Title9-3.GIF (2758 バイト) 日中関係史             



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日中関係史 関連年表

3〜5世紀
日本 中国
239年 卑弥呼、魏に遣使。明帝、卑弥呼を親魏倭王とする  234年 蜀の諸葛亮、魏の司馬懿と交戦し、五丈原で没す。
247年 卑弥呼、狗奴国と戦い、魏の皇帝から檄を送られる。卑弥呼、死去し、国中乱れる。
 266年 倭の女王壱与、西晋に遣使。 263年 三国時代の蜀滅亡。
    280年 呉の孫皓、晋に下り、呉滅亡。晋による統一。 
    286年 鮮卑の慕容[广鬼]、遼東を侵す。晋、扶余を助け、慕容[广鬼]を破る。扶余、自国を回復。高句麗、帯方郡を攻める。
    293年  慕容[广鬼]、高句麗を攻める。
     304年 匈奴系の劉淵、左国城で建国し、漢王と号し、元熙と改元;五胡十六国の始まり。
369年 この頃、倭、朝鮮半島南部(加羅)に進出。
百済王、倭王に「七支刀」を贈る。
313年 高句麗、楽浪郡を滅ぼす。中国の郡県支配終わる。
391年 倭軍、渡海し百済・新羅と戦う(高句麗 広開土王碑銘) 391年 高句麗で広開土王即位。
    395年 百済、高句麗を攻め、 大敗。
399年 倭、百済と結び、新羅に侵攻。高句麗、新羅を救援して倭を退け、任那・加羅に至る。
404年 倭軍、帯方郡に出兵し高句麗に敗退。 406年 後燕、高句麗を攻め、大敗。
421年 倭王讃、宋の武帝に朝貢し、「安東将軍 倭王」の称号を受ける 439年 北魏の太武帝、華北を統一;南北朝時代となる(華南は宋が支配)
478年 倭王武、宋の順帝に朝貢、「使持節都督倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓・六国諸軍事、安東大将軍倭王」の称号を受ける。 475年 高句麗、百済の首都漢城を攻略し、王を殺す。百済の文周王立ち、熊津に遷都。
479年 倭王武、斉の高帝に「鎮東大将軍」の称号を受ける。雄略天皇没。 488年 北魏、百済を攻め、敗退。
    494年 高句麗、扶余を降す。 
6〜8世紀
日本 中国
502年 倭王武、梁の武帝から「征東将軍」の称号を受ける。 503年 朝鮮の斯蘆、国号を新羅と改める。
512年 継体天皇、加羅4県を百済に譲る。 528年 新羅で仏教が公認される。
552年 蘇我、物部氏、仏像礼拝の可否で論争。 538年 百済、扶余に遷都し、国号を南扶余と改める。
 562年 加羅、新羅に滅ぼされる。  540年 柔然、西魏を侵す。 
 572年 敏達天皇即位。大連に物部守屋、大臣に蘇我馬子。  551年 新羅、百済とともに高句麗を攻め、10郡を取る。 
 585年 物部守屋、仏寺、仏像を焼く。  555年 突厥の木杆可汗、柔然を滅ぼす。 
587年 蘇我馬子ら、物部守屋を滅ぼす。 581年 楊堅、北周の静帝より帝位を受け、隋を建国。
588年 蘇我馬子、飛鳥に法興寺(飛鳥寺)を建立。 586年 高句麗、長安(平壌)城に遷都。
592年 蘇我馬子、崇峻天皇を殺す。推古天皇即位。 589年 隋、中国を統一。
593年 聖徳太子(厩戸皇子)、摂政となる。
594年 高句麗僧慧慈、聖徳太子の師となる。     
600年 日本、新羅に出兵。倭王、隋に遣使(隋書)。     
603年 新羅再征を中止。   
604年 冠位十二階を制定。   604年 煬帝、文帝を殺し、即位(〜618)。 
605年 憲法十七か条制定。   605年 隋、大運河を開設。 
607年 小野妹子らを隋に派遣。(翌608年帰国) 。聖徳太子、法隆寺建立に着手。    
609年 小野妹子ら再び入隋。     
610年 高句麗僧曇徴、紙・墨・絵具の製法を伝える。  612年 隋、高句麗遠征するも大敗。 
621年 新羅、初めて来貢。  618年 煬帝殺され、李淵、帝位を受け(高祖)、唐を建国。 
622年 聖徳太子没。 
624年 寺と僧尼の調査;46ヵ寺、僧816人、尼569人   
626年 蘇我馬子没。子蝦夷が大臣となる。  626年 唐の太宗(李世民)即位(〜649)。貞観の治。 
628年 推古天皇没。舒明天皇即位。  628年 唐軍、朔方の梁師都を滅ぼし、中国統一。 
630年 遣唐使派遣。犬上御田鍬・恵日らを派遣。  630年 唐、東突厥を滅ぼす。 
