第二部 第2章 由良半島の探索

 

以下の写真の出典はそれぞれがおかれている本文の中で示した。

右:由良の鼻の先端近くの岩場から見下ろす。絶景である。左から伸びているのは半島の一部ハゼヤマ。エボシ形=三角形の離れ岩は小猿島。少し沖に二つに割れた地釣り礁、その先に沖釣り礁(一部)が見える。由良の鼻の先端は写真の右方向で、その下に大猿島があるが、上からは見えにくい。
遠景に左から伸びだしている西海の半島、鹿島、横島(右端)など多くの無人島が見える。かすかに高知県の鵜来島もみえる。















左:大猿の磯釣り場から小猿、地釣りを見た写真。丸いエボシの形をしたのが小猿、その右、少し離れたところに低い地釣りの磯が見える。







 


















上:左側は由良岬、上に小さく灯台が見える。右側は大猿島。          右:岬の先端に立つ由良岬灯台。 




明治時代、網代の地主であり、また網元であった浦和盛三郎によって建てられた「魚類製造家屋」とその現在の写真。






























岬先端の「砲台跡」=由良衛所遺構。由良衛所は、太平洋戦争時、豊後水道を通って瀬戸内海に入ろうとする敵の艦船、潜水艦の探知、進入阻止を目的に作られた軍事施設の一つで、大分県側の大島の衛所と並ぶ最大規模のもの。聴音室、見張り所、砲台、高射機関銃座のほかに、兵員約300人が泊まる兵舎、貯水池、発電施設などが、岬先端の急な斜面の上に広がっていた。戦後、米軍により爆破されたがその一部が残っている。原田政章著写真集『由良半島』(アトラス出版、2007)参照
写真左上は聴音室の遺構を上部から見たもの。前方は豊後水道。空気が澄んでいるときには向かいの九州の街並みが見える。右下写真隅の人物と比べると凡その大きさがわかる。



由良半島の地図。R56鳥越トンネル南側から網代までは県道が通っておりバス便もある。




左:2009年に撮影された船越運河(Wikipediaによる)。橋は架け替えられ、今は新しい橋で網代まで行ける。















下:モイカの一夜干し。
















鳥越トンネル南側から東へと延びる大規模林道の上から展望する。手前下方に須ノ川公園の一部、中央に塩子島、その左手に小さくクロハエ灯台、遠景に由良の鼻、小猿島。
















第2章 見出し一覧

須下(スゲ)への自転車旅行
由良の鼻にあるという「砲台跡」へ
由良の鼻の崖の上からの眺め
源(前田源一)さんとともに再度「砲台跡」へ
砲台跡を発見?
砲台跡を舞台にした映画を見る
観音岳方面へのハイキング
船越運河へのウォーキング
裏山の探索、あやうく遭難寸前に
再度、観音岳を目指して、源さんとハイキング
「放送塔」と「観音岳」の三度目の探索
公民館主催のハイキングで由良衛所=「砲台」跡へ
明治期の文化遺産「魚類製造家屋」を見せてもらう
スパゲッティを串にして揚げた真珠貝貝柱のフライ
由良の鼻と落人伝説
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須下(スゲ)への自転車旅行

愛南町家串に住み始めた最初の年2005年9月25日。八丈島から房総をかすめていった台風17号の影響で、夜通し北の強風が吹いていた。朝起きても船を出せる状況ではないと思い、釣りはやめ、代わりに自転車で由良半島南岸の県道沿いに、隣の油袋(ユタイ)から先の船越(フナコシ)運河、須下(スゲ)方面に行ってみることにした。

由良半島はヒレをたくさん持つタツノオトシゴが「への字」型に曲がったような形をしていて、半島付け根を通る国道56号線鳥越トンネル付近からはほぼ真西に8kmほど突き出し、それから南東ないし南南東に向って6kmほど伸びている。この途中に半島を横断する船越の運河が、そしてその少し先の半島北側には宇和島市に属する須下地区が、南側には愛南町に属する魚神山(ナガミヤマ)地区がある。
大まかに言って、家串から須下までは距離にすれば11〜12kmで、平坦なところならば自転車ではすぐだ。しかし県道は、低いところでは標高はほぼゼロだが、標高30〜40mはあるところが途中に何ヶ所もあって、坂を下るときは楽だが登るのはひどくきつい。場所によっては自転車を押して歩かなければならないところもある。半島の北側には、須下の先に数軒の家がある後(ウシロ)という地区があるが、その先には道も人家もない。南側の県道は魚神山からさらに4〜5km伸びていて網代(アジロ)に至る。由良半島の先端、由良の鼻には船で行くか、陸路を行くとすれば、網代から尾根筋の山道を数km歩くことになる。



家串の隣の油袋(ユタイ)をすぎて県道の坂を上りきると、眼下右手に船越運河が見え、左手におにぎりのような形をした観音島が見えた。観音島という名前は、その手前の観音様の像が立っている「観音崎」からきているらしい。手前の湾に、スパンカーを張った船が一艘止まっている。半島の陰になっているので、北風の場合これくらいなら、釣りは可能なのだろう。坂を下って運河に出る。

この運河は昭和41(1966)年にできた。運河開通時には小型自動車の通行のみが可能であった県道はその後拡張され、昭和49年に魚神山まで定期バスの運行がおこなわれるようになった。次第に延伸され、由良半島で最も西の集落、本網代までバスが入るのは平成3(1991)年のことである。由良半島南岸の諸地区がバス路線でつながったのは、たった20年ほど前のことに過ぎない。

それまでは、由良半島南岸諸地区は「陸の孤島」のようであった。人々は陸路を隣の地区に行こうとすれば人一人がやっと通れるだけの尾根伝いの細い道を歩いていくしかなかった。物資を運ぶためには船で海上から行かねばならなかった。
明治22年町村制施行時に「内海村」が誕生したが、昭和23年の合併と編成替えまでは、村は内海湾を囲む、3つないし4つの飛び地から構成されていた。諸地区は以前は「浦」と呼ばれていて、浦々は船で(太平洋戦争前までは手漕ぎの船で)結ばれていた。内海村はもともと、陸上交通で結びついた地区だったのではなく、内海湾に面した複数の浦が海上交通によって結びついて成立した行政区域だったのだ。

由良半島の尾根筋を境に、南側は愛南町(旧)内海村、北側は宇和島市(旧)津島町である。旧内海村、特に由良半島の南岸諸地区は昔から水不足に悩まされてきた。戦後いくつかの地区で簡易水道が設置されたものの十分ではなかった。津島町との協議が行われ、北灘湾にそそぐ岩松川上流に山財ダムが完成した昭和56年から半島部に通水が始まった。由良半島南側の旧内海村の住民は津島町から水を分けてもらっているわけだ。由良半島の住民は北と南では行政上は別の釜の飯を食っているのかもしれないが、水に関しては「同じ水道の水を飲む」仲なのである。

船越から須下まではバスの通る舗装された広い道路があるが、私は、運河の近くから下る海岸沿いの昔の狭い道路を通っていくことにした。私は、道があれば、常に海が見えるところを通ることにしているのだ。海は、そこで釣りをしたり遊んだりせず、ただ見るだけでもいいものだと私は思う。前年の10月から12月まで船を(運河から10kmほど北にある)北灘湾奥のマリーナに預けていた。そして、週末や連休にマリーナから出港し、船越運河を通って家串に行き、前の年に買った家に1日か2日泊まって釣りをしたので、この運河は何度も通過した。北の方から船でくると、半島に幾つもの岬と湾があり、一瞬どこに運河があるのか迷うのだが、運河のすぐ西側に明るい水色に塗られた由良小学校の建物が見えて、「あそこだ」と安心する。

「由良半島、船越運河」でウェブ検索するといくつものサイトがあり、付近の写真を見て楽しむことができる。とくに「由良半島(3)船越運河-愛媛の海 小旅行」、および前章でもふれた「船越地区の写真集‐みんなの由良半島」(⇒「リンクのページ」の「みんなの由良半島」) には、運河の橋と周囲の海を撮ったきれいな写真が掲載されている。

今日は県道を家串から来て狭い運河域を抜けて、アコヤガイ養殖筏の黒い玉ウキが並んだ漁家(リョウケ)の湾を右手に見ながら、この由良小学校の前をとおり過ぎ、寺崎の小さな岬を回ると西に、先端に灯台のあるやや高く大きな須下崎が見える。その間の小さな湾の奥に須下の集落がある。寺崎からは、ほぼ北東に位置する竹が島と北に位置する日振(ヒブリ) 島は見えたが、北西の方向にある御五神(オイツガミ)島は見えなかった。須下崎の陰になっているのだろう。北からの強風で海岸道路は波しぶきのかかっているところがあり、路面のあちこちに石や小さな岩が散らばっていた。須下の小さな湾の中に船外機船が一艘、真珠養殖の筏に掛けて、波にもまれながら何か作業をやっていたが、そのほかには、船は見えなかった。陸にも人の姿はまばらであった。

モイカを干す。 写真はhttps://tsuriho.com「ツリホウ(釣報)―釣りの総合情報サイト」>料理・2(p8641)から借用。本文の内容とは別。



湾を回って、西側の船着場に来ると、少し冷たい風のなかで、老婆が手のひらサイズのモイカを干していた。
モイカはこの地方での呼び名で、標準和名はアオリイカ。関東ではバショウイカと呼んでいた。モイカは非常にうまい。刺身でもうまいがとくに軽く干したモイカを焼いたものは絶品と言えるかもしれない。モイカと呼ぶのはホンダワラなどの海藻、つまり「モ」の多い場所を好むからである。藻に卵を産み付けるのである。
しかし必ずしも藻でなくても構わず、この周辺の漁師はヤマモモ(マメノキと呼ぶ)の枝を籠に入れてモイカを獲る。夏のうちはまだ小さく、秋から冬にかけて大きくなり、春先に藻の多いところによってきて産卵する。産卵を終えると間もなく死ぬ。イカの寿命はたった1年なのである。エギングといってエビの形をした餌木(エギ)と呼ばれるルアーを使って釣るモイカ釣りは若者の間に人気があるという。また15センチ程度までの小型のアジを「イカ針」という仕掛けにつけて釣る釣り方もある。冬から春にかけてはこの釣り方で大型のものが釣れる。⇒第一部「私の釣り」第4章 「モイカ(アオリイカ)釣り、アマダイ・イトヨリ釣り」

婆さんは、須下ではモイカが沢山獲れる。夏に取ったイカは冷凍しておき、こういう天候のときに解凍して腸(ワタ)を出して、干すのだという。風がひときわ強く吹き付け、イカを干しているロープの結んである木製の台が倒れそうになり、婆さんが抱きついて台を押さえた。

あとで他の人から聞いた話だが、須下を含め、船越運河周辺ではイカがよく獲れ、女房連中はイカを捌くのに「堪能している」(うんざりしている)という。また、ふつう、イカを干しているとハエが寄って来る。ある人が以前どこか他のところでイカを干しているのを見たがハエが集まって真っ黒になっているのを見て、それからは干したイカを食う気がしなくなったという。ところが須下や隣の成(ナル)など半島の北側、そして船越運河周辺は風が強いためにハエがこない。船越周辺のイカは安心して食える、とその人は言った。婆さんがイカを干すのに苦労していたあの強風が、また、ハエを寄せ付けず、イカ好きの人が安心して食べられる干したモイカの出荷を可能にしているのだ。

家串に家を買うことに決めるまで、目を通していた裁判所の競売物件の中に、成地区に建築後10年以内のかなり広い家があったことを思い出した。成は当時地図で始めて知ったところで、国道まで遠すぎるからと実際に物件を見に来ることもしなかった。いまさらどうしようというわけでもなく、単なる興味からでしかなかったが、どんな家だったのか見てみたくなった。表札が外され、人の気配がしない家が確かに一軒あった。よさそうな家だった。ここも真珠をやっていたのだろうか。私が買った家の持ち主もそうだが、数年間続いたアコヤガイの大量死のために、新しく家を建てたのに手放さなければならなくなった人が何人もいる。この家の人々は今はどこでどうしているのだろうか。

須下の先に後(ウシロ)と言う地区がある。私は船で沖を通った時に、見たことがある。後地区から先の由良半島の北側には道も人家もない。冬になると毎日北西の強風が吹き付ける、生活の厳しいところだ。以前は漁師の家が数軒あったが、今では、ペンションのようなものがあるだけである。後地区への道を探してみたが分らなかった。

風は強く、台風の低気圧が北からの冷気を呼び込んだせいだろうが、9月だというのに冷たかった。須下の集落に戻り、桟橋に上がって少し海を眺めたが、ブルブルッと寒さを感じ、帰途についた。

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由良の鼻にあるという「砲台跡」へ

07年5月1日、朝起きると風が強い。テレビの予報では北西風が強く、波は1.5mという。まともな釣りはできないだろうと考え、釣りは止め、由良半島先端にあるという「砲台跡」に行ってみることにした。暫く後になって知ったことだが、「砲台跡」と呼ばれているのは、砲台のほかに、潜水艦航行音をキャッチするための「聴音室」、勤務する兵士用宿舎、貯水池などからなる戦時中作られた軍事要塞の遺構のことである。

