□「平成24(2012)年ブログ」NO.1 平成24年1月1日〜3月31日
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■「サクラを求めて」 平成24年3月30日
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本日、友人の"松"ちゃんと下調べもしないまま、東京のブリジストン美術館で開館60周年を記念した展覧会にいく予定を立てていたのだが、19日から当日まで休館していることが分かり急遽予定変更をせざるを得なかった。こういう急場の時に、天性的な異能を発揮する我が友は少しもあわてず「最近見つけたサクラの名所(鶴見川堰堤)に案内しますよ」と電話をよこし、強引な誘いの一撃を入れてきた。その心は、酒を飲むのに絶好なところに連れていくので安心されたいということなのである。無論、当方が拒否する意志などないことを織り込み済みなので、返事を返す前に電話は切れた。長い付き合いのなせるわざと言おうか、彼の天性的な異能に脱帽してしまう。
午後には、あれほど暗かった空も晴れ渡り、今春一番の暖かさに恵まれた中、おじさん二人はサクラというよりアルコールの誘惑に惹かれ、鶴見川土手を市が尾方面に向けて歩いたのである。
思えば、本日は平成23年の年度末。土手沿いから見える道路は、この日に年度末の結末をつけようとされるらしい方々が忙しく飛び回っている車で一杯。途中立ち寄った青葉区役所の駐車場も満杯の標識ランプがついていた。テレビでは消費税見直しの法案が閣議決定され、国会に提出される運びになったとか。そのことで与党や連立を組む国民新党が分裂の憂き目にあるとかの報道が喧しく垂れ流されていた。未曾有の国難にあって1年、復興は遅々として進まず、電力料金の値上げに驚かされ、年度末になって会社や国民が苦しみ兢兢として飛びまわている中、政治の世界だけが相変わらずのていたらくを見せつけていることに、サクラさえその開花を遅らせ無言の抗議をしているように思えてならなかった。
この時期、土手沿いから見える春の風物が眩しく輝き、住民の心の安寧を見るバロメータになっているのだが、昨今は天候不順が続き不安指数を高めてきている。今年は特にその傾向が顕著に現れ、世の乱れを象徴しているように思えてならない。折角"松"ちゃんご指定のサクラの名所にたどり着いたが、満開にはほど遠く途中仕入れたビールで喉を潤したものの、口を衝いて出るのは愚痴ばかり。天性的な異能ぶりを楽しみにしてきたが、自然さえこういった乱れの前になすすべもなく、我々の探し求めていたサクラが未だじっと我慢している風景に、楽しみを見いだすことなど出来るはずもなかった。
せつない気持ちに追い打ちをかけられ、年度末に去来する思いに慨嘆しつつ、来年度こそはいい年にしなければと囁かざるを得なかった。
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■歌劇「死神」を鑑賞 平成24年3月24日
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この1月にモーツアルトのオペラ「魔笛」を鑑賞した時に、日本語オペラである「死神」の公演があることを知り、是非見に行こうと思っていた。タイトルが何ともおどろおどろしく湧き立つ気分にはなれなかったが、作曲家の池辺晋一郎氏に惹かれ是非見てみたいと思ったのである。彼がNHKで「N響アワー」の司会をされていたのを何回か拝聴し、独特のダジャレを交ぜた軽妙な語り口にすっかり嵌ってしまったからである。
本歌劇の作曲家池辺氏によれば、今村昌平氏が明治期の、落語の祖と呼ばれる三遊亭円朝の名作を大胆に脚色し、それに曲を付けたのが池辺氏で、彼の最初のオペラとのことである。上演は@1管オケ、A2管オケ、B室内オケ、Cピアノ+打楽器など様々な版があるらしい。今回はCで上演されたが、落語ベースのオペラでまさに「寄席的時間」を現出したいと願っていると仰っておられた氏の狙いは見事に実現されたと思う。
パンフレットのキャプションには
「極貧男を救ったのは、何と死神!」
落語を題材とした日本語オペラ。男のいく末、その"落ち"とは?
甲斐性なしで女房に頭が上がらない葬儀屋の店主早川の前に、
ある日突然現れた美女は死神会社のセールスウーマンだった。
彼女から持ちかけられた商談に乗った早川はニセに医者になりすまし、
瀕死の重病人を生き返らせて大もうけするのだが・・・・・
と、紹介されており、観る前におどろおどろしさから一転ユーモアの極致をイマージンしてしまったが、2幕2時間を観終えたとき、音楽がもたらす効果なのか、私の想像を超えたユーモアと、芝居の面白さを堪能することが出来た。これは観てみないと分からない感性でる。未だかつてない感動を覚えた。
今まではオペラと聞いただけで小難しいものだと思っていたが、こんなに気さくに、気楽に楽しめるとは・・・・・。
ますますオペラに嵌っていきそうである。どなたか一緒に観に行きませんか。
(参考) 池辺晋一郎作曲/歌劇「死神」
2012年3月24日(土)14:00開演
横浜みなとみらいホール 小ホール
指揮/松井慶太
演出/馬場紀雄
死神/長島由佳
早川/市川和彦
たつ/木村圭子
やくざの鉄/川久保博史
ピアノ/巨瀬励起
パーカッション/赤迫翔太
シンセサイザー/シモシュ
合唱/日本オペラ協会合唱団
神田さやか
吉田早苗
鈴村鮎子
西野郁子
三浦大喜
脇坂 和
別府真也
和下田大典
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■「Back to the Past : 甲府感傷ツアー」 平成24年3月21日
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17年ほど前に私は、甲府の工場(コンピュター開発・製造会社)に勤務していた。勤務を終え復帰してからもう15年にもなる。当時は単身赴任を強いられていたわけだが、良きにつけ悪しきにつけ夜ごと繰り広げられた修羅の飲み会が救いとなり、単身生活を謳歌していたのである。そんなことの一部を綴った年賀状をやり取りしている中、1月ほど前に飲み会を主宰していたドンのEさんから、久しぶりに甲府への感傷ツアーに誘われた。こういった誘いを断れるはずもなく、二つ返事で了解し3月21日に思い出深い工場にすっ飛んで行ったのである。
工場では昔の仲間が出迎えてくれ、15年ぶりに工場内を案内してくれた。工場の建屋は昔のまんまだったが、オフイスの一部や生産ラインが当時とは大分変わり、人も街並みも容赦なく変えてしまう時間の経過、歴史の変遷を改めて思い知らされた。しかしながら、当時わいわいガヤガヤしながら培ってきた友情が、出迎えてくれた仲間の誰ひとりにも変わらず伝承されていたことに感激し、涙腺が緩んでしまいそうになった。工場を訪ねることが出来て本当に良かった。
現役を既に退いてしまった我々オジサンにとっての楽しみは、古き良き時代の感傷に浸れることであるが、その拠り所(会社や仲間)が、元気で頑張っているということが大前提なのだということに気付き、万感迫る思いがした。
感傷ツアーは工場に立ち寄ることで意外な発見をしてしまい、そのことに感謝しつつ本格的な「Back to the Past」に向かった。
Eさんが、当時の修羅の飲み会の仲間に声を掛け出動可能な仲間が2名加わり合計4人で、当時の修羅の飲み会が再開された。当時の手順通り手始めに行きつけのS寿司屋でおだを上げ、本会場のたまり場だった"遊"へとなだれこみ、歳をとった分幾分息切れは激しくなったが、遅くまで手順通りマイクを離さないプログラムは実行された。懐かしさにむせび、歌い、はなし狂う様は昔と少しも変わらず、感傷のツアーはスクラムを組んで、定番の「青い山脈」を歌いあげお開きとなった。
昔我々を遊ばせてくれ、心の拠り所だったこのたまり場は少しも変わらず、その女神が導く古き良き時代への「Back to the Past」を心おきなく堪能することが出来た。恐らくこの15年間でこのたまり場も相当な変革に遭遇したことに違いない。我々が感傷に浸れるのは、先述したように拠り所(たまり場)が、苦難の変革を乗り越え元気で頑張ってこられた証しとも言えるであろう。誠に喜ばしく、感謝の気持ちを捧げなければならない。そしていつまでも元気で頑張り抜いて頂き、我々が感傷に浸れる拠点でいてほしいと願うばかりである。
