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お 知 ら せ

 

東京告白教会は、現在、無牧です。20203月に逝去された渡辺信夫前牧師の説教を中心にホームページを公開しております。

ホームページのアドレスが新しくなりましたので、以下にアクセスしてください。

http://www7b.biglobe.ne.jp/~tokyokokuhakukyoukai/

 


日本キリスト教会東京告白教会主催平和講演会

 

「普天間の生の声を聞き

沖縄差別について考える」

 

2010813() 19:00から

烏山区民センター3階集会室

(京王線千歳烏山駅より徒歩1分)

会費:無料

 

講師 島田善次(普天間爆音訴訟原告団長)

渡辺信夫(台湾の元「慰安婦」裁判を支援する会代表)

 

前鳩山政権が投げ出した普天間基地移設問題の根底には、根強い「沖縄差別」があるのではないかと私たちは考えます。行き詰まりを打破するためには、普天間の生の声を聞くとともに、沖縄差別を克服することが必要です。今回の平和講演会では、普天間爆音訴訟原告団長の島田善次氏を招いて7 29日の控訴審判決をふまえた講演をしていただき、渡辺信夫氏には沖縄戦以来ずっと考え続けてこられた沖縄差別について語っていただきます。世界が変わりつつある、このときに、ともに平和について考えようではありませんか。


日本キリスト教会東京告白教会

講演会ごあんない

 

 

今、この時代に教会は何と答えるか?

 

講師:渡辺 信夫(東京告白教会牧師)

日時:2008511日(日)午後2時半〜

場所:東京告白教会

 

人間の社会が崩壊を始めています。人として、してはならないことをさせないための、良心の歯止めが壊れたのでしょうか。子供が、老人が、行きずりの人が殺されています。人間の手違いによって核ミサイルの発射のボタンが押されるかも知れない、と恐れられた時から次の世紀に入って、今や、ごく真面目に生きている人が、何ごともないように、その発射ボタンを押すかも知れない恐怖が世界に充満しています。

昔なら世の終わりが来た!と叫ぶ預言者が街角に現れて、恐るべき審判を説いていたのかも知れません。

キリスト教会はこういう時代の中で、何事もないかのように人々に安らぎを与えているのでしょうか?


宗教改革講演会

 

「宗教改革の精神」

20071028日(日)午後2時

講師・日本キリスト教会衆京告白教会牧師 渡辺信夫

 

恒例の秋の講演会は昨年度、支障で実施できませんでした。今年、渡辺牧師は健康を回復し、講演会を開きます。これまで、この講演会は現代社会の中に置かれている人間の問題を一緒に考える集いでした。今回もその課題を継続しますが、目を歴史に向け、講師が長年携わって来た宗教改革研究を現代人の問題との関連で再考するものになります。

16世紀の宗教改革は過去の一時代の出来事として誰にも知られていますが、遠い彼方のことのように感じられているでしょう。しかし、近代社会の立ち上がりの中に埋没しそうになったキリスト教会が、聖書の真理を再発見して、教会自身を改革し、人間の問題と国家の問題に光りをあてて問い直しを始めた事件でありました。その間い直しはまだ続いているのです。

 


平和講演会

 

「抵抗する良心」

 

講師:渡辺信夫牧師

ゲスト:島田善次牧師

 

日時:2007814日(火) 午後7時開会

場所:世田谷区烏山区民センター3階集会室

(京王線千歳烏山駅下車徒歩1分)

入場無料、どなたでも歓迎いたします。

 


春の公開講演会

 

「この時代が責任を問われる」

 

講師:渡辺信夫牧師

 

2007年 527日 午後2時開会

 

世田谷区北烏山1-51-12 日本キリスト教会東京告白教会
最寄り駅 京王線・芦花公園 もしくは 井の頭線・富士見が丘
Tel.03-3300-6529
URL:http://homepage3.nifty.com/kokuhakukyoukai/
 
ここに地図が出ています

 


日本キリスト教会東京告白教会主催

信教の自由を守る日記念講演会

「アジアの歴史学者との共同作業から見えてきたもの」

                      講師:渡辺祐子氏

中国キリスト教史・明治学院大学助教授

 

 

講師のことば ◇◆◇ ――――――――――――――――                    

仕事柄、中国の人たちと接するたびに、日本の戦争責任、戦後責任にいやでも向き合わされてきました。「私は日本が本当の意味で悪かったと認めないうちは日本に行きたいと思わない」(香港の研究者)、「小泉の靖国参拝、あんたはどう思う?」(武漢のタクシー運転手)、「日本人と聞くだけで震えが止まらなくなります」(自分の目の前で日本軍に母親を殺された河北省の老女)・・・・・。こんなに嫌われている国が果たして「美しい」でしょうか。彼らの声に耳を傾けるのは「自虐的」でしょうか。皆さんと御一緒に考えたいと思います。――――――――――――――――――― ◇◆◇

