第3章 家串の年中行事

第二部 第3章 家串の年中行事

左・正月に大わらじを運ぶ山道⇒本文「うねの松」と「白牛車観音」



         右・「うねの松」にある「白牛車観音」の祠⇒本文「漁師の妻たちの願掛け」
















右・家串若宮神社、秋の大祭での獅子舞「荒獅子」⇒本文「荒獅子」。














  五鹿(イツシカ)                                            相撲練り





































 

上・正月の準備を終えた家串・若宮神社⇒本文「門松を作り、鳥居に注連縄を飾る」


              右・落日直前の塩子島の光景⇒本文「神輿は湾内を船で回ってから宮入する」











本章における写真はすべてHP『みんなの由良半島』「写真館」から許可を得て転載したもの。

第3章 見出し一覧

(1)正月の念仏の口開け わらじ作りと厄払い
大わらじ作り
厄除け行事・数珠送り
戦後育ちの私の環境
「うねの松」と「白牛車観音」
漁師の妻たちの願掛け
厄除け行事の起源
(2)8月・盆踊り

(3)秋祭り
2006年11月3日若宮神社大祭
荒獅子
五つ鹿、相撲練り
牛鬼と神輿の喧嘩
  「御旅」と荒獅子の飛び入り
神輿は湾内を船で回ってから宮入する
(4)11月 亥の子

(5)2010年12月 宮当番、正月の準備 
ウラジロ、ダイダイを採りに行く
  門松を作り、鳥居に注連縄を飾る
(6)2011年4月 春祭りの準備と神事への参列
幟(のぼり)を立てる
絵馬
修祓(しゅばつ)と献餞(けんせん)
直会(なおらい)
行事は予定より早く終わった
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第3章 家串の年中行事 

(1)正月の念仏の口開け わらじ作りと厄払い

国道56号線鳥越トンネル南側出口から、県道網代線に入り、「家串―平碆トンネル」をくぐると、正面にアコヤガイ養殖用作業小屋が並んだ漁港が見え、右手には家串地区の菩提寺である泉法寺の大きな屋根と墓地が見える。泉法寺は永平寺を本山とする曹洞宗のお寺で、檀家は家串のほかに平碆、須ノ川にもあるという。

泉法寺では、毎年正月の16日、念仏の口開け、と言って、朝、村人総出で大わらじ作りが行われ、また、百萬遍という厄除け行事が行われる。人の背丈ほどもある大きなわらじは村の入り口2箇所に置かれるが、それは外からやってくる鬼(悪人、疫病)を防ぐためである。鬼は、この大きなわらじをはく巨人がこの村に住んでいると思って入ってこないという。百萬遍ではその年に厄年になる人々が念仏を「100万回」唱えて厄落としを行う。私は05年春に住民登録をして、家串に住んでから正月を3回家串で過ごしが、1月15日前後は松山に戻っていることが多く、この行事には09年になって初めて参加することができた。

大わらじ作り

当日、午前8時少し前、すでに夜は明けていたが、家串地区の東側にはエビス崎に向う標高100mほどの尾根があって、太陽はまだ姿を見せていない。家串の集落の一番東に位置し、この尾根のすぐふもとにある寺の境内に日が差すのは家串でも最も遅い時間になる。迎えに来てくれた北條さんとともに私が境内に入ると、すでに大わらじ作りの作業は始まっていた。女性の数はおよそ25人、男性はその2倍くらい、全部で70〜80人くらいの村人が集まっていた。大わらじは太い藁縄を編んで作るが、まずその縄を作るためのワラを精製する。男は立ったまま、女性陣は下にブルーシートを敷き座って、藁束をほぐし、藁をしごいている。

藁は中心のわらしべとそれを包むようにについている数枚の細い葉から成り立っているが、この外側の葉はたいていよれよれで汚れている。縄はこの汚れた葉を取り除いてきれいな芯だけにしたもの=「精製された藁」と呼ぼう=を縒りあわせて作る。集まった村人はほぼ全員で、最初にこのワラを精製する作業を行う。私も、早速、作業の輪に入った。

積まれている藁束の山から、片手でワラを一掴みつかみ取り、一本ずつ、しごいたり、引きはがしたりして汚れた葉を取り除いていくと、つかんでいる束の太さが、最初つかんだときに較べて半分くらいになる。こうして精製された藁束を1本の藁しべで縛る。70人ほどの人々が、精製された藁しべからなる太さが3〜5センチくらいのわら束をたくさん作る。

他方、本堂の廊下の前に、 黒田本蔵さん、伊勢万蔵さん、浅野藤吉郎さん、前田邦久さんなど、5、6人の年配者が一列に座って、縄をなっている。この人たちは、家々で正月に飾る小さな注連縄(シメナワ)を造るための縄をなっているのである。また、藤吉郎さんだけはなった縄を何本かよりあわせ、やや太い太いしっかりした注連縄を造っていた。これは大わらじにつける飾りにするものだという。注連縄用の藁束は特別のものらしく、山のように積まれている大ぞうりを作るためのわらとは違って、青々とした、きれいなものだった。

しばらくの間、皆「精製」作業をやっていたが、精製されたわら束があるていどたまった頃、「それでは始めようか」と北條さんが他の数人に声をかけた。そして私と源さんにも声が掛かった。われわれ二人は、精製された藁束を2つか3つ握り、決まった方向にねじるように指示された。二人がねじる方向は同じである。この二つのねじられた藁束を一緒にして、その根元を縛る。そして最初わらをねじったのと同じ方向にこの2本をねじりながら縒り合わせて、一本の太い綱を作っていく。20センチか30センチ進むたびに、その2本のそれぞれに細い藁束を差し込むようにしながら継ぎ足す。この段階では、細い束を継ぎ足す役を私と源さんが行った。北條さんともう一人の人がそれぞれねじっては次にそれを一緒にして、その2本を2人でねじりながら重ね合わせていく。太い綱が2mか3mになると、二人が一緒にねじったときに端が動かないように織田長二さんが押さえた。そして他の人が反対側を引っ張って延ばす。隣でも5、6人が1チームになって、同じように太い縄を作っている。

こうして1時間半ほどで8mくらいの太い縄が2本できた。その太縄を折り曲げながら、編み合わせて、長円形の大きなわらじを作っていくのだが、この作業が難しいらしかった。最初に、わらじの縁をなすように縄を置き、その内部を、一筆書きのように、端から順に埋めていく。しかし、うまく説明できないのだが、単に縄を折り曲げてくっつけるのではなく、編んでいくのだ。太い縄を引っ張りながら、編んでいき、縄の最後が最初のところに戻ってきて、完成する。だが、太い縄を編み合わせるのだから、引っ張っても、スムーズには縄は動いてくれない。そして、引っ張り方が不十分だと途中に穴のあいた、隙間だらけのわらじになってしまうのだ。なんどか、掛け声をかけながら、隙間が小さくなるように、引っ張り直していた。

私は、一本の太縄ができて、藁束を継ぎ足す私の役を終えたところで、わらじが出来上がっていく途中のプロセスを写真に取っておこうと、カメラを取りに家に走って戻った。何度かシャッターを押したが、後で出来上がった写真を見ると、人の手や足、藁たばや太縄は写っているが何をしているのかがさっぱりわからず、完成した大わらじを数人がかりで頭上に持ち上げて山道を登るところの写真だけが唯一その日のことを思い出させてくれるものになっただけで、ほとんどの写真は無意味であった。大わらじが出来上がり、鼻緒の位置に、藤吉郎さんが作っていた注連飾りが付けられた。そしてこのわらじは本堂に運び込まれ、仏壇の前、和尚がお経を唱える台の両側に片方ずつ置かれた。

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厄除け行事・数珠送り

大わらじが出来上がったのは10時ごろで、三分の一くらいの人が家に帰った。本堂正面を入ってすぐのところに座布団が並べられており、長い数珠が置かれていた。男衆の多くは本堂右の奥のほうに座っていた。私は遠慮して、後(末席)のほうがいいだろうと考え、入り口の近くに座った。すると、ここは厄年の者が座る場所だと言われ、慌てて奥に進んだ。自治会長の吉良さんに写真をとってもいいかと聞き、かまいませんよという返事をもらった。

まもなく、15人ほどの人が座布団に座った。私が知っている人の名前を上げれば、前田悟さん、その息子の淳さん、細川浩志(彼は30代ではなかったか)さん、中村さん、太田さん、磯和さん、宮下さんの奥さん、堀田さんの奥さん、吉良さん、などの顔があった。誰かが、それでは始めたいと思いますと言うと、和尚が袈裟を着けた姿で前に座り、鉦を鳴らし、お経を読み始めた。お経は早口に唱えられ、ときどきハンニャハラミッタと言う語が何度か出てきたが、それ以外は全く分からなかった。お経は15分くらい続き、10時半近くになった。

  このころようやく、南東に面した本堂正面のガラス戸に太陽の光が当たり始めた。老人会会長の水谷さんが自治会の役員に、もう始めなさいよと言ったが、役員たちは顔を見合わせて、まだ少し早いと言っているようだった。水谷さんは口の中で、何時に始めるのか、時刻が決まってない、毎年違うとぶつぶつ言っている。それでも、10時半を少し回ったころに、浅野藤吉郎さんが、厄除けをしてもらう人の輪の真中に入って合図をすると、その人たちは前においてあった数珠を持った。そして浅野さんがカナヅチで小さな鉦を叩くと、みんなが数珠を手繰って回し始めた。これを「数珠送り」ないし「大数珠繰り」と言うそうだ。

和尚は、机の上に重ねられていた20冊ほどのお経を順に持ち上げ、アコーディオンを演奏するときのように、片手を上にあげ、折りたたまれたお経をぱらぱらと延ばし、また反対の手でつかんでたたむという動作を一冊につき2、3回ずつ行いながら、前よりもいっそう早い調子で、お経を唱えた。お経を一行一行読まなくてもぱらぱらと開くだけでそこからお経のもつ力が発散すると考えられているのであろう。数珠を手繰って回す人は「ナンマンダボ、ナンマンダボ」(南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏)と唱える。目を瞑り、下をむいて、一心不乱に唱える人もいた。

水谷さんによると、この数珠の輪を一回廻すと1万回念仏を唱えたと同じ効果があり、この数珠を百回廻して、念仏を百萬遍唱えるのと同じ効果を得ることで厄払いができるとされていて、日本で広く行われている仏教の行事だという。伝統文化や行事に疎い私はこの行事の名前を聞くのも、列席するの初めてだったが、都市部でも、檀家のいるところでは広く行われているという。また、その後テレビのニュースか何かで、京都の寺で行われている「百萬遍」を見た。たぶん、毎年、放映されていたのだろうが、私に関心がなく、見逃していたのだろう。

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戦後育ちの私の環境

私は、私の両親が父の実家の農家に疎開していた昭和20年の生まれであり、私が小学校に入るまで、(三男であった)父の実家の土蔵に住んでいた。私が小学校に入学した年に、市になったばかりの隣町の新津(現在新潟市秋葉区)に戦後初めて作られた市営住宅に移った。引っ越す前は、暮らしは別々だったが母屋には祖母がいて、悪さをしたときには叱られたりもしたらしい。引っ越した後は核家族となった。祖母にはその後時々会うことがあったし、隣の県に住んでいた父の養父である祖父が遊びに来て1、2度会ったことがあるが、年寄といっしょに生活することはなかった。

新津では丘陵を切り開いて宅地が造成され、次々に新しい家が建った。昔から住んでいた人の家では年寄りを見かけることもあったが、市営住宅に住んでいる人はいずれも核家族であった。家が狭かったことも関係しているだろうし経済的余裕もなかったのだろうが、私の家には仏壇も神棚もなく、仏事が行われたことはなかった。小学校4、5年のころ祖父が亡くなった時には御棺に入った祖父の姿はみたが、葬式には参列しなかったのかお寺に行った記憶はない。神社もお祭りのときに境内に並んだ出店に行っただけで参拝したことはなかった。

小学校の修学旅行では会津若松に一泊し、裏磐梯、五色沼の観光、阿賀野川の鹿瀬(かのせ)ダム、および昭和電工の肥料工場の見学をした。鶴ヶ城を見たはずだし、白虎隊の名前もこの修学旅行の時に知ったのだと思う。小学校時代には木の枝で作った刀でチャンバラをやってよく遊んだのだから、白虎隊にもお城にも興味を持ったはずだが、戊辰戦争、あるいは明治維新に関する話を聞いた記憶はなく、城をみた記憶さえもない。先生たちが明治維新も含めて「戦前の歴史」にふれたがらず、詳しい話を聞かせてくれなかったということはなかっただろうか。先生たちは発電や肥料工場という「日本の未来」に関係することを見せることに熱心で「古い日本」を忘れたがっていたということはなかっただろうか。

修学旅行についていま述べたことは措くとしても、慣習や伝統について話をし教え伝えてくれる老人とも、また神社やお寺、あるいは神事や仏事、葬儀などとも疎遠な環境の中で育ったことと、伝統文化や行事に対する私の無知と無関心は密接な関係があると思われる。私は60歳を過ぎ、退職してから始めて伝統的な生活に触れる機会を持ったのだ。

  どのようにして数珠が100回廻ったとされたのかは、見ていてわからなかった。浅野さんが時々鉦を叩いたことと、回った回数は関係があったのかどうか。しかし、和尚が最後にゆっくりと経を唱えて終わりにし、頭を下げると同時に、数珠を繰る手が止まって、人びとが唱えていた念仏も終わった。厄払いをした人たちは、座布団を外し、膝を伸ばしたり、後ろの戸に寄りかかったりして、休んだ。

和尚は今度は、日本語の短い言葉で、家串部落の繁栄、無病息災を祈った。これによって前方左右におかれた大わらじにも、家串を守る霊力が与えられたのである。このわらじは家串地区の東西二つの入り口に置かれる。

その後、お盆の後のテレビのニュースで、大わらじ作りが全国的に行われているらしいことを知った。真夏、埼玉県では3.8mもある大わらじを作って、街道の入り口にたてておく。同じようないわれがあるようだ。このわらじは「ふせぎ」と呼ばれる。「防ぐ」または「塞ぐ」から来たと推測されているという。

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「うねの松」と「白牛車観音」

昭和31年の県道開通以前は、平碆・家串間は、両地区の間にある尾根の峠を越える山道を通って行き来した。峠には昔「うねの松」(「うね」は尾根と同じだろう)と呼ばれる大きな松があり、ここが家串の東側の入り口だった。おおわらじの1つはここに供えられる。県道を西に行き、家串の集落から外れて少し先にいったところに竜王大権現を奉った祠(ほこら)があるが、ここが西側の入り口で、この祠の横にもう1つのわらじが供えられる。

うねの松への山道

前年の自治会の集まりで、わらじ運びが問題になっていた。山道はきつくて、年寄りではとてもむりだから、若い者に頼みたいというのである。このことが私の頭にあって、私は舗装された広い県道ではなく、山道を登っていく「きつい」ほうのわらじ運びを見るほうがおもしろいのではないか考え、野次馬根性から山道にいくチームについて行くことにした。

「若い人」たちといっても、前田淳さんが40代前半で、あとは50才前後の消防団長の兵頭さん、井伊さん、黒田茂樹さんなどであった。わらじの重さは、たぶん、30キロ程度で、5人ならたいした重さではないように思われた。しかし、全員力をそろえて担ぐことができるわけではなく、狭く急な山道で、ぞうりの下に入って実際に担ぐことのできるのは3人だけであり、苦労しながら上まで上った。

