第二部 第1章 由良半島の野鳥

第1章 見出し

子供の頃
松山の鳴鳥
家串の自然
戦後は段々畑におおわれていた由良半島
戦後、由良半島の開発小史
ウグイスの姿を初めて見る
ウグイスの「正調」と「乱調」
家串の三鳴鳥
トラツグミについて
鹿の鳴き声も似ている
コジュケイについて
イソヒヨドリのこと
ハマガラスはイソヒヨドリなのか
森林性の鳥と海鳥
シジュウカラ
「トゥルルルルル、プティトプティト-----」の正体
『日本野鳥大鑑・鳴き声333』編者・蒲谷の録音の苦労とYoutube

オノマトペーについて
カラス、スズメの名前はその鳴き声に由来するという私の想像
幸田露伴の『音幻論』
ホトトギスと大伴家持について
ウグイスの名前の起源について
言語体系とオノマトペー
「聞きなし」という語
みなすということ
「見るは見なすこと」への反対論への反論
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第二部の「はじめに」で書いたように、私は愛媛県南部、愛南(アイナン)町の漁村・家串(イエクシ)と県都松山とを行ったりきたりして暮らしているが、松山では、中心部の市街地の東に続く住宅地に住んでいる。
私が東京から移って来た20数年前、1990年代始めごろに比べるとずいぶん減ったが、それでも周囲にはところどころに田や畑が残っている。歩いて30分足らずのところに道後温泉があり、そこからは北に向かって高さ200〜300mの丘陵が広がっている。この丘陵地帯は松山の東部と南東部にも広がっていて、隣接する今治市(北側)、東温市(南東側)との境付近には、1000m前後の山が幾つもあるので、丘陵地帯というより山地と言うべきかもしれない。アカマツ、クロマツ、シイ(ツブラジイあるいはコジイ)、カシなどの交じった、森林が広がっている。

また松山は西で瀬戸内海に面していて、海水浴、釣り(とくに船釣りは本格的な釣り)を、日帰りで十分に満喫できる。松山は人口50万の都市ではあるが、自然に囲まれた、自然を楽しむことのできる場所なのである。

だが、家串に住んで、自然との距離の大きな違いに気がつかされた。松山では「すぐ近くに自然がある」と言えるなら、家串では、人はまさしく「自然の中で、自然と共に」暮らしていると言える。ごく大まかに言えば、松山に住む人の多くは、平日は工場やビルや商店、一言で言えば「屋内」で働いて稼ぐ人とその家族からなり、したがって人々は、休日にウォーキングや釣りや海水浴に出かけるときに(だけ)、自然に接するのである。

これに対して、家串、愛南町では、多くの人が平日、生業として、海に出て、養殖しているアコヤガイやマダイの世話をし、あるいは漁を行なうのであり、休日には、いわば自然から脱出して、車で町に出かけデパートなどでショッピングを楽しんだりする。松山と家串・愛南町とでは、生活の基本スタイルが大きく違っているのである。

私は退職前松山にいたときには室内で仕事をするサラリーマンで、退職後家串に来て、天候さえ許せば毎日海で釣りをする生活である。しかし、私が、自然との距離の違いを意識するのは、私の生活のしかたが変わったからなのではない。私は、寝ているときにも、また目覚めたときにも、台所に立ったときにも、「自然」が私の身近にあることに、私が自然に取り囲まれているということに気がつくのである。
さまざまな「自然」がある。体長も、開いた両脚間の幅も10センチ近くありそうなゲジ(ゲジゲジ)や足を広げた大きさがやはり10センチもあるようなクモが部屋の壁を這い、また夏にはしばしば就寝中にムカデの「夜這い」があり、もぞもぞとする感触に飛び起きることもある。虫のことも書こうと思う。だが、最初に野鳥について書こう。

子供の頃

家串に来る以前、私は野鳥の鳴き声に耳を傾けたことがほとんどなかった。きれいな、野鳥の鳴き声を聞いた覚えがない。高校まで新潟県の田舎町で育った。子どもの頃、ニワトリとハトを飼ったことがある。しかし、それ以外、鳥に対する格別な関心を持ったことはほとんどなかった。小学生時代、通学路の脇を流れる川の岸の葦原で鳴くオオヨシキリの鳴き声を聞きながら登校したことを思い出すが、その鳴き声、キョーキョーズ、キョーキョーズという、美しくもなんともない、鳴き声の記憶があるだけだ。

中学校は「越後平野」の田んぼの中にあった。4月末か5月の始めごろ、日陰に残っていた雪が完全に消え、水が張られる前の田に赤紫色のレンゲソウが花を咲かせて、日差しが暖かく感じられるようになる。そんなとき、下校時、見渡す限り広がっている田のずっと上空を、季節の移り変わりなどということにまだ全く無頓着だった私にも、「裏日本」特有の暗く長い冬が終わったことを告げてくれるかのように、ヒバリがかんだかい声でせわしなく、ピーチクパーチクさえずりながら飛んでいたことは、鳥に特別の関心をもっていなかったにもかかわらず、はっきりと思い出す。しかし、野鳥について、鳥の鳴き声について思い出すことはそれくらいしかない。

18歳の時から40代半ばまで暮らした東京で、ハトやカラスやスズメを除いて鳥の鳴き声を聴いたり、姿を見たことがなかったとしても当然である。だが、「自然に囲まれた」松山でも、鳥の鳴き声に耳を傾けたこと、鳴き声が美しいと感じたことは一度もなかった。仕事と子どもの世話で忙しく、自然に関心を持ち、野鳥の鳴き声に耳を傾ける精神的余裕が不足していたということかもしれない。同時に、家や職場の周囲など日常の行動範囲の中には、スズメやカラスくらいしかいなかったということも事実である。

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松山の鳴鳥

松山の中心部には県庁舎のすぐ北側にこんもりとした木立に覆われた標高131mの城山があり、頂上に松山城がある。日本では、コマドリ、オオルリ、ウグイスの三種はとくに美しい鳴き声で鳴くので「三鳴鳥」と呼ばれている。『愛媛の野鳥観察ハンドブック』(愛媛新聞社刊、1992年)によれば、この城山では、日本野鳥の会愛媛県支部が、毎月、探鳥会を行なっていて、70種を超える野鳥を確認しているが、そこにはこの「三鳴鳥」も含まれている。

鳥に関心のある人、鳥好きの人は、遠くの山地にまで足を伸ばさなくても、松山市のど真ん中の城山で、鳥の鳴き声を楽しむことができるのである。とはいえ、そのつもりで、時間をとって、そこに出かけなければならない。しかも、行けば、その美しい鳴き声を必ず聞けるわけではないようだ。同書によれば、ウグイスの「優占率」は0.69%だという。つまり1000羽の野鳥が来ていたとしても、その中には約7羽のウグイスしかいないというのだ。オオルリは0.1%、コマドリは0.01%だという。城山を含め、やはり、松山市の市街地や住宅地では滅多にこれら「鳴鳥」の声を聴くことはできないということだ。 (ただし、1995年刊の同書改定版では、初版にあった城山公園での鳥の出現率、鳥の優占率の図表がなくなっている。)
松山の自然、海や山、そして森林は人々の生活空間から比較的近いところにあるが、美しい鳴き声を聞かせてくれる鳥は身近にはあまりいない。

(以下に掲げる画像のうち樹木および野鳥の写真はいずれもWikipediaによる。2016.11.12)

左オオルリ、 右コマドリ

家串の自然

これに対して、家串では生活が自然のど真ん中で行なわれる。同じことだが、家串の自然は生活の真っ只中に入り込んでいると感じられる。家串に来る前には、私は野鳥に対して特別の関心はもっていなかった。時間を作り、それなりの準備をして外へ、自然の中へ出かけるとすれば、山へ探鳥にではなく、海へ釣りに行く。だが、野鳥に対してなんら関心は持っていなかったにもかかわらず、私は家串に来て、たちまちすばらしい野鳥の鳴き声に気がつき、耳を澄ませないではいられなくなった。

家串の後背地をなし、西に向って宇和海に伸びだしている由良半島は家串付近で幅は1キロちょっとで、そして尾根筋の標高は200mくらいである。半島は海岸沿いの舗装された県道と、ところどころに存在する人家の集まった場所を除けば、ほとんど樹木に覆われている。私の家は家串地区の西の端で、海岸から100m程度はなれたところにあるが、家の前でカーブする県道は幅が10mほどもあって津波の際の避難場所に指定されており、そのことを示す標識には標高10mと記されている。(ただし、2014年5月に発表された「南海トラフ大地震・愛媛県被害想定」によると家串地区には最大17mの津波がくるとされていて、現在の避難場所は標高が20mある農道上である。)

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戦後は段々畑におおわれていた由良半島

2004年の合併で家串は愛南町になったがそれまでは内海村であった。合併直前に発行された『内海村史』で家串地区の以前の詳しい地図を見ると、中心部には、現在使われていない「西の谷」と「東の谷」という地名(小字コアザ)がついていた。半島の他の集落も似たり寄ったりであるが、谷と呼ばれた場所が集落の中心になっているように、家串は背後に山の急斜面が迫った場所で、平地はごく少ない。
多くの家は、海岸のすぐ近くで傾斜が緩くなった山の斜面に立っており、海岸を埋め立てて作られた県道に出てくる狭い路地はすべて坂になっている。そして、路地の両側に並ぶ家々は1mか2mの高さの階段状になった土地に建てられている。中には、高い方が路地からから3mもありそうな石垣の上に立っている家もある。

香港や尾道など町全体が山の斜面上に広がっている都市もあるし、山地の多い日本では山の斜面を切り開いて造成された住宅団地は少しも珍しくない。山の斜面に広がる市街地や都市近郊の団地と違っているのは、家串では、路地の坂道を30〜40メートル上って数軒の家並みが終わると、その先はこんどは段々畑になっている点である。もっとも、今も耕されているのは山に向って数段だけで、そこから先は林で、段々畑は樹木で覆われてしまっている。半世紀まえに放棄された夏蜜柑の木を交え、ヤマモモ、ウバメガシ、トベラなど海岸に多い樹木と、マツやスギやシイ(スダジイ)、ビワなどの樹木からなるうっそうとした林が石垣で囲った段畑を覆って、頂上まで広がっているのである。

ヤマモモの木(左)と実(右)


スダジイ(左)とウバメガシ(右)

昭和20年代から昭和40年ころにかけて撮影した原田政章の写真集『由良半島』を見ると、網代地区から先の先端部を除く由良半島の大部分、とくに家串周辺は、完全に頂上まで耕された段畑が描く100本を越える美しい縞模様=等高線の人工曲線で埋め尽くされている。

写真、左は段畑の縞模様。
右は収穫した芋を索道で下す様子。共に『由良半島』による。



下左は私の家のそばにある索道の残骸。(ここへ、原田の写真にある索道がつながっていたことは、上から見下ろした原田の写真から明らか。)

なお、下右の写真は愛媛県明浜町(宇和島市の北隣。2004年の合併で西予市の一部になった)のミカン農家で現在使われている索道の巻き上げ機。同形であることがわかる。原田の写真では芋を入れた籠が写っているが、ここでは四角い荷台が写っている。ブログ「愛媛のおいしいみかん 青い楽園海と山と人 光と風と水 since2005 」http://blog.goo.ne.jp/meguminoame/e/2f3db2e395e96a2ae8abbd9d612759f8から借用した。



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脇道に入るが、このブログによれば「平らな土地がないリアス式の明浜町では、山のみかんを運搬するのが、何よりも重労働であります。
今でも、写真のような索道が、現役で働いています。
この索道は、面白いシステムです。
上と下で荷台があるのですが、上の荷台に荷物を乗せておろすと、その力で下の荷台が上がってきます。 またその上がってきた荷台に荷物を載せておろすと、下の荷台が上がってきます。
つまり、動力が要りません!!エコロジカル!! このような索道も、エンジン式のモノレールも入らないようなところでは、天秤棒が活躍します。」
(原田の写真集には、天秤棒で芋を運んでいる当時の家串の人たちの写真もたくさん載っている。)

このブログの<自己紹介>によれば、この方は非核平和農民宣言(2010.5.26)をし、「目指すのは、柑橘の単一作物栽培からの脱却。環境への負荷が徹底的に少ない、持続的パーマカルチャー〔自然で永続性のある農業〕が、オレの夢。実践と研究の日々。 」
また<栽培履歴>によると「2005年より全園地完全農薬不使用連続記録更新中」とのこと。
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現在の由良半島で、人間の存在、支配を感じさせるのは、真珠貝養殖筏の広がる海と、海岸を走る舗装された県道と、集落のある狭い「谷」部分だけであり、そこから上のかつての人間の支配を意味した段畑は、携帯電話やテレビの中継施設のある尾根の一箇所だけを除き、すっかり自然に奪い返されてしまっている。ただし「自然に奪い返された」と言っても人間中心主義/非・人間中心主義のどちらかに立とうというような意味合いを込めているわけではなく、単に、藪で覆われた林の中は道がなく、入っていきにくいというだけの話だが(注)。

(注)原田政章『由良半島』によれば、「宇和島藩は財源を求めて漁場の開拓をし、新漁場ができると、山を開いて段々畑を耕作し、食糧の自給をした」。由良半島は北側の須下(スゲ)、成(ナル)などから先に開拓が進み、南岸の魚神山(ナガミヤマ)が新浦として登録されたのは1675年だという。
宮本春樹『イワシからのことづて』(創風社出版、2006)によると、明治期以前、「由良半島は樹木が繁り人の居住を阻んできた土地であった。そして豊かな魚付き林であった」という。
1800年代に入り網代にまで開拓が進められ、浦和盛三郎が大敷網によりカツオやマグロを獲って巨万の富を築き、さらに「浦和家魚類製造家屋」を建てたのは明治22(1889)年である。(「魚類製造家屋」や浦和盛三郎については、第2章「由良半島の探索」の「文化遺産「魚類製造家屋」を見せてもらう」参照。)
そして、その50年後の昭和14(1939)年には、宇和海にマグロの大群が現われ、内海でも沿岸すぐ間近で一網七百尾から八百尾入った。また、イワシの大漁で村々は沸いたという。この頃には由良半島には、魚付き林として樹木が生い茂っていたのであろう。
そして、宮本は「由良半島は戦後の一時期、段々畑のために大いに開かれた」と書いている。
宮本は08年12.17愛媛新聞「四季録」では、明治中期の内海村について「耕地面積は限界に達していた」と書いている。内海村は半島部分だけから成っていたのではない。したがって、半島部以外の耕地面積が限界に達した結果、とくに戦時中の食糧不足から、由良半島の段畑化が進行したのだろう。つまり、前著の記述とあわせて考えると、由良半島が耕し尽くされ、段畑化が完了したのは「戦後の一時期」のことだと考えられる。 -------------------------------------------------

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戦後、由良半島の開発小史

倒木をまたぎ藪を掻き分けて林の中に入っていくと石が積まれていて、山腹の斜面が階段状になっていることがわかるが、遠くから見る限り、段々畑の面影は全くない。宇和島市三浦半島の遊子(ユス)地区などでは、段畑でジャガイモなどの作物が作り続けられており、その人工の(あるいは自然と調和した人工の)景観の美しさのゆえにであろう、現在は観光資源ともなっているようだ。

由良半島では、昭和30年代までは、段畑に麦とさつま芋が植えられており、その後、かんきつ類に次第にとって換わられ、やがて40年代後半、真珠貝の養殖が盛んになって、段畑は省みられなくなっていった。人の手によって作り変えられ、人間に支配されていた半島の自然が、耕作放棄によって、いわば自由を取り戻し、元々の自然の姿を取り戻したのである。

現在の国道56号線が、由良半島付け根部、鳥越峠に掘られたトンネルの開通によって完成したのは昭和46(1971)年である。鳥越峠の北側と南側はすでに大正時代に(旧)国道で結ばれていてバスも通っていたが、道幅は狭く車のすれ違いに時間がかかり不便であった。また、家串をはじめとする半島南岸地区の住民が国道に出るのには非常に時間がかかった。
昭和30年頃までは、半島南岸に点在する浦々の住民は、隣の地区に行くには手漕ぎの舟を使うか、半島尾根筋の細い山道を歩くしかなかった。家串から国道に向かう際、集落の端から隣の平碆地区までは直線距離で400m。現在は県道のトンネルに並行した長さ300m弱の歩道トンネルがあって、集落から集落まで歩いて5分でいける。しかし、トンネルができるまでは自転車も通れない急坂を1キロ近く登り降りしなければならず30分もかかった。平碆から旧国道に出るにもまた尾根道を歩かねばならなかった。

そこで、家串をはじめとする由良半島南岸の人々、および御荘や城辺地区の人々が用事で宇和島へ、あるいは修学旅行などで松山へ行くために、現在の国道の開通以前におもに利用したのは、内海湾に面した諸地区を結び由良の鼻を迂回する定期船であった。海の旅は、晴天の凪のときには快適で楽しい。しかし荒天時には船旅は決して楽ではないし、また欠航することもあっただろう。昭和40年代に入ると、波の高い由良半島の先端を迂回せずに済むように、半島道路の建設進捗とあわせて、半島中間部に半島を横断する運河が開設された。

他方、国道から平碆、家串を通り、半島南岸の諸地区を結び、16km先の網代に向かう由良半島道路(県道網代線)の建設が昭和32(1957)年に着工された。工事はもっぱら人力だけで行われた。失業対策のための事業でもあったという。途中の魚神山(ナガミヤマ)まで定期バスが運行されるようになったのが昭和49(1974)年、網代本谷までバスが運行されたのは昭和59(1984)年)、終点本網代までのバスの乗り入れは平成3(1991)年のことである。

国道56号「鳥越トンネル」愛南町側(南側)出口にあるバス停「鳥越トンネル」から見た写真。左は国道で宿毛(高知県)に向かう。県道網代線は右に入る

こうして、半島は、先端部を残して、舗装された道路によって縦断されることになり、バスやトラック、自家用車が走るようになった。アコヤガイ養殖漁業のインフラ整備のために、各地区の集落近くの海岸は埋め立てられ、護岸が施され、コンクリートの大きな防波堤や離岸堤が設けられた。養殖真珠がもたらす繁栄のゆえに、労働力と産業はもっぱら海に向かった。由良半島の自然は、こうした人間の活動の隙を縫って、陸上部分において勢力を回復したに過ぎない。自然は、陸の一部で回復してきたが、海と海岸部では勢力喪失が続き、人間の支配を受けてきたということになろう。

だが、かつて繁栄を生み出した真珠産業は90年代半ばに発生したアコヤガイの大量斃死以来すでに15年近く続く苦境にあえいでいる。家串という小さな漁村は、日本社会全体の最近の傾向、高齢化、人口減少、長期化する産業不振などの現象を他のどこよりも如実に示しているかのように見える。たとえば、旧内海村は一時期その財政に関して「日本一豊かな村」だった。しかし最近では、といっても、東北大震災以前のことだが、日本一貧しい村になったという説がまことしやかにあちこちで聞かれた。家串も、ほかの内海地区も、真珠養殖漁業で依然のような活況を取り戻すことは、後継者が少なくなっていることを考慮すると、困難なのではないだろうか。

こうした状況を背景に、家串地区では、自然による失地の回復、半島の「再野生化」が現在も着々と進行中である。産業の衰退はうれしくないことであるが、半面、その再野生化の波が私の家のすぐそばにも迫り、野鳥の鳴き声がいっそう身近になりいっそう賑やかになりつつあることはうれしくないといってはうそになる。

