最近訪問した塔婆・ご提供画像(2003/08/20〜2003/10/13 )

過去の訪問塔婆履歴

2003/10/11
「X」氏ご提供画像
因幡土師百井廃寺1
  同        2
  同        3
塔、金堂、講堂土壇と礎石を残す。塔跡は心礎、四天柱礎、側柱礎を完存する。寺域は南北1町半、東西1町で法起寺式伽藍配置 とされる。塔基壇は一辺 16m。心礎は礎石より約60cm低位に据えられ、大きさは1.6m×1.5mで、径68cm、深さ10cmの孔が穿孔されている。 他の礎石も心礎と同程度の大きさのようです。白鳳期(行基の)開基という慈住寺 の跡とも伝えらているようです
因幡栃本廃寺東塔心礎1
  同           2
  同     南塔心礎1
  同           2
東西両塔の心礎を残す。奈良時代か?。ほかに何も遺構は発見されていないようです。
(ただしかっては塔跡中間か北北西に高さ60cm、14.5m×12.7mの土壇があり、礎石は十数個あったと伝えるようです。) 瓦は出土しないようです。
東塔心礎:1,1m×0,9m、径35cm、深さ19cmの孔とその底に径13cm、深さ8cmの孔を穿つ。 発掘により基壇は一辺8.4mとされるようです。
南塔心礎:1,7m×1.4m×80cm、径70cmの円形柱座を持ち、径49cm、深さ20cmの孔とその底に径15cm、深さ10cmの孔を穿つ。 これは従来西塔と云われていたようです。基壇は一辺約10mとされる。
伽藍配置:金堂を中心として、塔は東と南に2基あり、講堂は金堂北にあるが、金堂と南塔の中軸線から西にずれているようです。
因幡源門寺廃寺心礎1
  同         2
「鳥取県埋蔵文化財センター」様(「国府町誌」昭和62年に記載)及び「X」氏情報を総合すると概要は以下のようです。
廃寺は岩美郡国府町中河原にある。現状は道路北側に心礎(元位置から動いているようです)のみを残す。また現地は土地狭隘で大伽藍は想定し難いようです。瓦の出土はないとされる。
心礎は1.7m×短径1.2m×60cmの自然石で、径47cm、深さ15cmの円孔を穿つ、さらに写真で明瞭に分かるように円孔周囲には径72cm幅13cmの円形柱座が浮き彫りされている。
石質は分かりませんが、加工の容易な石であったとしても、写真で見る限り、丁寧な加工の部類と思われます。
因幡国分寺礎石1
  同       2
発掘により南門跡のみを確認、主要伽藍は現在の国分寺集落にあったものと推定されている。
塔礎石などは現国分寺(最勝山と号する)境内に移し保存しているようです。
写真2の礎石(大きさは分かりませんが)には出枘が見られ、国分寺系の心礎の類型とも思われ、心礎であった可能性もあります。(推測)
2003/10/12
「X」氏ご提供画像
伯耆国分寺復元基壇
  同   塔礎石
  同   塔心礎
寺域は東西182M、南北160M。寺域西3/1の線上に南門、(中門)、金堂、講堂を配置し、塔は南東隅に配置する。
塔跡は基壇一辺13.6m、塔は一辺7.2mで、礎石および礎石抜き取り穴、地覆石、羽目石などが発見されている。心礎は既に抜き取られていたようです。
礎石については復元なのかどうか、また心礎位置にある礎石も心礎なのかどうか掌握していません。
伯耆石塚廃寺 心礎1
  同        2
径2m余の心礎(径69.5cmの円孔を持つ)が残っているようです。 「日本の木造塔跡」によると「約2.15m×1.94m、径70/69cm・深さ13/12cmの孔がある。孔の中央に少し掘った穴があるがこれは後世の加工であろう。孔の縁の底に7×4×3cmの孔があり、おそらく舎利孔であろう」とする。
心礎周囲は30−50cmの高まりになっている。心礎から北に25mのあたりに金堂址と推定される東西15m、南北13m、高さ1,2m位の基壇が遺存し、5.6個の自然石礎石を残す。
伯耆斉尾廃寺 塔跡1
  同        2
寺跡は南面し、東に金堂、西に塔、金堂(5間×4間、礎石10を残す)の直背後に講堂 (7間×5間、礎石14を残す)の各跡を残す。瓦・磚仏・塑像など多くの出土品があるようです。
塔跡は東西16M、南北15M高さ1Mの土壇および、自然石(一辺6.3m)の礎石を残す。
「日本の木造塔跡」によると「一辺12.4mの土壇上に四天柱礎3、脇柱礎7を残す。心礎は抜き取られて無い。塔一辺は6.1m」とする。あるいは心礎は土中にあると推定されている。
白鳳期または奈良期の寺院とされる。
伯耆上淀廃寺 伯耆上淀廃寺」のページを参照
出雲清水寺三重塔1
  同        2
  同        3
安政6年(1859)の建立。かっては五重塔があったとされる。戦国期に焼失。文化年中に再興を開始する。蓮乗院住職恵教和尚が統括し、大工は地元の棟梁富谷覚太が指名された。完成まで33年間を有し、棟梁は富谷覚太から、由助(子)、唯市(孫)に引き継がれたという。高さ33.33m。材は欅とする。現伽藍に根本堂(7間4面、明徳4年1393・重文)など多数の堂宇と大宝坊(本坊)と蓮乗院の2坊を有する。また本尊十一面観音立像(重文・平安初期)、阿弥陀堂の丈六阿弥陀坐像(重文・藤原)、常念仏堂の阿弥陀三尊像(重文・藤原)なども有す。
2003/10/13
「X」氏ご提供画像
伯耆大寺廃寺心礎1
  同        2
大正7年石製鴟尾(重文)を発見。1966-67年の発掘調査で東面する法起寺式伽藍配置と確認された。白鳳から平安まで存続。
塔基壇は一辺11.9mと推定される。心礎は2.4m×2mの楕円形で、中央に約1mの柱座を造り出し、その中央に径70cm、深さ30cmの孔を彫り、さらに径16cm、深さ15cmの舎利孔を穿つ。舎利孔には径20cm、厚さ2,5cmの蓋が置ける加工がなされている。
