美濃苗木藩における廃仏毀釈 |
美濃苗木藩における廃仏毀釈
★苗木藩概要
苗木藩の石高:成立当時(初代遠山友政)の石高は10,521石と云われる。 ★苗木藩の廃仏毀釈の概要(苗木藩の神仏分離・廃仏毀釈・神葬改宗) ★蔵多日記 - 一庶民の記録に見る苗木藩の明治維新 - ◇蔵多日記: ◇仏名を俗名に ★苗木藩の神仏分離(廃仏毀釈)の具体例 具体例として、【1】加茂郡東白川村、【2】恵那郡福岡村植苗木、【3】同郡坂下村。【4】同郡蛭川村の例を取上げる。 岐阜県加茂郡東白川村は旧苗木藩領であった村である。 明治22年、 高山村・福岡村・田瀬村が合併し、恵那郡福岡村が成立。
蛭川村では明治20年代報徳社運動が展開され、明治43年、広島県広村などと模範村として内務大臣表彰を受ける。 |
東白川村サイト:「東白川村アーカイブス」に《秀逸な》”東白川村の「廃仏毀釈」”のページがある。 |
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慶長5年(1600) | 遠山友政、旧地を回復、再び苗木城に入る。(苗木藩の成立) |
慶長19年(1614) | 9月、遠山友政、菩提寺天竜山雲林寺を創建。 |
天保14年(1843) | 平田篤胤逝去。 【平田派国学・平田派神道】 |
嘉永5年(1852) | 青山景通、平田銕胤の門に入る。 2014/09/03追加:<「Miyamoto」氏ご提供情報> ○平田先生授業門人姓名録(中):表紙に「羽写」と朱書があるので、羽田野敬雄(国学者・平田門人・羽田八幡宮司)が書写したものであろう。 本資料は豊橋市立図書館→羽田八幡宮文庫デジタル版→歴史のページからDL可能である。 平田鐵胤主授業門人姓名録(中)1:部分図 嘉永5年の条に美濃國苗木藩・青山景通(稲吉は通称、直意は幼名である)の記載がある。 なお苗木藩とは直接の関係はないが、嘉永6年には薩摩のあの悪名高き税所篤(通称は喜三左衛門、初名は篤満)の姓名がある。 蛇足ではあるが「息吹迺舎と四千の門弟たち」宮路正人(別冊太陽 平田篤胤」平凡社、2004 所収)より 「(篤胤・鐵胤・延種の三代にわたる)平田国学の門弟の数は、文化元年(1804)から明治5年(1872)にかけ、4380余名の多きに達し、しかもしその周囲には、幾重にも積み重なる支持者・理解者の層を形成し、19世紀変革期日本の最大の知的集団を形成して」いった。 |
文久2年(1862) | 9月24日、青山直道、刀番となる。 【平田派国学者であるこの青年・青山直道は後日苗木藩の廃仏毀釈を主導する。】 ※青山直道: 弘化3年(1846)、苗木藩士青山景通の長男として生誕。 文久2年(1862)、刀番となる。 明治2年、藩の職制改革、直道は、石原定安と共に大参事となる。 明治3年、藩主友禄が平田派国学に入門。 祭政一致の王政復古、復古神道の具現化の一環として、藩政改革・家禄奉還・廃仏毀釈を断行する。 当時の平田派国学及び復古神道の目指す世界を現実の政治として実行した能吏であろう。彼こそ苗木藩の廃仏を指揮した張本人であろう。 のち直道は大参事を辞し、廃藩置県後は、栃木、静岡両県に官吏として勤務する。 明治12年、岐阜県大野、池田郡(現揖斐郡)の初代郡長に任命、同14年退官。退官後しばらく富山県の官吏を務め、退官、東京に出て、易学を学び、易によって生計を立てると云う。 |
慶応元年(1865) | 9月、青山直道、平田学派に入門。 2014/09/03追加:<「Miyamoto」氏ご提供情報> ○平田先生授業門人姓名録(中):羽田野敬雄(国学者・平田門人・羽田八幡宮司)が書写したものであろう。 同じく、本資料は豊橋市立図書館→羽田八幡宮文庫デジタル版→歴史のページからDL可能である。 平田鐵胤主授業門人姓名録(中)2:部分図 元治2年(4月改元慶応)の項に10月23日美濃國苗木藩青山直道(佐次郎)20歳の名がある。 |