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初めてウグイスの姿を見る

毎年、五月の連休のころは水温が急に変化するようで魚が釣れない。釣りを休み、家にいる日が増える。二階でPC(ワープロ)に向かって日記を書いていると、窓のすぐそばでウグイスの鳴き声が聞え、思わずイスから立ち上がって、不透明のガラス戸をそっと開け、網戸越しに外を見る。私の家の敷地から1段高くなっている隣の土地は畑になっていて、以前、もうすぐ90歳になるという老婦人、堀田さんが耕していたが、この1、2年は彼女が来なくなったせいで、畑は一面大人の背丈ほどに伸びたセンダングサ、セイタカアワダチソウ、ヨモギ、オオアレチノギクなどで覆われてしまっている。

セイタカアワダチソウ(左)      オオアレチノギク(下)





















センダングサ



隣の畑には、私の家から手を伸ばせば届きそうなところに、人の背丈より少し高い柿の木が生えていて、青々とした葉を繁らせている。その脇には甘夏の木があり、黄色い大きな実がまだたくさん残っている。鳥の姿は見えないが、どうも柿の木に止っているようだ。大きな声でホーホケキョッと鳴く。三鳴鳥の1つとされているだけあって、鳴き声はやはりすばらしい。家串でウグイスの鳴き声を楽しませてもらって5年になる。これまでは残念ながらまだ一度も姿を見たことがなかった。こんなに近いところで鳴くのは初めてなので、ひょっとして柿の葉の間に姿が見えないかと目を凝らすが、このときにはやはり鳥の姿は見えなかった。

この柿ノ木で鳴くようになってから2ヵ月後にようやく、網戸越しにではあったがウグイスの姿を見ることができた。前と同じように2階でワープロに向かっていると、大きな鳴き声が聞え、足音を忍ばせて窓に近寄って見ると、葉っぱが揺れ動き、彼の止っている場所がわかった。どこにいるのかがわかったのは初めてである。姿を見ることができるかもしれないと息を詰め、目を凝らす。葉っぱの揺れる場所が移動し、次ぎの瞬間、葉っぱの陰から飛び出した彼は、2mほど離れたところに立っている、枯れて葉のなくなったオオアレチノギクの茎に体を横にして止った。全身が見えた。網戸越しで少しぼやけた感じはするが灰色がかった薄茶色の体をしている。テレビの映像などで見た姿だ。網戸を開ければ音がして逃げてしまう。もっとよく見たいと思ったが、5秒と止っていなかった。すぐに、私のいる位置からは見えないところに飛んでいった。「見たぞ!」と少し興奮した。

ウグイス

そしてその2、3日後、大きな鳴き声またが聞えてきた。私は口笛で鳴き声を真似し、また娘の晶が子どもの頃リコダーで演奏していた「ビューティフル・サンデー」のメロディーを口笛で大きく吹き鳴らしながら窓に近づいた。その前の日、姿の見えぬウグイスに向かって、鳴き声を真似た口笛を吹いているとウグイスがそれに応えて鳴いたように感じ、口笛はウグイスとのコミュニケーションに役立っているのではないかと考えていたからである。

網戸の内側で私が口笛を吹き鳴らし続けていると、なんと、ウグイスが柿の葉の間から姿を現すと、その隣の甘夏の木のてっぺんに止った。ウグイスが木のてっぺんに止って堂々とその全身をさらけ出すのを見たのは始めてである。彼は私が吹き鳴らす口笛の音を何だと思ったのだろうか。すぐ近くの網戸を隔てた建物の中から仲間ないしはライバルの鳴き声に少し似た、おかしな音が発せられていることには、昨日来気がついているはずだ。網戸の陰に何か動くものがいる気配も感じていたのではないか。
私は網戸越しであることに満足できなくなり、口笛をいっそう大きく吹きながら、反対側のガラス戸を20〜30センチ開けて、その間からじかに彼の姿を見た。私が窓をあけたことに気がついたかどうかは分からないが、彼は逃げなかった。私の見ているところから4mほどの距離があり、羽の色合いなど細かな特徴までは分からない。大きさ、見かけはスズメと大して変わらない。一瞬、スズメだったかと思ったとき、体を震わせながら「ホーホケキョッ」と一鳴きした。体をわざと私に見せ付け、存在を誇示しているかのようだった。私はなんだか人間の女性に裸体を見せ付けられたかのような興奮を感じた。彼は、数秒の間そこに留まったあと、飛び去った。

同じ年の2月、松山の家の庭の百日紅にメジロが止ったのを見た。百日紅はほとんど枝だけになっていて、十二分にその姿を眺めることができた。メジロは私が透明なガラス戸越しに家の中から見ていることには気がつかなかったようだが、辺りを警戒しているらしく、忙しく体を動かし頭の向きをあちこちに変えながら、20秒か30秒枝に留まっていたが、間もなく他所へ飛んでいってしまった。その間に鳴き声を発することはなかった。住宅街に姿をあらわしても、自分のなわばり、自分の存在を主張することは必要はないだろうから、鳴かなくて当然だ。内海村の村鳥であるメジロを捕獲しようと、由良半島の山林にやってくる人がいる。野生のメジロは山の中にいる。飼育されているメジロが、家の中のあるいは軒先の籠の中で鳴き声を上げるのは訓練の結果なのである。

メジロ  


今、ウグイスが私の家のすぐ脇の柿の木に止って、自分の存在を誇示し、ここは自分の縄張りだと主張している。ウグイスは、柿の木やその隣の甘夏の木そして周囲の草薮、さらに、堀田さんが耕すことを止めたこの畑全体と、その隣の、たぶん、昼間留守勝ちで警戒すべき人間の気配が感じられない私の家とを彼のなわばりにしようとしているのだ。

私が家串に来たのは5年前だが、堀田さんはそのときに88才になると言っていた。当時は家串郵便局の局長を務めていた60前の息子とその嫁の3人暮らしであった。始めの2年ほど私の家の隣の50坪ほどの畑にほぼ毎日やってきて、草を刈り、耕し、作物を作っていた。
十分に深く耕すことはできず、土が固く、収穫の時に私が手伝って掘り起こした数本のゴボウは、根が幾つにも分かれ、捻じ曲がったものばかりだった。レタスやキャベツは乏しい天水しかなかったせいか、わずかな葉っぱはほとんど巻いてなかった。スナップエンドウのための「支え」は竹の枝を数本刺しただけのもので、蔓の半分以上は低いところで横に広がり、周囲の雑草にからみついていた。堀田さんは少しは自分で持って帰り、残っているものは私が自由に取って食べるように勧めてくれた。私が収穫した、残りのエンドウはずいぶんたっぷりあり、1週間は食べられた。

私は時におやつを買ってきて、家に上がっていっしょに食べないかと誘った。彼女はひどく遠慮をし、家に上がったのは1度だけだった。魚が好きだというので、釣れた時に家に持っていくと、嫁がいい顔をしないので一回きりにしてくれと言われた。
甘夏の木が2、3本あり、これは毎年、たくさん実をつけた。ある年の5月、「連休に来て取ってくれると言っていたイトコの孫が、結局来れなくなった」というので、代わりに私が木に登って収穫作業をしたことがある。3、4ケース(たぶん、1ケースには50〜60個ほど入る)収穫し、私は1ケースもらった。

堀田さんは夏は涼しい早朝のうちに畑にやってきて、日が高くなると帰っていったが、他の季節には昼間畑で過ごしていた。彼女はずっと作業をしていたのではなく、畑に座っているだけということの方が多かった。家にいてもやることがないと言っていた。どこの家でもあることだが、嫁さんとの関係もうまくいってなかったようだ。3年ほど前、息子が病気で亡くなった。彼女はその後急に体が衰えたようで、畑に来ることが減り、母屋とは別棟の、彼女の部屋のある倉庫兼用の建物の裏口の戸をあけ、外を眺めていることが多くなった。そして間もなく姿を見せなくなった。宇和島の老人施設に入ったという。

2011年の秋に彼女は亡くなった。その後アルバイターの手で畑の雑草が刈り取られ、足を踏み入れるのが難しかった草薮がすっかりなくなり、下枝を払われたカキの木と2本の甘夏の木が残った。さっぱりとしたが、少し寂しい感じがした。来年、ウグイスがここにやってきて縄張りにしようとまた鳴くだろうか。

畑はある。しかし、その子どもの世代、孫の世代に耕し手がいない。立派な家があり、夫が退職までたとえ小さな集落の郵便局であれ局長を務めていたのだから、残った嫁さんには経済的心配はないだろう。しかし、家串で暮らし、家串で働く、人が減っている。

30代の息子とともに真珠貝の養殖をやっていたFさんも、郵便局長の堀田さんがなくなる前の年に、50代でがんで亡くなった。本人の借金だけならなんとかなったかもしれないが、何人かの他の漁業者の連帯保証人になっていた。Fさんの死後、息子が中心になって1、2年、近くの人を雇って仕事を続けたが、リーマンショックのせいで起こった真珠不況で行き詰まった。真珠はやめ、奥さんと息子は外で勤めたがどうにもならず、家を借金のカタにとられた。
足の不自由なおばあちゃんがいて、私が自治会から借りて物置にしていた作業小屋の向かいの倉庫で、毎日、小槌を使って、アコヤガイを入れるネットについたフジツボを叩き潰す作業をやっていた。県道を隔てた向かいなので毎日のように顔が合い、挨拶をした。魚が釣れると時々上げた。ネット掃除の合い間にどこかで畑を作っているらしく、「少しだけど」とよくできた新鮮なサニーレタスや大根などを魚の代わりに持たせてくれた。転居したのであろう。3人の姿は見られなくなった。

私の友人である北條さんの中学の同級生だというAさんは、すでに私が家串に来た年に、真珠貝養殖の自分の仕事を継続できなくなり、ときどき、他の人の仕事を手伝ってやりくりしていたが、間もなく広島の造船所に出稼ぎに行った。留守の間に家庭は崩壊して、もとのAさんの家は空家になっている。

Bさんも以前は父親の後を継いで真珠貝養殖をやっていたが、しばらく前から、3人の子供、奥さん、母親を残して、出稼ぎに行っている。何年か長崎の運送会社に勤め大型トラックの運転手をしていたが、その後は岩手で送電線の補修の仕事をしていた。年を取ったら長距離運転は目が疲れるので続かないのだという。2015年には北海道で働いているという。
祭のときにだけ帰ってくる。私の船で釣りをしたいというので一度一緒に釣りに行ったが何も釣れなかった。お母さんが少しの畑を耕しており、彼の留守にときどき家に魚をもっていくと、お礼だと野菜を分けてくれる。最近は脚が悪くなって思うように耕せない。その上、イノシシにジャガイモを全部やられたとこぼしている。私が家串に住んだ最初の年、長男は高1、次男は中1だったが、現在長男は松山で働き、次男はマツダに勤めて広島にいるという。

Kさんも、5年程前までは、売り上げの減った真珠貝のほかにヒオウギ貝を半分とりいれて養殖の仕事を続けていたが、不況のあおりで、やはり広島へ出稼ぎに行った。Kさんの息子と娘は大学に通っており、病院に勤める母親とともに宇和島に住所を移した。コンクリート建ての彼の家は空き家になっている。

このように、家串で働く人の数が減り、土地があっても耕す人はいなくなっている。

草ボウボウの畑の柿ノ木から、同じウグイスの鳴き声が7月まで続いた。ウグイスの声の質、鳴き方は個体ごとに異なっている。同じホーホケキョであっても、低く太い声もあるし、甲高い声、かわいらしい「こどもっぽい」声もある。ゆっくりと静かに鳴くものもあるし、急いで「早口に」鳴くものもある。ホーホケキョでなく、ホーホケキキヨと余分の音を加えて鳴くものもあれば、ホーケッキョ、あるいはホーイッチョと省略して鳴くものもある。ホーではなくヒューと鳴くものもある。この柿の木で連日鳴いていたのは同一個体だと自信を持って言えるのは、声の質や鳴き方の違いがはっきり分かる程度にまで、私の耳はこの5年間に肥えたからである。
2015年から私は松山滞在中は早朝毎日のように住宅地の外れの、山際の道をウォーキングしているが、松山でも山地、従って森林に近いところに行くと様々な鳥の鳴き声が聞こえる。最もよく聞こえるのはウグイスで、ここでは「ホーホケキョ」ではなく「ヒー、ホケキョ」と鳴くウグイスの方が多い。

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ウグイスの「正調」と「乱調」

愛媛新聞の「詩壇」に載った詩の中では「ホーホケキョッ」をウグイスの鳴き方の「正調」だと書いてあった。多数であることや平均が正しさとは何の関係もないことは言うまでもないが、日本では昔からウグイスの鳴き声を「ホーホケキョウ」(法、法華経)と聞いてきた。ウグイスの鳴き声の多くは「ホーホケキョ(ウ)」と聞えるということは事実で、これを詩的ユーモアから「正調」と呼ぶとすれば、家串の家の隣の柿の木で鳴きつづけたウグイスはまさしく正調で鳴いていた。そして、なぜか、この年は、周囲の、別のところから聞えてきていた4、5羽のウグイスの鳴き声は正調ではなく、どれも「乱調」であった。こういうわけで、私は、この柿の木と私の家を含みその周辺を自己の縄張りだと主張する一羽のウグイスが今年の夏、鳴きつづけたと考えている。もちろん、このことの証明は不可能だろうが。

「詩壇」の選者長谷川龍生はその評で、この「うぐいす」という題の詩は「その鳴き方に正調をもとめています。山道に自然道が少なく車道が多いので鳥の鳴き方にも、乱調が目だってきました。山深い場所でしっくり聴きたいものです。」と書いている。
私は、うぐいすは車道近くでは「乱調」で鳴き、山深い場所では「正調」な鳴き方をするという、選者の言葉を俄かに信ずることはできなかった。ところが、言語学者で鳥に詳しい(自ら「私は鳥の専門家だ」と言っている)鈴木孝夫の『ことばの人間学』(新潮社、昭和53年)を読んで、長谷川の言っていることに合点が行った。

鈴木によると、音声を発する生物はたくさんいるが、自分以外の音声を真似ることができるのは人間と鳥だけで、猿は物まねはするが音声はまねない。猿は知能が高く、人間の言語を教え込もうとする研究がある時期行われたが、「ママ、パパ、カップ」で終わりになった。
鳥は九官鳥やオウムだけでなく程度の差はあれ、ほとんどの鳥が他者の音を覚える。日本では江戸時代から、鳥を飼う人たちは、聞こえて来る音を鳥がまねて鳴くことを知っており、「拾い込み」と呼んでいた。また、付け子制度と言って、山野からとってきたひなに、優秀な鳥の鳴き声を一定の方式に従って十分聞かせて、鳴き声を覚え込ませ、このように教育を受けた若い鳥をこんどは次の世代の教育に使うと言う方法が、徳川時代からすでに何百年も続いている。とりわけ、ウグイスにおいてはこの方法は極めて長い歴史と伝統を持ち、あまたの名鳥および数々の鳴き口の流派を作り出している。
鳥はさえずりを親から学習するが、違う鳥を(そばに)持ってくるとその鳴き方を覚える。ほとんど親から学ぶのは、1週間か2週間の学習の臨界期まで親の声ばかり聞くからである。ジェット機が通ったり、樵が電動のこぎりを使ったりするとそれを覚えてしまう。昔から飛行場の近くのヒバリは値段が安い〔たぶん、以前は野鳥を捕獲して売ることが自由に行われていたのだろう〕。深山幽谷、日光のウグイスがいいなどというのは樵もいない国立公園だから。こうした「拾いこみ」は以前から経験的にわかっていたという。
そうだとすれば、長谷川のいうように、自動車が通る道路際のウグイスは車の音を真似ることがあるだろうし、平均的な「ホーホケキョ」と違った「乱調」の鳴き方になることもあるだろう。
鈴木孝夫著作集8『人にはどれだけのものが必要か』(岩波書店、2000年)の「私の生き方考え方」に入っている「鳥の言葉」も参照。

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家串の三鳴鳥

家串に来て間もないころ、すごく「目立つ」、あるいは姿は見えず声だけが聞こえるのだから「耳立つ」と言いたい、美しい鳴き声に3種類あることに気がついた。

「耳立つ」は現代語としては使われていないのではないかと思うが、『広辞苑』には、源氏物語を出典にして「聞いて心に残ること」、「聞き捨てにできないこと」とある。私は、目には見えないが音で他のものよりも際立っていて、不快ではなく、注意を引くものを「耳立つ」と言いたいのだ。

まず第一にウグイス。私はカラスやスズメ,ツバメは子どもの時からよく見てきたので、「知っている」。見ればすぐにそれがカラス、スズメ、ツバメであることは分かる。そしてそれらの鳴き声もよく知っている。しかし、私はウグイスについては、鳴き声が「ホーホケキョウ」であるということを本で読み、あるいはラジオで聞いて知っていただけであり、ウグイスがどのような色や姿をしているのかは知らなかった。もしかしたら一度や二度、図鑑などで見たことがあったかもしれないが、覚えていなかった。

実際、後でふれるが、私は、「ウグイス色」の羽をしたメジロを見たときに、それがウグイスだと思った。ウグイスの実際の姿は見たことがなかった。(その後図書館で見たDVDやNHKの自然探訪のような番組で、鳴いているウグイスの姿を何度か見た。)また、その鳴き声も実は非常に様々である。このことについてはまた後でふれる。だが、家串に来て、真冬の一時期を除き毎日のように私が聞いた「ホーホケキョー」かそれに似た鳴き声がウグイスであるということには何の疑いも持たなかったし、それに間違いはなかったと思う。

他の2つの、正確に言えば2種類の鳴き声のうちの1つはまもなく明らかになった。私は3つの鳴き声の主を調べ、それを「家串の三鳴鳥」と呼ぼうと思った。しかし、他の1つは、それが何の鳴き声なのかがわかるまでに、2年か3年かかった。鳴き声だけを聞いて、その持ち主が何であるのかを知るのは難しいのである。

その二種のうちのひとつは、突然、甲高く、トゥルルルルルッと鳴きだし、途中から、プティト、プティト、プティトと鳴き方が変り、次第にプ、ティート、プ、ティートと、ゆっくりした尾を引く鳴き方になり、そして鳴き止む。「甲高く」と書いたが、大きな声で、目立つ(耳立つ)という意味である。ソプラノのアリアであっても、早口で繰り返される場合には、そう感じられることもある。鳴き方の問題である。鳴き声の質は、澄んで高く、きれいで、美しいのである。だがこの鳴き声の主は図書館で調べたDVD、録音テープなどでなかなか分からなかった。

もうひとつは、やはり甲高く、きれいな鳴き声で「ピッチョクルリ、ピッチョクルリ」、あるいは演歌調に力んで発声したとでもいうような感じの「ピッチョグルリ、ピッチョグルリ」という鳴き声である。ウグイスの「ホーホケキョー」も特徴がはっきりしていて、他の鳥と間違えることはないが、この「ピッチョグルリ、ピッチョグルリ」あるいは「ピッチョクルリ、 ピッチョクルリ」という鳴き声も、他の鳥の鳴き声とは全く違っていて、図書館でテープやCDなどを聞いたときに、直ちにコジュケイのものだと分かった。私の家の近くでは、ウグイスに負けず劣らずよく聞こえる。ウグイスよりは少し喧しく、忙しい感じはあるが、しかし、ウグイス同様きれいで、聞いて楽しい鳴き声である。

始めてコジュケイの声を聞いたときには、何と書き留めたらいいか、目をつぶって少し考えた。現在では必ず「ピッチョグルリ、ピッチョグルリ」と聞こえる。『日本野鳥大鑑・鳴き声333』(小学館、1996)の著者・蒲谷鶴彦によれば、コジュケイの鳴き声は「ピッピーピーチョホイ、ピーチョホイ」だという。「チョットコイ」とも聞こえるという。私はこれを読んだあと、コジュケイの鳴き声が聞えてきたときに、何度か目をつぶり頭の中で「チョットコイ」と聞えないかと「ためし聴き」したことがあったが、そうは聞えなかった。文字に書かれたものを読むだけでは鳴き声の主を知ることはむずかしいが、録音された鳴き声を聞けば、コジュケイは「一耳瞭然」に分かる。