石製鴟尾は講堂部分を境内に含む福樹寺に安置されているようです。
なおこの大寺は伯耆安国寺当てられたとされるようです。福樹寺にある宝篋印塔はその遺物とされる。安国寺は戦国期の焼失し、その後米子城下建設で寺町に移転したと云う。(現存するようです。)
2003/09/28 和泉久米寺多宝塔1
  同        2
  同        3
  同        4
  同        5
  同        6
  同        7
  同        8
落慶案内中の画像

2003/10/26落慶法要の予定。伝統工法(和様)による本格木造塔と思われます。高さ17.73mで大型塔のようです。設計は南一建設株式会社・高瀬章雄氏(宮大工のようです)。 暦応2年(1339)足利直義によって奉安された利生塔仏舎利は現存するとされ、多宝塔はその仏舎利奉安のために4百数十年ぶりに再興されたようです。その他の詳細は不詳。
臥竜山隆池院と号する。天平10年、聖武天皇)の勅願によって、橘諸兄を檀越とし、行基が開創したと伝える。 隆池院は行基建立の49院の一つで、久米田池の維持管理にあたる役割もあったとされる。その後の推移は必ずしも明確で無いようです。
建治3年(1277)安東蓮聖(北条得宗家被官)が熊野権現の託宣を受けて 、荒廃(金堂・多宝塔・寺院2,3宇のみ存し、他は疎石ばかりという有様だったという)していた久米田寺の再興に尽力する。この時代、当寺は南都東大寺の兼帯 所であったが、執権北条時頼の助力もあり、東大寺別当実玄 より譲渡を受け、南都西大寺行円房顕尊(叡尊高弟)を招じて中興開山とし、華厳・戒律・真言の兼学道場として再興した。
南北朝期には和泉の国の一拠点として南北両朝の間で複雑な動きがあったようです。当初は後醍醐天皇綸旨や南朝禁制が当寺に下されたが、 北朝が勢力を増す頃には、足利直義の「久米田寺に利生塔を建立の旨の」御教書が発せられ、また久米田寺塔婆の修造を命じた光明院の院宣も下り、直義が同塔に仏舎利2粒を安置するなど、北朝との関係が 強まった。なお、久米田寺利生塔造塔は全国66ヶ所の利生塔建立の嚆矢と云う。
久米田寺文書:「奉安置、和泉国久米多寺塔婆、仏舎利二粒、一粒東寺・・・・」
永禄5年(1563)久米田合戦(三好実休×畠山高政)により、堂塔が焼失する。但し、宝物・古文書は槙尾寺に避難し無事であった。今日の伽藍は江戸期に復興に着手 し、延宝2年(1674)にようやく一応の再興を果たす。天保14年の寺社覚では、高野山宝性院末とする。
現在金堂、大師堂、精霊殿、観音堂、大門、行基堂、聖天堂、鐘楼、宝蔵、寺務所などの堂宇を有する。また寺中として多聞院、五大院、華厳院、明王院、阿弥陀院( 当院の実態は疑問)を現在残す。什宝として南北朝期の文書、星曼荼羅図等多くの国指定重文を有する。

和泉禅寂寺塔心礎1
  同        2
  同        3
  同        4
  同        5
  同    案内石板
「日本の木造塔跡」によると、心礎は1.6m×1,4m×61cmのほぼ四角形で、中央に径85cm深さ11cmの円孔を穿つ。円孔中央に方19cm深さ3cmの蓋受孔がありさらに方13cm深さ3cmの舎利孔を穿つ。蓋受孔および舎利孔ともに方形である珍しいまた大変仕上がりが綺麗な心礎です。放射状排水溝2本があるようです。現在心礎は現本堂前左に置かれ、元位置ではないとされる。昭和初年に移動したようです。昭和41年の山門を入って西側が発掘調査され。伽藍配置は法隆寺式であることが確認され、塔跡は栗石積基壇(正面のみ瓦積基壇)、四方に階段を設け、一辺12m、高さ1m、塔の一辺は6.4mであることが判明したと云う。出土瓦から白鳳期の建立とされる。
禅寂寺は弥勒山と号する。高野山真言宗。寺伝によると開基は行基で、本尊は薬師如来。坂本氏の菩提寺という。坂本氏は大和法隆寺と同一の伽藍を建立し、坂本順喜から源左衛門までの5代の自坊という。後禅寂寺と称する。天正年中織田信長により焼失す。 同時に古代からこの地に土着していた坂本氏は滅亡したという。境内地は1185坪という。
和泉大鳥神社 詳しくは「和泉神鳳寺五重塔」のページを参照ください。
和泉妙国寺 詳しくは「和泉妙国寺三重塔」のページを参照ください。
和泉念仏寺(大寺) 詳しくは「和泉念仏寺三重塔」のページを参照ください。
攝津住吉大社 詳しくは「攝津住吉社東西両塔」のページを参照ください。
攝津阿部寺心礎1
  同       2
  同       3
  同       4
 同  現地説明板

「日本の木造塔跡」によると、2.1m×1.5m、中央に径64cm深さ15cmの孔があり、その中央を少し外れて径13.6cm深さ7.6cmの円孔を穿つ。花崗岩製。心礎は後に、旧高津邸に移され、さらに高津邸は大阪市に寄付 され、天下茶屋公園と整備された。そのとき心礎の孔にはセメントが詰められ、表面を平に磨き上げたようです。
現状、天下茶屋は例によって野宿者が大勢いるようです。心礎のある辺りも生活の場となり、孔も泥水とゴミがたまっていますが、生活者が周りにいて、除去して写真を撮れる雰囲気ではありません。
(それゆえ現地説明板に孔の写真掲載がありますので、それを掲載します。)
なお心礎の現状ですが、詰められたとされるセメントは取り除かれているようです。磨かれたとされる表面はどうしようもありませんが。
阿部寺は阿倍野区松崎町2丁目の松永大明神付近に存在したとされる。戦前、松永大明神より心礎が発見され、さらに平成11年の調査で創建時(奈良時代7世紀後半頃)から16世紀初頭までの瓦ががたくさん出土したという。

