摂  津  猪  名  寺  廃  寺

摂 津 猪 名 寺 廃 寺

2003/09/21「よみがえれ!白鳳の大伽藍 猪名寺廃寺市民フォーラム」が開催(於尼崎市園田公民館)される。
 (主催:自然と文化の森協会、共催:地域自治会など、後援:尼崎市、教育委員会など)
午前:基調報告とパネルディスカッション
 パネラーは尼崎市教育委員会岡田務氏、法園寺副住職松田常史氏、自然と文化の森協会会長畑喜一郎氏、
 コーディネータは兵庫県埋蔵文化財調査事務所山上雅弘氏
午後:猪名の笹原、黄金塚、猪名寺廃寺の歴史ウォッチングが実施される。

以下の記載には「フォーラム配布資料」からの要約を使用する。
写真は2003/9/21撮影画像

猪名寺廃寺心礎

心礎は2.4m×1.8m×0.9mで、 大型の心礎であろう。
上面は平滑に削られ、およそ径1.8mの円形に微かに造り出されている。中央にはおよそ径75cm・深さ16cmの孔を穿つ。
さらに、珍しく上面の端近くに径12cm深さ10cmの小孔を持つ。この小孔が舎利孔かどうかは不明。花崗岩製。
法園寺様のご教示によると、心礎は原位置ではなくて、 大正年間に塔跡中央から現位置(法園寺本堂裏)にに移されたと云う。また心礎は地下式ではなくて地上形式であったと云う。

摂津猪名寺廃寺心礎1(左図拡大)
  同         2
  同         3
  同         4
  同         5
  同         6

猪名寺廃寺遺跡概要

猪名川(藻川)土手から西方の猪名寺廃寺の叢を望む
この叢の下に廃寺は眠る。  

以下フォーラム配布資料より;
立地:
 猪名寺廃寺跡は白鳳から室町にいたる複合遺跡である。藻川西岸の標高11mの洪積台地に立地し、遺跡の東と南は藻川とその氾濫原であるため、丘状をなす。
戦前および昭和26年、同33年に発掘調査(トレンチ)がなされ、伽藍配置は南面する法隆寺式とされ、中門から巡る回廊は塔・金堂を囲み、講堂はその北回廊外と推定される。創建時期は 出土瓦等の遺物などから白鳳期とされる。
金堂跡:
 僅かな土壇状の高まりが残され、土壇は版築工法で築かれる。規模は18m×14mで縁石の発掘があり壇上積基壇であったと推定される。金堂跡北で階段跡も検出。跡は巾2.58m奥行1mで最下段のみ残存する。また階段の周辺には栗石・平瓦が敷かれ当時の地表面も発見される。
推定講堂跡:
 本堂山と呼ばれていた場所で、土壇が現存すると云うが、後世の攪乱によって規模などは確定に至らず。また版築も確認できず、おそらく後世の堂跡と思われる。
塔跡:
 土壇状高まりが残存し、版築工法で築かれ、一辺12mで壇上積基壇と推定される。
中門跡:
 後世の削平を受け、不明。
回廊跡:
 ほぼ伽藍中軸線上で、講堂と塔・金堂の中間付近で、瓦を並べた縁瓦の検出(片面のため回廊巾は不明)があったとされる。

発掘による数値:(法園寺副住職様ご教示)
塔跡;縦11.82m  横11.82m、塔跡から金堂までの距離が、横に20m
金堂:縦13.6m   横17.58m
中門跡(公園の砂場の位置にあった)から講堂まで直線で、北に48.48m
講堂:縦13.03m  横27.27m。
金堂跡は公園のブランコの裏一帯であろう。

なおフォーラムの午後の部「歴史ウォッチング」には不参加、塔跡・金堂跡などの位置は未確認。
 □伽藍主要部現状

出土瓦は白鳳期から室町期に及び、量としては創建時瓦と鎌倉期瓦が多いとされる。
以上から猪名寺廃寺はおそらく再興を繰り返し中世まで存続したと思われる。
 (尼崎教育委員会では創建時期は7世紀後半と推定。)

創建時の檀越については諸説があるが、これは割愛する。

心礎以外の礎石が現在法園寺境内に数個残存する。(教育委員会様談)
 □推定礎石1   推定礎石2

2011/05/10追加:○「図説尼崎の歴史 上巻」尼崎市立地域研究史料館、2007 より
 猪名寺廃寺伽藍配置:法隆寺式、廻廊は中門を出て、塔・金堂を取囲み、講堂には取り付かない。
 金堂北辺遺構:階段(最下段) および栗石・・・写真ではどの部分が階段最下段なのかは良く分からない。東から撮影。
 北廻廊瓦積基壇:東から・・・・ 写真は何れも「尼崎市猪名寺廃寺跡」の図版であろう。

