□「平成25(2013)年ブログ」NO.1  平成25年1月1日〜3月31日   ♪BGM 
「平成25年度 NO.1 インデックス」
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■「新たなボランティア」への挑戦                 平成25年3月30日

 以前より、我々と在住外国人との相互理解と国際交流を促進する仕事のお手伝いが出来ればと思っていた。そんな折ボランティア仲間から、横浜市の委託を受けて地域住民がボランティアで参加して、自主運営で国際交流活動を行っている機関「青葉国際交流ラウンジ」があることを聞いた。

 早速ネットで当面お手伝いが出来そうな業務を下調べして、30日ラウンジに出かけボランティアの登録申請を行った。当面は、図書、展示会、PC回りのお手伝いから始める積りだが、語学を習得して交流に関わる業務を遣れればと思っているのだが、何時のことになるやら・・・。じっくり腰を据えて遣っていこうと思う。

 ただ、この日PC担当の方からホームページ周りに興味があるのなら是非協力いただきたいとの言葉と、CSS言語の習得をお願いされてしまった。Java言語を始めたところなのでこれにも興味が尽きず、勉強しなければいけない羽目になってしまい、当分は忙しい日が続きそうだ。でもやるからには、時間が掛ってもステップを一段づつ登るしかなさそうだ。語学関係が遅れたら絶好の言い訳にするのが目に見えているが、新たな挑戦へ舵を切ってしまった。

 言い訳だらけの人生この期に及んで怯むこともないか。

※CSSとは
 スタイルシート言語の1つ。スタイルシートは「Webページのデザインやレイアウトを定義するもの」でホームページ維持には欠かせなくなってきている。


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■ プロジェクト「アートあざみ野配布し隊!」            平成25年3月28日

 横浜市民ギャラリーあざみ野からアートサポータ(ボランティア)に呼び出しが掛り、「アートあざみ野配布し隊!」なるプロジェクトへの参加要請を受けた。本プロジェクトの狙いは、同ギャラリーでもっと多くの方にもっと気軽に美術・芸術に触れていただければとの思いから、あざみ野に横浜市民ギャラリーがあることや主催事業を知ってもらう為の活動を展開することである。

 具体的には、人が集まる場所に「アートあざみ野」という8ページ程度の情報誌(ニュース紙)/年4回程度発行:を置かせて頂き認知活動を強化していくことであり、現在、公共の場に配架していることに加え、喫茶店等の各種店舗や自治会、任意クラブといったところへも拡充していこうとするものである。

 この日集まったメンバーは4人、リーダ(ギャラリー職員)から説明を受けターゲットにする場所や、アプローチの仕方など喧々諤々の議論を重ねたが、今までこのギャラリーで取組んできた活動とは毛色も異なることから活動の方針を決めるのは一筋縄ではいかなかった。

 誰かがパイロットで試験的に進めるしかない雰囲気に陥ったので、一番若手の小生が自分の行きつけの場所を念頭にトライしてみることでこの日の会議を終えた。

 この日以降、日頃お世話になっているところに出向き、懸命にご協力依頼に奔走し25日までに3件配架の許可を得ることが出来た。仕掛りは1件あるものの上々の滑り出しと言えるだろう。久しぶりに現役時代に味わった仕事の醍醐味を感じた。

 28日にご挨拶回りにリーダを3か所にお連れし、配架をさせていただいた。この日は数日前の天気予報では雨となっていたが、この週一番の晴れた日和となり、我が活動の将来を象徴しているように思えてならなかった。

 プロジェクトは緒に就いたばかり、これからが本番。天気予報さえ狂わしてしまう我々活動の将来は明るい。これを糧に本番を乗り切っていこうと思う。


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■ あざみ野カレッジ「知っていますか、日本が芸能王国ということを」 平成25年3月9日

 「日本の古典芸能の世界をのぞいてみませんか?」というキャッチ・コピーに誘われ、横浜市民ギャラリーあざみ野カレッジ主催の講座「知っていますか、日本が『芸能王国』だという事を」を受講した。

 講師の中村雅之氏(横浜能楽堂副館長、明治大学院兼任講師)のお話しによれば、神楽、雅楽、能、文楽、歌舞伎等多岐にわたる芸能が生まれ、発展していった国はほかにないのだそうだ。

 芸能の発展経過は祭祀・儀式だったものや、労働の苦役を少しでも楽にするために踊ったり、歌ったり、手拍子を打ったりしていたものが原点であったが、それらが、洗練化、プロ化され娯楽へと分化進展していったとのこと。

 神様に見せるもの、儀式として間違いなく滞りなく遣ることから、人に見せるもの(人が見て、遣って楽しむもの)、いわゆる、公務員化から一般大衆化へ進化させていったのであり、面白みに欠けるようなものではないストリー性のあるものに作り上げていったということなのだが、それを可能にしたのはわが国では古いものを幾世代にも受け継ぎ守り継ぎながら新たなものへと変えていく性質と、国が基本的に裕福だったことがその背景にあったかららしい。

 そこに、他国では郷土芸能の域にしか留まらなかったものが、わが国では娯楽芸能へと進展していった特徴が見られ『芸能王国』と言われるゆえんがあると、脱線模様のユニークな話しぶりを交えながら語られる講演にすっかり引き摺り込まされてしまった。講演の時間が大幅に延長されていたのにも気付かなかったのは、能、狂言、歌舞伎などを見させないではおかないといった雰囲気に酔わされていたに違いない。

 『芸能王国』にいるのだから能、歌舞伎に酔い潰れない手はない。


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■「横浜トリエンナーレ学校 特別編」               平成25年3月6日

 この日、「横浜トリエンナーレ学校 特別編」が開催され、横浜トリエンナーレ2014のアーティスト・ディレクターに就任された 美術家 森村泰昌氏の講演『「ヨコトリ物語」が始まった!さあ、たいへん!』を拝聴した。

 アーティスト・ディレクターとして、どのような考えで来年開催する「横浜トリエンナーレ」に臨まれるのかとても興味があった。講師は冒頭に今までは一芸術家として活動し(横浜美術館では過去に2回大規模な個展を開催されている)、キュレートされることは経験してきたが、キュレートする立場に立つのは初めて。だから一芸術家の視点から日頃考えてきた芸術に対する思いを次回の「横浜トリエンナーレ」で表現したい、と述べられ講演を始められた。

 講演は、マルセル・デュシャン(1887年7月28日-1968年10月2日、フランス出身でのちアメリカで活躍した美術家であり、20世紀美術に決定的な影響を残したと言われている)が、1917年にニューヨーク・アンデバンダン展に出品したレディ・メイド作品である「泉」(これは既製品の便器を買ってきて、それにサインしただけのものを出展作品として偽名で応募)に纏わるエピソードを追いながら、彼の芸術に関する考えを丹念に解説するものであった。