攝津四天王寺 詳しくは「攝津四天王寺五重塔」のページを参照ください。
攝津勝鬘院多宝塔1
  同        2
  同        3
  同        4
  同        5
  同        6
  同        7
  同        8
  同 金堂(愛染堂)
再訪。
攝津平野熊野権現 詳しくは「攝津平野熊野権現」のページを参照ください。
河内渋川廃寺1
 同      2

「日本の木造塔跡」によると、心礎は付近の旧家の手水鉢となっているようです。1.7m×98cm×83cm(一部欠損あり)、上に径94cmの薄い柱座を造りだし、その中央に径54−51cm深さ15cmの孔があり、さらにその中央を少し外れて径9cm深さ3.7cmの孔を穿孔する。
※今般この心礎は拝見していません。
JR八尾駅北側の線路沿西300mくらいに渋川天神社がある(天神社ですから祭神は菅原道真)。この神社の南西の地は、白鳳時代に渋川寺のあったところとされ、昭和10年ごろ龍華操車場開設工事のとき、多数の単弁八葉や忍冬唐草紋の瓦及び塔心礎が出土したという。現在この神社に以上の主旨を標した顕彰石板が建てられています。当然寺跡を偲ぶものは何もありません。
写真2は渋川天神社から南西を撮影したもので渋川廃寺があったとされる方面です。

「X」氏より東北関係塔婆の追加として、画像および情報をご提供いただきました。
2003/07/27 陸奥蓮光寺二重塔 「X」氏情報および「塔をゆく」國見辰雄による:天保7年(1836) 建立と云う。以外に古いようです。
構造は下層3間、上層1間ですが、下層の両脇間は極端に狭く通常の概念でいう3間とは違います。内部には四天柱を立て、その四天柱が伸びて上層の4隅柱となる構造のようです。 似た二層塔に阿波明王院二層塔がありますが、こちらは下層は通常の3間です。また阿波明王院の柱構造もこの塔と同一構造と思われます(推測)。唐破風付設という意味では1)淡路蓮光寺・2)信濃照光寺と同じですが、1)は上下3間・向拝付・相輪欠く、2)は上下1間です。備後福性院は上下1間、讃岐海岸寺は上下3間の正式の層塔建築、丹後如意寺十方閣は上下3間(唐破風・向拝付設)の形式と思われます。
下層正面には唐破風を置く。上層には擬宝珠高欄を付設。下層は基壇・床を設けず直接礎石から建物が立ち上がるようです。組物は一応唐様の二手先を用いると思われます。屋根は銅板葺。聖徳太子像を安置するようですが、この意味は不明です。高さ約8m。 昭和57年修理。浄土宗知恩院末。
2003/07/31
「X」氏ご提供画像
陸奥大円寺二層堂
(堂宇名不詳)
完工年および詳細は全く不詳。写真で見る限り、鉄筋コンクリート製の戦後の建物と思われます。なんとも珍妙な大塔もどき?の外見ですが、大塔とか日本建築とは程遠い建造物です。ただし大円寺については下記のような略歴が知られ、注目すべき寺院です。
大円寺略歴:文亀年中(1501〜04)大円坊によって開基されたと伝えられる。創建の場所は種里村一ッ森(現西津軽郡鯵ヶ沢町)という。
慶長19年(1614)津軽信枚(2代藩主)が弘前城外郭防衛の南溜池をつくり、池南の台地(弘前銅屋町)に移転 する。大円寺六世京海は津軽統一の戦乱での戦死者供養のため津軽信義(3代藩主)の寄進を受け、明暦2年(1656)に五重塔建立に着工し、一時中断もあったようですが、寛文8年朱運行した。現在最勝院五重塔として現存する。
明治4年 神仏分離により弘前八幡宮別当最勝院が大円寺の地に移転。それに伴い大円寺は末寺の高伯寺(当時無住)に移転。高野山真言宗。
高伯寺(阿闍羅山千坊と称されたという)は、、寺伝によると、奈良期聖武天皇の国分寺建立が起源といい、その本尊大日如来を阿闍羅山の大安国寺に安置してこと がその発祥という。
その後、大安国寺は荒廃し、建久2年、神岡山の高伯寺に移奉されたと伝える。
慶安3年(1650)、津軽信義(3代藩主)が阿弥陀如来(平安末あるいは鎌倉・重文・大日如来と称する)を京都で修復し、さらに高伯寺を神岡山から現地に 移転させる。
陸奥妙経寺三重塔1
  同        2
建造年不明。塔についての詳細も不詳。写真で見る限り木造ではないと思われます。細部はほとんど省略されています。妙経寺は承応元年(1652)の創建 という。日蓮宗で法輪山と号する。前身は元治2年(1556)創建の法輪寺とするようです。青森県黒石市。
2003/08/01
「X」氏ご提供画像
夢の家北原邸五重塔
  同     雛形
「X」氏情報:昭和60年完成、北原家中庭に建立されている。高さは約16mで大和室生寺塔婆と同じ位です。二層目縁に橋が懸けられていますが、多分装飾的なもので特に意味は無いようです。 本庄市。工期5年。総檜造り。
なお雛形もあるようです。本格的な造作と思われます。おそらくスケールは1/5以上はあると思われます。
出羽海晏寺三重塔1
  同        2
  同        3
  同        4
平成12年(2000)完成。基本的には和様を用いた本格木造塔のようです。青森ヒバ材を使用、白木のまま。高さ約27m。
曹洞宗 。酒田の豪商本間家が檀信徒であったようです。経堂、釈迦堂などは本間光丘の寄進とする。
2003/09/21 尼崎本興寺 再訪。詳しくは「攝津本興寺」のページを参照ください。
摂津長遠寺多宝塔1
  同        2
  同        3
  同        4
  同        5
  同        6
  同        7
  同        8
  同        9
  同       10
  同     本堂1
  同     本堂2
  同     本堂3