643年 蘇我入鹿、山背大兄王一族を斑鳩宮に滅ぼす。中大兄皇子・中臣鎌足ら、蘇我入鹿を殺す。孝徳天皇即位。大化の改新。  631年 唐に、林邑、新羅、倭が入貢。 
    645年 太宗、高句麗を親征、遼東を攻略。 
661年 斉明天皇・中大兄皇子ら、百済救援に難波を出帆。  657年 唐、西突厥を滅ぼす。 
663年 白村江の戦い。日本水軍、唐に大敗。  663年 唐・新羅連合軍、百済・日本連合軍を破る。百済滅ぶ。
668年 中大兄皇子、即位、天智天皇。  668年 唐の李[責力]、扶余、平壌を攻略、高句麗滅ぶ。安東都護府を置く。 
670年 法隆寺全焼。  676年 新羅、唐軍を退け、朝鮮半島統一。 
672年 壬申の乱;大海人皇子、大友皇子を攻め滅ぼす。飛鳥浄御原宮に遷都。天武天皇即位。     
690年 持統天皇即位。  690年 則天武后即(国号を周と改める)(〜705)。 
694年 藤原京に遷都。     
698年 南西諸島に使を派遣、入貢を求める。     
701年 大宝律令完成。粟田真人、山上憶良らを遣唐使として派遣。     
710年 平城京に遷都。     
712年 太安麻呂、『古事記』を撰上。  712年 玄宗即位(〜 
717年 遣唐使;吉備真備、僧玄ム、阿倍仲麻呂ら。  730年 この頃から、玄宗、宦官を寵任。宦官の勢い振う。 
737年 天然痘流行。     
752年 東大寺大仏開眼供養。 751年 4鎮節度使の高仙芝、タラス河畔でイスラム軍に大敗(中国の製紙法西伝)。 
754年 唐僧鑑真来日。戒律を伝える。  755年 安史の乱(〜763)。 安禄山、洛陽を占領。
759年  鑑真、唐招提寺を建立。  756年  玄宗は四川に脱出。楊国忠は殺され、楊貴妃も縊死される。粛宗即位し、玄宗は上皇となる。
766年 道鏡、法王となる。  762年 玄宗没。 
770年 道鏡を下野薬師寺に左遷。    
781年 桓武天皇即位。  784年  顔真卿、李希烈により殺害される 
788年 最澄、比叡山寺を創建。     
794年 平安遷都。     
797年 坂上田村麻呂、征夷大将軍に任命される。     
9〜11世紀
日本 中国
804年 遣唐使派遣、最澄、空海ら入唐。
806年 空海帰国。真言宗を伝える。平城天皇即位。
809年 嵯峨天皇即位。
814年 嵯峨天皇の皇子・皇女に源姓賜う。(嵯峨源氏)     
838年 最後の遣唐使;藤原常嗣、円仁ら入党。     
842年 橘逸勢ら謀反の疑いで配流。  845年 武宗による会昌の廃仏(山武一宗の法難) 
    858年 王式、安南都護府・経略使となる。南詔、ベトナムに侵寇。 
    863年 南詔、ベトナムの安南都護府を占領。唐、安南都護府を廃止。 
    866年 唐将高[馬升]、ベトナムから南詔軍を撃退。 
 873年 清和天皇の皇子・皇女に源姓を賜う(清和源氏)  870年 南詔軍、成都を包囲。 
 877年 陽成天皇即位。  875年  黄巣の乱起こる(〜884年)。 
 880年 藤原基経、太政大臣となる。     
 884年 光孝天皇即位。  884年 李克用、朱全忠ら、黄巣の軍を大破。黄巣の乱終わる。 
 887年 宇多天皇即位。藤原基経を関白に任命。  890年 昭宗、朱全忠らに動かされ李克用征討軍を起す。李克用これを破る。 
     894年 李克用、荊州、雲州を占領。
901年 菅原道真、大宰府に左遷。  901年 昭宗、宦官に幽閉されるが、復位。朱全忠が東平王、李茂貞が岐王となる。 
    902年 南詔の宰相鄭買嗣、王位を奪う。南詔滅ぶ。
    907年  朱全忠、哀帝を廃し、帝位に就く。唐滅ぶ。後梁建国(〜923年) 。五胡十国始まる。馬殷、楚王となる。銭[金謬]、呉越王となる(呉越建国〜978)。高季昌、荊南節度使となる(荊南建国〜963)。王建、帝位につく。前蜀建国(〜925)。
    911年 燕王劉守光、帝位に就く。大燕建国。 
    912年 太祖朱全忠の第四子朱友貞、朱友珪を殺して即位(末帝〜923年)
    916年 契丹の耶律阿保機、帝位に就く。(太祖。〜926)。遼の建国(〜1125) 
    923年 後唐建国(〜936)。開封を首都とする。末帝没。後梁滅ぶ。
     924年 岐王李茂貞、後唐に降る。後唐、開封を占領。後梁滅ぶ。岐事実上滅ぶ。
     