以上が「家串の三鳴鳥」候補の鳴き声である。他の鳴き声を記す。カッコウの鳴き声。私は子どもの頃から聞いたことがあり知っている。多くの人が知っているだろう。また、家串に来て始めて聞いたが、ホトトギス。この鳴き方も特徴がはっきりしていて、聞けばすぐにわかる。他に、姿を見、鳴き声も聴いたが、調べてもなかなか鳥の名前がわからなかった、イソヒヨドリがいる。今ではウグイスととともに「家串の三鳴鳥」をなすと考えている。他に依然として鳴き声の主がはっきりしないものとして、「ピュイユー、ピュイユー」。これに似たものに「ピューイ、ピューイ」、あるいは「ピュー、ピュー」ないし「ヒュー、ヒュー」。これらは同じ一種類の鳥の鳴き声なのかいまだ明らかではない。しかし、いずれも、きれいな、澄んだ声である。物悲しい、あるいは物寂しい感じを受ける。

ほかに「ボウボウ」という声を聞いたことがある。山鳩だろうか。また裏の畑のすぐ上で聞こえた奇妙な鳴き声。「コション、コション、コション」というのが一番近いが、実は、なんと言う風に表記したらいいかわからないまま、他に表現しようがなく、仮に、このように書き留めた。ほとんど同じでペースで休みなく、数分間、このように鳴きつづけたが、正体不明の鳥である。

退職後、家串で釣り中心の生活をはじめてから、最初は3、4ヶ月に10日か2週間、松山に戻り、息子のための食事作りなど家事をこなした。そして、松山にいるときに、市の図書館に行き、テープ(NHK「野鳥百科」1〜3.)やCD(蒲谷鶴彦編『日本野鳥大鑑・鳴き声333』)などを借りて、私が家串で聞いている鳴き声の主である鳥がなんであるかを調べてみた。図書館にはDVDも入っているが、これは館内閲覧に限られていて、機器が供えられた決まった席で聴くため、予約が必要である。バード・ウォッチャーには有用だろうが、私はとくに観察しようとは思っていなかったので、DVDはほとんど見なかった。実際、4、5年の間、上で名前を挙げた鳥の姿は一度も見たことがなかった。また鳴いているときに姿を見たこともなかった。私が毎日聞いている鳴き声の主である鳥が何であるのかを知るためには映像は必要なかった。

私が聞いて記憶している「ピューイ、ピューイ」または「ピュイユー、ピュイユー」(これを@としておく)を、蒲谷のCDに録音されている鳥の鳴き声と比べてみると、ワシ・タカ科に属し、タカの仲間のハチクマの鳴き声に最もよく似ていた。このCDのハチクマの声をAとする。ハチクマはハチを餌として好む。とくにジバチ(クロスズメバチ)が好きだという。ハチクマは地中にあるジバチの巣を脚と嘴とで掘り出す。このときハチに刺されても大丈夫であるように顔や足の皮膚は厚くなっている、という。

ハチクマ

家串に引っ越してきた当初、(建てられてから10年ほどの家だが)家の天井と壁の境目などに、バタークリームを押出して作った塊のような、ジバチの巣があちこちにあるのに気がつき、すべてこわした。今も、たまにしか開けない窓を開けると、サッシの上の溝から土が落ちてくる。たぶん、ジバチの巣があったのだろう。また、家の周りでジバチが飛んでいるのをしばしば見る。この周辺にはジバチが多いのだ。すると、ハチクマが好きなジバチを狙って、私の家の近くにしばしばやってくるということが十分考えられる。

蒲谷によれば、鳴き声が聞ける機会が比較的多いのは繁殖期における巣の周辺で、普段はあまり鳴かない。CDに録音されているのは繁殖期の終わった9月ごろのものだというが、蒲谷は「ピィヨー」、あるいは「ピュイイイー」とオノマトぺーしている。オノマトぺーについては後で少し詳しく述べるが、とりあえずは、音を文字で書き表すことだとしておく。

蒲谷の『野鳥大鑑』のCDでは、ノスリの声もいくらかは@に似ている。ハチクマと同じくタカの仲間のノスリは四国で繁殖するというから、四国には多くいる鳥だと思われる。『愛媛の野鳥観察ハンドブック−はばたき』(愛媛新聞社、平成4年)によると「みかん畑や低山地に生息」する。昆虫、鼠などの小動物のほかにキジやヤマドリを食うという。由良半島にはこれら生物は多くいるようなので、きっとノスリもいるに違いない。その鳴き声は蒲谷のオノマトペーでは「キューイ、キューイ」、あるいは「ピィーヨ、ピィーヨ」である。私のオノマトペーでは、その同じCDの鳴き声は「キューイ、キューイ」ないし「ピューイ、ピューイ」であり、@と同じかそれによく似たようなものになってしまう。しかし、聞いた感じは、CDのハチクマつまりAとも、私の聞いている@ともだいぶ違う。ノスリの鳴き声はハチクマとは違って、濁っていてひび割れたような感じの声であり、そして、物悲しさ、物寂しさのようなものがない。

蒲谷のCDのトラツグミも私のオノマトペーで「ヒュー、ヒュー(波打って右下がり)」、または「ピュー、ピュー」というさびしく、ゆっくりとした鳴き方で@に似ている。だが、私が聞いた@は、鳴き声の終わりに、たいていは「イ」または「ユー」という音が入っていて、トラツグミの鳴き声とは異なるように思う。

だが日記に、「ヒュー(右下がり)、ヒュー(同)という鳴き声を聞いた」と2回ほど書き留めてもいる。末尾に「イ」あるいは「ユー」を伴っていない鳴き声である。最近も「ヒュー、ヒュー」の鳴き声がときどき聞こえる。これはトラツグミかもしれない。

蒲谷によるとトラツグミは3月からさえずり始め、6月まで聞かれる。深夜から早朝の日の出前後までさえずり、昼間は少ない。ただし曇りのときや霧に覆われて薄暗くなったときには、夕方などにさえずることもある、という。私は深夜まで起きていることはなく、また、早朝、日の出前後にすでに起床していることも少ないため、トラツグミの声を聞く機会はあまりなかっただろう。そうだとすると、@はハチクマである可能性が高い。

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トラツグミについて

蒲谷によると、トラツグミの鳴き声は「不気味」だと感じられ、最近ではUFOの音と聞き間違え、警察が出動するケースもあったという。

また『平家物語』の中で源頼政が退治した怪物の声と似ているともいう。この怪物には名前がなく、トラツグミの古名であるヌエを怪物の名前とし、あたかもトラツグミが怪物であるかのように言い伝えられていると言う。調べてみると「鵺(ヌエ)のこと」は『平家物語』巻四にある。黒雲とともに現れ、頼政に射落とされた怪物は「頭は猿、胴(ムクロ)は狸、尾は蛇、手足は虎にて、鳴く声、鵺にぞ似たりける」とある。ヌエという語は知っていたが、トラツグミが源平の時代には鵺と呼ばれていたのだと始めて知った。

蒲谷のCDに録音されたトラツグミの鳴き声から、私はさびしい感じを受けたが、「不気味」さは感じなかった。しかしそれは@に似ていなくもない。私が聞いた「ピューイ、ピューイ」または「ピュイユー、ピュイユー」と「ヒュー、ヒュー」は別の鳥の鳴き声だとすれば、前者はハチクマで後者はトラツグミかもしれない。後に2014年7月18日早朝、NHKラジオ、日本野鳥の会会員の担当する番組で聞いたトラツグミの鳴き声は、蒲谷の録音によるものとは全く異なり、ピー、ピー、ないしはキー(ン)、キー(ン)という高音で単調な金属音のようなものだった。これは不気味でもなんともない全くつまらない音で、私が家の近くで聞く、物寂しさの感じられる鳴き声とは似ても似つかないものだった。蒲谷が録音した音とこの最近録音された音とは全く別もののように思われ、どちらかが間違いではないかとも考えられる。私はここでは蒲谷の録音がトラツグミのものだと考えることにする。結局、@「ピューイ、ピューイ」はハチクマではないかと思うが不確かである。よく似た寂しいきれいな鳴き声で「イ」を伴わない「ピュー、ピュー」と鳴く別な鳥もいるかもしれず、もしかしたらそれがトラツグミなのかもしれない。

トラツグミ

(追加) 2005年から2015年まで私はインターネットへの接続は行っていなかった。最近Youtubeを覗き、作者Sawdean氏などの動画で、ハチクマ、ノスリ、サシバ(いずれもタカ科)、そしてトラツグミの鳴き声を聞くと、前三者は後ろ下がりで寂しい感じがし、終わりに「イ」の音が付いていて互いによく似てるが、トラツグミの鳴き声は「ヒュー、ヒュー」という平坦な音で「イ」が付かない。そしてときどきキーンという金属音のような音も交じり、たしかに「UFOに似ている」。



鹿の鳴き声も似ている

家串では、ハチクマとトラツグミという2種類の鳥が「ピューイ、ピューイ」あるいはそれに似た鳴き声の主の候補と考えられるのだが、鳥以外の動物にも同じような物悲しさをともなった「ピューイ、ピューイ」という鳴き声で鳴くものがいるということをしばらく経ってから知った。鹿の鳴き声である。私は由良半島の山中で狸らしい動物をみかけたことはあるが、鹿を見たことはなく、また家串に来てすでに6、7年経っていたが、鹿がいることは知らなかった。しかし、私がこの鳴き声を聞いたときに同じ場所に居合わせ、鹿だと教えてくれたのは、海や山のこともまた家串という地域の歴史や文化のこともよく知っている年配者であり、間違いないと思われる。メスを求めて鳴いているのだという。

「追加」2018.4.13.芭蕉の句の中に「ぴいと啼く尻声悲し夜の鹿」というのがあることを知った。(webの「芭蕉俳句全集」参照。)私は家串で聞いた「ピューイ、ピューイ」あるいはそれに似た鳴き声を「物悲しい」と感じたのだが、芭蕉も同じように聞いたのだ。

では、同じような鳴き声なのにどうやって鳥の鳴き声と鹿の鳴き声を区別することができるのか。それは響き方の大きさによる。鳥の場合には鳴き声は数十メートル程度以内のところから聞こえる。ところがこの鹿の鳴き声の場合には、鳥の鳴き声とは異なりずっと遠くから聞こえてくる。集落の裏の山全体にこの声が響いているのがわかる。恐らく肺活量によって響きの強さは異なるだろうが、明らかに肺活量は鳥に比べれば鹿のほうが大きいと思われる。それに同じ広さの森林が養うことのできる鹿の数は、鳥の数よりずっと少なく、鹿の相互間の距離は鳥よりもずっと大きいはずだ。こうして鹿は、遠くまで求愛の声を響かせる必要があるのだろうと考えられる。

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コジュケイについて

私はコジュケイを2回見たと信じているが、蒲谷の『野鳥大鑑』の写真で見る限り、(全く素人の)私には、トラツグミとコジュケイはよく似ているように見える。全長はコジュケイは27センチでトラつぐみは29.5センチだというから、ほぼ同じ大きさである。また、トラツグミは「海岸から山地の森林、----雑木林の地面で食物を探す」という。そしてトラツグミの体には「黄色い地にトラのように黒い斑点があるのが特徴」とされ、また「飛んだときに、羽の裏の白と黒の縞模様が目立つ」という。私は、山鳥に似た、しかし尻尾の短い(後述)鳥を見たのだが、それには「トラのような斑点」はなかった。ただし、私が気がつかなかっただけかもしれない。また、その鳥は低く飛び、翼の下側は見えなかった。蒲谷によると、夜活動するようであるが、前出『愛媛の野鳥観察ハンドブック』によると、トラツグミは愛媛県内で広く観察されているという。ということは昼も活動すると考えられる。

コジュケイと思われる鳥の姿を見たのは家串に来て4年経った頃のことである。家の裏は畑になっている。そして畑の持ち主の堀田さんから、台所のナマゴミを捨てる許可を得た。むしろ、肥料になるから、捨ててくださいと勧められた。ある朝、生ゴミを捨てようと、玄関を出て、一二歩、畑のほうに上がろうとしたとき、比較的大きな、茶色をした鳥が地面にいるのが見えた。最初はキジか山鳥だと思った。実際、近くで、キジや山鳥をなんどか見かけている。これらの鳥は尻尾が長く、飛ぶときには、体を浮かせるのがやっとであるかのように、地面の近くを、ばさばさと大きな音をたてて飛ぶ。
しかし、この鳥は尻尾が短かかった。低空飛行は似ていたが、大きな音を立てることなく、飛び去った。私の家の敷地から一段上にある畑の高さは私の目の高さより少し低いくらいであり、横から地面の上に止まっている姿を見た。飛んでいった方向に潅木が植わっていて、すぐに視野がさえぎられてしまい、翼の裏などは見えなかった。このときは深く考えず、何だかわからないまま、大きさから、山鳩(これはアオバトやキジバトの俗称だという)だろうかと思った。大きさは30センチくらい、公園や街中でよく見かけるイエバトと同じくらいだった。後で『日本野鳥大鑑』の写真を見ると、キジバトは羽の模様がキジ科の鳥に似ていて、コジュケイにも似ている。しかし、キジ科の鳥と比べて、顔つきがやはりハト特有の顔つきである。私はその鳥を見たとき、顔に注意を払ってみたわけではないが、ハトの顔だとは思わなかった。

コジュケイ

そして、もう一度、釣りから戻ってきた昼ごろ、私の家から少し離れたところの畑の端にいるのを見かけた。このときは上から見下ろす形になった。その鳥は向きを変え、畑の方向に、やはり低空飛行で飛び去った。

こうして私はこの鳥を(ややはなれたところから)側面と(すぐ近くから)上面とから見た。その後、『日本野鳥大鑑』で改めてコジュケイの写真を見て、キジ科特有の、茶色にクロや灰色の斑点のある背中の特徴から、これはコジュケイだと確信した。
『愛媛の野鳥観察ハンドブック』によると、「みかん畑や松林などの明るい林に多く、林道を走っているときなど、道端に出てくるのを見ることがある」という。周囲には甘夏のみかん畑があり、周りの林は「明るい」とは思わないが、この説明とも大体は合っている。また、実は、それまで、これという理由はなかったが、コジュケイは、(鳴き声は大きいが)大きさが20センチ程度の小鳥だと思い込んでいたのである。
しかし、コジュケイは全長27センチという。私は30センチくらい、ハトの大きさと見たが、図鑑の記述とはよくあっている。そして、何よりも、「ヒュー、ヒュー」という鳴き声もトラツグミでなくすべてハチクマで、トラツグミはこの辺に来ていないかもしれない。またトラツグミがいたとしても、鳴き声はそう頻繁には聞かないし、少し離れたところから聞えてくる。これに対してコジュケイはたくさんいて、連日のようにすぐ近くから何羽もの鳴き声が聞える。それが時々近くの畑に下りてきても珍しいことではないだろう。しかし、これがコジュケイだとは言い切れず、トラツグミだった可能性も少しある。

キジ科の鳥は顔つきと背中の羽の特徴が似ている。ウズラ、コジュケイ、ヤマドリ、キジは,キジ科の鳥だ。キジもヤマドリも、裏の畑で見たことがあるが尻尾が長く、私が見た例の鳥とははっきり異なる。蒲谷によると、ウズラは、草むらを好むため野外ですがたを見る機会は少ないというが、林道などを渡るときにすがたを見ることもある。そして「人や犬に驚いて、飛び立った後は、直線的に低く飛行する」。これは当たっているが、大きさは20センチという。これは私が見た例の鳥に比べて小さすぎる。

(追加)だが、インターネットの『夫婦で鳥撮り』というタイトルのサイトを参照すると、私が最初に(やや離れたところから)見たのがコジュケイで、二度めにすぐ近くで上から見たのはトラツグミだったようだ。というのはそのサイトに載っている写真を見比べるとコジュケイは首の両脇にオレンジ色の模様があり形も山鳥に似ているのに対してトラツグヅミはこれといった模様もなく、全体に地味な灰色がかった色をしていて体が丸く、2回目にすぐ近くで見た見た鳥(の記憶)はこのトラツグミの写真によく似ているからである。写真はどちらも何枚もあり、様々な角度から撮られていて違いは明らかである。見た時にすぐにこのサイトで確かめていれば、もっとはっきりとしたことが書けたと思う。

こうして、折を見て、少しずつ調べて、そのきれいな、鳴き声の目立つ、私の語で“耳立つ”何種類かの鳥の名前が明らかになるか、候補を見つけることができた。また、ウグイス、コマドリ、オオルリが「三鳴鳥」とされていることを知ったが、樺谷のCDでは、たしかにオオルリはきれいだが、コマドリはたいして美しいとは私は思わなかった。家串で聞いた鳴き声ではウグイス、ハチクマ(たぶん)、コジュケイの鳴き声、それに名前のわからない鳥の「トゥルルルルル、プティトプティット----」がきれいだとしばらくは思っていた。そこで、もし、家串の三鳴鳥というものを上げるとすれば、それは何だと言ったらいいか考えた。

蒲谷は「鳥声録音45年の歩み」では、疎開中に福島で聞いた「クロツグミの美しいさえずりに聞きほれた」と言い「ウグイス、オオルリ、コマドリが三鳴鳥として日本を代表する歌い手のベスト3とされているがクロツグミのほうがはるかにすばらしい歌い手ではないだろうか」と言っている。野鳥、あるいは野鳥の鳴き声の研究の大家が、通念である三鳴鳥とは別の野鳥の鳴き声をはるかにすばらしいといっている。すると鳴き声の美しさと言うものにも、人によって違う好みがあるのだということが分かる。(このように言う私は権威主義的なのだろうか。)

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イソヒヨドリのこと

家串に住みはじめてから3年ほど経った09年3月に、それまで聞いたことのない、鳥の美しい鳴き声に出くわした。また、少しして「トゥルルルル、プティトプティット----」の鳴き声の正体がわかった。

海岸沿いの県道に並んだ電柱の上から、それまで聞いたことのない、そしてウグイスよりもきれいだと私が思う、鳴き声が聞えてきた。立ち止まって見上げたが逆光で鳥の体の色はわからない。なんとオノマトペーしたらいいか、しばらく目をつぶって耳を澄ませた。そして、たぶん、次のような鳴き声だと考えた。ピュルルルル、ピーキュルリ、ピュルルルル、ピーキュルリ。鳥の大きさはスズメの一倍半か倍くらい。すばらしく、きれいな、非常に魅力的な鳴き声で、飼えるものなら飼って、このすばらしい鳴き声を楽しみたいと思うほどだ。ウグイスは毎日家の外からよく聞えるので飼うまでもないということもあるが、そのピュルルルル、ピーキュルリは、ウグイスのホーホケキョよりも数倍、音楽的で、美しいと感じられ、もっと近くで聞きたいと思ったのである。

この鳥は海岸に近い県道沿いの家や作業小屋の屋根の上や、電柱の横木あるいは電線に止って鳴いている。「キューキーツーキュルリ、キューキーツーキュルリ」と鳴くこともある。末尾のキュルリは同じで、ここが特にきれいだ。キューキー(右肩上がり)、あるいはピーズィー( 〃 )という「単語」の繰り返しということもあり、「キュー、クルル」という短いフレーズの繰り返しもあるが、「ピー、キュルル、ピー、ピー、キュルル、ピー、キュルルル」というように長く歌うこともあるなど様々なバリエーションがある。聴こうと思えば、部分的に「アイクルシー」つまり「愛くるしい」と聞えなくもない。

浜の近くで聞えることが多いが、集落の裏手にある農道の九十九折(ツヅラオリ)の坂を少しあがった辺り(標高は3〜40mか)でも鳴き声は聞こえた。『大鑑』のCDを聴くと、考えられる候補はイソヒヨドリとオオルリであった。