慶応4年(1868) | 3月13日、新政府から神道が神祇官に専属する旨の布告。【太政官布告 慶応四年三月十三日】 3月17日、神祇局から社僧禁止の布令が全国の神社へ達。【神祇事務局ヨリ諸社ヘ達 慶応四年三月十七日】 3月28日、神祇局からいわゆる「神仏判然の御沙汰」と称する布告。【神祇官事務局達 慶応四年三月二十八日】 4月10日、政府は、排仏の行き過ぎを戒める布告。【太政官布告 慶応四年四月十日】 4月23日、青山直道、藩主友禄に随行して出京する。 閠4月4日、太政官から別当、社僧の還俗を促す布達。【太政官達 慶応四年閏四月四日】 閠4月19日、太政官から神葬相改可などの布令。【神祇事務局ヨリ諸国神職ヘ達 慶応四年閏四月十九日】 →【】内の布告・布達類は「太政官布告・神祇官事務局達・太政官達」にあり。 5月29日、蟠龍寺十一世祖恩が死去する。 5月、青山景通が徴士権判事に任命。 6月、遠山友禄が朝廷の命により信州善光寺へ出兵。 7月、家老千葉権右衛門に永蟄居を申し付け。 苗木城守護神竜王権現を高森神社と改号、本地大日如来像撤去。 7月24日、青山直道、目付役に任用。 8月16日、青山景通、神葬改宗の願い出。 九頭大明神が石戸神社と改称。 |
明治2年(1869) | 旧苗木藩士の中の平田門人35人を数える。 ◆苗木藩に於ける平田派国学 2月、遠山友禄、職制の大改革を実施、執政などを置く。 同月、遠山友禄が版籍を奉還。 4月24日、遠山友禄が飛騨騒動により保護を求めてきた高山県知事梅村速水を京都へ護送する。 6月、今井七郎左衛門が東京で横死。 6月23日、遠山友禄、苗木藩知事に任命。 10月7日、遠山友禄、職制の改革、大小参事を置く。 11月2日、青山直道、苗木藩大参事に任用。 12月5日、藩校「日新館」が開校。 12月、還俗した社僧、別当職に神祇に奉仕する神職・社人としての身分を与え、その序列が定められる。 ◆苗木藩に於ける平田派国学 嘉永5年(1852)青山景通(直道の実父)、平田銕胤の門に入る。平田派国学に徹し、銕胤の高弟となる。 慶応元年(1865)青山直道、平田国学に入門。 慶応4年(1868)維新政府が神祇官を再興、青山景通は神祇官権判事に任命される。 明治2年、青山直道が苗木藩大参事に任用、専ら復古神道を基とした祭政一致を政治理念とする。 (明治2年には旧藩士の中に平田門人は35人を数える。) 明治2年、「日新館」が開校。 日新館内に新宮を造営、学神三神(八意思大神・忌部広成・菅原道眞)と国学四大人(荷田春滿・賀茂眞淵・本居宣長・平田篤胤)を祭祀する。 藩知事遠山友禄は大参事以下藩士一同を日新館に集め、国学四大人の神前で四ヶ条の誓詞を奉読。 一、開国以来の天恩を仰ぎ、復古維新の盛世を楽しみ、大いに尽忠の志を興起すべし 一、祭政惟一はわが皇国の大道なり、故に天地神祇を敬祀して、永久に怠ることなかれ 一、民は国の至宝なり、惨酷これに臨む事なく、努めて撫恤を加え、以って好世至仁の聖化に浴せしむべし 一、公平廉直を挙げ、偏執阿党をしりぞけ、上下一にして教化浴く布き、風俗を敦厚、陋習を除去するを専要となすべし ※以上の敬神思想、皇国思想が、神仏判然令を飛び越えて、廃仏毀釈に帰結するのは当然のことであった。 明治4年、平田派門下は領内で56人を数え、多くは藩の要職に任用された。 |