「砲台跡」という名を聞いたのは、2、3日前のことである。その日も風が強かったので家の前の県道に出て波の具合を双眼鏡でのぞいていると、ハイカーが通りがかり、船越運河にいくのはこの道でいいのかと尋ねる。少し行くと左手に下の集落に下りる道があるが、下りずにこのバス通りをずうっと行けば運河に出ると教え、どこまで行くのかと尋ねると、半島の先端にある「砲台の跡」までいくのだという。このバス通りは途中までしかなく、半島先端に行く道は知らない、先端までは相当な距離があるはずだが、先に行って尋ねたらよいと私は付け加えた。

始めて聞いたこの砲台跡というところに私も行ってみたくなり、愛媛新聞社発行の『愛媛県万能地図』を見ると、半島の先端に、「旧日本海軍要塞跡」と赤い文字で記されている。定期バスが通っている県道は網代までで、そこから半島先端までは4km以上ありそうだ。しかも、地図には道は載っていない。おそらく、尾根道かなにかを歩くのだろう。網代までは県道で14〜5kmあり、途中のアップダウンを考えて、自転車はやめ、船で行くことにした。海上はまっすぐに走れる。たぶん8kmほどだ。網代から先が問題だ。

朝食を済ませてから、津島町嵐の中島さんに電話をして聞いてみた。中島さんは真珠貝とヒオウギ貝の養殖を営んでおり(⇒第4章、(7) ヒオウギ貝を育てる中島さんのヒオウギ貝養殖)、家串の北條さんと同じ漁業者として海の環境保護運動を一緒に行なっていて、私は家串に住むようになる4年前に、環境派の県会議員の事務所で彼と知り合った。

砲台跡を知っているか。網代から入るのではないか。網代まで船で行き、船を止めさせてもらいたいが、網代に知り合いはいないか、と私は尋ねた。中島さんは、砲台跡があるという話は聞いているが、半島の先端には行ったことがない。手前の魚神山から入るのではないか。魚神山に貝の取引があるNさんという友人があるから聞いてみようという。そして間もなく中島さんから電話があり、彼がNさんから聞いたところでは、由良の鼻に行く山道には、やはり網代から入るのだという。網代には玉川さんという、同じく貝の取引のある友人がいる。須藤さんが行くということを話しておいた、という。網代港は入り口がちょっと分かりにくいけどね、と中島さんは付け加えた。

そこで私は、タオル、雨合羽、双眼鏡をリュックに入れて(また水を入れたペットボトルを1本入れたつもりで)船で網代に向かった。油袋地区から南に突き出た小さな岬とその先の塩子島との間の狭い水道を速度を落として抜けると、ほぼ真西に網代の、そしてそれより少し右手に魚神山の、大きく白い、離岸堤防が見える。かなり波があり(といっても、走るだけならどうということはない)、正面の網代方向から風が吹き付け、運転席のフロントガラスには波しぶきがかかった。

アコヤガイの養殖を行なっている地区の前面には、どこも、養殖いかだが並んでいて、沖から見ると、バールという米俵ほどの大きさの発泡スチロール製のウキやバスケットボールほどの黒い玉ウキがびっしり並んでいて、始めて入港しようとするものには、どこから入ったらいいのかすぐには分からない。家串も始めは分かりにくかった。来てからすでに1年経つので、沖からの出入りには慣れたが、家串から隣の油袋との間を行き来するときには、相変わらず水路を間違わないようスピードを落として走るようにしている。

網代は沖から離岸堤のある港の正面に向かっていくと、港から4〜500mくらいのところに、5mくらいの間隔で白いバールが並んでいるのが見えた。バールが並んでいるだけで、真珠を入れたネットを吊るすためのロープについている黒い玉ウキはなく、バールとバールの間は通れそうに見えた。が、念のためスピードを落し、ゆっくりとそのバールの間を通り抜けて港内に入ろうとした。

だが、バールの間を通過したとたん、それらが水面下にある横のロープでつながっていることが分かった。ロープは水面から1mかもっと浅いところにあって、ギアをニュートラルに入れると同時にドライブがロープに引掛かかった。しかし、スピードは出てなかったのでどうということはなく、ボートフックを使ってロープを外し、再び、ギアを前進に入れて、港の中まで入っていった。バールが並んでいれば、水面下にはそれらを結ぶロープがあるということは常識であり、今では、よくわかっている。しかし、そのことを知らないまま、海から始めて網代に来て、引っ掛けてしまたのだ。港に入るためには、正面からではなく、このバール(だけ)が並んだ筏の端を回らなければならなかったのだ。中島さんが言っていた、入り口が分かりにくいというのはこのことだったのだろう。

離岸堤防の外の真珠筏で作業をしている人を見つけ、玉川さんに会いたいのだがというと、後に見える防波堤のところから入って、左から2番目の作業小屋だと教えてくれた。いくつも並んだ作業小屋の前の小さな桟橋にボートを仮に止めて、上で作業をしていた人にもう一度たずねると、その人が玉川さんで、中島さんから電話がありましたよと、ニコニコしながら出迎えてくれた。

玉川さんの指示で彼の作業場の前に船を繋ぎとめ、陸に上がると、彼は、私を軽トラに乗せ、県道の坂を500mほど上がったところにある、山道の入り口まで連れて行ってくれた。迷いそうなところがないかと尋ねると、山道に入ったところの簡単な図も書いてくれた。

玉川さんも砲台跡には行ったことがないので、岬先端付近の道は知らないが、片道2時間くらいはかかるらしいという。すでに10時を回っていた。私は歩くのは得意で、たぶん、1時間半でいけるだろうと思った。弁当は持ってこなかったので、行ったらすぐに戻らなければならない。余裕を見て片道2時間として、12時に向こうについて、2時ごろには戻れると思うと言って出発した。

県道から尾根の道に入るまでは、草が生えているが小型車が入れるくらいの広さの急なのぼり坂が200mほど続き、そこから先は、人ひとり歩くのがやっとの本当の山道になる。この山道に入る手前のところに、花びらの内側に赤い斑点をつけた大きな白い山百合が一輪咲いていた。私が子供時代に過ごした郷里の新潟の家の裏山にもよく山百合が咲いていたのを思い出した。その近くに、軽トラが1台止まっていた。誰か先に山に入った人がいる。途中で出会うかもしれない。そう考えながら歩いていった。

尾根に上がると道は左右に分かれていて、右に行くと魚神山になる。教わったとおりに左に進むと、すぐのところに、石碑が二つ立っていた。いずれも出征先で戦死した、この近くに住んでいた人をたたえるものだった。

道のほとんどは尾根伝いで、歩くのは楽だったが、何箇所か、尾根から少し下がった斜面を進むところもあり、斜面は岩が剥き出しになっていて滑りやすく、木につかまるなど注意しながら通らなければならなかった。所々に倒木があって、下をくぐったり迂回したりした。いばらや棘のある植物(柏餅を包むのに葉が使われるサルトリイバラなど)が生えているところもあったが、通るのが妨げられるというほどではなく、明らかに、人が時々通っているということが分かった。

山道を少し歩いて暑くなり、上着を脱いでリュックに入れたときに、水の入ったペットボトルがないのに気がついた。家を出るときに、玄関に置き忘れてきたらしい。まずいと思ったが、林間を抜けてゆく山道には強い日差しはほとんど当たらず、また木々の間を通して時々見える半島の北側の海からは、涼しい、冷たいくらいの風が吹きあがってきていたので、水なしでこのまま行っても大丈夫だろうと考えた。しかし、無理は禁物だ。ひどく喉が渇いたり、疲れを感じたりしたら途中でも引き返そうとも考えながら進んでいった。林が途切れて、腰ほどの高さのススキの原に出た。空は晴れて青く、小さな雲が流れていた。太陽を浴びながら歩くとじりじりと暑さを感じた。原っぱはすぐに終わり、また林の中に入った。

40分くらい歩いたとき、林の中で寝転んでいる人がいた。相手は人が来るとは予想してなかったのだろう。驚いて起き上がり、手にもっていた計器のようなものを袋にしまいこんだ。脇には風呂敷の掛かった箱のようなものが1つ、また少し離れたところには、ウグイス色の羽をした小鳥を入れたかごが置いてあった。私はこれはウグイスなのだろうと思った。(本当はメジロであった。このことは、あとで家串に帰って、メジロを飼っている人に、鳥をみせてもらって知った。ウグイスの羽は灰色だということも聞いた。また、『内海村史』を読んで、メジロは内海村の村鳥であることがわかった。)

この人が野鳥の捕獲をしているのだということは分かった。何か獲ってるんですかと聞くと、いやあ、今年はさっぱり鳥がいなくてね、と言う。袋にしまったものはテープレコーダーだったかもしれない。スピーカーから鳥の鳴き声を聞かせて、野鳥をおびき寄せていたらしい。

私は、岬の先端まで行くのだが、ここからあと、どれくらいあるか知っているか、と尋ねた。その人は、「さあ、岬までは行ったことがないからなあ」と言う。そして、この辺にはハブがいるから、気をつけろと言ってから、マムシだと言い直した。彼は「木刀を持っていかなきゃいかん。おれは、ほら、この長靴を履いてきた」と、ひざまである厚いゴムの長靴を履いた足を前に出して見せた。マムシが出るなら、網代で玉川さんが教えてくれたはずだと思いながらも、気持ちが悪いので、転がっている枯れ枝で手ごろな長さのものを持ち、視覚障害者が杖で道を確かめながら歩くのと同じように、前方をたたきながら進むことにした。

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由良の鼻の崖の上からの眺め

さらに、50分ほど林の中の道を進んで行ったときに、急に視界が開け、大きな岩が突き出ていて周りには潅木と草しか生えていない場所に出た。この場所からは馬の背状の岩場を伝っていったん少し下り、それからまた急な斜面を登ってゆく。石鎚山の成就社から天狗岩を見たときの光景を私は思い出した。それを10分の1かあるいはもっと小さく縮小したような地形であった。

この岩場から見える右手前方の沖に、島が浮かんでいた。この岩場に出るまでに私は方角が分からなくなっていて、見えている島が、一瞬、内海の湾を隔てて由良半島の南側にある鹿島なのかと思った。しかし鹿島なら左側に西海の半島が見えるはずだが、何もなかった。日差しから考えると北である。では御五神だ。よく見ると、さらに遠方には日振島が見えた。

岩場から、反対に左の下を見ると、エボシのような形の小島が見える。上から見下ろすのは初めてで、一瞬、なんだろうと思ったが、小猿島だ。その手前にもっと小さな本当の烏帽子(エボシという名の岩礁)が見え、そして小猿の右手には地釣礁が見える。ずっと手前にはサカイバエのちいさな離れ岩が見える。たぶんここは標高150mかそれ以上あるところだと思われた。

右の写真は「”遊山乞食” 山と温泉と;"yusankotujiki" 軽自動車(スバルサンバー)に車中泊ぶらり旅 」というブログ,http://blog.goo.ne.jp/go-go-sambar/の2011年5月25日の記事のなかにあるものをお借りした。
この写真では「烏帽子のような形の」小猿島と、その少し右沖の地釣り礁(二つに分かれて見える)、および沖釣り礁の一部が見える。この写真には写っていないが、右手の方に大猿島がある。また、この写真、ずっと遠くに西海の半島の一部、鹿島、横島などが見える。

下は大猿から小猿、地釣りを見た海上の写真。丸みを帯びたエボシ形が小猿。少し離れたところに低い地釣り、もっと右、船の向こうにかすかに沖釣りが見える。『釣れ釣れ草 釣行記と釣魚料理法』http://tsure.cocolog-nifty.com/blog/、2013年1月12日の写真をお借りした。
釣りのブログは数多くあるが、当ブログのように、釣れた魚の写真だけでなく(あるいはそれよりも)、釣り場から見える周囲の風景、そして釣り場の近くからみた釣り場の写真、さらに欲を言えば、釣り場の地図が載ったページは、読者にとって、大変ありがたく、楽しく、見る価値が高いと思われる。釣り人は釣るのが最大の目的でそこへ行くのだろうが、ブログやホームページを掲載して他の人に「披露」するとすれば、撮影もとても重要なことだと思われる。しかし、これはすでに釣りに堪能したベテランにしてはじめて可能なことかもしれないが。

俯瞰するのと船で海上から見るのとでは景色はまったく違って見える。船を走らせながら仕掛を流してハマチなどを狙う曳釣りで何度も来たところだが、船からみると高い崖が威圧するように迫っており、また、波が打ちつける磯端のごつごつとした岩は船が近づきすぎないよう警告を発しているようで、家串付近の湾内を走るのとは違い、運転していていつも緊張を感ずる。
だが、今、下に見える、小猿から大猿にかけての小さな湾は、海面の波は細かな皴のようで、磯端の白波は岩と海との単なる輪郭線に過ぎない。まるで箱庭だ。(落ちないように注意しながら眺めているが)海面から距離があり、波により揺さぶられたり、潮流で流されたりする危険、緊張とは無縁である。私はまさに単なる景色をながめており、しかも、絶景といってもよい、すばらしい眺めだ。

由良半島は先端でへこんで南に開いた小さな湾になっている。その東側の出っ張りの先端がハゼヤマ(という名の磯)で、そこから、エボシ、小猿、地釣りなどの離れ磯が点々と南に向かって連なっている。そして北西側の出っ張りにはせまい水道を挟んで大猿島がある。私が立っている岩場は東の出っ張りの付け根にあるのだ。すばらしい景色だ。