私は散策で源さんと一緒に2回ほどここに来たことがあり、何の祠かは知らないが小さな祠があることは知っていた。この祠の脇の松にわらじを掛けるのだと言う。見ると、松の下には、腐ったワラの山ができていて、去年供えたわらじだという。1年で見事に腐るのだ。新しい大わらじを立てて、倒れないように上から紐をかけ仕事は終わった。

県道にある竜王大権現の祠はコンクリートの立派な造りであるのに対して、ここの祠はスレートを屋根に張った木造のみすぼらしいもので、錆びた鉄格子の扉があるが鍵は掛かってない。一人が扉を開けて見たので、私も覗き込んだ。「白牛車観音」と書かれたコンクリートの仏像が置かれている。高校時代に習った古文に、「牛車(ギッシャ)」が出てくるが、これは白い牛に引かれた牛車に乗った観音様ということなのだろうか。どういう功徳があるんですかと聞いてみたが、5人の誰も知らなかった。

『広辞苑』には白牛車も白牛車観音も載っていない。『内海村史』によれば白牛車はハクギュウシャと読む。『内海村史』によると、白牛車観音は法華経譬喩品のなかにある、「火宅の譬」に由来する観音で、火事になっているのに気がつかず、家の中で夢中で遊んでいる子どもたちに、「外に白い牛に引かれた珍しい車が来ている」とうそをついて外に誘い出すというたとえ話がもとになっている、という。辞書を引くと、火宅とは、煩悩と苦に満ち現世を意味するという。

檀一雄の『火宅の人』という小説の名前は聞いたことがあるが読んだことはなかった。「火宅」とは、仏教説話(正確には「法華経 譬喩品」より)の用語で、「燃え盛る家のように危うさと苦悩に包まれつつも、少しも気づかずに遊びにのめりこんでいる状態」を指すという。wikipedia,「火宅の人」による。 しかし、「うそをついて外に誘い出す」というそのたとえ話は何の譬なのか知りたいと思っていたところ、たまたま、ラジオで、その話に触れた放送があった。現世の欲に目がくらんで、悟りを得ようとはしない衆生を救うためには、うそをつくことも時に必要だということの「たとえ」だということらしいが、すっきりしない。『仏教辞典』(岩波書店、2002)を引いてみると父親である仏陀が子供たちを平等に大白牛車(ダイビャクゴシャ)を与えて救い出すという話が書かれていて、結局、納得のいく答えは得られなかった。


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漁師の妻たちの願掛け

白牛車観音には、昔、不漁のときに、女性が漁を願ってお参りに行ったという。Sさんは70歳代半ばと思われる寡婦である。昔は、夫とともに、漁に行っていた。握り飯と水だけ持って出かけた。その頃の生活はとても楽しかった、という。不漁が続くと、「私ら女がうねの松のところの観音様に願掛けに行った」。どういう風にするんですかときくと、「サカヅメ」だという。それは何ですかと訊くと、「こうするんよー」と彼女は身振りで示したのだが、私にはその動作がでんぐり返りであるということがわかり、またその意味がすぐにわかった。それは、手を地面につく、平身低頭のお願いなのではない。



白牛車観音のお堂:わたしが家串に住み始めたころには後ろ側の石垣が崩れていたが、その後源さん(前田源一氏)の手で修復された。
写真は2013年の撮影で、石垣は修復されている。



以前、見た、志摩半島大王崎周辺を紹介したテレビのドキュメンタリー番組ではなかったかと思う(不確かである)が、昔、漁師のお上さんたちは、不漁続きのときには、観音様に願掛けをしたが、下着(腰巻)をめくって、女性の下腹部を見せたものだという。私が想像するに、たぶん、観音様は、(私同様に)好色で、いいものを見せてもらったお礼に豊漁にしてくれると信じられていたためだろう。
もし、家串の白牛車観音が、ストリップよりも曲芸をみることの方を好んだというのでなければ、腰巻姿でのでんぐり返りは、結局、女性の尻を見せるということであろう。面白いものだ。不漁の時に願掛けに行くというのは、ごく、自然に始まった風習であろう。不思議はない。しかし、その風習は各地で独立に始められたのではないかと思われるのに、その願掛けの対象が、共通して、好色であると信じられ、女性がふだん他人にみせないところをちらりと見せるというやり方であるというところが、不思議で、非常に面白いと感じられる。

祠(ほこら)は小さな社、つまり神を祭った場所、神社である。竜王大権現を奉った祠、竜王神社は、海の神、竜神を奉っており、愛南町の漁村のほとんどで祀られているという。

大わらじを供えたあと、寺に戻ると、本堂の戸が少し開いていて、中では何人かが酒を酌み交わして歓談しているらしいのが見えた。外の廊下に、人数分の注連縄とお札(フダ)が用意されていて、これをもらって帰った。前年は「念仏の口開け」に参加しなかったので、あとで注連縄とお札が家に配られてきた。去年に較べて、注連縄とお札が少しありがたいような気がした。帰り道、細川さんのお母さんに会った。浩志さんはまだ若かったはずだと思い、年を聞いてみると34歳だという。厄落としは、勤めている奥さんの代わりに行ったのだという。辞書を引くと女性は33歳が「大厄」(男は42歳)だという。厄払いは、代理でも、効き目はあるのだろう。

翌年も参加した。数珠球繰りの鉦叩きは前年と同様、藤吉郎さんだった。尋ねると彼はお寺の四人の総代の一人だという。鉦は、和尚のたたく木魚の20回に1回の割合で鳴らす。参加者が念仏を唱え長数珠を回す速さと和尚のお経を読む速度が調和しており、自然とそうなるという。

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厄除け行事の起源

隣に座った伊勢さんからいろいろ話を聞いた。この数珠球を繰る厄除けの行事は、仏事ではないという。津島町や宇和島でも数箇所のお寺でやっているに過ぎない。それぞれの地区で疫病が流行ったときに(住民と寺が相談して)始まったという。家串ではこれをやらなかった年もある。だがその年にはにチフスが流行って、伊勢さんが小学校低学年の頃、タンダ(田ノ浦:家串の集落から西に300mか400m離れた海岸)に小屋を作って患者を隔離するほどであった。

『内海村史』によると明治39年(1906年)、内海村に、家串を中心に赤痢が大流行した。家串地区に患者116人、死者16人を出した。村内で188名の患者と36名の死者が出た。これは村始まって以来の大惨事であった。患者隔離小屋を建て飲料水を配給。家業を行なう余裕もなかった。数年来の不漁も重なり生活も困窮する人が続出した。このとき泉法寺住職雲邊寛洲は産業を興し相互扶助を行なうための産業組合の設立を働きかけた。明治44年に設立され、県下に誇れる優良組合となった、という。もしかしらた、このときに厄除けの行事が始まったのかもしれない。

参加している人のほとんどは50代の人と思われた。しかし42の厄の後は61だという。聞いてみると、(去年の細川浩志さんと同様)身内の人の代理だろうという。他に、自治会長も加わっていて、彼は代表としてこの地区の厄除けをしてもらうのだということであった。

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(2)8月・盆踊り

(2008年の)盆踊りは14、15の2日間行われることが、8月始めに配られた「自治会8月のお知らせ」でわかっていた。この「お知らせ」はメモ用紙くらいの大きさの紙に、行事とその予定日だけがそっけなく書かれたものである。3日は「道路愛護」つまり「草引き」であった。(『広辞林』にも『広辞苑』にも「草引き」の語は載っていないが、松山でも家串でも草取りを「草引き」という。)私は4日まで松山にいたのでこの「お知らせ」は知らず、草引きは欠席した。 盆踊りは、1日目の朝に会場作りの仕事がある。時間がわからない(書いてない)ので、当日6時半頃、会場になる公民館の隣の公園に行ってみた。去年は、準備作業を開始する時間を知らず、8時ごろ行ったときにはほとんど終っており、盆踊りが終ったあとの片付けだけをやった。公園の向かいの「門屋渡船」の入り口に、この船の船長で、今年自治会長の吉良さんがしゃがんでいた。会場作りの時間をきくと7時半からだという。自治会の行事や活動のなかで高齢者が免除されているものもある。たとえば大わらじの奉納(正月)などは何歳以下という風になっていたと思う。「年齢制限はありませんか」と聞くと、「いや、やっていただけるんであればどなたでも結構です」という。

家にもどり、30分ほどで朝食の準備を済ませる。13日の夕方やってきた息子の大地と妻の直子はまだ起きてこない。コーヒーを一杯飲んで公園に向う。すでに人が集まってきていて、一部は、公園で竹を立てるための穴掘りなどをし、残りは30mほど離れたところにある集会所の倉庫から、やぐらになる柱や、飾り、ソケットのついた電灯のコード、提灯などの入った箱を公園に運ぶという。

やぐらになる柱は、一方の端にホゾというデッパリがあり、このホゾの先端部には楔を打ち込むための小さな穴が開いている。もう一方の端から柱の太さの半分だけ離れたところには、他の柱のホゾをさしこむためのホゾ穴が開いている。長さ1mくらい、1.5mくらいのもの、そして2.5mくらいのものがそれぞれ4本ずつあり、他に手すり用のサクが3つ、階段が1つある。これらを人が担いで運ぶ。去年の片付けのときはトラックに積んで運んだが、人が運んだほうが早いということがわかり、今年は人が担いで運ぶという。倉庫の前に一列に並んだ。私はこちらに加わった。

最初の人には1mの柱が2本ずつ渡された。前田悟さん、たぶん彼は70をとうに越しているはずだ。普段は片足を引き摺るようにして歩いている。彼には長さが2.5mの長く重い柱が渡された。彼はこれを担ぎ平然と運んだ。何番目かにならんだ私に手渡されたのは、一番短い1mの柱1本だった。巾が10センチくらいの柱は重いというほどではないが、肩に担いで柱の角が肩の骨に当たると少々痛い。私は両手を柱に添えて、角が骨に当らないようにしながら、そろそろと歩いて運んだ。材料を全部運び終わるとやぐらの組み立てだ。

組み立て作業の中心は大工の土居三夫さん。柱に書かれているのを見ながら「これは東だから、これと、これをここへ差し込んで。これは西だから、-----」。彼の指示で、一人が一本の柱のほぞを別の柱の穴に合わせると、他の一人が大きな木槌でホゾのついている側と反対の端を打つ。1.5mの柱に踊り場の手すりを支える1mの柱が継ぎ足されたものが4本作られ、その2本と、それに直角に入れられる、地面から30cmほどのところにくる足の支えと、地面から1.5mほどのところにくる踊り場の支えとでつながれてできる2つの長方形がまずでき、それを2.5mの間隔で立てておいて、その二面の間に、また足の支えと、踊り場の支えを水平に入れる。

柱を持ち上げた状態で行うので今度はホゾの差込みが簡単にいかない。「あれ、△△さん、入れるのは得意だったんじゃないけえ」と脇で見ていたものが冷やかす。「いや、おれも、そろそろ年だからな」。答える△△さんもにやにや。足を支える、水平の柱はその太さの分だけ段違いになっていて、ホゾとホゾ穴の寸法は同じである。躍り場の支えの柱は4本とも、地面から同じ高さなので、足となる柱には隣り合った2つの面に水平のホゾ穴があいているが、ホゾの太さは半分で、両方からホゾが差し込まれたときぶつからないように、段違いになっている。柱を貫いて飛び出たホゾの頭に楔が打ち込まれる。こうしてやぐらの基本形が出来上がる。3面には手すりがつけられ、残りに階段がつけられる。躍り場にはさらに2本水平の柱がはいっていて、この上にコンパネを敷き、端を細い板で押さえて、ボルトで止める。

長さが7〜8mくらいありそうな竹が脇に8本置かれていた。下のほうの2〜3mは枝が落とされているが、上には枝葉が付いている。これに、絵や文字の書いたウチワ、模様の入った手ぬぐい、クリスマスツリーに使うきらきらした飾りなどをくくりつける。広場の4隅と、その中間に合計8個の穴が掘られ、塩ビのパイプで土がくずれないようにしたこの穴に、竹を立てる。(この公園ができた数年前まで、盆踊りは農協のまえのせいぜい10m四方くらいの「広場」が会場だったが、そのときは4隅に立てただけだったという。)そしてこの竹を支柱にして、広場の周囲と、中央のやぐらを通って対角線状に、電球のソケットが1.5mおきくらいについたコードの巻きついたロープを張る。ソケットに電球をつけ、赤い色の提灯をかぶせる。

集まったのは男だけだが、30人ほど。15〜6人は50歳代ではないか。60代以上(ここに私も入る)と思われるものが、源さんを含めて2〜3人。40代が5〜6人、若者が4〜5人というところだ。体の動かし方は様々だ。手順をよく知っていて、指示を行うとともに次々と人をさそって作業を進める人、「これを持って」とか「これを引っ張って」と声が掛かればすぐに動く人。日陰に座って、タバコを吸ったり、おしゃべりしたりしていて、さっぱり手を出そうとしない人。熱心に作業をやるのは自治会の現在の役員、消防団長、副団長、去年、おととしの役員など、50代。若者には動かないものが目立つ。ずっとおそくになって顔を出し、しゃべってばかりいたが、終わりまで何1つ作業をしない若者もいた。私は必要な作業がわかると、つい、手を出してしまう。もっと身の軽いはずの若い者にやらせてもよかったのに、背丈より少し高いくらいの脚立に上って、竹にロープを縛り付ける作業をやった。8時くらいには人数は22〜3人に減っていた。もういいですか、と帰ろうとすると、冷たいものがあるからちょっと待ってといわれた。ビール、コーヒー、ジュースの缶の入った大きなクーラーボックスが運ばれてきた。私はジュースをもらって帰った。8時半近かった。

  夜、直子は知り合いがいないせいだろうが踊りにはいかないという。私は盆踊りにはもともと興味がない。しかし大地は、ダンス教室の先生がボランティアで指導してくれるジャズダンスのクラブに通っていて、踊るのが好きである。有志の数人といっしょに、「金八先生」の中で出てきたソーラン節を(松山の)文化祭で披露したこともある。そこで大地を誘って会場に行った。

お盆で帰省している人も多くいて公園には人があふれていた。男衆はベンチやあけ放った公民館の床などに腰かけて柿の種や裂きイカをつまみにして飲むのに忙しく、踊っているものは少なかった。公民館の中では子供たちが駆け回っていた。団扇を片手に浴衣で着飾った女性が踊りの主役であった。

はじめはレコードで何種類かの民謡や音頭がかけられたが、やがて北條さんが櫓の上で祝い唄を歌い始めた。この歌は単調なメロディーで伴奏無しで、いまはやりの言葉でいえばアカペラで、うたう。長い歌詞がついていて、北條さんの歌声は延々と続いた。彼は実に楽しそうに歌い続けた。大地は缶ジュースをもらったが、わたしが促しても踊りの輪には入ろうとせず、すぐに家に戻ってしまった。私もしばらくは会場にいたが間もなく家に帰った。

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(3) 秋祭り

2006年11月3日若宮神社大祭

 

朝、8時少し過ぎ、太鼓の音が聞こえて、立て込んだ家並みの間の路地に入って行くと、印半纏姿で、頭に手ぬぐいや、鉢巻を巻き、太鼓とその台、あるいはばち、それに獅子頭などをもった6人の若者に出会った。荒獅子の一行だ。全員男であったが、そのうちの3人は子どもで、口紅をつけていた。他の3人のうちの一人は高校生だといい、ほかは20代の青年だった。

