江別など札幌圏のカウンセリング

札幌|のっぽろカウンセリング研究室
トップページへ

トップページ >> 文献ガイド >> バフチンとヴィゴツキー

ヴィゴツキーの情動論


田澤安弘 北星学園大学社会福祉学部福祉心理学科

2014/1/13

これは草稿です。来年の北星論集に掲載するつもりです。ヴィゴツキーのユニークな情動論についてまとめてみました。


はじめに

 心理学全体を見渡すと、近年は情動の研究がますます盛んになりつつある。わが国では日本感情心理学会が1992年に創設されている。また、米国心理学会は、専門誌 “Emotion”を1991年に創刊している。いまや情動に関する論文や研究書は膨大であり、たとえば、Ekman, P., and Davidson, R.J. (1994)、Eich, E. et al. (2000)、Ciarrochi, J. et al. (2001)、Ellis, R.D., and Newton, N. (2005)、Barrett, L.F. et al. (2005)などがあげられる。それらに共通しているのは、後述するように極めてヴィゴツキー的であるが、情動を単独で研究するのではなくその他の精神機能との関連において研究していることであろう。
 臨床心理学ないし心理療法の世界でいち早く情動の重要性に気がついたのは、おそらくFerenczi, S., and Rank, O. (1924)である。彼らは、エディプス・コンプレックスの知的洞察ではなく、セラピストとクライエントのあいだの情動体験こそが重要であると述べ、精神分析の創始者であるフロイドに異議を申し立てている。それから、Alexander, F., and French, T.M. (1946)の「修正情動体験(corrective emotional experience)」なる概念も、よく知られているはずである。最近では、Greenberg, L.S. (2001)の「感情焦点化療法」が、情動にアプローチするもっとも洗練された技法であると考えられる。
 さて、ヴィゴツキーに関してである。庄井(2013)によると、1980年代後半から巻き起こったヴィゴツキー・ルネッサンスによってヴィゴツキー研究が世界的に広まったものの、その研究の多くは認知論を中心としていたようである。ところが、1990年代後半以降は、ヴィゴツキーの情動論への関心が高まっているのだという。では、日本においてはどうであろうか。残念ながら、ヴィゴツキーの情動論を正面から取り上げて論じた成書としては、筆者の知るかぎり上記の庄井(2013)や神谷(2010)を除いて、ほとんどまったく存在していないのが実情である。
 ヴィゴツキーの理論は、臨床心理学の世界には数えるほどしか導入されていない。筆者の知るかぎり、「心的体験」の概念を導入したVasilyuk, F. (1984)、ヴィゴツキー-ルリヤのスピーチによる行動制御の考え方を導入したMeichenbaum, D. (1977)の自己教示法(認知行動療法)くらいであろうか。日本においては、山崎(2005)と、Morioka, M.(2011)の著作が存在するだけである。
 本論は、ヴィゴツキーの著作を読みといて、その情動論について概説するものである。ヴィゴツキーの情動論は、保育や教育分野だけでなく、心理療法という対人援助実践にとっても有益な視点を含んでおり、それを臨床に導入する価値は十分あると考えられる。どのように応用するかは、もちろん臨床家一人ひとりのアイデアに委ねられることになるが、ヴィゴツキーが情動に関して一体どのようなことを論じていたのか、その概要を示すように努めるつもりである。
 筆者の専門は臨床心理学である。そのため、保育、教育学、障害学などとは異質な視点から彼の情動論を構成することになるであろうが、むしろそうすることによって臨床心理学以外の実践家にとって新鮮に映るのであれば、望外の喜びである。いずれにせよ、ヴィゴツキーの情動論は、当時としてはきわめて斬新なものであった。いまとなっては、むしろ常識的な理論と映るところもあるのかもしれないが、現代の臨床心理学に対して心強いアイデアを与え続けることに疑いはない。


情動とは何か


 ヴィゴツキーは、ジェームズ、ランゲ、キャノンなど当時の情動理論を取り入れて、みずからの情動論を未完ながらも構築しているのだが、特に、哲学者スピノザが『エチカ』で展開している情動論に強い影響を受けたようである。ヴィゴツキーは、低次の情動(粗大情動)と高次の情動(繊細情動)を区別して、主として前者を『教育心理学講義』(ヴィゴツキー, 2005)で、後者を『芸術心理学』(ヴィゴツキー, 2006b)で、総合的には『情動の理論』(ヴィゴツキー, 2006c)で論じている。臨床的に問題となることが多いのは、高次の情動よりも、むしろ原始反応を含む低次の情動であろう。
 一般的に言って「情動」は、怒り、恐れ、悲しみなど、身体的表出を伴う、一時的かつ急激な、比較的激しい心的作用のことである。それに対して「感情」は、情動と比較して身体的表出が少ないし、心的作用としてはあまり激しいものではなく、快-不快の感情的色彩を帯びている。ヴィゴツキーの各著作では両方の用語が使われているのだが、私の知るかぎり、上記のような意味で使い分けられているようには思われない。したがって、本論でも情動と感情を意味的に使い分けることはしないことにする。
 では、ヴィゴツキーによる情動の定義である。彼は情動に関して、「行動の危機的で悲惨な瞬間の反応として、不均衡となる限界点として、あらゆる瞬間にその後の行動形態を直接指示する行動の結果、結論として、理解する必要があります」(ヴィゴツキー, 2005)と述べ、次のような情動的行動の視点から説明している。
 ヴィゴツキー(2005)は、行動について、「生体と環境とのあいだの相互作用のプロセス」であるとし、そのプロセスにおいて交互に入れ替わる相互作用の形態を三つに分類している。すなわち①生体が環境に対して自己の優位性を感じている場合で、行動がいかなる内的停滞もなく経過していき、エネルギーと力の最少の消費量をもって、最適な順応が実現する。②優位性や優越性が環境の側にあると思われ、生体が苦労して、著しく緊張して環境に順応しようとするとき、終始、環境の著しい複雑さと生体の相対的に弱い防御力との不一致が感じられるときに生じる。③生体と環境との間にある種の均衡が生じる場合、優位性がどちらの側にもなく、どちらもその争いにおいて釣り合いを保っている。
 これらはすべて「情動的行動の発達の基礎」であり、「当の主体によって、環境と自己との相互関係が評価された結果」である。そして、①には「元気、満足感などの感情と結びついたあらゆる情動、いわゆる肯定的感情」が、②には「意気消沈、弱気、苦痛などの感情に関連した情動-否定的感情」が、③には「相対的に感情的偏りのない状態」が、それぞれ対応している。
 さらに②についてであるが、ヴィゴツキー(2002c)は別の個所で「自分の頼りなさ、無力感、微力感、落ち込みを自覚したとすると、否定的な情動である、憎悪、恐怖、非難が起こります」と述べ、情動的に彩られた先行する心的体験に反応して二次的に発生する情動についても言及している。
 また、ヴィゴツキー(2005)は、作為的に作り出される情動についても言及しており、興味深い。ジェース-ランゲの情動理論を引用しながら、何らかの情動の外的表現を引き起こすと情動自体も直ちに生じるとして、「さまざまなポーズや語調や身振りが、俳優たちに強い情動を引き起こすことは、当の俳優たちがよく知っています」と述べている。