慶長12年(1607)建立。 本瓦葺き。一辺3.95m、高さ15.4m。基本的に和様ですが一部唐様を混ぜる。桃山様の蟇股を各中央間中備に用いる。市場巽(旧境内地・現東町)に正面を西にして建立、元和3年(1617)尼崎城築城にともない現在地に移転、移築時に正面が東に変更された。(これは阪神淡路大震災後の保存修理の解体によって判明したようです。)内部は 来迎柱 、来迎壁、須彌壇があり、須弥檀上に釈迦如来を安置、その両側には千躰の仏像が祀られているという。また須彌壇には天女の図、南側扉内 部には如来像、北側扉内部には愛染明王像・不動明王像が描かれているとされる。
日蓮宗大堯山と号する。感応元年(1350)日恩上人開基、寺地は七ツ松という。その後、巽(辰巳)に再興され、法花寺と称したが、元和3年(1617)戸田氏の尼崎城築城に伴い現在の寺町に移転。 なお元亀3年(1572)織田信長「禁制」には「摂州尼崎内市場巽長遠寺」とあるようです。
本堂:重文、5間×6間、入母屋造本瓦葺、正面一間に 向拝を付設、慶長3年(1598)と元和9年(1623)の棟札があるようですが、昭和56〜58年の修理で元和9年の建築であると確認されたという。なお鐘楼も寛永14年(1627)建立という。客殿・庫裏も桃山期の建築とされる。
2000/10/9撮影:画像
「摂津名所圖會」に見る尼崎寺町・長遠寺多宝塔(部分図)
寺町の様子で西から如来院・長遠寺・大覚寺・法園寺・甘露寺・広徳寺・本興寺・全昌寺と続く様が描かれています。挿絵中に長遠寺多宝塔が見えます。
摂津猪名寺廃寺 詳しくは「摂津猪名寺廃寺」のページを参照ください。
摂津杜若寺三重塔1
  同        2
昭和57年(1982)建立。鉄筋コンクリート製。省略が多く残念な塔です。 何をもって古いというのか分かりませんが、伊丹で一番古いという墓地の中にポツンと立っています。 この地は有岡であり、三重塔は荒木村重の供養塔と言われる。道路を隔てた寺地は前回訪問時全くの更地でしたが、最近鉄筋コンクリートのビル建築の寺院が完成したようです。万治3年(1660)の創建といい、かっては杜若(かきつばた)の名所であったという、焼野と称する。浄土宗 。写真1の左中央が新寺院です。
2000/10/9撮影:画像
摂津岡松寺二重塔1
  同        2
  同        3
  同        4

昭和56年建立。高さ一辺など不詳、小型塔。高い花崗岩製の基壇に建つ。近世風ですが木造の正規建築です。欅を使用と思われます。岡松寺は法華宗(本門流)、ここにも秋山自雲のお墓が分祀されているようです。最近マンション兼の寺院建築が完成したようで、二重塔が無ければ一見寺院とは分かりません。

旧高野山光台院多宝塔 詳しくは「高野山光台寺・藤田美術館多宝塔」のページを参照ください。
2003/7/26〜8/4までの10日間「X」氏は東北地方を長期に参拝されました。その折の画像および情報をご提供頂頂きました。
整理のついた画像を掲載させていただきます。
2003/07/27
「X」氏ご提供画像
陸奥観音寺五重塔1
  同        2
1995年建立。平賀本土寺・聖徳寺と同型同寸。ガラス繊維強化セメント製(GRC)。 高さ約23m。基壇内部は宝物館のようです。福島市。
観音寺は天安2年(88)道叡の創建と伝える。天台宗東叡山直末であったようです。本堂・大非殿などを有する。
定義如来西方寺五重塔1
  同           2
●工期:5年3ヶ月(昭和61<1982>年10月落慶)●様式:純和様木造五重塔
●高さ:約29メートル●構造:塔身:総青森ひば白木造、屋根:青森ひば・こけら葺き、相輪:青銅製。
「西方寺の開祖」とも言うべき平貞能公(後 定義と改名)の菩提を弔い、御報謝の意を捧げ、未来永劫の人類の平和を祈念するシンボルの塔」として建立されました。(以上「定義如来様」ホームページから転載) 本尊阿弥陀如来(定義如来)画像は平重盛の念持仏で、平家滅亡後、平貞能が当地に来たり祀ったとされる。
陸奥竜宝寺多宝塔1
  同        2
昭和63年建立。青葉区。一辺6.4m、総高21m、かなりの大型の塔婆のようです。古典的な本格木造塔婆で純和様と思われます。丹塗、初重中備えは格間に蟇股を置く。本尊は金剛界大日如来および胎蔵界4仏。
延暦22年(802)坂上田村麻呂の創建とする。康正年中(1455-56)伊達朝宗に開基で中興されたと云う。伊達氏とともに常陸真壁の中村から伊達郡梁川へさらに米沢成島八幡別当として移転。伊達政宗の代天正19年(1591)に岩出山に移転、慶長5年には仙台の現在地に大崎八幡宮の別当として移転し伊達氏の保護のもと繁栄した。真言宗御室派。
陸奥国分寺多宝塔1
  同        2
昭和57年完成。鉄筋コンクリート。 高さ21m。コンクリート製ながら精巧には造られていると思われます。上層屋根の四隅の置かれているのは小型相輪のようです。本尊金剛界大日如来、2−3階には仏舎利と信徒の位牌を安置するようです。境内は史跡。 なお国分寺のページの陸奥国分寺の項を参照。
陸奥国分寺復元模型  陸奥国分寺七重塔模型(国立歴史民俗博物館 蔵)
陸奥孝勝寺五重塔1
  同        2
  同        3
  同        4
青森ひばの純木造塔。総高約32m、初重柱間4.7m、五重約3m、軒出は全層共2.88m。設計:(株)鹿野設計事務所鹿野克己氏。部材総数:約16,100、斗総数:1,852個という。心柱は二重目から立つ。
2003/07/29
「X」氏ご提供画像
陸奥福泉寺五重塔1
  同        2
平成2年(1990)落慶。遠野市。宮大工菊池恭二氏作の本格的木造塔婆のようです。 但しおそらく建築基準法上の問題等で構造躯体は鉄筋コンクリートのようです。総高26m。