 当時この出展品を(ただの日用品を買ってきただけのもの)誰も芸術品とは思わなかった。というより無視してしまったが、「そこにそのオブジェについての新しい思考を創造した」という、美術の従来の思考を打ち破る革新性を気付かせたことによって、後年多くの芸術家から評価されるようになっていったとし、「如何に美術の枠を外そうとしているのか」「見るものが芸術を作る」という視点こそが彼の芸術思考の本質であると説き、ヨコトリ2014の構図をその延長に置かれていることを示唆された。
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 作家が思い入れを込めて創造した作品から、それ(作家の意図や思い入れ)を鑑賞者が読み取ることが美術の一般的ありようらしい。だから、作品「泉」のようにただ日用品が置かれているだけで、作家の意図が何にもないものを美術といえるのかとなる。ところが、日用品というオープンテキストを提示して、見るものが自由に書き込み作品を作り上げていくという発想に立つことで新しい美術のありようが生まれてくる。この例は「モナリザ」にも当てはまるらしい。作家はモデルがだれで場所が何処だとか、何故そんな絵を描いたとかいったそれらの意図を一切語っていないが、見るものが勝手に想像して「モナリザ」という作品を作りあげている。という説明をし彼の芸術思考の本質を支持した。
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 さらに、1910年代に起こったロシア革命や世界第一次大戦、さらにはベルトコンベアーに象徴される大量生産方式により産業が大転換していったこの時代を、正に19世紀と20世紀のひずみ(亀裂)の間に在った時代だと指摘し、そういう時代であった(時代の影響を受けた)からこそ現代美術の開花につながる革新が起こったとし、その先兵だったデュシャンを評価されるなかに示唆を裏付ける強い意志が垣間見えた。

 それから100年経った今日、我々は正に20世紀と21世紀の亀裂の中にあることに気付かされる。だから今こそデュシャンの歴史から学ぶべきであって、ヨコトリではそのことを意識すべきであろうとの決意を5項目の方針で表明され講演を結ばれた。

 □ヨコトリをキュレートする5つの方針
  @ヨコトリは、20世紀と21世紀の亀裂の間に立つべき
  A時代を反映していなければならない
  Bエンターテーメントでなければならない
  C一方通行ではなく、何処にも繋がる広場でなければならない
  D型にとらわれてならない

 講師が柔らかい関西弁で「自信たっぷりな作品は嫌い」と語る言葉は、今までの思考をリシャッフルすることをデュシャンの思考法から学び、2014年の横浜トリエンナーレをキュレートしていきたいとの強い意志の表れだと思った。

 これを具体的に取りまとめていくのは大変な作業だと思うが、来年のヨコトリが従来にない興味を掻き立てる展覧会になりそうな予感がする。一ボランティアとしてその実現を見届けるためにもこれからもヨコトリ学校に登校し、来年の本番に備えなければならないと思った。


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■ 昔の仲間との再会に趣味を考える                 平成25年3月2日

 この日の3週間ほど前に、本欄の平成24年11月2日に「釣堀事件」で紹介した釣り名人のKさんから、3月2日に手伝いの依頼を受けた。その日に、グループ会社L社主催の駅伝大会が子供の国で開催され、Kさんの会社もチームを編成して参加するので、釣りがてら応援に行くとのことであった。「だから何だと」いうことなのだが、ご要望を承れば、釣りを一時中断して会場に出かけるにあたって「あっしー」を務めてくれないかということのようであった。

 依頼文はこの上もなく丁寧なことばで綴られていたが、要するに「あっしー」の依頼なのだ。そして、あたかも小生の心を見透かしたように、「河合さんの昔の部下が何人か参加する予定で、彼女達に合って激励をされたらいかがでしょうか」「彼女達もキット喜ぶんじゃないでしょうか」と結ばれていた。

 極めて痛いところを突かれてしまい、昔の仲間と再会したい一心で、お手伝いする旨二つ返事でお引き受けしてしまった。3月2日早朝(7:30頃)、寝床で春眠をむさぼっているところに突然携帯が唸りを上げた。既にもう釣り堀にいるので、お約束の10時半頃によろしくお願いします、とのメール文を理解するのにしばしの時間を要した。

 昨晩は遅くまでPCと戦っていたので、メールを気にせず再寝を試みたが、一度覚めた目は夢の世界に入ることを拒否。昨晩の遣り残しを片づけ、早速釣り堀に出かけ「あっしー」を務めることとした。車の中で、7:30に釣堀で釣りを始めたようだが、何時頃起床したのかと気になっていた質問をした。小生の頭の中ではだいたい1時間ぐらい前であろうと思っていたのだが、彼の言葉に驚いてしまった。曰く、「何人かの釣り仲間と場所を争って確保しなければならないので、6:30には釣堀に到着していました」。これを聴いて絶句するしかなく、握るハンドルに力が入ってしまった。

 趣味の世界を徹底するのなら、こんなことはたやすいのであろう。本日の駅伝大会に参加する面々も趣味の嵩じた方ばかりであろう。であれば、今朝からの彼らの行動がやたらと気になった。久しぶりに再会が出来た仲間との思いは大変懐かしく、格別であったが、趣味を共有する駅伝仲間の言動に思いを馳せない訳にはいかなかった。

 趣味らしき趣味を持たない私には、とても眩しく羨ましい光景に見えた。早起きもいとわない趣味を見つけなければと思った。

「昔の仲間との再会は大変懐かしかった」「趣味を共有する駅伝仲間の言動はとても眩しく、羨ましかった」


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■「鎌倉七福神めぐり」                     平成25年2月28日

 1週間ほど前、雑木の先輩から「立春も過ぎたが、七福神巡りをしませんか?」とのメールが飛んできた。日頃、罪深いことばかりしかしていないので、罪障消滅をしなければと思い参加することにした。

 当日は、走行距離約5km。浄智寺(布袋様)、鎌倉八幡宮(弁天様)、宝戒寺(毘沙門天様)、妙隆寺(寿老人様)、本覚参寺(恵比寿様)、長谷寺(大黒様)、御霊神社(福禄寿様)の順に、北鎌倉から長谷まで梅を見ながらお参りすることとなった。

 朝、9:25に青葉台に集まった殊勝な心がけを持った衆生は7人であった。7福神巡りに7人とは偶然にしても余りに出来過ぎており、何かのお導きに違いないと出発を前におじさん達のテンションは上がった。

 今年はいつまでも寒い日が続き、春の訪れはいつかと気をもんでいたが、当日は汗ばむほどの陽気となり各寺々の庭に咲き誇る梅の花に見入られた時、確実に季節が移ろい春の訪れを感じた。

 各お寺に春の木漏れ日の中ひっそりと祭られている神様をお参りし、罪深き日頃の行いを懺悔しながら、本日の不思議な縁(えにし)に思いを馳せた。清々しい気持ちに満ちた七福神巡りが、七番目の神様(ふくろくじゅ様)をお祭りした御霊神社に来た時に、我々の罪深さを物語る象徴的なことが待っていた。

 お祭りしてある社に鍵が掛っており、拝観が出来ない状況になっていた。当日、我々の前に何人もの衆生が同じ憂き目を見たに違いない。やむを得ないと思った時に、神官の奥様らしき方があわてて飛んで来られ、失礼しましたとおっしゃりながら、鍵を持参して開扉を試みられた。扉は思ったより重々しい鉄の扉で出来ており、かよわい女性の力では無理に思えた。

 お聞きするところによれば、いつもはすんなり軽く開扉出来るとのことであった。ところが、本日に限ってなかなか扉は開かなかった。当方の力自慢の輩が試みたが扉はうんともすんとも発せず、開かなかった。奥様がお詫びかたがた仰るには「本日は西日が強く当たり、扉の鉄が膨張してしまい手の施しようがない」とのことであった。

 まさか、理科の話をお聞きするとは思いもしないことであったが、工学系に明るいお歴々には納得の様子で感心し切り、そして、こんなことが起こることにびっくりすると同時に、このようなことに遭遇した偶然をどのように解釈すべきかに議論が集中した。曰く「やはり罰あたりなのであろう」「いやいやそうではなくて、我々にもう一度来てもらいたい為にお試しになっているのだ」・・・等々、我々に不思議な謎を投げかけたお参りとなった。

