江 島 弁 財 天 女 社 三 重 塔

江島弁財天女社三重塔

東海道名所圖會:巻之6に見る江島弁財天:寛政9年(1797)刊

江ノ島全図:下図拡大図

江ノ島塔婆部分図:下図拡大図

かっては金亀山興願寺と号する。
記事:「上之宮神殿・・・上之坊(上の宮を護る。真言宗。江ノ島三坊のその一なり。当坊は清僧なり)
・・・下之宮神殿・・・・・三層塔(坂の半にあり。五智如来を安ず。杉山検校の建立なり)、稲荷祠(塔の左にあり)、
閻魔堂(塔の右にあり)・・・・・ 下之坊(下之宮を護る。真言宗。妻帯なり。・・・)」とある。

絵は大変分かり難いが、上記記事にあるように「江島塔婆部分図」中央附近に三重塔はあった。
坂下の鳥居から門を経て、下之宮前の鳥居に続く坂・石段があるが、石段右の丘上に塔婆の三層目と相輪らしきものが見える。おそらくこれが三重塔であろうと思われる。

養和2年(1182)源頼朝が山城神護寺文覚に命じ、近江竹生島弁財天を勧請する。(「吾妻鏡」)
その後、戦国・江戸期を通じ多くの武将の信仰を集める。
弁財天は平安時代「金光明最勝王経」により伝えられ、宇賀御魂神(穀神)や市杵嶋姫命(海上神)と合体し、農耕、富貴、名誉、福寿などを成就してくれる仏あるいは神として信仰されたとされる。最初に 伝来したのはニ臂の弁財天(琵琶を弾く)で芸能即ち妙音弁財天として民間で信仰された。ついで八臂の弁財天(弓・箭・剣・宝珠・輪宝・鉾・鉢棒・長杵を持つ)が伝えられ、宇賀弁財天として戦国武将が信仰したとされる。

江島道見取絵図:寛政年中(1789-1801)編修に見る江ノ島弁財天

江ノ島全図

左図の説明図(左図拡大図)

上から下之宮、三重塔、岩本院、下之坊部分図

近世の江島弁財天

  ○左図拡大図

江の島には岩屋本宮・上之宮・下之宮の三宮があり、三宮はそれぞれ別当が管理にあたり、岩屋本宮(中之坊)は岩本坊、上之宮は上之坊、下之宮は下之坊が支配 する。
三別当のうち岩本坊がその筆頭であり、真言宗仁和寺末。
要するに江島弁財天の性格は寺院であった。

岩本院は江の島での宿泊、みやげ物、開帳(江戸中期以降に行われ、居開帳15回、出開帳3回を数えたという)等の差配権を持ち、将軍・大名の宿泊所としても繁栄した。
元禄5年(1692)杉山検校(将軍綱吉の侍医であった)は関東総検校に任ぜられ、篤く江ノ島弁財天を信仰し、下之宮社殿の改修、その傍らに護摩堂を建立、さらに三重塔(元禄6年 =1692)を建立する。
なお岩本院は「八臂弁財天像」と「江嶋縁起」(永承2年<1047>・延暦寺僧皇慶の記)の写本を今に伝えるという。
上之宮は現在の中津宮、下之宮は現在の辺津宮であり、本宮は岩屋で現在の奥津宮は本宮御旅所と呼ばれ岩屋本宮の管理下にあった。

2008/08/03追加:
「新編相模風土記稿」昌平坂学問所地理局編纂、天保12年(1841)
 江ノ島下宮図
「冨嶽三十六景」北斎、天保頃刊行
 富嶽三十六景相州江の島
「新版浮世絵江の島正面之図」北濤:北濤については不詳、年代も不詳
 江の島正面之図

2006/08/13追加:「柴田常恵写真資料」より
大正15年頃撮影か?
  江ノ島弁財天1  江ノ島弁財天2

神仏分離

神仏分離令直後・慶応4年岩本院は還俗願いを提出すると伝える。
(ただし、還俗はしたものの、すぐには社家には任用されなかったとされ、明治3年には神主取立の願いを提出していると伝える。)
明治元年鳥居4基、三重塔、竜宮門が破却される。そのほか全ての堂宇が取り壊され、仏像・仏具のほとんどが破却される。

昭和48年以前の景観:大鳥居の右石段上すぐに廃校舎の市役所があり、ここが杉山検校寄進の三重塔跡と伝える。
この西に旧岩本院の墓地があり、杉山検校の墓がある。島にある旅館岩本楼、金亀楼はかっての別当坊であった。

平成5年江島大師が再建される。

江島弁財天現況

現在は江島神社と称し、完全に神社に改変される。現在も物見遊山の多くの人で溢れ、門前町も賑わいを見せる。
江戸情緒が残るといえば残っている感じはあるとも思われる。
三重塔跡は大鳥居をくぐり、楼門手前の急な坂を上がってすぐ右にある。
そこは平坦地になっていて現在は「市民の家」(元廃校跡・市役所跡・・・不明?)と思われる建物が建っている。
しかし、現在そこは塔跡をしのばせるものは何もない。
  □ 三重塔跡
平坦地入り口すぐを向かって左(西)に下るとそこはおそらくかっての下乃坊墓地であり、杉山検校の墓所がある。
  江島弁財天杉山検校墓1       同           2       同           3
杉山検校は伊勢の出で、慶長15年(1610)出生。幼い頃失明し、江ノ島弁才天に篭り、管鍼の術を創案したといわれる。
元禄7年(1694)本所の私邸で没し、弥勒寺に埋葬される。ここの墓所は翌元禄8年次の総検校三島世一が分骨し、建立すると云われる。
旅館岩本楼は現在は普通の旅館でかっての坊舎の雰囲気を残すものではない。金亀楼は現在は存在しない?。
なお杉山検校が寄進したという江ノ島弁才天道標は現在48基のうち11基が現存すると云う。
  江ノ島弁才天道標:その内の一基と思われる。
  2011/10/30撮影:
   江ノ島弁才天道標2

2003/7/2追加
江島に於ける神仏分離」明治維新神仏分離資料、高柳光寿氏報

「岩本兼吉氏所蔵文書」
1.鎮守府御伝達所宛 相州鎌倉郡江島惣別当岩本院(慶応4年8月)の「願い」の文書
 いち早く時流に乗って、破廉恥にも、岩本院は復飾し、岩本将監と改名する。
2.鎮守府御伝達所宛 相州鎌倉郡江島 岩本将監、壬生大膳、北條主殿(慶応4年8月)の「報告」の文書
 時流に阿り、仏法を捨て、神道に鞍替をする。
3.神祇官宛 相州鎌倉郡江島郡大明神三社神主 岩本将監、壬生大膳、北條主殿(明治3年正月)の「口上」の文書
 自ら三社神主と名乗りながら、実際は神主職の「御許状」が無く、お上の意向のとおり復飾したので、神主の職位の「御許状」を
 要求している口上。
4.岩本将監、壬生大膳、北條主殿宛 社家11名連判(明治4年正月)の「願い」の文章
 社家に取り立てられた11名が連判して、職名が無く、祀職を与えるよう懇願している文書。

2011/10/28追加:
鎌倉鶴岡八幡社の神仏分離資料中に江ノ島弁財天の神仏分離に言及した資料がある。
 「『明治初年の鶴ヶ岡八幡』静川慈潤氏談」中の江ノ島弁天社別当復飾云々の条


2006年以前作成:2011/11/15更新:ホームページ日本の塔婆