なお昭和57年多宝塔も建立。 真言宗豊山派。大正元年、寺籍簿に寺名のみを残す江差市福泉寺を現在地に移し、開創される。開山宥尊師の大願は明治維新神仏分離で廃絶した早池峰山妙泉寺(現早池峰神社)の再興にあったようです。現在伽藍は山門、仁王門、本堂、護摩堂、鐘楼があり、さらに山上に観音堂、多宝塔、五重塔を備えるようです。 寺域6万坪という。
陸奥福泉寺多宝塔1
  同        2
昭和57年完成。遠野市。宮大工菊池恭二氏作の本格的木造塔のようです。 総高60尺、初重一辺18尺2寸4分。青森ヒバ白木造り。五大明王と四天王を安置。なお平成2年五重塔を建立。
2003/07/31
「X」氏ご提供画像
陸奥最勝院五重塔1
  同        2
寛文8年(1668)津軽氏により創建。 総高31.2M・一辺5.7M。唐様を混ぜるようです。江戸期の塔には珍しく逓減率の高い塔婆のようです。元は当地にあった大円寺塔として建立、大円寺は明治の神仏分離で退転。 最勝院は元文元年(1532)の創建で、弘前八幡宮の別当であった。明治5年大円寺の堂塔を引き継ぎこの地最に移転した。
2003/08/01
「X」氏ご提供画像
出羽日吉八幡宮三重塔1
  同           2
宝永4年(1707)頃建立か。 一辺3.10m、高さ約20mくらい。和様と唐様が混在しているようです。佐竹氏移封の時、安東氏勧進の日吉社と佐竹氏氏神の八幡社とを合祀して成立。 神宮寺は天台宗であったようです。明治の神仏分離では当然初重内部の仏像仏具を取り払い、塔に鹿島大明神の扁額を掲げて、破壊を免れるという。
日吉八幡神社境内図(江戸中期)
2003/08/02
「X」氏ご提供画像
出羽羽黒山五重塔1
  同        2
  同        3
  同        4
応安5年(1372)もしくは正和5年(1316)再建塔。慶長13年大修理。 純和様を用いるようです。一辺4.10m、高さ24.2m、屋根は柿葺。五重塔は承平年中平将門によって創建されたという。
出羽慈恩寺三重塔1
  同        2
文政13年(1830)建立。一辺5.12m、高さ26.7m。和様を基調とするようです。
塔は慶長13年最上義光により建立。文政6年(1823)焼失、文政13年再興。
出羽慈恩寺慶長雛形1
  同         2
慈恩寺には、三重塔雛型が二基あるようです。
一つは仁王門(裏)に収めてあるもので、初重および二重のみが残されているようです。ひどく壊れているようですが、この雛形が慶長創建塔雛形と推定されているようです。
文政期雛形(現塔婆)の雛形で、三重塔内に収めてられているようです。こちらはほぼ完存しています。
出羽慈恩寺文政雛形1  出羽慈恩寺文政雛形2  文政 三重塔建地割図(慈恩寺蔵)
雛形は文政7年作成、建地割図は文政8年、三重塔完成は文政11年(1828):棟札とされる。
出羽立石寺三重小塔 永正16年(1519)建立。山頂近くの華蔵院脇の洞窟中に安置。ガラス格子戸 があり、相変わらず、詳しくは拝観できなしようです。小塔は一辺45cm・高さ2,5m、和様を基本に組物・木鼻は唐様を用いる折衷様という。 内部は省略した箱者構造との由で工芸的作品。立石寺は円仁の創建で天台の巨刹として現在に法統を伝える。
2003/09/05 信濃善光寺遠望
  同   三重塔1
  同   三重塔2
  同   本堂(国宝)
忠霊殿と称する。要するに靖国神社あるいは護国神社の善光寺版と思われます。僭越な思考回路と思われます。忠霊殿は明治39年に創建され、昭和45年に三重塔に改築されたと思われます。鉄筋コンクリート製。
信濃善光寺多宝塔1
  同        2
雲上殿と称する。 善光寺納骨堂。昭和24年落慶。鉄筋コンクリート製。高さ39mの多宝塔に間口55m×奥行16mの翼楼を付設した邪道な建造物です。屋根銅板葺き。
信濃高山寺三重塔1
  同        2
  同        3
  同        4
  同        5
  同        6
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  同        9
  同       10
  同       11
  同       12
  同       13
  同       14
  同     塔本尊
  同 北アルプス遠望
元禄8年(1695)木食山居上人の三重塔勧化状大意:三重塔は源頼朝の建立にして、五智如来を安ず。久しく星霜を経て、自然に破壊し、中古両度の修復を加う。然れども今既に相輪差脱柱根腐朽し日ならず転倒せん。・・・という状態の三重塔を木食山居上人が元禄7年から5年をかけて再興したと伝える。その後柿葺の屋根葺替が3回実施され、大正11年に銅板葺に変更、平成元年昭和大修理を行い現在に至る。塔本尊は胎蔵界大日如来・釈迦如来・阿弥陀如来の三尊。
一辺3.36m、高さ約16m。装飾を極力排した純和様の塔婆です。かなりの高所でおそらく雪深いと思われろところに建っています。*木食山居上人は塔再興ののち大町弾誓寺住職に転住。
寺伝では大同2年(807)年坂上田村麻呂が戦勝祈願のため建立したという。しかし寺観を整えたのは近世初頭と思われます。慶安2年以降の朱印は15石であったようです。鐘楼門は天明6年、本堂は寛政9年、観音堂(信濃33所観音札所の結願所)は江戸中期の建立。
なお高山寺を少し下ったところから、北アルプスが眺望できます。
参考文献:真言宗豊山派高山寺発行パンフレット。
信濃天正寺三重小塔1
  同         2
  同         3
  同         4
  同         5