 

 

日時:200728日(木) 午後7時より
場所:世田谷区烏山区民センター3階集会室

(京王線千歳烏山駅下車徒歩1分)

入場無料、どなたでも歓迎いたします。


信教の自由を守る日記念講演会

200627日(火)午後7-9

 

東京告白教会は毎年211日ごろ、信教の自由をも守る日記念講演会を開催しております。

本年も下記の通り企画しましたので、みなさまお誘い合わせの上、ご来会ください。

 

「自民党の憲法改正案と国民主権・平和主義」

 

講師:笹川紀勝明治大学教授

場所:烏山区民センター3階集会室(京王線千歳烏山駅下車徒歩1分)


宗教改革記念公開講演会終了しました。講演原稿はこちら

20051031日(日)午後3-5

 

東京告白教会は毎年宗教改革を記念し宗教改革研究家である渡辺牧師の講演会をします。

今年は平和が危ない緊急事態のために憲法九条を一緒に考えましょう。

 

憲法九条の精神的支柱

 

講師:渡辺信夫(東京告白教会牧師)

場所:世田谷区北烏山1-51-12

日本キリスト教会東京告白教会

 

渡辺牧師は第二次大戦に学徒出陣で前線に送り出され辛うじて生還して以来60年、ひたすらに平和を叫んで来ました。ご来会をお待ちします。

 


戦後60年記念平和講演会終了しました。講演原稿はこちら

日本キリスト教会東京告白教会主催

 

812日(金)午後7時より9時まで

烏山区民センター3階集会室

京王線千歳烏山駅前

 

講演題  戦争の責任を担いうる国2005.8.12

講  師  渡辺信夫

 

62年前いわゆる「学徒出陣」で前線に駆り出され、かろうじて生還した講師は、戦争の偽りと虚しさを体験した者として、平和のために身を挺するとともに、国際的に知られた神学者として、キリスト教会の戦争責任を一貫して論究し続けています。この牧師とともに信仰の共同体を建ててきた東京告白教会も、危機の時代の中で、平和の証しを立てる教会であろうとし、毎年8月、教会主催の平和講演会を開いています。これはキリスト教の宣伝ではなく、平和を愛するすべての人々の願いへの参加であり奉仕であります。今や平和憲法を廃しようとして、世界の顰蹙(ひんしゅく)を買っている日本の中で、日本の良心を高々と打ち立てようとする催しにどうぞご参加ください。

 

入場無料


東京告白教会の公開講演会へのご案内(終了しました。講演原稿はこちら
 

 春秋2回、東京告白教会が開く恒例の渡辺信夫牧師による公開講演。  2005年春には515日午後2時から行われます。これまでもそうでしたが、この講演会はキリスト教の宣伝でなく、まして東京告白教会の宣伝をするのでなく、時代の危機を感じている人々に来て頂いて、いっしょに考え、今日の問題に取り組もうとするための催しです。講師は戦争を体験し、戦後60年にわたって自己自身と教会と日本の戦争罪責の問題を追求し、多数の著作を公けにして来ました。

 

今回の講演題:

 

   誰があなたの隣り人になったのか?

 

    講師:渡辺信夫(東京告白教会牧師)

 

 昨年秋には「己れの如く汝の隣人を愛すべし」という言葉を主題にしました。これは聖書の言葉ですが、愛が冷え切って、瓦解して行く今日の時代の中で、隣人を愛するということがどういうことであり、それがどうなってしまったのかを考えました。今年はその続きを考えます。
 昨年秋の講演はパンフレットになっています。お持ちでない方は教会宛にご請求下さい。東京告白教会の説教と講演は全てホームページでも読むことが出来ます。

2005年 515日 午後2時開会

 

世田谷区北烏山1-51-12 日本キリスト教会東京告白教会
最寄り駅 京王線・芦花公園 もしくは 井の頭線・富士見が丘
Tel.03-3300-6529
URL:http://homepage3.nifty.com/kokuhakukyoukai/
 
ここに地図が出ています


東京告白教会信教の自由を守る日記念講演会

メディアは弱者の側に立つことができるか

−戦争の時代におけるジャーナリズムの責任−

 

 講師:浅野健一氏

   (同志社大学文学部社会学科メディア学専攻教授)

 日時:200528日(火)午後7時より

 場所:烏山区民センター3階集会室(無料)

    (京王線千歳烏山駅下車徒歩1分)


東京告白教会公開講演会

日時  20041031日(日) 午後2時開会

場所  日本キリスト教会東京告白教会
    (世田谷区北烏山 1-51-12 京王線芦花公園または富士見が丘下車)

講師   渡辺信夫(東京告白教会牧師)