       
12〜14世紀
日本 中国
       
1274年 文永の役
1281年 弘安の役    
15〜17世紀
日本 中国
1592年 文禄の役
1598年 慶長の役
       
18〜20世紀
日本 中国
1868年 明治維新
 1874年 琉球漂流民殺害事件     
1885年 李鴻章、台湾を府・県レベルから、省に格上げし、台湾防衛強化を図る。劉銘伝を初代巡撫とし、鉄道、電信、海軍、税制などを整備させる。
     1891年 増税に対する反乱により、劉銘伝は辞任。
1894年 日清戦争 1895年 日本が劉銘伝の開発計画を引き継ぐ。
1898年 ロシア、旅順口の租借権を獲得。日本、東アジアでのロシアの脅威を感じる     
1900年 義和団事件に対して、軍を派遣。 ロシアは事件鎮圧後も満州3省(黒竜江省、吉林省、遼寧省)から撤退せず。 1900年  義和団事件発生 
  この頃、台湾に165,000人のアヘン中毒者がいたとされるが、日本による根絶プログラムの完了後、アヘンはほぼ一掃された。    
1901年 後藤新平(台湾総督府民政局長)は、農業経済学者新渡戸稲造を台湾に招き、台湾を農業に集中させる政策をとる。    
  後藤の公衆衛生政策により、黄熱病とマラリアを抑制。また憲兵を文民警察に交代させ、軍人に帯刀を禁じた。    
1904年 日露戦争     
1905年 日本、ロシアに勝利。ポーツマス条約締結。    
  日本、南満州鉄道と遼東半島の租借権を獲得し、満州開発に集中する。当時満州の人口は1,500万人(日本本土は4,000万人)。面積は日本列島の2倍以上。(1945年には、人口5,000万人となる)    
1906年 後藤新平が満鉄総裁に就任。    
1907年 満鉄調査部開設、後に研究者2,300人の世界屈指の調査機関に成長    
台湾の北甫の暴動で日本人57人が殺害される。日本は報復として、100人以上の住民を殺害。 1908年 孫文が日本で、中国革命同盟会を結成(汪兆銘、蒋介石らも参加) 
       
