第二部 愛媛・由良半島の自然と宇和海の漁村での生活

第二部 目次 

第1章 由良半島の野鳥について
第2章 由良半島の探索
第3章 家串の年中行事
第4章 アオサ、トウゴロウイワシ、ナガレコ、ツワ菜を採り、ヒオウギ貝を養殖する
第5章 釣った魚を食べること、魚食について
第6章 ムカデ、ゴキブリ、イノシシ

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家串地区の全景:HP『みんなの由良半島』の扉写真を管理者の許可を得て転載した。最大画面で見てほしい。写真中央にアコヤ貝養殖漁業の作業棟、家串湾の左手にエビス崎、右手やや遠方に漢字の山に似た形の塩子島が見える。家串集落の上を通る農道から撮影されたもの。

はじめに

私は愛媛県南部、愛南(アイナン)町の漁村・家串(イエクシ)と県都松山とを行ったりきたりして暮らしている。

愛媛県は東予、中予、南予の3つの地域に区分される。「予」は伊予で、伊予は愛媛の昔の呼び方である。中予と東予は瀬戸内海に面しているが、南予はその北部は瀬戸内海に、その南部は宇和海−豊後水道に面している。愛南町は、宇和島市とともに南予の南部にあって、その南の県境で高知県の宿毛(スクモ)市に接している。愛南町は愛媛県の南の端にある。 愛南町は2004年秋、いわゆる平成の大合併の時期に、内海(ウチウミ)村、御荘(ミショウ)町、西海(ニシウミ)町、城辺(ジョウヘン)町、一本松町の一村四町が合併して誕生した、人口2万9千人ほどの新しい町である。

⇒「第一部 私の釣り」扉のズームインできる地図/衛星写真参照

由良半島、内海村、家串

四国と九州の間の海、豊後水道の愛媛県寄りの海域を宇和海という。宇和海には四国の最西端をなす佐田岬半島をはじめとする多くの半島が突き出し、リアス式と呼ばれる複雑な海岸線をなしている。佐田岬半島の南、宇和海の真ん中辺には三浦半島が突き出していて、その根元には宇和島市があり、南に下ると愛南町になり、由良半島が、そして高知県との県境に西海(ニシウミ)の半島がつきだしている。 三陸海岸や三重県の志摩半島周辺などがリアス式海岸として有名だが、いずれも大小の湾・リアスが複雑に入り込んでいて、良い港となり、また沿岸漁業や養殖漁業の基地になっている。ここ宇和島市から愛南町にかけての大小の湾や入江では、全国一の規模でマダイの養殖と真珠および真珠の母貝・アコヤ貝の養殖が盛んにおこなわれている。

私の住む愛南町家串(イエクシ)地区は由良半島の南岸にある。ここは2004年秋の合併までは内海(ウチウミ)村だった。私は2004年の夏に家を買い、休日ごとに家串で暮らし、翌年3月に退職してから本格的にここで暮らすようになった。私は内海村に来るつもりだったが、家串住民になったときには、内海村ではなく、愛南町になっていた。わたしの家族は松山におり、私は松山の家(借家)と愛南町の家を往復して釣りを楽しんでいる。

野鳥の天国

家串は由良半島の南岸に点在する集落のひとつで、世帯数でおよそ100、人口は300人ほどであるが、半島南岸の諸地区の中では最も人口の多い地区である。半島のどの集落も海岸の狭い場所に集まっていて、背後には最も高いところで標高250mほどの急峻な尾根筋の山の斜面がせまっている。 著名な写真家・原田政章の写真集を見ると、昭和30(1955)年ごろまでは、半島は頂上まで耕し尽くされて、石垣で囲われた段々畑になっており、当時はサツマイモと麦が植えられていた。その後、みかん畑に変わり、真珠養殖が盛んになった昭和50年代にはそれも放棄され、今では半島は緑に覆われてしまい石垣はまったく見えない。言ってみれば、自然が回復したのである。

私の家のすぐ裏にも木立がせまっている。そして春になると夜明けとともにさまざまな野鳥が美しい声で鳴き出す。目立つのはウグイス、コジュケイ、イソヒヨドリ、それに(内海村の時の村鳥だった)メジロで、時々ホトトギス、ハチクマなどの声も聞こえる。裏の山で捕えたメジロなどを飼っていて、私にも飼ったらどうかと勧めた人もいるが、その必要はまったくなく、家にいて一日中野鳥のさえずりを楽しむことができる。野鳥の好きな人には天国のようなところである。

メジロは(旧)内海村の村鳥

2011年福島原発の大事故が起こり、原発依存が不可能であることは明らかになっている。原油価格も不安定であり、再生エネルギー、自然エネルギーへの転換は必至と思われる。こうしたことと関連して、もしかしたら、段畑が復活して、食料や飼料、あるいはバイオ燃料の原料として麦やサツマイモが再び植えられる日がくるかもしれない。しかし、そうすると野鳥の声も聞くことはできなくなる。そのころまで家串で私が元気に釣りをして暮らしているということは無理だろうが、私は釣りをしつつこの由良半島で野鳥の鳴き声を楽しみ続けたいと願っている。