 歩き疲れ、謎を解かんとした帰りの電車の中は不思議な雰囲気に包まれていた。まさか真坂、自宅に辿り着く寸前のバス停でしゅ(酒)ろうじん様が、格別の思し召しで待っていて下さったとは。いきつけのそば屋で本日の反省を込めた酒盛りが続いた。これは我々の意志ではないことを断っておかなければならない。ふくろくじゅ様がしゅろうじん様に化身し、少しばかりのねぎらいと、反省をして必ず出直してこいとのご託宣をお与え下さったのだと思う。
 再訪問を誓ったのは云うまでもない。

「春の日差しに支えられた七福神巡りの面々」「ふくろくじゅ様の社は開扉出来ずに・・・」


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■「同病相哀れむ」                   (2月25日)平成25年2月28日

 友人のS君から「痔日帰り手術療養記」なるエッセーが届いた。彼と仕事上で本格的に付き合い始めてから10年以上、夜毎飲み明かしながら仕事を語り、身上を語るなか話題が闘病に向かったのは必然の成行きだったかもしれない。

 彼には生死をさ迷う大きな手術の経験がある。小生も30代中盤にそこそこの手術を受けた経験があり、闘病に関してはお互いに一家言を持つようになっていたからであろう。

 この種の話は、自分がどれほどひどい病に陥ったか、どれほど大変な手術を受けたのかの隠れ自慢話の披露合戦になるのである。病気を経験した者しか分からない特有な現象といえる、だから自慢合戦が始まると相手を降参させるために手練手管を極めることになる。質で劣ると思われる場合は数で勝負するといった、実に涙ぐましいおバカな努力に傾注するということである。

 彼の生死をさ迷う手術には、さすがに及びもつかず数でいくしかなくなってきた。だから小生はそこそこの手術の第2段を開陳し大勝負に打って出たのだ。彼の顔に勝ち色が見えた頃、取っておきの第2段(小生の痔の手術の珍談奇談)を披露した。その刹那、彼の顔から勝ち色が失せ「参りました」とばかりに小生の珍談奇談に耳を傾けてくれた。

 久々にいい気分を満喫したが、彼は参ったのではなく痔に悩まされ、そのひどさ加減は小生のものよりもっとひどいものと密かに思いつつ、いつか見返してやろうとの一心で痔の手術治療の概要を参考にしただけらしい。

 このことが、彼から送られてきた「痔日帰り手術療養記」を見て気が付いた。またしても彼の自慢話には「降参」と手を上げるしかないのだが、それにしても日帰り手術を受けるなどとは・・・。小生にいわせれば切った直後の苦しみを思えば、この上ない無謀な挑戦としか思えない。

 2月の某日、いつもの仲間が集まって全快祝いを行った。彼の手術療養で起こった珍談奇談は小生のレベルの比ではない。抱腹絶倒!、彼の自慢話に耳を傾けるしかなかった。こういった自慢話は持たない方がいいに決まっている。健康であることが余程大事であることは言を俟たない。だから、こういった自慢話が反面教師となればと思うのである。

 彼の「痔日帰り手術療養記」を、彼の許可を得て別項に掲載した。お暇があれば是非お立ち寄りいただければと思う。

 ※「痔日帰り手術療養記」はここから入れます。


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■「横浜市民ギャラリーボランティア交流会」       (2月23日)平成25年2月28日

 2月23日、この日横浜市民ギャラリーのボランティア交流会に参加した。今般本ギャラリーが3月11日を持って閉館(移転を計画)し、約1年半の休館を経て2014(平成26)年秋口に新ギャラリーとして開館することとなったことを踏まえ、本ギャラリーでの最後の交流会合となった。本館は昭和49年7月に現在の教育文化センターに移転し、約40年間市民の芸術・文化活動、展覧の施設として運用されてきた。さすがに移転当初に関わった方はいないが、この施設の恩恵に浴した職員、ボランティアにとっては思い出も深くひとしおの思いが駆け巡った。

 参加者が一人ひとり今年取組んできたことと思い出を語り、次への想いを熱く語る中にそのことが透けて見えた。ボランティア各人はとても真摯で、芸術に関わっていこうとする気持ちが強く、交流会が終わった後で有志は馬車道通りのこじゃれたレストランに繰り出し、延々と明日への活動に付いて語り合った。

 長い歴史の中でボランティアに培われてきたDNAなのであろう。そしてそのDNAを持つ人々によってこのギャラリーは支えられてきたに違いない。1年半後に改装された新ギャラリーでもこういったDNAをキチンと繋いでいかなければならない。そのためにもこの間でなにをするか、仲間と共に行動を起こせればと思っている。


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■「2012年報道写真展」と「ロバート・キャパ展」を鑑賞       平成25年2月20日

 2月20日、ボランティアの先輩から紹介を頂いた「2012年報道写真展」を日本新聞博物館に出かけ鑑賞した。本展では、東京写真記者協会に加盟する新聞・通信・放送34社が2012年に撮影した膨大な報道写真の中から選ばれた約300点の写真が展覧されていた。ロンドンオリンピックで活躍したアスリートたちに新たな感動を覚える場面もあったが、とりわけ東日本大震災の復興途上にある被災者を紹介する写真に涙を止めることが出来なかった。彼らの心に残った傷跡が一日も早く回復するよう祈るしかなかった。

 当日は、前々から「ロバート・キャパ/ゲルダ・タロー二人の写真家」展を見たいと思っていたので、報道写真展を見た後で横浜美術館に出向き同展を鑑賞した。
 1月19日の当欄で「キャパ、知られざる実像」の講演を拝聴したことを載せたので、本展覧会の詳細は省くが、あの日横浜美術館 天野主席学芸員から聴いた解説を思い出しながら会場を巡った。勿論、「崩れ落ちる兵士」の写真が専門家の間で話題になっているとの解説が頭を駆け巡っていたのは云うまでもない。

 入場してみて、思いのほか多くの来館者がいることに驚いた。ほとんどは写真の専門家らしい雰囲気を漂わせていた。そしてその誰もが、かの話題を知っているらしく当写真の前で釘づけになっているものや、連れに解説を試みている来館者が目立った。小生も釘づけになった一人で真偽の程を想像させられる時間に浸った。

 本展覧会をキャパとタローそれぞれの写真作品による「個展」で構成し、二人の生涯と活動の軌跡を辿りながら、両者の深いつながりと個性の違いを浮かび上がらせると案内されているが、その意図を十分堪能できる展覧会だと思った。

 また、1930年台に起こったスペイン内戦をはじめ多くの戦争前線の写真を見て、ロバート・キャパやゲルダ・タローが訴え、伝えたかったことを身近に感じ取られたせいや、東日本大震災の復興途上にある被災者を紹介する写真に涙を止めることが出来なかったことが胸を突き、報道写真が時代をえぐる汗青(かんせい)であり、歴史を刻む史書と思えてきた。

 二つの展覧会を見て、時々はこういった写真ともじっくりと向き合うことも大事なのではないか、と思った。


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■「ZATUBOKU(雑木)」の年次総会            (2月17日)平成25年2月28日

 2月17日、町内ボランティア「ZATUBOKU(雑木)」の年次総会があった。
 ※ZATUBOKU(雑木)のことについてはこちらを参照ください。

 この日10時から1時間半、雑木(笹竹などの雑木・雑草)刈りを行い、ひと汗かいた後に近所のケア・プラザの会議室に集合し、当ボランティアグループの来年度の活動計画を審議した。例年、本審議は世話人の提案された原案を10分程度で承認してしまい、その後の懇親会にもっとも貴重な時間をかけるのが習いとなっている。