1910年 日韓併合   1911年 武昌蜂起、辛亥革命。 
1914年 日本の対中投資の69%が満州に注入された。     
  第一次世界大戦勃発。ヨーロッパ諸国の余裕がなくなる中、日本は満州経営に専念。    
   8月、23,000の日本軍とイギリスの援軍1,500名が、5,000のドイツ兵が守る青島を攻撃した。ドイツの空軍が初めて実戦で使われる。    
1915年 対華二十一か条の要求。日本の中国人留学生が抗議して大量に帰国。 大隈重信首相は、加藤高明外相に密かに袁世凱と要求について交渉させる。 1915年  袁世凱は、対華二十一ヶ条の極秘交渉を世界にリークし、反日世論をつくろうとした。
  台湾の宗教団体メンバーが日本の警察署を襲撃し、警官を殺害。(西来庵事件)日本は宗教団体幹部を処刑。    
  この頃、コラムニストの石橋湛山(のち「東洋経済新報」編集主幹)は「中国と朝鮮における日本の植民地政策は何世代にもわたり、“抗日悔日の念を持ち、日本に対して未来永劫の恨みを抱く”人々を生み出すであろう。」と考えていた。    
1919年 パリ講和会議   1919年 中国は米大統領ウッドロー・ウイルソンが「民族自決」を唱え、植民地主義に反対したことで、パリ講和会議に期待した。 しかし、中国の問題は扱われず、日本は山東半島の利権を確保した。中国はベルサイユ条約に署名しない唯一の会議参加国となった。
1924年 183,000人の日本人が台湾に住んでいた。  1924年 孫文、広州に黄埔軍官学校を設立。蒋介石が初代校長となる。ソ連が資金援助されていたが、蒋は武士道と自己犠牲の精神により軍将校の育成を図る。 
1925年 5月 5・30事件日本人所有の工場で解雇されたことへの抗議デモに対して、イギリス人警察官が発砲し、デモ参加者13人が死亡。上海全域で暴動が発生。   1925年 3/12孫文死去。 
1926年  イギリスが幣原に対して援軍増派の要請をしたが、共産党の工作であることを疑った幣原は、日本人居住者を守るための最低限の日本軍を派遣し、イギリスに対しては自重を促す。  1926年 蒋介石による北伐開始。
1927年 退役陸軍大将で、立憲政友会総裁の田中義一が首相就任。幣原の弱腰に対して、対中強硬政策を主張。  1927年 3月南京で北伐軍の一部がイギリス船舶や外国領事館を攻撃。ただし、これは蒋介石失脚を狙った共産党の計画的事件。 
11月蒋介石、日本を訪問し、田中義一と会見。北伐での日本軍との衝突回避を合意。
      4月国共分裂
1928年 満州の軍閥張作霖爆殺 。宇垣大将は張作霖を活用しようと考えていたが、関東軍の河本大作は、爆殺を実行する。田中義一首相と白川陸相は真相を隠すこととしたが、昭和天皇の信頼を失ったと感じ、田中首相は辞任、のちに自殺。 1928年 済南事件;山東省を通過する北伐軍と日本軍が衝突。中国側に6,000人の死傷者。
  日本は台北国立大学を設立。一方、1930年代には、台湾人の留学生3,000人が日本の大学で学んでいた。
  1930年代には、台湾の砂糖の90%が日本へ輸出された。
 1929年 7月濱口雄幸が首相に就任。井上準之助が蔵相、幣原は再び外相、宇垣は陸相に就任。佐分利を中華公使に任命し、対中課題に向き合おうとしたが、佐分利が静養先の箱根富士屋ホテルで殺害される。     
1930年 南投郡の先住民が134人の日本人を殺害(霧社事件)。 
  ロンドン海軍軍縮条約;若槻礼次郎元首相が主席全権。潜水艦の建造を放棄せざるをえなくなる。    
 1931年 満州事変 
 1932年 1月上海(1・28)事変、上海で日蓮宗の僧侶が襲撃されたことを契機に、日本海軍陸戦隊が上海に上陸し、開戦。のちに1946年東京裁判にて、日本軍の陰謀だったことがわかる。
石橋湛山と高橋蔵相は、上海事変について軍部を批判するが、日本の世論は軍部を賞賛。
  2月日蓮宗の僧侶に感化された国粋主義団体、血盟団のメンバーが井上蔵相を殺害、また3月同団体の別のメンバーが三井財閥の総帥団琢磨を殺害。    
  3月満州国建国。リットン調査団派遣。    
  4月上海事変の停戦合意。4/29昭和天皇の誕生日に行われた調印式典で、朝鮮人男性による爆破テロ。白川陸軍大将と河端居留民団行政委員長が死亡、重光葵公使が右膝から下を切断。それでも、延期して調印。
5/5犬養首相は「停戦は双方に資するものであるが、完全なる調和の復活は日中関係に害をなした疑念が一掃されぬかぎり不可能である。いざとなれば中国人が団結できることは歴史が証明している」と声明。10日後、犬養首相は海軍将校の一団に暗殺される(5・15事件)。
   