メジロの写真はhttp://i-guru.cocolog-nifty.com/『野鳥大好き♪まち子ブログ』「河津桜&メジロ(2016.03.02)」より借用した。

内海湾

「内海」は、北側を由良半島で、東側を四国本島の海岸で、そして南側を御荘地区(旧御荘町)から複雑な形で西に突き出た大きな半島――大半は西海地区(旧西海町)に属し、どこかで「西海半島」と書いてあったのを見たような気もするが、地図では確認できない――及び鹿島(カシマ)、横島、七十バエなどの磯釣りで有名な島々で囲まれた大きな湾で、湾口の巾は南北約10キロ、東西の奥行きが約7キロある。そしてこの湾の南東奥には「銚子の口」と呼ばれる幅500mほどの狭い入り口から、奥行きが9キロある、御荘牡蠣で知られた御荘湾が深く入り込んでいる。御荘湾は台風襲来時などには近隣から多くの漁船が集まって来る、一大避難港になっている。また御荘湾の奥には町の管理する小さな桟橋があり、私は車に乗らないため、時々、家串からここまで自転車を積んで船で行き、自転車で御荘、城辺の商店街で買い物をする。すぐ近くに南レク公園があり水が流れる大きなプールがあるので、息子が遊びにきたり親戚が子供連れで来た時にはここへ船で遊びに行ったりもした。

内海湾と由良の鼻の絶景

家串地区の裏山、標高240mほどのところに電波中継塔があり、道はやや狭く、坂になっているので運転には注意が必要と思われるが乗用車でも行ける。私は何度か歩いていった。ここからは南の方向に内海湾が一望できる。眼下に家串、隣の平碆(ヒラバエ)の家々やアコヤ貝養殖作業棟の青い屋根、そして家串湾内のアコヤガイ養殖筏やマダイ、ハマチの養殖生簀がおもちゃのように並んで見え、少し目を上げると灯台のあるクロハエ、その先にマグロ養殖が行われている三(ツ)畑田島などが見渡せ、その向こうに鹿島、横島など西海地区の島々が浮かんでいる。⇒全体のトップページ3枚目の写真参照。それを超えた「外海」(ソトウミ)には、晴れていれば、沖の磯(オキノソウ)と呼ばれる大物釣りで有名な釣り場が、さらにその向こうには高知県の鵜来(ウグル)島、沖ノ島などが遠望できる。
由良半島は西、途中から南西に向かって延々と伸びており、先端に小猿島、大猿島、地釣(ジヅリ)礁、沖釣(オキヅリ)礁などの磯釣り場がある。半島の北側を見ると、遠方に御五神(オイツガミ)島、日振(ヒブリ)島など、これまた有名な釣り場である島々が浮かんでいるのが見える。

愛南町の公式ホームページで、「観光スポット」の「絶景」に10か所が紹介されているが、この由良半島の電波中継塔のある場所からの眺めは紹介されていない。私はその10か所のいずれにも行ったことがあるが、この電波中継塔からはそれらに少しも劣らぬ「絶景」を眺めることができる。

私はこの場所に、初日の出をみるために登ったのを含め、これまでに4〜5回行った。また、私は曳釣り(トローリング)などをするために、船で由良半島の先端まで行き、絶壁と離礁からなる周辺の景色を海上から何十回も見た。また、先端の太平洋戦争時に作られた軍事要塞の遺構には、県道の終端の地区、網代(アジロ)から山道をたどって3回行った。岬先端近くの標高200mほどの崖の上から眺める離礁はまさに「絶景」だった。内海湾と由良半島周辺の景色はいくら見ても飽きない、すばらしいものである。 ⇒第2章「由良半島の探索」トップページへ

なお、2015年9月、ウェブ検索で、内海村の出身で大阪在住のかたが、個人で運営しているという「みんなの由良半島」というサイトを見つけ、この管理者にメールを書いた。
管理者は家串の出身者で、私もしばしば話をすることのあるMさんの息子さんであることがわかった。そして私の家の裏手にある農道から撮影されたという、そのサイトの「ホーム」扉に使われている写真を、私のHPに転載する許可を得た。
また、このサイトの「由良写真館」には家串地区で撮られたものを中心に由良半島の多くの場所で撮影されたすばらしい写真が掲載されている。私はこのエッセーの第二部を中心に何枚もの写真を使わせてもらうことができて、大いに感謝している。