 ところが今年はどういう訳か、ある管理の基本ルールの審議に議論百出。一家言を持つおじさん達ばかりなので喧騒を極めた審議となった。いつ果てるのかと不安に陥ったが、喋り疲れ、ひもじさに耐えられなくなって1時間以上も延長となった審議はようやっと終了。煩い元気満々のおじさん達も空腹には勝てず、かつ目の前にアルコールがちらつきだすとそこそこの常識が働くらしく、あの喧騒とした議論も何処へやら。満場一致で可決する風景を笑い飛ばすしかない。

 この日集まった13人の古武士達の顔には、ひと仕事を終え、ややこしい審議を終えた達成感が満ち溢れ、席を変えた集会場での懇談会は大いに盛り上がった。懇談会は極めて質素な予算で、若手の担当がス―パに飲食物を仕入れに行き、なにから何まで手作りで行うのだが、左党の面々を満足に導く仕入れの技には舌を巻く思いがする。

「議論百出の審議風景」「古武士の面々に満足感が漂う懇談会」

 真昼間から飲むお酒にやや後ろめたさを感じるが、進むほどに気が大きくなっていくものらしい。もっとも「つまみ」となる会話が飛びきりなせいなのであろう。だから、3時半を過ぎても懇談は止む気配をみせず、会場を変えて2次会、3次会に繰り出すこととなった。この日最後まで戦ったお仲間は3人、午後9時まで9時間のお付き合いとなった。

 ボランティアを通じ地域に貢献しながら、こういった素敵なお仲間と語り合えるのは本当にありがたい。でも調子に乗って9時間も飲み続けるのは控えた方がいいのであろう。素敵な仲間ならではの悩みとも言える。


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■「日本の宿命」という本                (2月11日)平成25年2月25日

 Javaのお勉強で四苦八苦していたさ中、この本「日本の宿命」に引き摺りこまれ一気に読んだ。「何かがおかしい」、「嫌な感じ」がどうにも消えない、「カリスマが現れても新政府が出来ても高邁な理想を掲げられても、絶望的いらだちがおさまらないのはなぜなのか?」 と著者は言い、この国が無脊椎の国になってしまったことを指摘する。

 「日本は本当に独立国か」、「真珠湾攻撃から70年」、「開国という強迫観念」、「開国と維新の精神」「福沢諭吉と近代日本の矛盾」、「1980年代論」といった切り口から「制度論」や「事実論」ではなく、一種の「精神論」(「精神のあり方」や「ものの考え方」)の軸の定まらないことから混迷を極める我が国を俯瞰し、警鐘を鳴らしている。

 この国が無脊椎のままであってはいけないことを痛切に思い知らされる、正に目から鱗の本だと思う。ご一読を是非お勧めしたい。
 我々世代が率先してこの国の有り様に付いての精神のあり方(軸)を定めなければならないのではないか、読後の感想は重い。

       □ご一読お勧めの本
        書名  日本の宿命(新潮新書)
        著者  佐伯 啓思
        発行  新潮社

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■「あざみ野カレッジ」と「フォト展覧会」        (2月9日)平成25年2月21日

 2月9日、横浜市民ギャラリーあざみ野で開催された「あざみ野カレッジ:舞台芸能とネット動画文化の親和」を受講した。講師は藤山晃太郎(手妻師)、江戸古典奇術・手妻師として舞台公演を行う一方、手妻や邦楽など継承された伝統の「本物の技」をこれまでなかった形で動画投稿サイトに展開しているとの紹介があった。

 ニコニコ動画で大人気となり話題を集めているようだが、伝統の舞台芸能とITとのコラボレーションが切り拓く新たな世界に引き摺りこむ師の実演を交えた講演は、それを裏付けておりとても興味をそそられた。
 自分も動画に投稿しようかという気さえ起こさせるほど、創作意欲をくすぐる講演だった。機会があれば投稿してみたいと思う。

本講演の内容はこちらをご覧ください。

同ギャラリーでは「あざみ野 フォト・アニュアル 写真家 石川真生―沖縄を撮る +平成24年度横浜市所蔵カメラ・写真コレクション展 アメリカ写真の黎明」の展覧会が開催されていたので立ち寄った。以前にロバート・キャパの講演を聞いていたから写真展にも興味を持ったからである。

 石川真生の写真には、真の沖縄人の心情をえぐりださす情念が映りだされているようで、各作品の前で釘付けとなってしまった。写真の持つ不思議な力に圧倒された思いとも言える。出口で彼女から微笑みとお礼の言葉を投げかけられたとき彼女の写真の一部に入りこめた気がした。

 アメリカ写真の黎明は、案内にあった「写真はテクノロジーと芸術が結びついた新しいメディアとして、アメリカの商業主義に支えながらさらに発展を遂げ、当時、社会に重大な影響を与えた南北戦争や西部開拓などと結び付きながら、急速に伝搬していった」・・・。その様子が写真作品や、機材を通して理解することが出来た。黎明の頃の写真には歴史を懸命に伝えようとする写真家の思い入れが伝わってくる気がする。

本展覧会の内容はこちらをご覧ください。


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■「WFP横浜支部運営委員会」へ初めて参加         (2月8日)平成25年2月21日

 2月8日に開催された「WFP横浜支部運営委員会」に初めて参加した。この委員会はWFP横浜支部の当年度の活動報告と会計報告並びに当年度の活動計画と予算案を承認・議決する委員会である。

 WFP横浜支部は、特定非営利活動法人国連WFP協会の傘下に位置づけられた組織で2006年4月に設立され、協会の目的を達成するための諸活動を行うこととしており、具体的には横浜を中心とした神奈川県で地域に根付いた支援活動、駅頭での募金活動、パネル展、講演会を実施している。

 会員は、原則神奈川県在住の協会会員であり、会の代表は横浜市立大学の学長が務められている。当日は、本支部の役員(代表、副代表、運営委員、監事)、並びに協会職員、および協力企業を合わせて約30名の参加の下、予定されていた報告事項、決議案件がつつがなく承認・可決された。

「WFP横浜支部2012年度活動報告」「WFP横浜支部運営委員会会場の一コマ」

 小生は本支部の会員ではないが、過去1年本支部の活動にボランティアの立場から携わってきたこともあって、本運営委員会の手伝い(ボランティア)を依頼され、本委員会を参観させていただくこととなったという次第。もともと本WFP活動を始めた時から主要活動決定のプロセスや仕組みに興味があったので、今回の参観はひとしおのものとなった。

 ボランティアという立ち位置の違いもあって、私見を整理するには時間が掛りそうだが、WFP活動推進の本質的な事がほの見えてきた思いがする。本年はこういったことに傾注しながら活動の幅を広げていければと思う。でも、それには埒外から見えた活動への新たな提言もしていかなければならないのだと思うが、簡単なことではない。ひとしおと感じた意味は、それなりの覚悟もしておかなければならないことを示唆している。


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■「白内障」の宣告を受けて               (2月4日)平成25年2月21日

 4-5年前から目が霞むようになった。自覚したのはテニスをしていてボールが霞んでよく見えなくなってしまい、眼鏡が曇っているからと思い眼鏡を拭いたが、目の曇りが一向に良くならないことが起こったからだ。

 それより6-7年以前、目に大きなトンボが飛ぶようになったので眼科医の診断を受けたところ、「見事な(典型的な)飛蚊症です。一生付き合っていくしかありません」と言われたことがあったので、目の管理には気をつけてきたつもりなのに。振り返れば、定年退職してから1日の大半をPCと向かい合う日々を送るようになり、とりわけHP立ち上げやその維持に見境もなく目を酷使してきたのかもしれない。