講演題  己れを愛するごとく、汝の隣り人を愛すべし

 

 

「己れを愛するごとく、汝の隣り人を愛すべし」。これは聖書の中に記された神の命令です。神の命令に従おうと私たちは懸命に努めていますが、命じられたことを十分果たしていない情けない実情を知っています。それでも、落胆せず、祈り求めて走り続けようとしています。


東京告白教会平和講演会

日時  2004812日(木) 午後7時開会

場所  烏山区民センター3階集会室
    (京王線千歳烏山駅より徒歩1分)

講師   渡辺信夫(東京告白教会牧師)

講演題  戦争生還者の平和憲法擁護論

 

終了しました。講演原稿はこちら

 

毎年815日頃開かれていた東京告白教会の平和講演会は、今年は812日に行われます。長い間これを担当された小川武満先生は、昨年の講演会に挨拶をして下さいましたが、昨年1214日この地上を去って行かれました。今年は渡辺信夫先生が小川先生の志を継いで講演されます。

渡辺先生は61年前学徒出陣で海軍に入り、沖縄海域で何度も死線をくぐって生還し、戦後は牧師として、神学者として国際的な働きをするとともに、平和を叫び続けて来られました。日本が多くの戦争犠牲者の血を代償として獲得した平和憲法を護持することが、戦争に生き残った者の使命であるとの思いをこめて語って下さいます。どうぞおいで下さい。


東京告白教会講演会

日時  2004530日(日) 午後2時開会
場所  日本キリスト教会東京告白教会
    (世田谷区北烏山 1-51-12 京王線芦花公園または富士見が丘下車)

講師   渡辺信夫(東京告白教会牧師)

講演題  人に従うよりは神に従うべきである−抵抗の原点−

 

終了しました。講演原稿はこちら  

 

暴力的な言論が大手を振って歩きまわる時代になりました。抵抗しなければならないことはわかっていても怖くて声が出ないと感じている人が多いでしょう。

キリスト教会はごく初めの時期に圧倒的多数の敵意の前で沈黙を強いられましたが、「語るべきことは語らねばならない」と感じて、真理の叫びを止めませんでした。

現代に対する教会のメッセージ。


 

東京告白教会講演会

日時  200368日(日) 午後2時開会
場所  日本キリスト教会東京告白教会
    (世田谷区北烏山 1-51-12 京王線芦花公園または富士見が丘下車)

講師   渡辺信夫(東京告白教会牧師)

講演題  剣をとる者はみな剣によって滅びる
終了しました。講演原稿はこちら

 

戦争につぐ戦争
毎日 世界のどこかで
武器による流血が行なわれています
もうやめよう やめさせよう ヤメテクレ という声が高まっているのに
なお戦争はやまない
戦争の空しさに疲れ切った老人に代わって
戦争を知らない若い政治家が嬉々として戦争ゴッコを始め
武器がまた火を吹く

剣  をとる者    はみな剣    によって滅       びる

2000年前に語られたこの言葉はホントウだと人々は気付いているのです
ホントウの言葉に聞いて従おうではありませんか

第二次世界大戦に従軍して生き残り戦後ずっとキリスト教会の牧師として聖書を解き明かしつつ
戦争責任と平和を論じてきた渡辺信夫牧師が、世に残す証言










  カルヴァン・改革派神学研究所 公開講座

宗教改革の信仰告白

講師:渡辺信夫

 

 「古代教会の信仰告白」(新教出版社)に続く「宗教改革の信仰告白」の講義が200211月から始まります(主催:カルヴァン・改革派神学研究所(日本キリスト教会神学校内、川越市吉田2-2)、講義場所:日本キリスト教会東京告白教会(東京都世田谷区北烏山1-51-12)、毎月最終月曜日午後2時から)。

 烏山のカルヴァン研究所にあった書物は川越に移しつあるので、講義を川越で行なう方が便利ですが、講師の体力的事情から、東京都内で行うことにします。

 講義原稿は飛び飛びでまだ6-7割しか出来ていませんから、講義の度に未完部分を埋めて行く予定です。全体の分量は「古代教会の信仰告白」の十倍以上、講義完結まで10年は掛かると思われます。したがって、いま殆ど80歳になっている講師がそのとき存命することはあるまいと予想され、少なくとも学問的作業に堪えられる体力と知的能力は残っていないでしょう。ですから、途中で倒れるであろうが、主が許したもう限り歩もうとの誓いを立てて発足するわけです。講義の後、毎回、質問と討議が期待されていることは勿論です。