『大鑑』の写真のイソヒヨドリに似た鳥は家の近くで何度も見た。大きさは25.5センチ、頭、胸、背が青く、腹が赤錆色に似たオレンジ(蒲谷)だ。これらしい鳥は、西の浜の崖のところで、大川の石垣の上で、あるいは近所の家の屋根の上にいた。通りがかった人に聞くと「さあ?」と首をかしげたが、鳥好きの織田長治さんはハマガラスだと言った。

ハマガラスという名の鳥は鳥類図鑑には載っていない。この辺りの呼び名なのだろう。この名で呼ばれる鳥がやはりいたのだ。由良の鼻、大猿島の釣り場の1つがハマガラスという名である。おそらく「ハマガラス」がしばしばその磯にいるのが見られたのでこの名がついたのだろう。存在しない鳥の名がついているのはおかしいと思っていたので、合点が行った。

ハマガラスという名前は鳥類の図鑑に出てこない。そこでカラスかその近縁種にその鳥が含まれていないか調べてみた。百科事典などによると、日本人が一般にカラスと呼んでいる鳥は、日本の各地で繁殖しているハシボソガラスとハシブトガラスであるが、 日本にはこのほかにミヤマガラスとコクマルガラスが冬鳥として九州に渡来し、ミヤマガラスは年によっては越冬する。ワタリガラスは北海道に冬鳥として少数が渡来する。カラス属に近縁で別属の鳥にホシガラスやベニバシガラスがある。 カラス科 Corvidae は26属106種からなり、---広義のカケス類、ベニハシガラス類、ホシガラス類、カラス類に大別できるという。これらに属する鳥を『日本野鳥大鑑』で調べてみたが、いずれも大きさが、30センチ以上で、家串の「ハマガラス」とは違う。

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ハマガラスはイソヒヨドリなのか

しかし、私は、イソヒヨドリかもしれない「ハマガラス」が実際に、上でオノマトペーした鳴き方で鳴いているのを見たことはなかった。地面に下りていたり、川底を歩いていたりしていたその鳥が、人が来るのを見て、「チチッ」、あるいは「ピピッ」と鳴いて逃げるのは見た。電柱の上で鳴いていた鳥の鳴き声は、『大鑑』CDのイソヒヨドリに(またオオルリに)似ている。しかし、その鳥の色はわからなかった。電柱の上で美しく鳴いていた鳥が、何であるのかはわからなかった。

蒲谷によると、一般的に「海岸の鳥はあまり美しい声ではさえずらないが、本種〔=イソヒヨドリ〕は大変すばらしい歌い手である」。「海辺の岩の上に---いるが、市街地のビルの屋上、電柱のてっぺんなどでさえずっていたという記録もある」という。

イソヒヨドリ





森林性の鳥と海鳥

鈴木孝夫によると、鳥の鳴き声は、森林性の鳥であるか、見通しがよい海や草原などに棲む鳥であるかによって異なる。森林の中では、信号のやりとりという点で匂いや動作によるよりも、音声がもっとも都合がよい。お互いが見えないところに棲む森林性の鳥は音声を多用し、さまざまな鳴き方をするが、お互いが見えるところに棲む鳥は音声に頼ることが少ないという。
こういうわけで、海鳥にはよい歌い手は少ないということになる。実際、隣の油袋(ユタイ)の湾の奥まったところにあるマダイの養殖生簀が多数並んだ場所の周囲にはカラスやトビ、カモメのほかにサギの仲間が集まって来て、全く美しくない声で鳴くが、特にサギはギャー、ギャーという本当に耳障りな汚らしい声で鳴く。

オオルリは「日本三鳴鳥」の一つ。『日本野鳥大鑑』によると、山地の渓流沿いの林に住む。大きさは16.5センチ。頬と喉が黒、腹が白、他は濃い青。4月下旬からさえずり始め、5〜6月が最盛期で7月下旬までさえずる。さえずりの日周変化では明け方にピーク。夕方にも小ピーク。木のてっぺん、突き出た枝先などに止まって長い間さえずり続ける。さえずりにはバリエーションが多く、文字で表記するのは難しい。キビタキ、ヒガラ、シジュウガラなど、他の鳥のさえずりを取り入れて鳴くこともあり、キビタキはさえずりが似ていて、区別に迷う、と蒲谷は書いている。

例のハマガラスは家串の「大川」の周辺でよく見たが、この「大川」は名前に反して、幅が1mか1m半しかなく、雨が降ったときにはにごった水が流れるが、そうでないときは底の敷石の間にたまっている水がちょっと見える程度の小さな沢で、とても「渓流」とは言えない。だが、電柱の上で鳴いていた例の鳥の鳴き声は、私が聞いた限りでは、蒲谷のCDに録音されているイソヒヨドリよりもオオルリに似ている。またキビタキにも似ている。電柱の上で鳴いていたときには、その鳥の腹が白かったかどうかは不明である。しかし、大きさはイソヒヨドリの25.5センチよりも、あるいは近くでみた「ハマガラス」よりも少し小さかったような気もする。しかし、高い電柱の上なので、大きさは不確かである。

オオルリは渡り鳥で、「4月下旬から鳴き始める」とされているが、私が例の鳥の鳴き声を聞いたのは3月の上旬である。もしかしたら四国は日本のなかでは温暖なところだからオオルリが早めになくことがあるかもしれないとも考えたが、1ヶ月以上も早く渡ってくるというのは考えにくい。そしてオオルリは、「7月下旬までさえずるが、遅いものでは8月上旬の記録がある」。「秋の渡りのときには、9月上旬から10月中旬にかけて地鳴きが聞かれ----ることがある」。オオルリの地鳴きは「クックッ」「タッタッ」だという。これらの説明によれば、8月中旬以降、オオルリが日本国内でさえずることはほとんどないであろう。おそらく10月下旬にはオオルリの渡りは終わっているだろうし、渡りの途中に地鳴きをすることがあったとしても、盛んにさえずるということはないだろうと考えられる。

鳴き声だけで言えば、シマアオジという鳥も、私が聞いた例の鳥に似た鳴き方で「たいへん美しい透き通った声でさえずる」(蒲谷)が、これは北海道と青森県の一部に分布するというので候補とは考えなかった。

再度、イソヒヨドリに戻ると、蒲谷によれば、イソヒヨドリは、「本州では3月からさえずり始め、4月にかけて盛んに鳴き、おおむね6月に鳴きやむ」。しかし「秋にもさえずりが聞かれることがあり、遅いものでは10月という記録がある」。

私は例の鳥の鳴き声を3月上旬に聞いたが、また、盛んに「ピーキュルリ------」とさえずっているのを10月下旬にも聞いている。

さえずりの時期についての説明からすると、私が聞いた例の美しい鳴き声は、イソヒヨドリのものである可能性が高い。私はたぶんイソヒヨドリだろうと思った。しかし、写真でみるイソヒヨドリと同じ色をした鳥が、実際に「ピーキュルリ」あるいは「キューズィーキュルリ」と鳴いているのを見ない限り、その鳴き声が、イソヒヨドリのものだとは言えない。

はっきりしたのは2年後である。2011年4月19日の日記より
「農協の売店から出たとたんにイソヒヨドリらしい鳴き声がすぐ近くで聞こえた。見回すと、倉庫になっている古い土蔵の屋根のひさしの近くに止っている。----せいぜい4、5mの距離ではっきり鳴いている姿を確めることができた。頭から胸に掛けては、濃い青色。腹が赤茶色。じっくり見ることができた。確かにイソヒヨドリが鳴いている。「キュルルルル、ピーキュルリ-----」。こうして、私は家串で、イソヒヨドリがその美しく、魅力的で、愛くるしい鳴き声で鳴いているのを確かに、この目で見、耳で聞いた。

同じ年の6月下旬、海岸通りに出る手前で、頭の上で、ゲゲゲ、あるいはギギギというような、不快なあるいは気味の悪いとまでは言わないが、なんだか奇妙な、聞いたことのない、鳥の鳴き声らしきものが聞えた。鳥だと思ったのは上から聞えたからで、たとえば塀の向こう側から、あるいは植木の中から、それと同じ音が聞えたら、何か知らない動物がいるのかもしれないと気味悪く感じたかもしれない。見上げると電線に止まっているのは、イソヒヨドリである。他の鳥が鳴いているのではないかと近くを見回したが、これしかいない。こんな声で鳴くのかと半信半疑であったので、鳴くところを確かめようとしばらく立ち止まって見ていると、鳥は警戒したらしく、飛び去ってしまった。

私は路地を抜けて海岸通に出た。するとまた、あの鳴き声である。こんどはいつも止って鳴いている電柱の上にいる。少し高さがあるので私が見上げていても逃げることなく「ゲゲゲ」と鳴いた。このような鳥の鳴き声は今まで聞いたことがなく、またイソヒヨドリがこんな風に鳴いているのも見たことがなかった。蒲谷はイソヒヨドリの地鳴きは「ククッ」という短い聲だがあまり聞かれることはない、と言っている。わたしはかなり貴重な経験をしたようだ。

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シジュウカラ

この年、6月末、九州南部ではすでに、「例年に較べ22日早い」梅雨明け宣言が出された。四国ではまだ雨の日があると言う。梅雨は明けていなかったが、2、3日、晴れて30度を越える暑い日が続いていた。今までに聞いたことのない新しい鳥の鳴き声を聞いた。「ツキツキツキ」と鳴く。「ツキ」が3、4回繰り返されるときもあるが、7回、8回続くこともある。遠くで小さく同じ鳴き声が聞える。鳴き交わしているらしい。

初めて聞く。鳴き声にははっきりとした特徴があり、他の鳥とは明確に区別できる。今まで、6年間、聞き逃していたとは思えない。これまで家串にはいなかった、来なかった鳥だと思う。このツキツキツキは7月上旬まで毎日ではないが数日の間聞えたがそれ以後は聞えなくなった。松山へ帰ったら、蒲谷のCDを聴いて調べようと考えていた。

8月5日松山市内の中心部、表通りからちょっと裏に入った辺りで、城山から500mくらいのところを自転車で走っていてこの鳴き声が聞こえた。家串でも、松山でも、少し離れたところから聞こえてくる声の大きさから、私は、鳥はかなり大きいと思っていた。

『日本野鳥大鑑』のCDを聴くと、似た鳴き声の鳥が何種類かある。イワミセキレイ、ヒガラ、シジュウガラで、イワミセキレイは15.5cm、九州、山陰地方で繁殖。そのほかの所では冬鳥または旅鳥。雑木林、丘陵地の林に住むという。ヒガラは11cm。全国に分布、留鳥、山地から低い山の森林に住む。シジュウガラは14.5cm、全国に分布。留鳥、平地から山地の森林、公園、雑木林などに住む。スズメの大きさが14.5cmとされていて、いずれもせいぜいスズメ程度の大きさである。思ったより、ずっと小さい鳥だということになる。シジュウガラが最有力候補だと思う。

シジュウカラ



8月下旬の朝、家串で、コーヒーをいれようとしていたが、ラジオ体操の時間になったので、お湯を注ぐのはやめて、体操をしようとした。「ラジオ体操の歌」が終った。そのとき「ツキー」ないし「ツツー」という、かなり大きな鳴き声が窓の外で聞えた。「あの鳥だ」と私は思った。50cmほど開いていた居間の窓から網戸越しにみると、私のいる場所からは3mほど、窓から1m半ほどのところに植わっているシャリンバイの枝に、スズメくらいの大きさの丸い感じの鳥が止って、忙しく枝をつついている。頬が白いのはよくわかったが、からだの模様はわからない。

一生懸命観察する。外は曇り空で暗く家の中は明かりがついていたので、鳥が警戒して逃げるのではないかと私は動かないようにしていたが、網戸越しではみえにくく、明かりを消し、それから窓に近づき、網戸を開けてみようとした。足元に注意して、下を見、再び外を見ると、鳥は姿を消していた。このときラジオ体操第一が終ったので、ほぼ3分か4分見ていたと思う。たぶんこれがシジュウガラだと私は考えた。

10月NHKのラジオで、アナウンサーが「ツピツピツピとシジュウガラが鳴いていました」と言っていた。「ツキツキツキ」よりも「ツピツピツピ」の方がいいかもしれない。

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「トゥルルルルル、プティトプティト-----」の正体

さて、この文のはじめに書いた「トゥルルルルル、プティトプティト-----」は正体がなかなかわからなかった。似た鳴き声すら出てこないのである。不思議だった。他のDVD、テープにはこの鳴き声は無かった。

しかし、蒲谷『日本野鳥大鑑』(上)のノスリに関する説明の中に、「中軽井沢の林の中を歩いていたとき、突然ウグイスが「ケキョケキョケキョ-----」という谷渡りの声を上げ始めた。-----ウグイスの-----谷渡りは警戒の声であり、----上空をタカの仲間が飛んだりすると、盛んに谷渡りの声をあげることがある」という文が出てきた。私は、ウグイスに「ホーホケキョ」というさえずりとは別の鳴き方があるということを知った。しかし、「ケキョケキョケキョ」はDVDにも、NHKのテープに録音されたウグイスの鳴き声の中にも入っていなかった。また、蒲谷の『日本野鳥大鑑』は、当時、ウグイスが載っている下巻が図書館で行方不明になっていて蒲谷のCDを全部聞くことができなかった。私は、「ホーホケキョ」の出だしの「ホー」のない「ケキョ」が短く繰り返されるのだろうと漠然と思っていた。

蒲谷は『大鑑』の「野鳥の鳴き方」のなかで、野鳥の鳴き声は、さえずり(song)と地鳴き(call)の2種類にわけられ、さえずりは繁殖期の鳴き声で、テリトリーの宣言や異性への求愛の意味をもち、地鳴きは仲間どうしの合図で、短い音を1回ないし数回鳴くもので、警戒、おそれ、喜びなどの意味を持つ、と言っている。また、さえずりに、本格的なさえずり・フルソングとそれより鳴かない「低音歌」、「ぐぜり」という鳴き方、あるいは練習歌などのサブソングがある。「ウグイスが春先にまだ「ホーホケキョ」と鳴くことができずに「ホーホ」、「ケチョ」などと鳴くのは練習かサブソングと呼んでいいだろう」と言っている。谷渡りは警戒の意味を持つ鳴き方だというから、谷渡りは地鳴きだということになりそうだが、ウグイスはさえずりでなければ即地鳴きというわけではなく、谷渡りは谷渡りで、地鳴きはまた別にあり、「チャッ、チャ」と鳴く。そして他の鳥とは違って、ウグイスの場合にはこの地鳴きも、「笹鳴き」という特別の名前があるという。ウグイスには非常に様々な鳴き方があり、しかも(たぶん)愛好者により特別扱いされている。

家串でホーホケキョの鳴き声が聞こえるときに、ケキョケキョケキョが聞こえないかと、何度も耳を澄ました。しかし、聞こえることはなかった。ホーホケキョが聞こえるときに、ときどき、トゥルルルル、プティットプティットプティットも聞こえるとは思っていた。しかし、それだけではなく、ピッチョグルリ、ピッチョグルリも、ピューイ、ピューイもあるいはカッコー、カッコーも聞える。そして、トゥルルルル、プティットプティットプティットは蒲谷のケキョケキョケキョとというオノマトペーとは全く異なっている。

ある朝、それまで聞いたことのない鳴き声が聞こえた。始めて聞く鳥の鳴き声だと思った。澄んだ美しい鳴き声で、耳を澄ます。なんとオノマトペーしたらいいか。難しい。チョックル、チョックルだろうかと思った。次の瞬間、そのチョックルの前に、ホーという鳴き声が加わった。そしてその「ホーチョックル」という鳴き声を聞いたとたん、それがちょっと変わったウグイスの鳴き声だとわかった。「ホーチョックル」とも聞えるが「ホーケッキョ」ともオノマトペーすることができるということがわかった。「ホーケッキョ」は「ホーホケキョ」の一バリエーションである。このチョクル、チョクルが蒲谷の言う「ケキョケキョケキョ」かもしれないと思った。

またその半年後のある日、トゥルルルル、プティットプティットプティットという例の鳴き声がしていたが、プティットプティットが途中で、突然、ホケッキョと変った。プティットとホケッキョは全く違う。私はこれまで、トゥルルルル、プティットプティットはウグイスとは別種の鳥が鳴いているのだと思っていた。だから、この鳥が一部だけ鳴き方を変え、ウグイスに似た鳴き方をしたのだ、と考えてもよかったはずである。だが、このとき、私は、この「トゥルルルル、プティットプティット」という鳴き方の全体がウグイスのもの、ホーホケキョとは別の、ウグイスのもう1つの鳴き声なのではないかと、瞬間的に思ったのである。言うならば、聞こえ方のパラダイム・チェンジが起こりつつあったらしいのである。

そして、もっとよく聞いてみようと玄関からでたときに、鳥が好きで鳥のことをよく知っている織田長治さんが通りかかった。「いい天気ですね」と挨拶したときに、またあの鳴き声が聞こえた。すかさず「今、プティットプティットプティットと鳴きましたね」と私がいうと、「ああ、あれはウグイスだ」という返事である。織田さんが言うのだから間違いない。やっと正体が分かった。これが蒲谷のいう「ケキョケキョケキョ」であり、ウグイスの「谷渡り」、地鳴きの一種だったのだ。 

トゥルルルプティトプティトは警戒の声だと言う。しかし、一般に警戒などの意味を持つという地鳴きとは全く異なっている。ホーホケキョに比べて、少しも低くなく「歌わな」くない。高音で、大いに歌っているように私には思われる。要するに、ウグイスは2種類の「フルソング」、さえずりを持っているのではないか。私は3年か4年の間、私の「知らない」鳥が鳴いているのだと思って聴いていたが、それは日本人のたぶん誰もが知っている「鳴き方」をするウグイスのもう一つの鳴き方だったのだ。私はウグイスを半分しか知らなかった。たぶん大部分の日本人と同様に。

2015年の7月にHP掲載の(準備の)ためにPCをインターネットに接続した。そして、この文のホームページ化あるいはハイパーテクスト化(してもらう)前の推敲の際に、Youtubeを覗いてみると、トラツグミは鳴き声と姿が別々のものしかなかったが、ウグイス、ハチクマ、ノスリ、コジュケイ、イソヒヨドリなど、わたしが上でふれている野鳥の鳴いている姿が動画で掲載されている。口を開けるときに鳴き声が発せられる様子がよくわかる。インターネットに接続している人は、鳥の名前を知っているだけでその姿と鳴き声を確かめたいと思いさえすれば、なんの苦労もなしに、部屋にいながら、つまりその鳥の実際の鳴き声を聞いたことがなく、またその鳥の姿を実際に見たことがなくても、確かめることができてしまうのだ。

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『日本野鳥大鑑・鳴き声333』編者・蒲谷の録音の苦労とYoutube

『日本野鳥大鑑・鳴き声333』の編者、樺谷という人はまだ録音テープがなかった1951年、合計重量が30キロもある、レコードを使う録音機を山の上まで運び上げるなどして鳥の鳴き声を最初に収録したという。1954年ソニーの前身、東京通信工業製のM4という、現在価格に直せば200万円もする携帯用録音機を買ったというが、それでも重量は8kgもあった。現在普及しているディジタル化された記録媒体を用いた、小型のディジタル録音機DATレコーダーが発売されたのは87年で、大きさが小型の辞書くらいで重さは1・5kgだったという。

やがてビデオカメラが登場し90年代半ば以降には、誰もが高品質の動画を撮影できるようになった。スマホによって撮影、録音することも可能であり、予め野鳥の姿をとらえ録音するための特別の用意をして出掛けなくても、スマホをポケットに入れておきさえすれば、いつでも、どこでも、野鳥を見たら録画、録音できる。Youtubeに投稿されている画像と鳴き声がどのような機器によるものかはわからないが、とにかく90年代以前に比べれば格段に手軽に録画録音できることは確かであろう。