人格における情動の地位


 ヴィゴツキーにおいて、思考、行動、情動は、人格内でそれぞれどのような地位にあるのだろうか。
すでに述べたように、情動と行動は、「情動的行動」という形態で統一的な全体をなしている。情動と思考も同じである。ヴィゴツキー(2006a)は「思考と情動は、統一的全体-人間の意識の部分である」とし、具体例として「悲哀の感情は、一定の仕方で自分の身体の支え方を変えさせるだけでなく、印象をも選ばせ、悲しい思いで、悲しい空想、悲しい夢に表現されます」と述べながら、「情動が常にある種の『精神的』あるいは心理学的表現をもつこと、いいかえれば、……形象・表象や『情動的思考』とも結びついていること」を明言している。
 さらに、思考と行動も同じような統一体として理解されており、「思考と実際的活動という二つの力動的機能の統一が存在する」(ヴィゴツキー, 2006a)と述べられている。思考(ことば)と行動の機能的関連については、次のように説明されている。

「……言葉によって創り出される第二の刺激システムのおかげで、子どもの行動は、直接的な誘発刺激からの相対的自由を獲得しつつ、より高次の段階に押し上げられ、衝動的な試行は計画され、組織化された行動へと改造されるのである。行動組織化の特別な機能を果たす補助的な刺激(この場合は言葉)とは、われわれが検討してきたシンボル記号以外の何ものでもない。この記号は、何よりもまず、子どもが周囲の人々との社会的接触の手段として役立つものであるが、自分自身に働きかける手段、自己刺激の手段としても利用され始め、こうして新しい、より高次な行動形態を生み出す」(ヴィゴツキー, 2002b)

 ヴィゴツキー(2001)にとっては、単一の精神機能を個別的に研究するのではなく、「機能間の関係や連関の問題」を解明するために、動的な意味体系としての単位をとりだすことが重要であった。それによって、「人間の欲求や意欲からかれの思考の一定の方向への運動とともに、思考の力学から個人の行動や具体的活動の力学への逆の運動をも明らかにする」ためである。
 このように、ヴィゴツキーにおいては、思考、行動、情動からなる機能的統一体が重視されたわけであるが、やはりもっとも重視していたのは情動であった。彼にとって、情動は「あれこれの反応を緊張させたり、興奮させたり、刺激したり、あるいは抑制したりする、私たちの反応の内的組織者」(ヴィゴツキー, 2005)として、あるいは「心的体験と行動を決定する動力的・動機的意欲」(ヴィゴツキー, 2006c)として捉えられていたのである。彼のように、思考や行動を組織化するオペレイターとしての情動を重視する最近の研究者としては、Damasio, A.R.(1999)や、Ciompi, L.(1997)などが存在している。情動の働きを重視した上で、思考、行動、情動を全体として捉えると、次のような関連が成り立っていると言えるであろう。

「欲望は、私たちの思考を制御しようとします。なぜなら思考は行動への進入路であり、侵入路を制御する者は、強さをも支配するからです。思考は、欲望と行動の間の連動装置であって、私たちの心理の奥深い基礎から発する内的欲動や衝動にしたがって行動の組織化を実現します」(ヴィゴツキー, 2005)

 最後に、思考(認知)、行動、情動の視点から、現存する代表的なセラピーについて考えてみよう。
Meichenbaum (1977)の認知行動療法(自己教示法ないしストレス免疫訓練)には、ヴィゴツキーのセルフトークによる行動制御の考え方が取り入れられている。ここでは、情動反応(たとえば怒り)を制御するために、情動的興奮に対するリラクゼーションや、セルフトークを含めた認知的活動の修正が行われる。つまり、行動を制御するために、媒介的な認知と情動の両面に働きかけるのである。
 その一方で、Beck, A.T. (1976)の認知療法や、Ellis, A. (1994)の理性感情行動療法は、認知システムを修正することによって感情に影響が及び、ひいては行動が変容するという認知モデルに基づいている。しかし、特に前者(Beck, A.T. et al., 2004)においては、いまは認知に働きかけて情動を制御するだけでなく、自己主張訓練や社会技能訓練なども取り入れて、スキルを練習することによる行動の変容も行っているようである。
 ヴィゴツキーの情動論がこれらの代表的なセラピーの考え方と異なるのは、各精神機能が不可分の統一体をなしていて、一方通行的な「一面的依存関係」ではなく、双方向的な「二重の依存関係」(ヴィゴツキー, 2006a)にあると考えられていることであろう。さらには、情動は思考や行動(身体的表現)から影響を受けるものの、思考と行動を動かすのは内的組織者としての情動であると考えられていることは、大きな違いである。このような意味で言うと、ヴィゴツキーの情動論は、現代の感情焦点化療法の情動理論(Greenberg, 2011)にきわめて類似していると言えるであろう。


発達の最近接領域における情動


 何かをコーチングしたりトレーニングする場合を除いて、セラピー場面をヴィゴツキー(2003)の「発達の最近接領域(ZPD)」の視点から捉えることには賛否両論があろう。というのは、セラピーは教育場面とは異質な側面があるからである。ヒューマニスティックな視点からは「成長の最近接領域」、精神疾患の視点からは「回復の最近接領域」などと言い換えることもできるのであろうが、用語としての限界を残しながらも、筆者としてはセラピーが発達の最近接領域を創出するものとしたい。
 実は、セラピー場面を発達の最近接領域として捉えようとする研究者は、すでに存在している。たとえば、Leiman, M., and Stiles, W.B. (2001)や、Georgaca, E. (2003)などである。彼らは、発達の最近接領域という概念を臨床的に使用するために修正を加えたり、ヴィゴツキーの「記号」および「心内化」や、Bakhtin, M.M. (1984)の「声」といった諸概念を取り入れて補ったりしている。
 では、ZPDにおける情動について考えてみたい。Mahn, H., and John-Steiner, V. (2002)は、早期母子関係におけるStern, D.N. (1985)の情動調律などを引用しながら、ZPDの概念は情動面において精緻化されていないと述べている。それに対してLevykh, M.G. (2008)は、ヴィゴツキーは『教育心理学講義』のなかで情動の教育について十分論じているので、われわれがZPDの概念を情動的に拡大する必要はないと反論している。
 筆者が見るかぎり、たしかに『教育心理学講義』では、情動を媒介にした「教科教育法」と情動そのものの教育つまり「情動の制御」について論じられている。しかし、情動的行動の自己制御機能が、ZPDにおける教授-学習活動のなかで、精神間から精神内へと心内化されるプロセスに関してはまったく言及されていない。
 もちろん、ヴィゴツキー(2002a)には乳幼児の情動状態に関する記述はある。ところが、子どもの情動状態を調節する働きかけについて、具体的に記述したものはほとんどないように思われる。一例として、まだ意志と感情の未分化な意志薄弱の振る舞い(欲求が満たされないことによる運動的発作)に対して、「意志薄弱的性格を帯びた鋭い手段-禁止、鋭い叫び声-で影響を与えることが可能です」(ヴィゴツキー, 2012a)と言及している個所はある。これは、繊細な情動調律というよりも、むしろ爆発的な情動に対するディエスカレーションと言ってもよいのかもしれない。
 ヴィゴツキーは、やはりZPDについて情動的側面からは論じていない。しかし、子どもにとって情動の調律が不可欠であることは、次の記述からも十分に読み取れるはずである。

「子どもは、誕生時と児童期の全期間を通じて環境との均衡がとれず、最大限に不適応な生き物です。だから子どもは大人の援助によって、絶えず人為的な均衡をはかることを必要としています。だから子どもは、きわめて情動的な生き物であり、笑ったり、泣いたりしなければならず、そのどちらでもない状態でいることはまれです。」(ヴィゴツキー, 2005)

 セラピーでは、Clが日常場面で生かせるように、怒りのコントロール法をコーチングすることもある。しかし、ZPDというセラピー場面で実際に繰り広げられる情動調律そのものについて、今後さらに研究していく必要があろう。