 目に一家言ある先輩方にお伺いしたところ、それは白内障の疑いがあるとのご託宣であった。そして手術を受けどんなに世の中が良く見えるようになったかとの説得に富む体験談は、小生を白内障の解放へと駆り立てた。

 2月4日、眼科医で診断を受けたところ予想は的中。典型的な白内障で右目は少し進んだ状況だが、左目は初期の段階との診断。そして「何時手術をするか」と意思を確認されたとき、あれほど解放へ駆り立てていた気分が、病院が醸すおどろおどろしい手術の恐怖に飲まれてしまい、「どうしても手術をしなければならないか」と反論してしまった。

 どうやら「今すぐにとは・・・」、「生活に不自由でなければ・・・」とのことらしいが、名医の意図は早い方がいいと言っているようである。想像を超える多くの患者が来院する本病院では、躊躇しているあんたに付きあっているほど暇はないというような雰囲気が手に取るように分かる中、どうすべぇかと迷っている自分に苛立ち、誠に因果なことと呪わしくなってくる。目の機能の大事さが分かり過ぎているから、まさかの恐怖に躊躇しているのだとの言い訳もむなしく響く。


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■「Java Language」へ挑戦                    平成25年2月18日

 前々から、本ホームページの見映えを良くしなければと思っているのだが、遅々として進まない。誰でも簡単にホームページが作れるという甘い言葉に乗せられ、専用ソフトを使わずにhtmlを駆使して、ようやっとの思いで自作のホームページを立ち上げてきたが、もっと良くしたいという欲望を満たすには甘言の裏に潜む罠を見逃していた。

 例えば、写真を何枚かスライドしてホームページの体裁を上げようとするには、他の言語の力を借りhtml内に組み入れながら一体化しなければ実現できない。だからそれを望むのであれば、未知のプログラム言語を習得しなければならないということなのである。

 具体的にいえば、Java Programming Languageを学ぶことでありそれを駆使することであるが、今更この歳になってお勉強をしても理解できるかということのほかに面倒くさいという一言が、挑戦する気を萎えさせてしまう。そこに、ビギナーを甘言で誘い罠に仕掛けた後で専用のソフトを買わせようとする業者の思惑が垣間見える。冗談をいった積りだが、頭が固くなってきた小生にとってこれは本音の吐露である。

 でもここまであくまでも自作(専用ソフトは使わない)に拘ってきたのだからと気力を振り絞り、この謀略に抵抗しようとJavaの世界に踏み込むことにした。1月の後半からインターネットの中をさ迷いながら指導サイトを探り、独習を始めた。昔Easy-corderやCOBOL 言語を経験したことがあるので抵抗感はないが、それらの概念とは大分異なり理解には時間が掛る。けれど言語そのものには大変興味がひかれすっかり嵌ってしまった。

 お陰で毎晩遅くまでPCと向き合う羽目になってしまい、他のことが全然進まなくなってしまった。とりわけ2月に入って本ホームページの更新がストップ。さらには目が悪くなっていく一方で、4日に眼科医に白内障の手術を勧告されてしまった。でも当分は、目鼻がつくまでと思いスタディの成果を試してみるのだが、これがまたなかなかうまくいかない。ソフトの世界のこういった状況は何回となく経験してきたつもりだが、さすがに気分が萎える。

 ここまでいくつかリニューアルを施してみたが、納得のいく出来にはなかなかならない。いつかうまくいくことの試練だと思うことにしたが自作に拘るのは本当につらい。当分は「Give-upして専用ソフトを使えば!」と誘惑する甘言とのバトルが続く。


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■「2013横浜F・マリノス トリコロールフェスタ」          平成25年1月26日

 横浜F・マリノスのファン感謝祭「2013横浜F・マリノス トリコロールフェスタ」が1月26日に開催された。今年も国連WFPは主催者のご好意をいただき、会場内に設置されたブースの提供を受け、WFPの広報・宣伝と募金活動を実施した。

 当日はWFP横浜支部の幹部の方と6人のボランティアが参加した。昨年経験したボランティアは小生を含めて2人。年の功で小生がリーダの役割を担わされ、少々張り切らざるを得なくなってしまった。参加したお仲間はどなたも前向きで、今冬一番の冷え込みとなったなか、声を嗄らしながら活動を展開し、想定を超えた成果を上げることが出来た。

「2013横浜F・マリノス トリコロールフェスタ」 2013横浜F・マリノス ファン感謝祭

今年も多くのファンが駆けつけスタンドを 埋めつくした。横浜に根付いたチームへの 愛着は最高潮に達していた

WFPも横浜が拠点、マリノスファンに愛さ れなければならない



「お仲間はどなたも前向きで、声をからして・・・」
 当日参加したお仲間は6人
どなたも前向きで、今冬一番の冷え込み となったが、声をからして活動を展開

ブースは活気に満ちあふれ想定を超える 成果を上げることが出来た




「3コーチとの触れ合いの交流」
松永、阿井、小坂コーチとの触れ合いは 彼らの絶妙な掛け合いに、ファンのみな らず我々も虜にされてしまった
スーパースターだった証しは、人にとても 優しいことだったことに気付かされる
募金箱を持ってくれた姿は輝いていた
来年も是非WFPのブースでご一緒したい


「WFPブースの前には長蛇の列が出来た」
3コーチの人気に導かれたファンが 当ブースの前に長蛇の列をなした。

彼らの温かい善意(募金)を頂き目頭 が熱くなってしまった。

心から感謝の気持ちを伝えたい。



 今年も、飢餓への戦いはここから始まった。ブースを訪れていただいた3コーチの温かいご支援は、我々の心を揺さぶりWFP活動に弾みを付けてくれた。誠に嬉しく、活動がこういった貴い陰の応援者に支えられていることを思い知らされ、年初に相応しい活動となった。弾みに乗って、今年も飢餓への戦いに参戦していかなければなるまい。


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■「トリエンナーレ学校2012冬期-実践編-」開講           平成25年1月23日

 ご存知かと思うが横浜トリエンナーレは2001年に第1回目が開催され、来年は第5回目の開催が予定されている。そのため、第4回トリエンナーレ終了直後から、次回開催に向けたサポータ活動の具体化が進められ、トリエンナーレ学校2012が2012年6月5日に開校された。もそも本学校は、「横浜トリエンナーレ」を応援し一緒に盛り上げることを目的に、さまざまな知識や経験を楽しみながら身につけるための学校と位置づけられている。2012年度のトリエンナーレ学校では「横浜トリエンナーレをもっと良く知ろう」をテーマに、世界に発信する国内外の国際展や地域のアートプロジェクトを紹介。現代アートの国際展としての「横浜トリエンナーレ」を知り、次回2014年開催に向けて活動の方向を探っていくことになっています。と事務局の広報は伝えている。

 既に、昨年末までに学校は5回開催されたところだが、今回は実践編として、国内外から横浜を訪れる多くの方に、横浜の魅力を伝え、まち歩きを楽しんでもらうために、まず参加者自身が横浜を知り、その魅力を発見し、体験するワークショップを「イントロ編」「ワークショップ編」「成果発表編」の3回に別けて実施されることとなった。

 1月23日に開催された「イントロ編」では、北九州市八幡東区枝光の商店街にある、空き店舗を拠点とした臨時劇場「枝光本町商店街アイアンシアター」の芸術監督を務める市原幹也氏から劇場での活動の紹介や演劇プロジェクトの“LOGBOOK”についてお話を伺った。