上で述べたように、CDに収められている鳥の鳴き声を順に聞いていくだけでは、自分が実際に聞いている鳥が何であるかを確かめることはできない。いくつかの候補をみつけだすことができるだけである。そこで、その候補の数を絞り込むために、鳥の姿かたちや生息場所や鳴く季節など、何種類かの鳥の生態に関する解説の文を読むことになる。それでも、結局、CDと解説記事だけでは、鳴き声の主がなんであるのか、あるいは鳴いておらず姿だけを見た鳥がなんであるのかを知ることはできない。鳴いている鳥の姿を動画でみて初めてその鳴き声の主、あるいは姿だけを見た鳥の名前を判断できる。

そうだとすると、たまたま鳴き声を耳にした、あるいはたまたま姿を目にした鳥の名前を知りたいというだけであれば、インターネットにアクセスし動画を見ながら鳴き声を聞くことで直ちに鳥を同定できてしまう現在においては、蒲谷が苦労して行なった録音は大して意味がなかったことになるのだろうか。私はYoutubeでトラツグミの鳴き声の録音をいくつも聞き、コジュケイやハチクマなどの鳴いている姿を幾つも見たときに、こんなに簡単に知る方法があったのかと多少驚きつつ、こうした投稿で鶴谷のCDの価値が損なわれたかのように感じた。しかし、すぐに、それは全くの錯覚であることがわかった。

声を聞いただけでは、インターネットでその鳴き声の主を検索することはできないのである。多数の鳥の鳴き声を納めたテープやCDがあって、それを全部聞いてみて初めて似た鳴き声の鳥を見つけ自分の聞いた鳥の候補名が浮かび上がるのである。だから鳴き声が収録されている鳥の数はできる限り多くなければならない。渡りの際に通過するだけで日本に滞在する期間がごく短い鳥も含め、できれば、鳴き声が聞かれる可能性のある鳥すべてが収録されていてこそ、その録音を聞いて、候補を見つけることができる。そうだとすれば、Youtubeに投稿されている限られた数の録音や録画は知りたい鳥を探すのにはほとんど役に立たず、よく知られている鳥の鳴き声や姿を改めて見聞きして楽しむ、あるいは、まだ推測にとどまっている鳥の名を確かめるためにあるものだ、と言える。

『日本の野鳥650』という本があるので、日本には650種類以上の野鳥がいるのだろう。鶴谷の『大鑑』に載っている鳥の数は333種(増補版では420種)で、その鳴き声のCDが付いているのである。300種類以上の鳥の鳴き声を録音するということが大変なことだというのは十分にわかる。

蒲谷は幼い時から鳥が好きで、鳥の鳴き声を聞くことが彼の最大の喜びであった。彼が録音を始めたのは「一年待たないと再び聞かれない小鳥たちのさえずりを、好きな時に聞ける」と考えたからであった。また録音の目的が、自分の楽しみのためだけでなく、かれが鳥声録音を日本野鳥の会の東京支部の例会で時々発表していたことからも分かるように、ほかの鳥好きの人々に聞かせてあげることにもあったことも明らかである。しかし、いずれもそれは趣味の域にある。趣味のために、数百万円の費用をかけ、発電機を含めて何十キロもある重い録音機械を山頂に運び上げる苦労をいとわぬその傾倒ぶりは尋常ではない。

だが、彼は録音を始めた2年後には、文化放送の「朝の小鳥」というレギュラー番組を担当するようになり、1960年ごろからその番組は1年365日1日の休みもなく放送するようになった。彼は「取材してはテープを編集し、放送原稿を書き、文化放送のスタジオで番組をつくる」ことが仕事になった。それは35年間続いた、それが彼の生きがいになった、とも書いている。

また彼は録音のプロとして、自然探訪の記録映画の録音係を担当したこともあり、鳥の鳴き声ばかりでなく、外国のSLの音、ケニアではマサイ族の民族音楽、ライオンや象の声なども録音した。

かれは確かに他の人がまだだれもやっていなかったことを成し遂げた先駆者として鳥類研究者の間に名を残すことになろう。しかし、彼がそうした名誉心のようなものを求めた人であったとは全く思われない。彼は、美しい野鳥の鳴き声を聞いて楽しむことを幸福と感じており、どちらかと言えば非社会的な人だったと思われる。
だが、SPレコードや初期のモノラルのレコードの音質から推測されるように、はじめのころ彼が録音して持ち帰って聞いた鳥の鳴き声は、本物に比べて決して満足できるものではなかったであろう。すると彼は、「一年中好きな鳥の鳴き声を楽しむ」ことではなく、むしろ、録音すること自体が楽しくなって鳥の声を録音しつづけたたのだとも考えられる。仕事のためでもあったのだろうが、彼が鳥の声以外の音、SL、アフリカの民族音楽あるいはライオンや象の鳴き声なども録音したと言っていることからもそう考えることができる。しかし後に見る(⇒第三部第3章第2節)幸田露伴が言っているように、趣味と関係のある別の物事がまた趣味になるということからすれば、これもまた十分にうなずけることである。
彼は最初はもっぱら鳥の鳴き声が好きで録音をはじめたが、のちに録音のプロとなった時に、鳥の声とは関係のない様々な他の音も、仕事のために、仕事として録音したと考える必要、必然性はない。彼は鳥の鳴き声を聞くという彼のもともとの趣味に関連した鳥声を録音するという趣味をもつようになり、さらに録音すること自体が趣味になったと考えられるのである。彼は「朝の小鳥」の番組に関して「この放送がなかったら、とても費用のかかる鳥声録音を続けてこられなかった」と書いている。彼は自分と家族のために稼ぐ必要があって、仕事をしたようには思われない。

「蒲谷鶴彦」でWeb検索をすると「蒲谷鶴彦さんの追悼DVD」という広告が載っていて、それによると蒲谷氏は2007年1月に亡くなっている。またこの広告の中に「本当の道楽を生涯徹底してやり抜いた男」という言葉がある。たしかに、蒲谷も、露伴同様、幸運にも、好きなこと、つまり趣味(この広告の言葉では道楽)を貫いて生きることができたと思われる。

さて、「家串の二鳴鳥」はウグイスとイソヒヨドリということに私は決めた。残りの一つをコジュケイとするかハチクマとするか迷う。コジュケイは私の家の周辺にはたくさんいるらしく、ほとんど一年中、鳴き声が聞こえる。ウグイスに比べると鳴き声ははるかに大きくすぐ近くで鳴いているときには少々やかましいと感じる場合もあるが、森林性の鳥らしく声はきれいで、耳を楽しませてくれる。ハチクマは澄んだきれいな声である。この声が聞こえたら、やりかけていたことをいったんやめて耳を澄まして聴きたくなる。しかし、めったに聞かれない難点がある。それに、猛禽の一種であり、「鳴鳥」に分類するのはためらわれる。

さらにこれらの他に有馬さんや織田さんが飼っている旧内海村の村鳥のメジロがいる。確かにメジロの声もきれいでよく通る声である。しかし私はやや音が硬く高すぎると感じる。誰かが金属性の声だといっていた。そばに置いて一日中聞いていたら疲れるのではないかと思う。私は野生のメジロの鳴き声は知らない。有馬さんや織田さんが飼っているのは訓練したものらしくよく鳴く。野生のものは連続して鳴かないだろう。それくらいでちょうどいいのかもしれない。(注)

(注)この文を書いたのは2009年であるが、このころも含め2016年まで、家串地区では、飼われているメジロの外には鳴き声を聞かなかった。「村鳥」というならもっと周りにいてもいいはずだが、と思っていた。だが、2016年5月、平碆に船を上げて、船底のフジツボ落としと塗装のし直し(この辺りではドックという)を行っているときに、すぐそばの木の中で、数十分、チーチーチチー、チーチチーとメジロがとてもきれいに鳴いた。わたしがそばによって行ったら逃げて行った。2日続けて同じ木で鳴くのを聴くことができた。イソヒヨドリは家串の方が断然、数が多い。家串と平碆ではどこか違いがあるのだろうか。-------------

こうして何年間にもわたって、ほんの数種類に過ぎない鳥の鳴き声の正体を確かめる努力をしつつ、鳴き声を聞き比べてみたが、結局、「家串の鳴鳥」の三番目は指定しないままになった。

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(追加 2017.5.22)
私は、海辺のの集落、家串で初めてイソヒヨドリの鳴き声を聞いた。家串に来るまで、イソヒヨドリという名前を聞いたことさえなく、鳴き声もその姿も全く知らなかった。
上で引用したが、蒲谷は、イソヒヨドリは「〔一般に〕海辺の岩の上に---いるが、市街地のビルの屋上、電柱のてっぺんなどでさえずっていたという記録もある」と言っていた。
この文を読んで私は、イソヒヨドリはふつう海岸近くに生息しているのであり、海岸から直線で10kmも離れた松山市東部の住宅街で見ることができるとは思わなかった。

上でふれた『愛媛の野鳥観察ハンドブック』(⇒「松山の鳴鳥」)によると、1992年から過去10年間の観察では、「城山公園での鳥の優占率」は、イソヒヨドリは0.04%で、コマドリの0.01%よりは高いが、ウグイスの0.69%と比べてはるかに低く、オオルリの0.1%と比べても低い。
こうした数字を見る限り松山の中心部の市街地あるいはその東の住宅地でのイソヒヨドリの出現率は非常に低いと考えてもそう間違ってはいないはずである。だが、実際にはそうでなかった。イソヒヨドリは松山の住宅地で、ちょっと気をつければ鳴き声を聞くことができるのだ。

私は、2015年ごろからほぼ連日ウォーキングに出かけたが、2016年4月24日の日記に、午前中、桑原中学前の住宅地で、電柱のてっぺんに止まって鳴いているイソヒヨドリ見たこと、午後、釣具店に買い物に行く途中、小野川と石手川の合流点近く(海までは6kmほどの地点)で、イソヒヨドリの鳴き声を聞いたことを書いている。
また、これらのこととともに、「自宅のすぐ近くでイソヒヨドリではないかと思う鳥が地面に降りているのをこの半年以内に--- 、数日の間隔で2度見た。背中がくすんだこげ茶でヒヨドリかもしれないと思ったが、それよりは小さくスマートにも見えた---こんなところにイソヒヨドリが来るだろうかと半信半疑だったので日記には書かなかった」と書いている。

最近、4月30日の日記に、「夕方スーパーに買い物に行くとき、お好み焼き屋---の脇の電柱の上でイソヒヨドリが鳴いていた。そしてすぐそばにはくすんだ色のもう一羽、たぶん、メスがいた。前にも見かけたが確かにこの近くにイソヒヨドリがいるのだ。私が上を見上げて、立ち止まって観察していたら、通りがかった人も何だろうという風に上を見上げた。ふだんは鳴き声がしても聞き過ごし、通り過ぎるのだろう。以前のわたしがそうだったように。」と書いている。

こうして確かに松山の海岸から10kmも離れた住宅地にイソヒヨドリはいるということがはっきりとした。そう思っていた矢先、2017.5.3朝日新聞の記事「野鳥都心でも会える」を読んだ。
品川、目黒区周辺ビルの合間をヒヨドリが跳び、メジロが歌うように鳴いていた。公園の木には野生化した南アジアの鳥が止まっている、という。 全国の研究者や愛鳥家ら約150人が参加する「都市鳥研究家」によると、半世紀前まで東京都心で子育てをしたアオバズクは姿を消し、ツバメの巣も減少傾向にある。一方各地の都市部でイソヒヨドリが増えている。2000年ごろまでには東京ではほとんど確認されていなかったが、近年は八王子などの内陸部でに繁殖。近畿や中部地方でも街中で見られる、という。
松山の住宅地でイソヒヨドリが姿を現しても不思議ではないということだ。スズメやカラスの鳴き声に耳を傾けようとする人は少ないだろうが、それらと違う聞き慣れない、美しい鳥の鳴き声に耳を傾ける(余裕がある?)人なら、家串のようにほぼ年じゅう、毎日のようにとはいかないが、イソヒヨドリの鳴き声をきくことができるのだ。
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オノマトペーについて

  鳥の鳴き声を含め、音を文字で書き表すことをオノマトペーという。オノマトペーは辞書では擬音語とされる。「由良半島の自然、あるいは野鳥」というテーマからは外れることになるが、わき道に入って、それについて少し書きたい。

同じ鳥の鳴き声でも、人によって、聞こえ方が違い、オノマトペーが異なる。私には、コジュケイは必ず「ピッチョグルリ、ピッチョグルリ」と聞こえる。蒲谷はオノマトペーという語は用いていないが、彼によれば、コジュケイの鳴き声は「ピッピーピーチョホイ、ピーチョホイ」だという。

そもそも文字を使って書くときには、音の高さ(そして上がり下がり)、強弱、質(澄んで明るい音か、濁った太い声かどうか--)はすべて捨象される。それぞれの鳥の鳴き声のほんの一部だけが表記されるのであり、大部分は書けない。知られていない鳥の場合、その鳥の鳴き声を聞いて、それがどのようなものであるかを、ほかの人がその書かれた文字を読んで分かるように、オノマトペーするのは非常に難しい。

オノマトペーという語はフランス語だが、もともとはギリシア語に由来する。希英辞典には、(カタカナ読みで)オノマトポイエオーという語が載っていて、ギリシア語の「オノマ(ト)」は「名前」であり、「ポイエオー」は「作る」である。英訳はcoin names、つまり新造語することである。オノマトポイエオーとは名前を作る、名づけることである。名前と言ったが、文法上名詞に分類される事物、とくに物にだけ名づけることが行われるのではない。

次のように考えることができるだろう。人間が言葉を話し始めたばかりのころ、語を発することはすべて名づけることでもあった。手と足をそれぞれ「手」、「足」と呼んで名づけるだけでなく、両足を交互に動かして移動することを「歩く」と言い表すこと、あるいは両足を早く動かすことをさらに「走る」と言い表すこと、太陽が当たり、汗が出る状態、状況を「あつい」と呼ぶこと(始めは「暑い」と「熱い」とは区別されていなかっただろう)、名詞だけでなく、動詞でも形容詞でも、語を作り出すことはすべて「名づけること」であった。

数千年か数万年かかって、人間は五感で知ることのできる具体的で自然的な世界のことがらばかりでなく、五感の及ばぬ、「梵」や「我」、「神」や「仏」、「法(ダルマ、真理)」「因」と「縁」、「祟り」や「輪廻」、「諸行無常」、「諸法無我」などなど、抽象的で超自然的なことがらあるいは精神世界のことがらも含む森羅万象に名づけてきた。名づけることで、人間は混沌とした世界全体を整理、区分し、把握・理解する。人間が相互にコミュニケーションを行いつつ、適切に振舞いあるいは行動するために、事物や現象、人間自身の行動などのすべて、つまり世界に名づけることが不可欠であった。

18世紀半ば啓蒙時代のフランスの哲学者コンディヤックは「様々な動物につけられた最初の名前はおそらくその鳴き声を模倣したものであっただろう---。そしてこのことは風や川、そして物音を立てるすべてのものにつけられた名前についても等しく言えるだろう」といっている。古茂田茂訳『人間認識起源論』(下)(岩波文庫、1994)第二部第1章第2節。コンディヤックは、言葉は、すくなくとも物音を立てる事物の場合には、すべてその音に、その擬声、あるいは擬音に由来すると考えた。

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カラス、スズメの名前はその鳴き声に由来するという私の想像

さて、私は子供のころからすぐ近くで見て、カラス、スズメは知っていた。そしてそれらの鳴き声(のオノマトペー)は、カアカア、チュンチュンであることを知っていた。カッコウは見たことがなかったが、カッコー、カッコーという鳴き声は何度も聞いたことがあり、それがカッコウという名の鳥の鳴き声だと教わっていた。ウグイスやホトトギスは実際に見たことも本物の鳴き声を聞いたこともなかったが、家串に来て「ホーホケキョー」の鳴き声を聞いて、あるいは「トッキョキョカキョク」の鳴き声を聞いて、少しも迷わずにそれらがウグイスであり、ホトトギスであると考えた。また、わたしは、それまで知らなかった鳥の鳴き声を聞いて、それらの正体を知りたいと思った。そしてまた古代の人々はウグイスやホトトギスなど鳥の名をどのようにつけたのかということについて、興味を持った。

ウグイスやコジュケイについては問わないとして、多くの鳥の名前はその鳴き声からつけられたのではないかということは誰でも考え付くことであろう。そして、鳴き声を発する動物の場合にはその鳴き声がその動物の名前になったと想像したくなる。

魚はほとんど鳴き声をださない。だが、皆無ではない。新潟の阿賀野川で川釣りをしていた叔父から、ギギと鳴き、ギギと呼ばれている魚がいると聞いたことがある。(後にふれる『音幻論』のなかで幸田露伴は ギギと鳴くギギウという魚の名をあげ、また東京湾にギチギチと鳴くところからギチと呼ばれている魚がいると言っている。)しかし一般に、アジやイワシ、あるいはタイなど魚の名前は鳴き声とは関係がないと考えられる。

他方、けものの多くは鳴き声をもつ。大きな樽の中で暮らしたという古代ギリシアの哲学者ディオゲネースなどの名で知られる犬儒学派という名はキュニコスつまり「犬のような」という形容詞からきている。犬はギリシャ語で「キュオーン」である。この語が犬の鳴き声がもとになってできたとどこかで読んだような気がするし、そう考えてもまず間違いがなかろう。(『音幻論』では猫という文字は中国ではミャオと読み、また馬という字はマーと読むと言っている。猫や馬は鳴き声からついた名だと考えられる。)しかし、それでは牛はどうか、ヤギはどうかといえばこれらの場合に鳴き声と名前との関連を見いだすことは困難である。

しかし、これら魚とけものは別として、鳥については、鳴き声が名前のもととなったと想像することが十分に可能である。そして私は次のように考えた。カッコウの名がその鳴き声からきたということは間違いようがない。また家串で初めて鳴き声を聞いたのだが「トッキョ‐キョカキョク」と聞こえるホトトギスの鳴き声はしばしば単に「キョッキョ‐キョキョキョキョ」と聞こえ、また時に「ホット‐トギッス」つまり「ホトトギス」と聞こえた。ホトトギスもまたその名前は鳴き声に由来するのは間違いない。そして、現代日本の標準語では、カラスはカアカア鳴き、スズメはチュンチュン鳴くとされている。つまり、われわれはカラスとスズメの鳴き声をカアカア、チュンチュンと聞いている。もし、それらに名前がなく、われわれが名前をつけるとすれば、(語尾のスやメは措くとして)カアス、チュンチュンメと名づけるかもしれない。それが千年後、二千年後にカラス、スズメに変わっても不思議はないだろう。

逆に、古代人はカラスの鳴き声をカラカラと聞きカラスと名づけ、スズメの鳴き声をスズスズと聞いてスズメと名づけたのかもしれない。「カラカラ」と「カアカア」、そして「チュンチュン」と「スズスズ」の違いは、同じウグイスの谷渡りに対する、私の「プティットプティット」と蒲谷の「ケキョケキョ」、またコジュケイに対する私の「ピッチョグルリ」と蒲谷の「ピーチョホイ」というオノマトペーの違いと比べればはるかに小さい。こんな風に考えた。

さらに次のようにも考えた。私が小学生のときに通った道のわきの葦原のなかで鳴いている鳥の名前は「キョウキョウズ」だと教わった。確かに「キョウキョウズ、キョウキョウズ」と鳴いているように聞こえた。標準和名はオオヨシキリである。オオヨシキリは昔から「行々子」という別名で呼ばれてきたという(『日本野鳥大鑑』)。ギョウギョウシであり、明らかにオノマトペーに由来すると思われる名前である。キョウキョウズは行々子のいわば越後版である。