情動の発達と病理


 ヴィゴツキー(2006c)は、「人間の心理発達の真の対象を構成する諸連関の全複合体、諸関係の全システム、機能的構造の全体から、感情を排除すること」を批判し、情動の発達論を唱えている。情動は発達するのである。
 では、どのようにして情動は発達していくのであろうか。ヴィゴツキー(2002c)は、「子どもの思考が情動的な動機に寄与するようになるとき、子どもの情動過程と思考とのあいだに特有な関係が生じる」と述べている。つまり、内的言語活動の影響を受けない低次の情動状態に、言語的思考が介在していくことによって、情動は高次の形態へと変化するのである。言い換えると、情動の発達とは、「情動的メカニズムと知的メカニズムとの関係の構造的システム」(ヴィゴツキー, 2008b)が変化することであると考えられる。ヴィゴツキー(2006c)は、高次の情動への移行について、次のように説明している。

「分化した要因としての情動が登場するのは、状況が何らかの意味を持つこと……を確認できるような、こうした発達の尺度の点においてである。究極のところ脳の発達に規定された高次の水準では、原始的反応の変形された形態が存在しなければならない。身体的現れと心理的緊張はここでは、本来の意味で情動的であることがわかる。諸観念のあいだの関係が前面に登場しなければならず、この故に情動の性格は変更されねばならない」

 発達のあるところに教育は生まれる。教育とは、「生体の発達に意図的・組織的に長期にわたり作用を及ぼす働き」(2005)なのである。では、情動的行動や感情の教育は、どのような課題を担っているのであろうか。その課題のひとつについて、ヴィゴツキー(2005)は次のように述べている。

「情動を制御すること、すなわち、情動を行動の全体的ネットワークに組み入れることが切実な教育的課題です。そうすれば、情動が他のすべての反応と密接に結びつけられるになり、情動が、それらの反応の間にかく乱し、破壊するやり方で押し入ることはなくなるでしょう」

 さらに、環境に対する情動的な適応の視点からは、次のように述べられている。これは、怒りの激発に関する記述である。

「一定の条件のもとで形成された適応形態としての本能は、その条件に対してのみ有益であり得るのです。条件が変われば、それは環境とは合わなくなることがあります。そのときにはこの不調和を解消し、本能を環境条件とふたたび調和するように導くことが教育の課題となります」(ヴィゴツキー, 2005)

ここでは、情動を抑圧するのではなく、環境に適応させるべきであると訴えられている。つまり、感情の教育である。ヴィゴツキー(2005)にとって「感情の教育とは……生得的な情動反応の方向を変化させること」である。言い換えると、それは「情動の制御」である。しかし、彼は「情動教育の理想は、あたかも、情動の発達と強化にあるのではなく、逆に情動の抑制と緩和にあるかのようです」と述べ、「情動の完全なる無用性について語るような見解は、まったく信頼できません」と批判している。つまり、情動の制御とは、たんなる情動の抑制ではなく、情動そのものの発達を促進することを目指しているのである。
 杉原(2012)は、欧米のセラピーの価値観をそのまま日本に移入することに疑問を呈しながら、セラピーにおいてクライエントが怒りをどのように体験し、表出することが援助目標となるのかと問い、「アジア文化圏の価値観により根ざした」ものにする必要性を訴えている。ヴィゴツキー(2008b)も、文化的-歴史的精神発達の理論を唱えており、情動についても次のように考えている。すなわち「……その感情にこのような情動が生じる基礎にあるところの生物学的要素が残っていることは疑う余地もないが、感情は多様なイデオロギー的、心理的環境のなかで、本質的に変化するものである……」である。したがって、情動の発達を促進するアプローチとしては、日本文化に適合する情動の体験とその表出が目指されることになろう。
 ヴィゴツキーにとって、このような情動の発達論は、情動の病理学と補完的な関係があった。彼は「発達は病理学的過程、総合や高次の統合といったものが崩壊していく過程を理解する鍵であり、病理学はそれら高次の総合的機能の発達と構成の歴史を理解する鍵です」(ヴィゴツキー, 2004)と述べている。また、「発達過程で一番後に生じるものが、崩壊の過程では一番先に困難を来す」(ヴィゴツキー, 2006a)とも述べている。
 こうした方法論的姿勢から、ヴィゴツキーは、当時の精神科医や脳病理学者、たとえばクレッチマー、ゴールドシュタイン、ブロイラーなどを参照しながら、高次精神機能が崩壊した統合失調症、失語症、ヒステリーなどについて論じている。ヴィゴツキーにとっての高次精神機能の崩壊と、低次の情動との関連は、次のようなジャクソニズムを下書きとしたものである。

「情動の現れは、新しい仮説によれば、ジャクソンの観念に一致して組織される、低次の皮質下中枢の活動の所産である。ジャクソンの学説を発展させたヘッドの意見によれば、上述したすべての非随意的な情動の現れは、皮質的コントロールの弱化または根絶の結果、低次中枢が脱抑制されるという現象であると見なされねばならない」(ヴィゴツキー, 2006c)

 高次精神機能の発達不全が認められる障害児であれ、発達過程にある子どもであれ、それが崩壊した大人であれ、そこに現われる発生的により早期のメカニズムとしてヴィゴツキーが注目するのは、Kretschmer, E.(1950)のいう「原始的反応」である。これは、「発達不全の徴候」ないし「人格の初期的崩壊の徴候」であり、ヴィゴツキー(2006a)の理解では「心的体験による興奮が、発達した全一的人格による修正をまったく経ることなく、衝動的瞬間的行為やあるいは意欲減退といった精神的に深い機構のなかで、直接的反応的に現わされるもの」のことである。
 高次精神機能が崩壊していたり、発達不全である場合、「このような人々では、さほど強くない心的体験さえ原始的反応を引き起こす」(ヴィゴツキー, 2006a)ことになる。そのため、「爆発、激情、突発的行為、ヒステリー的放電」が起こるとされている。クレッチマーの原始的反応のなかでヴィゴツキーが注目しているのは、このような「爆発反応」だけではない。彼は、「短絡反応」つまり「感情的衝動が統一的人格を避けて直接に行為に移る短絡」の現象にも注目している。これは、感情の強い圧迫がなくても、瞬間的衝動に対する抵抗が不在のまま突発的な行為が生じることである。私見ではあるが、ときとして統合失調症者に認められる突発的な予測不能の暴力行為は、このような短絡の視点からよりよく理解されるであろう。
 こうした原始的反応は、「児童期」や、「精神的不均衡や過度に緊迫した感情的状況を伴う性的成熟期」においては「正常な現象」であり、「教養のある成人」においても生じ得るとされている。結論として言えるのは、「これらの反応が正常な人格発達においても、病的な人格発達においても、同じようにしばしば見られる」(ヴィゴツキー, 2006a)ということである。


情動の法則


 ヴィゴツキー(2006b)は『芸術心理学』のなかで、情動にかかわる法則をいくつか述べている。ここでは、「美的反応の法則」、「情動の二重表現の法則」、「情動の現実性の法則」を取り上げたい。
 まず「美的反応の法則」である。これは、芸術作品がわれわれの心理に呼び起こす美的反応の法則性について述べたものであり、次のように説明されている。

「寓話から悲劇にいたるまで美的反応の法則はひとつである。つまり、それは二つの対立した方向に発展する感情をうちに含み、その感情は最終点で電気がショートするようにして解消するということである。この過程を私たちはカタルシスという言葉で規定したいのである。」