今回のツアーを通じて、「Back to the Past 」:感傷に浸れるということは、とりもなおさず「Forward to the Future」ということがなされていることなのだと感じた。それは会社もたまり場も、我々に頑張りを見せてくれたことこそが何よりの証しと思えたからである。
これからもどしどし感傷ツアーに出かけたいと思うが、これからは我々が会社やたまり場が感傷に浸れるような挑戦:「Forward to the Future」を心がけなければならないのかもしれない。
 
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■「トリエンナーレ学校特別シンポジウム」に参加 平成24年3月17日
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3月17日、横浜トリエンナーレ主催の特別シンポジウム「都市型国際展と美術館 −ヨコハマトリエンナーレ2011とあいちトリエンナーレ2010を振り返る」が横浜美術館で開催された。
横浜トリエンナーレサポータに案内が来たので聴講しに出かけた。
本シンポジウムの狙いは、2011年、第4 回の開催で初めて横浜美術館を主会場のひとつとした「横浜トリエンナーレ」と、愛知県美術館と名古屋市美術館の2 つの公立美術館を主会場とし2010 年に初めて開催された「あいちトリエンナーレ」は、美術館を主会場にすること、まちを舞台に拡げながら市民協働を展開する等、お互いに共通したスキームを持っている。そこで、「あいちトリエンナーレ2010」よりキュレーターを務める拝戸雅彦氏をパネリストに迎え、こうした枠組みや活動を通じ、都市型国際展の今後の在り方を検討しながら、次回2014 年開催予定の「横浜トリエンナーレ」へとつなぐことにあるのだと案内にはそう紹介されていた。
そもそも、ビエンナーレとかトリエンナーレとかいわれている美術の国際展覧会とは・・・。その意図する基本的なことがよく分からなかったのだが、3人のパネリストが、本シンポジウムで都市型国際展のあり方について真摯で熱く交わす議論を聴き、さらに、横浜トリエンナーレ2011キックオフミーティングで語られた、イギリスのリバプール・バイエニアルのアーティスティック・ディレクターのルイス・ビクス氏の記録を読んでおぼろげながら理解することが出来た。
氏によれば、これらが存在する理由を@美術品を収蔵している人達(美術館やコレクター)が主催するもの、A調査・研究をベースとするもの、Bカルチュラル・ツーリズムを推進する類のもの(19世紀の「大博覧会(The Great Exhibition)の精神をもって文化を通して観光を誘致するもの)、C新作を委嘱するもの(新作を委嘱することによってアーティストとコミュニティが対話しやすくなるから)と述べられている。
さらに、これらがだれのために存在しているのかについて、次のように述べられており、なるほどと思った。
「アートは美術館に入れた途端に美術史の文脈に限定されてしまうということが分かりました。美術館の外に出た途端、来場者は街と対話しながら、同時にアートとも対話が出来るようになると思うようになったのです。アートがもっと多くの人と対話するためには、街に作品を置くのが最善策と考えました。アートを通じて都市と対話するほうが、美術史との対話より可能性が広がり、また人々にとっても魅力的なのです。どのようなアートであれ、どのような作品を設置するにせよ、美術館の中で展示しなくても、アートである限りいずれは美術史のなかに組み込まれていくでしょう。市民によって支援されるアートに対して、コレクターによって支援されるアートは別ものです。つまりアートが受容される文脈が異なるのです。」:<ヨコハマトリエンナーレ2011 キックオフミーティング記録集から引用>
このことを踏まえた上で、3人のパネルディスカッションを反芻すると、横浜と愛知での取り組み方のアプローチが異なりそれに伴う苦労も対照的だと思えた。横浜は過去3回実施してきたが毎回会場が異なっていて、今回はその上財政難も重なり国際交流基金がスポンサーから外れ、横浜市が肩代わりするものの規模が縮小、会場が横浜美術館になったこと等が過去のトリエンナーレとの大きな相違点だったとのことである。だから今回は美術館を中心とした展覧会になった。この点について2013年に計画されている愛知トリエンナーレの場合は、県と市の美術館を使うもののあくまでもそれらは従であり、主を街中(商店街)に置いたアプローチに見える。その特徴は、美術館の箱の中とは違う、街に染み出していく祝祭的な風景としているのである。
このようなディスカッションを聴きながら、都市型国際展のありようと美術館の果たす役割についてほんの少しだが理解を深めることが出来た。それは、昨夏ヨコトリのボランティアに参加しアーティストやキュレータ、多くの来場者そしてなんといっても、数々の作品に触れる機会があったからこそなのかもしれない。
本展覧会がコンセプト倒れになることなく、両市ともブレナイ芯を通して継続して開催していって頂ける事を願わざるを得ない。私も可能な限り継続してボランティアとして参加し、回を重ねるごとに本国際展、美術を鑑賞する力を高めていければと思った。
(参考)3人のパネリスト
拝戸雅彦
(あいちトリエンナーレ2013キュレーター/愛知県国際芸術祭推進室主任主査)
逢坂恵理子
(ヨコハマトリエンナーレ2011総合ディレクター/横浜美術館館長)
天野太郎
(ヨコハマトリエンナーレ2011キュレトリアル・チーム・ヘッド/横浜トリエンナーレサポータ事務局長/横浜美術館主席学芸員)
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■「国連WFP横浜支部・イベント推進グループ」キックオフ 平成24年3月16日
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3月16日、国連WFP横浜支部・イベント推進グループのミーティングに参加した。このグループの主な目的は、WFPの食糧支援活動を支援する活動の一環として、様々なイベントを企画し、その会場で広報・募金活動を行うことである。
今年度からその活動を強化していきたいとのことで、イベントグループを立ち上げ、その主要メンバー(イベント企画や実施運用)をボランティアの中から募り、そのキックオフ・ミーティングが当日開催されたのである。
私はボランティアに加入してから日が浅いので、本ミーテイングへは見学者の1員として参加させて頂くこととした。
当日は、協会から事務局長をはじめ3名、支部のワーキンググループメンバーが6名、ボランティアが4名の合計13名が参加し、新生イベントグループの方針や今年度のイベント活動の方向について議論が交わされた。
新人の私には、WFP活動に造詣が深い先輩の議論に耳を傾けるしかなく見学を決め込んでいたのだが、野次馬根性の性格を抑え切られず、ついつい的外れの質問をしてしまったところ、このグループの正式メンバーとして登録されてしまったようである。
口は禍のもとであることを永年の経験でいやというほど味わわされてきたのに、性懲りもなくまた遣ってしまった。かくなる上は、少々のことが起こってもこのグループと付き合っていかなければならないのかもしれない。
早速今年度の皮きりに、4月21,22日に予定されている「日清オイリオ磯子春まつり」に活動を展開することが決まり、その準備に駆りだされることとなった。今年度はこのほか5月から11月までは毎月イベントが予定されており、イベントグループの慌ただしい日が続きそうである。慌ただしい日に挑戦することで、世の中のお役にたてるのであれば(口の)禍転じて福となる。そう信じてこのボランティア活動にのめり込んでいこうかと思っている。