飲み水を持たずに、何でわざわざ重い双眼鏡などを背負ってきたのかと馬鹿らしく思った。目で見る景色がすばらしいのだ。むしろカメラを持ってくればよかった。写真を撮っておけばこの景色をまた後で見ることができると思った。

それでも、双眼鏡を出し、遠くに見える御五神を覗いてみた。何度か渡船で磯釣に行ったことがあり、岩礁の名前はほとんど知っている。マルバエ、大バエ、ピラミッド、スフィンクスが分かった。また視野をもっと右に移すとキクチバエも分かった。イマバリ(これも釣り場の名前)のあたりに船が止まっているのか、白いものが見えたがはっきりしなかった。
あるはずのものが見えてもどうと言うことはないはずだし、肉眼で見えなかった小さいものが双眼鏡で見て何であるかがわかったとしても、双眼鏡で見えている視野の中に結局何であるのかわからない小さいものがある。なんのために双眼鏡で見るのかと思ったが、それでも、しばらくの間、双眼鏡を熱心に覗いた。

その岩場を下り、林に入り、やや急な斜面を登ってゆく。分かれ道があり、小さな標識があって、右に向かう矢印の先に「山頂」と書いてある。その文字の左側に、三角点とも書いてあり、それが左の道の先にあるように読めた。疲れていたのだろう。三角点とは何かを考えもせず、左に向かうほうが湾に沿って大猿の方向に行く道のように思え、また、右の方向はなんだか逆の方向に感じられた。そこで左に進むと石を積み重ねた囲いの残骸があり、石灯籠が二つあった。その前を過ぎると池があり、どんどん下に下りてゆく。

これはおかしいと思い戻ることにした。〔実は、ここが「由良権現」と呼ばれるところで、ここを下りて進めば、由良衛所跡に行き着けたのだ。〕標識のところに戻り、「山頂」の方向に進む。しばらく上ってゆくと、三角点と記された標識があった。三角点は山頂を示すものだった。ここから少し先に行くと急に道がなくなる。右にゆけそうにもみえるがはっきりしない。左は急斜面だが、ロープが張ってある。こちらが道であることは確かだ。途中で5mか10mくらいのロープを3本か4本伝って、急斜面をおりた。50mくらい下りただろうか。

そこはガレ場で、まばらに木が生えていたが、まだ斜面は続いていた。後で知ったことだが、山頂の標高は250mくらいあり、海面からはまだずっと上にいたのだが、このまま下りたら海岸についてしまうのではないかと心配になった。砲台は海岸よりはかなり高いところにあるはずだ。この道は間違ってるのではないか。これ以上、下に下りたら、登りはひどくきつくなる。

すでにかなりの疲労を感じていた。水が飲めれば、元気が出るのかもしれないが、へたばったら困る。引き返すことにし、その急斜面を這うよりも遅く、ロープにつかまりながらやっと上に戻る。時計を見ると12時3分だった。すでに2時間経過した。玉川さんに2時に帰ると言ったが、帰りは疲れていて時間がかかるだろう。上で砲台跡に行く別な道を探すのはやめ、帰途についた。

来るときは道が上りのところではスピードが落ちたが、ゆるやかな下りのところでは早足になった。帰りは下り坂はたしかに楽だとは思ったが、歩く速度は上がらなかった。上り坂は、足を一歩一歩持ち上げるという感じだった。朝、野鳥を獲っていた人はもういなかった。そこを過ぎて残りの4分の1くらいのところで、動物の姿が見えた。くるりと向きを変え、後姿と大きな尻尾が見えただけだった。猫かも知れないとも思ったが、色は茶色で、人里から離れすぎている。狸だったのではいか。県道に下りる道の近くに来た。そして石碑をもう一度読んでみた。1つは明治30年、もう1つは昭和15年に建てられたものだった。つまり前者は日露戦争の、後者は太平洋戦争の出征者を讃えるものであった。戦地がどこかも書かれていたが、疲れていて、頭に入らなかった。

網代についたのは1時22分だった。喉が激しく渇き、どこかの家によって水をもらわなければならないかもしれないと思いながら集落に入ったが、作業小屋の裏に飲料の自動販売機があり、助かった。玉川さんにお礼を言うのもそこそこにして、船に乗って帰った。へとへとで、食事をする気にもならず、シャワーを浴び、蜂蜜をレモンで溶いて牛乳を加えたものを飲み、さらに水を飲んで、布団に寝転がり、30分ほど昼寝をした。そして夕食を早めに済ませた。

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源さんとともに再度「砲台跡」へ

次の日、家串の友人、源さん(前田源一さん)に由良の鼻まで行ったことを話すと、彼も興味を持ち、5月24日に一緒に行こうということになった。私は、今度は水とお弁当を持って行き、「砲台跡」にちゃんと到達してみせるぞと、心に決めた。

源さんは、私の3つ年上でもともと家串生まれだが、中学卒業後大阪に就職。私が家串に住むようになる3年前、定年退職を機にUターンした。源さんはこの『エッセー』の様々な箇所で登場する。彼も自分の船をもち釣りを退職後の最大の楽しみにしていて、家串における私の釣り仲間であるが、しばしば釣りを一緒にやるだけでなく、これから書くように、ハイキングや探索にも一緒に行ったりする、私の第一の親友である。

5月23日の夕方、農協で、ホウレンソウなどの野菜のほかに、シラスと「きくらげとシシャモの佃煮」を買った。夕食を済ませた後、蒸したシラスに醤油をかけたもの、「きくらげとシシャモの佃煮」、そして、うめぼしを入れた三種類のおにぎりをつくり、麦茶をペットボトルに入れて、翌日の準備を済ませた頃になって、マムシのことを思い出した。もし本当にマムシが出るなら、ズボンの上からひざ下を覆う、20年近く前、房総の磯での釣りで使ったネオプレン製のスパッツを着けて歩こうと考えた。そして、明日朝、源さんにマムシ対策のことを言わなければなるまい。しかし、その前に本当にマムシがでるのかどうか、山によく行くという織田長治さんから聞いたほうがよいと考えた。

24日の朝、朝食をすませてから織田さんの家に行ってみた。家は留守で、彼はすでに作業小屋に行っていた。彼はここで奥さんと一緒にヒオウギ貝の貝殻を使ったランプシェードなどの工芸品を作っている。小屋の内外には鳥かごがいくつかぶら下がっていて、メジロが一羽愛くるしい声で囀っている。彼に聞くとマムシは確かに出るという。やはりマムシ対策をして出かける必要がある。そこで源さんの家に向かった。小学生の登校時間で、「見守り隊」の黒田美代子さん、ヤッサン(伊井安さん)がバス停「家串小学校前」の横断歩道の脇に立っている。そのむこうに源さんの姿も見えた。

源さんにマムシが出るということを話すと、彼も知っていると言う。山道で会った野鳥獲りの人が木刀が必要だと言い、膝までの長靴を履いていたことも話したが、「うーん、しかし長靴では歩きにくいからね。私はこれで行く」と、黒い厚手のウォーキングシューズを見せる。そして「杖を持っていけば大丈夫。めったに出ませんよ」とも言う。

小学生の登校の列が通り過ぎて、「見守り隊」は解散。家に戻る途中の黒田さんと伊井さんに追いつく。「山道にはマムシが出るそうですね」。「ああ、いるよ、そこらじゅうにいる」と伊井さん。「えー!それは恐ろしいなあ。しかし、咬まれて死んだり、医者に運ばれたりした人はいるんですか」と私。黒田さんが「昔、20年くらい前、黒田本蔵さんのお母さんがマムシにかまれて死んだんですよ」と言う。「えー!、やっぱりあるんですか。咬まれたら、傷口を吸うんですよね。でも私は体が硬くて、ひざなど、口が届かないですよ」。「そしたら、源さんが吸ってくれるよ」と伊井さん。「なるほど。源さんが噛まれたら、私が吸ってやるというわけですね」。「うん。だが、口の中に傷があったら、いかんよ」。「あ、そうか。そこから毒が入ってしまう。それは聞いたことがある」。しかし、私は歯並びが悪くて、食事の最中に時々、口の中を噛んでしまう。「私は今、口内炎になりかかっている。傷が口の中にあるんです。困りましたね。どうしたらいいでしょう」。「ケイタイをかけるんだね。源さんの奥さんが駆けつけるよ」と伊井さん。ここは冗談になっている。日本舞踊の趣味を持ってはいるがふくよかな彼女が車で来てくれても、県道から尾根まで上るのは無理だろう。伊井さんは「踏んだりしなければ大丈夫。それに、棒でたたけば、いちころよ。大丈夫、大丈夫」という。「シマヘビやアオダイショウは実際見たこともあるし、手でつかんだこともあります。でもマムシは見たことがないんです。どんな色をしてるんですか」と私。「頭の形が三角で、赤い色の模様がある」と伊井さん。黒田さんは「気をつけて行って下さい」という。

途中に適当な太さの竹の棒が転がっていたので、家に持ち帰り、一ヒロほどの長さに切って、これを杖にすることにした。9時に源さんが車で迎えにきてくれ、私がリュックと竹の棒を後ろに入れようとすると、棒は2本用意してきたからいらないという。竹ではなく細い木の棒で、少し重みがある。この方が木刀の役もするかと思い、竹の棒は外に置いて車に乗った。

だいぶあとで知ったことだが、松山市郊外の住宅地の東に広がる丘陵地帯でも、マムシが出るという。松山の家の近くにある「淡路が峠」というところに、私はこれまで何度も上り下りしていた。イノシシが出る(ほとんど夜間だ)ということは聞いたことがあったが、マムシのことは聞いたことがなく、何の用心もしていなかった。遊歩道整備のボランティア活動をしている人に尋ねたところ、マムシは自分から飛び掛ってくることはないということであった。

魚神山地区は海岸が狭く、県道をはさみ、海側は作業小屋、陸側にはほぼ一列に住宅が連なっている。住宅の多くはコンクリート建ての立派な家が多かった。家串にある家は全部で100戸ほどだが、コンクリート建てはせいぜい10戸程度だろう。それに較べて、魚神山は戸数は少ないが、ほとんどがコンクリート建ての豪邸だ。また小学校は翌年には生徒数の減少で廃校になってしまったが、校舎も体育館もまだまったく新しいもので、家串小学校よりもずっと大きく、立派なつくりだった。また、すでに廃止され、老人福祉センターに変っていたかつての幼稚園の建物も立派なものだった。小学校の体育館建設は平成元年で、屋外プールの建設と小学校の校舎の改築が平成6年、公民館間の改築が平成7年である。地区だけで学校をつくるということはないだろうが、村(旧内海村)が建てた際には地元の分担金という形で相当に金を出したのではないだろうか。

魚神山は一時期、真珠でものすごくもうけたと、源さんは言う。「それで家や、地区の施設に金をかけることができたんですね。一人が豪邸を建てるとそれを真似て、あるいはそれに張り合って、俺も俺もと金をかけてしまう。日用品も誰かが高いものを買うとみなが同じものを買うという話しも聞きました。やたらとすごい高級車が走っていたそうですよ」。

車を止めて途中の海を見るなどしながら、ゆっくりと県道を進み、網代の手前の山道への入り口についたのは9時40分だった。

山道を歩きながら、前回来た時よりも途中の道のりが長いと感じた。小猿島を見下ろす岩場についたのが11時ごろで、水を飲んで休憩し、双眼鏡に代えて持ってきたデジカメで「絶景」を背景に写真も撮った。

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砲台跡を発見?

