第二部 第4章 アオサ、トウゴロウイワシ、ナガレコ、ツワ菜(ツワブキ)を採り、ヒオウギ貝を養殖する

  この章で用いる画像の一覧
左はアオサ、右はスジアオノリ





















左はヒトエグサ、右はトウゴロウイワシ、中下はツワブキ









左:トコブシ

右:上から三つ目までは種類の違うアワビ、一番下がトコブシ。呼吸口が突き出ていない。























写真は塩子島。手前は家串湾で、アコヤ貝養殖筏の玉ウキが見える。










左は房総半島、(湘南)三浦半島に生息するマガニ。
右はホンダワラ






左はヒオウギ貝:私の住む愛南町のHPより。ヒオウギ貝はアコヤ貝、御荘ガキなどとともに愛南町の重要産物。 ヒオウギ貝はイタヤガイ科に属する。

右はイタヤガイ



























中島さんは私の友人で、家串の北隣、宇和島市津島町嵐で、ヒオウギ貝養殖を営む。












北條さんは、最近、真珠景気がもどりアコヤ貝の出荷が順調になったと作業場を拡大し、手伝ってもらう人の数も増やした(2017年1月)





















第4章 見出し一覧

(1)アオサ採り
  アオサとイヌアオサ
アオサの振り洗い
アオサの味噌汁
アオサ、アオノリ、アサクサノリ、海藻と海草の違い
ノリとほかの海藻の違い
ヒトエグサ(一重草)か
家串の人々の選り好み
(2)トウゴロウイワシの漁
掛かったトンゴロを網から外す
トンゴロのウロコを取り、干して保存する
(3)ツワ菜(つわぶき)採り
ツワナを採る
ツワ菜をゆで、料理して食べる
フキとツワブキとツワ菜

(4)ナガレコ採り
中学時代、親の漁を手伝った源さん、水泳も素潜りも得意
ナガレコとトコブシは違う?
塩子島に渡る
(5)ホンダワラと藻塩
塩に関する和歌
(6)挫折したワカメの養殖
(7)ヒオウギ貝を育てる
ヒオウギ貝、檜扇とは
ヒオウギ貝を育てること
北條さんから稚貝をもらう
中島さんのヒオウギ貝養殖
提灯
グラインダー
カズさんからもヒオウギ貝をもらう
ヒオウギ貝の「掃除」と付着生物
本業としてのヒオウギ貝養殖
ネットの掃除
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私は家串に10年住み、他ではできず半島の漁村だからこそできたと思われる、生活あるいは暮らしにかかわるいくつかのとてもよい経験をすることができた。それは、アオサ採り、トウゴロウイワシ漁、ツワ菜(ツワブキ)採り、ナガレコ(トコブシ)獲り、そしてヒオウギ貝の養殖であり、常食される食料ではなく、グルメの食物を手に入れる活動である。

わたしの退職後の生活の中心は釣りであり、家串での生活はほとんど釣りとそれに関連した(道具の作製、船の管理などの)ことで占められていたが、釣りにおいても、ふだん食べられない珍しい、高級魚を釣ることがある。たとえば、シロアマダイやミノカサゴなどは京都あたりの高級料亭にでも行かなければ食べられないという話をどこか読んだが、これらは一匹釣れたからといって、その近くで繰り返し狙ってもなかなか釣れない。それらが釣れるのは運によるのであり、今晩あるいは明晩、それを食べたいから釣ろうというわけにはいかない。

他方、アオサや、トウゴロウイワシや、ツワブキ、トコブシは、少し前に食べたいと思いそのつもりになれば獲る/採ることができ、食べることができる。ヒオウギ貝は自分で栽培しているからいつでも食べられる。「高級食材」というわけではない。しかし、ワカメやサケ、ホウレン草や小松菜のように食べたいと思ったときに、スーパーなどに行けばほぼいつでも買え、簡単に食べられるというものでもなく、特定の時季に、天候を見ながら、自分で獲り/採りに行って手に入れる必要があり、手間のかかるものである。ヒオウギ貝の栽培にはかなり手間がかかる。しかも、いつでもどこでも手に入るものではなく、手間ひまのかかることと関係がないとはいえないが、旨いものであり贅沢を感じさせてくれ、高級料亭や名の通ったレストランにいかなくても、グルメ嗜好/志向を満たしてくれる、すぐれた食材である。これらのものをどのように採って、あるいはどのように育て、そしてどのように食べたかを以下で書きたい。

ホンダワラは食材ではなく、地元の主要産業であるアコヤ貝養殖漁業にとっては、農業にとっての雑草のようにどちらかといえば邪魔者である。しかしアオリイカの産卵場になっており、また最近では藻塩を製造するのに使われ、除去のための刈取りが漁業者が副収入を得ることにつながっている。ついでにここでふれることにする。

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(1)アオサ採り

家串に住み始めて2年目の2007年2月下旬のある日、源さんが、明日昼食を済ませてからアオサを採りに行こうと、誘ってくれた。干潮時に小松の海岸に彼の船で行き、浜に上がって採る。採り方はアオサに詳しい「おばあさんが教えてくれる」という。翌日の干潮は15時半ごろで、1時に源さんの家に行くことにした。

源さん(前田源一氏)は、家串における私の最も親しい友人である。私より3歳年上の、昭和17年生まれで、中学卒業後大阪で就職した。30代で結婚。市役所に勤める同郷の奥さんとの共稼ぎの生活を送ってきた。奥さんは同郷で、家串から車で30分ほどの旧一本松町の人である。源さんは60歳で定年退職し、夫婦でUターン。彼の父親は早くに亡くなった。86歳のお母さん(2013年11月、92歳で亡くなった)と一緒に暮らしながら釣りを楽しむセカンドライフを送っている。

私は彼が家串に戻った3年後にやってきた。わたしは船の運転も不慣れでまたどこで釣ったらいいのかも分からず、釣果はほとんどなかった。夏の朝、村の中を散歩しているときに、ステテコ姿で釣り竿とバケツを持って岸壁の方から来る人に出会って、釣れましたかと声をかけた。彼が見せたバケツの中には30センチ超のタイが2匹入っていた。「オッ、すごいですね」と驚くと、「一匹あげますよ。うちは家族は3人だけで、1匹あればいいんです」とその人は言う。初めて会うのに、ずいぶん気前のいい人だと思った。私はありがたく頂き、松山から遊びに来ていた息子と妻に釣りたてのタイの刺身や他のタイ料理を食べさせることができた。その人が源さんだった。そして、その後、たびたび一緒に釣りにいくなど、良い釣り仲間になってもらった。

〔2015年2月追加:また、詳しいことは第一部第9章「船の維持管理に伴う苦労」〔工事中〕で書くが、源さんには私の船の管理と利用に関してどれだけお世話になったかわからない。私は、彼と知り合うことができなかったなら、10年間の釣り三昧生活の幸福―私の人生の第三ステージの幸福の最大部分をなすもの―を享受することはできなかっただろう。深く感謝している。〕

源さんの家は国道56号線から分かれて西に向かう県道が平碆との間の「家平トンネル」を抜けて坂を下りたところにあり、すぐ前は海で、アコヤ貝養殖業者の作業小屋を載せた筏が並んでいる。私の家は集落のある狭い扇状地(「谷」)を海岸沿いに通る県道が家串地区の中心部を通ったあと、S字状の登り坂になって、家串の家並みが終わりになるところにある。私の家から源さんの家までは歩いて5分ほどだ。

1時に源さんの家に行き、すぐ前の筏に係留してある彼の船に乗せてもらって、小松に向う。家串地区の西の端は「西の浜」と呼ばれている長さ50mほどの砂利浜で、県道は、10mほどの崖になった西の浜の上を通って隣の油袋地区に向かっている。「西の浜」の先は岩場にになっていて、そこを回ると今度は漬け物石ほどの大きさの石からなる「タンダの浜」になる。幅20〜30mくらい、長さはおよそ200m。この浜の背後は高さが10mのコンクリートの擁壁になっていて、その上を県道が通っている。

『内海村史』によればタンダの正式地名は田ノ浦である。昔、その奥に田があったという。田のある土地の先の入り江なので田ノ浦と呼ばれたのであろう。昭和30年代に県道を作るときに、入り江の「田ノ浦」を埋め立てて、道路を作った。擁壁の内側の埋め立てられた土地がタンダと呼ばれ、その外の石浜が「タンダの浜」である。現在の「タンダの浜」は、埋め立てられて「浦」ではななくなってしまったが、昔「田ノ浦」(タンダ)であった土地の先の浜である。

宮本春樹『段畑からのことづて』(創風社出版刊)に載っている宇和島市の三浦半島・水が浦(あるいは水荷浦)付近の図には、「深浦」、「居浦(いうら)」などと並んで、「田の浦(たんだ)」、「小田の浦(こたんだ)」、「中の浦(なかんだ)」という地名が記されている。「○の浦」は時に「○んだ」となるようだ。ただし、例えば「柿の浦」は「かきんだ」ではなく、「かきのうら」である。

このタンダの浜の西の外れはまた岩場になっていて、その角(中崎)を回った先の、長さ100mほどの砂と石が混じった浜が小松であり、その先の小松崎という出っ張りは家串地区と油袋地区の境目である。小松の浜は、この年とその後3〜4年は冬から春にかけ水際から20mほど沖まで、ホンダワラがびっしりと生えていた。そこに、モイカ(アオリイカ)が産卵のために集まってくるらしく、5月ころに大型のモイカが釣れる。狭いところだが、毎年この時期には、近くの人の船が3隻、4隻集まってきて、浜から30〜40m沖のアコヤ貝の筏などに掛け、ゼンゴ(小アジ)を生き餌に使って、モイカ釣りをする。イカ釣りが得意のカズさん(兵頭加寿雄さん)がここで釣った3キロ超のモイカは、脚を入れると人間の子供くらいの大きさで、気味悪いほどであった。その後、ここのホンダワラはほとんど消滅してしまい、したがってまたモイカ釣り場でもなくなってしまった。海岸に生える海藻の生え方がこんなに変わるとは思わなかった。海岸端の陸には萱やさまざまな樹木が生えているが、これらが数年で急に消滅するなどと言うことはないだろう。

この小松の浜がアオサを採る場所である。干潮時には、手すりのついた階段もあるタンダの擁壁からおりて陸伝いにここに来ることも可能だが、上まで県道を通って車で来ても、バケツに入れたアオサを運び上げるのは骨であり、船で来るのが絶対的に便利なのである。

船をタンダとの境にある岩場に近づけ、10〜20m沖にアンカーを打って、ロープを延ばしながら舳先を岩場に着けて上陸する。そして上陸後、舳先から出したもう一本のロープを横に引っ張って船を岩場から離し、そのロープの先に石をつけて、陸に置く。船に乗るときはこの逆にする。海底が石あるいは岩ではなく砂地なら船底こすれてもどうということはないから、濡れることを厭わなければ、浅瀬に近づけて船から飛び降りて上陸すればよい。夏ならそれでいいが、濡れたくなければ、このように岩場に船を着けて上陸することになるが、こうした上陸方法が可能なのは、風がなく海が全く穏やかな場合に限られる。

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アオサとイヌアオサ

他の船で先に来ていた2人の婦人は小松崎に近い方で採っていた。源さんが、これで岩についているアオサを削るようにして取るとよいと言って、掌ほどのアワビの貝殻を1つ私に貸してくれた。源さんは「詳しい人」からすでに採り方を教わってていたようだ。半分砂に埋まった波打ち際の岩に鮮やかな黄緑色をしたアオサとおぼしき海藻が生えている。私はアワビの殻を使って直ぐに取り始めた。すると、源さんが「それは食べられない。もっと陸側に生えている緑色の濃いものがアオサで、海側のものはイヌアオサだ」と言う。

しかし、陸寄りの場所には緑色の濃いものはあるにはあるが、すでに人が採った跡があり、わずかしか残っていない。そこで、まだ誰も採っていない場所を探そうと、小松崎の方に向ってどんどん進んで行ったが、同じだった。どこもすでに採った跡がある。

しかし、源さんが「人が採った後でも、まだ残っている。残っているのを採るんです」という。そこで体を曲げてよく見ると、確かに、どの岩にも削り取った跡がついているが、「虎刈り」のようになっていて、少しずつだが濃い緑色をしたアオサが残っている。そこで、歩き回って新しい場所を探すのをやめ、腰を下ろし、一つ一つの石や岩をよく見て、表面についているアオサを、借りたアワビの貝殻で削って採った。少しずつだが、ポリバケツにアオサが貯まっていった。そして1時間ほどやっていると、大きいポリバケツがほぼ一杯になったので、終わることにした。帰りは4人であった。

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アオサの振り洗い

家串にもどると、採ったアオサについている砂や細かな貝殻片を取り除くために、筏に係留した源さんの船の上から、アオサを海水で洗う作業を行なった。最初に一掴みくらいずつ、ザルに入れて海水で振り洗いし、砂や泥を落す。振り洗いが全部終わったら、また一握りくらいずつ、バケツに入れ、海藻をバケツの縁に擦りつけるようにしながらかき回す。こうすることで海藻の根に付着している小さな砂利や貝殻が離れる。そこにもっと海水を入れてかき回し、海水に混じって浮いているアオサを海水と一緒にゆっくり、他のバケツに移す。重い砂利や貝殻片はバケツの底の方に沈むので、海藻が他のバケツにあらかた移ったときに、始めのバケツには砂利や貝殻が残る。残った海水に多少海藻が混じっていても、一緒に捨てる。これを2回ほど繰り返す。潮の引いた浜の岩についていた海藻は湿ってはいるが、その水分はかなり減っていたようで、洗っているうちに海水を吸ってどんどん体積が増し、洗っても、洗っても、終わらなかった。

振り洗いするときには、船の縁にもたれて前かがみになって海に浸けたザルを振るのだが、続けていると体重がかかる腋の下と胸のあたりが痛くなる。バケツでアオサの入った海水を別のバケツに移す作業は、相当に腰が疲れる。源さんの親戚の老婦人、織田さんは80過ぎだというが、先に採集を始めていて私より量が多かった。洗いは半分ほどで終わりにし、続きは近くにある荷積み場の岸壁の階段のところで翌日にやるということだった。

源さんは私と同じくらいの量だったが、疲れたらしく「多少砂が入っていてもしょうがない。タニコ〔奥さん〕に文句は言わせない」などとぶつぶつ言いながら、やや早めに終わりにした。私は二度手間はいやだったし、食べて口の中でジャリジャリするのもいやだと思い、くたびれてはいたが、納得のいくまでやった。こうして2時間、かなりのハードワークでへとへとになった。

家に戻り、教わっていたとおり、さらに真水で洗ってから、網籠に入れて外に干そうとした。2つのカゴにはきのう北條さんからもらった、ワカメが干してあった。北條さんが今年から試験的に始めたという養殖ワカメである。生乾きのワカメの半分はそのまま冷蔵にし、残りを水につけてもどし、茹でて、塩をまぶして冷蔵庫に入れた。「湯通し塩蔵ワカメ」というものがスーパーなどで売られていて、保存がきくと思ったのである。そして、空いた網籠にアオサを入れた。しかし網籠では干しきれず3分の1くらいは残ったので、絞って、何袋かの食品保存用のビニールバッグに入れ、冷凍した。また、生のまま少量を冷蔵庫で保存しておき、味噌汁に入れて食べることにした。すべての作業が終わったのは5時過ぎだった。1時過ぎからアオサ採りを始めたので、全部で4時間くらいかけたことになる。

夕食には、昨日釣った糸ヨリをムニエルにし、ポン酢をかけて、また北條さんからもらったワカメの根の近くの、ラジエーターのようなびらびらしたものがついた太い部分(これがメカブというものらしい)を茹でて薄切りにし醤油をかけて食べ、また他に、わたしが漬けた大根とニンジンのぬか漬、そしてアオサの味噌汁を食べた。メガブはやや硬く、刻んではあったもののもう一度口の中で噛まなければならず、醤油となじんでいないためか渋く、あまりうまくなかった。あとで知ったのだが、すりおろして、出し汁でのばして食べるのがもっと口当たりがよく、うまい。2度目以降はこうやって食べている。