たまたま「噛む」と「咬む」の異同を漢和辞典で調べていたら、咬咬コウコウは鳥のさえずる声の形容だとあった。そして咬は咬合(コウゴウ、咬み合せ)など、現在では「コウ」と読むのが普通であるが、「キョウ」あるいは「ギョウ」とも読むという。他方で、子は賽子では「ツ」、餃子では「ザ」と呼んでいるから、「ズ」と読むこともありえただろう。すると、オオヨシキリの鳴き声をキョウキョウズと聞いた奈良時代以前の越後の人びとは、大和地方の人々と同様に漢字を知っていたら、咬咬子と書いたかもしれず、そして大和時代にもし上杉一族が日本を支配していたら、オオヨシキリの別名はキョウキョウズ、つまり咬咬子ということになっていただろう。

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幸田露伴の『音幻論』

私がいま述べたことは素人の単なる思い付きにすぎない。ところがスズメやカラスの語源に関し私が述べたことの半分は当たっているのである。露伴は古今東西の学問、文芸にきわめて該博な知識を有するひとだが、かれは晩年の昭和20年頃に書いた『音幻論』(『露伴全集』第41巻)のなかで、中国および日本の古代の詩文に書かれていることに基づいて、鳥や虫の鳴き声の表記について考察している。

中国では「鳥自呼レ名」(レは返り点)つまり鳥は自分の名を呼ぶ、と考えられている。わが国ではそれ程ではないまでも鳴き声を以て名とした鳥が実際に少なくない。「古歌の、あかときに名のり鳴くなるほととぎす彌〔いや〕珍しく思ほゆるかも、のように名のり鳴くと言っている」という。ホトトギスもカッコウも擬音から来た語であることが明らかである。「スやツはチュのような音であった」と考えられる。「小児語にチューチューという如くスズメはチュヂュメでツバクラメ〔ツバメ〕はチュバクラメ〔チュバメ)」だったと考えられるという。露伴はまた、ヒバリ、ヒワ、ヒタキなどのヒは今のピで、ピパリ、ピパ、ピタキで、やはり鳴き声から来たと推測する。

私には「ホーホケキョー」となくウグイスの名がその鳴き声に由来するとはとても考えられないことだったのだが、露伴は「鶯もウグヒスと鳴くとは思えないがウーグヒスと長く引いて発音してみれば分かるので〔あり〕、昔は音を長く引っ張る符(しるし)が無かったまでである」と言う。そして古今集の誹諧歌に、「梅の花見にこそ来つれ鶯のひとくひとくといひしもいる」という歌があるが、この「ヒトクは人来にかけた鳥の鳴き声の擬音であるがピチョクピチョクなのであろうか」と言う。これはウグイスの谷渡りについての、プティト、プティトという私のオノマトペーそのものだといってもいい。

露伴はさらに虫の名にも触れ、またクシャミや屁なども音から来ている。人体に関する動詞では、 吐くのハ、吹くのフ、呼ぶのヨ、嚼むのカなどは人の声を写したものだと昔の人がすでにそう説いている、と言う。 ただし露伴は、言語がすべて、擬音から始まったというようなことを言おうとしているのではない。彼は言う「擬音の語は動詞にも少なくなく、形容詞・副詞にはとくに多くて挙げるに堪えない。かくのごとき言語の声音起源説とも名づくべきものは、邦語に限らずどこの国の言語界にも存在することであるが、しかし、それだからと言って言語の成り立ちのすべてをこれを持って律しようとするのは早急無謀たるの譏りをまぬかれない。音は幻生し幻化したのであって、そこに言語の原始の姿を明瞭に取り出そうとする論断は危ういことであるといわなければならない」という。

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ホトトギスと大伴家持について

カラスとスズメの鳴き声についての私の想像はたまたま露伴のような深い学識を持つ人の推測と一致していた。だが、古代の人々がどのように鳥の鳴き声を聞いたかは単に推測することしかできないようにも思われる。しかし、露伴により、ホトトギスについては、古代の人々が「ホトトギスはその名前のとおりにホトトギスと鳴いている」と言ったことの、確かな証拠があることがわかった。『日本野鳥大鑑』にも書かれているが、『万葉集』に「暁(アカトキ)に名告り鳴くなるホトトギスいや珍しく思ほゆるかも」という歌があるのである。

中西進『万葉集』(講談社、昭和59年)に当たってみると、それは大伴家持の歌であり、原文はすべて万葉仮名で書かれている。すなわち 安可登吉尓 名能里奈久奈流 保登等芸須 伊夜米豆良之久 於毛保由流香母

単純に直訳すれば、ホトトギスが暁に自分の名前を名告るかのように鳴いた。「めづらしい」ことだと訳せる。「めづらし」はめったにない、「珍しい」ことを意味するだけではなく、「愛(メ)づ」から派生した語で、すばらしい、愛賞すべきだ、感嘆に値するという意味もあることは、昔、高校のときに習った。

ホトトギス

もちろん、『万葉集』の選者である大伴家持の名前は知っていたし、「春の野に霞たなびきうら悲し----」など、教科書に載っていた歌は覚えている。しかし、作者が誰であろうとかまわなかった。私の興味は、万葉の時代の人が、ホトトギスは名告りを上げるように鳴くと言ったこと、ホトトギスの鳴き方を「ホトトギス」とオノマトペーしているという点にあったのである。
私が聞いた多くの場合には「キョッキョ キョキョキョ」であり、また時々「特許許可局」と聞こえたが、「ホットトギッス」と聞こえたこともしばしばあった。万葉あるいはそれ以前の人々にとって「トッキョキョカキョク」はありえない。万葉の時代よりも前の時代のひとびとが、この鳴き声をホトトギスと聞き(そうオノマトペーし)この鳴声の主である鳥をホトトギスとなづけた。そして万葉の時代にはその名前はよく知られていたと考えられる。

他方、「鳴くなる」の「なり」は「伝聞・推定」の助動詞の連体形であるという、やはり高校時代の知識からすれば、「鳴くと言われている」か「たぶん鳴いているのだろう」のどちらかになるのではないかとも思われる。上の私の訳は、この点については言及しない簡約した訳でしかない。しかし、そのいずれであっても「感動した」という意味の語が末尾にあることと結びつかないのではないかという疑問が生じる。つまり、「伝聞」ならこの歌は「暁に名告りを上げるようにホトトギスは鳴くと言われているが、それはすばらしいことだ」という意味になるだろう。
ホトトギスと言う鳥の鳴き方について人から聞いた話で感動するということもないとはいえないだろうが、そんなことを歌に詠むだろうか。(実際、後でわかったことだが、この歌の作者である大伴家持も他の歌人たちも、ホトトギスの鳴き声を聞くのが好きで、毎年、時季がくると初鳴きを聞こうと、宴会を催すほどで、「伝聞」に感動するということはありえない。)
他方、「推定」だとすると、「暁に-----たぶん鳴いているだろう、これはすばらしいことだ」となってしまう。これはもっとありえないことだと思われた。そこで辞書を引き直してみた。すると、「なり」には、目で確かめないで、耳にするところによって、また物を隔てて耳に聞こえてくるものについて推定することを示す働きがある(講談社『古語辞典』1997)。
確かにホトトギスが鳴いているのを直接見ることはまれだろうから、この歌も、声を聞いただけだろう。そうだとすれば、この歌は、「ホトトギスが、暁に、名告りをあげて鳴いている。いやめづらしい(すばらしい)ことだ」と訳していいわけだ。作者は、ホトトギスが、当時知られていたオノマトペーのとおりに、自分の名を名乗るかのように「ホトトギス」と鳴いることに感動しているのだろう。

上の歌の万葉仮名で書かれた原文をみるために参照した中西は、「暁に名告り出るように鳴くホトトギスの声が、いっそうほめるべきものと思われるよ」と訳し、脚注で「いやめづらしく」について「どんなホトトギスでも賞すべきものである上に」と書いている。また歌全体について「情感を姑に甘えて問う趣がある」と述べている。なぜ「いっそう」ほめるべきなのだろうか。「姑に甘えて問う」とは何のことか。

家持の「暁に----」(国歌大観番号4084)の歌の前に家持の姑で叔母・大伴の坂上郎女(いらつめ)に対する「返歌」(4082,4083)があり、その前に郎女の歌(4080,4081)がある。そこで郎女の歌に戻って、読んでみた。

郎女の4080は「恋しくて死んでしまうほどだ」、4081は「自分の片思いを馬に乗せて越中に送ってやったらその人は心を寄せてくれるか」というもので、当時家持は越中に赴任していた。家持の返歌4082は「遠く辺鄙なところにいる下僕に天女がこのように恋を寄せてくれるならば生きる甲斐があります」、4083は「常日頃の恋しい気持がまだやまないのに、都から恋が馬に乗ってやってきたら、一層私の恋心が募ってたまらなくなります」というものである。『万葉集』編者の家持とその叔母は恋愛関係にあり、このホトトギスの歌には、ホトトギスの鳴き声を聞いてすばらしいと感じたというより以上の意味がこめられているということがわかった。

だが、ホトトギスの話が広がりすぎても困るので、家持のおば・坂上郎女との、また当時の宮廷人たちの恋愛については、久松潜一監修<万葉集講座>6。『作家と作品』Uに掲載されている諸論文を参照していただくことにして、ここでは家持とホトトギスの関係についてだけ、報告することにする。

『万葉集』を読む人にとっては、常識になっていることらしいが、第1巻から16巻までは原初の『万葉集』で、第17巻以降の4巻は増補であり、家持の身辺記録であるという。万葉集全体で家持の歌は450首以上あるというが、私は家持の歌が集中的に載っているという第17巻から19巻でホトトギスが登場する歌の数を数えてみた。すると、17巻の17首、第18巻の21首、第19巻の26首、合計64首にホトトギスが登場する。ウグイスは9首、雁が4首、鶴(タヅ)が2首、千鳥が3首、雉が2首、ほかにウヅラ、シギなどである。ほかの鳥に比べてホトトギスを歌ったものが断然多い。第8巻など他の巻にもあるが数えていない。

伊藤博「名告り鳴く」(『万葉集研究』第22巻、塙書房、平成10年)によると、『万葉集』にはホトトギスを歌った歌が155首載っており、第2位の雁が63首、第3位の鶯が51首であるというが、大友家持は一人でホトトギスの歌を64首以上も詠んでいるのである。

調べたことを、私同様無粋で日本の伝統文化に疎いひとのためにもう少し披露すると、4052〜54、4066〜69では、家持とその友人が集まってホトトギスの鳴く声を聞こうと宴会を開いて、歌を作っている。4068では明け方には必ず鳴くから、それまで夜明かしして待とうと言っている。4069では、春が来ると多くの鳥がやってきて鳴くが、とりわけ、卯の花の咲く4月になると鳴くホトトギスはすばらしいと言う。家持が特別にホトトギスの鳴き声を聞くことに執心していたばかりでなく、多くの歌人が好んでホトトギスを題材に取り上げて詠んだことがわかる。

また、4166の長歌では、ホトトギスが昔からウグイスの「現(ウツ)し真子」(生きている本当の子供)といわれてきたことに触れながら歌っており、ホトトギスの托卵について当時よく知られていたことがわかる。古代人たちはテレビのドラマやケイタイのメールなどに時間をとられることなく、たっぷりと身の回りの自然を観察することに時間をかけていたのだろう。

伊藤によれば250年後の平安朝期にも「名告る」ホトトギスについての多くの歌や文が書かれている。彼が示している歌からも、ホトトギスの鳴き声がまさにその名前のとおりであることの「めづらしさ」のゆえに好まれたことがよくわかる。

万葉の時代にも平安朝においても、人々が鳥の鳴き声を好んで題材にしたのは、たとえば、春の夜更けに田で鳴いている(シギの)声が物悲しさに、あるいは霞たなびく春の野の夕暮れに鳴く(ウグイスの)声がうら悲しい情景に合っていると感じられたように、多くの場合、鳥の鳴き声がその場の情感を表現するのにふさわしいと感じられたからであろう。ホトトギスも、後に時鳥と書かれることになるように、季節の変化が強く感じられる情景にふさわしいものとしても歌われている(4166)。だが、「名告り」を上げているようなその鳴き方はほかの鳥とはまったく違った「めづらしさ」を人々に感じさせた。それが、ホトトギスについての歌が多い理由だと思われる。

こうして、家持の4084の歌が、坂上郎女との恋愛関係を背景において考えるときは、その歌から感じられるかもしれない多少異なる趣や情感のようなものがあるにしても、私がそれらを無視して、名告りをあげるホトトギスの暁の一声に感動する気持ちをストレートに歌ったものだと、考えることにはまったく問題はないだろうと思われる。

伊藤によると、ホトトギスは『古事記』、『日本書紀』、『風土記』には現れず、『万葉集』にのみ登場する。

693年、額田王が「いにしへに 恋ふらむ鳥は ホトトギス けだしや鳴きし 我が思へるごと」(2−112)とうたったのが嚆矢で、劉備が漢を再興するとして建てた国、蜀漢の望帝の霊魂が化してホトトギス・蜀魂になったという中国の故事を踏まえた由緒ある、風雅な鳥であると考えられており、「当時すでに社会通念になっていた」という。こうした歌が近江朝〔667〜〕文化に表れた結果、ホトトギスに対する関心は奈良朝〔710〜〕に入って大いに深まり、『万葉集』の中に155首もの歌が入ることになったのだという。

他方、伊藤は「いかに遅くとも近江朝のころには、人々の間に、ホトトギスについて、日常言語として「名告り鳥」と称することが成立していたのではないかと」思うと言っている。

だが、歌の中に「名告り鳴く」鳥として登場するのは、天平21年(749年)の家持のこの歌だけで、しかも、家持が歌ってから再び250年間、ホトトギスの名告ることの歌はない。「表現はおよそ250年間眠っていて」、平安朝、紀元1000年ごろになって「再び頭をもたげた」。こうして伊藤は「名告る」鳥としてホトトギスが、平安朝期に特別の意味をもつものと考えられたことについてさらに詳説しているが、以下は省略する。

さて、『日本野鳥大観』などによると、人間の場合には声帯によって、鳥は「鳴管」と呼ばれる器官で発声するが、その発生の仕組みは異なるという。口笛でなら鳥の鳴き声をまねすることができるようにも感じるが、人間の声で鳥の声に似た音を出すことは土台無理な注文なのであり、文字で表記できる音で鳴き声に似せることはなおさらできないとしても当然なのだ。したがって、一方で他方の音をまねても、せいぜい音素の数が同じであったり、よくて、音の上がり下がりが似ているというようなものでしかない。オノマトペーが人によって、あるいは時代によって異なるは当然なのだ。

カッコウは鳴き方が単純でオノマトペーは、少なくとも、日本においては一致している。ホトトギスの鳴き方は決して単純ではなく個体により少しずつ異なる鳴き方をしており、それらにあわせた、幾種類ものオノマトペーや「聞きなし」(後述)が可能だと思われる。実際、現代的な「特許許可局」や江戸時代に広まったという「天辺駆けたか」と聞こえるものもあるが、また「ホ(ッ)トトギス」と聞こえるものもある。そして、こちらについては1000年以上の時の流れを越えて一致しているということが、この家持の歌や、平安朝期の「名告る」ホトトギスを歌った歌で確信できるのだが、これは驚くべきことだと私には思われる。

とはいえ、ホトトギスと呼ばれる鳥そのものについては同定されていたかどうかについて疑わしい点があるようである。『万葉集』では万葉仮名で保登等芸須と書いているところもあるが、「霍公鳥」と書いているところもかなりある。霍の音はカクであり、霍公鳥は「カッコウチョウ」と読める。そして現在、カッコウを指す漢字の郭公は昔はホトトギスを指していたという。(学研の藤堂明保編の漢和辞典で「古訓」でホトトギスとしている。)カッコウとホトトギスは別の鳥であり、鳴き声ははっきりと異なる。だが、同じ科の鳥で習性も似ている。どこかで両者を混同してしまったのだと思われる。

小学館『日本国語大辞典』によれば、中国では郭公はカッコウを指す。日本では、「新撰万葉集上」(893年)、「新撰字鏡」(898〜901年頃)で「郭公」、「郭公鳥」がほととぎすと訓まれるようになり、以後長くこの表記が定着した。郭公がカッコウを意味するようになるのは近代以降のことだとしている。また、霍公は「郭公」と同音なので、やや小型で姿の似ているホトトギスに流用されたと考えられる。また、奈良時代およびそれ以前の上代語「ほととぎす」はカッコウを含む呼称であったため、こうした流用が可能になったという説もある、としている。カッコウと鳴くカッコウという名の鳥がおり、またホトトギスと鳴くホトトギスという名の鳥がいることはよく知られていたが、多くの人が実際に、鳥が鳴いているときにその鳥の姿をみて、その鳥を確かめたのではないということがわかる。多くの人が、カッコウとホトトギスを明確に区別して知っていると言えるのは、ビデオの動画を多くの人が見ることができるごく最近になってのことだと言えそうである。

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ウグイスの名前の起源について

すでに述べたが、私は、カラス、スズメ、あるいはホトトギスなどを含め鳥の名前の多くは、鳴き声に由来すると考えたが、ウグイスについてはそうは考えられなかった。ホーホケキョがウグイスという名前と関係があるようには思えなかった。ところが蒲谷の『日本野鳥大鑑』によると、承暦二年(1078年)内裏歌合(ウタアワセ)に「いかなれば春来るからにうぐいすの己が名をば人に告ぐらん」という歌があるという。つまり、ウグイスは春の到来とともに自分の名を人に告げるとうたっている歌がある。

歌合(うたあわせ)とは、歌人を左右二組にわけ、その詠んだ歌を一番ごとに比べて優劣を争う遊び及び文芸批評の会であり(Wikipedia)、平安時代に宮廷貴族社会を中心に行われた物合(ものあわせ)という遊戯の一つであった。物合は左方、右方に分かれ、たがいに物を出し合って優劣を競い、判者(はんじや)が勝敗の審判を行い、その総計によって左右いずれかの勝負を決める遊びである。動物(鳥、犬、牛、など)、植物(梅、菊、など)、文具・器物(草紙、扇、貝、石など)などの様々な「物」についての「物合」が行われた。歌合は、平安朝初期に、摂関政治をおさえ朝廷の権威を高めるために、漢詩文の隆盛に代え、和歌再興を図る文化政策推進の一環として行われた。『平凡社大百科事典』。

調べてみると、承暦二年内裏歌合の三番の題は鶯で、右方の美作(みまさか)の守匡房が
「いかなれば はるくるからに うぐひすの おのれがなをば ひとにつぐらむ」と歌っている(日本古典文学大系74、岩波書店、昭和46年)。確かに、この歌では、鶯がその鳴き声で自分の名を人に告げていると考えられている。

蒲谷は山口仲美『ちんちん千鳥の鳴く声は』(1989、大修館書店)に依拠してこの歌のことを書いている。山口は、この歌を引いた上で、江戸時代の国語学者鈴木朖(あきら)がその著『雅語音声(オンジョウ)考』で「ウグヒスのホオホケキョの声はウウウクヒとも聞こえる。このウウウクヒに鳥類であることを示す接辞「す」がついて、ウグヒスという鳥名が誕生したと言っている、と述べ、また、幸田露伴が『音幻論』のなかでウグイスの鳴き声を「ウーグヒス」とも聞けると言っていることにも、触れている。

また、山口によれば、万葉集にはカラスが「コロ」と鳴くという歌があるが、奈良時代以前においては、母音の交代した二つの語形は等価であり、したがってコロとカラは等価で、コロがあればカラもあったと考えられる。つまり、当時、カラスは、コロあるいはカラと鳴くと考えられていた。このカラに鳥であることを示す接辞のスがついてカラスという名前ができたという。