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■「松井冬子展」を三度鑑賞 平成24年3月14日
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3月14日に横浜市民ギャラリー(あざみ野)主催で、アートサポータ(ボランティア)を対象とした「松井冬子展」の鑑賞会が実施され、横浜美術館に行った。私はこれまで同展を2回見てきたので、今回は3度目の鑑賞となるが、2回見た感想を本HPの中で紹介してきた。
(⇒この感想はこちらから入れます)
一言で言えば、キャプションの説明をよく見ないと私には理解が出来ない絵であり、哲学的素養を総動員しないと理解が出来ないような印象を与える作品であった。頭の中が単純な構造になっている私には、高尚過ぎる絵ともいえ、親和性の距離感は遠い感じがしたのだが、何故か彼女の絵に引っかかるものあり、もう一度見て何故なのかを確かめたいと思っていたのである。
今回は、本展を企画・実施されてきた横浜美術館の担当学芸員の方から、30分以上にわたる解説・講義を頂く好機に恵まれた。彼女の解説によれば、東日本の災害があった(その災害の悲惨さを見せられた)あとで、松井の作品を展示することに相当葛藤があったとのこと。いきなり、臓器むき出しや、死体や死体に見紛う絵を見せつけられれば顰蹙を買うのは間違いなく、高邁な信念に基づく作品制作の意図を誤解なく伝え切れるかどうかが、本展覧会開催にあたって苦悶されたようであった。被害者を逆なでするようなことがあってはならないとの配慮であろう。
松井は精神的肉体的な「痛み」を始点として、恐怖、狂気、ナルシシズム、性、生と死などをテーマに挑発的とも言える作品(臓器むき出しに蛆がたかる絵や幽霊等など)を制作してきていると言う。たとえば「痛み」を目で見て共有できる芸術表現(絵画)にしていると説き、それは、精神的肉体的「苦痛」から逃げず、真面目に「痛み」を可視化しようとする深い哲学に裏付けられていること、さらに、絵画で表現(可視化)することで「痛み」から救済しようとする思惟が表徴されていると解説は続く。
これは、恐怖、狂気、ナルシズム、性、生と死などのテーマでも同様な試みがなされ、そのテーマを真摯に追求する哲学の具現化(可視化)とそのテーマへのアンチテーゼが表徴がされているとのことであった。
学芸員の解説は熱く、作家の芸術作品制作に関する真摯で高尚な思い入れ(哲学)に心酔している様子がひしひしと伝わり、彼女が夫と死別された時の心境が、この一連の作品が表徴するものに同化しているようなことを言いながら、涙を流し絶句してしまわれた際に、これらの作品はタダものではないのかもしれないと思った。
このような解説を受けた後で、三度(みたび)、じっくりとこの展覧会を鑑賞した。言われて、そして改めてキャプションを深く読み込んでこれらの絵の意図が理解出来た。あたかも学術論文を読まされているような気がし、アカデミックな鑑賞姿勢がないと理解が困難であるような印象を一層深めた次第である。
私は、単純明快なものが好きなので、深く思想を読みとらなければならない絵を鑑賞するのは体質的に合わないし、出来る訳もないのであるが、これらの絵が与えたインパクトは大きい、勿論懇切な解説を受けたからでもある。
これからも、自分の心に正直に絵を鑑賞していきたいと思っているが、自分が理解不能と思った時には、分かった振りや素通りなどをしないで、分かる方にまず説明を乞うことを心がけていこうかと思った。
でも、とても優れているといわれている芸術作品でも、生理的に受け付けないもの(解説を受けても)が出てきたらどうするか。自分の気持ちに正直でいられるかどうか、この度の松井冬子展で、私の芸術鑑賞が天の邪鬼的で誠に心もとないことを思い知らされた。
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■「ジャガ芋を植え晴耕雨読を再考した日」 平成24年3月13日
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一昨年から始めた農業(ガーデニング)も今年は3年目。右往左往しながらの2年間の成果は3分程度か。ホウレン草やトマト、茄子、ピーマンは何回やっても生育に至らず悩ましい限り。土づくりや肥料のせいだと思い、いろいろ実験は試みているのだが成果を確認するにはもう少し時間がかかりそうな雰囲気である。
初年度、ジャガイモとニンニク、キュウリ、オクラが比較的良好な収穫が出来たので、大いに気を良く調子に乗り過ぎてしまい、2年目初頭の天候不順に手を打てずジャガイモの植え付けが出来ない大失敗をしてしまった(購入時期を失し種イモを買いそびれた)。
キュウリ、オクラで挽回したもののトマト、茄子、ピーマンは惨憺たる成果。ニンニクは現在生育中だが何とも弱々しいのが気になる。2年間の総括は冒頭に記したとおりである。
今年はそれではいけないと大いに反省し、早めに土作りをすることとした。昨年の12月頃からほったらかしにしていた畑に、寒冬の中で大根と赤カブが健気にも頑張り通して来た姿を見て大いに発奮し、土作りに精を出した。そして、昨年の失敗を繰り返さないために、種イモを早めに仕入れておいたのだが、土作りをしてから間を置いているうちに発芽し始めてしまった。雨が降ったり、とても寒い日が続いたりして植え付けも出来ず、芽は伸びてくるわで素人農夫を悩ませる日が続いた。
13日に絶好の耕作日和となったので、松ちゃんと満を持して畝を作り、発芽し始めたジャガイモの種を丁寧に愛情をこめて植え付けた。その分足腰がパンパンに張り老身にはこたえたが、久しぶりに生産労働の爽快感を味わうことが出来た。
周りを見れば、既に作物が植え付けられ整然とした畑が出来あがっており、我々の畑も遅らせばせながら見映えだけは一丁前になったが、(先人達との)彼我の差は歴然としており、農業3年目の挑戦が果てしないことを痛感させられた。
晴耕雨読でいこうと決めたわけだけれども、晴飲雨飲の誘惑には勝てず、耕しも読みも疎かにしてきたことへの反省に迫られている。今年はもう少し真面目に晴耕雨耕、晴読雨読にメリハリを付けていかなければと思っているのだが、飲をどうするかの問題に悩まされている。2人とも無類のアルコール愛好者なのだ・・・。今年の成果が透けて見えてくる。
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■「横浜市民ギャラリーコレクション展」の勧め 平成24年3月12日
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3月1日から18日まで横浜市民ギャラリーでコレクション展2012が開催されている。今回のテーマは「顔:ザ・フェース」。ギャラリーに所蔵されている戦後から90年代初頭までに制作された絵画、写真、版画、素描、彫刻作品の中から人の顔が描写されている作品が60点ほど展示されている。顔は口ほどにもろもろの諸相を雄弁に語るものである。だから作中の人の顔や姿を通じて何を感じとってもらうのかがテーマなのであろう。
今年も昨年と同様に、ボランティアに好みの絵画にキャプション作らせ鑑賞サポート活動を行うことになっていた。 私は大変興味があったが、諸般の事情が重なって今回この活動には参加することが出来なかったので残念な思いで3月12日にこの展覧会を鑑賞した。
会場は、第1章 肖像:ある人物の顔(主に写真)、第2章 港・ヨコハマの顔(主に油彩画)、第3章 ひとり佇む顔(主に油彩画)、第4章 戦後・高度経済成長期・その後の顔(主に写真)、といった4章のジャンルに分けられていた。
私が真っ先に向かった先は、第2章の港・ヨコハマの顔のコーナー。そこには仲間が書きあげたキャプションが愚直に出番を待っていた。
作品の主な制作年は'88年であった。だからかもしれないが、絵の顔からは当時を偲ばせる時代の力強さ、自信、平穏、誇りが透けていたように思う。そしてその気持ちが、仲間の心を打つキャプションに拍車を掛けられ、しばしそのコーナに佇んでしまった。きっと多くの市民もこのコーナに惹きつけられ、郷愁に駆られるであろう。