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アオサの味噌汁

アオサの味噌汁はとてもいい香りがする。採りたてで、しかもかなり苦労して自分で「食品化」したものだ。2杯3杯とお代わりをして飲んだが、最高の贅沢をしていると感じた。

後で触れる『海藻の食文化』によると、アオサは、和え物、酢の物、てんぷら、雑炊など、葉もの野菜に近い使われ方をするという。またラジオで聞いたのだが、長野県では、12月になると、各家庭で野沢菜を漬ける。まず菜を洗ってきれいにする「お菜洗い」という作業を行なう。洗う野沢菜の量は30キログラムにもなるという。細長い由良半島に点在する地区はどこもそうだろうが、家串にも畑はわずかしかない。当然ながら野菜を作っている人もごく少ない。代わりに海岸で採った大量のアオサを、冬でも水温が16〜7度の温かい海水を使って洗ってから、干したり、あるいはしばらく以前からは冷凍したりして保存し、野菜のように、使うのだ。

アオサを味噌汁に入れて食べたのも、アオサを食べたのも初めてだったが、いっぺんにアオサの味噌汁のとりこになった。『広辞苑』によると、アオサは青海苔の代用にするという。代用とは、本物がない場合に、多少品質等において劣るものを代わりに使うことだ。すると、お好み焼きにかけて食べる場合には、青海苔のほうがうまいということになる。私は青海苔はお好み焼きにかけて食べるということしか知らないが、私はお好み焼きは青海苔を掛けずに食べる。香りが強過ぎて嫌いだからである。また、青海苔を味噌汁に入れて食べたこともない。アオノリを味噌汁に入れて食べてみようとも思わない。

アオサは味噌汁に入れると、そのかぐわしさが、とても好ましい。だが、アオサを乾燥させて、お好み焼きに掛けて食べてみようとは思わない。アオサは味噌汁で食べるのが一番だ。アオサを青海苔の代用に使う必要を感じず、また味噌汁で青海苔をアオサの代わりに使って見ようとも思わない。アオサはアオサ、青海苔は青海苔だ。アオサの味噌汁をはじめて食べ、すっかりそのたとりこになってしまった私は、夕食後、そんなことを考えた。

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アオサ、アオノリ、アサクサノリ、海藻と海草の違い

市販の焼きのりの袋をしらべてみたら「原材料名」は「海苔」としか書かれていない。百科事典などで調べてみると、アオノリ(青海苔) は、スジアオノリ、ウスバアオノリ、ヒラアオノリなど、緑藻類アオサ科アオノリ属の総称で、干して食品にした製品もいう。アオノリ属はとくに河口近くの遠浅で波静かなところに多く生育する。そのほとんどが食用可能であるが、アサクサノリに混じって生育する場合があり、そのまま抄(す)きあげたものが〈混ぜノリ〉と称する〈浅草海苔〉の下級品である。

アサクサノリ(浅草海苔)は、紅藻類ウシケノリ科のアマノリ(甘海苔)の一種で、アサクサノリを主原料として干して作られたものもアサクサノリという(平凡社大百科事典、ウィキペディアなど)。

他方、アオサは緑藻類アオサ科アオサ属の総称名であるとされ、アオサ科に属する点ではアオノリと共通している。しかしアオサはノリではない。

海藻について少し調べる必要を感じた。seaweedという英語は海藻と海草の両方を意味する。ただし、海草の場合にはsea grassとも言うようだ。耳で聞く「カイソウ」と言う語は日本人のほとんどが知っているだろうが、海藻と海草の違いについて知らない人もかなりいるのではなかろうか。かく言う私も90年代末、瀬戸内海で海砂利採取により藻場が破壊され漁業の衰退を引き起こしていることが問題になったときに始めてカイソウについて勉強したのだが、そのときにアマモ(甘藻)が海藻ではなく、海草であること、海藻と海草はべつの植物であることを知った。

コンブ、ワカメ、ノリなどの海藻は(茎と葉の区別が不明確な)葉状植物、隠花植物に分類され、食用にされるものが多い。スガモやアマモなどの海草は目立たないが花をつけ、種子を作り、海産有花植物と呼ばれ、食用にされないものがほとんどである。しかし、これらが生えている場所は藻場と呼ばれ、魚が集まってくる。海砂利の採掘や埋め立てなどで藻場が失われることは漁業の衰退につながる。

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ノリとほかの海藻の違い

今田節子『海藻の食文化』(成山堂、平成15年)によると、藻類は、海藻では、色による分類で緑藻・褐藻・紅藻の3種類があり、淡水藻では珪藻、車軸藻などがある。コンブ、ワカメ、ヒジキは褐藻、アオノリ、アオサは緑藻、テングサ、アサクサノリ(板ノリになると黒いが、海中では濃紅色)は紅藻と分類される。

形によって、ホンダワラのように藻体が大きく生長するものは「---モ」、ヒロメ(コンブ)、ワカメ、アラメなど藻体が長く広いものは「---メ」、藻体が小さくぬるぬるしたものは「---ノリ」と呼んでいるという。だが、ヒジキやアオサやイギスやホンダワラなど上の3種類の語尾のつかない多くの海藻がある。

また今田は「藻体が小さくぬるぬるしたもの」がノリだという。おそらく海藻でぬるぬるしないものはないだろうから、特徴は「藻体が小さい」ことにあるはずだ。もし、藻体が大きく長ければ味噌汁の中でふやけても絡み合っているか、あるいはワカメのように(切ってあっても)箸でつまむことができるが、普通の(安物の?)ノリが味噌汁の中では溶けてしまい”箸にはかからない”状態になるのは、ふやけてばらばらになった一つ一つの藻体が小さいからであろう。

しかし、「ノリ」がすべてふやけると普通のノリのように溶けてしまうわけではない。岩ノリという波の荒い外海でしか採れないノリがある。私は東京に住んでいたころイシダイ釣りに傾倒し房総から伊豆まであちこちの磯に行ったが、なかでも三宅島には10年くらいの間に100回かそれ以上通った。イシダイはめったに釣れない。三宅島に行った帰りにはしばしば土産に干した岩のりを買った。ただし夏季にはなかったと思う。味噌汁に入れて食べると磯の香りがしてうまかった。ワカメほどではないが、藻体はかなりしっかりしており、箸でつまむことができた。褐藻類のハ(ン)バノリは食べたことはないが、冬のブダイ釣りの餌に使うので、手で触ったことがある。小さく葉の薄いワカメといったしっかりした感触だった。そして私が採ったアオサもしっかりしており、ワカメの若葉という感じである。

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ヒトエグサ(一重草) か

『食材魚貝大百科』C海藻類/魚類(平凡社、1999)によると、アオサの仲間は、潮間帯における垂直分布により、上部のヒトエグサ、中部のアオノリ、下部から潮下帯のアオサの3種類に分けられる。

アオノリの一種スジアオノリは「円筒状になる主枝の下部から多くの側枝が出る」というから、形は、たぶん、小さなススキかイネのようなものだということになる。
これに対してアオサとヒトエグサは「葉状体」と説明されていて、茎や枝の説明はない。アオサとヒトエグサは目で見た限りでよく似た形状をしているが、『市場魚貝類図鑑』の写真を見る限り、アオノリ(スジアオノリ)は形がはっきり違う。また、アオノリは四万十川のような汽水域で繁殖することが多いと言われている。家串湾に注ぐ川はないので、私が取ったのはアオノリではなく、アオサかヒトエグサであると考えられる。

左はアオサ(京都府のHPから転載)、右はスジアオノリ(www.kochi-marugoto.pref.kochi.lg.jp/より転載)

















顕微鏡で調べると、アオサ類は藻体の断面で細胞が2層並んでいるが、ヒトエグサ類は一層だという。また、アオサには多くの小さい穴が開いていてアナアオサとも呼ばれる。アナアオサは濃緑色の厚い葉状体でやや硬い。松山周辺で食べられているという。初春のころ摘んだ若葉を食用とし、成長したものは硬いため飼料や肥料に使う。
ヒトエグサ=<一重草>は細胞層が一重で、薄くしかもやわらかで舌触りがよい。ノリの佃煮はアサクサノリなどの紅藻ではなく、ヒトエグサ類を原料とすることがほとんどで、佃煮がアサクサノリのような色になっているのは醤油や砂糖などの調味料のためである。全国的に生のまま、味噌汁の具として食される。各地でアオサと称されるものはヒトエグサ類であることが多い。中村市(四万十市)では、ヒトエグサを使ったと思われる<アオサのてんぷら>料理が出る、という。

下の写真はヒトエグサ(Wikipedia-三重大学藻類学研究室から転載)

源さんら家串の人々によれば食べるのは陸寄りに生えているアオサで、海寄りのものはイヌアオサで食べ(られ)ない、という。だが「イヌアオサ」なるものは『食材魚貝大百科』にも、また私が調べた何冊かの海藻/海草に関する本のいずれにも、記載されていない。
『食材魚貝大百科』の「垂直分布」の説明からすると、家串のひとが陸寄りのところに生えているヒトエグサ(「薄く、しかもやわらかで舌触りがよい」)を食べ、海寄りに生えるアオサ(「ややかたい」、藻体が「二層で、厚い」)をイヌアオサと呼び、食べないという可能性がある。ただし、松山などでは、「やや硬い」アオサを「初春のころ摘んだ若葉を食用にし」ている。

結論を言うと、私が源さんや家串の人々に従って食べたものは、アオノリ(スジアオノリ)でなく、また潮間帯の下部に生える(「イヌアオサ」つまり)アナアオサでもなく、潮間帯の上部に生えるヒトエグサだと思われる。

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家串の人々の選り好み

家串をはじめ内海では、魚が食べたければうまいものだけを食べ、少々味の落ちるものは馬鹿にして食べない傾向があると、旧内海村のある旅館の主人が言っていた。 釣りでも、家串の人々が狙うのは、刺身ですぐに食べられるか、焼くか煮るだけの簡単な調理で十分においしい、メジカ、アジ、イサギ、マダイ、ハマチ、等々であり、実際、これらうまい上等な魚がたいていは釣れる。今日、それらの魚が釣れず、ほかの、例えばイラ(ミコタマ)やヒブダイ(エガメ)しか釣れなかったとしたら、今日は魚を食べるのはやめて、明日、釣れるだろううまい魚を食べる。魚が手に入れば何でも喜んで食べるというほど魚に不自由してはいない。     第5章「魚食」の「ブダイとエガメ」、「ミコタマ(イラ)」参照  

家串では、魚と同様、海藻でも選り好みをし、うまいもの、いいものだけを食べようとするということが考えられる。家串では、ヒトエグサをアオサと呼び、食べていた。食べられなくはないがやや硬い、ヒトエグサに似たアオサがあって、家串ではそれを食べようとはせずイヌアオサと呼んで(ばかにして)いる。これが私の推測である。 

この推測が正しいかどうかを確かめるためには、家串でアオサと呼ばれているものとイヌアオサと呼ばれているものの葉(藻体)の断面を顕微鏡で見て、それが1層の細胞からなるか2層からなるかを見ればよいと思われる。しかし、いまのところ私はそれをやってみていない。

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(2)トウゴロウイワシの漁

07年11月下旬のある日、Kさんがトンゴロを食べるかと聞く。トンゴロとは標準和名ではトウゴロウイワシのことで、私は家串にきて初めてこの魚を知った。大きさは10センチ程度で、マイワシやウルメイワシなどに比べるとやや小さい。トウゴロウイワシは冬、水温が低くなると家串湾に寄ってくる。他のイワシに比べて、固いウロコを持っているのが特徴である。



釣りで狙うことはほとんどないが、ゼンゴ(小アジ)を狙ってサビキ釣りをしていて掛ることがある。ウロコが硬いので、ウロコ落しや包丁を使うなどしてウロコを落す必要があるが、てんぷらや塩焼きにして食べるとうまいということを源さんから聞いていた。その後、たまたま2〜3匹釣れた時に、塩焼きにして食べて見ると、実際非常にうまかった。しかし、釣りでは、たまに、ほんの数匹釣れるだけだから、食べたくても満足するほどは食べられない。網で取るのだろうと思っていたが、春になり、その姿が見えなくなるとともに、トンゴロのことは忘れていた。

Kさんは、最近網によくかかると言う。昨日取れたもので、刺身は無理だが、うろこをしっかり落として天ぷらにするのがよいという。また、いっしょに網漁にくれば、たくさん取れる。網の目に引っかかるので、1匹ずつはずすのが面倒だが、やる気があれば声を掛けてやる。時間は朝の6時から7時の間だという。

冬、朝の6時はまだ暗い。私は6時前に目が覚める。しかし、何も食べずにすぐにでかけるというのは苦手である。冬は起きてから新聞を読み、やがて明るくなるころ、ゆっくりと朝食をする。それからでないと、とても出かける気にならないのである。

「朝が弱いので---」と網を上げに行くのは保留したが、魚をもらったのでてんぷらにしてみることにした。40匹くらいはあった。すぐにうろこを落とし、頭を取り、はらわたを出して、てんぷらを作り、夕食のおかずに食べた。塩焼きもうまかったが、てんぷらは塩焼きに比べまた一段とうまかった。是非、また食べたいと思った。

そこで少し考えた。網もやってみよう。せっかく誘ってもらったのだし、いい経験になる。どんな漁でもやってみよう。少し頑張り、朝飯前の仕事に、イワシ網漁をやってみよう、そう考えた。翌日Kさんに会ったときに、行きます、誘ってくださいと返事をし直した。しかし、その後、誘いはなかった。漁がなかったのである。そして私はトンゴロのことを忘れていた。しかし、Kさんは忘れてはいなかった。

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掛かったトンゴロを網から外す

 

1週間ほど経った12月の始め、朝6時半頃、Kさんがトンゴロの網を一緒に上げに行かないかと誘いに来てくれた。イワシ網の漁をやっているのはKさんの親戚で、油袋地区に住むSさんと、Nさん兄弟で、二人は真珠養殖業を営んでおり、漁と言っても遊びである。

イワシ網は、むかし野鳥を捕るのに使われていたカスミ網のような透明な細い糸で作られた、目の細かい網で、泳いできた魚はこの網の目に突っ込んで、つまり「刺さって」動けなくなってしまうので、刺網という。巻き網のように魚の行く手を塞ぎ、魚を閉じ込めすくい上げて獲る網もある。だが、磯近くに仕掛けタイやイサキなど比較的大きな魚を獲るもので、建網と呼ばれている、イワシ網よりずっと大きな目の網でも、やはり魚は網の目に頭から突っ込んで抜けられなくなって捕まるのであり、「刺さる」ということは同じである。しかし、イワシを捕る漁のことをとくに刺網漁と言うのである。

  この漁では掛ったイワシを網から外さなければならないが、イワシの数は多く、一人や二人ではとても外しきれない。Sさん、Nさん兄弟は、毎年、助っ人として、親戚であるKさん、他に、同じく親戚の家串のMさんに頼んでいたのである。家串と油袋にはお互いに親戚同士だというひとが沢山いる。そしてKさんが人手は多いほうがよいと考え、仕事を持たずに遊びで釣りをして暮らしている私を仲間に入れようと、誘ってくれたのである。

Kさんが誘いに来てくれたときには、目が覚めたばかりでまだ眠かったが、いいチャンスに出会えたと喜んでついて行くことにした。軽トラックがキーキー音を立てながら走った。ブレーキがかかったままではないかと聞くと、エンジンが古くなってVベルトが鳴っているのだという。着いた所はNさんの作業場だ。作業場の外の階段を下りたところに止めてある船外機船に、仕掛けてあるイワシ網を回収して入れるための大きなキャリーをのせ、網を仕掛けてあるという広浦に向けて出ようとすると、Nさんがガソリンが切れかかっているという。Kさんが、なくなったらケイタイを掛ければいいと言い、Nさんが別の船でガソリンを運ぶだけ無駄だと答えるなど、漫才よろしく掛け合いながら、ガソリンの入ったタンクも積んで、マダイ養殖を行なっている4列の生簀の前をとおって広浦に向かった。 今日は日曜日だけあって貸し舟の釣り客が多いようで、生簀に掛けて釣っている船が6〜7隻は見えた。家串唯一の川、ふだんは水がなく雨が降ったときにだけ水が流れる幅2m弱の沢は大川という名前であるが、ここの「広浦」も名前に反して奥行きが20m弱、巾が60から70mの小さな砂利浜だ。