私は家串に住み始めてからまだ半年ほどでこの地区の人の顔はまだよく知らない。一番小柄な子が私の顔を見ると、親しそうに笑顔で挨拶した。私は、少したってから気がつき、名前を確かめて分かったのだが、一度話をしたことがあり顔を知っている加藤正悟君だった。口紅をつけていただけでなく、目なども描いていたかもしれない。鉢巻も着けていた。最初は誰だか全くわからなかった。

加藤君は小学6年だという。他の二人の子供のうちの一人、めがねをかけてかわいい感じの子はワカバヤシ君で、お寺の息子だという。もう一人は藤井数義さんの二番目の息子・省太君で中学1年だった。高校生は省太君の兄さんの大介君だった。藤井数義さんは私の船で一度いっしょに釣りに行ったことがありよく知っている。ただしその時は何も釣れなかったが。

私は(パソコンの)「日記」に書いた時には「ワカバヤシ」は「若林」と「変換」して済ませていたが、あとになって間違いだと知った。翌年かその次の年の正月、念仏の口開けに参加したときに本堂の隣の家の表札を見ると少林となっている。私はここは住職のワカバヤシさんの家ではないのかと思い、水谷さんに、住職の家はどこかと尋ねた。ここだといわれ、少林と書いてワカバヤシと読むのだということを始めて知った。家串の人には「ものを知らない人間」だと思われたかもしれない。

祭りの前日、北條さんが誘ってくれたので、魚を捕るかごを上げに行く船に乗せてもらい、その時に船上で祭りの話を聞いた。

祭の日には、神輿や牛鬼、子供神輿が出るが、それとは別に、荒獅子、相撲練り、五つ鹿などの出し物がある。とくに荒獅子は非常に人気がある。家串地区としても力を入れている。荒獅子を踊るのは大人、若者だが、太鼓を叩いて獅子を踊らせるのは子どもで、以前は中学1年生がやることになっていた。晴れがましい役であり、誰もが太鼓を叩きたがり、親もやらせたがる。子供の数が多い時にはくじ引きで決めたものだった。子供の数の減った今は、年によっては中学2年生がやったり小学校の5、6年生がやったりすることもある、という。

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荒獅子

家の前で荒獅子に踊ってもらうことはその年、その家の災いを遠ざけ商売繁盛など福を呼ぶことになるので、希望者は(少額だが)寄付をして予め申し込んでおく。この年、荒獅子に踊ってもらうよう申し込んでいる家は33軒。名簿に載っている家を確かめながら、また、名簿に載っていない家ではやらなくていいのかを祭の世話係の人のところに携帯電話で確認しながら1軒、また1軒と回って行く。

3人の子どものうちの一人が正面に立って太鼓をたたく。残りの二人はわきに腰をかけて小太鼓をたたき、鉦を鳴らす。青年の二人が正面の太鼓の後ろで獅子舞を舞い、一人は休む。子どもの3人も、青年の3人も、順繰りに役を交代して、それぞれの役をすべてやる。獅子舞のほうは、獅子頭を持った前足の踊り手と後足の踊り手が、息を合わせ、体を折り曲げ低い姿勢をとったかと思えば、高く飛びはね、あるいは左にまた右に大きく跳ぶ。獅子は太鼓に操られて踊っているかと思えば、それに従わず、背を向けている太鼓の打ち手を挑発し、打ち手の肩、あるいは尻の辺りに噛み付き、じゃれる。打ち手はその都度、振りかえってばちをかざして、獅子をしかり、あるいはなだめて、太鼓が奏でる音楽に従い、それに合わせて踊るように言い聞かせる。


西の浜、真珠作業棟前の駐車場での舞(1992年11月撮影)。

              

笛や三味線の演奏の場合には、音の強弱とリズムのほかに節、つまりメロディを伴っている。後者が主だと言ってよいのかもしれない。太鼓の場合には、その演奏は音の強弱とリズムだけで成り立っているはずである。ところが、この少年達の「荒獅子」の演奏を聞いているうちに、私は、いつのまにか、太鼓から強弱とリズムを伴った単なる「音」が発せられているのではなく、旋律のある音楽が奏でられているかのように感じていた。

この曲(踊り)は3番まであるということが後で分かったのだが、一曲(一番)はほぼ3分間である。私ははじめ加藤君を含む太鼓の打ち手の3人に注意を集中して見物していた。そしてその太鼓の演奏は文句なしに素晴らしかった。しかし、2軒、3軒と回るうちに、獅子舞の踊りがさらに見事なものだということに気がついた。

テレビで(たぶん、プロの)ストリート・ダンスを見たことがあるが、地面についた片手を軸に体を回転させたり、頭だけで逆立ちして回転するなどの見事なパフォーマンスが見る人を驚かせる。しかし、この獅子舞は、そうした奇抜なパフォーマンスこそないが、「荒獅子」という名にふさわしい、前後、左右、あるいは高く低く、飛び跳ねる激しい動作が繰り返され、この踊りを3分間踊り続けることが非常にきついものに違いないと分かってきた。

子どもは3人で大小の太鼓と鉦を順に交代で行なう。青年の3人のほうは、2人で獅子の前足と後ろ足をやり一人は休む。獅子頭・前足を一回やり、次いで後ろ足を一回やったら、そのあとは交代して一回休まなければ、とても体がもたないのだということがわかってきた。もっとも体力のある20歳前後の若者がこの役をやることの意味がわかってきた。この荒獅子は家串では最も伝統のあるもので、昭和11年、時の皇太子が宇和島を訪れたときに、この獅子舞が奉納され、全国的に有名になったと、家串の何人もの人が誇らしげに語った。

その後、「ジュニア愛媛新聞」(2014.10.12)に、51番札所石手寺で知られる、松山の石手地区にある大山積(おおやまづみ)神社で、地元の小中学生が、伝統の新たな担い手として初めて獅子舞を演じたというニュースが複数の写真とともに載っていた。家串の獅子舞と違って、この地区ではこれまでは大人が演じてきた。また、演じられるのは畑の芋を食い荒らす獅子を狩人が退治する物語だという。家串の獅子舞では、人(太鼓の打ち手)は暴れる獅子を太鼓の音楽で手なずけるのであり、獅子は「退治される」のではない。地区ごとに異なる物語が舞いの中身をなしているのだろう。  またその後、祭りや催し物にいつも熱心な家串の寿山(スヤマ)さんから聞いた話では、太鼓の打ち手は蝶々だという説と狐だという説があるという。どちらにせよ、キツネまたは蝶々と荒獅子が戯れている様子がこの踊りだという。

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五つ鹿、相撲練り

祭の出し物は(大人と子どもの)神輿、牛鬼、それに荒獅子、五つ鹿、相撲練りである。決まった役柄で子どもが行なうのは後の三つ。五つ鹿は、もともとは八つ鹿で宇和島藩伊達家に伝わったもので、家串ではこれを簡略化して五つ鹿にした。八幡浜では今も八つしか踊りが行なわれているという。5頭のうち、一頭はメスの白鹿で角はなくその代わりにススキの穂をつけている。他の4頭は角を生やした茶色のオスである。役を演じているのは全員中学生だが、3人が女の子、2人が男の子だった。各自が小太鼓を打ち鳴らしながら歌を歌って家々を回る。

左は五鹿踊り、右は相撲練り(この日は雨)。右写真の奥に牛鬼の背が見える。






















「相撲練り」では相撲取りや行司の格好をした子どもたちが村の中を練り歩く。この練りは小学生だけで行う。6年生の男の子と女の子一人ずつが行司役(紋付、羽織はかまで烏帽子をかぶり、手に軍配を持ち、白か黒のタビを履き足駄を履いている)で、残りの14人は赤か黄色の鉢巻をし、羽織を着て、金襴緞子にカブトや鴻の刺繍が施されたりっぱな化粧回しを着け(その下は半ズボンである)、足袋とぞうりをはいている。鳴り物はない。回ることが予定されている家の前で、二列に別れ、それぞれの先頭の行司が、「この方―、朝風―」「この方―、追い手風」等と呼出し、向かい合った2人がしこを踏むと、「見合わせて」と行司が言って、(相撲を取ることはせず)一組が終り、7組やったあと、全員で輪になり、回りながら相撲甚句を歌う。県道が大きくカーブしたところにある浅野さんの家の前でやったときには、バスの通る県道に広がってやったが、時々車が通り、その都度中断して端に寄り、車が通りすぎてから、続きをやった。

戦後しばらくは、近隣の集落を含め相撲が盛んで、たとえば、兵頭さんの祖父は大関を張っていたという。この相撲練りは当時実際に行なわれた行列を模したものである。兵頭さんによれば、この練りで呼び出される力士の四股名も実際にあった名前だという。

北條さんによれば、三瓶(西予市)でも3種類の出し物が行なわれている。五つ鹿は子どもではなく青年団がやり、迫力があるという。家串ではとくに荒獅子に力を入れていて、他の二つは子ども達だけで練習が行なわれるが、荒獅子は大人がつきっきりで練習する。荒獅子は家串の花形で、祭りの当日には年よりはとりわけこの荒獅子をみるために祭の広場に集まってくるという。

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牛鬼と神輿の喧嘩

第三部第三章「遊び」の中でも触れたが、牛鬼は、病気や不幸を意味する悪霊を追い払うとされる牛の頭と胴体をもつ怪獣である。牛鬼の胴体はウバメガシを曲げて作った楕円形の胴回りと割り竹を編んで造られた籠状の上半身からなり、頭から首にかけては黒い毛が生えている。

森正康「愛媛のまつり風土記」『ジ・アース』12巻、90年11月によると、牛鬼は南予の祭りを特徴付けるもののひとつだが、日本各地の伝承に登場し、突如として海上に出現し、船を襲うなどする妖怪の一種として描かれ、牛鬼を退治した英雄豪傑の話も伝わっている。古くは『枕草子』でも触れられている。この妖怪がどうして祭りの練りものとして登場するのか、経緯ははっきりしない、という。

家串地区のほぼ中央に農協の事務所と売店、集会所、公民館、二階が消防団事務所である消防自動車の車庫などが集まっており、農協前に駐車場を兼ねた小さな広場がある。その広場に、神輿、牛鬼、および荒獅子、五つ鹿、そして相撲ねりの三種類の練り/出し物がお昼に集まることになっている。早朝、神殿を出発した神輿と牛鬼は、一日かけて家串地区を旅するが、この広場が、その中間地点に当たり、「中旅」と呼ばれるという。

お昼が近づくと、それぞれの家で集まった親戚や親しい友人らと昼食のご馳走を食べ、お酒を飲み交わしていた人々が、老若男女、あるものは親に抱かれあるものは小さなショッピングカー兼用カートにつかまって、漁村特有の狭い路地を通って、続々と集まってきた。そして掛け声を掛けながら、県道を神社のほうからまず子どもの神輿が公民館の前にやってきた。子ども神輿といっても、樽神輿や即席で作られたものではなく、少しサイズは小さいが、黒塗りの木材とりっぱな飾り金具で作られた本格的な神輿である。恐らく昭和50年代後半の真珠景気に沸いた頃、多額の寄付を集めて建造されたものだろう。

続いて牛鬼が入ってきた。牛鬼は全長は5mほどで、尻の部分が高くなっていて、持ち上げられたときに尻の高さが地面から二mほどになる。内部には何本かの梁が渡してあり、中に入った者はこの梁を持ち、外の者はウバメガシを曲げて作った胴周りを持つ。担ぎ手の数はおよそ20人くらい。若者が多かった。

大人の神輿の担ぎ手は中年以上とおぼしき顔ぶれが多く、担いでいる人の数は15人程度だった。60才に近いという北條さんが一番前で担いでいる。牛鬼は若者が、神輿は中年以上の者か妻帯者が担ぐことになっているという。私は、重いはずの神輿を少ない人数で中年以上の人が担いでいるのはどうしてかと尋ねた。返事は、牛鬼のほうが重いというものである。胴回りの材料のウバメガシが重いようだ。神輿も決して軽くはないはずだが、牛鬼に人が取られて、少ない人数で担いでいるのだと言う。

合図があったようには見えなかった。神輿が急に牛鬼の尻をめがけて突進した。北條さんともう一人の一番前を担いでいた人は、牛の尻に突っ込む直前に手を放して左右に別れた。前の棒がバリバリと竹カゴを突き破り、神輿の本体が牛の胴体に突き当たったところで止まった。神輿から何か金色の飾りがはじけて地面に転がった。そして担ぎ手の一人が、道路標識にぶつかりよろけた。その額から血がしたたりおち、彼は手ぬぐいで傷口を抑えたが、大きな傷ではなかったようだ。衝突して一瞬の間止まったが、それで終りになるのでなく、神輿と牛鬼が絡んだ状態で、再び押し合いが始まった。皆酒が入っている。本気で全力で、押すのである。もちろん、数で勝り、若者が多い牛鬼が優勢で、神輿を押しまくり、たちまち勝負はついた。両方の担ぎ手が、皆、肩で息をつき、台の上に牛鬼と神輿をおくと地面に仰向けに寝転び、しばらく動かなかった。

これは後で聞いたことだが牛鬼の重さも、神輿のおもさも、ほぼ500キロくらいだという。20人で500キロを持つということは平均すれば一人25キロの重量を持つということである。私は、1、2度、30キロの米袋を持ったことがあったが、10mも歩くのがやっとだった。私と同程度の筋力の人間だけなら、神輿も牛鬼も、持っているだけで精いっぱいのはずで、両者がぶつかったり、押し合ったり、もみあったりできるのが不思議だと思った。しかし、アコヤガイ養殖では貝の入ったネットを何枚も重ねて持ち上げたり、海上からネットを何十枚も連続して太いロープに吊るしていくなどの作業を毎日のように行う。実際、北條さんは、力仕事に慣れているから20人でも大丈夫、という。若者の数が年々少なくなっていることは気になっているだろうけれども。

牛鬼の体は幅数センチの割り竹で編んだカゴに黒い紙を張った、張り子である。よくみると後(尻)の部分だけ竹が青く、そのほかのところは竹は黄色である。毎年、神輿との衝突で壊れる尻の部分は、新しい竹で作り直されるからであろう。後で、他の誰かから聞いたことであるが、その古い竹で編んだ部分は本職の人に頼んで編んである。しかし、毎年の修理は頼めないので、住民が修理する。「やっぱり、編み方が違うでしょう?素人がやってるから、尻の部分はきれいに編まれていない」。そう言われてよく見れば、古い竹の部分はカゴの目がきれいにそろっているが、尻の辺りの青竹で編まれたところは竹が平行になっておらず、目の大きさが違っているのが分かった。

手ぬぐいで汗をふきながら北條さんが近づいてきて、昔はこんなものではなかった。酒の勢いと、祭の無礼講をチャンスに、狭い部落の人間関係の中で、日ごろのたまりがちの鬱憤をはらそうとするものもあって、本気の喧嘩にまで発展することがよくあった、という。

このころまでに黒山といっていいほど沢山の人が広場の回りに集まってきていた。私がお昼をご馳走になった伊井安さん73歳は一男三女の親で、長男夫婦と一緒に暮らしているが、この日は3人の娘が家族を伴って集まってきている。「伊井家の人口」は普段の3倍、15人を越えている。家串地区の世帯数は約100で人口は300ちょっと。独居老人も30数人いるという。そうしたことから大まかに地区の人口は2倍以上になっていると考えてよかろう。そして、広場には、当日家串にいる大部分の人が集まったのではないだろうか。それにしても20m四方くらいの広場を取り囲んだ人々の数はすごかった。

