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呉羽地内で「呉羽山の後ろにそびえる立山連邦」を撮影できるポイントが少なくなっていきています。どうしても送電線が邪魔でうまく撮れず探しました。本郷東部のスーパー駐車場で見つけたのですが、新幹線の高架が完成するとここも駄目になるでしょう。あと暫しのビュポイントです。
2373*238 499kb写真がBlog内にあります
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民家の庭に静寂に佇む顕彰碑 S28/10建設。海内果(うみうちはたす)1850〜1881(享年32歳) 富山県の自由民権思想家の先駆者。加賀藩領下の老田村」の素封家に生まれ。東京日日新聞の記者。地租改正案の骨子づくりなど幅広い活動。
参考資料:富山大百科事典、郷土の先覚海内果、海内先生を偲ぶ
伊藤博文の戯れに博文の顔に墨汁を塗り付けたという面白いエピソードの持ち主で、その足跡を追ってみるのもよいかもしれない。
※呉羽地内にお住まいの方から情報をいただきました。ありがとうございます。
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呉羽山観光協会主催の旧北陸道ウオーキング(11/8)に参加。おりよくの曇り空で、ちょいと肌寒くハイク日和。参加者約300名サポータ100名と盛会。神通川の改修で川底となった部分と皇息軒跡から旧呉羽製鉄までの部分をのぞいてほぼ藩政時の北陸道を歩くことができた。要所要所で由来を説明頂く。サポータの皆さまに感謝申し上げます。
詳しくはブログで。 |
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秋になり小竹貝塚現地説明会の帰りに呉羽駅前の開駅記念樹の花を確認に行きました。
葉に鋸状の形状はなく、秋にのみ咲いているみたいですが、やはり白い花の形状からみて銀木犀なのでしょうね?。
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北日本新聞で小竹貝塚から土葬された人骨発掘されたと報道。さっそく、見学におとづれ写真を撮らせていただいた。
中央の白いものは、縄文人が埋葬の際に遺体に乗せる「抱き石」だそうです。
新幹線工事に伴う新鍛冶川の河川改修にだそうで、貝塚の地層もはっきり見ることができました。
10/16現地説明会の様子はブログで |
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長岡墓地の辺りから呉羽山の山沿いを茶屋町に向かって散策していると小さな宮に出会う。(ことひらしゃ)(こんぴらしゃ)呼称は計りません。山中にあるので祈雨の神とし信仰されているのでしょう。神仏混淆の佇まいが残っていて興味深い。
(ひさいぶりの更新でHPビルダーの使い方をわすれそうでした。)
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花の木新明社の南側にあり、養魚池につき釣り禁止の標識がついています。
S50年頃の写真(GIS参照) |
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花の木神明社の裏にあり、住宅地図では新堤となっています。S50年頃の写真(GIS参照)でもほぼ現状どうりの形状です。航空写真では、南側の現「呉羽運動広場」が池であったことをしめしています。池の名前をご承知方御教えください。
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昭和50年代頃にはまだアチコチにため池があり、息子達がザリガニ採りや釣りに行ったのを記憶しています。
昭和57年に完成した県営古洞ダムによって貯水池が不用になり、いつのまにか次々と宅地化されていてさみしいい思いです。
残っている池を写真に撮って記憶に残します。
S50頃の写真(GIS参照)
すでに、無くなっている池の写真をお持ちの方おられましたら御貸しいただけませんでしょうか。
mailで頂けるときは画像サイズを600×450でお願いいたします。 |
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吉作の丘陵より梨畑を望む。今が一番呉羽が美しい。見渡す一面に梨の白い花の絨毯です。振り返ると城山には遅咲きの桜が満開。梨畑の木々の下を農家の方々が梨の1花1花に授粉させている。もちろん、城山に登って、白鳥城址からのパノラマも好い。さあ、おいでなさい。あまねく春なのだ。
色そむる花の枝にもすすまれて 梢まで咲くわが心かな (西行)
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石黒岩次郎(1860/8/3〜1923/1/30)婦負郡寒江村野口に生まれる。
水稲<銀坊主>の発見者。1907年<愛国>の中から倒伏に強い品種を発見。翌年から種子を増殖し全国30県あまりに広がったという。功績を記念し昭和3年顕彰碑が建てられる。
…富山大百科事典より参照
石碑の稲穂は寒江小学校の校章になっているとのこと。 |
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明治11年明治天皇行幸際して呉羽山山麓沿いに新道が開削。明治42年一部改修、大正8年に大改修が行われた。改修の功労者 角島吉明を顕彰し碑が建立された。
大正12年12月 県会議長 山本憲選(言べんにえらぶ)書
参照…富山市郷土博物館だより |
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公民館の建物の横に4基の記念碑がならんでいます。そこに元からあったものか区画整理でまとめられたものかわかりません。
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