文献による猪名寺および法園寺

以下フォーラム配布資料より転載;
大同年間:法道上人開基とする。(略縁起)
奈良時代:行基の中興とする。(摂陽群談)・・・この地区の古代の様相について示唆するものと思われる。
平安中期:摂関家領「橘御園」(康平記、康平5年<1062>初出)
鎌倉前期:近衛家領「橘御園」
嘉禄3年(1227):浄土寺門跡領「橘御園」(近衛家所領目録)
天福2年(1234):法薗寺初出(慈源所領注文)
天和5年(1316):猪名寺孤獨園図(行基菩薩行状記)
元弘3年(1333):兵乱(赤松円心・幕府六波羅勢)で堂塔次第に零落す(略縁起)
明徳2年(1391):西大寺末寺「猪名寺 法薗寺」(極楽寺文書)
元亀元年(1570):「伊丹城より百人計猪名寺と云う所へ被出候」(細川両家記)
天正6年(1578):戦火(織田信長・荒木村重)により焼失(略縁起)
宝暦7年(1756):再興(寺院明細帳)

興亡を繰り返しながら中世まで存続したと推定されるが、荒木村重と織田勢との戦火で焼失したとされる。
近世に法園寺は再興される。
 □法園寺現本堂(薬師堂)

法園寺と本尊薬師如来略縁起

法園寺本尊は薬師如来であり、この地方では「薬師様」として信仰を集めていたと伝える。
本尊薬師如来は秘仏とする。(法園寺副住職も2回ほどしか実見したことは無いと云う。)
発掘調査を指導した石田茂作の鑑定では、平安後期の鉈彫りの像とし、おそらく国宝・重文級の仏像であるという。
 *2003/9/24法園寺様より;石田博士の鑑定は昭和33年第2回発掘調査の時との事。
法園寺は猪名寺廃寺跡の一画に立ち、猪名野山と号す、真言宗御室派。

「摂州川辺郡猪名野山略縁起」

 

『略縁起』(元禄9年長應上人 著)

摂州川辺郡猪名寺村東漸山法園寺ハ真言の霊場なり、古歌にしなか鳥猪名野といふ是也、開山ハ法道仙人仁王三十七代孝徳天皇その徳を称したまひて伽藍御建立あり、金堂にハ薬師如来、大塔にハ大日弥陀阿閃の五智、講堂にハ釈迦牟尼佛、勧学堂にハ弥勒佛、観音堂一宇、鐘楼堂一宇、惣て有るべき堂塔皆備ると云々、其外坊中無数宇也、越元亨年中の兵乱に逢て寺領を奪はれ堂塔次第に澪落す、然るに又天正六年有明の岡伊丹の城主荒木摂津守秦の村重謀反によって平内府信長公と戦ふ、城外の近林に白幡明神の社あり、道を遮て兵卒を進めがたし、此故に火を放て社を焼く、当寺元より社に近クして時の変を迯る々事なく一火に乍原となる、然りといへとも本尊薬師如来観音大士焔の中に立ち給ひて神変を顕ハし給ふ、集る所の人々難遭のおもひをなさずといふ事なし、依之里中の居民尊躰の朽ざらむ事をなげきて小芧をふく、是又遥に歳霜を歴て既に亡破に及べり、仍此度衆生結縁のために霊佛等悉ク令開帳卆、参来信心の輩ハ現世安穏後生善所の誓ひあきらけし、敬白

元禄九年丙子歳二月日           沙門 長應

 

 

 

2003/9/24法園寺様より
略縁起は2通存在するという。
1通は元禄9年(1696)長応上人による。
今般法園寺様ご提供
 (全文は左記のとおり)

もう1通は寛延2年(1749)に元禄9年「摂州川辺郡猪名野山略縁起」を書写したという縁起で、猪名寺村住の西居忠蔵なる人物の書写という。

以上2本の相違点は山号について、元禄9年本は「東漸山」とするが、寛延2年本は現山号と同じ「猪名野山」とする。
また寛延2年本には、元禄9年本にはない「行基菩薩の事跡」が付加されている。

注釈:4行目「大日弥陀阿閃」は「大日弥陀阿シュク」で、シュクは、門構えの中に人という字が3つ入いるのが正字である。

 □長応上人墓碑1  長応上人墓碑2(写真は不鮮明ながら法印長應と読める。)
   法園寺に現存する墓碑で一番古いものという。上述のとおり長応上人は「略縁起」を著した上人である。