10日ほど前に行方不明になり、船が船越運河近くで発見されたDさんの死体が祭の前日、由良半島の北側で発見された。噂では死体に錨が巻きついており、自殺か他殺か分からないが、少なくとも海上での病死あるいは単なる事故ではないだろうということで、発見された海域の所轄である宇和島警察署から捜査員が30数人来ているという。朝、農協マーケット前にパトカーが3台止められており、私は祭りの警備かと思ったが、事件の捜査のためにきていたのだ。これら捜査員は公民館の中に連絡所をおいているようだったが、彼らとて昼食休みは取るだろう。そしたら、この祭の催し物を見物しているかもしれず、見物人の数はその捜査員の分まで多くなっているはずだ。

荒獅子が始まった。家々を回ったときとは少し違って、まず少年3人が並んで、その前に置かれた3つの太鼓をそれぞれ打ち、踊り、そして青年2人が小太鼓を叩き、一人が鉦を鳴らす。一曲終わると、中学生は打つ太鼓を順に取り替えて、合計3回打つ。獅子頭とその衣装は脇に置かれた台に乗せられている。その後、家々を回ったときと同様に、少年が一人ずつ前にでて太鼓を打ち踊り、残りの二人は小太鼓を、青年の一人が鉦を鳴らす。そして青年2人が獅子を踊る。青年は鉦、獅子の前足、後ろ足の3つの役を順に行なう。こうして3回太鼓の演奏と踊りが行なわれる。1回はおよそ3分ぐらい、全部で6回、ほぼ20分くらい。見物人から合いの手が入り、掛け声が掛けられる。太鼓を打ち、踊る若者達も、練習の成果を正確に、あるいは十分に発揮しているというだけでなく、役になりきり、陶酔しているといって言い過ぎなら、曲に完全に乗って演じていたが、見物人も引き込まれ、夢中になって見、繰り返し拍手を贈っていた。私もまた、踊りの「技」の素晴らしさに感激するとともに、見物客と踊り手が一体になって盛り上がった広場の雰囲気に興奮した。

北條さんが、この中旅の後3時くらいから、地区の西の端の駐車場が「おたび」になって、皆が食べたり飲んだりしながら同じ出し物を見物する。そこで飛び入りで行われる荒獅子も是非みたほうがいい。また、その後、日没前に、神輿を船に乗せて、家串湾の真珠筏の回りを3周して海の上から豊漁を祈願し、それから宮入になると教えてくれた。

「おたび」の字と意味がはっきりしなかったが、08年9月NHKのTVのドラマ「瞳」を見ていたら、東京・築地の住吉神社の3年に1回という大祭の場面が3日続いて画面に登場し、そこで「お旅所」という言葉が出てきた。『広辞苑』を引くと、「お旅所」とは、祭礼のとき、神輿が本宮から渡ってきてしばらくとどまるところで、「お旅」ともいう、とある。私は北條さんからこの語を聞いたときには家串、あるいは南予地方特有の語ではないかと思ったのだが、そうではなく、日本中の祭りの用語であったらしい。ちなみに「中旅」の方は『広辞苑』には載っていない。こちらのほうは南予あるいは家串特有の語かもしれない。

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「御旅」と荒獅子の飛び入り

「中旅」の集まりが終わった後、いったん家に戻り一休みして、3時を回った頃再び西の浜、作業棟前の駐車場に行った。もう人が大勢集まっていて、うどんや焼きソバ、おでんが作られ、あずきご飯のお握り、大皿に盛り付けされた煮物や揚げ物などごちそうが並んでおり、ジュース、ビール、酒が振舞われていた。私はビールと酒は辞退したが、ジャコテンの入ったうどんと煮物、それにあずきご飯のお握りを食べ、さらにすすめられるままに2杯目のうどんも食べ、おなかがパンパンになった。

もう座る場所がなく、ビールが入った大きなクーラー・ボックスに腰掛けて、お握りをほおばっていると、黒田恵喜(しげき)さんが話しかけてきた。「イカを沢山釣ったんだってね」。私はイカ釣りは家串で始めてやった。夕方、日没直前から始めて完全に暗くなるまでの一時間半ほどの釣りで、1週間やって7、8匹ほど釣った。そのことが、家串の人の間に伝わってしまっていた。

他方、私は家串でイカ釣りがうまいのは誰と誰であるかということをほかの人から聞かされており、黒田さんが名人の一人であることを知っていた。彼は一シーズンに、300も500も釣るという。おそらく名人のところには家串のイカ釣り情報が集まってきて、新人の私が何時いつ幾つ釣ったかということも彼の耳にとどくのだろう、と考えた。実際には、のちに知ったことだが、黒田恵喜さんの作業場では、仕事が終わった後毎日のように、仕事仲間が5、6人集まり、缶ビールなどを飲みながら世間話の花を咲かせているということを知った。
私が、船の上から餌木(一種のルアー)を竿で煽る、つまり「しゃくる」ことを繰り返しながら釣る、モイカ釣りの後、ひどい腰痛になってしまったことなどを話していると、源さん(前田源一さん)がそばによって来て、話にくわり、ひとしきりイカ釣りの話がはずんだ。

そのあと、隣に座った消防団の副団長を勤めている 前田亀雄さんとしばらく話をした。彼は、私が一人で暮らしていて生活に不自由しないか、さびしくないかと尋ねた。私は松山での生活に比べ多少の不便はあるが、炊事には慣れているし、自分の食べたいときに、自分の食べたいものをつくればよくて自由で楽であると思っていること、そして、何よりも好きなだけ釣りができて毎日楽しいと答えた。

前田亀雄さんはアコヤガイの養殖を行っている、現役の漁業者である。彼は「釣りはそんなにいいですかねえ」と言い、「私は年を取ったら、町に住みたい。近くに大きなスーパーや病院があるところにマンション住まいをして、小説などを読んで、のんびり暮らしたい」と言う。私とちょうど反対だ。町で暮らしていたものは田舎の暮らし、自然に囲まれた生活がよいと思い、村の人々は便利な都市での文化的生活がよいと考えるのだろうか。それとも私がアウトドア派で身体を使って遊ぶことを好み、前田さんがインドア派で知的的文化的趣味を好むということなのだろうか。

テントの張られた祭壇の近くに並べられた椅子に座っていた人々の間から大きな拍手が沸いた。飛び入りの荒獅子が始まったのだ。私が知らない顔の若者三人が照れながらお辞儀をし、一人が太鼓をうち、二人が獅子になって踊り始めた。太鼓の打ち手の若者は終始満面の笑顔で、軽く体をゆすりながら実に楽しそうに太鼓をたたいた。獅子になった二人の顔は見えないが、同様に楽しんでいると想像できた。二人はジーンズであった。ジーンズ足の獅子は少しのよどみもなく太鼓にあわせ、高く、低く舞い、太鼓のたたき手にじゃれ付き、見物人の大きな笑いと拍手を巻き起こした。近隣の人かと思ったが、回りの人に聞くと、そうではなく、家串の出身者で、今は東京で仕事についているという。私も思いきり強く拍手した。

続いて、細川浩志さんが立ち上がって獅子頭を持った。後ろ足は彼の友達がやるらしかった。太鼓のたたき手が見つからず、加藤正悟君が太鼓をたたくことになった。獅子頭のしたについた覗き窓の網の下から彼の真剣な目つきが見えた。かれはトビの人がはくだぶだぶズボンであった。かれは30歳ほどでまだ若いが既婚者で子どももある。大型のトラックを運転して、養殖の魚を入れて運ぶ木製のパレットという容器を輸送する仕事をして家族を養っている。パレットは重く、荷台から降ろすのはかなりきついとこぼしていた。だぶだぶズボンは仕事の時にいつもはいているものだろう。

踊りが始まった。獅子の唐草模様の衣装の下で、このだぶだぶのズボンをつけた足が曲がったり伸びたりする動きが獅子の飛び跳ねるさまを一層躍動的に見せ、私は感激した。彼にも大きな拍手が贈られたが、踊りが終わると彼は立っていられないかのように、駐車場のコンクリートの上に大の字に寝転がり、しばらくの間大きな息をついていた。

次に中年の2人組みが回りの見物人に押し出されるようにして登場した。顔は知っていたが、司会が告げた名前は、やれー!やれー!という大きな声や拍手にまぎれて聞き取れなかった。太鼓は少林君が打った。中年2人組みは酔っており、足が太鼓の音に全くついて行けなかった。後ろ足が前足を踏み、胴の前部と後部がねじれ、衣装の下から踊り手の顔が外に出、飛び跳ねるのではなく地面に這いつくばり、少林君の肩にではなく、お尻あるいは膝の辺りで口をパクパクさせた。爆笑、また爆笑であった。

それから、やはり回りの声援に押されるように前田正人さんが立ちあがった。前田邦久さんの息子で、まだ独身で年齢は30歳になるかならないくらいあった。御荘か城辺の建設会社に勤めている。結婚してからは釣りにいかなくなったが当時は休日にはたいてい釣りに行き、しばしばわたしと話をした。私が腰痛になったことを話したとき、彼も高校生時代以来の腰痛持ちで、筋トレや柔軟体操をやっているが、しょっちゅう腰痛が起こると言っていた。その彼が、よしッという風に決断して獅子頭をつかんだ。私は大丈夫なのだろうかと少し心配したが、彼も見事に踊り、荒獅子を演じきった。

司会の浅野藤吉郎さんが予定の時間を超えているので、荒獅子の飛び入りは終りとすること、「おたび」もこれで終わったことを告げた。

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神輿は湾内を船で回ってから宮入する

これから神輿や牛鬼を神社に奉納する宮入である。神輿や牛鬼は船に乗せられ湾内を何周かしてから、神社の前の岸壁に着ける。私も乗せてもらえたら乗りたいと思っていた。だが、出港までには準備の時間もあるだろうなどと勝手に考え、家に戻り10分ほど休憩してから岸壁に行くと、牛鬼や子ども神輿などを乗せた船も、見物人を乗せた船もすでに離岸していた。

後の祭かと一瞬悔やんだとき、後から走ってきた細川浩志が「教授、教授、こっち、こっち」と呼ぶ。行く手を見ると、岸壁の端の人だかりの陰になって見えなかったのだが、門屋渡船の飛将丸に神輿を担ぎ込もうとしているところだった。祭で一番重要な神輿を乗せる船に、新参者の私が乗れるとは思っていなかった。しかし、彼の手まねきに従い、神輿に取りつき(腰痛の治療中なので)担ぐ格好だけしつつ、一緒に船に乗りこんだ。

この神輿を乗せた船が一番最後に出る。その前が、牛鬼を乗せた(ヒラバエの中田渡船の)天幸丸、それを先導するのが、副区長が扮する天狗――烏帽子と羽織袴の姿で、別に天狗の面をつけているわけではなく、最初は神主かと思っていた――が乗った小型の漁船であった。他に海上には子ども神輿や見物人の乗った船も数隻でていたが、お祭りの最後のプログラムのもっとも重要な役・位置を占めるのがこのご神体を祭った神輿を乗せる船であった。

40年以上前、私は東京で大学を卒業してサラリーマンになった翌年25歳のときに結婚して、抽選で当たった公団の新築の団地に入った。自治会が組織され、夏祭りも行われたが、神輿は手作りの樽神輿であった。子どもが生まれ荷物が増えるにしたがって団地を2回変わったが、結局、本物の神輿を担ぐ機会は1度もなかった。

腰を痛めていたため担ぐことはできなかったが、家串の秋祭りで、私ははじめて近くによって、本物の神輿に手でふれてみることができた。神輿の四隅には、屋根からご神体の入った部屋を囲う手すりへと、赤い布の巻かれた太い紐が張ってあり、そこにこぶし大の金色の鈴がいくつかついている。神輿が「はねる」とその鈴がシャン、シャンと鳴るのである。家串の秋祭りで、私は60歳を過ぎてはじめて、近くによって、本物の神輿に手でふれてみることができたのだった。

船に乗ると、缶ビールがまた皆に手渡され、担ぎ手たちは、栓を開けて一気にのみ、時々、他の船に向かって何か叫び、このヒモをつかんでゆすり、鈴を鳴らした。酒ビンが開けられ、コップで配られた。細川浩志が新しいビンを開け、酒を海に注ぎながら、「豊漁祈願だ」といった。そしてコップに酒を入れると「教授、呑め」と言って私に渡した。私は口をつけただけで飲み干すのは勘弁してもらい、中身を海に注ぎ、「豊漁祈願」と叫んだ。彼は不満げで「教授はつまらん」と言い、申し訳ないと私が謝るとこんどは「教授は面白い」と言った。酔っていても気を遣ってくれているのがよくわかった。
太陽はすでに沈んで夕焼けの残った西の空に塩子島がシルエットになって浮かんでいた。すばらしい光景で厳かな感じすらした。わいわい歓声を上げている人々を乗せて、6艘ほどの船は家串の湾内の真珠貝養殖筏の回りを3周し、神社のある東側の浜の岸壁に止まった。満潮で、飛将丸の船べりと岸とがほぼ同じ高さで、神輿を岸に上げるのはさほどの苦労なしにできた。それでも、船上で「肩を入れろ」という声が掛り、私は自分が何にもできないのが目立たぬようにと体を小さくした。


右は、日没10数分前の塩子島と由良半島の一部・マメソ(豆磯)の光景。



神社の本殿は高床式で、階段を上って入る。天狗がお払いをする中で神輿を担いで本殿に入るのだが、入り口の幅が狭く、神輿の側面を担いで入ることができず、前から引っ張り、後から持ち上げながら押すようにして階段の上に上げ、中に入れる。再び肩を入れろ、と言う声が掛った。私は棒につかまるだけで一緒に上がり、ぴかぴかに磨かれた板の間をくつで歩くことに一瞬躊躇したものの他の人と一緒にそのまま奥まで進んだ。神輿に続いて牛鬼が、同じようにまえから引っ張り、後から押すようにして運び込まれ神様の宮入が終わった。「これで祭は終わったんですね」と隣りの人に聞くと、その人は頷きながら、「これからまだ飲むんだけどね」と笑った。

翌年かその次の年かはっきりしないが、10月の半ば、釣りから戻ると、浅野藤吉郎さんの作業小屋の前で、藤吉郎さん、伊井安さん、小田長治さんの3人の年配者が、棕櫚の木の皮をはいでいた。何をするんですかと聞いたら、牛鬼に使うのだという。なるほど、牛鬼は頭から黒い毛が垂れ下っていた。祭りのときは、何でできているのか考えてみようとはしなかったが、それは棕櫚の皮だったのだ。また秋祭りが近づいている。ご苦労様です、と私は頭を下げ、釣ってきたタイを一匹差し入れた。

この文をHPに掲載するための準備をしている2015年秋までに、私は4、5回家串で秋祭りを見、集まった他の住民と語らい、いっしょにごちそうを食べたりしたが、神輿を担いだ(掴まった)り海上行進の船に乗ったりしてフルに参加し、日記に詳しく書いているのは、この2006年の他は2011年に「宮当番」をした時だけであった。この11年の秋祭りの経験は以下の(5)で、正月の準備、春祭りのことなどとともに書くことにする。