 美的反応にとっての中心的事実はカタルシスであり、それは「感情の複雑な転化」、「苦しい不快な激情が一種の放電、解消、対立物への転化を蒙るということ」でもある。対立感情が引き起こす情動的矛盾が「美的反応の真の心理学的基礎」であり、その矛盾が一瞬にして解消されるわけであるが、その一瞬とは「カタストロフィー」つまり作品の大詰めのことである。

「こうした寓話の大詰め、またはポイントは寓話の終結点であって、そこで二つの面はひとつの行為、出来事、あるいは言葉のなかに統合される。その際、その対立が暴き出され、矛盾は極点に達し、それと同時に寓話の流れのなかで次第に増大してきた感情の二重性が解きほぐされる。二つの対立する電流の短絡のようなものが起こり、そこで矛盾そのものが爆発し、燃え上がり、分解する。私たちの反応にみられる情動的矛盾の解決は、このようにして行われる。」

 では、寓話において、具体的にはどのようにして対立感情の短絡が起こるのであろうか。一例として、ヴィゴツキーは次のように説明している。

「『キリギリスと蟻』の寓話でも同じであって、『こんどは、おどったら』という最後の言葉には、まるで浮かれているかのようなこのおはねさんとの短絡が示され、韻文そのものには、のんきで軽快な快活さと最終的な絶望が表現されている。すでに述べたように、たったひとつの言葉『おどったら』が、この場合同時に『死んでしまえ』と『はしゃいでろ』を意味するとき、私たちはここでかの大詰め、感情の短絡に直面するのである」

 ヴィゴツキーの言うカタルシスは、精神分析学で言ういわゆる除反応によるカタルシスとは異なっているようである。むしろ、対立する感情同士を同じ平面に乗せて、内的に葛藤することを迫っているかのようである。情動的矛盾の解消は簡単ではない。ヴィゴツキーが解消という言葉で表現したいのは、二つの対立した感情がカタストロフィーにおいて合流することによってひとつの体験として集約され、「意識と無意識とを引き裂いていた難しい矛盾を、感じ、体験する」ことではあるまいか。
 だが、感情をたんに誠実に体験するだけでは足りないと、ヴィゴツキーは明言している。彼は、「自分自身の感情を創造的に克服し、そのカタルシスを見出すこと」がさらに必要とし、「そのときはじめて芸術の作用が完全に現われる」(p.330)と述べている。つまり、カタルシスによって情動的矛盾を創造的に克服することが、美的反応の法則であると言っているのである。その創造的克服は、水をワインに変える奇蹟にたとえられている。

「芸術の奇蹟はむしろ、もうひとつの福音書の奇蹟、つまり水をワインに変える奇蹟に似ている。芸術の真の本性は常に平凡な感情を克服し、変える何かをもっている。同じ恐れ、同じ痛み、同じ興奮でも、芸術によって呼び起こされたそれらは、そこに含まれているもの以上の何かをもっている。この何かはこれらの感情を克服し、それらをはっきりさせ、水をワインに変える。……芸術の生活に対する関係は、ブドウ酒のブドウの実に対する関係に似ていると、ある思想家が語っていたが、彼がそのことによって芸術はその素材を生活からとりはするが、素材そのものの性質にはないような、その素材を超える何かを芸術は加えると指摘していることは、まったく正しい」

 対立感情ないし情動的矛盾に焦点を合わせるアプローチは、いまとなっては心理療法の世界ではありふれていると言えるのかもしれない。たとえば、古くはReich, W. (1949)の「性格分析」における生命的なものの表現言語、Stekel, W. (1929)の「サジェッション・セラピー」における思考のポリフォニー、Rank, O. (1936)の「意志療法」におけるカウンター・ウィル、Kaiser, H. (1965) の「防衛分析」における二重性へのアプローチ、比較的新しいところでは、O’Hanlon, B. (2003)の「インクルーシブ・セラピー」における「そして」を用いた矛盾の包括、Gendlin, E.T. (1996)の「フォーカシング」における体験のエッジを感じとること、Perls, F.S. (1969)の「ゲシュタルト療法」における勝ち犬と負け犬の葛藤、Ellis (1994)の「理性感情行動療法」におけるセルフ・ステートメント、Greenberg, L.S., and Watson J.C. (2006)の「感情焦点化療法」における意味の架け橋、Young, J.E. et al. (2003)の「スキーマ療法」におけるスキーマ・モード、などである。
次に「情動の二重表現の法則」である。ヴィゴツキー(2006b)は情動と空想とのあいだに存在するつながりについて言及するなかで、「情動の二重表現の法則」を次のように説明している。

「私たちのあらゆる情動はたんに肉体的表現をもつだけでなく精神的表現をももつ。……情動は、したがって、身体の表情やパントマイムや分泌的、肉体的反応に表現されるだけでなく、空想という手段による一定の表現を必要とする」

 情動が肉体的に表現されるだけでなく精神的にも表現されることが、この二重表現の法則の意味である。ヴィゴツキーは、ここで後者の精神的表現について説明しているのだが、彼が具体例としているのは「恐怖症の病理学的症状-強迫恐怖症」などの「対象なき情動」である。その独自の精神的表現とは、次のようなことである。

「強迫恐怖症にかかっている患者は、本質的に言って、感情が病んでおり、理由のない恐怖に襲われ、そこで空想が、みなが彼を追いかけ、後をつけていると彼に囁くのである。こうした患者には正常な人間の場合とはまさに正反対の事件の順次性がある。正常人では、はじめに迫害があり、次に恐怖となるが、患者でははじめに恐怖があり、次に虚構の迫害がある。この現象をゼンコフスキー教授は、感情の二重表現の法則と呼んで、見事に定式化した」

 ここでヴィゴツキーが言いたいのは、「感情と空想とは、互いにバラバラな二つの過程ではなく、本質的にはひとつの同じ過程だということ」であり、「あらゆる情動が想像の助けを借り、第二次表現ともいうべき空想的表象や形象に現われるという事実」(ヴィゴツキー, 2006b)である。さらに言えば、対象なき情動と呼ばれるような精神的表現が喚起される場合の心理システムにおいては、空想が情動的反応の中心的表現となっており、空想活動自体が「情動の論理の主観的な気まぐれ」(ヴィゴツキー, 2002c)に従ってしまうことも重要である。ここでは、現実的思考が「まるで激情の下僕のようになり、情動的な動機や関心に対しまるで従属的となる」(ヴィゴツキー, 2002c)ことによって、現実認識が歪曲されてしまうのである。
 最後に「情動の現実性の法則」である。これは、別の個所(ヴィゴツキー, 2002c)では「空想活動における現実感覚の法則」とも呼ばれている。ヴィゴツキー(2006b)は、感情や空想の源泉であり、子供の遊びや美的幻想の基礎にある仮想について述べるなかで、情動の現実性の法則について説明している。

「この法則の意味は、ほぼ次のように規定することができるだろう。仮に私が夜中に部屋で見た外套を人と思うときには、私の思い違いはまったく明らかである。なぜなら、その体験は間違いであり、それにはなんの現実的内容もともなわないからである。だが、そのとき私が経験する恐怖の感情は完全に現実性のあるものである。このようにして、すべての空想的・非現実的体験は、本質的には、まったく現実的な情動的基盤のうえで進行する」

 また、『教育心理学講義』(ヴィゴツキー, 2005)のなかでは、空想的な文学作品やおとぎ話の意義を述べる際に、「虚構の情動的現実性の法則」について「この法則というのは、私たちに作用を及ぼす現実がリアル(現実的)であるか非現実的であるかには関係なく、その作用と結びついた私たちの情動は常に現実的であるということです」と述べている。この法則は、われわれが臨床で行っているイメージ療法を含めた芸術療法やドラマ的アプローチなどの意義を、そのまま代弁してくれるものであろう。つまり、現実ではない虚構であったとしても、それによってクライエントに喚起される情動はリアルだということである。