個人的には田島那須美作「浜ツ子」が気に入ったが、キャプションをがなかったことが心残りであった。横浜港を背景に佇む若き女性の姿、顔に当時の時代('88年)背景がこれほど強く滲み出ているものはないのではないか、と思った。国や社会の姿をもありのまま映し出してしまうのが顔であるならば、この絵と対比し、今の自分の顔が今の時代の中で何を考えているのだろうかと自問させられるほどギャップのあり過ぎを感じたからかもしれない。
このような思いや、懐かしさに釘付けとなる作品が一杯展示されている。どのような顔に出会えるかが本当に楽しみな展覧会になっている。
18日まで開催されているので是非々々足を運んで見に行ってほしいと思う。
本展覧会の詳細は横浜市民ギャラリーのホームページでどうぞ。
⇒入口はこちらから
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■「3.11 2:46から1年」 平成24年3月11日
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昨年3月11日の東日本大震災から早くも1年が経ち、今週はどこのメデイアも特集を組んでいた。それらの特集の1部を見て、今更ながら大震災・大津波の残した爪あとの悲惨さに絶句し言葉が出ず、大自然の息吹に抗うことのできない人類社会のひ弱さを改めて思い知らされた。
それにしても、震災からの復旧、復興が遅々として進んでいない印象を受けるにつけ、何とも情けなくこの国は一体どうなってしまったのかと本当に心配になってくる。
瓦礫処理の分担に承知をしないノイズィ・マイノリティーに振り回されたりしている状況を見せつけられると日本人の心はどこに行ってしまったのかと愕然とさせられる。持ちつ持たれつ、人が困った時に暖かい手を差し伸べることを教えられ、少なくても20-30年前までは遣ってきた筈ではなかったか。受け入れを表明し実行に移したのは東京都だけらしい。他の県の首長は一体何を躊躇しているのか。多少の困難があったとしてそれを乗り越えて行くことこそが日本人としての矜持ではないのか。さらに言えば、こういう時にこそ一大キャンペーンを張って世論に訴えかけていくことがマスコミの使命ではないのか。彼らはいまその大局的な役割を放棄し、人の言葉尻を追い掛け批評、批判ばかりしかしない特権階級、権力者になり下がったとしか言いようがないように思う。このツケは必ず払わされるであろう。
1年が経って少し冷静に考えられるようになった部分もでできた。こういった災害が何千年も前から起こっていたことを考えると、自然に抗うことが出来ないにしても、それに対応、共生して生き抜いていく為の知恵が形成されて来たのだと思う。そういったことが活かされてきたのかどうか気になるところである。著名な作家によって記された地震・津波の報告を読めば、先人達が二度と繰り返してはいけない悲劇への対応が読みとれる。にもかかわらず悲劇を繰り返し受けなければならないのは、一体どういう理由からなのか。のど元過ぎれば熱さを忘れる式のメンタリティに陥っていないかどうか。日本人特有のメンタリティに支配されているのであれば今回こそその頸木(くびき)から逃れドラスティックな発想の転換による復興をしなければならないのだと思う。
100年後、1000年後に問題を先送りするようなことを今回は遣るべきではないのであろう。そして重ねてマスコミがこれを支えていくことが何より大事なのだと言っておきたい。
被災地の復興はこれからが正に本番、我々も可能な限り応援していかなければならない。特集の時だけ報道したり活動するのではなく、毎日愚直に取り組んでいくことなのだろう。11日の追悼式を見ていて、被災地の1日も早い復興を願いつつ改めてそう思った。
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■「みなとみらい・クラシック・クルーズ」鑑賞 平成24年3月2日
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3月2日、みなとみらいクラシック・クルーズ「藤原歌劇団メンバーによる日本のうた」を鑑賞しに横浜みなとみらいホールに出かけた。 当日は、ランチタイム・クルーズとティータイム・クルーズの2回に分けた公演だったが、通しで2回の公演を鑑賞することとした。
昭和音楽大学アートマネジメント・リレーションシップの企画によるもので出演者は小林厚子(ソプラノ)大木かおり(メゾソプラノ)、持木弘(テノール)、星和代(ピアノ)といった藤原歌劇団のメンバーで、数々のオペラや演奏会に出演されていることが案内のパンフレットに紹介されていた。
静まり返った会場に、小林さんのソプラノの音律にのった「浜辺の歌」が響き最初のクルーズが幕を開けた。歌唱の迫力とソプラノの透明さが日本の歌が持つ徐情感を高め、心をえぐられる感動を覚えた。続く「庭の千草」にも心は揺さぶり続けられ、ソプラノの日本の心を伝える魅力に圧倒され、息を呑む思いがした。
会場に感動の渦が沸く中、大木さんのメゾソプラノによる「くちなし」と「かもめの水兵さん」が披露された。これらの歌がこの音域にマッチしているのか、横浜にちなむ歌への郷愁が掻き立てられたのか、気持ちの高揚が更なる感動を波立たせていったように思う。
会場の感動はクライマックスに向かっていた。持木さんのテノールが響き渡った時にそれは確実なものに思えた。「箱根八里」はテノールでなければならないのかもしれない。独特の音域の中に武士(もののふ)の天下を旅する心意気、風景が一層鮮やかに見えてくる。さらにテノールによる「七つの子」は逞しく可愛い子供を連想させ、本歌唱のひと際抜きでた力強さを感じた。
歌い手の力量のなす技には違いないが、日本の歌がこれほど素晴らしく感動を覚えるとは思いもしなかった。小学校の木漏れ日が差す教室で、先生が一生懸命オルガンを弾いて教えてくれた状況が彷彿し涙が止まらなかった。
その涙が乾かないなか、全員による「ふるさと」が歌われた。昨年の3月11日以降あちらこちらで深い郷愁を誘っているこの歌に、改めて深い感動を覚え目がしらに涙の跡が絶えることはなかった。
続く、ティタイム・クルーズも最初のクルーズと同様、彼らの歌唱から日本の歌の神髄を思い知らされ感動と涙が尽きることはなかった。心が洗われる思いとはこういうことを言うのだろう、至福の時間はあっという間に過ぎた。
本日は本当にハッピーだった。「幸せになる道」を見つけられた気がした。これからもこのようなコンサートにいこうと強く思った。「幸せになる道」があるのだから。
なお、当日のプログラムは次の通りでした。
□ランチタイム・クルーズの曲目
・小林厚子 「浜辺の歌」「庭の千草」 「ジュ・トゥ・ヴ」
・大木かおり 「くちなし」「かもめの水兵さん」「献呈」
・持木弘 「箱根八里」「七つの子」 「帰れソレント」
*全員 「ふるさと」
□ティタイム・クルーズの曲目
・小林厚子 「かやの木山」「からたちの花」 「忘れな草」
・大木かおり 「落葉松」「赤い靴」 「愛の喜び」
・持木弘 「城ケ島の雨」「あわて床屋」 「グラナダ」
・小林、持木 オペラ「夕鶴」より”さようなら”
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■「国連WFP現地報告会」に参加して 平成24年3月2日
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2月27日、国連WFPの現地報告会「アフガニスタンにおけるWFPの支援活動」の講演会に参加し貴重な体験談を拝聴した。
報告会は、アフガニスタンで活動しているWFP女性職員、別府昌美さんから現地の活動状況について報告された後、参加者との質疑応答が行われ、本ボランティア講演に初めて参加した私には胸を打たれる経験となった。パシフィコ横浜会議センターに集まった30名近い関係者やボランティアの真摯な姿勢に敬服したが、何よりも講師のバイタリティ溢れる行動力に脱帽してしまった。
一口に食糧支援と言っても、国情が異なり、しかもその状況が尋常ではない中での支援活動は想像を超えるものが感じとれる。恐らく生命の危険にも遭遇していることだろう。本当に頭が下がる思いがした。私には微々たる協力しか出来ないが、この貴い活動を支援出来ればと改めて思った。
