず宮都も含まれるが、ここではさしあたり、国郡制に関する論考として差し支えない。
*23)事実、浅野は結論として九世紀以降の社会・国家は「国家の制度の浸透により社会が変化し、安定したレジームとなったのではなく、社会の展開こそが国家を規定し、展開させていったと考える。」(四四頁)と結論づけている。
*24)註(18)前掲。
*25)山中敏史『古代地方官衙遺跡の研究』(塙書房、一九九四年)
*26)ただし、山中註(25)書によれば、八世紀末以降、郡家の館や厨家が整備されている事例、国府の国庁・曹司が八世紀後半から九世紀にかけて整備・拡張されている事例が指摘されている(三九三〜四頁)。前者が「八世紀末以降」として下限が設定されていないこと、後者が九世紀における事例が指摘されていることから、九世紀以降の国府・郡家の変遷を、一口に「衰退」とし得るかは問題もある。
*27)既述の、これらの研究に対する批判には、「8世紀と10世紀の郡の『領域』の違いといった点について明確にすべきではなかったか。」(福島批判、四三頁)、あるいは「〈国制史〉上の問題も含めて律令国家論なりを構築すべき」(今津批判、三七頁)との「上部構造」論とも関わる指摘が見える(「上部構造」論にのみ限定されるかはここでは措く)。しかし、これらの研究の「上部構造」に属する諸事実の、国家論における位置づけの仕方を問題とせず、「上部構造」自体の研究の不十分さを論じても、「理論と論理を欠く歴史的事実の集積」を生み出すだけではなかろうか。それでは、これらの研究の独自の意義である「国家論の一部門としての国家史を研究している」という自覚が継承されないこととなり、その成果が失われることになると思われる。
*28)註(9)前掲論文、八三頁。
*29)この点は、両説の歴史像の固定化・硬直化が如実に示しているといえよう。
*30)ただし、ここで指摘した問題は、この両者にだけ限定されるとするつもりはない。両者が前提とした 「首長制論の新展開に向けて」(註(18)前掲)は、国家論における生産関係論・共同体論の総括的位置の必然性を強調しているが、かかる位置づけはそもそも当時の歴史学に対する社会的要請に対応する意義をも持つものであった。したがって、わざわざその意義を確認しなければならないということは、「そもそも、なぜ日本古代史の立場から国家を論じなければならないか」を改めて確認しなければならない状況ー「国家論の一部としての国家史を研究しているという自覚」の希薄化ーが生じていたことを示している。すなわち、学界の全体的傾向として石母田の提起の意義の認識が不十分であったと考えられるのである。なお、「歴史家は素材または半製品を提供する」という認識では、「つまるところ素材や半製品さえ提供し得ない」(註(9)論文、八四頁)ことになるので、「何らかの形で国家論と関わるのだ」というだけでは、「国家論の一部としての国家史を研究しているという自覚」にもとづいて、事実と理論の間に緊張関係を設定したとは言えない。
*31)「戦後歴史学を総括するために」(『日本史研究』四五一、二〇〇〇年)
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