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(4)11月 亥の子

08年11月、細川浩志さんと前田亀雄さんが付き添って、10人ほどの子供たちが歌を歌いながら歩いてきた。カーリングで使われる石に似た丸い石に10本ほどの紐がついたものを持っている。そして村道の広くなったところで止まり、輪になって、歌いながら、ひもを引っ張って石を上にあげ、緩めて石を地面に落とすことをくりかえした。工事現場で昔見られた地固めのために行われた「よいとまけ」に似ている。亥の子という行事である。亥の子は亥の月、旧暦で10月、新暦で11月に行われる。子供たちがなんと歌っているのか、そのときは分からなかったが、後で内海村教育委員会編『おっとろっしゃ うちうみ』第2集「人の一生・年中行事」(平成12年)でみると、「亥の子歌」は次のようなもので、竹田出雲作『仮名手本忠臣蔵』が原作だという。

ひとつ祝いましょう
初亥(なか亥、おと亥)の亥の子
いちで俵ふまえて
にいでにっこり笑って
さんで酒を造って
よっつ世の中良いように
いつついつもの如くに
むっつ無病息災に
ななつ何事ないように
やっつ屋敷を広めたて
ここのつ小倉を立て並べ
とおでとって治めた
それはお船の新造でござる
しんぞ恵比寿は福の神
あーえす
一度蒔いたそばあーが
二斗も三斗も有るように
四方の隅で倉立て並べ
銭もかにもこんがらがっちん
いえーいいえい

(初鼠)
正月三日の初夢に
白い鼠が三つ連れて
また三つ連れて六つ連れて
小判くわえて横走り
いえーいいえい

(鶯)
うぐいすがうぐいすが
初めて都にのぼる時
浜の小松の木の枝に
こくばを食い寄せ巣を組んで
十二の卵を産み揃え
それが一度に立つ時は
金の銚子や杯や
末は鶴亀五葉の松
いえーいいえい

(福屋敷)、(忠臣蔵)というのもあり、さらに

(神様)
いちで一の谷敦盛さまよ
にではにっぽんたかがみさまよ
さんで讃岐の金毘羅様よ
しでは四ナノの善光寺さまよ
いつつ出雲のお社さまよ
むっつ村のお地蔵様よ
ななつ難波の天神さまよ
やっつ八幡の八幡さまよ
ここのつ高野のお大師さまよ
とおで所の氏神さまよ
いえーいいえい

歌の内容は、スーパーカリフラジリスティックエクスピアリドーシャスと同様、子供たちにはちんぷんかんぷんであろう。しかし、みんなで、声を合わせて唱えることが楽しいのだろう。

       「ウィキペディア」には山口、三重、広島、奈良、京都などの歌も載っているが、愛媛県の歌が多く載っている。

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(5)2010年12月 宮当番、正月の準備 

家串の全世帯は、エビス崎に近い南東側の1組から、家串の湾を回った西の浜の北側の10組までのいずれかに所属していて、原則的には、自治会の行事を組ごとに、あるいは複数の組がいっしょに担うことになっている。例えば、年2回の「道路愛護」ではそれぞれの組はその組の近くの道路や空き地の草引きや清掃を行う。一つの組はほぼ10世帯から成るが、世帯によっては高齢者だけであったり、また女性の一人暮らしというところも珍しくなく、組により、年齢、性、人数のばらつきがある。正月の「大わらじ」運びは力仕事で、最近は組によっては「若い男衆」を出せないところもあるため、組に関係なく指名された者が行う。

正月の初もうでと春(4月末)のお祭りと秋(11月3日の前後)の大祭のために、1年を通して神社の清掃や飾りつけを行う宮当番という仕事がある。昨年までは、組に関係なく4人ずつで宮当番を務めた。100軒ほどなので25年に1回の割合だ。昨年から、組ごとにまわすことになり、2011年の正月、春祭り、秋祭りを9組がやることになった。

こうしてわたしは、2010年暮の正月の準備から始まる翌年の秋の大祭までの1年間は、所属する9組の一人として宮当番を務めることになった。

北條さんの奥さんから、12月26日に9組の北條さん、松田雅博さん、前田亀雄さん、それに私の4人が当番で、お宮の注連縄を作ることになっていると言われていて、私は、12月25日の夕方家串に来た。夫の重治さんは8時から行くが、ゆっくりで構わない。午前中はかかるだろうという話であった。具体的にどんな仕事をするのかの説明はなかった。

25日には四国に雪が降り、松山から宇和島方面に向かう国道56号線でも所により雪が数センチ積もっていた。翌26日はもっと雪が降り寒い一日になった。大洲、西予市にかけて松山自動車道は雪のために通行止めになった。 福島県では国道で350台もの車が丸一日雪の中に閉じ込められ、「災害派遣要請」で自衛隊が出動したというニュースがあった。

翌朝、私は9時ごろ、お宮に向った。注連縄作りの作業はお宮でやっているのだろうと思っていた。私が想像していたのは、新年の厄払いの行事の際、村中総出でお寺に集まって大わらじ作りをやるのと同じような作業であった。県道沿い、家串の集落の北西端に北條さんの家があり、わたしの家はその少し手前にある。農協の売店がある中心部までは300mか400mの距離である。お宮は村の中心部から5〜600m離れた南東のはずれの一角にあり、私の家からは歩くと10分くらいかかる。お宮から先の土地は1990(平成2)年に造成され、ここに新しく保育所と愛南町海洋資源開発センターが建設された。それまでは家串神社が村の一番外れにあった。

行ってみるとお宮には誰もいない。どこかほかの場所でやっているのだろうと、人の往来が最も多いはずの村の中心部にむかった。戻る途中で会ったおば(あ)さんにお宮の注連縄作りはどこでやるのか知らないかと訪ねたが、首を振るだけであった。また、自治会役員の浅野豊さんに会った。きっと注連縄作りのことを知っているだろうと思って、おなじことを訪ねた。しかしやはり、知らない、という返事だった。もしかしたら、公民館にでも集まっているかと覗いて見るが、やはり誰も居ない。そこで次に北條さんの作業小屋をのぞくと、同じ9組の松田さんがいて、ワラ屑を掃除しているところだった。ここでやったらしい。

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ウラジロ、ダイダイを採りに行く

 

私が松田さんにどこに行って何をしたらいいか尋ねようとしているときに北條さんが他所から戻ってきた。そして、これから注連縄につける裏白(ウラジロ)を取りに、嵐(北隣宇和島市津島町)に行くという。

このときは、シダの一種で葉の裏が白く、正月の注連縄につける飾りにするのだということしか理解していなかったが、後で、ウェブ検索で「ウラジロ」を探し「レファレンス協同データベース」のQ&Aを見ると、ウラジロは、ウラジロ科の常緑性の大型のシダで、穂長ともいう。葉(羽片)がしだれるので「シダ」ともよばれる。これを「歯垂る」にあて、さらに「齢垂る」にかけて長寿の意味をもたせ、正月の注連飾りに用いられてきた。また、裏が白いことから、「心の潔白さ」と「白髪になるまで長生きする」ということもあらわす、という。

私は北條さんの軽トラに乗せてもらい、松田さんのトラックと2台ででかけた。嵐湾は由良半島北側の半島付け根に位置し、国道56号線に沿って北から、嵐、針木、浦知(ウラシリ)、柿の浦の4つの集落がある。家串から車で10分ほどで、針木と嵐の中間にある「大場の鼻トンネル」に着くと、嵐側の出口で車が止まった。「このトンネルの上だと聞いたが、上に上がる道がない。ここじゃないだろう」と北條さん。「トンネルの外側の旧道を回ったところから「真珠の供養塔」に上がる道がある。そこから上がってみよう」と国道のトンネルの外側にある旧道に向かい、海岸に出るとすぐ上にのぼる舗装された道路があった。

車で上まで行くと、小さな公園のような場所があって、中央に女性の像と真珠をかたどった白い半球が飾られた高さ5mほどの「真珠供養塔」が立っていた。台座の周辺には植え込みがなされていて、見苦しくない程度には手入れがなされていた。地元の人はほとんど来ないだろうし、また国道に案内の看板もなく観光客が訪れることもなさそうにみえた。公園の脇から木立の中に分け入って探してみたが、シダは生えていても葉の裏側が白いものはみつからなかった。

そこで国道にもどり、トンネルの反対側に行ってみると家が一軒あり、その脇に斜面の木立のなかを上に向う道らしいものがあった。道に見えたのは枯れた小さな沢であったが、沢から3〜4m離れたところは藪で、沢のすぐ近くは土がむきだしになっていて人が歩いた跡であることがわかった。沢に沿った道は急な上り坂になっており、また沢の両側の斜面には、昔、段畑であったことを推測させる、崩れかかった石垣がところどころに見えた。朝は寒く厚着をしてきたせいもあり、坂を上るとすぐに汗をかいた。

まもなく北條さんがこれは裏白だろうかと足元の葉を取った。注連縄の飾りについている裏白を見たことがあり、両側にはねを広げたようなシダ科の植物だということはだいたい知っていた。そして北條さんが取ったその葉はそれらしい形をしていた。裏は少し白っぽくなっているが、しかしはっきりと白いとは言えない。「もっと白いはずだ」と北條さんも言う。

3人が同じところで一緒に探すのでは非効率だと考え、私は北條さんたちと離れ、斜面を登った。私が藪の中を上に上がっていくと裏が白く、葉の形がよく似た草が群生していた。茎が蔓のように伸びているその草を引っ張って茎を折ってよくみると葉の表が茶色になっていたり、葉が欠けていたり、なかなかきれいなものがない。足場の悪い藪の中で体を伸ばし茎を引っ張り、葉の根元を折って取っていると、喉が急にむずむずしてきて、咳が出た。目には見えなかったが粉のようなものが舞っているらしかった。

それでもよさそうなものを10本ほど取って、下に下りると、北條さんたちが待っていて、私の取ってきた葉を見たが、茎の分かれ方が全く違っていた。2人が取ったのは、裏があまり白くないがシンメトリーに葉がついていた。私が採ったものは葉が三叉に分かれていて、それとは別種の草だということがわかったので棄てた。北條さんたちがとった葉も裏白かどうか不確かなので、家串に戻って誰か詳しい人に聞いて確かめようということになった。

国道を引き返し鳥越トンネルまでもどったが、家串には帰らず、直進し、柏の先まで行ったところで、山の中に入った。着いたのは昔田んぼだったところを埋め立てて造成されたという、びしょびしょした場所だった。ここは、県道沿いで柏の湾を見下ろす、今は空家になっているホテルの持ち主の土地で、以前は闘犬場があったという。昭和50年代の日本が高度経済成長を続けていた時期、また内海が真珠景気で沸いた時期の話である。もう建物の跡らしきものは一切残っていなかったが、そのびしょびしょした場所には、自然に生えたものらしいが、植木屋が売るために植えたのかと思うような手ごろな松が何本も生えていて、その中から門松用に2本切って、家串に戻った。

北条さんが取ってきたものがウラジロかどうか、土居三夫さんなら分かるはずだと、土居さんの作業場に聞きに行った。土井さんは手にとって見ると、葉の裏の白さがすこし薄いことは確かだが、裏白には間違いないという。場所によって多少白さは違うということだった。

土井さんに裏白であることを確めてもらったあと、再び3人で、こんどは、家串北側の農道を上がって竹を切りに行くことになった。松田さんは自分の車で先に出かけた。お宮には2つの鳥居があるが、北條さんによると、その鳥居に竹を渡して、注連縄を縛り付けるのだという。3mと2mの長さの竹2本が必要である。松田さんは門松を作るためのものだと考えていたらしく、私たちが到着した時には、藪の中で太い竹の根元をすでに切っていたが、上のほうにツタが絡んでいて、二人がかりで引っ張っても道に引き出すことができない。

北條さんが門松用の竹は別に用意してあるというのでそれはやめ、足場がよく切りやすいところに生えていたやや細い別の竹を切ることにした。切り出した竹は松田さんに運んでもらことにし、私と北條さんは、お宮で注連縄の飾り付けをする30日まで、松とウラジロが枯れないようにしておくため、北條さんの家の少し上にある沢の水たまりにそれを浸けに行った。しかし水はほとんどなく、結局、クーラーボックスに入れて作業小屋においておくことにした。

注連縄には、ウラジロ、ユズリハ(杠)、ダイダイ(橙)をつけるという。ユズリハは北條さんもどんなものか全く知らず、源さんが知ってるのではないかと源さんに電話した。すると源さんは前田邦久さんと話しをしながら、旧内海村のコミュニティセンター「出会い21」の駐車場の裏にある木からとってくるのだと言う。源さんはお寺の門松の当番で、やはり注連縄を用意する必要があるのだが、源さんは縄を綯うことができず、邦久さんに教わりにきているところだという。

私が源さんの話しを伝えると、北條さんはすぐに行こうと私を乗せて柏に向って出発した。しかし、すぐに源さんが電話をかけてきて、ユズリハは加藤正弘さんの畑にあるとも邦久さんが言っている、と言う。また源さんもユズリハが必要なのだが、どれがユズリハかわからない、という。それなら、加藤正弘さんの畑に行くほうが近いし、邦久さんに一緒に行ってもらい、彼に見てもらえばいいのじゃないかという話になり、北條さんは車を戻し、邦久さんの作業場に行くことにした。

  邦久さんの作業場では、源さんの代わりに邦久さんが注連縄を綯(な)っていた。すでには1m半ほどはできていて、途中から見たのだが、きれいなワラしべを、7本とって、その太いほうの端を30pほど残して(外に出して)、編みこんで(綯って)行くが、少し進んだら今度は同じように5本を編みこんで進み、次に3本使って進む。要するに7、5、3の縁起のよい本数を使って縄を綯う。そして、必要な長さまで行ったら、最後は細くなるまで綯って、ばらけないように縛る。注連縄の幹からは、3本、5本、7本ずつのワラしべの端が一定の間隔で30pくらいずつ枝のように出ているが、これをそれぞれ引っ張って、幹に直角になるようにする。そして縄を手で押しながら転がすようにして外に出ている「枝」が一つの面の中に来るようにそろえる。枝が1つの平面内にそろい、注連縄の幹を水平に吊るしたときにはきれいにそろって下に下がるようにする。そしてはさみで切ってその長さも揃えるのだという。

手のひらの中で3本から7本のワラしべの束を一方向にねじりながら2つの束をなっていくのだが、源さんも子供のときには縄をなったことはあるが、もうすっかり忘れてしまって、なうことはできないと言う。北條さんもできないという。今は、家串では邦久さん、藤吉郎さん、伊勢さん、黒田本蔵さん、など数人しかできないという。この数人の長老が、正月の「念仏の口開け」の時にお寺の本堂の前に並んで座って、家々に配る注連縄をなっているのだ。

邦久さんが源さんに向かって、水引を使って、注連縄の中央と両側の計3箇所に、ユズリハ、橙、裏白を、縛り付けるのだと言い、「家にあるじゃろうが」と言うが、源さんがないと返事をすると、邦久さんは自分の家に電話し、奥さんがまもなく水引の束を持ってきてくれた。邦久さんの家では、水引を買っていつでも使えるように用意してあるという。また邦久さんは、ユズリハは藤井数義さんの家にもあると言って、すぐに取ってきてくれた。