(閑話休題)
お聞きするところによれば、講演の前日に東京マラソンに出られたとのこと。そして今日は何食わぬ顔して講演をなさる。世の中で有用な方はどこか違うのである。今わが国では、このように活躍されている女性がたくさんでてきた。大変頼もしい限りであるが、「男子の本懐」という言葉が虚しく聞こえてくるばかりで、男の端くれにいる者として大変情けなくもなる。
別府さんの講演に参加して、私も含め日本の男どもが相当頑張らなければならないことを改めて痛感させられた。
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■「幸せになる条件」について考えた日 平成24年2月27日
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30年ほど前、ユング(スイスの心理学者)の説く「幸せになる5つの条件」について聞いたことを思い出す。
その条件とは、@朝起きて健康であることが意識できること、A今日1日働くことのできる仕事があること、Bいい人間関係があること、C美しいものを美しいと感ずることのできる感性があること、Dほどほどにお金があることであった。
定年退職をして久しくなった今日、5つの条件をクリアーするのは至難のわざになってきた。とりわけ「今日1日働く(楽しめる)ことのできる仕事(趣味)があること」については、大変悩ましくなってきている。
現役時代に仕込んでおかなかったツケなので自業自得なのだが、行く末の幸せに複雑な心境に陥ったに違いないキリギリスの気持ちに想いを馳せてしまう。
確かに、定年後幸せに直結するかどうかということより、動物の本能的な自存欲求に駆られ「今日1日活動できること」を渇仰してきたように思う。だから、今まで経験してきたことのないボランティア活動に専念することで、自存欲求を満たそうとしてきたのである。
ところが、諸事情があって予定の組めない日が続くと、折角手に入れた未知への挑戦活動予定も全てキャンセルしなければならず、「今日1日働くことのできる仕事があること」の実現は他律的になってしまう。朝起きてその日が他の都合でディスターブされないときにのみ仕事(遣ること)を入れるのは至難なのである。今週はそんな日が続き、幸せからまた一歩遠くなってしまった気がする。だから、そんな日には迷わず外に出ることに決めたのだが、降雨、降雪が続き折角の決断が鈍ってしまった。幸せになることが容易でないことを改めて考えさせられる日々となった。
今週迷わず決断したこと。
・2月27日/国連WFPの現地報告会「アフガニスタンにおけるWFPの支援活動」に参加
この報告はこちらからどうぞ
・3月2日/「みなとみらいクラシック・クルーズ」/『藤原歌劇団よる日本の歌』を鑑賞
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いずれも当日の朝決め出掛けた。そのことで「幸せになる条件」の意味を改めて思い知らされた。
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■「2月の下旬を迎えて、頬かむり」を想う 平成24年2月24日
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梅の花が咲かないことに不思議さを感じさせない寒冬ではあるが、暦の上では早くも2月20日に入り春のとば口にたった。
毎週月曜日の午前中に、藤が丘にある病院でボランティアを行っている。この病院でボランティアを始めてからかれこれ3年が過ぎようとしているが、毎週月曜日の朝通勤する際に季節の変わり目を楽しみにしている中で、我が国の転変が重なって見えてくる。
異常に寒い冬だからと言い訳ばかりをして、季節(世の中)が巡っていることに「頬かむり」をしているのではないか。そんなことを2月20日の月曜日の出勤時に思った。それにしても誰にもそのスピードを止められない「光陰矢のごとし」に改めて思いを馳せる。
気がつけば、我が畑もほったらかしにして久しく、季節の変化に応じた対応をしてこなかった。22日に松ちゃんと久方ぶりに畑に出かけ耕しに精を出した。健気にも大根と赤カブが頑張り通してくれ収穫の喜びを与えてくれた。農作冥利に尽きる想いが、井戸端でその収穫物を1本1本洗う中で感じとることが出来た。そして昨年植えたタマネギとニンニクの成長を願いつつ、ジャガイモを植え付ける耕作を終えた時に確かな春の訪れを実感できた。
「頬かむり」をしていたのではダメ、季節の巡りに合わせた行動をしなければならないことを畑が教えてくれた。
2月21日に国連WFPのボランティアで3時間ばかりお手伝いをさせて頂いた。仕事は多くのご支援者に寄付を要請する手紙を封筒詰めする事務作業であったが、こういった仕事でも世界の食糧困窮者へ手を差し伸べる援助の一環だと思えば遣り甲斐のある充実感を感じることができた。お役に立てそうなことに「頬かむり」をしていてはならないのである。大震災からもう1年となる、震災直後に思った思い入れを忘れずに、この地への支援活動はもちろんこのようなお手伝いを継続していかなければならないと思った。
2月24日昔の上司と銀座で飲んだ。いつも話題が豊富で圧倒されてしまい、今になっても垣間見せる上司の片鱗に敬服してしまうのだが、今回はいつもと少し違っていた。
いろいろな話題が一通り俎上に載せられ甲論乙駁の後、今わが国が抱えている問題は誰が作ってきたか。我々世代がお先棒を担ぎその問題形成に加担してきたのではないか。議論と言うより自省、懺悔の話に切り替わった。
そしてその償いのために何をすべきか、既に行動に移したことを含め持論を述べられた。もとより自分も忸怩たる思いを待っていたことを話したところ、「久しぶりに意気投合したなぁ」と握手を求められた。「思い立ったら実行する」「Make It Happen!」を口癖にしている元上司の変わらぬ心意気に、またまた魅せられてしまったのである。
今週は、天候不順が続く寒さの募る春に「頬かむり」をしていてはいけないことに気付かされた。
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■「ZATUBOKU隊」かく戦へり 平成24年2月18日
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毎年今頃になると庭の梅の木に花が咲くのだが、今年は大分遅れているようだ。そういえば例年に比べいつまでも寒い日が続いている。
ZATUBOKU隊の年間計画による冬季活動が、昨年の12月から週2回のペースで2月末まで、今までやったことのない大掛りな作業が組まれていた。計画時にまさかこんなに寒い冬になろうとは想定もしていなかったのだと思う。
風光明媚な里山を宅地に整備されたのは約30年前、自然に恵まれた住環境を謳歌してきたが、宅地造成した法面には1度も手を加えなかったので篠竹類の雑草・雑木が生い茂ってしまいジャングル化してしまった。これを計画では根こそぎ伐採することであった。br>
里山に棲む小動物(とりわけ蛇、蜂類)の活動が、一番停滞する冬季に焦点を当てたわけだが、ほとんど里山一山分を征服するには余りにも低温過ぎていたと思う。
寒い上にカラカラに乾いた風が巻き起こす雑木に積もった塵挨や降雪した法面、ささくれだった篠竹の切り株の法面等々、劣悪危険極まりない環境下での作業には想像を絶するものがあった。

このような状況が、計画当初に予想されていたのであれば、隊の平均年齢を考え併せるともう少し緩やかな計画になっていたであろう。
ところが企業戦士を標榜し歴戦を戦い抜き戦果をあげてきた面々には、久しぶりに血沸き肉躍る作戦に映ったのかもしれない。なんと、2月一杯までの計画(それもこのような寒冬を想定していない)を前倒しして2月18日(3回を残して)に完了してしまったのである。恐るべき爺さんパワーに脱帽してしまう。