 氏は2003年に小倉市で劇団を結成し、活動を始めたが壁に突き当り、自分のアーティスト性がどこにあって、誰に向けて作品を作るのかを模索するようになったこと。そこで、演劇が社会に役立つことを証明したいとの思いに至り、徹底的に地域と向かい合うことを考え、2009年に八幡の枝光に拠点(劇場)を構え、枝光本町商店街アイアンシアターを創設したこと。そして、地域商店街の方や、住民との熱い交流を通じた街おこしに取り組んできたことを語る。この話はとても興味深く、市原ワールドに引き込まれてしまった。

 劇場(芸術)が街(住民)を受け入れ、街が劇場を受け入れるといった相乗作用が、寂れた一地方の街を蘇らせつつある成果を上げていることに感動を覚えた。芸術が街に支えられ、街は芸術の力によって支えられていること、そしてそれが国際展覧会のあるべき方向を示唆していることを思い知った。

 ※この劇場の詳細はこちらをご覧ください。

 氏の街を受け入れていった演劇プロジェクトの“LOGBOOK”の話にも大変興味深いものを感じた。“LOGBOOK”とは航海日誌のことらしい。これを演劇の視点から活用し、街を歩き(航海し)、見た(想起した)ものを直筆で紙に記録し自分の航海日誌“LOGBOOK”を作る。そして、その紙をお互いに交換し合って、再び街を歩く(他者の航海日誌“LOGBOOK”で航海する)ことで、「あなたが見た(想起した)」という実感(LOGBOOK)が、他者における「まちの遠近感」を再設定し、循環させることになるらしい。

 これは体験しないとよく分からないが、画一的な情報でしか紹介できなかった街を、サポータ各自(人)の感性で街の魅力を倍加出来たらどれだけ楽しく、意義あることかと想像できる。この講座は「ワークショップ編」、「成果発表編」へと続く。時間があればこれらに参加して、自分の航海日誌“LOGBOOK”を作り、次回横浜トリエンナーレに訪れる方への道案内が出来ればと思う。

 街(住民:自分)が劇場(トリエンナーレ)を受け入れ、芸術を支えることに一助を果たせたらどれだけ素晴らしいことか。来年に迫った横浜トリエンナーレに思いを馳せた。


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■「いせやま会館と横浜能楽堂の見学」                 平成25年1月20日

 1月20日に横浜市民ギャラリー主催の「いせやま会館と横浜能楽堂の見学」が催された。本見学の主旨は本年3月11日に現・市民ギャラリー(関内)を閉館し、一時休を経て、平成26年秋口に西区いせやま会館(旧横浜市職員厚生施設)を改修し新ギャラリーとしてオープンすることになっているので、この日、いせやま会館の周辺探索およびいせやま会館に近い文化施設として横浜能楽堂の見学会を実施する、ということであった。

 冬晴れの寒い日となったが、集合の午後2時には当ギャラリーでボランティア活動をしているメンバーが15人参加した。広報担当のリーダの手書きによる地図を片手に、新しく横浜市民ギャラリーに生まれ変わろうとする「いせやま会館」への導線や案内表示などを考えながら起伏の激しい道を探索した。

新しく横浜市民ギャラリーに生まれ変わろうとする「いせやま会館」


 この周辺の探索を通じ、横浜の文化を開拓、継承してきた時代の流れを肌で感じることが出来たように思う。とりわけ、横浜能楽堂の見学は、日頃は決して入れないであろう舞台裏や楽屋、焙じ室、鏡の間、橋懸りに通じる緞帳の掛った出入り口、等々に入れていただきとても感動した。説明を頂いた熊谷さんの言葉に室町時代にタイムスリップさせられ、能の世界に引き摺り込まれる魅力を感じた。

「横浜能楽堂の本舞台正面」「舞台裏から見た見所(客席)」


 冬晴れの寒い午後を歩き回りながら、改めてこういった有形無形の文化資産を次世代に繋いでいかなければならない思いを強く感じた。そしてその拠点の一つに、生まれ変わる横浜市民ギャラリーが位置づけられることを願わずにはいられない。


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■あざみ野カレッジ「キャパ、知られざる実像」を聴く          平成25年1月19日

 19日、横浜市民ギャラリー「あざみ野カレッジ」で開催された 横浜美術館主席学芸員 天野太郎氏による「キャパ、知られざる実像」の講演を拝聴した。

 案内によれば、“世界で最も著名な報道写真家の一人であるロバート・キャパは、当初二人の写真家が創り出した「架空の人物」であったことはあまり知られていません。生誕100年を迎えるキャパと、パートナーであった女性写真家ゲルダ・タローの作品を紹介する横浜美術館の展覧会「ロバート・キャパ/ゲルダ・タロー 二人の写真家」(2013年1月26日〜3月24日)にそって、その実像をお話します。” とあり、会場には写真愛好家らしい方々が多数参加していた。

 講演は、二人の写真家の生い立ちから、写真にのめり込んでいった状況、二人の出会いとパートナーになっていった背景、ロバート・キャパの名前のゆえん、彼らが有名になった理由、さらには、カメラが発明され、それが与えた社会へのインパクト(特に報道関係を中核とした社会システム)、そしてその成果物及び写真家の価値、写真と絵画芸術との違い等々、多岐にわたる切り口と豊富な話題に満ちていたので、実に興味深く拝聴させていただいた。

 解説によれば、報道の世界にカメラがもたらした決定的瞬間の社会情勢(例えば戦場)は、世の中の見方を一変させたらしい。決定的瞬間の表現が、絵画ではとても負いきれないことが明らかになり、その社会情勢の決定的瞬間をえぐる写真家の存在が大きくクローズアップされ始めていった。だから、戦場を主戦場として報道写真の世界を切り拓き、社会の要請に応えてきたキャパが時代の寵児、この時代を象徴する写真家となった。との解説に、会場にキャパに傾倒していく雰囲気が垣間見えた。

 講師のキャパの実像に迫る話には、パートナーであったゲルダ・タローとのエピソードが実に巧妙に仕込まれており、興味を掻き立てられ続けた2時間となった。そして最近話題になっているエピソードを聞いて、この展覧会を絶対見に行かなければならないと思った。

 それは、展覧会で展示される「崩れ落ちる兵士」と題する写真が専門家の間で話題になっているらしいのだ。この写真は1936年のスペイン内戦の折、従軍したロバート・キャパが、コルドバで頭を撃ち抜かれ倒れる瞬間の人民戦線兵士を撮ったということになっている。
 ところがこの写真は・・・。
 1)この写真は、彼ではなく相方のゲルダ・タローが撮ったのではないか、2)であれば、この写真はうち抜かれた瞬間の写真ではないのではないか(彼女のカメラでは、このような瞬間の写真を撮るのは非常に困難である)と云った疑問が寄せられ、その世界で真偽の大論争が展開されているようなのである。


この展覧会の詳細はこちらをご覧ください。


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■「新年会は続く」                        平成25年1月18日

 今年は昨日(1月17日)時点で、4回の新年会をこなしてきた。今年の皮切りは1月8日田町で開催された会社職場OB会の新年会であった。会員が約55人ほど登録されており、毎月第2火曜日に開催される定例会には20-25人程度が参加しているが、今年の新年会には41人が参加し大いに盛り上がった。平均年齢は恐らく72-3歳を超えているであろう。小生などはまだまだ下の方でひよっこ。相変わらない諸先輩の毒舌ぶりや健啖さに脱帽するしかないが、今年もその元気一杯、溌剌した立ち居振る舞いから新たな年に掛けた気魄が伝わってきた。そのことが帰りの電車の中で、「もう少し静かに、穏やかに・・・」、とそして我々後輩には「いつまでもたいへんねぇ-」と云わんばかりの乗客の目からも窺えた。