邦久さんの作業小屋の隅に、正月用の鏡餅や、蓬ヨモギ入りや白の餡(アン)餅が、うどん屋やパン屋で見かけるような平らな木箱に入れられ何箱も重ねられていた。親戚にも送ってやるので餅は10臼以上ついたという。私が、確か「一升餅」という言葉があったように思うが一臼は一升の米でつくんですかと聞くと、それは葬式のときにつく餅だという。そして2升くらいずつでついて10臼以上ついた。昨日朝3時〜8時まで5時間くらい掛かったという。一臼20分か30分でつくんですかときくと、器械なのでそんなにはかからないという。たぶん餡入りの餅などを作る時間も含めて5時間ということなのだろう。(後でウィキペディアで見ると、「一升餅」は正月や子供の満一歳の誕生日、また還暦のお祝いなどでつくという。葬式の時に一升の米でつくというのはこの周辺の慣習かもしれない。)

源さんは、ウラジロも必要なのだと言い、スーパー林道を上がっていったところにウラジロがあるということは知っているのでこれからを取りに行くという。お宮の注連縄に使う分が足りなさそうだと思ったので、私も一緒にいくことにした。邦久さんは「わしが場所を教えてやる」と源さんの車に乗り込んだ。彼が源さんが縄をなえないことに驚いていたので、私は、都会で40年以上もサラリーマンをやっていたのだからしかたがないでしょうと、言った。邦久さんは伝統を残さなければならんと繰り返した。私が彼の息子の正人さんは縄はなえるかと聞くと、やはり覚えようとしないという。伝統を伝えるということは難しいようだ。

こうしてウラジロをとり、それからこんどはダイダイをとりにいくことになった。源さんの話で、タンダ(田ノ浦)にある加藤さんの作業小屋の上にあるという。彼の車で行ってみると、普通の甘夏の実が6、7個見えるが、赤みの濃いダイダイはない。じつは源さんもダイダイをよく知らないという。私は松山で近くの家からもらったダイダイでジャムを作ったことがあるのでよく知っている。これは違いますよと言うと、源さんは戻って北條さんを連れてきた。

しかし、北條さんも知らないのである。そして、一つ取ったみかんを食べてみて、「これは甘い。普通の甘夏だ。ダイダイは酸っぱいという話だ」という。そして、カボスをつかうところもある、などと言う。私はカボスも見たことがあるが、この実はカボスでもなかった。邦久さんは鏡餅に載せるのはダイダイ(橙)だといっていた。ダイダイは「代々」を、ユズリハは「譲る」を意味しているというのである。

しかし、「東京では普通のみかんを載せていたように思う。郷里の越後でも、普通のみかんを載せてましたよ」と私が言うと、3人で「じゃあそれでいいのじゃないか」という話になった。とにかくここで取れたものは、実がぽろりと枝から取れて落ちてしまう。注連縄に結び付けるには枝の先にしっかりとついているものでなければならないと思われた。そこで、私が「私の家の裏の堀田さんのみかんをもらいましょう。堀田さんからは取ってくださいと言われてます」と言って、結局、私の家の裏の畑に行った。注連縄につけるためには小さく重くないものの方がいいだろうという話になり、発育の悪そうな枝の下のほうに下がっている小さなものをお寺用に3、4個、お宮用に10個ほど取った。これでようやく今日の仕事が終った。飾りつけと門松作りは30日に行うことになった。

源さんはすでにお寺用の門松を作り上げていた。彼の作った門松は赤と黄色の南天の実を配して、松と杉の緑、黄色と薄紫の葉牡丹も入ったカラフルなもので、誰がみても美しいと感じるすばらしいできであった。竹は、一本松の親戚の家にいき電動カンナを使って仕上げたということだが、切り口がきれいに仕上げられていた。

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門松を作り、鳥居に注連縄を飾る

30日は朝8時にお宮に集合した。すでに北條さん、松田さん、前田亀雄さんは来ていて、門松の用意もしてあった。北條さんが私に、亀さんと一緒にウラジロを取りに行ってきてくれないか、と言う。この前のはどうしたんですかと聞くと、乾いてチリチリになってしまったという。伊井安さんは水に浸けておくと言っていたが、その方がよかったようだ。前田亀雄さんの車に乗り、スーパー林道を柏坂の近くまで行く。今日は私が案内役である。ウラジロは、神社の小さい注連縄用には3箇所、大きい注連縄用に5箇所、それぞれ2枚ずつで合計16枚必要というのでそれより少し多く取った。

帰り道、左下に須の川が、正面に塩子島がみえるところまでくると、亀雄さんが「いい景色だねえ」と言った。はじめてくるようである。「ここは花火大会のときの見物場所としてもいいらしくて、花火を上からみることができるって、源さんが言ってましたよ」と私が言うと、「花火大会は10年以上前の話だから、真珠景気が続いていた頃だ」と前田さんが言い、そこで話は途切れた。

神社に戻り、門松用の竹をそろえて針金で縛る。門松の土台は船のエンジンオイルの空き缶に縄を巻き付けて、缶の地肌が見えないようにしたものである。竹を縛った針金が見えては格好がわるいというので、缶のなかに隠れるように、そろえた竹の下の方を縛る。北條さんが縛ったが針金が緩く、竹が動いてしまう。私が針金を2回巻いたところで、ペンチを両手でつかんで引っ張ってからねじると針金がしまり、きちんと縛ることができた。北條さんも門松を作ったことがなく、縛り方も素人であった。地元の人だからといって、ウラジロやユズリハのこともそうだが、伝統行事のやりかたや飾りの作りかたなどは伝わっていないのである。伝統を伝えるのは難しいですね、と私が言うと、前田さんは、もうすぐ行事はなくなりますよと、さほど残念がる様子なしに言った。

上の写真は家串若宮神社の写真。『みんなの由良半島』「写真館」から転載したもの。撮影は 私たちが当番を務めた2年後、2013/01の撮影となっている。門松は供えられているがまだ注連縄は飾られていない。正月直前の写真ではなかろうか。


縛った竹を立てて、そのまわりに、筏の浮きに使うバールの古くなったものなどをのこぎりで切るなどして作った発泡スチロールのブロックを押し込んで竹が動かないようにする。そしてその隙間に梅の枝、おとといとって来た松、黄色の実の南天、葉牡丹2株を入れる。上出来と私は思ったが、黄色い南天だけでちょっとものたりないと北條さんが言う。辺りを見回すと、神社正面入り口の右手に赤い実がたくさんついた低木が植わっている。千両とか万両とか呼ばれている木だ。(『広辞苑』によると千両の木は50センチほどで、万両は1mほどになるというので、千両だろうと思われる。)近くまで2人で行ってみたが、北條さんはその枝を折ることに躊躇し、取らずに戻った。 <> 門松作りを終えた後、注連縄に飾りをつけることになった。北條さんが小さい注連縄を引き受け、私と前田さんが大きいほうをやった。注連縄は右側に稲の茎がそろっている「元」がくるように鳥居につけ、手前に飾りが来るようにするのだという。注連縄は26日に切っておいた竹の棒に縛り、竹の棒を鳥居に縛り付ける。飾り付けを始めたときには、縄がどちらを向いていようと、竹に縛り付けるときに裏返しするか回転させれば、大丈夫だと、私も北條さんも同じ様に考えて、飾りをいったん、取り付けた。ところが、いざ、竹に縛る段階になってみると、左右が逆だとそれを回転させたり、裏返しにすると、飾り(ユスリハ、みかん、ウラジロ)が手前には来ないことがわかり、やり直すことになった。といっても、30分くらい余分にかかった程度だろうが。

こうして竹の棒に縛り付けた注連縄が出来上がり、それを、鳥居の両側の柱に折りたたみ梯子をかけ鳥居の下の横柱(ウィキペディアなどによれば「貫(ヌキ)」という)に吊るした。真ん中に神社の名前が刻まれた額があり(「額束(ガクヅカ)」という)、そこに注連縄の真ん中の飾りが来るように左右を調節した。また鳥居の横の柱と平行になるように10センチほどの間隔をあけて吊るした。

   ここでは神社の外で行った作業のことばかり書いている。社殿のことや二つある鳥居の事などについては全く書いていない。翌年4月の春祭りの際には、中で行われた祭礼を含めて、内部のことや鳥居についてもっと詳しく書いた。

 この頃までに、神社の建物の中を掃除するなどしていた女性たちが7、8人鳥居のところに集まってきた。そして門松を眺めて、品評を始めた。とくに赤がないというのが問題になった。南天があればいいのに、と誰かが言い、北條さんが、源さんの家には赤い実の南天があるんだが、と言った。そして、須藤さんは源さんと仲がいいから頼んでもらえないかと言う。私は少しおどけて私が9組の代表として、お願いに行くのですね、いいですよと応えた。だれかが南天じゃないとだめなのか、と言う。私が南天にどういう意味があるか知ってますかと聞くと、誰かが難を転ずるから南天と言うんです、と言う。その人はクスリにもなるって聞いたわと言う。他の誰かが喉にいいということを聞いたことがある、と言った。そのとき、誰かが南天でなくても赤ならいいのじゃないかと言い、赤い実はあそこにあるじゃないの、とさっき私と北條さんが見に行った千両の植え込みを指さした。すると、あれを使おうと言う声が多く出、それに押されて(元気付けられて)北條さんが女性たちと一緒に取りにいった。こうして門松に、赤い実を付けた千両の小枝が挿され、ぱちぱちと拍手が起こった。私は「これで100点満天」と言いかけて途中で「100点なんてんだ」と言い換えた。北條さんがそれを聞いて、「今のいいです」と笑顔で言った。

初もうでが終わった後では、片付けがあったはずだが、松山にいた私は免除してもらった。

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(6)2011年4月 春祭りの準備と神事への参列

 

春祭りが近づいた4月下旬、宮当番はお宮に集まり、祭りの準備をすることになった。午前中は松田さんが仕事で参加できず、北條さん、前田亀雄さんとわたしの3人であった。私がついたとき、社殿正面の格子入りの扉は外されていて、すでに中で女性たち数人により拭き掃除が行われていた。

私たちは北條さんに従って、倉庫から、神事に使う祭壇、そして三方(さんぼう)と呼ばれる、上にお盆のついた神饌(お供え)を載せるための台(台の手前と左右の三方向に穴があいていることから 「三方」と呼ばれるという)や酒器などの入った箱を運び出し、社殿の奥の間に運び入れた。また神事の際、氏子や自治会役員が座る「中の間」(正しい名称は後で書く)に敷く6畳か8畳くらいの広さのじゅうたんを出してきて、神社の前の石塀にかけて干した。そして、幕を運び出し、社殿の外側に張った。

幟(のぼり)を立てる

神社の縁の下から、幟に使う長さ10mほどの竹竿を6本引き出した。幟は神社前に4本立てる。また西の浜の生産組合の事務所のわきに2本立てることになっており、それはトラックで運んで行った。神社前の岸壁には、立てた幟の竹竿を縛り付ける鉄製の杭が立っている。幟には-------と書かれている。

幟が竿に絡まらず風向きに従って動くようにするための専用の輪っかや竹筒やオモリ(三角の布袋に砂利を二握りほどいれたもの)を結び付けるなどして幟をつけ、竹竿を立てようとしたが、強い風にあおられ当番の3人ではとても立てられない。助っ人を頼み5人か6人がかりでやっと立て、杭に縛って固定するまでに手間がかかった。春は毎年強風が吹くという。

一通り仕事が終わったあと、境内や社殿の中を歩いて回った。社殿の北側には昭和14年の文字が刻まれた大きな鳥居がある。西を向いた社殿正面に少し小さいが新しい鳥居があり、平成8年の区長伊井安さん他14名の名前が脇の碑に刻まれている。わたしの家の隣の加藤金司さん、私の家の以前の持ち主D氏の名前もあった。この年の役員がそろって寄付をして建てたのだと言う。北東側の隅、倉庫の隣には小さな祠がありその前には何も書かれていない人の背丈ほどの古い小さな鳥居と、宇和島河野何某という文字が読める四角い手水鉢がある。作られた年はわからなかったが、たぶん、昭和14年以前に作られたものだと思われた。

家串神社社殿の建築様式は、ウェブ検索で調べると、「権現造り」と呼ばれるもののようである。「社寺建築名称・用語解説」菅原木工(岩手県一関市藤沢町)の解説では、「本殿と拝殿の間〔あいだ〕に相〔あい〕の間〔ま〕または石の間〔ま〕と呼ばれる空間を配置する平面構成を1棟の建物とする社殿」を「権現造り」というと書いているが、「建造物用語解説―ようこそ。鹿沼市ホームページへ」には、「権現造り」の平面図が載っており、本殿の内部に宮殿があり、本殿と拝殿のあいだの建物を「幣殿」と呼んでいる点が少し違うだけでほぼ同じである。家串神社には、10畳か12畳くらいの広さの奥の部屋つまり本殿の中に、ご神体が入っているという祠がある。これが宮殿かあるいはそれに相当するものだと思われる。そして6畳か8畳くらいの広さの中間の部屋、つまり相の間があり、一番手前に、およそ60平方m、18坪、36畳敷きほどの広い拝殿がある。

私は上の各部屋の広さを、窓の幅を3尺として窓の数を数えて計算した。ところが、『内海村史』によると、本殿:1.5坪〔⇒3畳〕、幣殿:4坪〔⇒8畳〕、拝殿:17.5坪〔⇒35畳)となっている。拝殿はほぼ一致しているが、幣殿(あるいは相の間)は窓がないため目分量で6畳か8畳と書いたが、これも大体あっている。しかし本殿が大きく違っている。私がみた本殿は1・5坪よりは明らかにずっと広く、わたしの計算間違いとは思えない。推測だが、昭和58年に社殿が改築されたとあるが、この時に本殿が拡張されたのではないだろうか。1.5坪の「本殿」は現在の祠、ないしは宮殿で、この外側に新しく現在の本殿が作られたのではないか。『村史』は改築でどのように変わったかについて触れてないので、確かめられないが。なお、同『村史』によれば家串の若宮神社は内海村で最大であるという。

 社殿に上がり中に入って屋内を見回してみた。拝殿のカモイの上には、昭和58年の社殿改築時の寄付者と金額を書いた木の札100数十枚がかかっている。家串真珠貝養殖生産組合が400万円などのほか、個人でも最高300万円、100万円以上の寄付をしている人がぞろぞろいる。村人すべてが10万円以上の寄付をしているようだ。ざっと足してみたら4000万円を越えていた。現在の家串の人口は100世帯約300人である。当時は人口がもっとずっと多かったに違いないし、働き手も多かったに違いない。しかし多くても500人か600人だろう。それくらいの地区で4000万を超える寄付があったということは驚きである。

『村史』によると、昭和50年代から真珠産業が「右肩上がり」に盛んになった。52年に若宮神社地先海面が埋め立てられ(現在の)物揚げ場が作られ、58年に農協前の桟橋から大川までの地先が、63年には西の浜の地先が埋め立てられ、共同作業場が建設された。54年から56年にかけUターンラッシュが起こり公営住宅が建設され、55年には内海村初の体育館が家串中学に建設された。平成2年には若宮神社から南側の串の浜が埋め立てられ、保育所が移転新設、また海洋資源開発センターが建設された。このような「右肩上がり」の真珠景気の背景があって神社改築に巨額の寄付が行われたのだと考えられる。

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絵馬

人名と寄付額が書かれた木札にならんで、様々なものが掲げられている。ウミガメの剥製には「昭和8年シンガポール帰郷記念」と書かれている。その隣のやしの実で作った二つの、エビス様かと思われるお面の入った額縁には「新嘉波〔シンガポールと読むのだろう〕記念昭和14年」と書かれている。何も書かれていない両手を広げたほどの大きさのある額縁にオオトカゲの剥製が入っている。同じころに南の島々から持って帰ったものだろうか。