 講義が重ねられる間に、集まる人の交わりが生まれると思いますが、講師には聴講者を組織化し、統率する考えはありません。資格は一切問わず、志のある何ぴとにも門が開かれているとご承知下さい。会費も徴収しません。その代わりサーヴィスはありません。資料や講義の予稿も配りません。聴講申し込みも届け出も要りません。講義は済んだ分から順次インターネットのホームページで公開します。研究所のホームページが開かれないうちは、東京告白教会のホームページを使わせてもらいます。
 休講の場合は前月の会に予告します。

会場は東京告白教会です。

地図 URL http://member.nifty.ne.jp/kokuhakukyoukai/
 
第一回は11252時開講です。
 



日本キリスト教会東京告白教会

2002年秋公開講演会

1020日(日)午後2

                                       
 
汝らの仇を愛し、
汝らを責むる者のために祈れ

                                       
    
講師 渡辺信夫牧師

 東京告白教会恒例の講演会――敵対する者を侮蔑(ぶべつ)し、憎悪(ぞうお)し、
威嚇(いかく)し、先制攻撃(せんせいこうげき)をかけ、殱滅(せんめつ)するのが
当然のこととなってしまった現代世界に異議申し立てをして、今回は聖書のことばをナ
マのまま突きつけようと思います。これは現代の問題、現代の崩壊を食い止める切り札
。あなた自身の問題でもあるのです。

世田谷区北烏山1-51-12 日本キリスト教会東京告白教会
http://member.nifty.ne.jp/kokuhakukyoukai/



 

渡辺牧師は311日から13日まで軽井沢恵みシャレーで聖書講解セミナーを開きました。ヨハネによる福音書の5つの箇所について5回のセッションがありました。それぞれ、テキストが何を言うか、そのメッセージをどのように説教として整えるか、を2時間か2時間半にわたって学びました。前もって告げられた講師の言葉は次の通りでした。
 


  「聖書は神の言葉である」と言われてきた。しかし、読む人がそれを神の言葉にふさわしく読んでいるであろうか。聞くべきことが聞き取れていないのではないか。神の言葉を聞くにふさわしくない読み方・聞き方をしているのではないかと反省を促されているのが今日の教会の状況である。――こういう問題意識を持つ者が集まって、賜物を分かち合うセミナーを開きたい。
  
では、ふさわしい読み方かどうかの判定はどうしてつけるのか。その判定基準は聖書そのものから示される。聖書を読むことによって読む姿勢が整えられ、養われ、その読み方によって聖書の意味が読み取られ、それによっていっそう読む態度が修練され、読み取るべき目標に肉迫して行く。これが私たちの生涯の歩みとなる。
  
今回は、「神の言葉の説教は神の言葉である」という原理に生きた人々の歩みを受け継ぎ、「聖書テキストから説教へ」の目標設定のもとに研究作業をしつつ、その中で聖書から神の言葉を聞く学びに努めたい。説教者のためだけの聖書研究というわけではない。説教を聞く人にとっても有用な学びをしたい。必要に応じて随時小さいレクチャーを挟むが、共同作業としてのセミナーを作り上げたい。
  
聖書研究には様々なレヴェルがある。しかし、目指す目的はただ一つである。
 各回、聖書本文の釈義のほかに、それに交えて小レクチャーがありました。第1のセッションでは、レクチャーではなく、第2スイス信仰告白(1566年)の第1章「神の真実の言葉について」のセミナーでした。これは「神の言葉の説教は神の言葉である」という重要な命題を含む章です。この信仰告白を受け入れた牧師たちが、如何にして神の言葉を語るかを真剣に追求したことを、昔話しとして偲ぶのでなく、現代においてその召命を受けている者が、往時の人々のように立つために如何に精進すべきかを先ず考えたことでした。
 
2のセッションの中では「言葉が分かるということ」という小レクチャーがありました。
 言葉が分かるということ渡辺信夫私は日本のキリスト教界において言葉の衰退、あるいは死滅が起こっていることを憂い、それに関連した発言をしているが、私の訴えを理解してくれる人は今のところ少ない。重大な問題なので、今回のセミナーの中で、これに関連したエッセイ風小レクチャーを挟むことにする。
 
私の親戚でクリスチャンにならないうちに癌で死んだ人がいる。死に直面して聖書を読み始めたが、口語訳聖書では格調が低いので心に響くものがないと嘆いて、文語訳を買って来させたことを聞いたので、私も見舞いに行って文語訳聖書を朗読していた。三度目に行った日の朝、彼は死んだ。
 
葬儀は家族の意向でキリスト教式に行ない、私が司式 したが、故人の主張を重んじて文語訳聖書を用いた。参列者の一人は「文語訳はいいですね。これを廃棄したのは日本のキリスト教の大損失でしたね」と言って帰った。私がウスウス感じていたあることをズバリと言われた思いがした。
 