 2回目は、12日の土曜日に農業仲間の“松ちゃん”と行きつけのサロン(飲み屋さんではないのでそう呼んでいる)で。毎々畑仕事をした後で一献傾けるのが慣わしになっているので、話題は自然と農業のことに集中するのだが、今回は年初に相応しく「一年の計」に話題が集中した。少々高尚な理想を語り合った積りだが、新年のうまい酒に翻弄されて折角の理想も四部(分)五裂。結局、今年も健康第一で生ききることを「一年の計」の要に置くことを確認しあった。ならば翻弄されるまで飲む酒の量も控えねばなるまい。

 3回目は、15日の火曜日にWFPボランティア仲間と桜木町の場末の中華屋さんで行った。新年の初会合ミーティングを終え20時からメンバー7人が集合して紹興酒を呷り、今年の抱負を述べあった。円安、株高基調を示し始めてきたが失われた20年を打破できるのかどうかという話題もさることながら、飢餓に対する支援にどう向き合っていくのか・・・。紹興酒はなかなか酔わせてはくれなかった。

 4回目は、17日の木曜日に町内老人有志の「ひまじんの会」の新年会が行きつけの料理屋で開催された。毎年新年会と暑気払いを行っているので懇談パターンはすっかり定番となっているが今回は12人のひまじんが集結した。既報の通りこのジイさん達はとても煩く、健啖呵の上酒豪なので凄まじい会になる。この日は「ひれ酒」を痛飲しながら明日への街づくり、国造りに老人たちは乾坤一擲の咆哮を轟かせた。

 この日以降、18日、20日、24日、25日と新年会はまだまだ続く。「一年の計」をそれぞれ異なった方達と語り合うのは、とても楽しく参考になる。でも、1カ月も掛ってしまうのは問題かもしれない。それは、単にお酒好きが「新年会」と称し「一年の計」を言い訳に飲み騒いでいるだけではないか、と云う気もしない訳ではないからである。それでもしかし、1月にこのような宴(縁)会が集中するのは意味があることなのだと思う。元旦に立てた1年の計が独善的になっていないか、多くの方達に開陳し批評を受け、時間をかけてでもブラッシュアップしていくことの有用性を過去の経験から学んできたからである。

 酒好き者のくだらん言い訳を極めてしまったようだが、年を追うごとに明らかにその回数が減っていくことを思うと、残された1回1回の新年会を疎かには出来ない。今年の新年会もあと4回、体力に万全を期し、お酒と会話とベンチマークを楽しみたいと思う。


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■「豪雪の風景」                         平成25年1月16日

「横浜の辺境に降り積もった豪雪の風景、我が家の梅の木がたわんでいる」


 雪国育ちの小生にとってみれば、なんとはない風景の1ショットなのだが、こちら辺り(首都圏)では十数年ぶりの大雪とか。雪は14日の午前中から降りだし、午後2-3時ごろまでには10センチを超える降雪となった。気象庁の発表によれば東京8センチ、横浜13センチであったが、横浜の辺境に住む小生の近くでは18-20センチ位積もった。こちら流の表現を借りれば豪雪なのだ。

 毎度のことながら、交通はマヒ状態を呈し転倒者が続出。雪国育ちのものには到底考えられない状況だ。冷温天候がしばらく続くらしいので、凍てついたテカテカ道路の回復が遅れ、歩行者は当分の間充分注意を要するとのこと。

 ならばご近所の皆さんの為にと、昔とった杵柄とばかり道路の雪かきを行った。最近ジムで鍛えていることと、雪かきの要領を知っていることを過信して15,16日の両日、それぞれ2時間ばかりこの豪雪と格闘したところ目も眩むほど疲れ果ててしまった。お陰で、道路はきれいに除雪され歩きやすくなった。ガラにもなく、いいことをしたもんだと独りで照れてしまったが、近頃平坦な道にもかかわらず躓き気味になることがあるので、誰の為というより自分自身の為だったのかもしれないと思いなおしたら、にやけた顔から冷汗が噴き出した。

 今シーズンは、今のところ長期の天気予報が外れっぱなし。暖冬ほどではないが、こんなに寒い冬になるとの予報ではなかったはず。豪雪をスコップで運びながら、景気も天気も人任せの予報はほどほどに聞き留め、大事な判断は自分自身で確かめるというごく当たり前のことを思い知らされた。


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■「すずめの家族に瑞兆を・・・」                 平成25年1月12日

 もう3-4年前になるかと思うが、毎週火曜日にトピックスを喋らされたお勉強会で、最近とみに「すずめ」が少なくなったことを話したことがある。「すずめ」に興味があったわけではなく、毎週トピックスを喋らされるのでそのネタを考えていた時に気付いたからだ。以前は朝早くから鳴き声が喧しく、餌をついばむ姿がどこでも見られた。とりわけ、家の周りは里山があり、その合間に田んぼが広がっており、辺りには多くの「すずめ」がいたはずなのにめっきり見なくなってしまった。

 ちなみに本当に「すずめ」の数が減少しているのかどうか調べてみたところ、激減していることが分かった。一説によれば1990年比、少なくても半減。減少率を高く見積もると5分の1になったと考えられており、50年前の10分の1と推定されているようだ。道理で見なくなってきた訳だ。理由は、家が巣を作れない構造になってきたとか、機械化が進み落ち籾が少なくなり冬場の餌が少なくなってきたとか、都市化に伴う餌不足等々いろいろと推定されているようだが、可能性として挙げられているにすぎないと報告されている。

 気候が亜熱帯化してきたのではないか、と思わせるような環境の変化を身近に感じるようになってはいたが、環境の変化はなにも気候だけではない。具体的になにがどう変わってきているのかには無頓着だったように思う。じわじわと進む環境の変化に気付かないまま生活してきているが、ある日突然激変していることを思い知らされ愕然としてしまう。

 そんな思いをしてから3-4年経ってしまった新年1月12日、久しぶりに周辺の田んぼ道の散策に出掛けた。稲が刈られた田んぼには、最近やたらと増えたカラスがたむろしている中、むく鳥やモズの一団に交じって「すずめ」の大家族を見かけた。久々の光景に見とれてしまい行動を見守った。鳥たちのさえずりが一段と喧しくなっている中で「すずめ」の鳴き声だけが失われた20年を打ち破り、今年の大豊作を予言するかのように力強く響いていた。今年はきっといいことが起こる瑞兆なのかもしれない。


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■「機嫌を損ねた我が愛機(PC)」                平成25年1月10日

 一昨年あたりから、我が愛機のパソコンが重くなりだした。セキュリティ関係のソフトや写真処理等周辺装置関係、並びにそれらに付随するソフトがやたらと取り込まれてしまったようで、にっちもさっちもいかなくなってきた。加えて、HPを立ち上げたことで写真等の映像情報が溜まり始めたことも拍車をかけている。

サポートナビゲータやソフトナビゲータをさんざん調べまくり、タスクマネジャーを駆使して対応をしたが埒が明かず、メインメモリーが逼迫、我が愛機は完全に与太ってしまった。スタートアップの設定を変えたり、余計なプログラムを削除したり、仮想メモリーのサイズを見なおしたりしているうちに、重要なドライバーを削除してしまったり、HPの中間(仮想)ファイルを見失ってしまったり、この3-4ヶ月は振り回されっぱなし。1月に入って頂点に達したが、立ち上げに時間が掛っても焦らずにじっくり一つひとつ対応し始めてから、最近ようやっと小康状態に漕ぎつけてきた。