  石原莞爾は満州で私企業誘致を嫌がったため、1930年代半ばには、産業基盤の強化が頓挫。 1932年 張学良は熱河敗戦の責任をとらされヨーロッパへ追放。
1933年 日本、国際連盟を脱退。 満州の支配を継続。
  関東軍は国際規約に従って協力しようとするそぶりさえ見せる必要がなくなり、日本はならず者国家となり、関東軍はならず者の軍隊となった。 蒋介石、対日交渉で万里の長城沿いに非武装地帯を設けることで譲歩。事実上、満州国の存在が容認された。塘沽(タンクー)協定。国民党と中国社会の間に溝が生まれた。
   1934年 共産党は、蒋介石の包囲作成を脱して、中国西北部へ
「長征」を開始、延安を根拠地とする。 
1936年 2・26事件。軍中央は統制力を取り戻すために、軍から皇道派を排除。 1936年 12月再度、国共合作
  岸信介、満州国実業部総務司長に就任。鮎川義介の日産を誘致。
1937年 日中戦争
1945年 日本、ポツダム宣言を受諾し、降伏。  1945年 日本降伏後、国民党軍、共産党軍、ソ連軍が、日本の産業設備を接収するため、満州へ。アメリカ軍は蒋介石を支援。日本が築いた中国東北部の工業基盤は、戦後も中国の産業発展に重要な位置を占めた。 
1946年 国民党が満州南部を支配下に置くと、蒋介石はアメリカ軍と協力し、日本の民間人149万2千人を本国へ送還した。   
 1947年 ソ連に抑留されていた45万の日本人捕虜の帰還が認められる。(1949年までに帰還)    
    1949年 中国共産党が、国民党に勝利。 
    1950年 中国、ソ連と同盟を締結。共産主義体制確立へ。 
       
    1958年  大躍進政策が失敗。毛沢東失脚。
    1959年  劉少奇が主席となる。
     :  
    1966年  文化大革命始まる
    1968年  劉少奇失脚(翌年、幽閉され死去)
       
    1971年  7月 ニクソン米大統領が訪中発表
1972年  2月 ニクソン大統領訪中
1972年  9月田中角栄首相と周恩来首相が日中共同声明に署名。日本は「尖閣問題棚上げ」に同意していない、と主張。    周恩来首相は「尖閣諸島問題」を棚上げに。
    1976年  9・9 毛沢東死去
       10・6 四人組逮捕。文革終了。
    1977年  文化大革命集結宣言。
1978年  日中平和友好条約 締結 1978年  ケ小平副主席が改革開放路線を打ち出す
1979年  日本、中国に対しODA(政府開発援助)開始 1979年  米中国交正常化
       
1989年  日本、G7の対中借款停止(天安門事件に対する制裁)に難色を示しつつ同調。  1989年  天安門事件;民主化要求デモの学生らを武力弾圧
1990年  日本、G7で最初に中国に対する制裁を解除し、対中円借款再開。    
       
1992年  天皇・皇后両陛下が訪中 1992年  中国が領海法制定、尖閣諸島を中国領と規定
       
1995年  村山富市首相が戦後50年にあたって談話発表(村山談話)。植民地支配と侵略を謝罪。    
       
    1997年  アジア通貨危機
1998年  小渕恵三首相と江沢民国家主席による日中共同宣言    
21世紀〜
日本 中国
2001年  小泉純一郎首相が靖国参拝。中国は反発。 2001年  中国がWTOに正式加盟。
 