文語訳の方が良いと言われるのは、言葉が聞く人の内面深くまで浸透する力を持つからであると私は思う。戦後のキリスト教は、心に浸透して来て、心の支えとなるものとしての言葉を失ない、信者たちはシャンとした姿勢が保てなくなり、足を踏まえる所さえ失なって、浮き草のように漂うようになった。言葉が死んだのである。言葉の残骸とも言うべきものが堆積して、精神の酸欠状態が起こっている。
 
戦後のキリスト教では、言葉は分からなければならないという動機が決定的な力をもってまかり通った。これは戦前の、「分からなくても有り難がり」、「権威ぶった文体には従順になる」雰囲気に対する反動であって、それなりの意味はあると思う。戦争中の非理性的な流れに抗し得なかった反省もある。しかし、戦後は本当に分かろうとしたのか、また分かったのか、と問いなおすことは省略され、分かったような気になっただけであるのに、「分かった」としているのではないか。語る方も、やさしく語ると「分からせた」という錯覚を抱き、本当に分からせる努力を手抜きすることになる。」本当は、分かっていない。にもかかわらず、わかったと思わせてしまう作用が口語体にはある。文語体では、理解できたというのとは違うが、文体に力があるから、理解出来ないことでありながら、その真意の一面に触れたという感銘を与える。そして、理解という点では十分でなくても、感銘によってある程度分かって、随いて行けるものである。
 
実はここにも危険な落とし穴があって、分からなくても、謂わばシビレさせて随いて来させる魔術が起こり得るから、文語体を手放しで認めるわけには行かない。しかし、文語体聖書と照合しつつ現代文の聖書を読むならば、現代における言葉の生命をある程度蘇生させることが出来るであろう。
 
私が自分の属する日本キリスト教会に関して今非常に憂慮するのは、「信仰告白」を口語に置き換えようとする主張が強まっていることである。信仰告白を現代語でおこなうことについて異論を挟む謂われはない。問題は、信仰を告白することの真髄が何であるかである。どういう動機で口語化を求めるのか。文語を口語に、あるいは難しい語をやさしい語に置き換えたなら、それで問題が解決すると思っているのか。さらに突っ込んで言うならば、「言葉」というものについて、また「分かる」ということについて、深く考えた上で論じているのか、と問いたい。さらに追い打ちをかけて、私が初めに述べた「言葉の衰退」あるいは「言葉の死滅」という現代の現象を、その人たちは理解し、憂慮しているのか、それだけの文章感覚を磨いているのかを問いたい。
 
言葉は分かるように言わなければならない。しかし、いわゆる「分かり易さ」が文章の要点であるというふうにすり替えて、固い言葉を柔らかい言葉に置き換えれば良いと思ってははならない。「分かった」というだけで何事も起こらない言葉の空転を蔓延らせてはならない。
 
今、日基の問題を取り上げたが、キリスト教の全体に亘って言葉が活力を失っている。
 リベラルな説教が、活力を失った、骨の抜けた言葉で語られている。福音派も例外ではない。福音派にはやさしい言葉が溢れている。分かり易い言葉を語る修練は大切であるが、受け入れやすい言葉との置き換えに終わっているのではないか。それは人を引きつける上では役立って来たかも知れない。が、言葉として大事なのは、それが人を生かすかどうかである。福音派の人々の使うやさしい言葉の中に言葉の衰退が感じ取られてならない。分かる言葉のぬるま湯に漬かっているうちに、思考力が退化してしまった。本質的な事柄への感受性はまだ残っていると見られるとはいえ、感覚的に共鳴は出来ても、問題に取り組んで行く力は湧いて出ない。事態はすでに深刻である。
 
分かり易い言葉を与えるとは、言葉の言い替えではないのだ。難しい言葉のままで良いと主張するわけではないが、難しいままの言葉でも、それを語る人自身が深く理解して本気で語るならば、聞く人は相当深いところまで分かって動かされるのである。この場合、言葉が分かるだけでなく、内容が伝わり、人間を動かすのである。したがって、自分自身に分からせようと一生懸命に語っておれば、聞く人も一生懸命ついて来る。それこそが「分かる」という出来事ではなかろうか。
 
人に分からせるためには、教える人の言葉が磨かれねばならない。磨くだけでは腐った言葉は腐ったままで、技巧を凝らせば凝らすだけ、ますます鼻持ちならぬ言葉になるから、磨くのでなく、回復させるのでなければならない。しかし、言葉の回復は、それを語る人間の回復を素通りするわけには行かない。そして、人間を磨くことと言葉を磨くこととの間には関係がある。「文は人なり」と言われて来たことには真実が含まれる。
 