網を手繰ると、細い糸に絡んだイワシがきらきら光りながら上がってきた。「余計おるなー」とKさん。所々にイワシの3倍ほどの大きさで、細長く尖った頭のカマスもかかっていた。カマスはイワシを食おうと追いかけてきて、一緒に網に刺さってしまうのだろう。網は100mの長さだというが、10分か15分で網上げは終わって船着場に戻り、養殖マダイの餌を入れるキャリー(およそ90×50×20cm)を2つ用意して氷水を張り、イワシを網から外してこの氷水に入れる。Kさんは、イワシを一匹一匹引っ張って網の目から外すのは面倒くさいと、網を振ってイワシを落す。私は周りで、網から振り落とされて散らばったイワシを拾って集め、キャリーの氷水に入れた。

網は海岸線に直角に張られ、一方の端は波打ち際に置かれていた。陸側、水深の浅い方にあったところには掛かっているイワシが少なく、深い方に多く掛かっていた。魚を外しながら数えてみると、端の10mか20mは別として、浅い方で長さ5mくらいの間に100匹ほどかかっていた。10mに200匹は掛かっていると思われた。そこから考えて、80〜90mほどの網には1500匹くらい、多ければ2000匹以上掛かっているのではないかと私は見積った。

数が多くて魚を外す作業に時間が掛かりそうだ。ぐずぐずしていては生きが悪くなってしまうというので、電話をして新たな助っ人を頼み、途中から8人になった。8人で1時間ほど魚外しをやった。キャリーで3ケース分あった。Kさんがその1つをもらった。帰る前にビールを飲んだ。私は飲酒運転はだめだといったが、間に合わなかった。Vベルトがキーキー音を立てる古トラックに、飲酒の運転手。怖かったが、歩いて帰るわけにもいかなかった。

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トンゴロのウロコを取り、干して保存する

もらってきた1ケース分のイワシは北條さん、伊井安さん、前田源さんに分けてあげることにした。トウゴロウイワシのウロコは硬くタワシでこする程度ではとれない。包丁かウロコ落しで、一匹一匹ウロコを取る必要がある。それから塩をまぶして少しおき、清水で洗って干すというのが一般的な保存のしかたである。もちろん他のイワシのように、手で裂き、皮を剥いて刺身で食べることもできるし、また塩焼きで食べるのもおいしい。しかし、沢山入手したときには、このようにいったん軽く干して、冷凍保存しておくと便利である。

Kさんは一休みしたら彼の作業場でウロコ落しをするから、一緒にやったらいいと言ってくれた。私は一休みしてから行くことにして、8時半から9時半頃までテレビの日曜討論を見ながら朝食。電話がかかったので、Kさんの作業場にいった。もう分配は終わっていて、私の分がおおまか150匹くらい残っていた。これを、20分ほど掛けて、うろこ落しをした。Kさんが塩をどっさり掛けてくれた。30分ほどおき、それを水洗いしてから網籠で半日干すという。Kさんはこのあと釣り客を乗せてグレ釣りにゆくという。私も釣りに行きたくなり、イワシを塩にまぶして置いておき、家に戻ってイワシを干す籠と釣りの道具をもってきて、イワシを水で洗って籠に入れKさんの作業場の前の岸壁に干したあと、釣りに出た。

少し天ぷらにしようと一部を生で残しておいたが、それはもって帰るのを忘れ、だめにしてしまったと思ったが、翌日、加藤さんの作業場によると、冷蔵庫の中にそれが入れてあった。そこでこれを夕方、塩コショウして小麦粉をまぶし、油で揚げた。13匹あって、半分Kさんにあげた。非常においしかった。

干したイワシは小分けして5個か6個の袋に入れて冷凍した。時々、数匹ずつ取り出して解凍し、直火であぶり、しょうゆを少しかけ、マヨネーズをつけて食べた。アルコールのつまみにももちろんいいだろうが、ご飯のおかずとしても非常においしい。また関東の友人に魚を送るときに一緒に入れて送り、喜ばれた。

どんな魚もそうだが、年によって、好不漁がある。また群れが回ってくる時期も変わる。この年はトウゴロウイワシは好漁に恵まれた。しかし、次の年は全く寄りつかず、網入れも行われなかった。2009年は12月中にはトウゴロウの姿は見えなかった。暮れに聞いてみると、トンゴロが寄ってないから網も入れないという。ところが3月になってからトンゴロが寄り、私が松山に戻っている間に、漁を行ったという。たしかにその数日か1週間くらい前に釣りをしていて、トンゴロだと思われる小魚のナブラを見た。そのときに、トンゴロが寄ってるが網はやらないのかと聞けばよかった。惜しいことをした。

来年はトンゴロは来るのだろうか。トンゴロは網から外すのと、ウロコ落しに手間がかかるが、半日干したものを冷凍しておくと1年半くらいの間は、何度も非常にうまいものを食べられることになる。またぜひ取りたい、取るときに仲間にいれてもらいたいと思う。  その後Kさんは本業のアコヤガイ養殖がうまくいかなくなり、ほかの仕事に就くために転出していった。私は、Nさんに私を直接誘ってほしいと頼んだが、イワシが寄るのと私が家串にいるときが一致せず、結局、トンゴロ漁は一回きりになってしまった。 (この文では人名を、頭文字のアルファベットで記したが、それは飲酒運転があったからである。)

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(3)ツワ菜(つわぶき)採り

08年4月のある日、源さんにツワナ採りに誘われた。ツワナ(ツワ菜)はツワブキの当地での呼び名であると思われた。空き地や道端など家串のあちこちに私はツワブキが生えているのを見た。私が昔よく行った三宅島でも釣り宿の庭に、あるいは磯に出る道のあちこちに生えていたし、松山でも近くの山に行けば見られる。だから私はツワブキは知っていた。
ツワブキはフキによく似た形の葉と葉柄を持っている。フキと比べ、ツワブキの葉は厚く、緑色が濃く、ツヤツヤとした光沢がある点が違う。その名前からも、私はツワブキはフキの一種または近縁種だと思っていた。確かに、両者はキク科に属するという。しかし、ウィキペディアでは「生物学的違いは大きい」と言い、ツワブキがフキの仲間だとは書いていない。

ツワブキ 私はツワブキを見ればそれがツワブキであるとわかる程度には知っていたが、ツワブキが食べられるということは知らなかった。フキは畑でも栽培されているし、八百屋で売っている。しかしツワブキはその葉も茎もいかにも野生の植物らしく見える。しかし、源さんによれば、同じように食べられるしフキよりもうまいという。

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ツワナを採る

  ツワブキを採りに行く前日、伊井安さんに会ったときにその話をすると、両手で一握りも採れば十分だと言われていたが、当日は、松山の生協で買った布製の大きな買い物袋をもって出かけた。
                   午後1時半ごろ、小学校の校庭の脇からまっすぐに30〜40m裏山を登ったところから始めて、採りながら上に上がっていった。茎がつるつるしたものでなく、毛で覆われているものが新芽だから、茎を見て採るとよいと源さんに教わる。生えてきたばかりらしく、葉がまだ小さく、全体が毛で覆われたものがあり、それもターゲットにする。急斜面で、ところどころ土でなく岩が細かに砕けたものが集まっていたりして足場は悪かったが、ツワブキはかたまって生えていて、広範囲に動き回る必要はなかった。1時間ほどで、両手で掴んで一握り分くらい取れた。慣れている源さんはその倍近く採っていた。

海が見えたら写真を撮ろうとカメラを持ってきたが、周囲は木立で、海はちらっとしか見えず、カメラの出番はなかった。帰りはそこからさらに少し上って、南はエビス崎に、北は半島の頂上へと至る、標高100mほどの尾根筋に出、山道を少し行くと「ウネの松」のある十字路にきた。ここを右に行けば平碆に、左に行けば家串になる。源さんが子供のころは、毎日人が往来していたという。ここにくるまでの途中何本かのツツジが赤い花を咲かせていた。源さんによれば、昔よりもツツジが減り、ウバメガシが増えたという。植物相の遷移に伴う現象なのか、あるいは温暖化と関係があるのか。源さんは、ツツジは花が咲く。ツツジが減るのはさびしいという。十字路を左に曲がり、「家平歩行者トンネル」の家串側出口の脇に下りた。

歩道トンネルの上には、源さんが手入れをしているサクラの木が20本ほど植わっている。これは浅野藤吉郎さんが植えたものだと言う。また源さんはサクラの木の下にツワナを植えているという。彼は、このトンネルの上の斜面全体にツワナを植えるつもりだという。ツワナは食べられるだけでなく、秋には黄色い花を咲かせるから。また葉が広く、雑草が生えないから。種で自然にも生えるが、根を持っていって植えるのだという。(この文を書いたのは2008年。2015年現在のこの場所の様子については、第一部第2章「曳釣り」の中の「源さんが平成期の村の遺産を残す」でふれている

源さんの家に着くと3時くらいだった。奥さんがツワナのゆで方を紙に書いてくれた。源さんに、明朝、凪なら一緒に釣りに行きましょうと言って別れた。大川の河口のところでヤッサン(伊井安さん)に会った。私が、取ったツワブキをこれから湯通しして皮をむくというと、蜜柑の汁に指をつけながら皮をむくと指があくで黒くならずに済むと教えてくれた。彼は「フキとツワナ(ツワ菜)の2種類があり、ツワブキではなくツワナだ」と言った。

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ツワ菜をゆで、料理して食べる

家に戻って、源さんの奥さんの書いてくれたレシピにしたがって、ツワナを茹でた。

「1.大きな鍋にたっぷりの水を入れ、沸騰したら、20秒くらい湯の中に入れ、別の器に水を入れ、皮をむいたツワナをさらす。  「2.1.で使ったお湯を捨てないで、皮をむいたツワナを入れて、ふっとうして2、3分 ゆがく。後は取り出して水にさらす。」

実際には、ツワナの長い茎が入る鍋がなく、始めは長い菜箸で茎を曲げて、全部お湯の中に入れようとしたが、茎は意外に固く、菜箸では曲がらないので、一握りずつ入れたツワナの片側だけお湯に入れ、20ほど数を数えたら、外に出ていた反対側を浸すと言う具合にした。半分に切ってからやればよかったと、後で思った。湯通ししたものを水に浸け、また次の一握りを湯に入れた。全部お湯に通してから皮を剥いた。これはレシピの1.とは違っている。しかし、茹でたての茎は熱くて皮をむくことはできす、いったん、水にさらして冷ましてから剥かざるをえなかったのだ。

皮がスムーズには剥けず、途中で千切れてしまったり、細く筋状に残った皮が剥きにくかったりで、30分ほどやっても、30本くらいしか剥けない。源さんの奥さんが書いてくれたレシピと違っていたせいかと思った。けっきょく、どうしても剥けないものは20本ほどすてたが、それでも2時間近くかかった。途中で、もうやめようかと何度か考えたが、すぐに捨てるのはもったいないと思い、がんばった。

たぶん、風の強い日に木から落ちたのだろうが、1ヶ月近く前から、甘夏蜜柑が一個、寝室東側の窓の下に転がっていた。これを拾ってきて二つに切って絞り、その汁をおわんに入れておいて、時々指先をこの汁に漬けながら、皮をむいた。

こうして湯掻いて下ごしらえをしたツワブキ10数本分を油揚げと一緒に甘辛く煮付けて夕食に食べた。久しぶりに食べたフキであり、しかも、自分で採ったものである。市販のフキよりも少し癖が強かったが、山菜料理を食べているという実感がして、うまかった。

皮がむけないものと、比較的楽にきれいにむけるものがあって、茎全体が緑色のもの、あるいは茎の上のほうの緑の部分がやや剥きやすく、茎全体がむらさき色のもの、こげ茶色の根に近い部分が剥きにくい傾向が少し強かったが、はっきりせず、茹でた時間の長さで、皮のむきやすさが決まるのか、あるいは、そもそもレシピの1.のとおりに茹でてすぐに皮を剥かず、いったん、水に浸けて冷ましたのがまずかったのか、などと考えたりした。この点をあとで源さんの奥さんに聞いてみると、皮がむきにくいのは結構あり、剥きにくければ捨ててしまうという。そんなものかと思った。(源さんはそのことを知っているのだろうか。)また、一晩くらい水にさらして十分に灰汁を抜いてから食べたほうが良いといわれたので、残り(その多くは松山に持って帰るつもり)は再度水に漬けた。

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フキとツワブキとツワ菜

安さん(ヤッサン)はフキとツワナ(ツワ菜)の2種類があると言い、ツワ菜はフキではないと言う。『平凡社大百科事典』には、フキとツワブキの2項目で載っていて、「ツワナ」はないが、ツワナは、ツワブキの地方名だろう。ツワブキとフキはキク科の植物だが属が別だと書かれている。私はフキとツワブキ(あるいはツワナ)は同じ科の、仲間の植物だと思っているのだが、伊井さんが「ツワナはフキではない」と言うのは、ツワナ(つまりツワブキ)とフキは、仲間ではないうことなのだろうと考えた。私は、外観も、味も食感も、フキとツワナ(ツワブキ)はよく似た植物だと思う。フキとツワブキの違いは、ウドとヤマウドの違いと同じようなもので、食べた時に前者に比べ後者は少しクセが強い。それは野生の要素が強いからだと言いたい。フキは里山など、比較的土の層が厚く、穏やかな天候、気候のところに育つのに対して、ツワブキは、半島や島の海岸など、栄養分の少ない土地で、強い日差しや雨風にさらされる場所に育つ。ツワブキは荒々しい自然に耐えて生き抜くだけの強さが必要で、それが「クセ」のもとなのではないかと思う。

2010年5月3日NHKテレビで下甑島に移住した10人の大家族(子供が8人)の話を放映していた。このなかでツワブキを、葉を取ってすぐつまり生の時に皮を剥き、それから茹でていた。島では、これを保存食にするため、茹でた後、天日で干す。食べるときに、茹でて戻して、煮物などにするという。ぜんまいと同じである。この次は、この甑島方式でやってみようと思う。

 私の家の敷地の一段上の畑は堀田さんの土地で広さは70〜80坪か。その半分に数本の甘夏、柿などの木が植わっている。堀田さんの畑の上の段は北條さんの土地で、ここにも甘夏の木が数本植えられている。

2008年6月、北條さんのお母さん----80歳近いが元気で、息子夫婦のアコヤ貝養殖の仕事を手伝っている-----が草取りをしていて、よかったらフキを食べてくださいという。甘夏の木の下によく育った大きなフキが生えていたので、ありがたく頂くことにし、20本くらい刈り取った。これはすぐにゆで、下の太いほうから皮を剥いた。前回、源さんと一緒に山で採ったツワブキは上の細いほうから皮を剥いたが剥きにくく、ずいぶん時間がかかったが、今回は簡単に皮が剥けすぐに終わった。

ツワブキも太いほうから皮を剥くということを、あの後、しばらく経ってから、源さんから聞いた。だが、そもそも私は、なぜ、まったく当然のように、細いほうから剥き、反対に下からやってみようとは思わなかったのだろうか。考えてみたら、カワハギ,イワシ,アジなどの魚の皮を剥ぐときには、包丁を使わずに、手で、頭のほうから剥ぐ。フキの場合にも、無意識に、魚の場合と同様、「頭の方から」剥ぐものだと思い込んでいたのではないかという気がする。

一人で暮らしている北條さんのお母さんは、息子の重治さんの仕事を手伝っているので忙しく、ミカンやフキを自分で取って食べる気にはならないと言う。翌日、農協で買った鳥肉を入れてフキの煮物を作ったので持って行ってあげた。