情動変容の原理


 教師であれ、心理臨床家であれ、われわれがそれぞれの現場で行っているのは、子どもやクライエントの情動生活が原始的形態から複雑な形態へと移行するのを、あるいは低次の情動が高次の情動によって止揚されるのを援助することであろう。思考と情動の関連で言えば、「思考は、情欲の奴隷、その召使になることもできるし、その主人になることもできる」(ヴィゴツキー, 2006a)わけであるから、「思考を自己の下僕とする感情から思考を自己の主人とする感情」(神谷, 2010)への移行を果たすことが、援助目標ということになるはずである。
 では、どのようにすれば情動は変化するのであろうか。ヴィゴツキー(2006a)は次のように述べている。

「事物それ自体は、私たちがそれについて考えることによって変化することはない。しかし、情動やそれと結びついた機能は、それらが意識されることによって変化する。それらは、意識全体に対し、他の情動に対し別の関係をもつようになり、したがって、全体とかその統一に対するそれらの関係は変化する。」

 これは、情動の変化について、主として意識との関連において述べたものである。つまり、情動に対する意識の調整的役割ないし情動の意識性である。ヴィゴツキー(1987)にとって意識とは「反射の反射(reflex of reflexes)」ないし「心的諸体験の体験(experience of experiences)」を意味し、情動が意識されるとは、情動の身体的表現を刺激としてそれに対する評価反応が生じることである。情動が意識されるとき、そこには意識の二重性を伴う「重複された経験(doubled experience)」として描写されるような事態が生起しているのである。その他にも、次のような類似する説明がある。

「スピノザが正しく述べたように、私たちの感情の認識は感情を変化させ、感情を受動的状態から能動的状態へと転化させる。……私が感情について考え、感情を私の知性と他の領域とに対する他の関係のなかに位置づけるならば、そのことは私の心理生活のなかの多くのものを変化させる」(ヴィゴツキー, 2008b)

 低次の情動から高次の情動へ、情動の受動性から能動性へと転化させるのは、情動を意識すること、思考すること、認識することである。言い換えると、それは「自分自身に向けられた思考」としての「内的反省」による「自己形成」(ヴィゴツキー, 2004)である。高次の情動が発現するためには「状況が何らかの意味を持つこと」(ヴィゴツキー, 2006c)が不可欠であり、意味の発生こそがその転換点となる。さらに、ヴィゴツキー(2004)は「人格の構築と崩壊の中心には概念形成の機能が位置しています」あるいは「子どもは、言葉の助けを借りて初めてものを認識し、概念の助けを借りることによってのみ事象の現実的、理性的認識にいたる」と述べており、思考ないし認識における概念こそが、高次と低次の展開点を分かつものと見なされているのである。たとえば、「概念発達の水準は、情動の動態や実際的行為の動態が思考の動態に転化する水準である」(ヴィゴツキー, 2006a)とは、その意味で理解されるはずである。
 ヴィゴツキー(2004)は、「概念は、実際に子どもを体験の段階から認識の段階へと連れ出します」と述べている。つまり、低次の情動は「体験の段階」にあり、高次の情動は「認識の段階」にあると考えられているのである。言い換えると、前者は「人格の非反省的で素朴な構造」によって生きられるだけであり、後者は「人格の反省的構造」によって情動体験として認識されるのである。これは、「即自的人間」としての子どもから、対自的な「自由で理性的な存在」へという、理想的な発達のストーリーが描かれたものであろう。端的に言って、これは情動に隷属する人間が、それを認識することによって理性的な人間となるストーリーである。
 しかしながら、理性的な人間となることが情動発達のゴールであるようには思われない。というのは、ヴィゴツキー(2008a)は「人格のダイナミズムはドラマである」と述べており、理性的な人間であっても葛藤のなかを揺れ動くことが論じられているのである。
 ここで言うドラマとは、思考を自己の下僕とする情動というヒエラルヒーによって構造化されたシステムと、思考を自己の主人とする情動というヒエラルヒーによって構造化されたシステムが、衝突することである。理性的な人間でありつつも、内的葛藤を生きているのが、われわれの現実的な姿なのである。
 いま一度、情動、思考、行動について、別の視点から考えてみよう。次の文章は、ヴィゴツキー(2006a)が、情動的行動が媒介過程によって制御される一連の過程について述べたものである。この理論は、すでに述べたマイケンバウムによって認知行動療法に取り入れられており、その意味でも重要である。

「この行為の動態の思考の動態への移行ならびに思考の動態の行為の動態への移行は、実験が示しているように、情動的動態の三つの基本問題に対応する三つの基本的局面をもっている。(1)心理的場の動態、状況の動態の思考の動態への転化、(2)意味づけられた場における思考そのものの力動的過程の発達と展開、(3)思考の動態の下降、行為の動態への逆の転化。思考のプリズムによって屈折された行為は、すでに別の行為へ、意味づけられ自覚された、したがって随意的な自由な行為へ、すなわち状況に直接に制約された、あれこれの動態の転化を経ていない行為と比べ、状況に対し原則的に異なる関係にある行為へ転化している」

 では解説しよう。まず(1)の段階である。この心理的場が、具体的状況に直接に束縛され、状況と結びついた情動的動機に支配された状態であると仮定しよう。このような情動的動態において、行動が何らかの障害にぶつかったとする。人間は、このような状況で立ち止まり、考え始めるはずである。というのは、「思考はつねに困難から生じる」(ヴィゴツキー, 2005)。からである。ここで、行為の動態ないし情動の動態は思考の動態へと転化することになる。
 次に(2)の段階である。人間は、現実的状況のなかで思考し始める。行き詰まることによる固さや不活発さが特徴であった現実的動態とは異なり、思考の動態においては、「個々の情動的動機のあいだに確立され得る結びつきにおける大きな易動性と自由が存在する」(ヴィゴツキー, 2005)。そのため、現実的状況の事物と結びついた情動が思考のなかでは弱められ、行為の緩慢な束縛された動態から、思考の流動的動態への移行が果たされることになる。ここで、実際的活動の過程に言葉が導入されることによって行動の媒介過程が発生し、直接的場面における具体的操作から言葉に媒介された思考過程へと移行する。
 次に(3)の段階である。ここでは、これまでの過程と逆の運動が展開する。つまり、流動的で自由な思考の動態から、実際的行為の固い力動的体系への転化である。ここに至って、人間は言葉を媒介として行動を制御し、それを一定のプランに従わせることもできるようになる。媒介過程の発生によって直接的状況の束縛から自由になり、自覚的かつ随意的な行為を営むことが可能となる。
 ひとつ疑問が浮かぶ。理論的に言えば、この(3)の段階で「低次から高次への情動形成物の移行」(障害児)が実現されているはずである。では、高次の情動形成物とは何なのであろうか。それは「感情になった観念、情念に転化した概念」(ヴィゴツキー, 2012b)である。これは、すでに述べた「思考を自己の主人とする感情」を、子どもの遊び論の視点(感情となったルール)から言い変えたものであろう。
 最後に、ヴィゴツキーが述べているその他の情動変容の工夫について触れておく。まず、情動の身体表現を抑えることによって情動を静穏化する方法である(ヴィゴツキー, 2005)。たとえば、恐怖を覚えたときに身体の震えを抑え、心臓が規則的に鼓動するようにさせて、顔に平静な表情を作ると、恐怖感自体が消失する。腹が立ったときには、掌を大きく開いて、指先を極度に広げると、怒りは無力化する。これは、行動療法的なアプローチとして理解されるであろう。
もうひとつ、これは絵を描く仕事に対する完全な飽和と否定的な情動的動機の徴候が子どもにあらわになったときに、どのようにして作業を継続させるかという実験を行ったものである。ヴィゴツキー(2006a)は次のように述べている。