  同         6
  同         7
  同  薬師如来立像
一辺1尺3寸7分6厘(42cm)、高さ1間(180cm)。屋根とち葺。若一王子社三重塔の雛形(10/1)とされ、弾誓寺木食故真などが勧化に使用したと伝える。ただし細部を見ると相違する点が多く若一王子社三重塔の雛形というのは疑わしいとされるようです。製作年代ははっきりしなしようですが、江戸中期と推定されているようです。明治4年廃仏毀釈により弾誓寺は廃され、三重小塔・薬師如来立像・聖徳太子立像とともに天正寺に遷座されたと言われる。
天正寺寺地は鎌倉中期に仁科氏が館を構えた場所でいわれ、その遺構が良く残されているようです。天正10年(1582)仁科氏滅亡後、その菩提のために館跡に天正寺が創建されたと云う。
三重小塔に並んで収蔵庫には木造薬師如来立像が収蔵されています。像高261cmの大きな仏像です。檜の寄木造。明治4年弾誓寺より遷座。胎内の背面下部木札の墨書銘によると、延宝5年(1677)の造立とされる。弾誓寺は近世大町地方の念仏中心道場として繁栄したようです。
信濃若一王子社三重塔1
  同           2
  同           3
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  同           6
  同           7
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  同           9
  同          10
  同      観音堂1
  同      観音堂2
一辺4.2m、高さ20.2m。屋根柿葺。木食古信法阿の発願で、宝永3年(1706)に起工し、宝永8年(1711)に竣工したとされる。 外観はほぼ純粋な和様建築です。初重蟇股彫刻は、方位に合わせ十二支の動物が彫られ、しかもその12枝の動物は束帯をつけているユニークなものです(人身獣面)。なお棟札4枚(宝暦5年、文化5年、文政12年、安政6年)が 存在するようです。
観音堂は方三間。寄棟造・茅葺。棟は極めて短い箱棟を載せる。妻入りで小さい向拝が付く(柿葺)。棟札によると、宝永3年(1706)の造営とされる。本尊十一面観音像、仁科三十三番観音霊場1番札所。
若一王子権現社絵図(安政2年<1855>): 拝殿東に観音堂、南方に塔(三重塔)が描かれていて、現在も堂塔はほとんど江戸期の神仏習合時代の雰囲気を残しています。明治維新の神仏分離時の様子は資料を入手していませんが、例えば以下の破壊もあったようです。
木造伝十一面観音菩薩立像残欠が残されているという。破損状況は以下の様という。仏体は甚だしく焼け、無残に破壊を受け、ほとんど原形を留めない。頭部は鋸で切断され 欠落し、胸部下と背中にも切断の鋸目が残っている。さらに損傷状態から故意に焼却されたと思われる。江戸中期の後補である10面の化仏、台座、光背とともに焼け残りの仏体は かっては三重塔内に置かれていたことから、仏体残欠は十一面観音であろうと推測される。地方作の平安後期の造立と推定。 
若一王子社は、鎌倉期初期、地頭仁科氏が熊野権現から若一王子を勧進したことに始まるとされる。なお若一王子の本地仏は十一面観音とされる。 また本殿(重文・弘治2年<1556>・一間社、隅木入春日造)が残されていますが、瑞垣等に囲まれ見ることは出来ないようです。
2003/09/04 越中日石寺三重塔1
  同        2
  同        3
  同        4
  同        5
  同        6
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  同        8
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  同       10
  同       11
  同       12
  同 本尊不動明王1
  同 本尊不動明王2
当山中興の第11代如龍が境内竹林より古銅塔を発掘し、塔建立を発願、第12代覚伝の天保14年(1843)に石突をはじめ、弘化2年(1845)に建築されたという。棟梁は富山の池上清助と 伝える。いずれにしろ江戸末期の建築で、おそらく財政難とおもわれますが、全ての層が吹抜けで、未完成とされる。様式的には基本的に和様を用いる。軒は三層とも二軒扇垂木を使用。心柱は初層から立つ。四天柱・側柱は礎石に立たず、土台に立つのは異例と思われる。一辺4.38m、高さ約15m。
(大岩不動)神亀2年(725)行基の開山とされ、行基は大岩川の岩に不動明王を刻んだと伝える。また立山本山の一つとして隆盛を極めた。天正年中に兵火に罹り灰燼に帰す。現在の堂宇は慶安年中に前田利常によって再建されたものという。現在は真言密宗の本山と称する。昭和42年本堂(重文)が焼失、不動明王は無事で、本堂も再建されています。
本尊不動明王像(重文・高さ3.5m・ほか四体)は前置本堂の奥の凝灰岩の巨岩に半肉彫りで彫り出され、その置かれた雰囲気とともに異様な迫力があります。
越中光厳寺三重塔1
  同        2
  同        3
  同        4
  同        5
昭和11年建立。鉄筋コンクリート製。昭和20年の戦災で、本堂・二重門などは焼失したが、三重塔は破壊は残ったという。一辺4.3mで、木造塔にかなり忠実に造られているようです。現在はベンガラ色に彩色されている。 光厳寺は長禄2年(1458)の開創という。当初は増山城下にあったが、射水郡守山城下に移り、神保氏の保護を受ける。慶長10年前田利長によって富山城下に移され、富山藩初代利次によって菩提寺となる。 寛文年中に現地に4500坪に寺地を与えられる。曹洞宗。