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(4)ナガレコ採り

2009年5月下旬、大潮周りのある日の午後、柳本さんの奥さんがカゴにカメノテ(この辺ではセと呼ぶ)とトコブシのいっぱい入ったタライを抱えて歩いているのに出会った。聞くと、塩子島で採ったという。塩子島は家串湾の西に突き出た半島の一部、マメソ(豆磯)の先に、浅瀬を挟んで横たわる南北500mほどの大きな島である。家串湾の奥からは2キロ半から3キロの距離である。


写真は塩子島。手前は家串湾で、アコヤ貝養殖筏の玉ウキが見える。

宇和島から愛南町にかけての南予の海域では、大潮回りの時は昼ごろに干潮(低潮)となる。柳本さんが取ったのは時間にして2、3時間。飽きてやめたという。トコブシは長径が5〜6センチで、大きくはないが、数はぱっと見ただけだが50個くらいはあった。

私が「あー、トコブシだ。ずいぶん採りましたねえ」というと、彼女はトコブシではなくナガレコだという。外見では私が知っているトコブシとどう違うか分からなかった。私は東京にいた頃イシダイ釣りをやっていて、イシダイ釣りに使う餌としてアワビやトコブシを繰り返し手にしていたからアワビとトコブシの区別はできる。
貝殻上に一列に並んだ呼吸口が、トコブシはアワビと違い突き出ていない。アワビ、トコブシについては全くの素人ではない。 しかし、その眼で見ても、今見ているナガレコは形の上ではトコブシとなんら違わない。トコブシを関西ではナガレコと言うとどこかで読んだこともある。『食材魚貝大百科』A貝類、魚類(平凡社1999)では、ナガレコはトコブシの「別名」だと書いている。単に標準和名と地方名との違いなのだろうか。









左はトコブシ。右はアワビとトコブシを横から見た写真で、上の三つは種類の異なるアワビ。一番下の写真がトコブシ。トコブシの貝殻には呼吸口が突き出ていないのがわかる。いずれも牟岐漁協のHP,www.mugi.or.jp による。



東京にいた頃、千葉の海で、ほんの数個だがサザエをとったことがある。サザエは、干潮時、腰まで浸かれば取れる深さのところにいた。千葉の漁師は、もっと深いところにいて、たとえば、魚を獲るために仕掛けた網にサザエが掛っている。海底に近いところに掛かっているのでなく、もっと上の網の中ほどのところに掛かっていて、サザエは泳ぐのだという。もちろん海底を歩く(這う)こともできるが、歩くだけでは移動できる範囲は狭くなってしまう。サザエは泳いで、浅いところと深いところをいったりきたりするのだ。
他方、トコブシは、浅いところにはいない。人間がもぐって泳がなければ取れない深さのところにいるのだと聞いていた。
サザエは千葉でとったことがあったが、トコブシは関東ではとったことがなかった。

第一部第三章イシダイ釣りの中で、房総、勝浦では、夜、港のテトラの間でマガニを獲ったことを書いたが、渡船の船頭で、イシダイは、サザエよりもマガニ(船頭はイソッピと呼んでいた)のほうがよく釣れると言う人もいた。マガニは比較的取りやすく、釣りに行った先で時間が余れば、必ず、マガニを探した。


左は千葉や湘南の海に生息するマガニ。写真はlivedoorブログ「笑う門には〜体感ショック」2010/9/14「私一押しの石鯛餌・マガニ」より転載。



『学研生物図鑑』(学習研究社、1983)で標準名を調べてみると、房総にいる赤みを帯びたものはショウジンガニで、三宅島にいるものはこれより甲が少し大きく厚みがあり緑色がかっている。イボショウジンガニだと思われる。 海岸ならどこにでもいるイソガニとは違って、マガニは干潮(低潮)時、海面よりちょっと低い、岩の割れ目などにいるので水の中に入らないと獲れない。
私は、釣りの最中でも、干潮になり、潮が全然動かず、全く釣れそうもないとき(これは決して断言できないことなのだが)腰まで海に浸かって、岩の割れ目、磯のえぐれている下側などを、軍手をはめた手で探ってマガニを獲った。いっぺんに3、4匹つかめることもある。10匹20匹すぐに獲れた。家に持ち帰って食べたことはないが、割って味噌汁に入れると、イセエビと同じくらいかそれ以上にうまい、とも言う。
イシダイ釣りで竿を2本出す時には、一方にサザエやトコブシをつけ、もう一方にマガニをつけた。朝早く、30匹も取れれば、他の餌がなくても、それだけで一日イシダイ釣りができる。内房金谷の明鐘岬の磯でも、城ヶ島の先端・猪ノ子島でも、三宅島のアカバッキョウでも、愛媛の西海・高茂岬の下のミノコシでも、沢山取れた。磯で生き物を獲ることは釣りと同様非常に面白い。

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中学時代、親の漁を手伝った源さん、水泳も素潜りも得意

2、3年前、源さんと一緒に海に潜った。素潜りである。源さんは潜るのが得意で、5m以上の深さのところまで潜れる。

彼は家串で昭和17年(1942)に生まれ、中学卒業後大阪に行って就職した。兄と弟がいたが、彼が一番身体が丈夫だったせいもあり、子どもの頃、彼がお父さんの手伝いをした。お父さんの本職は大工であったが、ふだんは、家串の他の人々と同様、農漁業の兼業でやり、源さんは山の段々畑の畑仕事と、海の漁の両方を手伝った。お父さんは、海では、たて網によるイサギ取りを専門にしていた。ヤンマーの15馬力のエンジンをつけた船で、家串から8キロほど先の由良の鼻まで1時間も掛かって行った。(私の船で20ノットで行くと、15分ほどである。)漁場ではエンジンを使わず、舵を上げて、櫓でこぎながら網入れの場所を決める。源さんが漕がされた。「押せ、引け」という風に言われる。一丁櫓を押せば、船は右に曲がる(面舵)、櫓を引けば、船は左に曲がる(とり舵)。いろいろな魚が取れて、畑仕事よりも、ずっと楽しかった

ときどき、網が船のスクリューに絡んだ。海に飛び込み、船底に潜って網を外すのは彼の仕事だった。夏は気持ちがよい。冬の海は冷たく、1時間も海の中に入っていると体がしびれてくる。網を外すには時間がかかった。家串湾から出たところにあるクロハエの近くで網が絡んだときは、北西風で、内泊(クロハエから12〜3キロくらい)まで流され、一泊してから帰ってきたこともある。冬の海でからんだ網を外すのは辛い仕事だった。こんな風にしごかれて、彼が海に強くなり、潜りも得意になったということは確かだ。彼は始めの頃なんどか私をさそってくれたが、もぐりが下手で、私が消極的であることが分ってから、めったに彼のほうから誘わなくなったが、夏になると一人で、しょっちゅう潜って、シッタカ(尻高)などを採って、遊んでいる。夏の昼間の釣りは非常に暑い。それより、海に潜って遊ぶほうがずっといい、という。

私は泳ぐことは泳げる。プールでなら、ひどく遅いが1000m以上続けて泳ぐことができる。(この文を書いたのは65歳の時である。)足の届かない深い海は怖い。しかし、なぎのとき底が見えるていどのところでなら、船の周囲を泳ぎ回るくらいは平気である。家串に来てから買ったシュノーケルの使い方も下手で、せいぜい2m程度しかもぐれない。水中眼鏡をかけ、シュノーケルで息をしながら海面をゆっくり泳ぎ、浅い海の底を覗くのはとても楽しいが、何かを取ろうと思って潜るのは難しい。

07年の夏、1時間ほど塩子島で源さんと遊んだ時、トコブシかサザエがないかと目を凝らし何度も息を止めてもぐった。慣れないとトコブシの貝殻の色を岩肌から区別するのが難しい。私は一応識別はできる。このときは長さが4センチ程度の小さなものを3個みつけて採った。しかし、海底にある石を起こしてその下は見ることはしなかった。見たのは大きな岩の側面だけである。

トコブシはさっと茹でてわさび醤油で食べるとおいしい。しかし小さなものを2つや3つでは、物足りない。もっと採りたいと思っていた。浅いところで簡単に採れるなら、ぜひ採ってみたいと思った。

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ナガレコとトコブシは違う?

家串の何人かに聴いてみると、棲む(あるいは採れる)場所の違いで区別していることがわかった。ナガレコは浅瀬の石の下にいるが、トコブシは深いところにある岩のくぼみについているという。ナガレコと呼ぶ理由も分かった。トコブシは岩にしっかりとついていて、手でとることは難しい。棒の先についた鈎などで引っ掛けてはがすのだが、やりそこねるとがっちりと岩にへばりついてしまう。ところが、私も実際にやってみてよくわかったが、浅瀬の石を起こした時に、ナガレコは自分で石から離れて水の中に沈む。ゆらゆらと斜めに沈んで、「流れる」のである。

柳本さんは、ナガレコはせいぜいで長靴に水が入るか入らないかというくらいの浅瀬の、石の下に着いている。石を起こせば採れるという。生物種として別なものなのか。それとも、同じトコブシで、潮間帯より深いところで岩についている(石の下にもいるかもしれない)ものと、より浅いところに来て石の下に付いているものとがあるというだけのことなのか。同じトコブシが、動かない岩に着いているときに自分だけが動かされ(剥ぎ取られ)ようとしたら、しがみつき、自分が着いている石ないし岩全体が動いたら、自分から、そこから離れようとするのだろうか。これは試していないのでわからない。

素人の私だが、進化論的に、異なる習性をもつトコブシがいることを説明できるように思われる。岩に着いている貝はもともと引きはがされようとしたら、強くへばりつく習性を持っている。イシダイのような魚につつかれたときに身を守るためには岩にへばりつかねばならない。また台風など大きな波が来るときにも岩にしがみついている必要がある。八丈島にはトコブシはいるがサザエはいない。その理由は八丈島では本州に比べ台風時の波が激しいが、トコブシやアワビは殻高が低くまた足(腹足)の面積が広いため岩などにへばりつく力が強く、強い波に耐えられるが、殻高が高く足の面積が小さなサザエは波により剥がされやすく、海中でもまれ「目が回って」死んでしまうからだ、という話も聞いたことがある。

トコブシは基本的に岩にへばりつく性質を持っている。浅瀬に移動して棲んだトコブシも石にしがみついているだろう。しかし、たまたま、石が動かされときに石から離れて流れてしまう個体があったとする。一方、ひざくらいまでの浅瀬で貝を採る人は多いが、それより深いところで、体全体を水に浸けて、あるいは潜ってまで採る人は少ない。浅瀬で、石が起こされても石にへばりついたままなら、人間は、道具を持っているから、まず間違いなく取られてしまう。つまり生き残れない、しかし、石から離れて流れてしまうと、見失われたり、深いほうに沈んだりすることで、生き残ることが多い。こうして浅瀬のトコブシは「流れる」もののほうが、生存確率が高い。子孫は次第に「流れる」ものの数が増えることになる。こうして浅瀬に棲むトコブシは「流れる」ようになった。そのように考えられるとすると、ナガレコとトコブシは同じ種類の貝なのではなく、つまり、ナガレコはトコブシの別名なのではなく、亜種、もしくは変種ということになる、と書いたところで、ウィキペディアを見たら、そもそもトコブシはフクトコブシという種の亜種なのだという。ただし、種と亜種とを分ける明確な基準はない、ともいう。

ところで、2011.10.9「愛媛新聞」に次のような記事が載っていた。世界中で伊豆諸島の鳥島と尖閣諸島にしかいない国の特別天然記念物アホウドリ、これまで1種類だと考えられてきたが、遺伝子の大きな違いがある二つの集団があることが分った。専門家は「二つは見た目はほぼ同じだが、繁殖期の求愛ダンスの踊り方や体の大きさに多少の違いがあるとの観察結果もあり、今後別の種類として扱われる可能性もある」と話しているという。

この記事を読むと、外見上よく似た生物が同一の種であるかどうかは簡単にはわからないということになる。深場のトコブシと浅場のトコブシにも遺伝子の違いがあるかもしれない。そして後者は独立した(亜種の)亜種、あるいは(亜種の)変種で「ナガレコ」ということになるかもしれない。しかし、これは研究者に任せておけばよいことだ。重要なことは、海に潜らなくても、トコブシあるいはそれと外見的に全く同じような貝を採ることができるということだ。とにかく私は行くことにした。

柳本さんによれば、ナガレコは春の大潮の干潮時には、水深20センチか30センチまでのところでいくらでも取れるという。しかし、今年はもう遅い。来年だ。来年の春、しっかり潮時表を見て、行かなければなるまい。もちろん食べるのが目的だ。しかし、たくさん取れたら、目の細かいネットに入れて生かしておき、イシダイ釣りの餌にもつかえる。これはたのしみだ。(これはほとんど狸の皮と同様の期待のしすぎだったが。)

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塩子島に渡る


翌年2010年4月下旬、源さんに、ナガレコを採りに行かないかと切り出すと、彼は風邪が治ったばかりで、まだ水に浸かりたくないと言う。柳本さんの奥さんの話しでは長靴に水が入るかどうかくらいの深さで取れるそうだと話すと、それじゃあぜひということになった。彼は、大阪のサラリーマン時代、休日に、日本海に遊びに行き、子どもの頃に取った杵柄を使って、サザエを沢山採った。彼もナガレコ採りはやったことがなく、やってみたかったという。最初は29日に行く積りで、昼12時に凪を見て迎えにくるからと源さんに話しておいた。しかし、29日は、朝、強風波浪注意報が出ていた。昼まで名切で釣りをしながら風が収まるのを待ったが、結局収まらず、もう一日待つことにした。そして、今日30日になった。大潮の4日目で、干潮は1時ごろ。

朝から、よい凪だ。8時半くらいに出漁。しかし、水温は16.5℃、潮は暗く、魚は全く釣れない。11時半くらいに釣りを終わりにした。手元にお金がなくては連休中に困ると思い郵便局に行って5万円下ろし、また、農協の売店でバナナと食パンと大根を買った。農協の家串の売店は、5月1日と2日は営業、3日は休み。4日と5日は平碆の店が営業、と張り紙がしてあった。バナナは、今日、昼食代わりに船の上で食べる積り。少し早いが12時に源さんを呼びにいった。

船で行って島に上がるのは簡単ではない。船の止め方と上陸の仕方は次のようにしようと考えた。底が砂になっているところを選び、沖にアンカーを打っておいて、ゆっくり波打ち際に寄せ、濡れずに上陸できるすれすれのところで、源さんに先に下りてもらい、舳先から伸ばしたロープを陸で持っていてもらう。アンカー・ロープを引いて船を波打ち際から離し、私はウェットスーツで水に入って上陸する。帰りは私が先に水に入って船に乗り、アンカーロープを緩め、陸側のロープを引いてもらって船を岸に近づけ源さんに乗ってもらう。

だが、塩子島に近づいたとき、沖にアンカーを打つ代わりに、平碆の人が打ったという常錨(=アンカーを入れっぱなしにし、いつでも船を掛けられるようにロープの端に目印のブイをつけておく)に船尾から出したロープを結んで、それを伸ばしたほうが楽だと分かった。しかし、岸に船を近づけても、船底がこすれそうで、濡れない場所に人を下ろすのはなかなか難しい。源さんの提案で、岸にある岩に船を近づけ、岩の上におりてもらうことにして、なんとかうまくいった。

潮干狩りをしている途中まだ潮が引いていて、船の底が岩に当たっているらしいというので、陸側のロープの方向を変えた。波がなかったので、多少岩に当たっても船が傷むことはなかった。

上陸したのは、北側の端。南側の岩や石の多いほうに船外機船が一隻止まっていて、そちらのほうがナガレコを取るのにいいのではないかと源さんがいうので、歩いて南のほうに行った。そして源さんは膝までの長靴に水が入らないところで、私はウェットスーツなので腰まで浸かるところで、岩や大きい石を起こして探したが、なかなか見つからない。源さんが浅いところで5、6個見つけたが、私は小さなものが2つ。付着物のないすべすべのほうが上になっている岩が多くあり、すでに一度岩を起こして探した形跡があった。潮間帯の岩は上側に海藻やフジツボなどがついている。下側はなめらかで、そこにウニや、シッタカ、ナガレコなどがついているのだ。