完了を祝す打ち上げが、来年度年間計画討議の名のもとに執り行われたのは言うまでもない。年間計画は異議なしで早々に可決され(意義があろうがなかろうが、困難に遭遇しても、血沸き肉躍る作戦にしてしまうのだから)、成果を讃えあう盛大な飲み会になった。
本当に素敵なジジイ達ではないか。そのことを改めて思い知らされた日となった。
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■「嬉しい知らせ」 平成24年2月16日
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3年前、近間の英会話初級コースに通っていた。その先生が旦那さんの仕事の関係で2009年8月に帰国(カナダ)されてしまった。
それ以来、年に数回Bad Studentだった私にメールが飛んでくる。飛んでくると返信をしなければならないので英語力の低い私は大変なことになる。辞書と首っ引きで数行の返信文を作るのは正に難行苦行。肩も首筋もパンパンに張ってしまうのであるが、成果は一向に上がらずTerrible Englishのまんま。それでも気落ちせず続けられているのは、先生の温かい配慮なのかもしれない。Terrible Englishの行間を鋭い洞察力で推測し、さらにまた返事をくれるからである。昨今は、開き直って(文法を気にせず)メールを出しているので肩こりは随分解消されたが、先方から来るメールの意味をつかむのに相も変わらず悪戦苦闘なのである。
□昨年の11月に次のようなメールが来た。
I wanted to let you know that my husband and I are expecting and as soon as I found out...I thought of you,
as you said "please come to Japan with your baby" Hope that we can see you all soon.
子供が出来たととるべきなのか。疑心暗鬼のまま当たり障りない次の1行を返信した。
I'm waiting for you forever to come to Japan again together with your baby.
□そして今年の1月に入って次のメールが来た。
Akehmashteh omedato gozaemasu. 日本語で新年の挨拶を言ってきた。
How are you?
We finally got snow in Toronto ;)
How is your daughter who got married? 娘が結婚したことを伝えたので
My sister got married in October too.
Hope you have a great 2012, it's the year of the dragon. ;) 辰年を知った上で・・
Have a great day
このメールの中に、11月に私が疑心暗鬼となったことのその後の経過などが何も触れられていないので、深読みしてしまったのだと思い、時候の挨拶と嫁いだ娘に子供が出来たことを返信した。
Although very cold day continues in Tokyo these days, I'm fine.
My daughter will have the baby in April or May.
So I will be a grandfather soon. I can't imagine but I am bubbling.全く余計な一言
□2月16日「嬉しい知らせ」が飛び込んできた。
Hello my dear student.
Guess what? We are going to be mom and dad.
So next time I see you I will be bringing my baby too.
How does it feel to be a grand pa?
当初の推定が当たった。もっとも能力が高ければ疑心暗鬼などなかったはずなのだが、初級者なのだから気をもみ、遠回りしてしまったが、何とも嬉しい知らせになった。娘もほぼ同じ時期に出産の予定なので喜びもひとしおである。
爺さんになった気持ちはどうかい?と綴られているが、今は二人の安産をお祈りするばかりで、君の親父さんと同じ気持ちだと返信しておいた。
拙い語学力だが、このような嬉しいメールをもらえるともっと続けなければと思ってしまうところが、正に単純人間を絵に描いたようであろう。
語学も単純人間もまだまだやめる訳にはいかないのだ。
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■「無為に過ごす日々」 平成24年2月16日
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先々週から先週に掛けて季節病となってしまった気管支炎に見舞われ、楽しみにしていた講演会や音楽鑑賞等に出掛けられず誠に残念な日々となってしまった。
横浜市民ギャラリーあざみ野主催による浅井祐介氏のアーチストトークやアートカフェには絶対に出たいと思っていた。それは昨年、彼の作品展示会の手伝いをして、現代アートについて興味を掻き立てらたからでもある。
また、横浜のみなとみらいホールで音楽家青島広志氏の講演「ブルーアイランド氏の作曲家のお仕事お見せします」にも出かけるつもりだったが、これにも行けず本当に残念の極みだ。TVで見る彼の音楽への造詣に敬意を感じていたからである。他に、横浜市民ギャラリーのボランティア活動も予定されていたがこれらにも参加できなかった。
病気だからやむを得ないとは思うものの、現役時代とは比べようもない1日1日の大事さを思うと、無為に過ごさなければならないことに罰あたりの焦燥感に苛まされる。だから「深酒はするな・・・」、と知っていたはずではなかったか。後悔は先に立たずを今年も繰り返してしまったのである。本当に情けない。
今週も、病が完全に抜け切った訳ではないので、国連WFPの講演や会社のOB会等への出席を取りやめた。もしかして、16日に予定されている米山麻美さんのオルガン・1ドル・コンサートには行けるかも、と思っていたのだが、これも危うくなってきた。うっかりと禁を破ったツケは大きく「無為に過ごす日々」が続く。本当に本当に情けない。
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■「Tさんを悼む」 平成24年2月13日
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会社の執行役員だったTさんの訃報を2月9日に聞いた。まだ56歳、昨年11月にI君も56歳でこの世を去った。両人の余りの若さに遣る瀬ない気持ちでいっぱいである。Tさんとは仕事を一緒にしたことはなかったが、後年グループの一員として親しく話をしたことがある。彼が、関係会社(NECツーリスト)の社長になった時に、わが社(NECプロサポート)との関係も深かったこともあって、会社の将来のあり方について話し合ったことが懐かしく思いだされる。
とてもアグレッシブで、情熱豊かに会社の未来像を語ってくれた。あの活き活きとした目と人を引き付けてやまない言葉を決して忘れはしないだろう。あたかも、彼が会社のラグビーチームの部長をやり、3年連続で日本1を成し遂げていた時に見せていたファイティング・スピリッツ、情熱の塊をぶち込んだチーム愛をそのまま会社経営に活かし切ろうという風に見え、彼の取り繕わない純で熱い思い入れが焼きついてしまったからかもしれない。
私の定年退職日に挨拶をしに彼の部屋を訪ねた時に、あの人懐っこい顔で迎えてくれ「長い間本当にご苦労様でした」とねぎらいの言葉を掛けられたときに本当にうれしく、感激してしまった。
彼の人を引き付ける魅力は何だったのか・・・・・。彼との最後のお別れの日(前夜式)に教会に行って分かった気がした。熱心なクリスチャンだったことが窺えた。家族を愛し、チームをそして関わった全ての人達を分け隔てなく愛してきたことの原点がここにあったに違いないと思った。人はいろいろ評価される。どんなに高い評価を受けている人でも「人心」を集められない人は、チームや組織を十分に機能させ運営させることは難しいだろう。だから人間社会の中で気高く思う評価は「人から(先輩からも後輩からも)慕われる」ということなのだと思う。人間的魅力に満ちあふれた人ということなのであろう。