いったん三角点に出てからロープを伝って下りるのが正しい道だと思っていたが、「山頂」を記した標識がどこにあったか忘れてしまい、まごついた。それでも、山頂に出て、急斜面を3本のロープにつかまりながら50mほど下りた後、道が分からなくなった。上から崩れた石で覆われ笹竹がまばらに生えている、木立の中の斜面をさらに数十メートル下り、どうなることかと思ったが、ついに建物の跡らしいもの見つけ、それが「砲台跡」なのだと思った。

後でも述べるが、半島先端部には、砲台や聴音室などのほか、そこに勤務した兵隊の宿舎などの遺構が点在している。私たちが見たのは、宿舎の跡だった。だが、私たちは遺構がほかに幾つもあることを全く知らなかった。私はついに「砲台跡」に来たのだと思った。

そこからはっきりした道があり、ちょっと歩くと灯台に着いた。高さは5〜6mというところだろうか。この無人灯台は、最初昭和25年に建設。その後昭和61年に改築され、現在も使われている。私はこの由良岬周辺では何度も曳釣りをやっていたので、上に灯台があることは知っていた。
ケイタイを見ると、12時ごろになっていたので、ここで昼食にした。













右は灯台下の磯からの写真。岬の上に灯台がちらりと見え、右側に大猿島の後側が見える。釣り場は反対側にある。『善次郎の休日』(http://outdoor.geocities.jp/ksjjr840/)「由良半島「衛所」」、「由良半島U」の中の写真をお借りした。善次郎さんは2012年3月までに3回、「川口探検隊」を率いて由良岬を徹底調査・探検されたとのこと。岬の景色とともに由良衛所跡のすべての個所の写真も掲載しておられる。
左は由良岬灯台の写真。この写真は『髭じじーの山便り』(http://www2.bbweb-arena.com/higejiji/)の2013年11月17日の記事(「由良岬131117」)の写真をお借りした。
写真を見、記事を読むと「髭じじー」さんは途中少しの「徘徊」はあったが、的確に由良衛所跡に到達し、およそ6時間で難コースを踏破されたようだ。

〔追加〕私のHPの最初の掲載時には画像は数枚しかなく、そのうちの2枚は「髭じじー」さんからお借りしたこの灯台の写真と途中の「岩場」の上から見た「絶景」の写真だった。(私がデジカメで撮った写真には相棒の源さんと私が写っているだけで、オソマツながら、景色はほとんど写っていなかったのである。また、上の『釣れ釣れ草 』さんの写真とほぼ同様の、髭じじーさんが、灯台の下の保守点検用船着き場から撮影したと思われる、小猿を撮った写真もあったが、当初は、上からの「絶景」のことだけが念頭にあり、この写真の借用は思いつかなかった。)半年たって、ビジュアル化の必要を感じ、由良の鼻の景色をWebで検索していて、同じ「岩場」から撮影した遊山乞食(コツジキ)さんの写真を発見し、左から伸びているハゼヤマが明るく写っている、こちらの写真を借りることにした。無断で写真を入れ替えたことについて「髭じじー」さんにはお詫びします。 なお、この灯台の写真と砲台跡の写真については、借用を引き続きよろしくお願いします。

源さんは、灯台の上に上った。灯台の外壁の一部にはしごがついている。点検作業などのときにそれを伝って上まで上がるようにしてあるのだと思われるが、はしごがあるのは上のほうだけで、はしごにつかまるためには、オーバーハングになったひさしの上に上がらなければならない。私は、下の扉に足をかけ、ひさしにつかまるところまではやってみたが、右肩が痛く、ひじをひさしにかけて体を持ち上げることはできても、降りるときに失敗して転落しそうだと考え、悔しいがやめた。灯台の上に上がれば近くの木立に邪魔されることなく、周囲が完全に見回せ、すばらしい景色だったろう。

灯台の点検作業のために設けられているのだと思われる、下の船着場に行く階段を途中まで下り、景色のよく見えるところで写真をとった。上に戻って、みかんを食べて少し休憩。1時に出発して帰途についた。さきほど灯台に着いたときに来た道とは別のよい道が続いていた。それをたどって行くとロープで上るところに出た。来るときはそこから道のない木立の中の急斜面をまっすぐに(近道して)下りて宿舎の跡に出たが、帰りは、傾斜のゆるい、歩きやすい道をたどって、ロープ下に出たようだ。

食事の直後は足が重かったが、消化が進むにつれ次第に足は軽くなり、帰り道は二人ともかなり元気に歩くことができた。前回19日に一人ではじめて来たときは、往きは遠いとは感じなかったが、帰りはひどくきつかった。今回は逆である。前回に較べて往路が長く感じられ、のぼりみちで足が重いと言うか息が切れると言うか、疲れを感じた。

前回の往路は「2時間くらい」と聞いていただけで、どれくらいの距離なのか、果たして道ははっきりわかるのだろうか、などと考えながら、ただただ前に進んでゆくだけだったが、こんどはすでに踏破した道で、知っている場所だという思い込みが、案外、楽ではないと感じさせるのか、それとも、この前歩いた筋肉の疲れが今ごろになって出ているのか(すでに5日経っていたが)、そんなことを源さんに話すと、「いや、今日は暑いですよ」という。

そういえば、この前は、山に入ってすぐ水がないことに気がついたが、山の中が涼しく歩いていても大して汗をかくことはなく、これなら体力の消耗は大きくないだろうから、水なしでもかなりの距離歩けるだろうと考えたことを思い出した。19日の気温は確か23度だった。今朝の予報では27度だった。風も、この前は北西風だったが、今日は南からの緩い風だ。疲れを感じるのは確かに、暑さからきているのかもしれないと思った。

網代の登り口に戻ったのは3時20分。そこから車で船越運河に出た後、県道を通らず、遠回りの半島の北側の道を通って、漁家(リョウケ)、平井、曲烏(マガラス)、大浦、柿の浦を経、旧国道56号を通って帰ってきた。

源さんは、久しぶりだから通ってみようと思ったという。昭和46(1971)年に現在の国道が開通するまで使われていた旧国道は、普通乗用車1台が通れるだけの広さだった。昔はバスが小さかった、それでも、途中でほかの車が来ると、すれ違いのためにどちらかがずうっとバックして広い場所まで戻ったりしたものだ、という。源さんが中学を卒業して大阪に出たのは昭和33年。旧国道を通るのは、たぶん、それ以来のことだったのだろう。

家串に戻ったのは4時であった。

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砲台跡を舞台にした映画を見る

二度目の探索から2カ月半ほど後の8月4日、源さんから、「砲台跡」の話が出てくる映画が上映されるので、一緒に見にいかないかと、誘われた。

旧内海村の中心部・柏地区には、旧村役場で今は愛南町内海支所の建物や診療所などのほか、「DEあい21」という名前の建物がある。(われわれ年寄りには理解しがたいネーミングだが。)コミュニティセンター的な建物で、一階のホールには村の特産、真珠を使って作られた装飾品が展示されており、屋上のドームが真珠をかたどって作られたというところから「真珠会館」とも呼ばれている。上には、内海村の時代には村会議が開かれた場所である会議室、集会場などがある。映画はこの「DEあい21」で上映される。家串からは7〜8kmの距離で、車に乗せて連れていってくれると言う。ぜひお願いしますと返事をした。

映画は多摩美術大学芸術科の大学院生が卒業研究として製作したもので、出演者は地元愛南町の人である。主人公の高校生A(名前は失念)のクラスに転校生Bが入ってきた。しかし、この転校生はしばらくして海に飛び込んで自殺する。一方、Aには、戦争中、由良の岬(ハナ)に作られた軍事要塞に兵士として勤務していた祖父がいる。
Aは学校のクラブ活動の一環で由良の岬まで行くことになって、道案内を祖父に頼むのだが、祖父は頑としてこれを拒む。彼は戦後、由良の岬には一度として近づいたことがなかった。どうして彼がそこに行くのを避けてきたのかというと、彼の戦友である若い兵士が上官の体罰に耐え切れず岬の先端から海に飛び込んで自殺したという事件があって、彼はその戦友の自殺を食い止めることができなかったことに深く傷つき、ずっと悔やんでいたからなのであった。
しかし、Aはクラブの仲間たちと一緒になって熱心に頼み込み、祖父も孫たちの熱心さに動かされて、ついに案内役を引き受けることにし、孫たちを連れて由良の岬に行った。彼は砲台の残骸の上から海に花束を投じて死んだ戦友の霊を慰めることができ、同時に戦後60年近くたってようやく、自分の戦争中の心の傷を癒すことができたのだった。そしてAは祖父の戦争中の体験談から、同級生Bの自殺がいじめによるものだということに気がつく。

だいたい、こんなストーリーだった。製作者の女性は上映後のスピーチで、戦争をまったく知らない若者たちに反戦のメッセージを伝えるために、今学校で問題になっているいじめと絡めた話にした、と語っていた。

この衛所に勤めた宇和島出身の原田政章の写真集『由良半島』中の文によると、兵士の自殺は実際にもあった。
また、映画の上映後に出された広報誌『あいなん』によると、祖父役で出演した中尾さんという昭和4年生まれの方は15歳で出征し、海軍航空隊に入隊。伊豆下田の特攻基地を経て佐世保で終戦を迎えたという。映画出演時には78歳であった。

この映画を見たあとしばらくして『内海村史』を読み、また原田さんの写真集『由良半島』を開いて、由良衛所跡の全貌を知ることができた。これらによると、由良衛所(正式名称は由良崎防備衛所)とは、太平洋戦争時、豊後水道を通って瀬戸内海に入ろうとする敵の艦船、潜水艦の探知、進入阻止を目的に作られた、10数箇所の軍事施設の一つであるが、由良衛所は、大分県側の大島の衛所と並んで、最大規模のものであった。ここには聴音室、見張り所、砲台、高射機関銃座のほかに、兵員約300人が泊まる兵舎、貯水池、発電施設などが、岬先端の急な斜面の上に広がっていた。

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『DEあい21』ホームページ、「メインメニュー」の「ふるさと探検隊」のNO.4「由良衛所跡探索」をクリックすると、原田政章氏と(旧)内海村の「探検隊」メンバーがいっしょに由良の鼻に行ったときの様子を、衛所跡の多くの写真とともに見ることができる。この章の冒頭に掲げた「聴音室」の右側写真はこの探検隊が撮影したものの一枚である。「平成17年8月15日最終更新」となっているのでその少し前ごろの撮影のようだ。 (⇒「リンクのページ」の「DEあい21」)
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わたしの感想

映画では、実際の「絡めかた」はうまくいってなかったのではないか。Aたちが、祖父を案内役にして由良の岬にぜひとも行こうと考えた理由がわからなかった。もしイジメで自殺した転校生が由良の岬から飛び降りて死んだというなら、Aたちがそこへいくのは自然だが、転校生が一人で由良の岬まで歩いていくことは不可能で、そうした設定にはなっていない。すると、Aたちが由良の鼻にいくのは偶然であり、したがって祖父が案内役として登場するのも、偶然である。イジメによる転校生の自殺と、戦争とのつながりが偶然ということになる。

ところが、Aが転校生の自殺について考えているときに、自殺は由良の鼻で行われたのではないにもかかわらず、その転校生が砲台跡から飛び降りる光景がフラッシュのように、何度か写された。苦しみを抱えた祖父の精神が(あるいは自殺した兵士そのものの魂が?)、テレパシー的に孫に働きかけた、ということを製作者は示唆ないし暗示したかったようである。もしそうであれば、Aが由良の岬に行くことと、祖父に案内役を頼むことと、転校生の自殺の結びつきは偶然ではなくなる。

しかし、こうしたテレパシーや魂の直接的作用などによって結びつけるやり方には、問題があると私は思う。私は、科学によってあらゆることが説明できるし、またそうすべきであるなどとは思っていない。だが、テレパシーや占いや心霊現象などを安易に信じたり、それにしたがって行動したりする傾向、多数の人の生命を奪う大事件を起こしたオウム真理教には指導者の「空中浮揚」を信じて入信した若者が多かったというのはその一例だが、一言でいうと、物事をよく考えず、根拠なしに人の話を信じる「軽信」は危険であると思うからだ。

また、映画のストーリー展開に従えば、Aは転校生の自殺の理由を知らなかったのだが、由良岬に行き、昔、そこでいじめによる兵士の自殺があったことを祖父から聞かされ、転校生の自殺がいじめによるものだということに気がつくのである。このストーリーは、戦争に関心を持ってもらうという作者の意図とは逆方向に展開されている。いじめを「絡める」というなら、まず、自分の学校におけるいじめと転校生の自殺という事件から出発して、PTSDに病む祖父の苦しみの理解へ、さらにその背景としての戦争へと話が進むというのが、戦争に関心を持ってもらうという意図に沿ったストーリー展開なのではなかろうか。私は、映画には全くの素人であるが、この映画を見た後で以上のような感想を持った。

私が源さんとともに見た「砲台跡」とは、実は、「兵舎跡」で、多くの遺構のほんの一部でしかなかったことが分かり、私は、ぜひその全体を見たい、そのためにぜひもう一度由良の鼻に行こうと考えた。そして、実際にその願いが実現したのは1年半後のことであった。その間に私は、由良半島の付け根から由良の鼻とは反対方向の東の方に二度探索ないしハイキングに行った。また最初に書いた船越運河へのウォーキングにも1回出かけた。

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観音岳方面へのハイキング

07年11月11日、北西風が強く、釣りは中止。8時過ぎに源さんに電話。ハイキングに誘う。9時ごろ家串を出発。

始めは、私の家の裏の真上に見える、半島の尾根にある電波中継塔のある場所に上るつもりだったが、スーパー林道あるいは大規模林道を通って東のほうに行ってみたくなり、提案すると源さんも賛成した。彼は途中まで愛犬のトトを連れて時々散歩に行くことがあるという。

源さんは知らなかったが、地図を見ると、国道56号の東方に、標高が750mほどの観音岳という山がある。また、家串湾を出たところで釣りをしていると見えるのだが、高さが100mくらいありそうな電波の中継塔のようなものがその方向に見える。電波の中継塔なら、きっと周囲よりも高いところに立てられるはずである。したがってその塔は観音岳の上に立っているのではないか。その塔を目標にして登って行けば、観音岳の頂上に出られるのではないか。そう考えて、一度、この周辺では一番高い観音岳に行ってみたいと思ったのだ。 

家串から国道の鳥越トンネルに向かって県道を進むと、国道に出る200mほど手前のところから、鳥越峠に向う坂道がある。少し登ると道は分かれていて、左に行けば半島の尾根にある電波の中継塔に出、右に行くと大規模林道になる。

この林道は東の端で、愛媛県道332号篠山(ササヤマ)公園線に交わる計画になっている。工事は西側と東側から工事は進められており、途中まですでに舗装がなされているが、中間部分を残して、工事は中断されているということであった。大規模林道の建設に関しては、伐採された材木の搬出には役立にたたず、税金の無駄使いだという指摘がなされ、国の計画全体が見直されることになったはずだ。その見直しの際中であったかもしれない。結局、数年後にはこの林道は全線が開通したが。