さっぱり採れないので、北側の磯にもどることにした。途中で源さんはカメノテを採り始めた。しかし、カメノテは岩の上のほうにあって、潮が引いてないときでも採れる。先にナガレコを採りましょう、と私が言って、彼もそうだね、と波うち際に移った。

島の北側は、裏返しにされた石もあったが、上にびっしり海藻がついているものがほとんどで、私は、間もなく、大き目のナガレコを幾つも採ることができた。ウニの棘が右手の人差し指に刺さり、痛かった----後でみたら、折れた棘の先が指に刺さったままだった-----が、がまんして一生懸命石起しをやった。ここで12〜3個採ることができた。シッタカも籠に入れた。岩についているアサリもいくつか採った。また真っ赤なきれいなカイメン(源さんはサンゴだと言う)がたくさんついている岩があり、私はこぶしほどのものを一塊採取した。

2時間半ほど、水に浸かりながら、岩を起す作業を続けた。飲み水を入れたPBは船の上においたままで一滴も呑まず、上陸前におやつに大福を一つ、バナナを一本食べただけだった。喉がかわいたせいか空腹からか、疲れを感じたので終ることにした。

私が腰まで水に入ってちょっと離れた岩まで渡り、ロープを引いて船を近づけ、岩の上からまず私が乗り、沖のロープの長さを調節して、陸から源さんが乗りやすい位置に船を移動した。彼は舳先につかまり、私が引っ張って力を貸し、うまく濡れずに乗ることができた。

ナガレコもたくさんではなかったが、二人とも15〜6個取れた。ウニの棘が刺さったことを除けば怪我もせず、ほぼ、考えたとおりの磯遊びをすることができた。

翌日、柳本さんの奥さんに会い、塩子島にナガレコ採りにいってきたことを話した。私と源さんで15個くらいずつだったと言うと「少ないね、水の中に入るのよ」と去年とは少し違うことを言う。私がウェットスーツで腰まで浸かって採ったと言うと、「先々週の潮のときだったか、その前の潮のときだったか、織田の長治さんらが行って、100も採ったというよ」と言う。「うーん、確かに取った後らしいと感じました」。「もっと早く行くのよ。3月か4月に」。「なるほど。じゃあ、来年はもっと早く行ってみます」と返事をして分かれた。昨日は晴れて気温が21度くらいになって、ウェットスーツを着ていれば冷たくなかった。しかし、3月末ではまだ寒いのではないだろうか。水温も16℃程度だろう。一方、昨日少しだが採れたことで、ある程度満足したという気もする。来年は来年で、ケセラセラだ。

採ったトコブシは、長径が4〜5センチまでの小さなものが12〜3個、それより大きいものが3個あった。一番大きなものを1個刺身にすることにし、残りはシッタカやカメノテなどとともに、酒を入れて蒸した。その日の夕食に、刺身の1個と、酒蒸しにしたトコブシの大きなものを2つ食べた。翌日、残りの半数を食べ、その2〜3日後に残りを食べた。私は、アルコールは食前酒としてちょっと飲む程度で、ワインなら小さなグラスで一杯、日本酒ならコップ一杯でやめる。30代のころ酒のつまみにスルメや裂きイカが合うということを知った。そして、スルメや裂きイカをつまみに食べながら、毎晩のように寝酒をしていたら、アルコール依存症にもなりかかったが、また、胃も悪くして医者に行った。蒸したトコブシは、もちろんスルメほど硬くはなく、しかも噛んでいるとジワーッとうまみが出てくる。1日目はトコブシのせいでアルコールの量がいつもより多くなってしまい、翌朝、少し頭が重かった。

去年も食べたが、何年かぶりに食べたのに、小さく少ししかなかったせいであろう、食味がどうであったか全く覚えていない。今年は、久しぶりにトコブシをタップリ食べたと感じた。サザエは海辺の旅館やホテルに泊まればどこででも食べられる。私が泊まるような安宿では、アワビはめったに食べられないが、トコブシもどこででも食べられるわけではない。しかし、私は伊豆七島の釣り宿などに泊まったときに時々トコブシを食べた。また、イシダイ釣りに行った折、行った先で餌用に買ったトコブシやサザエがあまったときに持って帰って食べた。サザエはつぼ焼きはうまいが、刺身はたいしたことがないと私は感じる。ホタテガイの貝柱の刺身は柔らかくうまい。また赤貝はもっとうまい。それらと比べて、トコブシは刺身も酒蒸しも煮つけも、少し硬いが、しこしこした身を噛んでいると、こくのあるうまさが口の中にじっくりと広がってくる。私は貝のなかでは最上級の部類に入ると思う。アワビはトコブシよりももっとずっとうまいが、これは、めったに食べられないし、たっぷり食べるわけにはいかない。

家串で食べるトコブシ(ナガレコ)は、自分の船で島に渡り、ウェットスーツを着て、つまり本格的な磯遊びの格好をして採ったものだけに、なおさら、そのうまさを強く感じた。

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(5)ホンダワラと藻塩

家串周辺では、1年中モイカがよく釣れる。夏から秋に掛けてはエギングあるいは曳き釣りで小型から中型が、冬には小アジなどの生き餌をつけて1キロ以上の良型が、春には同じく生き餌で2キロあるいはそれ以上の大型が釣れる。晩秋から翌春にかけてが、型のよいモイカの数釣りの時期である。家串の多くの男がモイカ釣りに熱中し、また互いに腕を競う。誰がイカ釣りがうまいか、昨日は誰がたくさん釣ったか、農協の売店で、あるいは道端で、男ばかりでなく、奥さん連中も2〜3人が会えば、話題にするほどだ。

モイカの標準和名はアオリイカであり、南予でモイカと呼ぶのは藻=ホンダワラの多いところにこのイカが産卵のために寄ってくるからで、家串湾や須の川灘にはホンダワラが繁茂する場所が多い。この藻は小石の浜であれ、岩場であれ、アコヤガイ養殖筏のロープであれ、あらゆるところに生え、アコヤガイ養殖作業の邪魔になり、あるいは桟橋に船を発着させたり、付近を通行したりする妨げになる。

海藻の多くは食用になる。伝統的な食生活の中では50種類に及ぶ海藻が食用にされ、量的にもたくさん食べられていたという。しかし、ホンダワラは昔から、常食されていなかったようで、凶作のときなどの救荒食として用いられただけだという(前出『海藻の食文化』)。

写真はホンダワラ、livedoor blog.「photo2014海藻名前のため」より借用



私も4月末か5月には必ず1回か2回、ふだん係留している船の周囲にびっしりとついた藻をボートフックに引っ掛けて刈り取り、船に山積みにして「ゴミステバ」(古くなった養殖用生簀が湾の奥に1台あって、海の生ゴミともいうべき海藻などを捨てるようにしてある)に運んで捨てる。船からゴミステバの中に投げ込むときにはどうしても両手を使って抱きかかえるようにしてから投げなければならず、濡れるので合羽を着てやるが、これを終えると全身汗でびしょびしょになる。そして重労働なので、たいてい、2、3日筋肉痛に襲われる。

釣りをするために真珠筏に船を掛けることが多いが、春、バックの時などペラの回転数の低い状態で繁茂するホンダワラの中に船が突っ込むと、ペラに藻が絡みついてエンジンが止まってしまう。大量のホンダワラがペラに硬く巻きつき、ドライブを上げて、包丁のようなもので少しずつ切って取り除かなければならず、大汗をかくことになる。

イカの産卵場となり、真珠貝養殖作業の、また、船の航行の妨げとなる藻=ホンダワラは、藻塩という特殊な塩を作る際に使われる。春の一時期、真珠作業の合間に組合員によって刈り取られたホンダワラは、作業小屋周辺、農道などさまざまなところに張ったロープにかけられ、1週間ほどの間、干されてから、藻塩を作っている会社に向けて出荷される。
北條さんは2015年には、一袋4キログラム入りのホンダワラを70袋出荷したという。干したホンダワラはキロ350円、一袋1400円。しかし相当な量を刈り取って、干さねばならない。今年は100袋出すつもりだという。2月ごろから、丸太を組み合わせた筏(「木枠」という)の上に厚板を張り、その上に柱を立てて、ロープを張れるようにした。ここにホンダワラを干すのである。彼は「10年は持つ」という。 ホンダワラは、丸2日は乾かす必要がある。天気予報で2日は晴れるという前に刈りとって、ロープに掛ける。 沖の真珠筏のロープに着く藻の方が、固く、きれいで、湾の奥のもの(汚れており、ちぎれやすい)よりも良い。

藻塩はホンダワラなどの「海草に潮水を注ぎかけて塩分を多く含ませ、これを焼いて水に溶かし、その上澄みを釜で煮つめて製した塩」である(『広辞苑』)。しばらく前、たまたま見たテレビ番組によると、こうしたやりかたは万葉時代の一般的な製塩法で、瀬戸内海を保護することを目指す広島県のある環境グループの手で再現された。最近はこの塩を販売目的で(大量に)生産するようになったらしく、家串の(アコヤ貝養殖の)生産組合にホンダワラの注文が来るのだという。

海水から塩を作る過程は、海水を濃縮して鹹水カンスイを作る過程と、鹹水を煮沸する煎熬センゴウ過程に分けられる。後者は土器(弥生、古墳時代)あるいは塩釜で行う。前者には、藻塩焼き(古代)、あるいは塩田法(1950年代まで行われた)があり、藻塩焼きは「実態はあきらかではないが、おそらく、海藻に海水をかけて鹹水を作るか、海水をかけた海藻をいったん焼いて、その灰を海水に溶かして鹹水を作ったと思われる」と、秋道智彌 はいう。「瀬戸内の生態学――瀬戸内の漁撈と製塩――」『瀬戸内の海人文化』<海と列島文化>(小学館、1991)

塩水を長時間煮沸するためには大量の燃料を必要とする。燃料を調達する山々は「塩山」、「塩木山」などと呼ばれた。とくに松葉、松薪が用いられた。一昼夜、一つの釜を焚くのに、40トンの松葉が必要だった。沿岸諸藩は山林の保護・管理、薪の流通の整備に力を入れた。

元禄時代ごろから、「燃え石」=石炭も利用されるようになった。『瀬戸内の海人文化』添付、月報「海と列島文化」によると、塩浜が登場するのは奈良時代以降で平安時代に発展した。赤穂には50ヘクタールもの塩田があったことが記録されている。大量に塩が生産されるようになり、木が切りつくされ、まきが不足し燃料代が高騰して、石炭を北九州からはこぶようになった。北九州の石炭業が発展したのは瀬戸内の塩田で石炭を使うようになった18世紀後半以降から、というのが通説になっている。明治20年に、石炭使用量の51%は塩田での使用であった。

柳哲雄「白砂青松の景観」『ジ・アース』第8巻(90年3月)によると、瀬戸内海に広く見られる白砂青松の景観は祖先の環境破壊の結果造られた景観だという。縄文時代の瀬戸内海沿岸ではナラ、カシといった広葉樹が生い茂っていた。中世から近代にかけて瀬戸内海の主要産業のひとつであった製塩業がそのような景観を一変させてしまった。

基本的な方法は---濃厚な塩水(鹹水)を釜で煮詰めて結晶塩を得るというもの。この方法の最終段階で海水を煮詰める燃料として瀬戸内海の島々や沿岸の広葉樹が切り倒されていった。---江戸時代には瀬戸内海の塩の生産量は全国の9割を占めた。その結果、瀬戸内海の島々、中国、四国地方の山々は裸山となり、地面に露出した花崗岩は雨や風で風化し、白い砂となって山から流出して、海岸線に沿って砂浜を形成した。また裸になった山々や海岸の土地にはやせた貧栄養の土地でも育ち、種子が風で飛ばされる繁殖力の旺盛な松が優先して育っていった。白砂青松の景観は中世から近世にかけての、沿岸の人々の生産活動の結果として作り出された。

戦後、イオン交換樹脂膜製塩法の登場で、昭和46年には鹹水を得るための塩田も姿を消した。現在はその跡地に進出したコンビナートのコンクリート護岸と煙突群が瀬戸内海の代表的景観になってしまっている。これまでのように、生産活動の結果として景観が決まっていくのではなく、人間と自然とのあるべき関係を明らかにしつつ、景観を積極的に創造していくという観点を同時にもたなければならない、と柳は結んでいる。

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塩に関する和歌

廣山謙介、尭道は『古代日本の塩』(雄山閣、2003)で、古代の藻塩づくりについての実証的な研究が行なわれれていることを報告している。また、資料として、古代から近世にかけての塩に関する歌367首を載せている。わたしの知っていた『小倉百人一首』の中にある藤原定家の「来ぬ人を松帆の浦の夕なぎに焼くや藻塩の身もこがれつつ」も載っている。

廣山は紫式部の、新古今集における一首と源氏物語における八首を載せている。試しに前出佐復秀樹訳/ウェイリー版『源氏物語』に当たってみたら、廣山が上げている八首のうち、「しほたるるあまを波路のしるべにて尋ねも見ばや浜の苫屋を(藤袴、若菜上)」においては、「しほたるる」が単に潮水で濡れてしずくが垂れるの意味ではなく、塩づくりのために海水を汲むことにより潮水がたれるという意味があり「塩に関係がある」のだとすれば、廣山があげていない、その直前の歌「老ひの浪かひある浦に立ち出ててしほたるるあまを誰かとがめん」も塩に関係のある歌だということになるのではないだろうか。

また、廣山は上げていないが、「藤袴、幻」には「かきつめて見るもかひなきもしほ草同じ雲井の煙とをなれ」という歌がある。これはに藻塩草という語があり、塩に関係ある歌なのではなかろうか。たまたま気が付いたことで、この指摘が正しいのかどうか自信はないが。

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(6)挫折したワカメの養殖

ホンダワラについて書いたので、ついでに、ワカメについて書こうと思う。09年1月下旬、桑山さんから、試験的に養殖しているものだがと、ワカメを一株もらった。これを湯通しして、塩蔵しようと、夕方、農協に業務用の塩を買いに行った。25キロ入りで900円。スーパーなどで売っている塩は、天日塩で1キロ200円から300円。ふつうの食塩で1キロ100円程度だから、同じ食塩なのに、業務用は段違いの安さである。農協の売店でこの大きな袋に入った「業務用」の塩を扱っているのは、アコヤガイの養殖においては、貝殻につく寄生虫を殺すために海水の何倍も濃い食塩水の中に貝を一定時間浸けておく過程があり、そのために、養殖を行なっている漁業者たちが大量に塩を使うからなのである。

ワカメの塩蔵のためだけなら、1株全部塩蔵にしたとしても、たぶん500グラムもあればじゅうぶんだろう。しかし、私は、最近、30センチ程度までの小型のタイ、あるいはアジなどが数匹ずつ釣れたときには、一夜干しを作って冷凍することにした。何枚かまとまったら、松山の知り合い、関東の親戚・友人に贈ったり、買ってもらったりする。私が作っている一夜干しの場合は、開いた魚に塩をして2時間ほど、冬なら網カゴに入れて外に吊るしておくか、それ以外の時季には冷蔵庫に入れておくかして、それから臭い汁をふき取って酒で洗う。これを冷凍するのである。

酒で洗うのがミソである。この話しを聞いた人は酒で洗うなんてもったいないというが、2、3枚のタイも1合もあれば十分に洗える。私が買っている酒は飲みもするが、1.8リットル入りで1000円ほどである。タイ一枚につき20円か30円でしかない。酒で洗うことによって余計な塩分と臭みが完全になくなり、うまみが出ると私は考えている。一番最初に作ったときは少しおいたら酒で洗うのだからと、塩を多めに振りすぎ、塩辛かくなってしまった。しかし、2回目以降は、塩加減も適度で、いわゆる干物に比べて軟らかく、好評である。