「人から慕われる」「人から愛される」ということは、それ以上に人の痛みを知り「人を愛している」ことに他ならない、そして、人間が究極的に弱いことを知り、人間の人智を超えた世界にディペンドする心を持ちあわせていることなのかもしれない。神仏を敬い、その世界から己の心を磨き高めていこうとするのは気高く見えるし、人間的魅力の満ち溢れた人になるための道なのかもしれない。
前夜式の日、教会はもとより、街道を埋め尽くすほど会葬に来た先輩や同僚そして後輩たちを見て、彼は間違いなく「人から慕われていた」と確信したのである。
そんな人を見送るのはつらいが、ひたすらにご冥福をお祈りするばかりである。
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■「季節病」となってしまった気管支炎 平成24年2月12日
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去年の年始早々は気管支炎にやられひどい目にあっていたが、今年は気をつけていたせいもあって1月中はその兆候が出なかったので、今年の冬は乗り越えられるとタカを括っていた。ところが風邪の神の執念は易々と見逃すことはなく、昨年とは1カ月も遅れて思い知らせに来た。彼の神は家中を乾燥してからからの状態を継続し、ピークを2月の頭にフォーカスしていたようである。
北陸育ちの私にとって、若い頃は気にしなかったことだが、50歳を超える頃から冬の関東は大敵となり、唇が切れる等の症候が出てきたのである。そしてそれが55-6歳ごろを境に一段と昂じ気管支炎を患うようになってきたように思う。
言うなれば季節病みたいなものと言えるかもしれないが、インフルエンザのようなものではないのでタカを括ってしまうのだが、近年咳き込みが激しくなってき始め、長期化の傾向になってきたので用心を重ねていたのである。とくに深酒は慎み、規則正しい日常を送ることが最良の予防法であることを経験則から学び、十分注意して来ている積りなのだが、杯が進むうちにその則を超えてしまうようだ。アルコールの魔力は誠に恐ろしい、彼の神と対決させてしまうのだから。
だから、この時期深酒の誘惑に誘いこまれないよう、多少人間関係悪くしてでも守り通さなければと思っていた矢先なのに・・・。2月2日から寝込む羽目になってしまった。気がつけば1週間を超え、9日にクリニックのドクターにいつもより強めの薬を処方され週末にようやっと解放された。おもえば今年も高い授業料を払わされたもんだと反省しきりの今日この頃であるが、この時期、特にうま味が冴える酒も忘じがたく、同じ轍を踏む様をいじましく思ってしまうのだ・・・。まだまだ反省が足りないのかもしれない。
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■「横浜税関」取材 平成24年1月31日
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この日、横浜市民ギャラリーのボランティア【広報チーム】は、広報誌「ボランティア通信」に横浜税関を紹介するために同税関を訪問し取材を行った。
訪問者は広報チーム4名の他、他チームのメンバーも加わり合計で12名となり、賑やかな取材となった。
取材の感想については別項<■「横浜税関」取材記>に掲載したので、お暇があれば立ち寄り下さい。
取材して知ることが多く、改めて横浜税関存在の価値(業務はもとより、歴史的、文化的価値)を思い知らされ、親近感が一層高まった。
横浜税関の守備範囲が東京、神奈川のほか宮城、福島、茨城、栃木、千葉にわたり開港12、税関空港2を管轄していることを御存じであろうか。戦後は一時1都11県を管轄していたとのことである。
さらに、東京税関が横浜税関の分家ということも。昭和28年に羽田空港が開港した時に横浜税関東京税関支署が独立して東京税関となったということである。
知らなかったことは続く・・・。
この建物が「クイーン」と言われ横浜三塔の一つで有名であるが、何をイメージしているか?、何故三塔のなかで一番高いのか?。
戦前までの横浜税関長が何故大礼服をきていたか?、GHQの拠点となったこの部屋でマッカーサが指揮を執った席は?、横浜税関旗の存在をご存じか?、それはどんなイメージで何を意味し、税関長の部屋で何を見てきたか?
麻薬密輸者の見分け方は?・・・等々、1世紀半の中で作り上げられてきた足跡と、それらに纏わる伝説やエピソードの数々に市民の心を引き付けないではおかない魅力が溢れている。是非是非、自分の目で確かめられるようお勧めする。横浜税関の「クイーン」は確かめられることを望んでいるように見える。
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■「国連WFP協会」ボランティアに参加して 平成24年1月28日
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昨年11月頃、国連の食糧支援機関である「WFP(World Food Programme)」を知った。飢餓と貧困の撲滅を使命として活動をしている機関である。ローマに本部を置き世界各地に事務所が設けられているとのことで、日本の事務所は1996年10月横浜市に開設された。そしてWFPを支援する民間協力の支援窓口として「国連WFP協会」が1999年1月に設立され、現在「認定NPO法人」として認められている。そこでは、募金活動、企業・団体との連携を進め、日本でのWFP支援の輪を広げる活動を行っている。このような高邁な活動に共鳴し12月にこの協会のボランティアに登録したという訳です。
本格的な活動はもう少し先のようだが、細かい事務作業のお手伝いを既に2回ばかり行った。みなとみらいのパシフィコ横浜のオフィスに出かけ久々の事務作業に緊張したが、昔取った杵柄に衰えはなかったように思う。と思いきや、小さい字が見えにくくなっているのには閉口した。
そして第3回目にあたる活動が1月28日の土曜日、横浜マリノスタウンに呼び出され、やや本格的な募金活動を行うこととなった。これは、当協会が横浜マリノスのファン感謝デーのイベントに参加させて頂き(協力を頂き)ながら、WFPの広報宣伝と募金活動を行うというものである。
協会の方2名とボランティア3名の5名でチーム編成され、ブースの中にパネルをセットしたり、数種類のパンフレットを組合せセットにする前作業が、強風にあおられるなど悪戦苦闘の連続でしたが、とても聖なるものに見えた。隣のブースではユニセフの方達が、我々と同様に苦戦しながら活動をしていたが、我々のブースを訪れるファンは数が知れていた。ところが、主力選手(小椋祥平、熊谷アンドリュー選手)が我々のブースの中でサイン会を始めると、長蛇の列が出来、対応に大わらわ。声をからして訴えた募金にも快く賛同して頂き思いのほかの募金を集めることが出来た。特に、子供たちの前向きな協力姿勢に頭が下がった。今の子供たちサッカーに熱い思いを注ぐが、世の中の悲惨さにも熱い気持ちを注ぐ大した小僧達だと思った。感動です。

それにしても広いグランドでの作業は思いのほか厳しく、年末からづーっと続いた寒さが、この日今冬一番の冷え込みであったらしく、身体の芯まで冷え切ってしまった。
終了後、横浜駅の構内で初めて顔を合わせたチームのメンバーとうどんを啜りながら、当日の活動を振り返えり、明日にむけた思いを語らされた時、今年はこの活動に掛けていこうと改めて思った。
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■「松井冬子展」と「オペラ」を鑑賞した日 平成24年1月14日