これは文体の問題になって行き、それは次回に語る。
 
3のセッションの中の小レクチャーは「文体の問題」。
 
文体の問題渡辺信夫前回、「言葉」について、またそれが「分かる」ということについて、考えるところを幾らか語ったが、それに引き続いて考察しなければならない問題に触れる。
 一つなる福音がさまざまな言語で語られる。どの言語で語られても福音は福音であり、福音を伝えるメディウムである言語の間に優劣はない、というのが我々の間では大前提である。かつてローマ・カトリック教会は、ラテン語で書かれた聖書を教会の本源的な典拠であるとし、これにはオリジナル・テキスト以上の権威があると主張した。これは全くオカシナ主張であるが、神の言葉よりも「ローマ・カトリシズム」を上に置こうとするならば、こういうことも起こり得よう。
 
では、へブル語とギリシャ語の原典が権威であって、翻訳は権威が落ちるというのが正しい見解であるかというと、そうではない。人文主義者にとってはそうであったであろうが、宗教改革者にとってはそうではない。
 
それはどういうことかを考えてみよう。神の言葉が文字として書かれたそのオリジナルが原典という特別な意味を持つことは確かであるが、文字に書かれる前に、文字よりも上位のものとして、「生ける声」と宗教改革者の呼んだものがあったのである。この生ける声こそが人を生かす。人は書かれた文字を通して生ける言葉へと帰って行かねばならない。そして、その生ける声へのアプローチは原典からだけでなく、翻訳からも可能である。文書としての意味を把握する上で、オリジナルな文面が断然有利であることは人文科学の立場から全く確かであるが、信仰の次元では必ずしもそうではない。聖書の翻訳については今はこれ以上は触れないで置く。
 
我々が時々聞いたり自ら感じたりする疑問の一つに、日本語は好い加減な言語で、キチンとしたことを言い表わすのに向かないのではないか、というものがある。確かに、日本語は曖昧な表現に便利な言語である。しかし、言語というものは出来上がったものでなく、歴史の中で発展するのであって、今後日本語を厳密な思考の伝達手段に変えて行くことは可能である。キチンと考えることを意識的に行なって行けば、日本語はキチンとした言葉になる。
 
言語間に優劣はないが、一つの言語について見るとき、その言語によって福音が語られるヴァージョンは幾通りもあり、どのヴァージョンも優劣はないと言えるかとなると、そうは言えない。翻訳作業は相対的な人間の営みであり、誤訳の多い少ないの差があるから、一般論としては、優劣をつけることが可能である。ただし、優劣の判断基準は複雑であって、微妙な要素も総合した判断が必要になるから、実際問題としては難しい。
 
今日の多数者の考えでは、歴史は進歩するのであって、翻訳について言えば、新しい作品ほど以前の作品の誤りを訂正しており、状況によりよく適応が出来ているから、優れていることになっている。そういうふうに一応考えられることは確かである。改悪を意図するのでない限り、より良いものが後から生み出されるというのが現代人の大方の承認するパラダイムである。だから、人々はより新しいものに、より大きい満足を感じる。そのパラダイムが正しいのか、と疑問を持つ人は殆どいない。我々もそれを問題にすることは今はしない。
 
しかし、新しいヴァージョンの方に人々が必ずしも飛びつくわけでないという現実がある。それは「古きは善し」という諺にある通り、人々の内には古さに執着する固陋な考えがあり、また新しいものを採用することを恐れる昇進さがあるからであると説明されることがある。その批判が当てはまる面もあるが、実際に古いものの方が良い場合もある。文章に関してはそれが顕著である。
 
文章に関しては、決め手は「文体」だと言われる。英語世界で今日なお1611年のキング・ジェームス訳聖書を支持する人たちの言い分の一つは文体である。前回話した文語訳が日本で好まれるのも文体の故である。では文体とは何か、ということになると、また難しい。文体の優劣の判定基準の中には、主観的要素がかなり入り込んでいる。主観的ということは必ずしも劣悪を意味しないが、主観的なだけの基準での判定は曖昧になる危険がある。
 
私は文体に優劣はないとは思わない。しかし、今このセミナーの中で文体論に時間を費やすことは得策でないから、この議論は避ける。我々が今考えるのは技巧を凝らした文体ではなく、我々の務めに関する言葉を語るその文体である。ただ、我々一人一人について考察するならば、自分の書く文章を自分で推敲してより良い文体にすることは出来るのであり、それをしないのは不作為による悪だということは言えるであろう。
 
実は、ここに今日の日本語の、とりわけ教会で用いられる日本語の衰退の原因の一つが関係する。人々は多くの場合、自分の文章を自分で推敲することをしなくなった。当然、語る言葉も同様であって、言いっぱなしである。文章というものは、上手下手にかかわらず、自己吟味を伴わなければならないし、文章は推敲すれば深みや色つやや持ち味が出て来るのである。昔は、「文は人なり」と言って、文体を磨くことを通して人間を磨こうとした。
 