越中氷見酒井邸五重塔1
  同           2
  同           3
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  同           5
  同           6
平成14年完成。高さ23m。永明院五重塔と称するも、寺院の塔婆ではなく、個人邸にあります。 おそらく縁故者の(故人の)供養のために建立したのではないかと推測されます。
設計施工は(株)白井大工となっています。HPによると、伝統工法による木造塔婆と思われます。外見は山城海住山寺塔婆に似ていますが、和様ではなくて基本的に唐様を用い るようです。
越中国泰寺三重塔1
  同        2
  同        3
  同        4
  同        5
  同        6
  同        7
昭和59年(1984)建立。木造、素木の本格塔。利生塔と称する。 建立の事情は分かりませんが、おそらく安国寺利生塔を現代に復元したような主旨と思われます。2重の切石積基壇に古風に立ち、純和様を用いた復古調の塔です。
辻善之助「日本仏教史」では越中の安国寺および利生塔とも不明とする。全国安国寺会編「安国寺風土記」では国泰寺説と布市興国寺の2説を上げる。現状では不明もしくは推測であるようです。国泰寺は現在臨済宗国泰寺派大本山。
越後国分寺三重塔1
  同        2
  同        3
  同        4
  同        5
  同        6
  同        7
  同        8
  同     本堂1
  同     本堂2
寛政6年(1794)焼失。寛政9年(1797)起工、 慶応元年(1865)上棟、あるいは安政3年(1856)に原形は完成ともいう、明治に中断、昭和52年工事再開し、完成したという。 あるいは細部はいまだに未完成とも思えます。現在塔の再興の過程ははっきりしませんが、いずれにしろ江戸末期の塔には間違いないようです。一辺4.8m、高さ25.85m。 和様を基本にして、木鼻などに唐様を用いる。
現国分寺は永禄5年(1562)上杉謙信が真言宗寺院として再興。その後上杉氏が会津移封の後、堀秀治と対立し無住となる。江戸期上野寛永寺天海により徳川氏の宥和で俊海天台宗として中興。寺領200石を安堵。なお天平創建の国分寺跡は海に没したのか全く分からないようです。また弘法大師が来錫し、五智如来を安置した伝承もあるようです。さらに親鸞配所草庵なるものがありますが、これにはまったく興味ありません。
昭和63年本堂を焼失、平成9年中世初期(鎌倉)様式で再興。(桁行7間、梁行6間、向拝4間、単層入母屋造り、銅板葺き、青森ヒバ材使用)さすが鎌倉期の本堂建築はという感じの存在感があります。
2003/09/03 近江衣川廃寺伽藍配置
  同  塔基壇発掘
  同    塔基壇1
  同    塔基壇2
  同    金堂基壇
 同 金堂基壇版築模型
 同  版築切取(展示)
飛鳥−白鳳期に建立された寺院とされる。琵琶湖西岸の堅田丘陵の先端に位置する。金堂跡、東南に塔跡とされる遺構を検出。塔跡は一辺14mで礎石は全部抜き取られていた。中心に径1,5m深さ40cmの発掘抗があり、心礎抜き取り穴と推定。 金堂・塔跡以外には堂宇が建立された形跡がなく、平安末には廃寺となったとされる。また塔についても建立されたのか途中で中止されたのかは定かでなく、塔は建立されなかった可能性もあるようです。塔および金堂とされる基壇はいずれも版築され、その断面は金堂基壇の後に復元展示され、またこの遺跡の付属展示施設に版築の切取が展示されています。現在廃寺跡は良いのか悪いのかは別にして、きちんと整備されています。
加賀那谷寺三重塔1
  同        2
  同        3
  同        4
  同        5
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  同        9
  同       10
  同       11
  同     塔本尊
  同     本殿1
  同     本殿2
  同     護摩堂1
  同     護摩堂2
  同     遊仙境
寛永19年(1642)建立。前田利常の再興による。様式は完全な唐様を用いる。
一辺2.93m、高さ11.6mの小型塔です。基壇は花崗岩を台状に整形しているようです。柱・組物・軒など全てに唐様がみられる。また壁・扉・欄間などに板彫りの彫刻が嵌められている。初重中央間が特に広く、そこから塔本尊が拝観できます。塔本尊は鎌倉期胎蔵界大日如来 という。
本殿(重文・桃山)、護摩堂(重文・江戸初期)も唐様を用いる。その鐘楼(重文・江戸初期)・書院および庫裏(重文・江戸初期)を有するが拝見するのを忘れました。
那谷寺は白山信仰にかかわりがあるようで、養老元年(717)泰澄によって開かれたという。岩屋寺という。花山法皇は西国1番那智山と33番谷汲山の1字をとり那谷寺と名付けたという。往時は250坊があったというが、南北朝期および一向一揆により焼亡したようです。境内に奇岩遊仙境を有する。 高野山真言宗。
能登妙成寺五重塔 詳しくは「能登妙成寺五重塔」のページを参照ください。
能登シャコデ廃寺心礎1
  同          2
  同          3
  同          4
  同     心礎追刻