鳥越トンネルの上の辺りにあるこの林道の入り口には車止めが置かれていたが、歩いてなら、あるいは自転車でも、入ることはできる。源さんは先のほうまでトトといっしょに、何度か行ったことがあるという。

車止めを過ぎてしばらく歩くと、内海湾全体がよく見え、須の川海岸沿いの国道56号線が見下ろせるところに来る。この辺りは夏の花火を見るのによい場所で、ここからは打ち上げられた花火を上から見下ろすことになるという。私はこんなところにきてまで花火見物をするのかと驚いたが、花火見物の人は、入り口の車止めを動かして車で来るのだという。

やがて舗装された道は終わり、その先は工事中で、金網のフェンスが張ってある。ここに着いて時計を見ると10時半であった。その手前のところで、 柏方面からの遍路道が林道を横切ってさらに上へ向かっている。あるいは林道が遍路道をぶち切って作られていると言うべきかもしれない。この遍路道は柏坂という名であることを後で知った。左前方には電波塔のようなものが見える。工事中の道に入って進んでいくこともできたが、遍路道を上って行くことにした。急坂をしばらく登ったところに、「癒しの椅子」と書かれた、丸太を削って作られたベンチがあり、ここで蜜柑を食べて休憩した。

さらに遍路道を進むとちょっと先に岩松村の何某が建てたという石で作られた古い境界標のようなものが立っており、そこを過ぎると間もなく下り坂になる。私は最近とみに記憶力が悪くなり、とくに外で歩き回るときには、碑などの文字を読んで記憶しようと思っても、全く頭に入らない。おまけに、以前からこのことは意識しているのに、筆記用具を持たずに外に出てしまう。この境界標も、いつ、だれが建てたかを覚えておきたかったが、「岩松村の何某」としか書けず、残念だ。

あちこち探してみたが、上に行く道がみあたらなかったので、引き返すことにした。ほぼ11時ごろだった。行き帰りに3、4人のお遍路さんにあった。家串に戻ったのは12時半くらい。上りの往路が2時間、くだりの復路が1時間半で、片道7、8キロかと思ったが、源さんによれば10キロ以上あるという。途中の休憩といっても10分かそこらだから、3時間半弱で20キロのハイキングで、かなり早足で歩いたことになる。戻ったときには左足に疲れを感じた。地図を見ると観音岳はもう少し先だったようだが、再挑戦してみたい。

 林道の上から展望する。手前下方に須ノ川公園の一部、中央に塩子島、その左手に小さくクロハエ灯台、遠景に由良の鼻、小猿島。「愛南町 DE会い21」(相互リンク)「おでゆき君の写真館」より借用。


林道を下ってくると、須ノ川灘の沖に浮かぶ、クロハエ灯台が正面に見え、そのずっと先の方には由良の鼻が見える。クロハエは家串から4kmほど南にある周囲数十メートルの岩礁で、クロハエから、家串湾の出口の西の端をなす塩子島までの間は水深10m〜15m程度の岩礁地帯が500mほど続いていて、その真ん中辺には、大潮の干潮時にバス1台ほどの大きさの頭を出すサクノセと呼ばれる岩がある。この岩の周囲はまっすぐに切り落とされたような形で、この岩の西側の水深は20〜25mある。私は周囲が岩礁地帯であり、しかもサクノセの切り立った形状から、ここはイシダイ釣りによい釣り場ではないかと考えていた。

途中歩きながら源さんにサクノセでイシダイを狙ってみる積りだと話すと、源さんは子供の頃、大工をしながら漁をしていた父親の手伝いをしていたが、サクノセでクエが網に掛かったことがある。サクノセには今もクエがいる可能性は十分にある、という。イシダイ釣り場とクエの釣り場は重なっていることが多い。磯釣りの対象魚の最大のものはクエである。愛媛には、御五神などで、一人で、クエを釣っている人もいる。しかし、一般的には(と言っても、クエを狙う釣り人は、日本全国でも、100人程度しかいないのではないかと思われるが)、クエは2〜3人のチームを組んで釣る。たぶん、15キロくらいまでなら一人で釣れても、それ以上の、20キロ、30キロになると、よほどの技術と体力がないと一人では無理なのである。

しかし、漁師は船で、一人で、クエを釣るという話を、以前本で読んだ。詳しいことは忘れたが、クエの棲み処の近くに一斗樽をウキにして餌をつけた仕掛けを垂らす。クエが掛ると、樽が海中にグッと沈むが、完全に海中に引き込まれることはなく、浮いたり沈んだりする。クエが疲れるまで、漁師は船の上で待っていて、樽の動きがなくなってから、魚を取り込むのだという。

真珠養殖筏に使う大きいバールか、玉ウキをいくつか使えば、確かに、クエの引きに負けない仕掛けを作れそうだ。私は、東京でイシダイ釣りを始めたとき、クエも釣ってみたいとは思ったが、周囲にやっている人はなく、また、一人では到底無理だと、最初からあきらめていた。しかし、船からなら、仕掛けを工夫すれば、一人でも釣れるかも知れない。源さんの話を聞いて、これまで、考えたこともなかったクエを釣ってみたいと思った。これは具体化することは全くなかったが、サクノセ周辺でのイシダイ釣りはその後の2、3年、実際にやり、相当な釣果を上げることができた。⇒「第一部「私の釣り」第三章「イシダイ釣り」参照)

イシダイを狙っていて、ウニの餌でコブダイ(関東ではカンダイ)を何匹か釣った。大きなものは13キロほどだった。しかし、これくらいになると、大した体力のない私には、まるで猛獣と闘っているかのようであり、数分間、イシダイ竿の根元がズシーン、ズシーンと下腹に食い込んでくるのを耐えた後は、体がガタガタになってしまうと感じた。10キロ超のものを3年間に3、4匹、釣るには釣ったが、もう釣りたくない。クエはそれ以上である。竿を使うのでなく、バールなど大きなウキを使えば、体力は必要ないのかもしれない。しかし、コブダイの襲来に懲り、また、イシダイを大分釣って満足した私は、その後は、大物を狙う釣りからはすっかり遠ざかり、クエのことも忘れてしまった。

観音岳へのハイキングでかなり歩いたせいで、夜、左足の筋が痛んだ。入浴後湿布薬を貼ったが、びっこを引いて歩かなければならなかった。翌日は波浪注意報が出ていて、釣りには行かなかった。と言うよりも、朝はまだ左足の痛みが残っていて、朝湯に入り、湿布薬を貼って、養生していたと言ったほうがいいかもしれない。

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船越運河へのウォーキング

07年12月1日、今日もイシダイ釣りをしようと、塩子島の南端にある丸バエのあたりまでウニを持って行ってみたが、風が強く釣りはできずに帰ってきた。そこで、3時すぎから、ウォーキングに出かけることにした。

西の油袋方面に向かって県道を行く。家を出て間もなく小松崎の上の辺りにある、竜王大権現を祀った祠の大わらじ(次の節参照)の前でヤッサン(伊井安さん)に会って、少し立ち話をし、3時15分に再びそこから歩き始めて、ジョギングとまでは言えないが、かなりの早足で歩きつづけた。油袋入り口のバス停を通り過ぎると、県道はかなり急な上り坂になっていて、坂を上りきると、こんどは右に大きくカーブしながら下り坂になり、その坂を下りきると船越運河になる。坂を下っていくと、風が突然強く吹きつけてきて、帽子を吹き飛ばされ、あわてて拾ってあごヒモを掛けた。運河のところで、半島が低くなっていて――漁師は昔、半島の一方の側から反対側へ何人かで船を担いで越したものだというところからこの船越という地名が付いた。ここが低い場所だからできたことだ――風がそこに集まって吹き抜けているらしかった。

運河についたのは4時10分か15分だった。油袋の手前で、オートバイで来た若者が3人、私を追い越して行ったが、この3人が運河入り口の脇の防波堤の先端でエギングをやっていた。私も、休憩を兼ねて堤防の所まで行ってみた。船外機船が一艘、南にある観音崎のほうからで戻ってきて、船から降りてきたウェットスーツ姿の二人が魚を持っていたのでちょっと話をした。魚はコロダイで、船越の船溜りをでてすぐのところで突いたという。「免許がないと潜れないよ」と年配の方の男が言った。ここのM渡船の船長らしかった。

家串から運河までのこの道は上り下りが激しい。私の家のあるところは海抜10m。そこから運河までの間で一番高いところは50m近くもありそうだ。そして、30mか40mの標高差のある坂を3、4回上がったり下ったりする。

行きにかなりがんばったせいで足がかなり疲れて、ガードレールにつかまってふくらはぎのストレッチをするなどもしたが、下り坂では駆け足もしたりしながら戻った。家に帰ったのは5時半少し前ですでに暗くなっていた。2時間ちょっとで船越運河まで往復し、かなり疲れた。船越運河までの距離は地図で6kmはありそうだ。アップダウンのある道を時速6km以上の速度で早歩きをした。

このことを源さんに話したらすごく早いと驚き、誉めてくれた。彼は毎日飼い犬のトトをつれて散歩する。トトが走ると彼も走っている。1時間くらいは歩いたり走ったりするという。毎日のことだから、彼は相当な健脚家なのだ。その彼に誉められるとうれしくなる。

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裏山の探索、あやうく遭難寸前に

 

08年2月24日、源さんと二人で家串の裏山、由良半島の一部を探索した。このときは道を完全に見失い、一時はパニックに陥りそうになった。

午前中、風はときどきごうごうと音を立てるほどで、予報では「昼までは風が強く」、波ははじめ2m、後1.5m。風は北西風で後北東風という。午後になれば出漁できるかもしれないがまだしばらくは無理だなどと考えながら、パソコンに向かって前日の日記を書いていると、9時少し前、ケイタイが鳴った。源さんからで、予定があるか、なければ山歩きに行かないかと言う。二つ返事で引き受け、すぐに出かける用意をした。

外は寒いが、山を歩けば暑くなるだろう。途中で着る物を調節する必要があるだろうと考え、カメラ、双眼鏡、水とバナナだけの持ち物だが、ジャンバーなども入れられるように、リュックを背負う。こうして9時半前くらいに源さんの家に行き、すぐ近くの、家串と平碆の間を結ぶ県道「家平トンネル」の手前から山道を上がると、コンクリート製の貯水槽があり、その脇には、大ワラジを下げた松ノ木がある。昔はもっと大きな松が生えていて「ウネの松」と呼ばれていたという。

大わらじは毎年正月の15日に、地区民総出で寺に集まり、藁で太い縄を作り、この縄を編んで二つ作る。長さ2m、幅1mほどの大きさで、一つを、県道のトンネルが開通するまで家串の東の入り口であったこのウネの松に、もう一つを西の入り口である竜王大権現の祠のところに立てる。この地区にはこんな大きなわらじを履く大男が住んでいるぞ、悪者がきたら容赦しないぞという、外部のものに対するおどかしなのだという。⇒第三章「家串の年中行事」参照。

この山道は、右に行けばエビス崎に、左に行けば由良半島の峰筋に出る。まっすぐ(といっても木立の間をぐにゃぐにゃ曲がりながら進むのだが)行けば平碆地区に下りる。源さんが中学を卒業して大阪に出るころまでは、このウネの松の脇を通る道が平碆との間の唯一の交通路だったのである。私たちは、この十字路から左へ折れ、30〜40分ほど上った。すると、半島の尾根にある電波中継塔に向かう、車の通れる道路にでた。これは中継塔工事のために造られた道路である。

この道路を歩いていったん頂上の中継塔まで上がって景色を見た。源さんの考えでは、中継塔のすぐ下辺りに、半島北側の柿の浦に降りる道があるので、そこを下り、柿の浦からこんどは別な道を登って、旧県道の「鳥越トンネル」を通ってお昼に帰るという行程で、山歩きをしようということだった。

しかし、柿の浦へ下りる道が見つからなかった。彼が山道を通って柿の浦に行ったのは子供の時のことだが、道が分からなかったのは、彼が道を忘れてしまったからなのではなくて、どうも、鉄塔建設のために、山腹のあちらこちらに工事が施され、様子が変ってしまったためではないかという。

私は前から、昔、油袋の小学生が家串にある学校に通ったという尾根道を歩いてみたいと考えていたので、柿の浦に下りる代わりに尾根道を歩いて油袋に下りるというのはどうかと提案した。源さんも賛成し、予定を変更して、尾根に沿って西へ歩いてみることになった。

しばらく歩いて、家串とその西隣の油袋地区との境目のタンダ(田ノ浦)の上の辺りまできているはずだったが、そこから道が分からなくなった。もう昼になっていた。由良半島の北側にある竹が島がちらりと見えて、その方向に下りれば、平井かどこかに出られるだろう。しかし、平井は家串とは反対の半島北側にある地区であり、そこから歩いたのでは、帰りは夕方になってしまう。南側に降りれば油袋かそのとなりの火打(昔、火打石を採掘したところからこの名前がついたという)の近くに出られるはずだということで、南に下りる道を探したが、そのうちに完全に迷ってしまった。