 まだまだ課題も多く安心はできない。コントロールパネル等に各アイテムの説明がこと細かく記されているが、これを読んですんなり対応できる人は、そうはいないだろう。余りにも専門的すぎる。数多く付加されている各ソフトの機能や、他のサービスソフトとの連携などが全く分からないので、いじりようがないのが正直なところである。高級なおもちゃを使い切るにはそれ相当の知識が必要なのかもしれないが、食わず嫌いな人をますます遠ざけてしまうのではないか。

 今日も、取説に従い買ってきたばかりの大容量のUSB(フラッシュM)をReadyBoostに対応させた。対応は完璧だと思ったが、思った通りのパフォーマンスが体験できないので、購入元に問い合わせしたところ、この機能をやらせない方がいいと言下に否定されてしまった。「一体どういうこと?」。藁をもつかむ思いで解決策を進めたというのに。

 まだまだこんなようなことが続くのであろうが、今年は腰を据えて愛機を復活させたいと思う。それにしても、こういった情報端末がをもっとシンプルに使えるように人間に近づけさせなければ真の意味の情報化社会は実現しないのではないか。自分の知識の無さを棚に上げ、余りにもレスポンスが遅くなってしまった我が愛機を操りながら愚痴っている。

 
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■「初孫」への「初お年玉」                    平成25年1月5日

 初孫(娘の子供)が正月、婿殿の実家に行った。婿殿のご両親の孫の可愛がり様はことのほかのご様子のようで、逐一娘から連絡が届いていた。このこともあって、我が家の家族旅行は落ち着きのないものになってしまったが、ジジ馬鹿ぶりでは負けてはいられず、早速手持ちの写真をいじくりまわして、初孫への生まれて初めてのお年玉を作ってみた。

 1月5日に孫を連れて来たので、本作品を彼にプレゼントした。本人は訳がわかるわけではなく舐めまわすだけだが、初めて渡すお年玉に妙に力が入ってしまった。物心ついたときに、小生のジジ馬鹿ぶりが分かってくれさえしたらと、思うだけで胸が熱くなってしまった。今年もジジ馬鹿ぶりの競い合いには負けてはいられないのだ。

「孫への初めてのお年玉。小生のジジ殿が分かるようにきっちり署名しておいた。」


                                            
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■「お雑煮」が・・・                       平成25年1月2日

 正月と言えば当然「お雑煮」であろう。小さいころ、大晦日の晩に銭湯に連れていかれおもいっきり身体を洗われた後に、まっさらな下着(当時、降雪の多い田舎ではラクダのシャツと言われたぶくぶくの厚手の上下(勿論股引もセット)が流行っていた)を着せられ、正月を迎えさせられたのだが、ラクダの下着より「お雑煮」を食べない限り正月は始らなかった。

 東京の下町を舞台にした「三丁目の夕日」の様な風景の前兆が、日本の何処にも起こり始めた戦後間もない頃はまだまだ貧しい時代であった。そんな時代の正月に大人たちは、せめて「お雑煮」だけは、と奮発し正月の祝い膳を飾ろうとしていたのだと思う。

 だから「お雑煮」に掛ける思いは半端なものではなかった。雑煮の歴史的食文化のしきたりを超えた、大人たちのこれからの国造りに対する思いが凝縮されていたように思う。とにかく沢山食べさせられた。餅の大きさも最近のものとは比べようもないほど大きいものであった(田舎と大都会との違いかもしれないが、昔の餅は大きかった)。親からその餅を強引に勧められながら「いいもん(勉強のできる子、社会のお役にたてる人間)になってくれ」、そして「いい国にしなければ」、と毎年云われたことが思い出され、正月の「お雑煮」の祝い膳は、国富復興を誓いあう儀式だったのかもしれないと思うようになった。

 大時代的になってしまったが、「三丁目の夕日」の風景の背景にはこんなことも含まれているように思えてならない。そしてこういったことが、経済大国を作り上げてきた大きな原動力となっていたのだろうとも思う。それから半世紀の時が流れ、大晦日の晩の儀式も、下着の儀式もとっくに霞んでしまった。そして、我が家では「お雑煮の餅」が極端に小さくなってしまった。食べる量も極端に少なくなってしまった、というより加齢は言い訳かもしれないが、年々食べられない体質に変化してきているようなのだ。

 気がつけば、わが国は失われた20年と揶揄され、方向を定められないまま荒海を彷徨している。こんなことを想定して先人は雑煮に特別の思いを掛けたのではないだろう。「お雑煮」の餅を大きくして食させた役割が、その目的を十分果たしたことを誰も否定出来ないと思う。だから、誰も(この国)が「デカ餅のお雑煮」を、従来通り受け付けられない体質に変化してきているのであれば、それに代わる何かを用意しなければならないのであろう。そしてその役割は我々が負うべきなのではないか。小さくなった「お雑煮の餅」を口に入れながら思った。


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■「平成25(2013)年」年初に想う                 平成25年1月1日

 どうやら1年おきに家族全員で年末に旅行することが定着してきたようである。昨年末の旅行は長男が仕事の合間に計画を進めていたようで、今年はどうするのかと思っていた矢先に連絡がきた。長女が嫁いでしまったので今年末は次女と長男を合わせた4人での旅行となった。日頃、温泉でゆっくりくつろぎたいという私の希望を聞いていたのか、伊豆堂ヶ島温泉に腰を据えたプランを用意してくれた。

 2泊3日の行程で晴れたのは、3日間最後の31日のみ。湯治を目的としたのだからと思いつつも、天気のことに思いを馳せてしまい「雨○○○は誰か」との下手人探しにおだを上げてしまった。でも、考えてみればこの方のお陰で温泉三昧を堪能し旧年中に溜まった垢や澱をきれいさっぱりと流すことが出来、清々しい気持ちで新年を迎えることが出来たのだから近年に無いヒットを放ったことになる。

「伊豆の山々は雨○○○のお陰で煙っていた」


 新年の朝、雑煮を前にした家族に向かって「雨○○○のお陰で、かえっていい新年を迎えることが出来た・・・」と言いはじめた時に、「その○○○はあんたでしょう、自分自身にお礼を言って何になるの!」と言い返されてしまい、思わず絶句。
 ただひたすら時の流れに身をゆだねながら、平々凡々に過ごしていきたいだけなのに。今年も小競り合い、小バトルは避けられそうもない。そんな危うい予感がして新年の寒さが殊更身にしみた。

 過去幾十年間何度戦ってきたことか、戦績の方は定かではないが、恐らく勝ち越しはしていない。我が家にとって小生が勝ち越せないこの小バトルこそが、家族の、とりわけ刀自殿の生き甲斐になっている。だから小生にとって平々凡々とは全くかけ離れた戦々恐々こそが、我が家の円満には欠かせないアイテムなのである。

 でも、たやすく勝てる相手ではないが、そろそろ勝ちにいかないと、あこがれの平々凡々の生活がまた遠くなってしまう。だから今年こそ勝ち戦を目指さなければならないと思い、「雨○○○はお前さんだろう!」と挑もうとしたのだが、余りの寒さに口が凍え呑み込んでしまった。出鼻を挫かされ今年も勝ち目は覚束なく、我が理想の平々凡々を棚上げするしかなさそうだ。

 年初から今年の志が腰砕けになってしまい本当に忸怩たる思いがする。「あのとき口が凍えさえしていなかったら・・・」。 今年も定番の「レバ・タラ愚痴」が先行してしまったようだ。


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