以上の元禄本および寛延本を底本として、昭和の「略縁起」が編まれる。

昭和の「略縁起」要約:
本尊薬師如来は法道仙人が紫雲に座して飛行しこの地に至り自ら薬師如来を彫刻開眼した尊像である。
孝徳天皇の崇信が殊の外篤く、天皇は七堂伽藍三廊四門を建立、金堂には薬師如来、講堂には釈迦如来、大塔には五智如来、勧学堂には弥勒菩薩、観音堂、鐘楼などを営み 、寺領八百八町を下賜する。
また本尊の霊験愈々あらたかく・・・・里人敬い尊び有明の里と称し世に佐伯山の伽藍と呼び又は為那寺と尊称した。
宇多天皇あるいは近衛の院の不例の折に霊験を現し、勅願所として諸堂を再興す。時の年号に因み仁平寺とも称した。
行基菩薩が当寺においでになり、薬師如来の霊験で毒蝮を封じ、灌漑事業が発展した。
元享元年(後醍醐帝の時)兵乱あり寺領を失い百坊が焼失。その後再興。
天正6年伊丹城主荒木村重と織田内府が戦い、伽藍は焼失、本尊薬師如来は池中に光明を発していた。
寺僧は威歎し小堂を構え勤行した。
宝暦8年法印定ロが三間四面の本堂を建立。(近年まであった本堂という)
明治6年無住のため廃寺。明治11年村衆・信徒一同などの本願・努力で再び再興される。

 □法印定ロ墓碑1  法印定ロ墓碑2(宝暦11年・・・と読める。)

以降、阪神淡路の震災で庫裏などに被害を受けるも、立派に再興され現在に法灯を伝える。

法道上人の開基であること、行基との関係が示唆されることなどが注目される。


○「摂津名所圖會」 より
 猪名寺の図(部分図)

摂津名所圖會・猪名寺:左図拡大図

記事:「・・法園寺といふ。古は伽藍巍々たり。今古礎あり。その中に方1間余の石あり。土人云ふ、大塔の礎なりとぞ」
「本尊薬師佛(行基の作)坐像。長2尺。初め法道上人大化年中に開基し、その後行基ここに止住して、諸堂壮麗たり、天正の荒木が兵火に罹りて灰燼となる。・・」とあり、心礎は 当時もその存在の認識があったと思われる。また法道上人開基寺院の一つとされる。

現状、附近は住宅が密集するも、寺院西側の道は旧道の雰囲気を残し、法園寺も猪名寺の法統を伝え、この図の雰囲気を色濃く残す。
図の本堂右奥のブッシュが猪名寺の主要伽藍跡と推定される。塔心礎は本堂裏手に放置される。
なお、手前の道を左(北)に道なりに数百米行けば、吐若寺に至る。

○「飛鳥時代古代寺院址の研究」 より

礎石は大正9年、薬師堂の裏(北)約5間のところから掘り出したという(関係した小林八左衛門氏談)。
金堂跡は48尺×60尺×4尺ほどの土壇を残す。心礎・出土瓦から創建は飛鳥期とされる。
 猪名寺廃寺実測図    猪名寺薬師堂(現在はもうこの姿はない)   猪名寺塔跡

○「攝陽群談」巻14、寺院部、元禄14年著 より:
法薗寺、同郡(川邊郡)猪名寺村にあり。山號佛法東漸山と稱す。孝徳天皇の御宇、大化年中法道仙人の開基、聖武天皇の御宇、天平年中、行基僧正中興、開祖となつて、自ら薬師佛を彫刻して、本堂に安置す。上古大伽藍地たりと云へども、後世荒木攝津守、爲兵火灰燼して、諸堂不能再興小地となれり。世に稱猪名寺者是也。

2016/08/21追加:
○「尼崎市猪名寺廃寺跡」尼崎市教育委員会、1984 より
 猪名寺跡塔跡実測図     塔跡石列実測図     猪名寺跡心礎実測図

猪名寺廃寺に関する過去の記事要旨

2000/10/09:
心礎のみを実見、金堂跡等は実見出来ず。(驟雨の上、現地は深いブッシュに蔽われる)
 □2000/10/09撮影:心 礎 画 像

2003/01/14記事訂正:
法園寺より事実誤認の指摘を受ける。
2000年当時、法園寺は阪神淡路大震災で被災、その被災からの復興途中であった。
そのため、事実と違った認識を拙ページに掲載する。
なお阪神淡路大震災で甚大な被害を受けた庫裏などは、史蹟故に復興には時間がかかったが、現在は立派に復興する。

2003/01/15追加(法園寺様ご提供情報):
昭和27年の発掘調査で、金堂、講堂、塔などの伽藍配置の概要が判明する、しかしながら、回廊の配置・延長が不明のため、寺院規模は確定はされず。    
塔心礎が現在の位置に移動されたのは、教育委員会資料では、大正時代初期としていると云う。
移動前は、塔跡とされる位置に放置されていたとされる。
また心礎は地下式ではなくて、地上形式であったとも云われる。
織田信長の焼き討ちの後、寺跡はそのまま放置され、遺構は雑木林と化し、そのため遺跡としての残状状況は良好と云う。


2006年以前作成:2016/08/21更新:ホームページ日本の塔婆