ときどき海が見えるので海岸の景色を見ると、北側だと思っていたのに、家串が見えて驚いたりした。また、道がなくなり、行き止まりになって、私は戻ろうといったが、源さんは藪を突っ切ってとにかく下に行こうと言った。藪の中に入って下りようとしたが、すぐに前進は不可能だと分かり、尾根に戻った。この時点では、家串と反対側の平井でもどこでも下に降りられれば、家に電話をして車で迎えに来てもらう積もりになっていた。しかし、平井の方向に下りる道も分からなかった。

そして、最初電波中継塔のある東の方から来たので、その道に戻ろうということになったのだが、その方向がどっちなのか、私が考えている方向と源さんが考えている方向が全く反対になっていた。私は源さんがまるで見当違いをしているのだと思ったが、木漏れ日でできるわれわれの影が、私が思っていた方向と逆だということに気がつき、彼の主張に従った。しばらく歩きまわって、来るとき途中にあった青いビニールヒモを結んだ木が見つかったので、そこをたどってようやく元の道に戻ることができた。

翌日、釣りをしていて海からみて分かったのだが、正反対の方向というよりは、尾根筋が分かれていて角度にして120度かそれくらいの方向の違いだったのかもしれない。しかし、私が、向っていると思っていた方向とはまるで違っていて、結論的には、源さんの主張した方向が、戻る方向であったことは確かである。他方、源さんの主張にしたがって戻った道も、方向は源さんが考えたとおりであったにせよ、前と同じ道ではなかったようだ。というのは来るときには、(野鳥を獲りに来た人がここに来たのだろうと思われた)ビールの空き缶がたくさん捨てられた場所を通った――これははっきりしている――のに、戻るときにはその場所は通らなかったからだ。また、歩きやすい、人が以前行き来したであろうことが分かるだけの広さのある道に出たのでそれをたどって戻ったのだが、途中で半島の南側に降りる道があり、ここを降りて県道にでた。しかし、最初に来るときには、その県道に降りる道をずっと探しながらきたのに、見えなかった。だから「戻っている」と思った道は来るときに通った道とは別だったと思われる。尾根に沿った道はいくつもあったようだ。

しかし、とにかく、南側に下りる、道らしい道が見つかった。ここを下りれば家串から油袋へ行く県道に出られるはずだ。そこを下りながら、やっと無事に帰れるという実感が湧いた。出てきたのはタンダ(田ノ浦)の埋立地を半周する道路だった。ここから5、6分歩いて私の家の前まで来たとき、時刻は1時10分か20分くらいだった。

ほぼ4時間くらい歩きまわった。パニックに陥る一歩前まで近づいていたように思う。バナナとポンカンを食べたので、お腹は空いてなかった。そして気温が低かったので、喉が渇くこともなかった。水も持っていた。しかし、夕方まで迷っていたら、危なかったと思う。源さんの家に電話をしただろう。しかし、一晩は寒さに震えながら山の中で過ごさなければならなかったはずだ。200mちょっとの高さしかない、ほんの裏山であるが、道を見失うと、怖いものだと思った。こんどはタンダから上って、道を確かめようと二人で言い交わして別れた。

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再度、観音岳を目指して、源さんとハイキング

09年1月31日、四国の近くを低気圧が発達しつつ通過して、天気は大荒れという予報。大分や宮崎では暴風警報が出ている。南予(愛媛県南部。愛媛県は昔「伊予」と呼ばれていた。愛媛県は、南予、中予、東予の三つに分けられる。)は波が2mから2.5m。釣りはとてもできそうにないので、「観音岳」方面にハイキングしようと考え、9時半少し前に源さんに電話した。

前の週の日曜日、家串公民館主催の由良の鼻探索が、天候が悪く中止になったときに、公民館に集まった人の一人が、林道の工事が進捗していて、柏坂より先にいけること、そして去年通行止めになっていた辺りから少し行ったところに、左手に上っていくはっきりした道があることを教えてくれた。そこが前に一緒に行ってわからなかった電波塔の立っているところに上る道かもしれない。それがハイキングに行こうと考えた理由である。

林道は柏坂の先まで行きは全部上りである。一人で自転車で行くことも考えた。のぼりの道をこぐのは無理だろうから、自転車を押して歩く。山道に入るところに自転車を置いて、山の上まで行き、帰りは全部下りで自転車に乗って「楽ちん」をしながら帰ってこれる。そんなことも考えた。しかし結局、源さんを誘ってみることにした。彼も予定はないとのことでOKの返事。

前回は柏坂からすぐ遍路道を左に上がって、峠の碑の辺りで引き返し、家串に着いたのは1時過ぎだった。今日は、もう少し先まで行ったところで山に登るとすると、もっと遅くなるかもしれない。そこで、源さんにはおやつと水くらいはもっていったらどうですかと言い、私は農協で菓子パンを4つ買った。二つは彼に上げる積もり。源さんの家を出たのは10時ごろだった。

途中、ダンプカーが1台、2回ほど往復した。今日も工事をやっているのだ。そして、前回 (このときは工事は行われていなかった)、2箇所ほど、土地を造成したような場所があり、ゴミの(不法)埋め立てではないかと少し気になっていたが、そこは道路工事により掘削した土砂を置いている場所なのだとわかって、少しほっとした。

林道は次第に標高が高くなり、1時間ほど歩いて須の川灘の上方にくると由良半島の尾根よりも高くなる。振り返ると、小猿島までの由良半島、半島南側の内海、北側の竹が島、前島、黒島、御五神島、日振島などがよく見え、源さんに教えてあげた。

源さんは子供のころ、漁をしていた父親の手伝いをしていた。地元の人は離れたところにある島々の名前はもちろん、近辺の岩礁や小島についても、その位置はよく知っていても名前は知らないことのほうが多い。というのは、それらの名前の多くは渡船でわたって磯釣りをする釣り人が、渡礁したいところを船頭に伝える便利のために比較的最近になってつけたものだからである。漁をする人々にとっては、岩礁はその位置を(暗礁の場合はその水深も含め)自分が心得ていれば十分であり、他人に伝える必要はない。また自分の漁に関係のあるところを詳しく知っていればそれでよいのであり、自分の行かないところの島々や岩礁の名前など知っている必要は全くないのである。こうして、以前磯釣りであちこちの釣り場に行った私は、ガイドブックや、釣り場の空撮写真集などによって、島々の名前を知っていた。そしておせっかいなことだが、遠くに見えた島々の名前を源さんに教えようとしたのである。

だが、前島の北には裸島も見えていたが、そのときは名前を思い出せなかった。3、4年前、数ヶ月の間、隣の津島町北灘のマリーナに船を預けそこから内海に出漁/釣行していた。その時期には裸島も含め、北灘湾周辺の岬や、島、集落などを頭に入れておいたが、その後、由良半島の北にはほとんど行かなかった。若い頃はいざ知らず、最近は、日々繰り返し使う名前以外にはすぐに忘れてしまう。

柏坂と交わる辺りを過ぎて振り返ると、こんどははるか南の、西海の半島の向こう側も見えるようになる。中央に複雑な形の半島の山々が重なり合っていて、右手に小横島、横島、そのずっと手前に、内海の三畑田などの島々が見え、左手、半島の向こうに、外海(ソトウミ)が見える。ここには、イシダイを釣ろうと以前渡船に乗って何回か行った、有名な沖の磯(オキノソウ)、さらにその先には高知県の鵜来島(ウグルジマ)、沖ノ島などが浮んでいるはずだ。しかし、海は少ししか見えず、そのちょっとだけ見える海に、平べったい島が浮かんでいるのが見えた。位置見当からいうと、当木島ではないかと思った。その左はもう陸で、どこなのかわからなかった。景色としては、須ノ川の上で見える景色のほうがずっといいように思えた。

遍路道(柏坂)を過ぎて少し行くと、聞いていたとおり、左手斜面にステンレスの手すりのついた、立派なのぼり道があった。すでに11時半だった。これから、どれくらいの時間で頂上までいけるのかわからない。地図の上では、観音岳が750mくらいだったと記憶していた。須ノ川の上辺りで、由良半島の先端や、家串の上の中継塔のある場所とほぼ同じくらいの高さ、つまり250mくらいだろうと思った。この柏坂の辺りで、標高が300mくらいだとすると、「観音岳」の頂上まで行くには、標高差であと400mか450mも上がらなければならない。左手の山は、そんなにあるように見えなかった。もしかしたら、750mというのは570mの勘違いかもしれないという気がしてきた。(少しでも疲れてくると、自分の頭が、記憶力も思考力も、あてにならなくなってくるのだ。)そうだとしたら、あと250mくらいということになるが、はっきりとした道のある標高300mほどの(松山の)「淡路が峠」に上るのに40分くらいかかる。道を探しながら上っていくのでは、1時間程度で頂上まで行くのは到底無理だろう。私は少し迷った。

しかし、源さんはその上がり口のところにくると、もう、当然とばかりに「行きましょう」と言う。上がって見ると、斜面を50mずつくらいで折り返すジグザグの道だが、比較的歩きやすく、15分ほど上がると送電線の鉄塔の下に来た。そこはきれいに草が刈ってあった。12時15分前くらいだった。

少し疲れたと感じ、「休憩にしますか」と言って、座って、パンを食べ、水を飲んだりして、15分ほど休んだ。再び15分ほど林の中の細い道を登ると第二の鉄塔の下に来た。しかし、そこからは送電線は下がっていくようだった。道も林の中を下がり、やがて道はなくなった。その辺では左手に頂上がありそうだったが、木の隙間から判断すると、もうせいぜい20〜30mしか上はないように思えた。そしてどこにも鉄塔は見えない。

ここは全く見通しが利かなかったので、2番目の鉄塔まで戻って見回した。山が北西側にあってその方向は見渡せなかったが、見える範囲には四角く組まれた放送塔の姿はなかった。ほぼ東の方向でだいぶ離れたところにここよりはもっと高い山が見えた。その上には塔などはなかった。あれが観音岳なのだろうか。他の、観音岳より高い山が愛南町にあるのだろうか。(実際、篠山ササヤマは、あとで地図を見たら1000mちょっとある。)しかし、後で調べて分かったことだが、私たちが登ったのは柏坂山といって500mちょっとの高さの山であり、離れたところに見えたその高い山がどうも観音岳らしかった。しかし、例の放送塔のようなものは見当たらず、そのときは首をひねって不思議がるばかりだった。

とにかく、目指す「放送塔」に行き着かないので戻り、林道に下りた。たぶん1時少し前くらいだったろう。そして柏坂の近くまで戻ったとき、右手、北の方向の山の上に、ちょっとだけ、「放送塔」の頂上部(20〜30mか?)が見えた。この前、柏坂から、遍路道を上がっていって「放送塔」のありかはわからなかったが、どうもそちらにあるようだ。この前、遍路道で右手の山頂方向に上る道を探したが、見つからずにあきらめて下りてきた。源さんはその辺りだと言う。私は、そこは今日上ったところではないかと思う。むしろ、遍路道の左手の低いところに鉄塔が立っているのではないかと思う。鉄塔は山頂に建てなければならないわけではない。鉄塔の頂上が山並みより高ければ、電波を送るのに支障はない。だから、立っている場所は柏坂の遍路道の峠より低いところにあるのかもしれない、こんな風に思った。しかし結局、この「放送塔」のある場所、そこにいく道は分からないままである。

行きは、写真を撮ったり、海を眺めたり、ゆっくりしたペースで登って来て、柏坂まで1時間半だった。帰りは、足がどんどん前に進んでしまう。それでも、足の疲れが感じられた。膝のすぐ上が少し痛み、そのうち、ふくらはぎも重くなった。須ノ川の上で、果物を食べ、水を飲んだ。家串に戻ると2時を少し過ぎていた。それほど高い山でなくても、峰がいくつもある場合には、登ったことのない者だけで山の頂上に登るというのは、難しいものだと思う。「先達はあらまほしきものかな」である。

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「放送塔」と「観音岳」の三度目の探索

<P> 林道の完成後、2011年11月、再度、「放送塔」と「観音岳」を探しに出かけた。11時ごろ、自転車で「観音岳」方面に出かけることにした。放送塔あるいは観音岳を目指して大規模林道を行くのは3回目だ。前の2回は歩きであった。そして行きに1時間半か2時間、帰りにそれより少し短い時間で、往復3時間くらい掛かったのではなかったか。今回は自転車で行く。のぼりが2時間だとしても、あるいはもっと観音岳が遠くで、3時間掛かったとしても、帰りは、下り坂を自転車に乗って下りてくれば30分と掛からないだろう。自転車のほうが絶対楽だ、そう考えた。

この間、源さんに自転車で行ってみないか聞いて見たのだが、彼も自転車は乗れるが自転車を持っていない、と言う。彼はふだん車に乗っている。自転車は2台あるので貸せる。今日も源さんを誘おうかと思った。しかし、ふだん乗ってない人が急な下り坂をずっとブレーキを掛けっぱなしで下りてくるというのはやや危険だと思った。40年ほど前、私が在学していた倫理学科の教授が軽井沢に遊びに行ったときに自転車事故で大怪我をしたことが頭に浮かんだ。それに、急な思いつきなので、今回は一人でいくことにした。

きのうかおととい藤井数義さんの母さんが赤飯を届けてくれた。それを温めて、朝、おにぎりを作った。それをお昼に食べる。クッキーを2、3枚おやつにする。あとは水。

11時半に国道の少し手前の上り口のところから上って行き、傾斜の緩いところは、ペダルを漕いで自転車で上がった。傾斜がきついところでは歩いた。「きつい」といっても傾斜率はせいぜい10%ていどだったろう。東京にいた頃に住んでいた団地の脇の都道の坂の傾斜率が確か10%だった。12時半に柏坂まで来た。かなり早い。