2年後からは、ほかのやりかたでもやってみた。NHK『今日の料理』に出ていたレシピにしたがい、水1合、塩大さじ1、砂糖小さじ1の割合で作った立て塩に2、3時間浸けてから干すのである。以前のやりかたでは塩は手で振るので、むらがでるし、量もいつも同じになるとはいえない。立て塩にすればいつも同じ塩味のものが作れる。

一夜干しを作るのに使う毎回の塩の量はさほど多くはないが、しょっちゅう作るので、結局、塩もかなり使う。このことを考え、ワカメの塩蔵をきっかけにして、「業務用」の25キロの塩を買い入れたのである。

25キロというのは相当な重量で、リヤカーで家の前まで運んだが、道路端から玄関までの6、7段の階段を上るのが大変だった。私は前に、途中の釣具屋に連れて行ってもらうことが目的で、源さんが親戚から買ったという30キロの米を国道沿いのコイン精米機でつきにいくのに同行したことがある。米袋を車に乗せるときに彼が軽々と持っていたので、精米機の近くに車を止めたとき、「私が運びましょう」と持ったのだが、ひどく重くて5m歩くのがやっとであった。源さんは、退職前は、薬問屋に勤めるサラリーマンであったが、中学生の時は、半農半漁の父親の手伝いをやって、相当な重労働で体を鍛えていたので、30キロの米袋も難無く運んだのであった。袋に入ったものは持ち運びにくいということもあるが、私にとって25キロの塩も重かった。

農協から帰る途中で織田さんの奥さんに出会って、リヤカーで塩の袋を運んでいるわけを聞かれ、これから塩蔵ワカメを作るという話をした。湯掻いた後少量ずつビニールバッグに入れて冷凍しておくと使いやすく、塩をしなくても長持ちする、と教えてもらった(*)。後で思ったのだが、全部そうすればよかった。しかし、塩蔵にこだわってしまい、実際に冷凍にしたのは3分の2くらいで、残りは塩蔵にした。

(*)「途中の織田さん」は二人いるが、どちらの織田さんであるかこの日(2009年1月9日)の日記に書いていない。もう誰であったかを思い出すことができない。)

源さんからもらった直径60センチほどの大きな金盥に水を入れ、水道の水を流しながら、両手で強く揉むようにして洗ってから、今度はこの金盥で湯を沸かして茹でる。生のときには黒っぽかった葉がお湯の中で鮮やかな緑色に変わる。湯気が出るので、換気扇を回したが、ヒオウギガイ、カニ、あるいは竹の子やフキなど、これまで湯掻いたことのあるもののどれとも似ていない、悪臭とまでは言えないが、胸がいっぱいになる独特のにおいに少々辟易した。塩蔵ワカメは1週間に2回程度、少しずつ味噌汁に入れて食べた。厚みもあり、柔らかく、とてもうまかった。

塩蔵にした分がかなりあり、チルトルームに入れておいたが、一人暮らしでは一ヶ月たっても食べきれず、やがてワカメが溶けだしてべとべとになり、いくらか無駄にしてしまった。冷凍にした分は、松山の自宅にも少しは持って行き、また家串で半年くらいかけて食べたが、いつまでも採りたてのものとまったく変わらず、おいしく食べることができた。冷凍しておくとよいということがはっきりした。

メカブは包丁でいくつかに切り分けた後、ミキサーにかけて細かくし、ビニール袋に小分けして、やはり、冷凍した。ときどき解凍して、三杯酢で食べた。一回分の量がおおすぎたのか、また、ゆで方が拙かったのか渋みが感じられ、飽きてしまった。

次の年は北條さんからもわけてもらい、北條さんもワカメの試験栽培をやっていることを知った。私もワカメ養殖に挑戦してみようと、北條さんから、芽を10個ほどもらって苗床(といってもただのロープ)に植え付け、わたしの船を係留している筏から海に吊るした。成功すれば、10株の、大量のワカメが生産できるはずであった。しかし、芽はすべて魚に食われてしまい、一本も育たなかった。

09年1月28日の日記に次のように書いている。その数日前に中島さんにタイを上げたのだが、夜、中島さんから電話。「この前もらったタイの腹を裂いたら、ワカメが一杯入っていた。ワカメを食べてるんじゃろうか」。「実際に食べてるようです。冬は、グレや、(伊豆の)ブダイなども海草、ノリなどを食べている。タイもそうなのでしょう」。「竹が島ではワカメが育たんのよ。〔アワビの餌にするために〕平碆で芽から10センチくらいまで育てたのを竹が島に持っていって植えたが、全部魚に食われてしもうた。竹が島ではホンダワラも育たん。ワカメは水面下50cmくらいのところに植えてるのだから、ここまでタイは、夜の間かなにか、人のいないときに上がってきて、食うとるんじゃねえ。延縄で釣れんかねえ。」家串ではタイが多い。湾の奥、わたしが船を係留している筏にもやってきて、食ってしまうのだろう。

その次の年は冬の寒さがきびしくまた荒天が続き、釣りができそうにないと判断して松山で越冬しているあいだに、ワカメの植え付けの時期がすぎてしまい、春になって、北條さんから成長した株をもらうことになった。来年こそは植え付けから再挑戦しようとおもっていたが、年齢による体力低下のためか、異常気象で冬の海が荒れる日が多かったためか、松山で越冬する期間が伸び、結局ワカメ栽培はやらないままになった。ワカメの栽培は挫折した。

こういう次第で、ワカメに関しては、株でもらってそれを自分でゆでたというところが少し違うだけで、松山で買って食べるのと大差なく、大して自慢できる経験をしたとはいえない。しかし、上で書いたアオサ採り、トンゴロ漁、ナガレコ採り、ツワナ採りのほかに、もう一つ、漁村ならではの経験としてヒオウギガイの養殖を行ったことは、少し威張って報告できる。これを次に書こう。

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(7) ヒオウギ貝を育てる

ヒオウギ貝、檜扇とは

ヒオウギ貝はホタテ貝によく似た二枚貝で、大きさはホタテ貝より少し小さいが、貝殻の色が、色鮮やかで、赤、橙色、黄、青、紫など、さまざまな色のものがある。吉良哲明『原色日本貝類図鑑』(保育社、昭和60年)によれば、私はまだ見たことがないが、白もあるという。イタヤガイ科のヒオウギが正式な名前である。

ヒオウギ貝(愛南町のホームページより)とイタヤ貝(写真はWikipediaより借用)

実は私はつい最近(2010年秋頃)までヒオウギは漢字で緋扇と書くものと思い込んでいた。

それは、たまたまナサニエル・ホーソ(ー)ン(Nathaniel Hawthorne )の『緋文字』という小説の題名や、「緋縅(ひおどし)のよろい」という語を知っており、緋色をした扇のような形の貝だからついた名前なのだろうと当て推量をしていたせいである。

赤や橙色だけでなく、青や紫などのものがあることを知りながら、勝手にそう信じて疑わなかったのはうかつであった。

この文を書くに当たって参考書を何冊か調べた。『原色日本貝類図鑑』では貝の名前はすべてカタカナ表記であった。しかし魚類文化研究会編『図説 魚と貝の大事典』(柏書房、1997)には、「檜扇」という、「その姿が檜扇に似た」「殻の色は個体差がはげしく一定しない」貝が載っている。

「檜扇」(ヒオウギ)を知らなかったので、国語辞典で引いてみると、細い檜(ひのき)の薄板を綴じて作った扇であり、昔、公卿などが衣冠・直衣のときに笏(しゃく)の代わりに持った扇だという。

「笏(しゃく)の代わりに持った扇」はたたまれているはずで、細長い姿を思い浮かべてしまうし、「ヒノキの薄板」はヒオウギ貝の特徴と思われる貝殻の色鮮やかさ、美しさと全く結びつかない。私はこの『魚と貝の大事典』に載っている「檜扇」が「ヒオウギ貝」のことだとは思えなかった。

だが、『日本国語大辞典』(小学館)を引いてみると「檜扇」は貴族の装身具の名前であるだけでなく、この扇によく似た形の「イタヤガイ」科の貝の名前でもあるということがわかった。

そこで「板屋」を引くと、板葺きの屋根のことである。イタヤガイ科の貝は、扇の要にあたる部分から貝殻に放射状の筋が広がっていてこれを肋(ろく、肋骨の肋であり、肋骨とは筋目が立って並んでいる骨だという)、ないし放射肋というが、イタヤガイという名は貝の肋が板屋の桟に似ているところからついたのだという。イタヤガイ科に属する貝として32種が記されているが、上で言及したホタテ貝もその一種である。

そこで、ヒオウギ貝は通称で、学名では「ヒオウギ」なのかと思ったが、アボット、ダンス/波部、奥谷監修・訳『世界海産貝類大図鑑』(平凡社、1998)では、ヒオウギガイ(他に、オオシマヒオウギガイ、ヒメヒオウギガイなど)となっている。

学会でどのように決められたのかは知らないが、「檜扇」ないし「ヒオウギ」では、私同様、貝だと考えない人もいるかもしれないので、以下ではヒオウギ貝と書くことにする。

ヒオウギ貝は、さまざまな美しい色の貝殻を持つと言ったが、養殖中の貝の入ったネットを海中から引き上げたときには、表面にカイメンやフジツボその他が付着しており貝殻の色がわからないほど汚れている。そのため、漁業者が出荷するときには、あらかじめワイヤー・ブラシのついたローラーにかけるなどして磨き、貝殻表面の汚れや付着物は取り除いてある。

また、身を食べた後、乾かして、さらにサンドペーパーなどで磨けば、非常に美しくなるので、ランプシェードなど工芸品の材料として使える。加工せずそのままでもきれいだというので、小物入れにするなど、捨てずに取っておく人も多い。

味はホタテによく似ているが、ホタテに負けずおいしい。私は、さっと湯掻いて身を外し、貝殻にのせて醤油を垂らしバーベキュー風に焼いて食べるか、貝柱を刺身にして食べるのが好きだ。

貝柱から外した内臓やヒモと呼ばれる外套膜は野菜などと一緒に炒める。またホタテと同様、鍋物に入れたり、カレーに入れたりしてもいいし、フライやてんぷらにしてもよい。7月ごろ卵をもつが、この卵がうまいという人もいる。冬の方がおいしいという人のほうが多いようだが、私は一年中いつ食べてもうまいと思う。

私は25年程前まで東京に住んでいてその頃は全く知らなかったが、ヒオウギ貝は現在でも関東地方ではあまり売られていないようで、私の知人や友人に送ったら、みな初めてだと言っていた。他のところでもこの貝を栽培しているということを知らず、宇和海の特産だと思っていたが、前出『魚と貝の大事典』によれば大分県、三重県でも養殖されているという。

また延岡で漁師料理として岩ガキやヒオウギ貝を食べさせるところがあるとラジオで聞いた。北海道や青森のホタテや三陸や広島のカキなどのようには知られていないけれども、あちこちで養殖されているのかもしれない。

私は、家串に住み始めた翌年から4〜5年の間、500個以上を育て、自分でも食べ、家族や知人友人に配り、また、他の魚とともにいくらかは売った経験がある。野菜なら、数年、家庭菜園で野菜を作ったことがあるからと言って、その野菜について報告記や体験談を書く人はいないかもしれないが、素人で、貝を育てた経験を持つ人はあまりいないだろうと思うので、その報告ないし体験談のようなものをかいてみようと思う。

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ヒオウギ貝を育てること

ヒオウギ貝を育てることは難しくない。稚貝、つまり小指の爪かそれより小さいくらいの貝の赤ん坊を入手したら、地元でアコヤガイを養殖するために使われているネットなどに入れて、船を係留している筏や屋形(筏上の作業小屋)の回りに吊るしておく。すると貝は海水中のプランクトンなどを摂取してひとりで成長するのである。畑に種をまけば、土中の養分を吸収して、野菜が自分で生長するのと同じである。

野菜の場合には、まず土を耕し畑作りをしなければならないが、まずこれが大変である。そしてたいてい石灰をまいて中和し、また肥料を施さねばならない。そして、雨が少なければ水をやらねばならず、害虫対策を行なう必要もあり、相当に手がかかる。

これに対して、貝の場合には、海がそのまま畑であり、しかも、十二分に栄養分と水分を供給してくれる。野菜の生育には一定の日照時間が必要だが、貝の場合には長雨が続いたからといってどうということはない。田や畑が冠水すると作物は大きな被害を受けるが、海では洪水の被害はさほど問題にならない。

宇和島市(旧津島町)の北灘湾には岩松川が流れ込む。このような河口の湾でも貝類が養殖されている。ここは養分が多く、アコヤガイ養殖漁場として優れた漁場である。洪水で川から泥水が大量に排出されると、魚はエラを詰まらせて死ぬ被害がでることがあるようだが、貝の場合にはその心配はなく、かえって泥水は貝の栄養に役立つ。支柱を立てて育てるトマトやキュウリは強風の被害を受けることがあるだろうが、貝の場合には養殖筏が壊れるような強い台風の直撃を受けるのでなければ、どうということはない。

アコヤ貝(真珠貝)の生育には23度から25度の水温が最適で、13度で冬眠に入り、28度を超えると成長が衰える。そこで、10度以下の低水温、30度以上の高水温が続くと斃死の原因となるといわれる。とくに、核入れをしたアコヤ貝の場合には、温度管理が重要で、当地、内海(ウチウミ)海域の水温が上がりすぎた場合には、水温の低い佐田岬近くに移して管理することもあるようだ。しかし、ヒオウギ貝の温度管理の必要についての話しは聞かない。

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北條さんから稚貝をもらう

ヒオウギ貝の場合、害虫対策を行なうということもない。宇和海におけるアコヤガイの養殖では、年に(一個の貝につき)3〜4回の「塩水消毒」を行なう。貝殻は一枚のようにみえるが実際は屋根瓦のように重なっていて、その隙間のなかに寄生虫が住み着く。この寄生虫を殺すために「塩水消毒」を行なうのである。寄生虫は貝の中には入らず、貝殻の中に住むのだが、これが着いている貝は病変を引き起こす。そこで数時間、濃い塩水に漬けて、寄生虫を殺す。陸の作業場で行なわれる作業としては、貝を磨き、ネットを交換し、汚れたネットを洗浄する作業と並んで、この寄生虫退治のための塩水消毒がかなりの比重を占めている。しかし、ヒオウギ貝については害虫駆除の作業は必要無い。

全く何もしなくてもいいかといえば、畑の草取りに相当する作業だけが必要だということになるだろう。畑の雑草は、土中の栄養分を横取りして、作物の生育を妨げる。それと同様、ヒオウギ貝の貝殻やネットにはさまざまな生物が付着し、海中の養分を横取りしたり、網の目を詰まらせ、海水の流通を妨げて、貝の栄養摂取の邪魔をするとともに、貝の排泄物の拡散の邪魔もする。そこで貝殻を磨いて付着物を除去すること(これを掃除と呼んでいる)、目詰まりしたネットを交換することが、貝を育てるために必要な仕事となる。しかし、これがなかなか大変なのである。

私は最初は、アコヤ貝の養殖を営む北條さんから、ネットに入れたヒオウギガイの稚貝をもらった。北條さんは、船員になることを目指して商船大学に入学したが、途中で休学してマグロ船に乗り込んで働くなどした後、33歳か34歳の時に家串に戻り、父親を手伝って、アコヤガイの養殖を行うようになった。かれこれ30年近くこの仕事に携わっている。元村会議員であり、合併前の内海村最後の村長選挙に立候補し、7票の僅差で敗れたという経歴の持ち主である。

北條さんはもともと環境問題に関心を持っていたが、内海周辺における真珠貝の大量斃死が発生したときに、この地域のフグ養殖業者が、フグの皮膚につく寄生虫を駆除するために使用し始めたホルマリンにより、海が汚染されたためではないかと考え、ホルマリン規制のための県の条例制定を求める運動を中心になって行なった。