明治3年(1870) | ◆蟠龍寺が事実上廃寺となる。 遠山友禄が平田派国学に入門する。 1月12日、反青山派に対する一斉弾圧。 1月25日、千葉権右衛門、千葉侑太郎、中原央、神山健之進が田畑や家財を没収される。 5月、名主の呼称を里正に改める。 7月23日、苗木藩郡市局長名をもって、家臣一同へ神葬改宗を願い出るよう示達。 7月27日、知事遠山友禄、神葬改宗を願い出る。 8月7日、苗木藩、管内の士族・卒族などのすべてが神葬に改宗する旨を願い出、その日のうちに、聴許される。 8月8日、反青山派に対する最終的処断、18人を終身流罪などに処す。 8月15日、苗木藩郡市局が廃仏の徹底を布達。 8月27日、苗木藩郡市局長名をもって、九月十日までに管内のすべてが神葬改宗をするよう村継ぎをもって布達。 8月28日、神付茶菴堂の仏像などが撤去。 8月から11月にかけて、廃仏毀釈が断行される。 9月1日までに、神土村、越原村、柏本五か村の村びと全員の神葬改宗願いが出される。 9月3日、苗木藩、管下寺院の住職全員を藩庁へ呼び出し、正式に廃寺帰俗を要求する。 9月、◆常楽寺11世自董還俗、安江良左衛門正常と改名。 9月、平民に苗字が許される。 9月27日、常楽寺など苗木藩管内の十五か寺が廃寺の届出をする。 9月29日、廃仏毀釈後初めての神田神社の祭りが行われ、苗木藩知事遠山友禄らが参詣する。 10月27-29日、常楽寺の仏具などが競り売りされる。 閠10月1日、常楽寺の鐘楼と梵鐘が尾張前飛保村(現愛知県江南市宮田町)深妙寺へ売却される。 ◆青松山蟠龍寺 かっては飛騨御厩野大威徳寺末であったが、近世初頭に苗木藩菩提寺天龍山雲林寺末となり、臨済宗妙心寺派に属す、本尊は聖観音菩薩と伝える。 この寺は五加大沢の通称「横引き」から西に延びる旧道沿いの、南に面した山麓にあった。大澤村、柏本村、久須見村、下野村、宮代村、中屋村、須崎村七か村の檀那寺となる。 明治初年、12世全理が姫栗村長増寺から転住直後に、神仏分離令が布告される。 全理は村人と衝突し、寺を去っていったと云う。 かくして蟠龍寺は、藩庁からの廃寺帰俗の申し渡しを待たないで、事実上廃寺となる。 当時屋敷は1反歩ほど、田畑、山林を有し、建物は6間×13間、土蔵を有する。 本堂は飛騨高山へ売却し、位牌などは焼却、土地や什器諸道具などは地元の世話方5人に売り渡し、その代金は、15両を蟠龍寺の永代祭祀料として前記の5人に渡し、残りは旧檀家であった7か村へ分配する。 大般若経百巻の内50巻と過去帳8冊は藩役人の目を逃れて柏本の神職元安正院こと安江五郎正朝の家へ移すと云う。 明治20年ごろ、野上正伝寺(現在の八百津町和知)の先住が蟠龍寺の再興を企図、有志とともに2間×3間の小堂を建立するも、暴風のために倒壊するとも伝える。 大門先にあった名号塔、庚申塔などは、倒され放置されていたが、大正7年、再興される。 ◆安泰山常楽寺 開基は詳らかではないが、常楽院といい、飛騨御厩野大威徳寺の末寺であったと云う。 慶長19年(1614)遠山友政、菩提寺である天龍山雲林寺(臨済宗妙心寺派)を創建、その後、領内宗派の統一を図り、常楽寺は改宗し、雲林寺末となり、安泰山常楽寺と称する。 現在の東白川村役場の位置にあったとされ、神土村と越原村一円を檀徒とする。 明治初年、苗木藩は廃仏毀釈を断行、領内の寺院に対して廃寺帰俗を命令。 明治3年9月、常楽寺11世自董は還俗、安江良左衛門正常と改名。 当時の常楽寺は、本堂5間×7間、庫裡5間×6間、2間四方の地蔵堂及び鐘楼、鎮守天神とを有し、寺領は田4反歩、畑2反歩ほどを有すると云う。 本堂は小学校校舎として転用され、明治24年まで存続、庫裡は近在の者に百五十両で売却、製糸工場として移転改築されると伝える。位牌類・仏具は寺の境内で焼却、もしくは売却、梵鐘及び鐘楼は百両余りで尾張国前飛保村無量山深妙寺売却と云う。 |