水谷さんが寄進したという、彼が退職祝いにもらった貨物船の模型も飾られていた。また宇和島城の写真がある。北條さんのおじいさんの弟が宮大工をしていたとき、現在の宇和島城を修理して、その記念に写真を奉納したのだという。その他に「牛鬼・寄贈平成4年」、「子どもみこし・昭和62年」などと文字だけが書かれた板があった。もちろん本物を飾ることはできない。牛鬼も神輿も専用の倉庫に置かれている。

その隣の白チョウガイに真珠がついたものには「昭和36年北條嗣雄」とかかれている。北條重治さんのお父さんが奉納したものだ。以前出稼ぎでアラフラ海に行き、潜水夫をして真珠貝を取っていたと以前聞いた。その土産だろう。

南側の壁には「大正9年奉納」と書かれた大きな絵馬が飾ってある。2人の騎馬武将が戦っている。一方は弓を引いて相手に矢を放つ寸前である。楠正成とか誰か有名な武将の故事がかかれているのだろうか。北條さんの話しでは、一方は討たれるのを覚悟して辞世の句を読もうとしているところだと言う。反対側、この絵馬と向かい合ったところに一回り大きな絵馬がある。「明治41年」とかかれているが、絵の具がはがれていて始めは何が描かれているのか全く分からなかった。首を伸ばしてよく見ると40〜50人の人間が描かれている。列を作ったり輪を作ったりして並んでいる。由良半島だろうか。木の生えていない山らしい高低のある場所の向こうに海が見える。人は両手を広げて片足で立ったり、あるいは跳び上がったりしている。盆踊りをしているのだろうか。その隣の明治40年の絵馬は、水兵のような帽子と服装からして進軍する日本兵である。日露戦争を描いたものだろう。そしてその隣には、まだ新しい、獅子舞をしている少年を描いた油絵があった。

外に出て、休憩しながら北條さんの説明を聞いた。北條さんが言うには、私が盆踊りと思った絵馬は日露戦争の絵で、203高地かどこかの戦いだという。戻って再度よく見ると、たしかに、帽子や服装から兵隊だと分かる。そして両手をひろげているのは走って逃げる人物の姿で、そして海には軍艦が浮かんでいる。また沈みかけている夕日かとおもったものは砲撃で土が飛び散っているところだった。

もともとは神を喜ばせるために捧げた本物の馬の代わりに馬の絵を捧げるようになり、さらに、神を喜ばせるものは何であれ絵馬として奉納されるようになったという。すると剥製や美術工芸品だけでなく、戦争で勝利を収めることも神さまが喜ぶと考えられていたのだろう。

そして、神社は現に生きている人の苦しみや悲しみを慰め、死者の魂を鎮めるところであるよりは、人々の功績や誉れを称えるとともに、犯した罪はお祓いで清め、豊作や豊漁、無病息災を祈願するハレがましい場所なのだと思われる。それとも両者は全く別なことではなく、短い現世が経済的窮乏や病気の不安や苦しみに満ちているがゆえに人びとは苦のあるいは負の面から目をそらし功績や誉れを称え「未来を志向」することを必要とするがゆえに、神社を建て祭りを行うのだと考えるべきなのだろうか。

10時半近くに、外してあった正面の15センチ角くらいの格子がはまっているガラス戸を閉めた。このとき、格子の一箇所にだけガラスがないことに気が付いた。尋ねると、そこから手を入れて、内部の賽銭箱に賽銭を入れるのだと言う。これは以前賽銭泥棒がはやったことがあってから、箱を内側に置くことにしたために行った措置だという。

  もう一日仕事をした。午前中は神社のガラス窓を外して水で洗ってきれいにする作業。左右が4面ずつ、正面の扉の脇が2面ずつ、合計12面、「雄と雌」で合計24枚洗う。敷居の高さは腰とおなじくらい。大きさは90センチ×1メートル20センチくらいで普通の大きさだが、頑丈な鉄格子が入っていて、重さは1枚10キロはある。

私が社殿の中にいて外した窓を入り口まで運ぶと、松田さんがそれを正面のブロック塀まで運んで、外にいる前田亀雄さんに渡す。長いゴムのズボンを履いた北條さんがホースの水を掛けて洗う。戻ってきたものを私が受け取って、再び窓にはめる。はめるために下から持ち上げるときにスクワットの姿勢になる。これがなかなかきつい。次第に疲れてきて、最後の3面くらいには、腕の疲労のため、窓を上下のレールにはめ込むためのコントロールがうまくいかなくなり、2面を残して交代してもらった。

ようやく終ったと思ったら奥の間にもガラス窓があるという。見ると両側で8面(16枚)あり、すりガラスである。私は汚れているかどうか見ても分からないのではないかと思った。(それなら掃除の必要はなかろう!)松田さんが調べると、窓の外側のレールに落ち葉が沢山たまっている。これまでしばらく窓ガラスを外した形跡がない。今窓を外せば、強風で、落ち葉が社殿の中に入り込んで、掃除をやり直さなければならなくなるだろう、というわけで、今度の秋祭りに、まず、女子(おなご)衆の外回りの掃除の際に窓枠の落ち葉を取り除いておいてもらい、それから窓を外して洗おう、ということに落ち着いた。

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修祓(しゅばつ)と献餞(けんせん)

祭りの初日4月26日、神社に行き社殿に上がろうとしたとき、脱いだ靴のつま先は社殿にむけたままでよい、と言われた。 逆にすると、神様に尻をむけることになるからだという。われわれよりも少し後できた神主の脱ぎ方もそうであった。

神事が始まる前に、土居三夫さんが藤井勉さんを呼び寄せ、ふところから紙を出して見せながら、「去年まではわしがやってきたんやがな、今年からあんたにやってもらおうと思うんよ。ここに書いてあるけん、このとおり読んでもらえばええ。次ぎに進むときには合図をするけん」。その紙には式次第が記してあった。また修祓などの文字には「しゅばつ」とひらがなが振ってある。そして「宮司一拝」では「皆様も神前に向かい、ご一緒にお願いします」と併記されている。

式が始まるまで、皆、下の広間(拝殿)にいたが、直前に、氏子と村の役員(区長は忌中で欠席)、宮当番代表の北條さん、松田さんの合計11人がじゅうたんを敷いた上の間(幣殿または相の間)に座った。私は「そちらで控えていてください」と言われた。松田さんも下に戻った。すると副区長の松本さんが「いいやないか、少ないからこっちにいっしょに上がってもらったら」と言い、ほかの人もみな手招きをした。

そこで私と松田さんも上の間に上がった。左右に6人ずつ座って、上はほぼいっぱいになった。あとから、氷を買うので遅くなり、着換えのために家にもどっていた前田亀雄さんがきて下の間に座った。途中から、前田さんも上に座った。4人の女性たち(私以外の男性は夫婦で宮当番の仕事を行っており、この女性たちは、男衆の奥さんたちである)は、下の間の端のほうにかたまって座っていた。

神主は最初に修祓つまりお祓いを行なう。台の上に並べられたものを神に捧げることを献餞(けんせん)といい、修祓で、参列者と、神饌および玉ぐしなど神前に供えるものを清めてくださいとお願いする。この言葉が祓詞(はらえことば)だという。 

神饌(しんせん)すなわち祭壇に供えられた品々は、塩(袋入り)、大根、ニンジン2本ずつ、米、タイ2匹、昆布(袋入り)、甘夏または清見タンゴールであった。これは式次第などを記した土井さんが書いた紙に書かれてあったものの書き写しである。タイは氷水とともにクーラーボックスに入れて運んできたものだが、神主がお祓いをしたときに生臭い匂いがした。 

玉ぐしをささげる段になった。神主の席は祠に向って左側の一番上の席。玉ぐしは神主の前にまとめておかれている。神主はそれを一本取って、祭壇の前に座って軽く会釈してから玉ぐしを前の台の上におき、深く2拝し、2回手を合わせ、一拝して終る。神主が一拝してもとに戻るのをみていたら、立ち上がってそのまま数歩後に下がり、直角に左に向きをかえ(尻が祠の方に向かないようにする)まっすぐ自分の席に戻った。しかし、参列した人はみなまちまちであった。私は前田さんに先に捧げるよう勧めたが、彼が私に先に行けというので先にした。 

お祓いの前に、祭壇の前2箇所と左右1箇所ずつ計4本のロウソクを灯すのに、ライターで火をつけた。これは神聖な儀式にはふさわしくないようにも思ったが、かといって、マッチを擦って火をつければいいかというと、おそらくそうも言えず、家串の隣には、昔、火打石が採れたという「火打」という名の集落があるが、火打石に戻ることもできないのだろうと考えた。

それに塩も昆布もビニールの袋入りであり、タイはクーラーボックスに入れて運んできた。そして神主も乗用車で宇和島からやって来たのである。ライターだけに文句を言うことはできないと思った。それに火打石で火をつけるときも、二つの石を打ち合わせるのではなく石と鉄片を打ち合わせるのであり、現代において使われているライターも回転式のものは発火金属の材質と燃料が変わっただけで原理は同じであると、どこかに書いてあった。

献餞のあと、神主が大きな玉ぐしを持って、6人ずつ並んで座っている人々の頭の上を大きく「祓う」。左に2回右に1回。1日目は上の段にいた男衆だけだった。2日目は、そこから下の段におり、下の間の隅に座っていた4人の女性のところまで行ってお祓いをした。

2日目には、「寛き、厚きこころ以て」、「海の恵み、山の恵み」の他、家串の農業と漁業が栄えるようにという言葉があった。このとき雅楽の演奏がなされたが、北條さんによると携帯電話で取り込んだものだという。「昔はテープレコーダーを持ってきていた」が。

始めはみな正座をしている。しかし、修祓が始まると膝を崩す人が出てくる。わたしも半分くらいの人が胡坐(あぐら)にかわってから真似をして胡坐にした。最後まで正座でとおしたのは土井さん、北條さん、松本さんの3人だけだった。(2日目には、しかし、半分以上の人が終わりまで正座で通した。)

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直会(なおらい)

最後は直会(なおらい)で、この際、神主がろうそくの火を消すが、笏(しゃく)で上から叩くようにして風を送って消す。直会(なおらい)とは、神社における神事の最後に、神事に参加したもの一同でお神酒を戴き神饌を食する、共飲共食の儀礼である(ウィキペディア)。

まず神主が酒器をもって参加者の間を回り盃にお神酒を一杯ずつ配る。参加者は前の人が飲み干した杯を受け取りそれにお神酒を注いでもらって呑む。これを繰り返す。前田さんが「歯周炎が移るから回しのみはよくないがなかなか止められない。最近は家族の間でも歯磨きのコップは別にするというのに」と言った。私も他の人が口をつけた杯で呑むのはいやだったが、断ることもごまかすこともできず、神主から注がれた盃の酒を飲んだ。

お神酒は神主の一番近くの松本さんから配り始め、最後から二番目に私に、そして最後に前田さんに配った。神主はそこで「女性陣はどうしますか」と徳利を差し出した。女性たちは辞退した。お弁当は女子衆にも同じように配られた。

食事になると4、5人が煙草を吸い始めた。これも言いだしにくく、煙草を吸う人からなるべく離れて座るだけで我慢した。家串でもほかの集会などでは禁煙は当然となっており誰もタバコは吸わない。また、船の台風避難の係留場所を作った時、作業終了後、生産組合の事務所の2回で慰労会があり、わたしも作業に加わったものとして呼ばれて参加した。このときはエアコンを使っていて窓を閉め切っていたためタバコは止めようという人がいて、たばこを吸いたい人は外へ出て行って吸っていた。

1ヶ月半ほど前、東日本が巨大地震と巨大津波に襲われ、また東電福島第一原発が炉心溶融による水蒸気爆発を起こしたばかりであった。直会の会食の際にも話題になり、何人かの人が盛んに原発事故に関して私に質問をし、また原発は止めるべきだと主張した。地震と大津波による被害については話にでなかった。酔っ払ってくると、ビールに焼酎を入れて呑む人もいる。そして、「こんなことをすると臨界事故がおきる」、とか「これ以上飲むと水蒸気爆発だ」などと言う人もあった。

松田さんは広域事務組合に勤務している。私が、宇和島市が中心になって進めているごみ焼却施設建設計画に反対する、建設予定地の住民の運動を支援していることを当然ながら知っていた。彼は、須藤さんについてはインターネットで著書などを調べた。ごみ焼却そのものに反対なのか、「環境アセス」をやっていない点が問題なのか、どこに処分場を作るかを検討し直せというのか、考えを知りたいといった。私はそのどれにも問題があると答えた。

松田さんからは次のような話を聞いた。お父さんの代のときに、富山県の氷見から網代にやってきた。氷見は昔からブリの定置網漁が盛んで、祖父は氷見で網元をやっていた。父の兄弟は網をあちこちに伝えた。たとえば千葉県、そして愛媛県に。網代で定置網をやるために父は数人の仲間を連れてやってきた。定置網をやるにはかなりの手が必要である。ところが真珠貝の養殖が盛んになると、皆が真珠をやりだし、網漁をやる人がいなくなったのでやめた。そして松田さんの代でもしばらくの間は真珠をやったという。いつから真珠をやめ、公務員になることにしたのか聞くことを忘れた。

前田さんは20年位前にも宮当番をしたという。今年から組ごとに回ることになったのだからこの次は10年後だと言った。北條さんが私は今回で最後だろうと言った。私は家串にきて6年しか経っていないが、「神事」に参列するという生まれて初めての貴重な経験をすることができ、非常に運がよかったと思う、と言った。

同じように修祓や直会を行う神事は祭りの二日目、27日にも行われた。この日は境内にある土俵で小学生の子どもたちの相撲大会が行われ、村人が詰めかけた。相撲大会の案内を見ると、出場者は19人で、おそらく家串小学校の生徒全員が出場したと思われる。楽しい名前ならんでいた。 1年生:ゴールドすし 2年生:小川山、前田川、スター山。 この4人で1、2年生の部の個人戦が行なわれた。

3年生:流星太陽、メロリー、メタボッコリ 4年生:幸竜、伸王。 この5人で3,4年生の部の個人戦が戦われた。

5年女子:千の花;6年女子:こま天山、まいふぶき、そんなのかんけい舞、ドドスコゆう この5人で個人戦が行われ、

5年男子:響山、雄成山、マヨ賀、竜王;6年男子:粟青龍 の5人で個人戦が行われた。

相撲大会が終ったのが2時すぎで、このころポツリポツリと雨が落ちてきた。アルコール類はたっぷりあり、お弁当もボリュームがあった。さらに、たぶん兵頭利次さんの料理だろうという、カルパッチョが4皿も出た。兵頭さんは、昔、料理屋で板前をやっていたが、真珠景気が沸いたころ、戻ってきて真珠を始めたという。こうして、いくらでも食べながら飲み、話しつづけることもできた。

北條さんは最初、片付けは4時ごろだろうと言っていたが、会食が始まる前に、数人で幟を下ろし、注連縄も下ろした。幟は強い風であおられる危険があり、また注連縄を下すためには脚立に登らなければならず、これも多少危険である。酔わないうちに片付けようということだった。また、途中で、幕も神社の正面の一張りを残して、両側は片付けた。そこで、相撲が終るとともに他の片付けもし、3時前には片付けは終った。しかし、その後、数人は公民館に移って二次会をやったという。私は家に戻って休んで居たが、ケイタイがかかってきた。飲みすぎて頭が痛いのでと少しオーバーに言って辞退した。