「仕事を投げ出し、手が疲れたとこぼし、それ以上絵を描くことのできなくなった子どもにその活動を継続させるには、他の子どもにその活動の仕方を教えるために、もう少し続けてほしいと頼むだけでよかった。子どもは実験者の立場に立ち、教師あるいはインストラクターの役割を演じるようになり、彼にとって状況の意味は変わった」

 状況そのものには何ら変更が加えられていない。ただ、状況の意味が変わっただけである。すでにあるアプローチとしては、Bandler, R., and Grinder, J. (1982)の「リフレーミング」の技法がこれに該当するように思われる。


情動に焦点化されたアプローチ


 ヴィゴツキー(2006c)は、マラノンの実験を引用しながら、情動反応における心理的成分と身体的成分の絡み合いについて論じている。マラノンの実験が示したのは、強力な情動に典型的なあらゆる身体的現象を発生させるのに十分な量のアドレナリンを投与しても、あらゆる身体的現れがあるにもかかわらず、被験者には本来の意味での情動体験を呼び起こせないことであった。

「マラノンの実験では、実験者の視野のなかには二つの視点-客観的視点と主観的視点があった。この研究者は被験者の意識のなかで発生する変化と情動の身体的現れとを同時に確認し、それらの相互の関係を研究することができた。被験者の心的体験は、動悸、脈拍の乱れ、胸のしめつけ、喉頭の狭窄、震え、寒気、喉の渇き、いらいら、不快、痛みといった感覚にあった。これらの感覚と連合して、ある場合には、被験者によって冷やかに評価され現実的情動を失ったような、あいまいな感情状態が発生した。被験者の示したことは、次のような性格を帯びるものであった。―『まるで自分がびっくりしたように感じる』、『まるで自分が大きな喜びを待ち受けているみたいであり、感動したみたいだ』、『訳も分からないのに、まるで自分が涙を流そうとしているみたいだ』、『大きな恐怖を体験しているようだが、それでも落ち着いていた』等々」

 極めて興味深い実験結果である。内省報告を求められた被験者は、「植物性情動の末梢神経的現象の知覚」ないし「植物性症候群の感覚」については明瞭に捉えることができたものの、そこにはあいまいな感情状態が発生しただけであり、「本来の心理的情動」が欠如している。ただし、「涙や号泣や溜息を伴う憂鬱」などの真の情動が発生した被験者も存在している。それは、甲状腺機能亢進症などの情動的素地がある場合と、実生活における悲しい出来事など(病気の子どもとか死んだ両親とか)について話し合った後にアドレナリンが投与された場合である。ここから言えるのは、「あらかじめ然るべき情動的気分が存在する場合にだけ、アドレナリンは補助的に情動発生効果を表す」ということである。
 ヴィゴツキー(2006c)は、こうしたマラノンの実験結果から、情動に焦点化されたアプローチにとって極めて有益な結論を導いている。

「この両者は相対的に独立していて、それらを別々に呼び起こすことが可能であるばかりか、身体的現れの側面とともに心的体験の側面からも、疑いもなく本物の完全な感情を呼び起こすことで、一方は他方の発達と強化を容易にし、相互に支え合い、絡み合うことを可能にするのである。マラノンの実験で十分に本当の感情が観察される事例では、異なるやり方で呼び起こされた心理的成分と身体的成分は、両者が交差する地点で、両者が出会う瞬間に、真の情動的興奮に火がつくように、相互に応え合うかのようである」

 情動体験に帰結するであろう身体的現れは、ただそれだけでは情動としてではなく、感覚としてのみ体験される場合がある。真の情動の発達、つまり情動に彩られた心的体験へと展開するには、たとえば悲しい出来事の語りなどによってあらかじめ準備された「情動的気分」ないし「情動的敏感化」というコンテクストがあり、そこで情動の成分である心的体験と身体反応が交差する必要がある。
 ここでヴィゴツキーの情動論は、心的体験の理論と絡み合うことになる。上記の情動的気分というコンテクストは、アドレナリンを投与される直前の被験者のナラティヴ(病気の子どもや死んだ両親)のことでもある。このナラティヴこそが、被験者の心的体験が言葉へと拓かれたものなのであり、それをコンテクストとして心理的成分と身体的成分が交差することによって、真の情動体験が発生するのである。
 ジェームズとランゲに対する批判であるが、情動の生理的・身体的現れと、情動体験のあいだの因果的連関の可能性は、「きわめて高価な代償-情動と人間の他の心理生活とのあらゆる有意味な連関を完全に放棄するという代償-を払って獲得されている」とヴィゴツキー(2006c)は述べている。つまり、実験室的な条件下における情動反応ではなく、人間の心理生活との有意味な連関のうちにある、情動に彩られた心的体験が重要であると訴えているのである。ヴィゴツキー(2006c)は、ランゲを引用しながら次のように述べている。

「母親の怒りの爆発と憤慨は、自分の悲しみに満ちた心的体験のまったく疑いえないきわめて明瞭な意識から、直接的に生じている。はたしてこの悲しみの直接的な心的体験は、ことごとく完全に虚偽であると認められねばならないのであろうか。この場合に子どもの死に涙を流す母親はなぜ、『筋の疲労や不活発と血の通わない皮膚の冷たさ』ではなく、悲しみを感じるのであろうか。……悲しみの心的体験は生きた有意味な事実である。……心理的原因から発生する情動は、ランゲによれば、身体的作用によって呼び起こされる真の情動と本質的には違わない。したがって、母親に激怒と激発の現実的情動を呼び起こすことのできる悲しみの心的体験は、まったく真正の、はなはだ現実的で、反論の余地なき心理学的生活の事実なのである」

 私の言う情動に焦点化されたアプローチとは、情動に彩られた心的体験を言葉へと拓くことである。つまり、ひとつの心的体験における、情動の身体的現れの感覚と情動体験との結合を、何らかの象徴を介して意識へともたらすことである。ヴィゴツキーは、「より高次の段階においてはじめて、知覚と表象の活動は、より自立的で可変的な相互関係のなかで内容や感情として現われ、さらに心的体験において実際に分化したものと見なされうるのである」(2006c)と述べている。このようにして情動に彩られた直接的な心的体験が言葉へと拓かれると同時に、記号を媒介として意味的に分化した心的体験が十全に感じ取られるようになり、ひいては低次の情動が高次の情動へと転換するのである。
 情動に焦点化されたアプローチでは、内省することによって情動体験を振り返ってみることが行われるわけであるが、自分自身の心的体験の知覚に向けられるこのような自己観察の活動には、やはり限界のあることを理解しておく必要がある。ヴィゴツキー(2005)は、次のように述べている。

「観察作用のもとで、感覚そのものあるいは他の観察現象が消えうせてしまったり、もっとも重要で取り上げるべき緊迫した直接的体験を見落としてしまうこともあるのです。『自分の恐怖を観察することは耐えられないことではないし、自分の怒りを観察することは、その怒りを収めようとする能力を意味する。しかし、強い恐怖や怒りが私たちをおそうときには、自分を観察している余裕はなくなる』と、ブロンスキーは語っています」