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今日予定していたことが中止となったので、久しぶりに横浜美術館に行き松井冬子展を鑑賞した。たまたま、本展のチケットを頂いていたので出掛けたのだが、同作家のことは何も知らなかった。ただ、私の娘と同世代ということだけは知っていたので、この世代がどのような絵をお描きになるのか興味津々であった。
なぜなら、絵には作家の人生観、世界観が反映されるもんだと思っていたので、娘とは最近言葉を交わすことがめっきり少なくなってきたこともあって、絵画を見ることで彼らが考えている世界観が覗けるかも知れないと思ったからである。
出品された絵のどれにも、重々しい心の葛藤(悩み、不安、怒り?)が表出しているように見え、余りに暗く、じっと佇んでいると希望の見えない世界に引きこまれそうな印象を受けた。全くの抽象画ではなく、描かれている一つひとつのもの(人物、植物等)は形をなしているので何を描いているのかは分かるが、なぜグロテスクとしか言いようのない臓器むき出しの絵や、現世のものとは思われない幽霊の絵を描こうとしたのか、浅学の私にはその高尚な意図を理解出来ず全く分からなかった。きっと深い意味があるに違いないと思ったが、彼らの世界観と隔絶している虚しさを感じさせられた。
この感想については別途改めて書き留めなければと思いながら、もやもやとする気持ちを抑え次の会場へ向かった。
⇒この感想はこちらから入れます。
当日は、関内ホールで「90分でわかるオペラ」が開催されることを出掛けに知ったので、絵画鑑賞の後にオペラをはしごすることを決めていたのだ。このような組み合わせを平気でやってしまうところが、素人の恐ろしいところといえる。
もっとも、一度出かけたら、可能な限り用件を纏めて済ませないと経済的に持たないからである。現役の頃は、余り気にもかけていなかった交通費が馬鹿にならないということだ。芸術鑑賞もコストパフォーマスを優先しなければならなくなってきたということである。
今般のオペラはモーツアルトの『魔笛』であった。幸い当日券がまだ残っていたので首尾よく購入し、席が全席自由席だったので入場口の長い列に並んだ。
オペラを鑑賞するのは初めてだったので、少しばかり緊張したが、主催側の気軽に鑑賞させるための気配りもあって第1幕、第2幕の90分間はとても楽しく充実した時間になった。
「魔笛」はオペラのなかでも子供から大人まで幅広く楽しく聴ける幻想的なお伽噺です。「夜の女王」と「ザラストロ」の対立、「タミーノ」と「パミーナ」のラブストリー。タミーノの試練の場面は宗教的な意味もあります。パパゲーノが嘘をついて口にカギをかけられるところは教訓的なお話とみることもできます。このように観る人によりさまざまな解釈が可能な奥深い作品です。全2幕。舞台は古代のエジプト。頂いたパンフレットには、このように解説されていた。
初めて鑑賞するものには大変ありがたい配慮で、登場人物が熱唱するバスや、テノール、バリトン、そして、ソプラノに載せられたストーリーを充分堪能することが出来た。それにしても生で聴く歌声の美しさ、力強さ、透明さに脳髄が震えあがるほど感激してしまった。
今日、絵画の鑑賞では虚しさを感じさせられた分、そこにもう一歩入りこんでいきたいとの思いを強くさせられ、オペラの鑑賞では脳髄が震えるほど新たな感動をさせられた。いずれもこれからまだまだ新たな感激を得ることが出来るという証しであろう。今その「とば口」についたばかりだから。
これから機会を見つけてもっと芸術鑑賞へ足を運ぼうと、この日、帰りの電車の中で思った。
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■「平成24年 雑木隊の安全祈願」 平成24年1月4日
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我が町内では、つとに有名な「雑木(ZATSUBOKU)」というボランティアグループがある。このグループのことについては以前に紹介したとがあるので御承知のことと思うが、念のために言っておきたい。会員の平均年齢は優に65歳を超えている。ところがおじさん達は健啖で身体頑健、そして、一家言を持って鳴らす古武士達なので煩いことこの上ないのだが、利他の精神に燃えた何とも素敵なジジイ達なのである。最近の活動は週に2回、町内を取り巻く裏山の法面に群生するやぶ竹の伐採に取組んできているが、この仕事は想像以上にきつい。でも、このおじさんたちは弱音を吐くどころか、嬉々として楽しんでいるようだ。
何と言っても作業スタイルが素敵なのである。地下足袋(若しくは安全靴)にゲートルを巻き、しゃれた作業衣にハンティングやキャップ、腰に下げたホルダーには、ぴかぴかに磨きあがられたハンディ型の鋸か鎌、そして手には大鎌か大鋏が握られているのだが、そのどれひとつにも男の美学を追求したダンディズムへの拘りが窺えるのである。このような作業なのにと思ってしまうのだが、いつどこで手にしたのか、何十年も生き続けてきた中で確立して来たスタイルがここに集約しているのだろう。誠にほれぼれとしてしまう。だから、町内の老雀たちから絶大な人気があるのが理解できる。
私もお仲間に加えて頂き約1年、ようやく雰囲気にも慣れてきた。でも、古老に近づくにはまだちょいと時間が掛るだろう。スタイルのぎこちなさは如何ともしがたいのである。
そんな集団の昨年の最終作業が年末の29日に行われた。大いにはかどり人仕事を終えた時に、代表から1月4日に氏神様の熊野神社に参詣し安全祈願をする旨のお達しがあったのだ。例年挙行してきた訳ではないらしく、面々におやっとの雰囲気が漂ったのだが、代表の一言に大きくうなずいて了承したのである。それは、我々は気付かないうちに年を重ねてきているので、何事も安全第一にいこうという
ことはもとより、前年に起った未曾有の大災害を顧みて、真に世の中の安寧を祈ることが我々世代の役割ではないかとの思いを告げられたからかもしれない。
当日、朝10時に神社に集合し心から安全を祈願した。願わくは、大災害を被った方々の一日も早い復興を合わせて祈願させていただいた。ダンディなお仲間の心根は何とも優しいのである。
この後、集会所に集まり直してささやかな新年の宴を張ったのは言うまでもない。何しろ健啖家の集団であり、一家言を持つ古武士の集団なのですから。
おじさん達の優しい心根を表現する言葉は、アルコールにバイアスされとても厳しいものになったが、これは我々自身に対する戒めでもあるが、もっと高みで仕事をする輩への警告・鉄槌である。わが国をよくしろ!伝えておきたい。

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■「平成24(2012)年」年初に想う 平成24年1月1日
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昨年の年明けは、家族旅行を敢行した沖縄で迎えたのだが、気管支炎が悪化しとてもきつい年明けだったことを思い出す。3月11日にあのような悲惨な大災害に見舞われようとは思いもしなかったし、中東の政治情勢が劇的な変化を見せ不安定さに一層の拍車をかけたり、ヨーロッパの金融不安が露見し更なる世界不況を暗示させる出来事が惹起する等とは思いもしなかった。
大方の見方では世界の景気も緩やかな回復基調を示し、政治の情勢でも比較的に安定した穏やかな1年が予想されていたのではなかったか。
自分如きが、いっぱしに世の中を見通すには余りにも無知過ぎているのだと思い知らされた。ここ数年、我が国の状況は首相が猫の目のようにくるくる変わり、安定性を欠く政治が定着してしまい閉塞感と無策によるツケや弊害だけが雪だるま式に増大している中にあって、せめて今年こそはと願うばかりに、新しい首相の言うことを当てにしてしまったのである。
このような思い違いを繰り返し反省をしてきたつもりなのに・・・。
自分の無知さ加減を呪うばかりである。
だから今年こそはその轍を踏まない様に、自らの能力を高めていこうと、そしてお上を頼らずに生きていこうと決意した次第である。
でも、年金が削られたりするとなんか文句をいうんだろうなぁ。
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