説教者が文体を磨いて文章としての完成度を高めるのは、説教を作品化したものであって、神の言葉の説教の主旨にそぐわないのではないか、と懸念されるかも知れない。しかし、文章を磨くことが器としての自分を磨くことになるとすれば、それをしないのは職務怠慢であろう。器は器なりにその限界内で最大の機能を上げなければならない。如何にすれば良く機能するかを求めての修練が必要である。
 
では、どのように文章の推敲を行なえば良いのか。私はこれを実行してきたが、筋道立って方式を考えたことがないので、経験を語るのみである。一つの型や規範があるわけではない。自分の言うべきことが言えているか、伝えるべきことが伝えられているか、さらに言うならばそのメッセージが私自身に対して悔い改めを促す力を発揮しているかどうかを読み直して検討すれば良いであろう。
 
そのとき、自分が誰から何をどのように伝えられたかを考えることは、伝えるに当たって検討すべき条項の基礎となる。「伝統」という言葉は警戒して使わなければならないが、伝えられたものを伝えることは重要である。
 
伝統を受け継ぐという言い方をする人に反対はしないが、自分がそう主張して人を引っ張って行くには躊躇いがある。伝統は乗り越えることによって受け継がれるのではないかと思っている。
 
そのように言う時、乗り越えられるものとしての伝統が捉えられるのだ。それは架空の想念ではない。地図の上で一山越えるのでなく、自分の足で越える。伝統を越えるのもそのような越え方である。簡単に無視して、越えた越えたとハシャイデでいても、何も越えられていない。伝統の持つ厚みより遥かに浅薄なものしか持たぬままで、穴に隠っているだけである。
 
自分の足で山を越えるようにして伝統を越える時、そこには伝統は形を変えてはいるが生きている。
 
この関連で最後に言いたいのは聖書翻訳の伝統である。聖書は教会の中で読み聞かせられ、読み継がれて行く。ヴァージョンを新しくするにしても、前のヴァージョンから受け継いだものがあって、その基本の上に改訂が置かれている。抜本的な改定はしない。
 個人訳ならばいざ知らず、特に聖書協会のように公的機関が出版するものは無前提で訳するものではない。
 
ところが、聖書協会の新共同訳は、アジアと日本における聖書翻訳の伝統を無視している。プロテスタントには聖書翻訳の伝統があった。これはモリソン訳中国聖書にまで遡る。ところが、カトリックでは1960年代までは、翻訳聖書は正規のものと看倣されていなかったから、聖書翻訳は伝統も公的権威を持たなかった。だから、カトリックでは伝統的翻訳の精髄を受け継ぐという意識はない。プロテスタント側の訳者も殆ど翻訳伝統という意識なしで作業しているから、伝統を継承した翻訳は出来なかった。伝統から切り離されている。これは公的聖書朗読には向かない。
 
新共同訳の文体については今は何も触れない。それに触れるならば、口語訳の文章にも触れなければならないし、口語訳の文体も大いに問題にしなければならない。それでも、口語訳は前訳を改訂するという立場を一応取っていた。
 新改訳の場合も一応「改訳の改訳」、あるいは「口語訳の欠陥を訂正した改訳」という意味であるから、その限りでは問題にすることはない。翻訳としての出来不出来、文体の問題は別である。また、翻訳の立場についても私が上に論じた主旨が新改訳で徹底しているとも言えないと思う。
 
4セッションの中の小レクチャーは「ヨハネ伝の注解書について」。
 
ヨハネ伝の注解書について渡辺信夫

1 ヨハネ伝の最初の読者には注解書は要らなかった。したがって、原初の状態を復原できれば注解書は要らない。しかし、時代も空間も隔たっているので、実際にはそれは殆ど不可能である。ただ、「私は世の終わりまで、あなた方といつも共にいる」という主の約束は現実化しているから、この状況については注解は要らない。ここから出発する事が出来る。
  
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 注解の初め 文書が確定して著者の手を離れると、著者の言わんとすることを間違いなく伝えるためには、注解作業が必要となる場合が多い。言葉として書かれていず、読む者には注解しているという意識がないけれども、一種の注解が介在することによって、文書は最初と異なる状況のもとでも、意味のある言葉として伝えられる。そのようにして教会が聖書を注解して来た歴史を我々は引き継いでいる。すでに新約時代に入る以前に、旧約は単に朗読されただけでなく、注解されていた。新約は旧約の注解であった。例えば、Iコリント10IIコリント3
 
 
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 注解は読む人をテキストから主題へと向かわせる作業である。テキストが本来言おうとしたことが何であるかを聞き取るのを助けるために、注解がある。中心主題に帰ることなく、言葉の片鱗をとらえて、テキストをほしいままに利用して、テキストと関係なく、自分の言いたいことを言うのは注解の本来の態度ではない。注解には方法としての前提がある。