 ここから教訓を引き出せば、以下のようになるであろうか。セラピー場面で情動が喚起されたとき、早急に内省へと移行すべきではない。何故なら、観察によって情動そのものが消えうせてしまうからである。大切なのは、まず情動に浸って感じとり、それを身体的に体験することである。また、重要なのは情動そのものではない。情動に彩られた心的体験の、クライエントにとっての意味こそ重要なのである。もうひとつ、制御不能の激しい情動に飲み込まれたときに必要なのは、内省ではない(それ自体が困難であろう)。そのような場合には、情動のディエスカレーションを行い、まずは静穏化を試みる必要がある。
 最後に、ヴィゴツキー(2006c)は、人間の生きた情動にアプローチするために必要な、極めて臨床的な姿勢について述べている。ここで言う新しい心理学とは、まるでわれわれが生きている臨床心理学の世界のことのようである。

「科学的な認識と説明という誇り高き願望を放棄し、涙を流す母親と直接的に融合し、彼女の心的状態に完全に身を置き、彼女の体験する嘆きに感じ入り、傍らを通りかかった人間のこの単純な共感を新しい心理学-それは結局、心理生活の私たちの認識を精神科学に転化させることができる―であると宣言することの他には、可能性は残されていないのである」


おわりに


 われわれ心理臨床家にとって、情動は重要な問題である。なぜならば、古くからセラピーの効果は、クライエントのたんなる知的洞察ではなく情動的洞察に依存していると見なされてきたからである。本論では、ヴィゴツキーの情動論の視点からこれら二種の洞察について再解釈を試みていないのだが、たとえば情動的思考あるいは情動的行動という機能的統一体の枠組みを用いると、さまざまな解釈が可能となるはずである。
 ヴィゴツキーの情動論において、低次の受動的な情動から高次の能動的な情動への転換は、情動の意識的かつ随意的なコントロールが強調されているようにも受け取れる。この側面を強調すれば、現代的な認知行動療法の情動へのアプローチに類似することになる。だが、この考え方を強調すれば、ヴィゴツキーが戒めた情動の抑制や鎮圧から遠くないであろう。
 ヴィゴツキーの情動論は、別の読み方も可能である。彼は系統的に叙述しているわけではないが、情動的であること、情動を感じること(体験すること)の大切さも訴えているように思われる。
 高次の情動とは、無媒介的であった低次の情動が、自覚的な内省構造のなかに変化した上で立ち現われるということである。では、高次の情動に転換する場合、低次の情動にみられる情動の前内省的な身体的覚知は失われるのであろうか。いや、感じることとしての身体的覚知は失われないであろう。われわれは情動を感じとりそれに揺り動かされながらも、そこには、記号の媒介によって情動から距離化され自己が確保されるような、絶妙な中間地帯が創出されるのである。クライエントは、暗在的な心的体験を語りによって明示的に構成するプロセスで、みずから情動を受け入れその中に内省的に回帰する。悲しみの心的体験を涙ながらに語るとき、クライエントは記号に媒介されながら、このような情動の中間地帯を揺れ動いているのである。
 以上、ヴィゴツキーの情動論について解説した。次の課題は、情動に彩られた心的体験に焦点を合わせた、心理療法論を構築することである。


文 献

[ヴィゴツキーの引用文献]

 ヴィゴツキー・L・S 柴田義松 森岡修一 藤本卓 訳 (1987) 行動の心理学の問題としての意識. (In) ヴィゴツキー・L・S (1987) 心理学の危機. 61-92, 明治図書出版. Rieber, R.W., and  Wollock, J. eds. (1997) The Collected Works of L.S.Vygotsky: Volume 3 Problems of the  Theory and History of Psychology. 63-80, Prenum Press.

 ヴィゴツキー・L・S 柴田義松 訳 (2001) 思考と言語. 新読書社. Rieber, R.W., and Carton, A. eds. (1987) The Collected Works of L.S.Vygotsky: Volume 1 Problems of General Psychology. 37-285, Prenum Press.

 ヴィゴツキー・L・S 柴田義松 訳 (2002a) 児童心理学の諸問題. (In) ヴィゴツキー・L・S (2002) 新児童心理学講義. 11-166, 新読書社. Rieber, R.W. eds. (1998) The Collected Works of L.S.Vygotsky: Volume 5 Child Psychology. 185-296, Prenum Press.

ヴィゴツキー・L・S 柴田義松 訳 (2002b) 子どもによる道具と記号操作の発達. (In) ヴィゴツキー・L・S (2002)新児童心理学講義. 167-246. 新読書社. Rieber, R.W. eds. (1999) The Collected Works of L.S.Vygotsky: Volume 6 Scientific Legacy. 3-68. Prenum Press.

ヴィゴツキー・L・S 菅田洋一郎 広瀬信雄訳(2002c) 子どもの心はつくられる―ヴィゴツキーの心理学講義. 新読書社. Reiber, R.W., and Carton, A.S. eds. (1987) The Collected Works of L.S.Vygotsky: Volume 1 Problems of General Psychology. 289-358. Prenum Press.

ヴィゴツキー・L・S 広瀬信雄訳(2002d)子どもの想像力と創造. 新読書社.

ヴィゴツキー・L・S 土井捷三 神谷栄司訳(2003) 「発達の最近接領域」の理論: 教授・学習過程における子どもの発達. 三学出版.

ヴィゴツキー・L・S 柴田義松 森岡修一 中村和夫 訳 (2004) 思春期の心理学. 新読書社. Rieber, R.W. eds. (1998) The Collected Works of L.S.Vygotsky: Volume 5 Child Psychology. 1-184, Prenum Press.

ヴィゴツキー・L・S 柴田義松 宮坂琇子訳 (2005) 教育心理学講義. 新読書社. Vygotsky, L.S. (1997) Educational Psychology. St. Lucie Press.

ヴィゴツキー・L・S 柴田義松 宮坂琇子訳 (2006a) 障害児発達・教育論集. 新読書社. Reiber, R.W., and Carton, A.S. eds. (1993) The Collected Works of L.S.Vygotsky: Volume 2 The Fundamentals of Defectology. Prenum Press.

ヴィゴツキー・L・S 柴田義松訳 (2006b) 芸術心理学. 学文社.  Vygotsky, L.S. (1971) The Psychology of Art. The M.I.T. Press.

ヴィゴツキー・L・S 神谷栄司 土井捷三 伊藤美和子 竹内伸宣 西本有逸 訳(2006c) 情動の理論-心身をめぐるデカルト、スピノザとの対話. 三学出版. Rieber, R.W. eds. (1999) The Collected Works of L.S.Vygotsky: Volume 6 Scientific Legacy. 71-235. Prenum Press.

ヴィゴツキー・L・S 竹岡志郎 伊藤美和子 土井捷三 訳 (2007) 児童学における環境の問題. ヴィゴツキー学(8), 51-61. Van der Veel, R., and Valsiner, J. eds. (1994) The Vygotsky Reader. 338-354, Blackwell.

ヴィゴツキー・L・S 柴田義松 宮坂琇子 訳 (2008a) 人間の具体的心理学. (In) ヴィゴツキー・L・S (2008) 心理学論集. 238-257, 学文社.  Vygotsky, L.S. (1989) Concrete Human Psychology. Journal of Russian and East European Psychology Issue: Volume 27, Number 2, 53-77.

ヴィゴツキー・L・S 柴田義松 宮坂琇子 訳 (2008b) 心理システムについて. (In) ヴィゴツキー・L・S (2008)心理学論集. 9-37, 学文社. Rieber, R.W., and Wollock, J. eds. (1997) The Collected Works of L.S.Vygotsky: Volume 3 Problems of the Theory and History of Psychology. 91-108, Prenum Press.

ヴィゴツキー・L・S 土井捷三 神谷栄司訳 (2012a)「人格発達」の理論: 子どもの具体心理学. 三学出版.  Rieber, R.W. eds. (1998) The Collected Works of L.S.Vygotsky: Volume 5 Child Psychology. 185-296, Prenum Press.