そのうちの一枚をここにも掲載する。家串を一目で見渡せる航空写真で、写真の上側が由良半島で、集落の裏側に「農道」も見える。家串湾の右側に下へ伸びているエビス崎の向こう側には隣の平碆地区も見える。海上には真珠(貝)養殖のための作業小屋を載せた筏群が陸から伸びだし、湾内にはロープを張って作られた真珠貝養殖筏が浮かんでいる。よく見ると、白い玉ウキで囲まれた四角形の内部にロープが張られているのがわかる。このロープに、真珠貝の入ったネットが吊るされている。


〔追加〕その後も同「写真館」から、全体のトップページにさらに数枚、第一部「釣り」第1章から第3章の中で数枚の写真を使わせていただき、感謝している。2016年11月。

還暦で退職、釣りをして暮らす生活へ

私は1992年、46歳の時、就職のために東京から愛媛県松山市に移ってきた。私が勤めた松山の職場の定年は65歳であったが、私は2005年に還暦を迎えるのにあわせて退職した。それからおよそ10年間、家串で、釣りをして暮らしてきた。
いつか海辺に住み、釣りをして暮らしたいというのは、在京中、30代半ば頃からの夢だった。家も、車も買わず、賭け事はもちろん酒やタバコなどへの出費もほとんどない、倹約生活を続けてきたので、60歳が近づいたときに、私は退職金と年金、および少々の蓄えで、退職を早めてもその後の暮らしに困ることはないという見通しをもつことができた。
家串と、隣の旧津島町(現宇和島市)に知人がいて、その人たちから、長引く真珠不況のなかで手放され、銀行の「不良債権」になっている漁業者の家があることなどを教えてもらい、私は裁判所の競売で、住宅を破格の値段で手に入れることができた。船は中古のプレジャー・ボートだが、住宅を安く手に入れることができたので少し欲張った。それでも両方あわせて、当初考えていた予算の半分で済んだ。船と家を入手し、私の老後の生活のインフラは整った。

私には子供が2人いる。娘はすでに自立し、アルバイト生活ながら東京で暮らしている。息子は当時20歳だったがダウン症で知的障害があり、親もとを離れてひとりで暮らすのは、少なくとも当面は無理だと考えられた。退職時には妻とは別居中であり、私は愛南町の家で息子と一緒に暮らすことを考えていたが、息子は釣りを中心とした漁村での「自然的」生活よりも、児童館や図書館など子供向けのサービスが充実している都市における「文化的」な生活のほうを好んだ。そこで息子は、養護学校高等部卒業後、妻が開いたコーヒーと軽食を提供し、無農薬野菜などを販売する店の手伝いをしながら、松山にとどまることになった。
その後、2012年から息子は、障害者自立支援事業を行うNPO法人(「家族支援フォーラム」2003年設立)が運営する事業所(レストラン、清掃会社など)に週5日通ってはたらくようになった。 ⇒第三部第2章第三節内の「ダウン症の息子の朝の出勤と私」の項参照

こうして私は、時季により、また最初の頃と現在では大分異なるが、平均すると、一か月の内、主夫として家事・育児を行うためにほぼ2週間ほどを松山で過ごし、残りの2週間は釣りをするために家串で暮らすという生活を送ってきた。ただし、最初の2、3年は、松山に戻ったのは半年の間に2〜3週間だけだった。そして2015年現在では、一か月の内一週間程度を家串で過ごしている。

「隠居」の挨拶

私は退職前に知人や友人に宛てて、職業としての仕事だけでなく、市民運動などを通じた社会との積極的なかかわりもやめるという積もりで、「隠居のお知らせ」を書いた。家串には農協の売店があり、松山のスーパーのように品ぞろいの中から選んで買うというわけには行かないが、生活に不自由はない。郵便局もある。町(愛南町)による健診なども検診車が地区に来て行なってくれる。人里はなれたところに、自給自足の隠棲とか隠遁の生活をしようというのではない。

しかし、都会を離れ、多くの人との接触を断って社会的・文化的な活動を減らし、海で「釣り」をして暮らす、その意味でより自然に近い生活をしようと考えたのである。家串では農業は全くやらなかったので、半農半漁とも言えないし、釣った魚を食べたのははじめの1〜2ヶ月でそれ以後は自分で釣った魚は滅多に食べなくなったので、自給自足からは程遠い生活であった。「晴釣雨読」の生活を始めるのですね、と書いてきた友人がいたが、はじめの頃は釣りに出かけ(られ)ない日には周辺を探訪するか釣り道具を作るかしていて、本などは全く読まなかった。非社会的非文化的で、もっぱら海に出て魚を追いかけるという意味で自然的な生活をはじめた。

私が行なった釣りについては「第一部」で書いた。この「第二部」では宇和海の漁村での生活と由良半島および家串周辺の自然について書くつもりだが、最初に、その後者、由良半島南岸にある家串という地区の自然、および由良半島の自然について書こうと思う。

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