1999年愛媛県議会選挙で「環境派」の阿部悦子さんが当選し、私が「阿部悦子と市民の広場」の事務局長をしていたときに、北條さんや、(隣の津島町の)下灘漁協と同漁協の「海を救う」会(事務局長は中島敏行さん)などから招かれ、阿部さんと一緒に旧内海村に行った。このときの縁で私は、その後、適当な家が見つかった内海村で暮らすことになり、北條さん、中島さんには親しくおつきあいをしてもらっている。

07年の1月のことである。他の用があって北條さんの作業小屋を訪ねると、「赤貝を持って行きませんか」と聞かれた。赤貝とはヒオウギ貝の当地の呼び名である。「素人でも育てられますか」と尋ねると、何もしなくても育つ。1年間放っておいてもかまわないというので、やってみることにした。実際には、年に2、3回、表面の付着物を「掃除」したほうが貝の育ちがよく、また死亡率を減らすことができる。

ヒオウギ貝の稚貝(幼生)は米粒ほどの大きさで海中を漂っている。この稚貝がアコヤガイのネットなどに引っ掛かると、そこで成長する。アコヤガイは1事業所(多くは家族経営で、作業者は2〜3人である)あたり10数万個以上を育てていて、親貝を入れるネットの数は2千枚を越える。このネットに入っているアコヤ貝を順繰りに沖の筏から陸の作業場に運んで、磨く。その際に、ヒオウギ貝の稚貝がネットのなかに入っていれば、取り除いて貯めておき、何十個かをまとめて、アコヤガイを育てるのに使う提灯と呼ばれる四角いネットに入れ、海中に吊るして育てるのである。

内海村は昭和40年代からアコヤガイの養殖と真珠養殖を主要な産業として発展してきた。そして1980年代には租税収入の大きさから、日本一豊かな村と言われたこともあった。ところが1990年代の前半、突然、アコヤガイが大量死する事件が起こり、その後毎年のように、養殖途中で大量に斃死するようになった。多くの人が銀行や漁協から資金を借りて事業を拡大してきた。中には借金が返せなくなって夜逃げをした人もでた。その後リーマンショックなどの影響による真珠不況もあって、アコヤガイの養殖だけではやっていけずヒオウギ貝を一部取り入れて副業としてヒオウギ貝の販売を始めた人もある。

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中島さんのヒオウギ貝養殖

私の友人で「海を救う会」事務局長を務めた(旧)津島町の中島敏行さんも父親の後を継いで長年、アコヤガイの養殖を専門に行なってきた漁業者だが、アコヤ貝の大量死発生後、大部分をヒオウギ貝に切り替えた。奥さんと長男の3人でやっていて、年間に扱う個数は約15万個(自家栽培が10万個、他の漁業者から残りを調達)という。

価格は1個85円くらい。送料など経費が1個につき25円程度かかる。他から買ってくるときは35円で買ってくる。ヒオウギ貝はアコヤガイに較べれば、単価が高い。しかしアコヤガイはまとめて何万個と売る。しかしヒオウギ貝はまとめてたくさんは出荷できない。ヒオウギ貝の売上は約1,000万円だというが、他から仕入れる貝も含まれるのでその半分以上は経費である。

他にアワビの養殖もやっている。アワビの稚貝はコスモ石油から1万5千個購入。サイズによるが1個70円くらい。ワカメなど海藻の餌で100グラム程度の大きさまで育てる。1個600円〜700円。出荷価格キロ7,000円くらい。年間売上約250万円。韓国産はキロ4,000円と安く、品質で国内産と大きな差はなく、競争は厳しいが、ヒオウギ貝と較べてまだ、伸びる可能性はある。

餌のワカメ。愛南漁協から苗床を4枠購入。@2200円。幅50cmの枠に太いタコ糸のような糸が36本張ってあってそこに苗がついている。長さは一枠について約20m。これを2〜3センチに切り、工事現場に張るのに用いる黄色と黒の縞模様のロープに「植えつける」(これは私が勝手につけた呼び名である)。「植え付ける」には、専用機械で30〜40cm間隔でロープをひねって緩め、隙間を作り、「苗」の着いた糸を手で挟み込む。この苗の植わったロープを海中に張って育てるのである。実家の竹が島に許可を受けている筏があるが、竹が島ではワカメが魚に食われてしまって育たない。このことは前の(6)節で書いた。そこで別の場所で育てる。サザエなども他の漁業者から集め、アワビ、ヒオウギ貝と一緒にセットにして「海のたまて箱」という名で販売している。「ナカトー産業」でウェブ検索する。

こうして、年間の総売上がおよそ1300万円、利益は600万円くらいにはなるだろうか。これが夫婦と息子の家族3人で働いて得る収入である。

6月ごろ海中に束ねた杉の枝を沈めておくと、ここにヒオウギ貝の稚貝が付着するので9月ごろに引き上げて集める。これを杉葉漬けと言う。杉葉漬けでは、束ねた杉の枝を5つ繋げて、水面下5mに沈める。ヒオウギ貝の稚貝は下の方によく付く。恐らく、稚貝が多く漂う層がある、と中島さんは言う。

杉葉漬けは、もともと、アコヤ貝の採苗つまり稚貝の採集のために開発された方法で、今も、5,6月になるとアコヤ貝養殖業者の作業筏の近くに、杉の葉の束が置かれていて、杉葉漬けによる採苗が行われているのがわかる。しかし、杉の枝の束を海中に吊り下げたり引き上げたりするのは相当に骨の折れる労働であるという。

北條さんはアコヤ貝の大量死があって以降、丈夫な貝を入手することを主目的に、内海地区以外の業者から稚貝を購入したり、家串にある「海洋資源研究開発センター」から中国貝との交配種などを購入するなどしていて、現在、自分では杉葉漬けは行なっていない。

ヒオウギの稚貝は30〜40個ずつ1枚のネットに入れる。翌年3月頃に、5〜7センチになった貝を10個くらいずつに分ける。8、9月に8センチから10センチになる。大きいものは出荷し、ネットを交換する。年により場所により汚れ方は違う。「汚れる」とは貝の表面にフジツボ、カイメンなどが付着することである。貝の表面もネットも、ベトベト、ドロドロになる。ネットは中島さんの家がある嵐湾内では汚れやすいが、沖の竹が島では汚れが少ない。汚れが多ければこのネット交換時に、貝を磨く。


写真は作業場前の中島さん。
HPを見るには、Web検索で「ナカトー産業 Facebook」と入れる。


中島さんはインターネットを使ったミカンの販売も行っている。ミカン栽培農家から小さい粒(安い)で甘いみかんを仕入れ、10キロ入り800円で200箱、ヤフーで宣伝して売った。これはほんの副業というところだろうか。

ミカンはとても甘かったし、私は「海のたまて箱」を正月に注文し、鍋にして家族と一緒に食べた。おいしかったことはもちろんだが、アコヤ貝からは本物の真珠がでてきて、食卓が大いに盛り上がった。わたしのこの『エッセー』を読む人の数は2ケタにも ならないのではないかと思われ、ここに書いてもなんの宣伝にもならないと思うが、中島さんのメールアドレスnakatos@axel.ocn.ne.jp、電話番号0895−35−0249を記しておこう。



北條さんは、アコヤガイの大量死が続いて、一時期は正月を越すのも大変だったというが、頑張り抜いて、アコヤガイ専門の養殖を続けており、ヒオウギ貝は自家用程度に育てているに過ぎない。それでも、彼が船を係留している筏の下にはヒオウギ貝の稚貝が入ったネット、「提灯」が何十個か吊り下げられていた。「好きなだけ持っていってください」と言われたが、初めてであり、管理できるかどうかもわからなかったので、ひとつに稚貝が30個から40個入っている「提灯」を10個だけもらうことにした。

最近、真珠景気がもどりアコヤ貝の出荷が順調になったと作業場を拡大し、手伝ってもらう人の数も増やした北條さんの作業場の様子(2017年1月)

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提灯

アコヤガイを育てるネットには種類があり、厚み(深さ)の薄いものが「提灯」で、厚みが数十センチあるものは「行灯」と呼ばれている。ヒオウギ貝を育てるには「提灯」がよい。「提灯」の網には、2分、3分など目の大きさの異なるものが何種類かある。

1分=3ミリで2分なら6ミリ、3分なら9ミリのはずだが、目の幅を測ると2分で4ミリ、3分で6ミリくらいである。ただし対角線に沿って測れば寸法は合う。

ヒオウギ貝の養殖を専門に行っている中島さんは、杉葉付けによって稚貝/幼生を集めていたが、北條さんはアコヤガイを育てているネットに引っ掛かったヒオウギガイの稚貝をアコヤ貝のネットの「掃除」やネット交換の作業のついでに集めて、育ている。そして、私はヒオウギ貝の稚貝を入れたネットを北條さんからいくつかもらって、それを育てているのである。ある年は中島さんから分けてもらったこともある。

私は、最初、船を係留させてもらっている筏の持ち主の水谷さんの了解を得て、ヒオウギ貝の入った10個のネットを吊るしたが、北條さんが彼の筏に吊るしてあったものはネットの目が詰まっているから取り替えた方がよいというので、翌日、そのネットの交換をした。汚れているほうのネットは北條さんが他のネットと一緒に器械で洗浄してくれるという。

ネットの洗浄は動噴という器械を使って行う。これはネットを細かく振り動かしながら強い水流で付着物を洗い流す、あるいは吹き飛ばす器械である。以後、年に数回はネットを交換したが、いつも北條さんの作業場に持ち込み、洗ってもらった。ねばねば、どろどろした付着物はほとんど取れる。自分のネットを使うのなら、汚れたネットは干してから小槌でたたくなどして、付着物を落として、再び使うことになる。しかし、このように手作業で30枚、40枚のネットをきれいにする労力は相当なものになる。北條さんのおかげで、私のヒオウギ貝を育てるのに必要な労働はほぼ半分で済むことになった。残りの半分は貝を掃除することである。専門にヒオウギ貝を育てている中島さんのように、専用の器械を使って貝を磨くことはできない。

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グラインダー

中島さんの作業場では、ネットから取り出した汚れた貝を小型の出刃包丁を使って、表面をあらかた掃除したあと、グラインダーにかけて磨いていた。しかしヒオウギ貝専用の器械はなく、以前、彼がアコヤガイを養殖していたころに使っていたものを流用しているという。器械の名前は「グラインダー」。外周にイボイボのついた3cmほどの厚みの(垂直に設置された)円盤が電動で回転するようになっており、縁のイボイボに貝を押し付け、フジツボ等の残っている付着物を取り除く。すじ状の凹凸がある貝殻表面のくすんだ感じは残るので、最後に回転するワイヤーブラシで磨き、ピカピカにする。 私の場合、出刃包丁でフジツボなどを落としたあと、ワイヤーブラシを使って手で磨くことになるのだが、それはかなりハードな仕事である。

中島さんの奥さんは昭和31年生まれで(旧)明浜町で育った。彼女が小学校4、5年の頃まで、グラインダーはなかったという。明浜に村田真珠(注)という会社があり、小学校の校舎ほどの大きな建物のなかで珠入れを行なっていた。他方、海上の大きな板張りの筏の上で、200人から300人の人が母貝の掃除をやっていた。貝の表面に固く付着しているカキやフジツボを包丁で叩き落とすようにして取り除く。刃が筏の板に当たるカンカン、カンカンという音が響いていたのを覚えているという。昭和40年代半ばまでは、私が今ヒオウギ貝の掃除でやっているのと同じように、アコヤガイの掃除を全くの手作業でやっていたのだ。

小林憲次『愛媛県真珠養殖の変遷』(真珠新聞社、1995)によると、昭和29年から昭和32年の間に、県外から愛媛県に18の真珠養殖業者が進出した。とくに三重県の業者が多かった。村田真珠はそのうちの一つ。同書の「昭和34年、愛媛県真珠研究会会員(企業)一覧」によると、村田真珠は本社は東京目黒区、加工場は伊勢市、工場は新居浜市大黒島、越智郡大三島、松山市興居島、明浜町狩江、津島町嵐、吉海町にあった。

敏行さん、(2010年現在)60歳。父親がアコヤガイの養殖を始めた。彼が中学校に入った頃、器械が導入され、すぐに広まった。全自動のベルトコンベヤー方式の器械も作られたが、貝が割れるなどうまくいかず、結局、今のように、1台ずつ人がついて、貝を手で持って、イボイボに押し当てて磨くようになった。

私が1月に北條さんからもらったヒオウギ貝は、ネットは交換したが、貝自体は掃除しなかった。4月から5月にかけて、釣りに出られない日に、ネット(「提灯」)を何枚かずつ引き上げ、貝の掃除をすることにした。

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カズさんからもヒオウギ貝をもらう

5月に、同じ家串のカズさん(兵頭加寿雄さん)がヒオウギ貝をくれると言う。彼の家でも以前はアコヤ貝の養殖をやっていたが、大量斃死が起こったあとしばらくして撤退した。彼は今一人で暮らしていて、1月〜6月は蜜柑の選定作業に週に2〜3日でかける。また、知り合いの真珠養殖業者の真珠筏のロープの掃除の作業などで稼ぐ。出稼ぎ以外には、冬から春にかけては大型のモイカを釣って市場に持っていく。彼の筏の横にはいつでもモイカ釣りができるように、小アジを入れた小型生簀が設けられている。また、遊漁船の免許のある小型船外機船に客を載せて釣りガイドをやる。一時期、家串のマダイ養殖会社「朋洋水産」の仕事をしていたこともある。マルチタイプ・フィッシャーマンということになるだろうか。

彼はタタミ10畳敷きほどの広さの筏と、彼が「朋洋水産」から譲り受けた5m四方ほどの古い生簀をもっていて、その大型生簀で自分が釣ったさまざまな魚を育てている。彼の船に乗った釣り客がたいした釣果がなかったときに、お土産として買っていくと言う。

筏の上に、彼が知り合いからもらってきたという、すでに5〜6センチほどに成長したヒオウギ貝がどさっとおいてあり、彼は好きなだけ持っていっていいと言ってくれた。筏の上にはネットが置いてあり、貸してくれるという。私が船を係留させてもらっている水谷さんの屋形の下はすでにネットを吊るす余裕がないと言うと、彼の大型生簀の枠にネットを吊るしていい、とも言ってくれた。

私は家串に来るまで彼とは一面識もなかった。私が家串に来て住むことになった年の数年前に、私が卒論を指導した学生が、たまたま、夏休みに友達と一緒に家串に遊びに来て、カズさんの家の庭でバーベキューをやってもらったという、不思議な縁もあるが、彼はもともと極めて親切な人物で、私が家串に来て以来ずっと親しくしてもらっている。

家串の住民はヒオウギ貝を親戚や知人からもらう機会が多くあり、他の人よりも、私にくれたほうが喜ばれると思ったのかもしれないが、とにかく、私には非常にありがたいプレゼントであった。とはいえ、あまり欲張っても管理できないかもしれないと100個ほどもらうことにし、ネット1枚に10個くらいずつ入れ、ネットを5枚つなげたものを2本、生簀の枠に吊り下げさせてもらった。

8月の末、夕方、少し涼しくなってから港に下りていくとカズさんが船の上で何かやっているので覗くと、10センチ近い大きさのヒオウギ貝をネットから出して広げている。そして、再び、たくさんもらったので持っていけと勧める。はじめは遊びに来ていた息子の大地と二人で食べるだけ10個か15個もらおうと思ったのだが、彼が、本当にたくさんもらいすぎたのだ、持てるだけもってゆけ、松山に送ればいいじゃないかと言うので、それではと、200個かそれ以上もらい、数十個を翌朝の宅配便で松山の友人や関東の親戚など数人に送り、残りのヒオウギ貝をネットに分けて筏の下に吊るした。

私はこうして2007年の冬から夏までに北條さんとカズさんからもらった、さまざまな大きさのヒオウギ貝を500個か600個育てることになった。

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ヒオウギ貝の「掃除」と付着生物

四角い提灯の底は一枚の網になっているが、上側は、対角線に沿って二つに分かれている。貝を入れた後、この二つに分かれた網を、プラスチック(ポリエチレン?)製の腰のある細い紐(「閉じ紐))で縫うようにして閉じる。ただし、通常は貝を出し入れする際にこの対角線部分の全部を開閉することはなく、半分は閉じたままで、残りの半分だけ開け閉めする。