柏坂でいったん止って、そこでおにぎりを食べた。しかし、休憩をせずに、ゆっくり自転車を押して歩き、前に来た時には工事中で柵がしてあった場所から自転車に乗ってさらに進んでいくと、やや平坦になって、13時ごろ、宇和島市と愛南町の境の標識のところまで来た。その辺りからは、ほぼ平坦になっていた。

くねくねと曲がった道を少し行くと、車のわきに立って景色を眺めているらしいアベックに出会った。この先に観音岳というところはあるかと尋ねても、知らないという返事である。そこには放送塔が立っているのではないかと思うと言うと、しばらく先に行くとテレビ塔があると言う。わたしはそれが海から見た放送塔なのではないかと思い、そこまで頑張って行ってみようと思った。

須ノ川灘の上の辺りからもずっと上って来たのだから、たぶん、標高は、3百メートル以上あるだろう。しかし、周囲にはまだ2〜3百メートルかそれ以上の高さがありそうな山がいくつか見える。道は曲がりくねってそれらの山の中腹を走っている。しかし、まもなく、道は一方的な下り坂になった。下り坂は、帰りは上り坂である。

あまりどこまでも下るなら途中で引き返さなければならないとおもったが、10分もすると、くだり坂の先の木立の間に、パラボラアンテナを屋上につけた2階建てか3階建てのコンクリートの建物が見えた。これがアベックが言った「テレビ塔」であることは確かだった。彼らの話しでは、そこで道が分かれ、ここから先はいずれにしても下りで、家串からはずっと遠いところで国道56号線に出るのであった。私はもどることにした。

のぼりの坂を自転車を押して戻りながら、山の上に塔がみえないか周囲を見回したが、それらしきものはなかった。そして宇和島市と愛南町の境界のところまで戻った時に、来る時には気がつかなかったが、道端に「観音岳登山口」という木の標識が立っているのが目に入った。「ここだったのか!」だが、自転車を降りて入り口を確かめて見ると、茂った藪で覆われていて、道はまったく見えなかった。道があれば、また別な時に来て、登ってみようかとも思ったが、これではまず無理だ。結局「観音岳」登山は幻になってしまったようだ。

「テレビ塔」から若干上り、この宇和島市との境界付近からは、下りがおおくなり、柏坂からはほとんどノンストップで下って、家串に戻ったのは14時15分だった。途中何度も振り返って山のほうを見たが、「高い塔」はどこにも見えなかった。海から見えたあの「高い塔」も幻だったのだろうか。なんとも腑に落ちない結果となった。

 その後まもなく気が付いたのだが、家串湾の外に出ると以前は見えた「高い塔」がもう見えなくなっている。つまり塔はもう撤去されてしまったらしく存在しないのである。そして、2014年くらいからはその塔が見えた辺りの峰々には発電用の風車がいくつも立っているのが見える。10年の間に陸地の風景は変化してしまったのだ。

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公民館主催のハイキングで由良衛所=「砲台」跡へ

家串公民館の主催で、09年1月25日、由良の鼻、由良衛所遺構見学のハイキングが計画された。公民館主催のハイキングはしばしば行なわれるようだが、私が由良衛所跡を見るために2度も由良の鼻に行き、しかも、ほんの一部しか見ることができず悔しかった、もう一度行きたいと言っていたことを主事が知り、この計画をたてることになったという。

往復4時間の山歩きは少しきついかもしれないので、行きは歩きだが、帰りは船に迎えに来てもらう。家串の住民で、山道を2時間近く歩く自信のある人なら誰でも参加できる。案内役は、中学時代に何度も衛所跡に行ったことがあり、道をよく知っているという、前区長の桑山さん。私はもちろん張り切って参加を申し込んだ。

しかし、1月25日は荒天となり、集まって相談した結果、次週に延期となった。次の2月1日もまた雨が降り、再度、次週に延ばすということになった。2月8日は晴れた。

公民館主事の河野さんの話では、ハイキングを企画しても、他の地区では、予定した日に雨が降ったら、たいてい、最初にやろうと言い出した人が「じゃあまた来年」と言って、それで中止になることが多い。予定した日が雨で中止になったときに、2回も延ばしてやることになったのは珍しいという。家串には、いったん口に出したことは簡単にあきらめない、初志貫徹型の人が何人もいるということだろうか。

私は、最初に予定されていた日に、『内海村史』の「由良衛所跡の研究」の中にあった地図をコピーしてもっていった。この地図によると、私と源さんが行った山越えの道とは別に、灯台とあまり違わない標高のところをたどる道が載っている。その道は「権現様」を通ることになっていて、桑山さんの話では、この「権現様」を通っていくのが近道で楽なのだという。

私は由良の鼻、衛所跡の探索は2年越し、3回目で、聴音所跡などまだ全く見ていないところも見ることができると期待に胸を膨らませた。前日、ガスレンジの炊飯用スイッチを決められたしかたできちんと入れなかったために、かなりおこげができ、また全体に固いご飯になってしまったが、その炊き損ねのご飯で作ったおにぎりと卵焼きを昼食用に、クッキー、バナナをおやつに、そしてほうじ茶を飲み物に持って、公民館に行った。

集まったのは全部で11人。女性は公民館主事の河野さん一人であった。8時半、車に分乗して網代までいく。私は北條さんと一緒に源さんの車に乗せてもらう。3度目の山道である。そして、1時間半近く歩いて、鼻に近くなり、あの「山頂への登り口」のところに出た。

桑山さんが左下に向う道を指し、こっちだ、ここを下りると権現様があると言った。源さんが、私たちはこの前こっちの山頂の方に行きましたという。私の記憶は違っていて、小猿島の見える岩場に出て写真を撮った後、いったん少し下がり、それから、最後に山頂に上ったと記憶していた。源さんの勘違いだろうとは思ったが、私は「こっちに降りたと思いますが、私も記憶はあやしい。源さんのほうがしっかり記憶している」と言った。口先だけの譲歩であった。

ところが桑山さんの後ろについてちょっと下りると、あの石灯籠のある場所に出た。そしてこれが地図に書いてあった、灯台への近道と思われる「権現様」なのだという。私も、最初に来たときには確かにここにきた。そして戻って山頂にいった。しかし、2度目に源さんと一緒に来たときは、そうではないように記憶していた。私の記憶が全く間違っていたことがはっきりした。桑山さんを除き、先端付近まできたことのある人は私と源さんだけだったが、道案内を買って出ないでよかったと思った。私が自分の記憶を言い張らなかったのには理由があった。その1年前の2月、やはり源さんと2人で、半島の一部である裏山に登った。そして道に迷った。そのときに、迷う前に歩いた道についての自分の記憶が全く間違っていたことが分かった。この記憶違いを思い出したからである。

この権現様からどんどん下におり、斜面のガレ場をかなり歩いた。私が始めは一人で、2度目は源さんとともに以前通った、山頂を通ってから急斜面をロープで下りる道と比べ、アップダウンは少なかった。しかし、決して楽な道ではなく、かなり危険を感じた。そして、この道は途中どこが道なのかはっきりしないところもあった。ガレ場の中を、下へ下りてしまいそうに感じるところもあった。先頭をいく桑山さんが前回来たのはもう15年も前になるということだったが、少しも迷わず確実な道案内をしてくれたので行けたのだと思う。

道なき道をしばらく進んだ後、突然、再び、やや広い歩きやすい道に出た。すぐそばに灯台があった。ここに出てみると、あの山頂をとおる道に較べて、はるかに近道であることがよくわかった。楽ではないと言ったが、山頂を通って上り下りをする道も決して楽ではなかったから、総合すればこちらのほうがずっと楽な道だ。

そして前回私と源さんがみた兵舎跡のすぐ下に、お風呂場や洗面所だったらしい建物があり、また、さらに岬の先端に向っていくと、出た!あの映画の飛び降り自殺のシーンで見た聴音室跡にたどり着いた。斜面を利用して造られた二階建の建物で、一階は半分地下室になっている。壁はレンガ積みで、外側をコンクリートで固めてある。終戦後、占領軍の監視下で、爆破されたということだが、建物の壁や、二階の屋根の外枠などが残っている。

写真下左 は前出「髭じじーの山便り」の「由良岬131117」から、右は相互リンク先『えひめ愛南町 DEあい21』「ふるさと探検隊」から借用。



















下の2枚の写真と章の冒頭の「由良遺構全体の地図」は『善次郎の休日』「由良遺構」「由良半島U,V」から借用した。











遺構と海を背景に参加者全員の記念写真を取った。何人かがこの枠を伝って、海に向って突き出た前方部分に出て、写真にとってもらった。残っている枠の幅は50cmばかりで、下は崖といってもよい急な岩の斜面で、おまけにかなり強い風が吹いていた。主事の河野さんは落ちはしないかと気が気でない様子だったが、私も、源さんも、また桑山さんも、おっかなびっくりではあったが、やらない手はないとかわるがわる立って、写真に収まった。

それから建物の脇の草の上に腰を下ろして昼食を取った。私は、持ってきたおにぎりのご飯が固く、他の人がご飯(おにぎり)が多すぎると言うのを聞き、一個分けてもらおうかと思ったほどだったが、少々みっともないと考え、がまんした。

沖には白波が立っていた。波がなければ、この聴音室跡から比較的足場のよい岩の斜面を降りたところにある、エイガヒラないし砲台下という名前の岩場に、磯釣客を渡すやや大型の渡船が迎えにくることになっていたが、波があるので、湾内の灯台点検用の船着場に小型の漁船できてもらうことに変更になったという。風はかなり吹いていたが、霧が出ているようで西のほう、九州方面は全く見えなかった。黄砂のせいではないかという人もいた。

昼食後、下のほうに貯水池があるというので、桑山さんに頼み、そこにも連れて行ってもらった。河野さんはくたびれていたらしく、下の貯水池には行かないと言い、私に写真をとってきてくれるようにと頼んだ。貯水池は、由良衛所に勤務する兵士の生活用水のために作られたもので、上の兵舎などに水を送るためのポンプや送水管は撤去されていたが、コンクリートで作られた貯水池は当時のまま残っていた。ここも記念写真を撮影するのによい場所だった。

事前に原田政章氏の写真集『由良半島』や『内海村史』に掲載されている写真や記事を繰り返し見たり読んだりしたためか、始めて本物の遺構を見るのに「知っている」という感じ(deja vu)がして、さほど感激しなかった。三度目の正直で、目標をやっと達成できたという想いの方が強かった。

それから灯台に戻り、その脇を通って、下の船着場に続いている石段を下りた。コンクリートの坂道の半分は周囲から崩れてきた岩や石で覆われており、誤って蹴った石が下にいる人のうえに落ちはしないかと心配した。船着場は、干潮時でもあり、水が澄んでいたのでよく見えたが、岩だらけで大きい渡船では船を着けるのは確かに無理だ。

迎えに来たのは、以前、トウゴロウイワシを網から外す作業に私を入れてくれた、そしてもちろん分け前も分けてくれた〔⇒第四章の(2)トンゴロ(トウゴロウイワシ)の漁〕、油袋の前田仲人(ナカト)さんの光成丸という漁船で、狭い暗礁の間に船を乗り入れ、舳先をつけた。後で聞くと何度も来ているので慣れていると言っていたが、運転もやはりうまく、感心した。行きは2時間のかなり険しい道のりであったが、車を置いてある網代まで、船であっという間に戻った。

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明治期の文化遺産「魚類製造家屋」を見せてもらう

他の人はみなそのまますぐに帰ったが、私は源さんに頼んで浦和盛三郎の「魚類製造家屋」を見るために、公園のあるところからその少し先まで連れて行ってもらった。来るときに同じ車に乗った北條さんも同行し、彼が、その家に住んでいる人に声を掛けてくれたので、家の中に入って内部を見せてもらうことが出来た。北條さんは以前村会議員を務めたことがあるだけでなく村長選に立候補したこともあり、内海村では知らない人はいない。この家の人も北條さんの顔を見てどうぞどうぞと我々を中へ導き入れてくれた。

犬伏武彦さんが『南海僻隅の痴蛙なれど―浦和盛三郎伝』(創風社出版)という本を書いている。彼は建築家でとくに愛媛の古建築研究の第一人者と目されている人であるが、私がかつて勤めていた女子大に一時期勤めたことがあり、顔見知りの人でもある。犬伏さんがこの本を書いたのはしばらく前の1992年で、今は彼が書いていたのとは違う人が住んでいた。