2004年  中国が米国を抜いて日本の最大の貿易相手国に。    
    2005年  北京で大規模な反日デモ
2006年  安倍晋三首相、訪中。胡錦涛国家主席と会談。戦略的互恵関係で一致。    
       
2008年  福田康夫首相と胡錦涛主席による日中共同宣言。 2008年   中国公船が尖閣諸島周辺の日本領海に初めて侵入。
       
2010年  尖閣諸島沖で中国漁船衝突事件 2010年  中国が名目GDPで日本を抜いて世界2位に。
2011年  3・11東日本大震災    
2012年  日本が尖閣諸島を国有化(野田首相)。    
       
2016年  安倍首相が「自由で開かれたインド太平洋」を提唱。    
2018年  安倍首相が日本の首相として7年ぶりに訪中。習近平国家主席と会談。
 対中ODA終了を発表(2021年終了)。
   
    2021年  中国が海警法を施行し、海警局を準軍事組織に。
2022年  日中国交正常化50年    


 『日中関係史』
P280
 中国でも日本でも、1911年から1937年の開戦に至る歴史は、政治指導者たちが国内の秩序を維持し、他国と良好な関係を築こうと奮闘しながら、結局は軍部に屈してしまう物語である。この時期が終わる頃には、日本でも中国でも、軍部が国内の混乱に乗じて実権を掌握し、世論は相手国への対抗心と自国への愛国心を高める一方であった。だが中国軍は単一的な国軍として統一されておらず、日本の陸軍と海軍も単一の指揮系統の下にはなく、いずれも内部で激しく競い合っていた。
1911年以降、中国は地域ごとに細かく分裂してしまったため、これを政治的に統制する力を得るためには、軍事力に頼らざるを得なかった。孫文と袁世凱の抗争で最終的に権力を手にしたのは、軍人の袁世凱のほうだった。各地域でも同様に、軍事力を持つ「軍閥」が政治権力を握った。孫文の死後、中国国民党の中では抗争が起きた。最後の権力を掌握したのは、孫文を補佐していた汪兆銘ではなく、黄埔軍官学校校長を務める蒋介石だった。政治家ではなく、軍人が中国の政策を決定するようになったのである。
日本でも権力は軍部の手に渡ったが、この時期は中国そのものも、日本の対中政策も迷走した。原敬のような有能な政治家と、幣原喜重郎のような経験豊かな外交官は、ワシントン体制の精神に則り、中国の主権を尊重し、中国に安定した政府を築く機会を与えようと提唱した。だが原は暗殺され、幣原は退任し、東京では軍部がさらに力を増した。中国とは対照的に、日本では陸軍も海軍も国軍として一元的に組織され、次第に力をつけていたが、その上層部では対中政策の統制権や指揮権をめぐって陸海軍の将校たちが争い、最終的な権限がだれに握られているのかが判然としなかった。東京と同じく満州でも、満鉄と長春にいた日本の文官たちは秩序の維持を図ったが、中国全体で、そして地元の満州の「軍閥」との間で緊張が高まる中で、実権を掌握したのは関東軍だった。
 明治以降の歴代首相(一覧作成)  


日本と中国の主な戦争
発生年 戦い  概略 
 661年 白村江の戦い   (開戦の経緯)

(戦況)

(終戦)

(戦後の影響)
 1274年 文永の役
(元寇) 
(開戦の経緯)

(戦況)

(終戦)

(戦後の影響)
 1281年 弘安の役
(元寇) 
(開戦の経緯)

(戦況)

(終戦)

(戦後の影響)
1592年 文禄の役  (開戦の経緯)

(戦況)

(終戦)

(戦後の影響)
1598年 慶長の役  (開戦の経緯)

(戦況)

(終戦)

(戦後の影響)
1894年 日清戦争  (開戦の経緯)

(戦況)

(終戦) 1895年

(戦後の影響)
1937年 日中戦争  (開戦の経緯)

(戦況)

(終戦) 1945年

(戦後の影響)


参考図書
『世界史大年表』石橋秀雄他著
『日中関係史』〜1500年の交流から読むアジアの未来 エズラ・F・ヴォーゲル


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