明治4年(1871) | 平田門人は領内村役人を含めて56人を数える。 5月、明治新政府は神社の国家護持を位置づけ、社格を定めた。 同月、苗木藩は管内を6区に分け、各区に一社ずつの郷社を定めた。神田神社が郷社となった。 6月14日、廃藩置県。 7月14日、廃藩のため、遠山友禄知事辞職。 7月14日、15日、16日の盆休日を廃止、同月1日、2日、3日を御霊祭りの休日とする。 9月、神職・社人を廃し、祠官・祠掌が任命される。 10月、村社が決定された。 11月22日、美濃国諸県が廃止、岐阜県設置。 |
明治5年(1872) | 修験道の流布が禁止。 【太政官第273号(布) 明治五年九月十五日】 |
明治12年(1879) | 2月、青山直道、岐阜県大野・池田郡(現揖斐郡)初代郡長に任命。 9月6日、常楽寺十一世自董(安江良左右衛門)が死去。 |
明治13年(1880) | 平田銕胤が死去。(81歳) |
明治14年(1881) | 1月、青山直道、岐阜県大野・池田郡(現揖斐郡)郡長を退官。 |
明治18年(1885) | 修験道の再興が許される。 |
明治20年頃 | 蟠龍寺の再興が企図されるも頓挫。 |
明治24年(1897) | 常楽寺建物解体。 |
明治27年(1894) | 4月4日、遠山友禄が死去。(76歳) 常楽寺鐘楼を買い取った深妙寺が前飛保から宮田(現江南市宮田町)へ移る。 |
大正7年(1918) | 下野銅山監督安川憲の発願で蟠龍寺の石造物が再建。 |
昭和10年(1935) | 8月1日、「四つ割りの南無阿弥陀仏碑」が再建、供養祭が営まれる。 |
昭和23年(1948) | 深妙寺の梵鐘が新しく鋳造される。 |
昭和51年(1976) | 6月1日、「石戸神社殿」「蟠龍寺過去帳」が東白川村有形文化財に指定。 「四つ割りの南無阿弥陀仏碑」「蟠龍寺跡」が東白川村史跡に指定。 |
参考: | 「東白川村村外に流出し現存する仏教遺物」は以下が知られる。 ◇常楽寺鐘楼及び梵鐘 ◇茶菴堂:西国三十三所観世音菩薩立像(33躯) ◇石造六地蔵尊(6躯) ◇岩倉千躰堂木造千躰地蔵尊像 ◇常楽寺誕生仏 ◇常楽寺帝釈天十徳善神八将神図 ◇三十三体仏像(33躯) ◇四つ割の南無阿弥陀仏碑 →詳細は「東白川村村外に流出し現存する仏教遺物」 を参照 |
サイト:「消えた中世の城下町・植苗木」 に優れた論考がある。 岐阜県中津川市福岡植苗木の城ケ根山の山麓に、広恵寺城があった。
サイト:ふるさと坂下 より 「神々の明治維新」岩波新書 より 村は戸数353戸、石高867石、明治維新前大部分は臨済宗宝林寺檀徒であった。 ◆東白川村村外に流出し現存する仏教遺物 村雲蔵多の「明治三年見聞録」:
------------------------------------------------------------------------------------------- 濃州加茂郡越原村岩倉千躰堂安置:(東白川村越原曲坂(まがりさか)・・現在曲坂集会所の敷地) ------------------------------------------------------------------------------------------- ------------------------------------------------------------------------------------------- 2006年以前作成:2014/09/03更新:ホームページ、日本の塔婆
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