また、提灯を縦に連ねて吊り下げることができるように、径が4〜5ミリのプラスチック製の紐が提灯の中心部を貫通し、上下にその端が出ている。ネットの交換及び貝の掃除を行うときには、まず、繋がって海中に吊り下げられている数個の提灯を引き上げる。貝だけなら軽いのだが、数ヶ月海中に吊るされていたネットは、その内側にも、表面にも、泥のようなもの、水を含んだ赤黄色でゼリーのようなホヤ=「ベニボヤ」、あるいは同じくホヤの一種で白くて、表面に動物の脳ミソのような皺のある、脂肪の塊のようなもの、また、食べられるほど身が入っていることはないが、カキ、あるいはカラスガイと普通よばれているムラサキイガイなどさまざまな生物・無生物がたくさんついていて、非常に重く、ネットを引き上げるのもかなりの重労働である。

次いで、ネットの口を開けて、ヒオウギ貝を取り出す。腕を中に入れて貝を掴むので必然的にネットに顔を近づけることになるが、その際に、水を一杯に含んだホヤが手で触れられた刺激のためか水を吹くので、しょっちゅう顔に海水を浴びせられることになる。また、貝が小さいときにはちょっとびっくりするだけでどうということはないが、大きくなっている場合には、口を開けている貝の中にうっかり指を入れると、バクンと貝がしまり、「咬みつかれ」て痛い思いをする。またネットの中に、しばしば、カミツキウオというハゼに似た小魚や、ツノガニが入っている。知らないで、あるいはうっかり触れると、前者は噛み付くし、後者はツノで刺す。しかし、私は、ヒオウギ貝に「咬まれて」あわてたことは何度かあるが、カミツキウオやツノガニにやられたことはない。注意さえしていればこれらにやられるということはほとんどないと思われる。

貝の何割かは死ぬ。貝殻が閉じていても、他のものに比べて軽いので中が空っぽだとすぐにわかるものもある。手で持って振ってみると水の音がするので死んでいることがわかるものもある。だが、生きているかどうか全く分からず、包丁で表面に付いたものを削り落とし終わったときになって、貝殻が開いて、中に泥が詰まっていたり、他の貝やカニが入っていることがわかる場合もある。

死んだヒオウギ貝の貝殻のなかに、しばしば小さいタカラガイ(宝貝)が、ときどき複数、入っていることがある。ヒオウギ貝が死に、その空いた貝殻の中に宝貝が、ヤドカリのように単に入り込んだだけなのか。あるいはタカラガイの幼生、あるいは卵が海水と一緒にヒオウギ貝のなかに入って成長しヒオウギ貝を食い殺してしまうのか。

水谷さんの屋形の隣は、最近真珠貝をやめて、ヒオウギ貝を入れたネットを筏の下に吊るしている中村さんで、奥さんが宝貝を趣味で集めていると聞いたので、私が見つけた大きな宝貝を上げ、ついでにこのことを話すと、奥さんもタカラガイがヒオウギ貝を食うと考えているという。そして「生存競争は厳しいですね」と言う。

中島さんに聞いてみると、ほら貝は先の尖った触手のようなものを伸ばし、そこから毒液を出して他の生き物を殺す、と言う。『平凡社大百科事典』によると、イボニシは酸と歯舌でカキ類の殻に穴をあけて食べ、さらにイモガイ類は槍のような歯に毒腺が連なり、ゴカイ類や貝類、魚類を襲って食べるなどというが、タカラガイはこれらと同じ巻貝類である。タカラガイも同じようなやりかたで、ヒオウギ貝を殺して食うのかもしれない。

タカラガイは、たとえば、ヒメダカラ、ルリグチダカラ、ヒメヤクシマダカラなど日本産で75種が含まれる科名である。古代中国で貨幣として使われたところからこの名前がついたという。安産のお守りにするところもあり、子安貝とも呼ばれた。(『原色日本貝類図鑑』)

ネットの中に隙間がなくなるほど大量にアコヤガイが入っていて、ヒオウギ貝がほとんど死んでいるネットもあった。アコヤガイは海中に漂っている幼生/稚貝が網の目をくぐって入り込み、栄養を横取しながら成長したのだろうが、それにしても、1本のロープに6個ずつネットを下げ、2本並べて吊るしておいたのだが、そのなかの2つか3つのネットに集中してアコヤガイが入り込み、ヒオウギ貝が死んでいた。ただし、うっかりして網の目の粗さを比べることはしなかった。

中島さんは、ヒオウギ貝の稚貝は海中に浸けた杉葉の水深によって着きが異なることは確かだが、アコヤガイの稚貝も漂う層があるかもしれないという。

5月に行なったネット交換の時には、すでにヒオウギ貝は直径3〜4センチほどに育っていた。貝殻の表面を出刃包丁の刃で付着物を削り落す作業を3時間ほどやったが、いくらやっても、まだ終わってない貝が山のようにあり、きりがないような気がしてきた。北條さんからもらったときは稚貝が30個か40個入ったネットを10枚ほどもらったが、死んだものを除いて、おおよそ300個ほどあったのではないか。素手で貝を掴んでやっていたので、貝の表面についているカキやフジツボのせいで指が傷だらけになり、また隙間の多い筏の上で、ときどきは姿勢を変えてやったが中腰で背中を曲げてやっていたために、腰が痛くなって続かない。貝の掃除はまたこんどということにして、とにかくきれいなネットに入れ替えることにした。

9月の半ば、カズさんが筏のうえでヒオウギ貝の手入れをしているのが見えたので寄ってみた。「須藤さんも、掃除せんかいな」と言う。「今は、入れ替えるネットがない」と答えると、以前真珠養殖をやっていたときに使っていたネットが彼の家の裏においてあり、使っていいと言ってくれたので、借りることにして、海上では30〜40mばかりのところにある水谷筏に吊るしておいたネットをボートに積んで彼の筏につけた。

彼はすでに自分の予定した作業は終えていたようで、大型生簀の枠に吊るしてあった、目がほとんど詰まった私のネットを引き上げてくれていた。私はボートで持ってきたものと一緒に、新しいネットに入れ替え始めた。すると、「貝を掃除してやらんかい」と言う。それではと、小型の出刃で貝についたフジツボ落しをはじめると、今度は電動の「ハンドクリーナー」を貸してくれるという。これは長さが20〜30センチの、いわば電動の回転式ヤスリで、これを貝殻の表面に押し当てると、非常に楽に付着物をこすり落とすことができた。本当に彼にはなにからなにまで世話になった。(そのくせ、彼はひどい遠慮屋で、私は何度か私の家に食事に来ないかと誘ったのだが一度も応じなかった。)

ベニボヤをはじめホヤの類が非常にたくさん、ネットの中にも表面にも付いていて、ネットを引き上げる作業が重労働であることについては上で述べた。貝の表面にもフジツボ、カキなどよく知られた生物のほかに、べとべと、ぬるぬるした泥のようなものがたくさん付着している。カイメン(海綿)やカンザシなどである。

カイメンは、たいていは、白または灰色で、綿に似たふわふわしている。とはいえ、もちろん海中にいたのだからびしょびしょ、ぬるぬるしている。(茹でた)カニの味噌のような締まった感じのものもある。カニの味噌と同じような薄茶色をしていたり、ヒオウギ貝の貝殻の色と同じ色をしていたりする。カイメンは、恐らく、貝殻に根を生やして寄生していて、貝が分泌する貝殻になる成分を横取しているのではないか、と私は考えた。

百科事典を調べてみたら、カイメンは1700年代までは植物と考えられていたが、実際は、動物で、基本的な体型は壺状で、中央に胃腔という大きい空所があって、上端に口(出水孔)が開いている。体壁には無数の小な孔(入水孔)が開いており、外から水を取り込む。鞭毛の運動によって水流を起こし、水と同時に入ってくる微細な食物をとらえ、余分な水は上端の口から出すのだという。色も白色、黄色、赤色、緑色、黒色と多種多様であるという。この説明によれば、海水から栄養を取るのであり、それが付着している貝殻から(ヤドリギのように)栄養を横取りするのではなく、カイメンの色は貝殻とは関係なく、カイメン自身の色らしい。色が斑になっているものもあったが、これは色の違うカイメンが一つの貝殻の上に一緒についていたのだろう。

包丁でけずるとばっさりきれいに落ちるものもあるが、べとべとしていて糸を引くものもある。そして、包丁で削ったあと、バケツに汲んだ海水の中でワイヤーブラシでゴシゴシ擦ってもなかなか取れない。中島さんのところでは、グラインダーを掛けた後、出荷の前には、最後の段階で、高圧ポンプで洗ってべとべとを取るという。

海綿のなかには、しばしば、イソメや小さなカニなどが住み着いている。一つの貝殻についたカイメンから、イソメが6〜7匹も出てきたこともあった。

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本業としてのヒオウギ貝養殖

ヒオウギ貝は手入れの仕方にもよるが、1年で直径が6〜7センチ、2年で8〜10センチ近くになり、出荷できる。2年を越すと貝殻の直径が10センチ以上、厚みも2センチ以上になる。しかし2年半くらいが平均的な寿命のようである。

ネットの大きさは決まっているから、貝が大きくなるに連れて、一つのネットに入れる貝の数を減らし、ネットの数を増やす。10pくらいの大きさの貝はネットに4個か5個ていどにする。7〜8センチのサイズの貝は、6個か8個入れる、等々。いろいろな大きさの貝をもらい、さまざまな個数の貝を入れたネットができ、また掃除とネット交換をするたびに、少しずつ大きいものを出荷したので、いったい、何枚くらいのネットがその時々にあったかは覚えていない。ごく大雑把だが、もっとも多かったときには、貝の個数で300、ネットの数で40枚くらいのネットを吊り下げていたのではないか。

ネットの交換と貝の掃除の回数が多いほど、貝の成長は早いし、また、死ぬ個数が減り収穫率もよくなる。ハンドクリーナーを借りて掃除をしたのは、カズさんの筏でやったときで、1回だけ。あとは、出刃包丁でやった。しかし、出刃包丁を使った作業では、1時間にせいぜい20個くらいしかできなかった。そして2時間もやったら包丁を握って力を入れる右手が痛くなる。作業台を使わず、中途半端な悪い姿勢でやるから腰も痛くなる。300個の貝を掃除するには15時間掛る。一回の作業を3時間やるとすれば、1個の貝を年に1回掃除するとして、年に5回ほどやることになる。そんなにやっただろうか。年に1回掃除したものもあるだろうが、稚貝のときから育て2年以上経って出荷するときになって、1回だけ磨いたものもあったとおもう。

半分以上は自家用に消費するか親戚などに送ったが、知人などに買ってもらうときには、ヒオウギ貝は1個100円くらいで売った。しかし、店頭で売るのでなく、宅配便で送る。まとめていっぺんに買ってもらうことはできず、一回に送る個数は10個か15個で、そのつど宅配便の送料が1000円くらいは掛かる。15個出荷すれば500円の利益になるが10個の場合には、売り上げ代金は送料と同じということになる。

実際には、私は貝だけを送るのではなく、釣った魚を「鮮魚」で(つまり〆て、氷を抱かせて)送るときに一緒に入れて送った。しかし、釣れないときでも釣りをしている時間は楽しいが、貝を掃除する労働は楽しいとは言えない。繰り返しになるが、包丁を握る手は痛くなるし、作業台があれば別だが、中途半端な姿勢で背中を曲げて作業をするので腰が痛くなる。 しかも、私の場合、資本としての「種子」を他の人からただでもらい、ネットを吊るす筏も、また必要な「労働手段」としてのネットもただで借り、時には貝を磨くのにハンドクリーナさえも人から借りた。

だが、もし本業でやるとすれば、種子=稚貝の入手、貝を磨く機械の導入、筏の保守などなどのための出費と労働が必要である。

中島さんは、ヒオウギガイの生産・販売だけではなく、アワビ、サザエなど他の貝を他の漁業者から集め、セットにして「海のたまて箱」を販売している。奥さんと長男の周作君と3人でこの仕事をやっており、弟、末の娘は高校を卒業したあと外に出て就職した。

ある日、中島さんの作業所に寄ると、奥さんはおられず、敏行さんと周作君の二人で仕事をしていた。奥さんはどこか具合でも悪いのですかと尋ねると、そうではない。休みの日が決まってないので、休ませないと仕事ばかりになってしまう、と彼が言う。敏行さんはどうするのですかと聞くと、さっぱり儲からないのに休みもせずに毎日働いています、と言う返事だった。

同居している20代前半の周作君には、住居費、食費を引いて、1日4000円払うことにしているが、半年間払えなかった。周作君はカレンダーに印をつけていくらたまったと計算している。この前の春100万円たまったというので50万円だけ払ってやった。中島さんはとても人件費を出せないんです、と言っていた。周作君は、給料は安いだけでなくときどき不払いにもなっているが、余所で他人に使われるよりは、住居と食事が保証されている家の仕事の手伝いの方がいいらしい。

ヒオウギ貝の養殖は、農業の場合に不可欠な「灌漑」や「施肥」に相当する労働あるいはそのために必要な経費は海の恵みとして受け取るので、労働も資本も農業に比べれば少なくて済み、有利であるように思われる。また、海外からの安い魚介類の輸入によって魚価の低下に苦しむ一本釣りや底引き網などの漁業に比べれば、経営が安定しているかに見える。だが、経営は決して楽ではない。タイやハマチ、あるいは最近始められたマグロの養殖のように、大きな資本を投入して行なう養殖漁業がどうなのかはわからないが、零細な資本しかもたない一般の漁業者に事業が可能な、栽培漁業ないし養殖漁業としてのヒオウギガイの養殖は、休みなしの労働によって営まれているにもかかわらず、「食っていくのが精一杯」と言っても言い過ぎではない、苦しい経営がやっとなのである。景気がよかった頃のアコヤガイの養殖のように大いに儲かるわけでは決してないのだ。

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ネットの掃除

ねばねば、どろどろ、ぬるぬるのネットは外気にさらして放置しておき、乾いてから長靴のかかとで踏めば、着いていたものはパリパリとせんべいが壊れるときのように割れ落ちて大体はとれるが、きれいにするにはやはり、濡れている内に動噴にかけてもらう必要がある。しかし、カキ殻、そして小さなフジツボはそれでも残る。ネットをきれいにする作業は動噴にかけるだけという事業所がほとんどであり、付着物が多少残っていてもアコヤガイの場合にもヒオウギ貝の場合にも差し支えは無いらしいのだが、私が家串に来たばかりのころは、高齢の女性たちが、物置小屋の床に腰を下ろし、一日中、乾かしたネットを小槌でたたきカキ殻やフジツボを砕いてネットから取り除く仕事をやっている姿があちこちで見られた。

ずっと以前、動噴がなかった時代には、ネットを乾燥させてから小槌でたたく作業が、ネットをきれいにするために必要不可欠であり、老人たちは、若かった頃、アコヤ貝養殖漁業における不可欠な一過程として、この作業を第一線で行っていたのであろう。そして、年を取り、第一線を退いた後も、景気がよくアコヤ貝の取引が盛んで家中のものが仕事に忙しく取り組んでいたときには、「遊んではいられない。少しでも助けになること、自分のできることをやろう」と考え、小槌を振るっていたのだろう。

ところが私が家串に来て数年経つうちに小槌でネットをたたく老人の姿がまったくみられなくなった。不況が続くなかで、真珠養殖から撤退する家族が続出し、働ける年代の人々が外に働きに出ることになり、この地区における老人の役割がなくなってしまったからだと思われる。マイクロバスで週何回かのデイサービスに通う日以外は、老人たちはどのように一日を過ごしているのだろうか。

私は、その後も、時々北條さんから稚貝をもらい養殖を続けている。今は個数は数十というところであるが、普段は育てていることをまったく忘れており、たまに、思い出して、掃除をしてやり、年に1回か2回、バーベキュー風にして食べるか、軽く湯がいた貝柱を刺身にする。実にうまい。

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