ところが、古い言語の研究者・小松英雄(1985)は、「うめにうくひす」『文藝言語研究 言語編』10で、鳥の名前のうち、ホトトギス、ウグイス、カラスなどスのつくものは擬声語に起源し、ホトトギスはホトトギススが縮まったのだが、スズメ、カモメ、ツバメ、など末尾にメの来る鳥は原則的に擬声語起源ではない、と言っているという。だが、私は、この専門雑誌あるいは「うめにうくひす」論文を読むことができないでおり、語尾にメのつく鳥の名は擬声語起源ではない、ということの根拠を確かめられない。
他方、山口仲美によれば、平安末期の国語辞書『色葉(イロハ)字類抄』にはスズメの声として「シウシウ」、漢字で「啾々」と記されているという。これはチュン、チュンとほぼ同じオノマトペーだといえる。この時代およびそれ以前の人々は、スズメを「シウシウメ」あるいは「シュウシュウメ」(あるいは「シュシュメ」)と呼んでいたと考えられる。
私は上で、いわば原則的に、鳥の名前は(スやメの接尾辞にかかわらず)鳴き声がもとになったという自説(というより誰もが思いつく考え)を述べた。また露伴も、中国では「鳥自呼名」、つまり鳥は自分の名を呼ぶ、と考えられていると言い、スズメはチュヂュメでツバクラメ〔ツバメ〕はチュバクラメ〔チュバメ)だったと鳴き声由来説をとっている。
小松の「末尾にメの来る鳥は原則的に擬声語起源ではない」という説は、スズメという名前は鳴き声に由来するものではないことを意味するのだろうか。今我々がスズメと呼んでいる鳥を、古代の人々はまず「メ」によって、鳥の部類としてとらえ、そして言語に特有の偶然性によって、「スズ」なる鳥としてスズメと呼んだのだと考えるべきなのだろうか。(同様に、偶然によって「カモ」であるメ、「ツバ」であるメという風にそれらを呼んだのだろうか。)つまり「スズ」は鳴き声とは無関係なのであろうか。
小松の論文を読まずに言うのだから無理があることは承知の上だが、スズメの場合には、シュウシュウあるいはチュンチュンが先にあってメは偶然についたのだ。そしてシュウシュウメがスズメになったのだ。スズメは小松説が「原則として」述べていることの例外であると主張することは可能であると思われる。いや、そもそも小松説は誤りであり、スズメは、小松説に対する反証例だと主張することも、論理的には可能であると思われる。 そのうちに、小松の論文を読んでみようと思う。

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言語体系とオノマトペー

上では、オノマトペーが鳥の名前の「もと」になったと述べた。だが、言語全体のなかで、鳥の名前は、名詞のごく一部、それも、空と地上と海と三つの世界に棲む生き物のうちの一種類という、ごくごく限られた範囲に存在するものの名であるにすぎない。擬態語を含むオノマトペーは言語全体のなかでどのような位置を占めているだろうか。

『広辞苑』の収載項目は約23万語だという。日本人は、時空の、あらゆる方向に広がり、連続し、絡み合った森羅万象を、23万の語を用いて分割し、分類・整理し、指し示し、特定の部分にスポットを当てて捉える。外国語の辞書を引いていて、日本語の中には(単語で)同じことを表現できない事象もあると感じることもあり、また日本語に相当する英語が存在しないらしいと思うこともたまにある。しかし、私があることを的確に言えないのは、それを言い表す語を知らないからに過ぎないという場合がほとんどである。辞書の項目を順に読んでいけば、意味、使い方を知っている語のほうがはるかに少ないことがすぐに分かる。

言語体系そのものは世界を把握し、描くためには、完全だと言ってもいいのである。というのはわたしたちが考えるということは語を用いて考えることであり、考えることができるのは、名づけられた事象、状況だけである。一般的には、名指す語のない事象、状況はそもそも考えたり思ったりすることができないのだ。言語体系に新たな語を意識的に付け加えるということはほとんどできないといってよい。時に、新しい語が、ほかの語で簡単に説明できないニュアンスを持っていることはあるだろう。たとえば、「はまる」、「おたく」など。だが、それらの語も含め、ほとんどのことが既存の語で説明できる。そのつどの新語の採用、そして他方での死語の発生による、言語体系の変化は、まさに「微分」的であり「無限小」のものであろう。

万葉の時代にも、表記法はまだなかったとはいえ、当時使われていた日本語は日常生活においても、文学的表現においてもすでに出来上がっていたと思われる。しかし、古代から中世、近世、現代と日本語が変化したことも確かである。社会の仕組みや生活様式が変わったことが関係していることは明らかだが、社会の仕組みや生活様式を意図的・計画的に変えることが難しいのと同様、言葉、言語体系も意図的に作り変えることは難しい。生物が進化するとき、はじめにどこか一部にごくわずかな突然の変化が偶然に起き、それがその生物の生存環境に適合したものであるときに残り、積み重なり、「積分」されて、新たな種ができるように、日本語も変化、進化(進化という語には下等なものから高等なものへの進歩発展という意味を含まないというのが現代進化論の常識である)してきたのであろう。

そして、そのつど完成状態にあるともいえる言語体系に付け加えることができるのは、せいぜい漫画によくでてくるような擬態語を作ることと、そしてせまい意味でのオノマトペーによって、擬音語を作り出すことくらいではないか。

上で、人間は、言葉を用いて、物あるいは現象、運動などあらゆることを「名づける」ことにより世界のなかに区別をもちこみ、把握、理解することができるようになったと言った。

ある日本語学者(寺村秀雄、「日本語」『平凡社大百科事典』)によると、日本語は、物の名やその動き、変化、状態、性質などを表す実質語に、文法関係や話し手の事態のとらえ方を表す機能語(関係語、副詞など)が後に次々と付いて事がら全体を描き上げるような構成になっている、といい、実質語の代表は名詞、形容詞、動詞で、これは多くの言語と共通する。また、文の骨組みは、どの言語でも、動作、できごと、状態、物の性質などを表す述語を中心として組み立てられる、という。

これを私流に言い換えると、言語活動の中心をなすのは、「実質語」つまり名詞、動詞、形容詞であり、この三つの品詞を欠いては言語活動は不可能であり、したがって社会は成り立たず、人間は「原始的」、「動物的」生活に耐えられる人以外はを生きていけない。これに対比して、副詞をはじめとする「機能語」は動詞や形容詞を修飾する語であり、「世界」の有様、ほかの人間の行動の仕方をより詳しく理解することを可能にするものであり、他の人間を含む世界への関わり方をより適切なものとする働きを持つ。つまり、いわば粗雑でプリミティブな仕方でなら、副詞などがなくてもなんとか生きていけそうにも思われるのである。その副詞の中でも擬音語はなくても基本的生存のためには差支えはないということになるかもしれない。

田守育啓は『賢治のオノマトペの謎を解く』(大修館書店、2010年)で、宮沢賢治が慣習的オノマトペ(擬音語、擬声語、擬態語)と非慣習的つまり彼独自のオノマトペを多数用いることによって「文章に臨場感あふれる活力を付与している」と言っている。オノマトペは文学作品をよりすばらしいものにする。われわれは、単に生きるだけでなく、美しいものや心を楽しませ、魂を動かしてくれるものなしでは満足できないことは明らかだ。しかし、今、単に生きるというだけの観点に立ってみるならば、言語生活の中でオノマトペが占める役割はごく限定された副次的な役割にすぎないと言うことができそうである。

だが、次のような想像は可能である。大地をある男の子の名前としよう。現代人なら「大地が川に落ちた」と言うとき、原始人は「ザブーン、川、大地」と言ったのではないか。つまり、場合によっては、動詞よりも、擬態語、擬音語=副詞が先に生まれたのではないか。「走る」は身振りと「ビュー」という音、「泣く」は顔をゆがめ目をこするジェスチュアと「エーン、エーン」あるいは「アーン、アーン」という声、「食べる」は口を動かして「アグアグ」とか「ムシャムシャ」。つまり、私は運動、あるいは動作の様態によっては、それを言い表す際に、副詞ないしは擬音語も動詞と同様に重要な働きを担いうると言いたい。

露伴は『音幻論」において、クシャミや屁のほかに、人体に関した動詞として吐くのハ、吹くのフ、呼ぶのヨ、嚼(カ)むのカなどは人の声を模したのだと昔の人がすでにそう説いていると書き、擬音によって生まれた語は「動詞にも少なくない」と言っている。

わたしの乏しい知識に基づき、外国語に眼を向けてみると、水を意味するギリシア語のヒュドール、英語のウォーター、ドイツ語のヴァッサー、フランス語のオー、そして中国語の流などの語は、水がわれわれに与える感じから生まれたものではないかと考えたくなる。

小野正弘編『日本語オノマトペ辞典』小学館、2007、小野正弘「オノマトペのたのしみ」では、「光り」の語源は「ピカリ」、あるいは「ピカッ」という擬態語であるかもしれない(「ひ」はふるい日本語においては「ぴ」であった)という。つまり光という名詞、あるいは光るという動詞は一種のオノマトペー、「ピカッ」という擬態語から生まれたと推定する人もある。

言語のなかでは副詞、擬態、擬音語は、とくに文学作品においては重要な役を果たすかもしれないが、経済主義、「唯物論」的観点からすれば、ぜいたく品ということになる。つまり、オノマトペーは(貧しい文化の社会では)なしでも済ませられるものということになるかもしれない。しかし、オノマトペーが原始の言語発生期には中心的で重要な位置を占めていたと想像することも十分可能なのだ。

古代ギリシアの哲学者のうち、私がこのエッセーの第3部「幸福、エピクーロスの哲学、スポーツ、遊び、釣りについて」の第1章で取り上げたエピクーロスは、友人に宛てた手紙の中で「事物の名前もまた、最初から人為的な定めによって生じたのではなく、人間のもって生まれた本性そのものによって、それぞれの種族ごとに、人々は固有の感情を抱き、固有の印象を受け取って、これらの感情や印象のそれぞれによって押し出された空気(呼気)を、それぞれ固有な仕方で(言葉として)発したのである。その仕方はそれぞれの種族が住んでいる地域による差異もあったであろうけれども。」(デイオゲネス・ラエルティオス『ギリシア哲学者列伝』(下)第10巻75節(加来彰俊訳、岩波文庫)と言っている。

私が今述べているようなことを言語全体に適用して、言語(の起源)が世界のあり方の何らかの反映である、言語は「世界の模造」であるとする、かつて有力な考え方があった。

他方、言語は、世界の「模像」でも「形象」でもない。雪と言う語(ユキという音とその形ないし文字)のなかに、雪の冷たさや白さその他、本物の雪の性質に似たものは何も含まれていない。しかし、雪という語は本物の雪のもつ、あるいは雪からわれわれが受ける印象である冷たさや白さを、その意味/意義内容としてもつ。言語は対象、世界とつながりを持つ。言語は世界を表す記号である。象徴や模像と違うのは、その対象との結びつきが恣意的である点にある。対象=雪を表すための記号は、ゆきでも雪でもsnow、あるいはSchneeでもよい。こうした言語の記号的性格、恣意性は、ソシュール以降の現代言語学では「ドグマ」となっている。

そして、言語の模像的性格の方は、現代言語学においてほとんどタブー視されてきた。鈴木孝夫によると、彼が昭和28年か29年の言語学会大会で「鳥類の音声活動の記号論的分析」という発表を行った際、(おそらく人間の言語の起源についてふれたのだろうが)会場から、100年前パリの言語学会で、人間の言語の起源については、今後一切言語学では扱わないと言う決議をしたのを知ってるか、という質問があった、という(「言葉と文化 私の言語学」『わたしの言語学』<鈴木孝夫著作集>1岩波書店、1999)。

ヤコブソンによってそのタブーが破られ、言語の「イコン的」(図像的)性格、ないし「自然性」の問題の新たな考究が緒についたところだとも言われる。(ユルゲン・トラバント/村井則夫訳『フンボルトの言語思想』平凡社、2001年)

ところで私にとって、鳥の鳴き声をオノマトペーすることにはどんな意味があるだろうか。今由良半島家串で私が見聞きした鳥に関して書いているのは、ホームページに載せ他の人に読んでもらうためである。私が知らない野鳥の鳴き声を聞いて、その名前を知りたいと思い、図書館へ行きテープを聴いて調べるなどしたということをほかの人に伝えるためには、その鳴き声のオノマトペーを書いたほうが、文がより具体的になり、リアルに私の経験や行動が伝わるだろう。しかし私が「日記」の中に、時々、知らない野鳥の鳴き声を聞いたことやそのオノマトペーを書き留めておいたのは、ほかの人にそれを伝えたいと考えたからではない。

上で書いたオノマトペーやそれを聞いた時の状況などは、大部分は釣りに関して書かれた文からなる「釣り日記」のところどころから拾い出してきたものである。私は毎日行なった釣りに関して、天候、釣った場所、潮時、仕掛け、釣果、等々を詳しく書き留めておいた。日記には時々、その日の食事や、村人と交わした会話などについても書かれていたが、ほとんどいつも朝から晩まで釣りをしていたせいもあって、それは普通の日記diaryではなく、中身はほとんどすべて釣りの記録であり、釣りの「業務日誌」logであった。私ははじめはこの記録を後の釣りに役立てようと考えていた。

だが、4〜5年たつと、詳細な釣りの記録がとくに「役立つ」ことはないことがわかった。結局、何月ごろにどの魚がよく釣れるかがわかれば十分で(この程度の事は書いておかなくともわかる)、過去のどんな詳しい知識も、狙う魚が確実に釣れることを保証しないということがわかったからである。しかし私はその後も日記を書き続けた。一日の釣りを、あるいは数日分の釣りをまとめて、思い出しながら書くことが、そしてそれをしばらくして読み返してみることが、釣りをしている時とおなじくらい、楽しいことがわかったからである。⇒第三部第5章「釣りの回想の快」

この日記の中に、「今年初めてウグイスの鳴き声を聞いた。ホーホケキョでなく、ホーケキョ?とかホーキョ?とか、なにか不完全な鳴き方だった。云々」というような何行かの野鳥に関する記載が登場するのは、家串での釣り三昧の生活をはじめてから3年目である。釣り以外の事も少しは考えられるようになったのであろう。

釣りについて書くことはほかの人に読んでもらうためでなく、書くことが、そしてあとで読み返すことが楽しいがゆえに行う、自分のための行為であったのと同様、野鳥の鳴き声が聞こえた時にそれについて書くこともまた「自分のため」に行ったことであった。

ただし釣りについて思い出しながら書くというのとは少し違っていた。私は知らない野鳥の鳴き声の正体、その鳥の名前を知りたいと思った。鳥の鳴き声を記憶しておき、後でそれを図書館などにあるであろうテープやCDに録音されている名前のわかっている野鳥の鳴き声と比較して、なんであるかを確かめよう、同定しようと考えた。

ほかの人とコミュニケーションを行うためには言語の使用が不可欠である。私は第三部第三章「遊び」で、ルールも名前もない遊びがいくつもあり、一人遊びであれば言語は必要ないと書いた。また、第三部第四章「釣り」では、他の人々と勝敗を争う競技はルールにより定義され、はっきりした分類や区別が可能であるが、釣りは(自然に向かって)一人で行う活動であり、ルールはなく、名前はなくても釣りはできる、そして、原理的に分類を拒むと書いた。自分だけのために一人で行う行為では(そのやりかたをどのようにして知ったかを別とすれば)言葉の介在は不要だと思われるのである。

私が野鳥の鳴き声の正体を調べ、そのために鳴き声を記憶しようとしたのは、もっぱら自分のためであり、ほかの人に語るためではなかった。しかし、鳥の鳴き声を記憶するということのためには、それに名付けること、つまり言語化するという意味でのオノマトペーを行い、書き留めておくことが必要だった。実際、私は鳥Xの鳴き声、鳥Yの鳴き声,鳥Zの鳴き声を耳で聞いた通りに記憶しておいたのではない。何の注意もしていなかったのにトッキョキョカキョクと聞こえたのは一回だけで、ホトトギスだとわかっていてもたいていは注意して耳を傾けないとその鳴き声をオノマトペーすることはできなかった。鳥声に興味を持つようになってから、すぐに確かめることができたコジュケイを除き、それ以外の鳴き声については、鳥声が聞こえるたびに、私はそれを書き留めようと思った。そして、何とオノマトペーすべきか考え、そのために注意深くその音を聴いた。

注意深く聴くことは記憶に役立ったであろう。しかし、オノマトペーすることなしには記憶といってもぼんやりとした印象しか残らなかっただろうし、短時日のうちに消滅したであろう。プティトプティト、ピューイピューイ、ピューズイーキュルリ等々とオノマトペーすることで、野鳥の声をそれぞれの特徴とともに頭の中いれることができたのだと思うし、オノマトペーし書き留めることで「その鳥」の鳴き声の記憶を保持することができたと思う。こうして、日記に書いたオノマトペーのメモを見ることによって、日時が経ってからでも(というのは私は家串に数週間、時には数か月続けて滞在し、その間は録音テープやCDを図書館で借りて聴くことはできなかったからである)それらの鳴き声を思い出すことができ、その鳴き声の記憶を、テープ、CDに録音された鳥の鳴き声と比較し鳥の名前を知ることができた。鳥の声を記憶すること、時間がたってからそれを思い起こすことのためにはほかの人とのコミュニケーションを必要とせず、そこにはコミュニケーションは関与していない。記憶や想起は私一人の内的行為である。しかし私はその自分だけのための行為においても言語を用いることを必要としたようである。

鳥の鳴き声のオノマトペーの話が取り留めなく広がってしまった。オノマトペーの話はこれくらいにして、次に「聞きなし」について少し書きたい。

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「聞きなし」という語

オノマトペーに似ているが、より進んだ段階の言語化というべき鳴き声の捉え方があり、「聞きなし」という。「聞きなし」という語は蒲谷の『野鳥大鑑』ではじめて知った。鳥の鳴き声に(意味のある)日本語を当てはめて表現することである。「見做す」という語は誰でも知っているだろうが、それと同様に、「聞き做す」という語があるのだ。

あるとき私は家串に繋いで止めてある船の上で釣り道具の手入れをしていた。そのとき私は特許のことなど全く考えていなかった。ところが、突然、「トッキョ、キョカキョク、トッキョ、キョカキョク」つまり「特許許可局、特許許可局」と繰り返す鳥の鳴き声が聞こえた。ホトトギスである。そのときに初めてホトトギスの鳴き声を聞いたのだが、その鳴き方についてはしばしば読んだり聞いたりしたことがあったので、少しも迷わず、瞬間的にホトトギスだと分かった。よく響くきれいな声だ。それにしても初めて聞いたのに、明確に、はっきりとした日本語で「特許許可局」と聞こえてきたのには驚いた。

この場合には、私は、聞きなすための努力、あるいはその鳴き声にあてはめるべき日本語は何かを考えるための注意力の集中を何ら行っていない。私の中にもともと記憶されていた「特許許可局」という語の音と外から響いてきた音とが完全に一致したためであろう。その後、何度もホトトギスの声を聞くが、いつも「特許許可局」と聞こえるわけではなく、むしろ、多くは意味のない「キョキョ、キョキョキョ」の繰り返しに聞える。そして時々「ホットトギス」と聞える。一般的にはとくに何も考えず、聞えた音を文字で表記することがオノマトペーであり、当てはまる言葉がないか少し考えて、そのように聞くことも可能だと判断したときに聞きなしが行われることになる。しかし私が最初にホトトギスの鳴き声をきいたときの「トッキョキョカキョク」つまり「特許許可局」は聞きなしとオノマトペーが一体となったものだった。

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みなすということ

「AをBとみなす」というとき、Aは名前のわからない、何であるかがわからない、単に指でさして「それ」としか言えないものでかまわない。一方Bはその意味内容を自分がよく知っている語でなければならない。そして、私が何かを見たと言えるのはそれが何であるかの判断がなされたときである。あることがAであってBではないことがわかっていても、それが部分的にBに似ている場合に、わざとそれをBだとみなすという場合にも、AをBとみなすと言うことがある。しかしここではさいしょのようなケースを考える。