祭りの後、一日おいた29日に、前田亀さん、松田さんと私の3人で、朝、8時から、じゅうたんを広げて前のブロック塀に干し、10時ごろ取り込み、物置にしまった。本堂の中の掃除を、女子衆が翌日やるという。

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2011年の秋の大祭

10月30日(日)朝8時から11時過ぎまで、窓ガラスの清掃など宮当番としての仕事をした。

11月2日(水)北条さんからは、8時に集合と言われていた。しかし、前日、近くのマダイ養殖生簀に掛けて釣りをしている時に「明日はお宮の清掃をするので、自治会会員は7時にお宮にきてください」という放送があった。北條さんに聞いて確めればよかったが7時にお宮に行った。女性ばかりで草取りをしていた。北條さんの奥さんもいて、宮当番は8時でいいのですよと言われたが、来たついでに草取りをやった。

8時から、幕、注連縄などを張り、三方などの用意をした。「相の間」は床板の張替えが行なわれピカピカなので、今回は絨毯は不要とのこと。春の祭りでは絨毯を干したり入れたり相当な手間だったけれど。

注連縄を張るのは脚立の上に上がって、重いものを持ったり、縄を結んだりするので危険だ。おまけに脚立がガタガタと不安定。下で掴んでいる必要があるのに、北條さんは気にも掛けずやっていた。

消防団が牛鬼の胴回りの木の枠に荒縄を巻き直すなどしたあと、最後に「毛」をかぶせていた。毛は棕櫚の毛(樹皮)を川漁などに使う柔らかくやや目の細かい魚網に少しずつ縛り付けた一種の「かつら」、ヘアピースである。それを牛鬼のからだにかぶせて出来上がり。

その後、場所を神社の左側に移すというので運ぶのを手伝った。その場にいたのは20人くらい。わたしが(5年前と同様)重さを尋ねると、500キロは越えているだろうと誰かが言った。「肩を入れろ」と言われて肩を入れると、ごりごりと痛かった。かなり重かった。「ここにいる20人くらいで牛鬼を担いだとして、神輿もおなじくらいの人が必要でしょうが、あと20人も担ぐ人がいますか」とわたしが聞くと、消防団を通じて他の地区からおなじくらいの人数をきてもらうことになっている、ということだった。

宮当番の3人で幟を立てた。風がほとんどなく、長い竹竿を立てるのも3人でできた。春祭りの時には大変だったという話が出た。また、春祭りの時に、何枚も幟が破れてしまい今回は地区全体で一挙に5枚新しくした。5枚一緒ということで、少し安くしてもらった。1本4万円。皆、寄付した人の名前が入っているが、だいたい厄年の人だという。幟だけでなく、提灯なども厄のときに寄付するという。

竹竿にからまないようにするために幟の下にぶら下げるオモリは、一辺10cmほどの赤い三角の布袋の中に砂や小石を入れたものだが、袋の上部に2cmくらい開いているところがその口である。持ってみると全然軽く、小石が1粒か2粒しか残ってない。しまうときに中身を捨てたのだと思い、私が、また使うのだからそのまましまったらいいのではないか、と言ったら、春祭りの時に、風で振られて竹竿に何度もぶつかり中の砂利が飛び出して、なくなってしまったのだという。春は毎年強風が吹く。秋祭りはいつも穏やかだという。

神輿を担ぐ人々と見物しようという人が神社の前に集まっていた。神輿が神社から出て地域を回り御旅所まで行くこと(さらに、そのあと船に乗り海上を航行して神社に戻るまで)を神輿渡御(みこしとぎょ)という。渡御に先立ち、氏子総代と宮当番の4人が神主を案内していっしょに拝殿に上がり、奥の本殿中央の祠に入っている神霊が宿る御神体を神輿に移す儀式を行う。ただし、神主がご神体を持って(?)神輿に移すときに、俗人はご神体を見てはならないとされていて、その瞬間だけ、4人はいったん外に出る。ご神体が神輿に移されたら、外に待っていた神輿の担ぎ手がどっと拝殿に上がって神輿を担ぎだす。

宮当番は、夕方神輿が戻って来てご神体を祠に戻す神事を行うときまでは、一般の氏子あるいは村人と同様に自由に祭りを楽しめばよい、という。私は、神輿といっしょにしばらく歩き、そのあとは家に戻り寝転んで休憩した。

消防団が集まってお昼の用意をすると聞いていたので詰め所にいった。天ぷら、ハマチの刺身などが大皿に盛られており、イカのヌタなどもあった。アルコールは飲み放題のようで盛んにすすめられたが、私は夕方の神事のことを考え、ビール2、3杯にとどめた。

皿に盛られた料理のほかに鍋があった。大根とこんにゃくとぶつ切りの赤身の肉が入っていて、砂糖と醤油で味付けした鍋で、肉は少し筋があり脂肪分のない牛の肉のように見えたが、イノシシだと言う。消防団員の男衆の後ろには婦人部の女性たちの顔が見え、どんぶりに盛ってくれるなどしていた。他の料理も鍋も、結局女性たちが作ってくれたものだろう。男衆はさっきまで神輿を担いで地区内を回っていたのだから調理する時間はなかったはずだ。

前田亀雄さんは臭いに敏感らしく、食べないわけではないがやはりふつう家庭にはない獣の臭いがすると言っていたが、わたしは臭いは気にならなかった。肉はとくにうまいとも思わなかった(脂肪がなかった)が、柔らかく癖はなかった。ふだん脂っこいものを食べているのだから、たまには、ヘルシーでいいのではないかと思った。

桑山さんがもっと飲めと盛んに勧めてくれた。そして、何人かで黒田重樹さんの作業場にしょっちゅう集まって、飲んで、話をしているから、教授も来て飲め、飲みたくなければ話をしろと言ってくれた。

わたしは、夕方の神事の務めもあるので飲みすぎたら困る、家に帰って一眠りするといって退座した。桑山さんには、沖の筏にかけて釣りをしているときに、風が強くなり筏の間から船を出せなくなって、彼の船で引っ張り出してもらったこともある。いつも世話になっていて誘われても行かないのは申し訳ないとは思うのだが、夕方、釣りから帰ってくるとたいていへとへとに疲れていて、飲み会に顔を出す余力がないのである。

1時間ほど昼寝をし、松山に送ろうと思っていたヒオウギガイの「掃除」(厚手の包丁でフジツボなど削り落とし金ダワシで擦ってきれいにする)をやり、それから背広に着換えてお宮に行った。神事は5時半からで、当番は4時半に集合。座布団を並べたり、テーブルを揃えたり、ビール、それを冷す氷などの準備をした。

神官は女性であった。祝詞を聞くのは春の祭りの時に続いて2度目だったからか、中身はほぼわかった。神事が終った後は会食で、列席者は土居三夫さん、藤井勉さんなど神社の総代、自治会役員など10人。寿山(すやま)さん、加藤正則さんなど、すでに大分飲んでいるらしい人もあり、わいわい、がやがや、にぎやかであった。春の祭りのときは福島の原発事故の話が多かったが、今回は釣りの話が多かった。

北條さんが、春は兵頭一男さんが喪中でこれなかった。今回は松田さんが喪中で、結局男は亀(前田亀雄さん)さんと須藤さんと自分の3人で、須藤さんがいてくれてほんとに助かったと、周りの人に話していた。土井さんが、須藤さんに自治会の中に入ってもらって仕事をやってもらって本当にありがたい。人数が毎年減るので、当番をどうするか工夫が必要だ。婦人部の食事の用意などは、喪中でも、家の中でできることはやってもらうようにたのまなければならん、等々と語っていた。家串の人の数が減りつつあることが気がかりだが、他方で自分の存在が多少でも役立っていると思い、面はゆく感じながらもうれしかった。

今年は真珠の出来がよく、みな機嫌がよいと言う人もいたが、他方で、真珠をやる人の数が減って子どもがいなくなる。もう少しなにか産業が欲しいという話が出た。ワカメはもうブランドがあって割り込むのが難しい。しかしヒジキは8割9割が輸入物で、またヘルシーだと人気があるのでブランド化して売り出せれば可能性があると話す人がいた。 

タバコを吸う人が春のときより少なく、煙があまり気にならなかった。亀雄さんや兵頭一男さんは禁煙派である。わたしはビールを勧められるままかなり飲んだ。くる時は北條さんの軽トラに拾ってもらったが、少し風にあたろうと、帰りは歩いて帰った。

11月3日。朝、洗濯をしようとしているところに、荒獅子の一行がやってきた。5年前、中学1年だった加藤君と、中2の藤井ショウタ君が高校の2年、3年になっていて、「少年」ではなく「青年」になっていた。大人は浅野藤吉郎さんの息子。後に中学生らしい少年が3人いたが、顔は知らなかった。加藤君は、内海中の野球部が県大会に出場することになり、祭り当日に試合があるために来れなくなった本来の踊り手に代わって、彼が1週間前から急遽練習したと言う。ピンチヒッターというわけだ。私の家の前の、畑に上がる細道と玄関から県道に下りる階段の足場のひどくわるいところで踊ってくれた。お礼を渡そうとしたが、後で自治会でもらいにくると受け取らなかった。

洗濯機を回し、朝食を取っていると、五鹿と相撲練りが続いてやってきた。五鹿は5年前は中学生だけでやっていた。聞いてみると今回は高校生が2人入っていると言う。五鹿も「高齢化」が進んでいるのだ。相撲練は全員小学生。行司の2人は6年生。一番下の子は2年生とのこと。行司の女の子の一人は前田亀雄さんの娘だったということをあとで知った。お金はそれぞれ1000円ずつ渡した。

昼の神事のあとの会食中に、神社拝殿の中で、これら3つの出し物が行なわれたので、荒獅子には忘れてしまわないように、このときに1000円渡した。

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行事は予定より早く終わった

会食の時にはアルコールはビール一杯にとどめたが、疲れを感じ、家に戻って、昼寝をしたら2時半だった。「お旅所」になっている作業場前の駐車場におりていくと、もうみな食事をし、飲んでいた。「お旅は」予定より早く始まったらしい。というのは3時の予定なのに、わたしが行った時には座る席を見つけるのに苦労するほど人が集まっていたから。

予定が早まったのは、中旅における神輿と牛鬼のぶつかり合いの回数が3回ほどで、いつもより少なかったからである。ぶつかり合いの回数が少なかったせいか、あるいはぶつかり合いの勢いが弱かったためか、牛鬼はほとんど壊れず、今年は「修理せんでもええわい」と誰かが言っていた。衝突に勢いがなく、また回数がすくなかったのは、担ぎ手の数が少なくて、担いで歩き回るだけでかなり疲れてしまい、公民館前でのぶつかり合いのエネルギーがあまりなかったということではないかと私は推測した。

半分ほどの人数は他所の消防団から来てもらっているというが、どちらも20人くらいずつだった。神輿も牛鬼も重量が大体500キロとして一人当たり平均25キロくらいになる。一人25キロは重くないかと訊くと、兵頭一男さんが「普段わしらは塩の袋を二袋ずつ担ぎよる」という。塩の袋は一袋25キロである。一袋分くらいの重さなら平気だということなのだろう。わたしも10mか15mなら25キロを持って歩けるし、人から肩に乗せてもらえばもう少し歩き続けられるだろう。だが、25キロの重量を担いだまま、家串中を歩き回り、そして総代の家やあらかじめ申し込みのあった家など何か所かでははね、そして昼に中旅では牛鬼とぶつかる。これではやはりばてるだろうと思う。そして、若者はたくさん飲んでいる者は少なかったようだが、中年以上の者はみな朝から飲みっぱなしなのである。これではやはり衝突のためのエネルギーは小さくなるはずだ。

「御旅」が終わって、岸壁から船に乗せるときには人数が減っていて、少し手伝ったが岸壁とデッキが1m以上高さが違っていて、そのときに手を挟まれないか、怖いくらいだった。

   「中旅」の衝突回数が減って、行事は予定よりも30分ほど早く進行し、2時半くらいには「御旅」が始まった。

「お旅所」での最大のハイライトは荒獅子の飛び入りである。今年の荒獅子役の若者の踊りが終わると、自治会長の兵頭さんが立ち上がり、息子の後ろ足で踊った。前田正人氏は誰かほかの人の後ろ足で踊ったが、終った後は立てなかった。お父さんの邦久さんが他の人の後ろ足で踊ったが、最後まで立派に踊った。

一番の驚きはヤッサン(伊井安さん)が登場したことだ。彼は74歳か75歳。去年の夏、軽いとはいえ脳梗塞で県立病院に10日か2週間入院し、わたしは源さんと一緒にお見舞いにいった。もうすっかり大丈夫なのだろうか。奥さんに「元気ですねえ」と声を掛けると、「救急車を呼ばなくて済めばいいのですが」という。ヤッサンは、獅子頭が少し重そうだった。踊りのテンポも若者よりは遅く、両足が同時に宙に舞うところまではいかなかったけれども、きちんと太鼓のリズムに合わせ、しっかり踊り切った。みていて本当に感激、感動し、思いきり拍手した。

そばにいた源さんにも――源さんの方がヤッサンより6つほど下だ――「普段走って足を鍛えているから源さんなら絶対いける」と勧めてみたが、源さんはいい加減飲んでいたらしく、赤い顔を横に振るだけだった。もう一人、屈強な若者が踊った。足がそろって高く上がり、すばらしいリズム感で踊りぬいて、満場の拍手を浴びた。しかし、最後の太鼓の音とともにくずおれ、駐車場のコンクリートの上に寝そべったまま、長いこと動けなかった。

「御旅所」が済むと神輿と牛鬼を船に乗せて家串の湾を3周し、神社に搬入する。すると神主が神輿の中に入っている「御神体」を神輿から取り出して、本殿の中の祠にもどす。こうして祭りは終わるのである。われわれ宮当番は総代の土井さんとともに、神輿が戻ってくる前に神社に戻って神主が来るのを待つ。

神社の前の岸壁から神輿と牛鬼が下船し社殿の中に中に担ぎいれられたのは5時10分か15分前であった。神主は柏の祭りに行っていて、それが終ってからこちらに来ることになっていたが、まだしばらくかかりそうだと連絡があり、5時くらいに、担ぎ手たちと見物人がすべて引き上げた。

神主が到着したのは5時40分くらい。やや暗くなりかかったころだった。総代と宮当番の5人は再び、外に出て、神主が御神体を元に戻すのを待って、お祭りは終了した。明日は朝8時から全員で祭りの後片付けをする。北條さんがこれでわれわれの宮当番は終った。来月からは次ぎの組になる。やるとすればまた10年後だが、われわれはもう引退だ。亀さん頼むよと言った。

11月4日。午前中はお祭りの後片付け。8時にお宮に集まり、牛鬼は金網が張ってある牛鬼専用の木造の小屋にしまう。社殿の周りに張っていた幕を外し、提灯や神器を片付け、4本ののぼりを下ろす。昨晩、弱い雨が降って、湿っているのでこのままたたんでしまうことはできない。天気がよければお宮の前の石塀に掛けて乾かすのだが、明日は曇天で午後は雨の予報。そこで神社の建物の内部に、窓の桟や梁などに、ロープで縛って張り、しばらく乾かしておくことにした。

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