左の写真(写真集「由良半島」(原田政章 平成6年)より転載 )は昔のもの、右(HP『えひめ愛南町、DEあい21』「内海村今昔写真展」より転載)は2001年撮影。



網代は、江戸時代末期、盛三郎の祖父と父とによって開発された。浦和家は網代の地主であり、また、網元であった。盛三郎は1843年、浦和家の五男として生まれ、明治9年、病弱の長男に代わって家督を継いだ。
盛三郎は獲ったハツ(マグロ)やカツオの保存法を研究し、明治17年に蒸気で脂を抜く、蒸製法という、ハツ節、カツオ節の製造法を完成した。明治22年本網代に「魚類製造家屋」を建てた。(網代は東から荒樫、本谷、本網代の3地区からなり、私たちが朝、車を止めたのは本谷地区であった。その西に本網代がある。)当時、本網代は、4、5軒の家しかない、小さな部落だった。「魚類製造家屋」=工場は、間口24間(長さおよそ50m)、梁行き6間(幅12m)の大きな建物だ。工場の前には80坪ほどの石畳があり、魚切り場になっていて、処理した魚は浜小屋の大釜で蒸し、節(フシ)にしたり、塩蔵にしたりした。建物の裏には納屋、乾場、作業員の休み場など10棟ほどの建物が600坪の敷地に並んでいた。工場の2階に、2間続きの、30帖と20帖の座敷を設け、網代中の男が集まれるようにした。当時は輸送に時間がかかったので、保存のきく塩蔵マグロやカツオ、節の製造販売で彼は大儲けをし、内海ではぬきんでた富裕者となった。彼は、宇和島運輸会社の設立に関与し、また県議会議員にもなった。明治25年(1892年)、49歳で死。家を含め彼の残した資産は息子の代に失われたが、魚類製造家屋の建物は残っていて、住居として使われている。以上は犬伏さんの本からの抜書きである。

私たちは「家屋」の外の魚切り場の石畳だけでなく、家の中に入り、黒光りのする梁や柱、そしてその本の写真にあった、曲がった一本の木を手すりに使った階段なども見せてもらうことが出来た。

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スパゲッティを串にして揚げた真珠貝貝柱のフライ

家串に戻った後、公民館でちょっとした慰労会が行なわれた。ビール、農協で買ったおつまみのほかに、アコヤガイの生の貝柱に下ろし醤油を掛けたもの、貝柱を塩コショウでいためたもの、それにおでんが出た。生の貝柱を始めて食べたが、これがとくにおいしかった。私がアコヤガイの貝柱でフライを作ったことがあると言うと、串に何を使ったかと桑山さんが聞く。妙なことを聞くと思いつつ、爪楊枝ですと答えると、スパゲッティを使うと、揚げた後で全部食べられるという。なるほどと私は感心した。北條さんも始めて知ったという。半年前、源さんの家でご馳走になったときに、やはりこの貝柱のフライが出たが、そのときにも爪楊枝が使われていた。ごく最近発明された料理法らしい。私もこんどはスパゲッティを使ってやってみようと考えた。

愛媛県では真珠の母貝(アコヤガイ)生産者と母貝を購入して真珠を育てる「珠入れ」業者が分かれており、内海地区では珠入れ業者は今は数軒で、ほかは母貝生産者である。母貝の大半は三重県など他の県に出荷される。

アコヤガイの貝柱は、珠入れ業者が、育った真珠を取り出すために貝を切り開くときに副産物として得られる。市場にはあまり流通せず、ほとんどは地元で知り合い関係を通じて配られるようだ。貝の他の臓器・腸(わた)はすりおろしたニンニクと醤油を加えるなどしてバーベキューにして食べると結構行けるがエグ味が強く、それがいいという人を除き好んで食べる人は少ないようである。

しかし貝柱は全く癖がなく上品で味の良い、高級食材である。大きさが小指の先かその半分程度しかないのが残念だが、刺身で食べたり、冷凍して保存し、フライなどにして、おせち料理の一品にされたりする。海中に吊るされたネットで育った貝を開き真珠を取り出す作業を浜上げというが、浜上げは大体12月後半に行うので、正月料理にちょうどよいのである。母貝生産者は「浜上げ」は行わないが、自家用消費のために、少数の貝を開けて貝柱を取り出すようである。

私は家串に住み始めてすぐのころ貝柱を少量もらったことがあり、自分で(爪楊枝を串にして)フライを数串作って食べたが、その後は源さんの家や北條さんの家でごちそうになっただけだった。

スパゲッティを串に用いるアイデアについて教わってからしばらく経ったある日、タイを数匹釣って黒田恵喜(しげき)さんの作業小屋の前を通りかかったときに「釣れたかい」と声をかけられ、一匹上げた。そのあとお礼だと貝柱をもらった。冷凍されていたが生の貝柱をもらうのは久しぶりだった。このときはたっぷりともらったので、松山に持ち帰り、フライを作った。もちろん、スパゲッティを折って串にした。一串に4,5個ずつ刺し、大皿2枚か3枚に山盛りになった。ビニール袋に小分けして冷凍し、その後、家族3人で、なんども賞味することができた。真珠貝の貝柱のフライは本当にうまい。そして竹串のごみが出ないフライは実にいいものだ。エビでタイを釣るというが、家串ではタイはよく釣れる。私はタイで真珠貝の貝柱を釣ったと思っている。

公民館主事の河野さんは貯水池には降りなかった。そして私に写真をとってきてくれるよう頼んだ。公民館で、その写真を、カメラの内蔵カードからパソコンにコピーしたのだが、パソコンの立ち上がりがすごく早い。スイッチオンしたら、全然待たずに使える。そして、本体も非常に使いよさそうだった。たぶんすべての公民館に入れてあるのだろうが、20数万円したという。私が10年位前、大学の研究室で使ったものも20数万円したが、立ち上がるのに時間が大分かかった。ハードウェアも進歩したのだろう。

2015年現在私は友人の森川さんが組み立てたWindows7(途中で10に代えた)を使っているが、これも立ち上がりはあっという間である。

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由良の鼻と落人伝説

沖釣り礁、地釣り礁などの離れ磯を含め、由良半島の先端部を由良の鼻と呼ぶ。ここは何十か所も釣り場のある中泊周辺の磯とくらべれば、釣り場の数がかぎられている。また最近は石物の大型があまり釣れていないようだ。しかし、グレは数釣りができ、冬季のハマチ、平スズキなど上物の大型が釣れることから、依然、磯釣りファンの間で人気の高いところだ。

半島の最西端はオシアガリという釣り場である。そこから南東に向かって砲台下、池の下など、戦時中、崖の上に作られた要塞の跡と関係付けて名づけられた釣り場ある。また、それらと並んで平家ウド、エビウド、大ウドなど「ウド」という語のついた場所がある。ウドは海洞である。

観光船発着所のある旧西海町中泊地区の鹿島は長さが2km、高さが213mもある大きな無人島だが、この島には「抜けウド」、「鹿島のウド」などの名をもつ大きな海食洞がいくつもあり、島を貫通しているものもある。

関東では、伊豆大島の南の利島(トシマ)と新島の中間に、新島の属島で鵜渡根(ウドネ)という長さが1km以上標高も200mちょっとある、上記鹿島同様のかなり大きな無人島があり、私はイシダイを狙って釣りに行ったことあるが、これも洞窟=ウドの多い根というところから来た名前だということはまず間違いないだろう。

平家ウドは、20〜30mはなれたところを船で走りながら見る限り、小さな岩の割れ目にしか見えない。しかしどうやら内部は大きな海食洞になっているようだ。また割れ目があるのかどうかさえも、船からは見えないのだが、先端付近の詳しい地図にはそのすぐそばにエビウドという洞窟が載っており、そこでは昔、伊勢海老がいくらでも取れたという話を聞いた。そして干潮時には船外機船くらいの船なら入っていけるという。

半島先端から東に少し回りこんだところには、大ウドという大きな海蝕洞がある。ここでは漁師が漁船(本船と言う)をこの大ウドの前に止め、後ろに引いてきた小船に乗り換えてこの洞窟の中に入っていくのを何度かみた。きっと洞窟の中で何か採れるのだろう。ここも潮が引いている時間帯にしか中に入れない。満潮になると入り口はふさがってしまうのだ。これらウドは漁師たちにとって「穴場」であったと想像される。

そして、これらのウドは佐田三崎半島を迂回して南下して来た平家の落人たちが、この近くから上陸し、乗ってきた船をその中に隠したという物語を生み出すのにも役だったと思われる。

オシアガリとは何を意味するのだろうか。磯場はなだらかな前下がりになっているので、潮が満ちてくると次第に「押しあがってくる」ということを意味しているのだろうか。だが、ここに船を接岸させれば昔の平底の和船なら上に押し上げることができそうである。オシアガリとは平家の落人がここで船を押し上げておいて上陸した場所なのではないか。

セキガクシとはどんな意味があるのだろうか。船を一隻、二隻と数えるから、「隻」とは船で、セキガクシは漢字で書けば「隻隠し」なのではないだろうか。ところが漢和辞典を引いてみると、隻は鳥を意味する。また隻眼というように二つで一組のものの片方だけを指す。そして、船だけでなく鳥や魚や矢なども一隻、二隻と数えるという。セキガクシは「隻隠し」ではないようだ。「跡隠し」はどうであろうか。つまり、うまく船を隠し、上陸した痕跡を隠すのに使われたと考えるのである。これは自分でも怪しいと思う。しかし「〇〇隠し」という名前は大いに想像を刺激する。

私は関東から四国に移ってきて間もなく、四国には平家の落人伝説があるということを知った。つまり、壇の浦で敗れた平家の落ち武者たちが四国各地に隠れ住んだという話で、八幡浜市保内町の平家谷は有名である。セキガクシはともかくとしても、平家ウドという名は、壇ノ浦の戦いの後、船に乗って落ち延びてきた人々が、これらの場所に船を隠して、由良半島に上陸したと想像することでつけられた名前であろう。周防灘方面から伊予海峡を南下してきたときに、宇和島付近から突き出ている三浦半島、また(愛南町)御荘、城辺付近から突き出ている西海ニシウミの半島と並んで、由良半島が上陸地点として選ばれたと考えるのは自然である。

しかし周囲が切り立った険しい崖ばかりの由良岬周辺で上陸したとは考えにくい。確かに、平家ウドのすぐ近くの「砲台下」と呼ばれている岩場は傾斜がゆるく、歩いて登っていける。実際、太平洋戦争中、由良衛所を作るためにここから兵士たちが建設資材や弾薬を運びあげたと、原田が『由良半島』で書いている。また、地元の中学生が社会科の勉強か何かでこの岩場を登って砲台跡に行く様子が、テレビの特集番組か地方ニュースかで報じられているのを見たことがある。公家の女房たちもここからなら上陸は可能であったろう。

しかし上に上がっても平地にたどり着くまでに細長い半島が20kmも続いており、当時、道はもちろんなく、水もなく、食べ物も手に入れることはできず、もしここから上陸したなら人々は飢えと渇きで全員死んでしまっただろう。この半島を見つけて近寄ってきた船が、舳先を廻して、北側であれ南側であれ、海岸沿いにもう少し東に進めば、上陸がずっと楽な地形の場所(浦)がいくつもある。とすれば、この「平家ウド」という名は、落人の上陸地でも何でもなく純粋な空想の産物ではなかろうか。

そんなことを考えていたら、落人伝説についてより詳しく知りたくなり、少し調べてみた。『愛媛百科事典』及び『平家伝承地総覧』などによれば、佐田岬は平家の荘園で、1185年壇ノ浦の戦いの後、落ち延びた人々は佐田岬伊方越えに上陸、保内の山中に隠れて生活をしていたが、あるとき、見張りが白鷺を追手の源氏の旗と見間違えて報告。もはや逃れられないと、不在だった2名を残して自殺した。この2名は有盛と行盛で、その子孫がすみついたところが両家(地名)である。琵琶谷、鼓尾などは平氏一門の在りし日をしのんで奏でた楽器にちなんでつけられたもの。平家谷には、こうした名前の集落があるほか、平家神社を祭っている、平家姓を名乗る家が多いという。

県内で平家伝説が語り継がれている地域には平家谷周辺のほかに、宇和島市石応コクボ(これは三浦半島中部である)、愛南町城辺槍松、大洲市長浜沖浦、関前村など半島部ないし島、さらに、川之江(四国中央)市切山、小田町寺村、新宮村、別子山村などの山村もある。

なお、平氏は源氏の探索の手を逃れようとして全国各地に散らばったとされ、四国のみならず、九州、北陸、東北など、全国100箇所を越える平家伝承地があるという。

『内海村史』に当たってみると、家串と隣の平碆とを並べると、平と家の文字が入っている。そして、この両地区はここに住みついた平家の落人がつくったのだ、という説があるという。両地区を結ぶ県道のトンネルも歩道トンネルも「家平トンネル」、「家平歩道トンネル」と名づけられているが、どうして、そのような名前に決めたのだろうか。「平家トンネル」にし、役所でどう読むかは別として、地元では「ヘイケ・トンネル」と呼んでいたら、面白かったのにと思う。

由良半島の北西9〜10キロのところに、好釣り場の大小20ほどの島からなる御五神(おいつがみ)と呼ばれる群島がある。少し離れたところから見ると、丸バエ、大バエ、寝床6番、7番が大きくかつ高く、本島と合わせると5つの島が目立つ。これを五つの神に見立てたことは確かであろう。 原田政章の写真集『宇和海』には、彼が地元の漁師から聞いたという、平家の落人伝説が書かれている。御五神島に着いた10人の落人がこの島に上陸した。落人たちはやがて陸が恋しくなり、筏を作って四国本土に渡ることにした。筏は5人しか乗れず、残りのものに必ず迎えに来るからと言って島を離れたが、それっきりになってしまった。残った5人は絶望して死んだという。五神というのは島で無くなった5人の数にちなんでとられたものだと、この伝説は言う。

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