ヴィゴツキー・L・S 土井捷三 神谷栄司訳 (2012b) 子どもの心理発達における遊びとその役割. (In) ヴィゴツキー・L・S (2012)「人格発達」の理論: 子どもの具体心理学. 138-170, 三学出版. Cole, M., John-Steiner, V., Scribner, S., and Souberman, E. eds. (1978) Mind in Society. 92-104, Harvard University Press.


[その他の文献]

Alexander, F., and French, T.M. (1946) Psychoanalytic Therapy: Principles and Application. Ronald Press Company.

Bakhtin, M.M. (1984) Problems of Dostoevsky’s Poetics. Manchester University Press. (望月哲男 鈴木淳一訳(1995)ドストエフスキーの詩学. ちくま学芸文庫)

Bandler, R., and Grinder, J. (1982) Reframing: Neuro-Linguistic Programming and the Transformation of Meaning. (吉本武史 越川弘吉訳(1982)リフレーミング: 心理的枠組の変換をもたらすもの. 星和書店.)

Barrett, L.F., Niedenthal, P.M., and Winkielman, P. (2005) Emotion and Consciousness. Guilford.

Beck, A.T. (1976) Cognitive Therapy and the Emotional Disorder. International University Press. (大野裕訳(1990)認知療法: 精神療法の新しい発見. 岩崎学術出版)

Beck, A.T., Freeman, A., Davis, D.D. (2004) Cognitive Therapy of Personality Disorders. Guilford. (井上和臣 竹友正人 訳(2011)パーソナリティ障害の認知療法. 岩崎学術出版.)

Chiompi, L. () Die emotionalen des Denkens: Entwurf einer fraktalen Affektlogik. Vandenhoeck & Reprecht. (山岸洋 野間俊一 菅原圭悟 松本雅彦 訳(2005)基盤としての情動: フラクタル感情論理の構造. 学樹書院)

Ciarrochi, J., Forgas, J.P., and Mayer, J.D. eds (2001) Emotional Intelligence in Everyday Life. Taylor and Francis. (中里浩明 島井哲志 大竹恵子 池見陽 訳(2005)エモーショナル・インテリジェンス: 日常生活における情動的知能の科学的研究. ナカニシヤ出版)

Damasio, A.R.(1999) The Feeling of What Happens: Body and Emotion in the Making of Consciousness. Harcourt Brace. (田中光彦訳(2003)無意識の脳・自己意識の脳: 身体と情動と感情の神秘. 講談社.)

Eich E., Kihlstrom, J.F., Bower, G.H., Forgas, J.P., and Niedenthal, P.M. eds (2000) Cognition and Emotion. Oxford University Press.

Ekman, P., and Davidson, R.J. eds (1994) The Nature of Emotion: Fundamental Questions. Oxford University Press.

Ellis, A. (1994) Reason and Emotion in Psychotherapy. Institute for Rational-Emotive Therapy. (野口京子訳(1999)理性感情行動療法. 金子書房)

Ellis, R.D., and Newton, N. (2005) Consciousness and Emotion: Agency, conscious choice, and selective perception. John Benjamins Publishing Company.

Ferenczi, S., and Rank, O. (1924) The Development of Psycho-Analysis. Dover.

Gendlin, E.T. (1996) Focusing-Oriented Psychotherapy: A Manual of the Experiential Method. Guiford Press. (村瀬孝雄 池見陽 日笠摩子訳(1998, 1999)フォーカシング指向心理療法 (上, 下). 金剛出版.)

Georgaca, E. (2003) Exploring signs and voices in the therapeutic space. Theory & Psychology, 13(4), 541-560.

Greenberg, L.S. (2001) Emotion-Focused Therapy: Coaching Clients to Work Through Their Feelings. American Psychological Association.

Greenberg, L.S., and Watson J.C. (2006) Emotion-Focused Therapy for Depression. American Psychological Association.

Greenberg, L.S. (2011) Emotion-Focused Therapy. American Psychological Association. (岩壁茂 伊藤正哉 細越寛樹 訳(2013)エモーション・フォーカスト・セラピー入門. 金剛出版.)

Kaiser, H. (1965) Effective Psychotherapy: The Contribution of Hellmuth Kaiser. The Free Press.

神谷栄司(2010)未完のヴィゴツキー理論: 甦る心理学のスピノザ. 三学出版.

Kretschmer, E.(1950) Medizinische Psychologie. Georg Thieme Verlag. (西丸四方 高橋義夫訳(1955)医学的心理学Ⅰ・Ⅱ. みすず書房.)

Leiman, M., and Stiles, W.B. (2001) Dialogical sequence analysis and the zone of proximal development as conceptual enhancements to the assimilation model: the case of Jan revisited. Psychotherapy Research, 11(3), 311-330.

Levykh, M.G. (2008) The affective establishment and maintenance of Vygotsky’s zone of proximal development. Educational Theory, 58(1), 83-101.

Mahn, H., and John-Steiner, V. (2002) Chapter 4. The Gift of Confidence: A Vygotskian View of Emotions. (In) Well, G., and Claxton, G. eds (2002) Learning for Life in the 21st Century: Sociocultural Perspectives on the Future of Education. Blackwell Publishing

Meichenbaum, D. (1977) Cognitive Behavior Modification: An Integrative Approach. Plenum Press. (根建金男訳(1992)認知行動療法: 心理療法の新しい展開. 同朋舎出版.)

Morioka, M. (2011) The Cosmology of Inner Speech: Jung and Vygotsky. (In) Jones, R.A., and Morioka, M. eds. (2011) Jungian and Dialogical Self Perspectives. 205-119, Macmilan.

O’Hanlon, B. (2003) A Guide to Inclusive Therapy. O’Hanlon and O’Hanlon, Inc. (宮田敬一訳(2007)インクルーシブ・セラピー: 敬意に満ちた態度でクライエントの抵抗を解消する26の方法. 二瓶社.)

Perls, F.S. (1969) Gestalt Therapy Verbatim. Real People Press. (倉戸ヨシヤ訳(2009)ゲシュタルト療法バーベイティム. ナカニシヤ出版.)

Reich, W. (1949) Character-Analysis (Third, enlarged Edition). Orgon Institute Press.

Rank, O. (1936) Will Therapy. Alfred A. Knopf.

Stekel, W. (1929) Sadism and Masochism: The Psychology of Hatred and Cruelty. Liveright.

Stern, D.N. (1985) The Interpersonal World of the Infant: A View from Psychoanalysis and Developmental Psychology. Basic Books. (小此木啓吾 丸田俊彦訳(1989)乳児の対人世界.岩崎学術出版.)

杉原保史(2012)「怒り」の感情に関わる心理援助における価値判断をめぐる一考察: アジア圏の文化的価値にねざしたアサーション・トレーニングの模索に向けて. 京都大学カウンセリングセンター紀要, 41, 1-13.

庄井良信(2013)ヴィゴツキーの情動理論の教育学的展開に関する研究. 風間書房.

Vasilyuk, F. (1984) The Psychology of Experiencing: The Resolution of Life’s Critical Situations. New York University Press.

山崎史郎(2005)児童青年期カウンセリング: ヴィゴツキー発達理論の視点から. ミネルヴァ書房.

Young, J.E., Klosko, J.S., and Weishaar, M.E. (2003) Schema Therapy: A Practitioner’s Guide. Guilford. (伊藤絵美訳(2008)スキーマ療法: パーソナリティの問題に対する統合的認知行動療法アプローチ. 金剛出版.)





関連記事




札幌・江別など札幌圏の対人援助