心礎は柳田善正寺(浄土真宗)境内にあり、石段をあがった右手にある。おそらく「手水鉢」として置かれているようです。155cm×150cm×60cm(見える高さ)で、中央に径87cm、深さ11cmの孔を穿つ。シャコデの由来あるいは元の寺地などの詳しい情報はありませんが、おそらく善正寺背後の丘陵地が元の寺地と思われ、塔跡と大型掘立建物跡が発掘されているようで、塔跡は削平されていたが、礎石抜取り穴が見つかっているようです。奈良期の創建とする。なお心礎に以下の追刻がある。
「昭和4年3月寺家の平戸善雄・世話方林庄作・在所一同」。おそらく昭和4年に心礎は善正寺に寄進されて現在に至ると思われます。また円孔の一部は割れているが、セメントで補修されている。
参考:
能登釜屋町三重小塔1
  同         2
  同         3
羽咋市柳田釜屋町付近で「ちゃちなもの」がありました。勿論近年の粗末なもので建築としての価値はありません。個人の墓地(と思われる)に三重小塔がありました。但し相輪はなく宝珠を載せています。高さは1.5m位と思われます。一応は木造で、腐朽防止と思われますが表面 全部をトタン板で覆っています。なお写真2の左側道路の右側舗道は北陸鉄道能登線の廃線跡です。
付録: 北陸鉄道能登線跡
2003/08/20 尾張蜜蔵院多宝塔1
  同        2
  同        3
  同        4
  同        5
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  同        7
  同        8
  同        9
多宝塔は室町初期建立と推定される。 全般に唐様を用いる。但し垂木は上下層とも2重並行垂木を用いる。屋根杮葺きで近年修復されたようです。饅頭は板張りで防腐剤を塗る。
野田本坊と称し、延暦寺末の巨刹であった。 平安期大山正福寺が消失後、嘉暦3年(1328)慈妙上人が尾張天台の中心として開基したと伝える。往時は全国に末寺が及んだという。戦国期に衰退したが、江戸初期には伽藍が再興された。現在尾張名所図絵に見られる本堂、灌頂堂、経蔵、鐘楼などは退転し跡のみ残す、坊舎も全て廃絶し辛うじて跡地の推定が出来るのみです。但し開山堂、観音堂、元三大師堂、山王権現などは健在です。
尾張名所図会 後編巻之4より:記事:「 天台宗。山城国延暦寺末。
塔頭(むかしは36坊ありしが、・・今わずかに5院を存す。吉祥坊・常林坊・善明坊・常泉坊・福泉坊なり)」  蜜蔵院部分図
尾張竜泉寺多宝塔 詳しくは「尾張竜泉寺多宝塔」のページを参照ください。
尾張宝泉寺多宝塔1
  同        2
  同        3
昭和10年建立。一辺4.56m、鉄筋コンクリート。 無彩色。扉は鉄製。納骨堂のようです。屋根もコンクリートのままで細部は諸略され、木造塔のイメージからかけ離れています。尤も造形としては近年の粗雑な新造塔よりは優れていると思われます。 饅頭の上に妙なお皿様の円盤の付属があり、同じ尾張妙法寺多宝塔の庇と相通ずるものがある。宝泉寺は曹洞宗。
河内飛鳥寺塔心礎1
  同        2
  同        3
  同        4
「日本の木造塔跡」によると、羽曳野市駒ヶ谷(旧南河内村)飛鳥西の寺の小池の畦から昭和初期に発掘されたという。名古屋に運ばれ、現在は市に寄贈され、名古屋城織部堂(茶室)の蹲となっている。2,8m×1,77mで径102cm深34cmの柱孔を持つ、柱孔に径20cm深2.2cmの蓋受孔、径16cm深15cmの舎利孔、さらに4段目の孔として径14cm深4cmの孔(脱湿孔)を持つという。
但しあくまで蹲としての扱いで、かつ紹介が無ければ非公開で、この巨大な心礎およびその構造は観察することが出来ません。姫路文学館の播磨見野廃寺心礎 もそうですが、行政はきっちりとした文化財の扱いをするべきと思います。心礎は現在300個内外しか知られていない貴重な文化財です。貴重な文化財を粗末にしか扱えないなら、 いわば「拉致」した心礎を元の場所に返却すべきです。どうしても蹲にしたければ模造品を作って据えつけるべきです。
尾張妙法寺多宝塔1
  同        2
  同        3
  同        4
  同        5
  同        6
  同        7
昭和40年(1965)。三重多宝塔と称するようです。 詳しい仕様は良く分かりませんが、コンクリート製と思われ、木調風な彩色をしているものと思われます。屋根は銅板葺き。饅頭の上に庇を付け、多宝塔の形式から外れ、その意味では一種の邪道と思います。 撮影当日は門が閉まり、境内外から撮影。(寺院活動は停止中との情報もあり。)妙法寺の経歴も全く分かりません。
尾張興正寺五重塔 1
  同        2
  同        3
  同        4
  同        5
  同        6
  同        7
再訪。文化5年(1808)建立。 塔は典型的な江戸後期の姿で、塔身は細く、また極端に相輪が塔身に比べて短かいようです。一辺4m高さ30m。和様を用いる。塔は縁を設けず、基壇上に建つ。内部には金剛界四仏を安置。
元禄元年(1688)尾張徳川2代光友が創建。広大な境内にいまなお数十棟の建物を有する真言宗の大伽藍です。仁王門・五重塔・本堂が一直線に並ぶ伽藍配置です。(但し 伽藍は西面する。)
尾張名所図会 巻之5より
記事: 真言律宗。和泉大鳥山神鳳寺派。五重塔に関する記事はありません。
全 図 部分図
※開山天瑞和尚は畿内各地で修行し、和泉の大鳥山では真政和尚から戒律を学んだとされる。
尾張祐福寺多宝塔残欠 詳しくは「尾張祐福寺多宝塔残欠」のページを参照ください。

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