この図は何を描いたものか。右向きのウサギとも左向きのアヒルともみることのできる図形である。

  Web上で「ヤストローのウサギの図」などの語で検索すると、もっとリアルな図が載っている。だが、著作権の関係か、コピーはできてもHPに再掲載することはできないようである。下手だが私の描いた図を掲載した。

N.R.ハンソンは、『科学的発見のパターン』(村上陽一郎訳、講談社学術文庫など)の中で、はっきりウサギと見える図とはっきりアヒルと見える図を別に示し、事前にアヒル(の図)を見ていた人、「アヒル的世界観の人」には、この「ウサギ−アヒルの図」はアヒルに見え、事前にウサギを見ていた人、「ウサギ的世界観の人」にはその図はウサギに見えるということを示す。
彼は事物がどのように見え、どのようなものと判断されるかは、直接的な感覚データによって決まるのではなく、その事実がそこに帰属し、それによって説明される概念枠、あるいは理論によってである、と言う。あるものが長い耳をもった動物という概念枠に収まればそれはウサギと見られることになるが、少し口をあけた長いクチバシをもった動物という概念枠に収まれば、それはアヒルである。われわれの日常経験における何かを見るというケースはこのように、「何かを何かとして」見ることである。

16、7世紀のヨーロッパにおける科学革命の時代には、地球から観測されるかぎりの諸天体の運動はアリストテレースの自然学によってもニュートンの物理学によっても(自然学、物理学はどちらも英語ではphysicsである)同じようにうまく説明することが可能であり、宇宙が地球中心であるか太陽中心であるかは容易には決まらなかった。観測されるさまざまな「事実」は、地球中心説に立つ人々には、地球中心を証明する証拠に、また太陽中心説に立つ人々には、逆に、太陽中心を証拠立てるものに思われた。科学革命の進行には、「科学的」根拠によらない多くの事柄、政治的宗教的な見解や立場の違いなどが関係した。

『カントとカモノハシ』(和田忠彦監訳、岩波書店)の中で、ものの認知についてウンベルト・エーコは「感覚は刺激の解釈として現れる。そして感覚の解釈として知覚があり、知覚の解釈として知覚判断があり、----」とわれわれが何かを見、それが何であるかを言葉に出して述べる(ことができるような判断「これは何々だ」を行なう)までに何段階もの過程が存在すると述べている。(上巻140p)

「聞きなし」も同様である。「空耳」と言うタイトルでやっていたテレビの番組で、出演者も私を含む視聴者も最初に聞いたときに意味の不明な音Xが、意味のはっきりした、ある別の言葉を聞かされてからその音を聞くと、はっきりとその言葉どおりに聞こえるということを示していた。その音を解釈する「枠組み」が与えられたときに、その音が意味のある語と判断されるのである。
鳥の鳴き声の場合、そこに含まれている音素あるいは音のまとまりは、人間の発した言葉ではなく意味を持ったものではないため、足し合わせても有意味な文にはならない。しかし、それら音素の集合が、有意味な文と結びつき、意味のある語や句のつながりであると解釈されたときに、全体が人間の言葉からなる有意味な文になる。「法、法華経」や「特許許可局」などがそうした「概念枠」である。

言語化するということは、カント的にいうと、感覚を通して受け取ったものを、一定の形式で整理、分類することである。鳥の鳴き声については、どんな音でも「聞える」つまり「聞き分ける」ことができるというわけではない。また、それを再現して、あるいはそれに似せて発音できるわけでもない。
ほかの動物の鳴き声ばかりではない。人間の発する音声(言葉)であっても、外国語を全く知らない日本人にとって、聞き分け、それと同じように発音することができるのは、日本語の音である。つまり、あいうえお---で書き表される音であり、th、vi,rなどの音は聞き分けられず、発音もできない。

私は中学の時から学んだ英語が、好きで比較的得意な科目であった。大学3年の時に東大キリスト教青年会(東大YMCA)の寮に入っていた関係で、学生YMCA同盟と言う組織から旅費を出してもらってフィリピンで行われたワークキャンプに参加し、その後東南アジアを2,3か月旅行した。インドネシアで、ガメ(ム)ラン音楽を聴きに行ったときに、アメリカ生まれのトルコ人だと言う青年と一緒になった。彼は母国のトルコに行く途中だという。
覚えているのは、現地の労働者のまねをして唯一のおかずに赤唐辛子をかじりながらご飯を食べてみたら、食べるときもhotだったが出てくるときもhotだったと彼が笑いながら話したことと、もう一つはwoodという語の私の発音が悪いと彼に指摘されたことである。
話の脈絡は忘れたが、わたしがwoodと言うと話が通じない。言いたいことをほかの言葉で説明してようやくわかった時、かれは「ウッド」じゃない、「ウォッド」だと口をとがらせて発音して見せた。私はwoodという語を中学以来6,7年前から知っていたが、発音は日本語風の「ウッド」で通してきていたのだ。教師の発音も「ウッド」だったのだろう。「ウォッド」、あるいはth、vi,rなどの音のような、日本語にない音は聞いてもわからないか、それと同じではないがそれに似た日本語の音として聞こえる。

私はウグイスの谷渡りのオノマトぺーを「トルルルルル、プティト、プティト---」だと考えていた。ホーホケキョはすでに日本語として知っていたが、(それまで知らなかった)谷渡りの鳴き声は日本語にはない音で、私にとっては、それを指し示す音は、トゥルルル-----だったのである。私が若いころ、このような音を多く含む、イタリア語やフランス語の歌が好きでしょっちゅう聴いたり歌ったりしていたことが、このオノマトペーをさせた背景だと思う。このオノマトペーは、それら外来語を全く知らない人にはありえないものだったろう。

ちなみに次に書いたのはYoutubeからとったトニー・ダララのLa Novia「ラ・ノヴィア」の途中の一節に、カタカナ書きで私流の読みを付したものである。

La sull'altar lei sta piangendo、ラ スラルタール レイ スタ ピアンジェンド
 Tutti diranno che ? di gioia、トゥッティ ディラーノ ケ ディ ジオーイア
mentre il suo cuore sta gridando、メントゥレ イル スオ クオーレ スタグリダンド
Ave Maria、アヴェ マリーア

高校生の頃だったと思うが、この曲や、ジリオラ・チンケッティのNon Hol'eta「ノノレタ」などが好きでよく歌っていた。トゥルルルル、プティト、プティトがこういうイタリア語風の音からきていることはわかってもらえるだろう。

人間以外の動物の声の場合には、オノマトペーしかできないものがほとんどであろう。だが、可能なら、次の段階で日本語の語彙を当てはめて「聞きなし」の操作、つまりエーコの言う「解釈」が行われる。「ホットトギス」は当てはまるべき日本語の語彙がない。それはオノマトペー、「鳴き声」のままで留まるだろう。「トッキョキョカキョク」ならば、私がそうだったように、自然に、つまり意識的、意図的に語彙を探し当てはめようとはしなくても「特許許可局」と聞くことができる。「キョッキョ、キョカキョキョ」くらいなら、ちょっと努力すれば「特許許可局」と「聞きなす」ことは可能だろう。

江戸時代には「天辺駈けたか」という聞きなしが盛んに行われたという。ホトトギスの鳴き声の中に「テッペン」と聞こえるような部分は含まれていないが、一部が「カケタカ」と聞えることはしばしばある。何とか「聞きなしたい」、なんとか日本語で「言いなしたい」と考えた人は、多少無理でも、「テッペン」と付け加えて、より意味のある文として、聞きなす。そして江戸時代にはもうひとつ「保存(本尊)かけたか」という聞きなしがあったという。これもかなりの無理があるように思われるが、「カケタカ」を生かそうとする努力が生み出した聞きなしであろう。

また現代日本の各地で行われている聞きなしの例として「ホッタンタケタカ、イモクビクタカ(ホッタン=ご飯炊けたか、芋首食ったか)」、「ホーチョータテタ(包丁立てた)カ」などがあるという(山口『ちんちん千鳥』)。鳴き声の後半は「カケタカ」という日本語に近いもので、前半が人間の言葉とかなり違っているために、「聞きなす」必要があった。あるいは自由なあるいは勝手な「聞きなし」を行う余地があったことの結果であろう。

ウグイスの「ホーホケキョー」(法、法華経)やホトトギスの「トッキョキョカキョク」のように意識的な聞きなしの努力なしに、自然なオノマトペーと聞きなしが区別されずに行われる場合もある。そして、オノマトペーは、音を出すものなら何であれその音を文字で表現することである。列車のガッタンゴットン、犬のワンワン。マツムシのチンチロリン。雷のゴロゴロ。何でも音を発するものならば、その音をそのまま真似ることはできなくても、その特徴を多少なりとも捉えて、オノマトペーすることが可能である。しかし、聞きなしは、どんな音や鳴き声にも可能だとは、到底言えない。だがいくつかの種類のものについては聞きなしが行われている。

愛媛新聞2010.11.17小川次郎「生き物の調べ」18.によると、コオロギの仲間にツヅレサセコオロギという虫がいる。「成虫はお盆ごろに出現し「リュッリュッリュッリュ」という丸みのある声で途切れることなく、鳴き続ける」という。「リュッリュッリュッリュ」はオノマトペーである。名前の「ツヅレサセ」という語は、この虫の鳴き声を、昔の人が、「肩刺せ、裾させ、綴れ刺せ」と聞きなしたことに由来するという。つまり「晩秋にゆっくり鳴くその声が、つづれ(やぶれを縫い合わせた衣服)の傷みを縫い直し、冬に備えよといっているように聞えたのであろう」と著者は言う。しかし、「リュッリュッリュッリュ」と「肩刺せ、裾刺せ、綴れ刺せ」とは似てもにつかぬ音である。〔Youtubeですぐに鳴き声を確かめることができる。最初にこの文を書いた時にはPCはインターネットにつながっていなかった。〕

すると、オノマトペーと関係なく、音を聞いて有意味な言葉、句を作り出すことが聞きなしだということになる。それならばと、少し探すとすぐに見つかった。たとえば蒸気機関車のシュッシュ、ポッポはオノマトペーであるが、機関車が上り坂をのぼっていくときの「なんだ坂、こんな坂、なんだ坂、こんな坂」は聞きなしだろう。

『万葉集』にホトトギスが、『枕草子』にスズメが出てくることを知り、手元にあった、私の友人の佐復秀樹が訳したアーサー・ウェイリー英語訳の『源氏物語』(平凡社、2008年)を開いてみた。第1巻の末尾に、物語の中に散文で書かれて登場する200を越す歌の一覧が載っている。源氏物語巻十一「花散る里」に郭公を読んだ歌がでてくる。本文を読むと源氏が麗景殿の女御の家を訪ねたが門の中に入らぬまま再び立ち去ろうとしたときホトトギスが鳴いた。そしてその鳴き声は「その場に留まれと源氏を招いているように聞えた」という。光源氏は、「キョッキョキョキョ」を「この場に立ち止まれ」と聞きなしたのだ。

瀬戸内寂聴訳他二、三の日本人による現代語訳に当たってみたが、「ホトトギスが○○と鳴いているかのように」聞こえたというニュアンスは読み取れない。おそらくウェイリーは、元の文章にこだわらず、源氏の気持ちを想像しつつ自由に英語に訳したのではないかと思われる。

私が高校時代まで育った新潟市秋葉区(旧新津市)の民謡「新津松阪」に「秋葉山から吹き降ろす風は、新津繁盛とサー吹き降ろす」という文句がある。秋葉アキハ山は、もと新津市の町の南側に広がる低い丘陵地の名前である。その秋葉山の松の林を抜けて吹き降ろす風は「さーっ」と、あるいは「ザーッ」と吹くが、町の繁盛を願う人々にとっては「新津繁盛」と吹いているように聞えた。この民謡の作者とこの民謡を愛した人々は秋葉山から吹き降ろす風の音を「新津繁盛」と聞きなしたのだ。

1960年代後半、私が高校生の頃に流行った、カスケーズというグループの歌があった。日本語の題名は「悲しき雨音」だった。出だしがListen to the rhythm of the falling rain telling me just what a fool I ’ve beenであり、歌の最後には雨がpitter,patter,pitter,patterと降ると言ってる。この歌手たちは、雨だれの音を「ピタペタ、ピタペタ」(日本語なら「ピチャピチャ」か「ポタポタ」)とオノマトペーし、またその音を「おまえはなんて馬鹿だったのか」と聞きなしている。

聞きなすとは、聞く人が、聞こえてくる物理的音からは自由に、だが、同時に、それを聞いている人々を取り巻き、その人々の関心を支えている状況によって規定されて行う、聞こえてくる音の解釈だと考えられる。

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「見るは見なすこと」への反対論への反論

奥雅博は「日常言語分析的アプローチ―いわゆるヴィトゲンシュタインの「アスペクトの知覚」をめぐって―(<新・岩波講座哲学9>『身体・感覚・精神』、1986)で、「全ての見るは、としてみるである、というわけではない」と述べている。彼は次のように言う。「「としてみる」は意志にしたがうがゆえに、「私はこれを----として見ようと努めている」、「私はまだこれを----として見ることができない」---ということができる」のだと主張する。

私は上で、聞きなしが「自由に行なわれる」といった。奥は、これが「意志にしたがう」ことだ考えるようである。そして、「私はライオンをライオンとしてみることができず、文字「私」を文字「私」としてしかみることができない。ライオンがライオンに見えない人間は、眼が悪いか、頭が悪いか、ライオンを知らないかである」という。ライオンは、知っている人にとって、端的に、ライオンに見えるのであり、意志に従い、努力して、ライオンとしてみようとするわけではない、と言いたいのだろう。

また私が上であげた「うさぎ―あひる」図=「ヤストローの図形」が「多くのウサギの中に描かれて」いる場合に、それが何かと問われれば、ウサギとこたえる。「これは正真正銘の知覚報告であって、この折に、「私にはそれが今ウサギとして見える」とは言わない」という。また、ヤストローの図形だけを眼前に示されてそれがなにかを問われるならば、私は「ヤストローの図形」とこたえるであろう。私にはヤストローの図形が見えているのであって、これが知覚報告なのである。----われわれは食卓にナイフとフォークを端的に見るのであって、それらをナイフとフォークとしてみるのではない」。「私(に)は---として見(え)る」という表現は、むしろ例外的な、アスペクト〔見え方、相〕の交代の折りに用いられる表現である」と言う。

しかし、彼が、なにかを見る場合に「---としてみる」のでなく端的に見(え)るのだとする例はすべて、すでに知っているものを見るケースである。「---として見(え)る」という表現は、「アスペクトの交代の折り」に用いられる表現だ、ということはそのとおりであろう。しかし、人が「---として見る」ということは、「例外的」に起こることではなく、あらゆる場合に起こっていることである。人は「---として」しか見られないのである。そして「---として」は見ることが意志的に行なわれることを意味していない。われわれ、少なくともある年齢以上の人間は、見たり聞いたりするときに、それが何であるか、何のようであるか、なんとも言えないというような仕方ではものを、「ありのまま」見たり聞いたりすることができず、ライオンのようにすでに知っているものなら、端的にその知っているものとしてしか見えないし、知らないものなら、何かの知っているものに関係付けて見聞きする。

「ライオンがライオンに見えない人間は、眼が悪いか、頭が悪いか、ライオンを知らないかである」と奥はいう。たしかに、犬や猫しか見たことがなく、テレビや写真でもライオンを見たことがない子どもが、たとえば、動物園ではじめてライオンを見るときには「ライオンはライオンに見えない」。だが、なにかが見えているだろうことは確かだ。その子は何をみているのだろうか。彼は「大きな犬みたいなもの」、あるいは単に「大きくて怖そうな生き物」として、そのライオンを見ているのである。

「ライオンとしてみる」とは、見たときに、大きな犬だとも、単に何か恐ろしい動物だとも、「トラだ」とも思うのでなく、「あっ、ライオンだ」と思うということである。ライオンであることがわかるという意味である。見るということは、何らかの既知のものとしてしか見れないということである。ライオンを知らないひとは努力すればそれをライオンとしてみることができるというわけではもちろんない。

p> 文字「私」が端的に「私」に見える人は、漢字を知っている人、私と言う漢字を他の漢字と区別して簡単に読める人であり、漢字を全く知らない外国人には「?」、つまりなんだかわからない何か、あるいは直線で描かれた何かの記号として見えるだろうが、その人は「私」を見ているとはいえない。つまり、見るということは単に感覚印象を受け取るとは違うということなのである。他には何も書かれていない紙の上に「私」という文字を見た(「頭が悪い」のでなく、アルファベットしか知らない)外国人なら、なにか「人が意図的に書いた線、もしかしたら、どこかの国の文字かもしれないもの」としてみるだろう。その文字がかすれていて、日本人でも「私」という漢字だとわからない場合にも、「書かれた曲がった線」、または、「黒い糸屑」かもしれないものとしてみる。

その関連がどれほど弱いにせよ、なにか知っているものと関連付けることによって、われわれは物を見たり聞いたりするのであって、生の光の印象や一つ一つの音素の集まりとしてみたり聞いたりするのではない。見ているものがなにかのようなものとさえ言えなかったら、われわれは、その見えていると思っているものは、もしかしたら見間違いや自分の眼のなかであるいは耳の中で起こっていること、単なる幻想、幻聴かもしれないと思うはずである。見る当人が意識するかしないかは別として、「として」は「見る」あるいは「聞く」を支える根本構造である。時々、「アスペクトが交代する」ときに、その「として」がその当人にも意識されるだけであり、既知のものの「端的な知覚」も、口に出されなくとも「これはライオンだ」、あるいは「あっ、ライオンだ」という判断を伴った知覚である限り、その構造によって支えられている。

疎開先で生まれ親戚の農家の蔵に住んでいたころで、私が小学校に入る前であることが確かな記憶の中に次のようなものがある。あるとき、母親がお茶とお菓子を用意しながら「お茶の会をやるから友達(誰かの名前だったかもしれない)を呼んでおいで」と言った。私は友達と一緒にお茶を飲みながらお菓子を食べるのだと知って喜んで、近くの友達を呼びに、走って出かけた。このときのことを今でも繰り返し思い出すのだが、そのとき私は「お茶のカイってなんだろう」と考えながら走っていた。お茶は知っていた。しかし「お茶のカイ」が分からなかった。貝は知っていた。隣の本家にほら貝があって、時々見た記憶がある。私は、茶碗の代わりに大きな貝のなかにお茶を入れるのだろうかなどと考えながら走っていたことを覚えている。私は抽象名詞としての「会」とは何であるかを知らなかった。「お茶の会」を「お茶の会」として知らなかった。私の知っている「カイ」つまり貝に関係付けることによって、「お茶のカイ」をお茶を飲む集まりとしてではなく「貝を使ってお茶を飲む」こととして、解釈・理解しようとしたのである。間違った解釈であったが、始めてのことを既知のことと関係づけて理解しようとしたことの一例と考えることができる。

こうして見る、聞くは、未知のもの、あるいは何であるかが不確かなものの場合には、既知のものの一種、変形、似たもの、既知の何かと推定されるもの「として」現れる。既知の、なじみのあるものの場合には、そのものとして、端的に知覚される。既知のものの場合には「として」は意識されない。だが、知覚することは網膜にそのものの像が映し出されることではない。われわれは知覚の対象をそれがなんであるかという解釈、判断とともに見るのであり、それは対象をあるものとして見るということである。

子供は「自己」と自己の外のものの存在を知り、ものにさまざまな種類があることを知るだろう。そして、まず身近な周囲の世界に関する知識が組み立てられるのだろう。身近なよく分かっているものについての知識が核となり、それとの比較や類推が繰り返されて、つまり知っているものと関連付けられることで、その外に広がるものについても間接的な仕方で、知識が増えていく。こうして、意味を持ったものとしての世界が次第に広がると考えられる。

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