4 霊的注解 ヨハネ伝には他の福音書に見られない独特の思想性がある。その思想性を取り上げて、発展させようという意欲を刺激される。黙示録についての荒唐無稽な注解がなされたのと同じように、福音書でも全く好い加減なことが語られた。一例として、「生長の家」の教祖が書いたヨハネ伝注解がある。そういうものは、今回は無視する。注解の成り立つ信仰的前提がある。
  正統的な信仰をもってこの種の注解を書いた人も多い。例えば、アウグスティヌスがいる。その人たちを尊敬するが、彼らの注解書は別の意味のもの、すなわち、神学的修練として学ぶべきであろう。
  所謂「霊的注解」と称せられるものについても今日は扱わない。これを否定するという意味では必ずしもない。テキストの本来の意味以外に読み込みが多過ぎると非難することも私は控えて置く。ただ、ヨハネ伝の釈義でなくても言えることを、ヨハネ伝を借りて言うことの行き過ぎについては、冷静に対処したい。つまり、注解として語られている言葉をもう一度注解して本文に差し戻し、改めて読み取ることによって読みを深めなければならない。

 5 近現代の注解書 古代・中世の注解については今回は扱わない。その仕方が間違っているというわけでは必ずしもないが、注解の概念が宗教改革において確立したものと非常に違っているからである。
  宗教改革の聖書注解の方法は人文主義的な方法の採用という特徴を持っている。大雑把に言うならば、テキストが本来言っている以外の意味を読み込まないのである。読み込みをしなくても、すでに十分なことが言われているので、それをあるがままに読み取れば良いのである。もっとも、宗教改革の注解の中にも人文主義的な方法を採り入れていないものもある。例えば、ルターのそれである。しかし、このような名人芸的な注解は誰にでも出来るものではないから、人文主義が開拓した言語学的方法にならざるを得ない。
  改革者は精力的に聖書注解を書き上げたが、それは教会の教えの窮極の尺度である聖書が何を教えているかを明らかにするためであった。言葉を換えて言うならば、教理条項と教えの源泉である聖書と、教会の信仰との一致を明らかにすることを第一に考えていたのである。したがって、改革者の注解はテキストの語ることを単純に伝えて、余計なことは言わない。カルヴァンがよい例である。
  そののち、プロテスタント敬虔主義の影響によって、敬虔な読みを深める方法が開拓される。敬虔主義にもいろいろな傾向があって、警戒しなければならない要素が前面に出る場合もあるが、その点に気を付ければ、この種の注解は説教の準備に当たって非常に有用な助けとなる。
  例えば、ベンゲルの「グノーモン」がある。この系列に属する20世紀のもので比較的良く知られているのは、シュラッターの講解である。
  19世紀に啓蒙主義がキリスト教を席巻した時、聖書本文を理性的に批判して読まなければならないという見解が跋扈した。この時、正統的信仰を守って学問的にも厳密な業績を挙げたのは覚醒運動の神学者であるが、この人たちの聖書注解には今日なお学ぶべきものがある。トールック、ゴデー、ランゲ等がある。
  19世紀末イギリスにおいては国教会の中にテキストに忠実な詳しい注解書が生まれた。ウェストコット、ライトフット、スゥイート、などのものである。ウェストコットのヨハネ伝は重要なものの一つである。

6 注解書の読み方、外国語で読むときの効果 外国語の読める人は注解書を外国語で読むことを勧める。欧米で出ている注解書が数多いというだけの理由ではない。外国語で読むとき、通常の日本人はそれをそのまま脳に送り込むのでなく、日本語的思考に合うように先ず整理するから、頭の中の作業は一工程増え、時間も余計に掛かり、非能率であることは確かである。しかし、工程が増えただけ、読む者の精神世界における御言葉の感化は拡がる。
  次に、注解書を一冊だけしか読まないのは危険である。注解書という相対的なものと折衝していることを忘れて、一つの注解書の言うことを頭から信じてしまうからである。
  注解書は詳しい方が良い。詳しいとはテキストの含むあらゆることに触れるということである。しかし詳しすぎて読み切れない場合がある。身の丈に合ったものを選び出さなければならない。

7 私は何を使うか 私はこれまでヨハネ伝の連続講解説教を2回したが、今3度目の、そして最後の連続講解説教をしている。多く読むことが出来なくなったので、毎週の準備で用いるのは、C.K.バレットの第2版とR.シュナッケンブルクである。これまでヨハネ伝の注解書はいろいろ読んだが、この二つは第一級にランクされると思う。
 第5セッションの中の小レクチャーは「説教と聖晩餐」。
 説教と聖晩餐渡辺信夫使徒行伝の記述によると、初期の教会はしばしば「パン割き」をしていた(2:42,46)。
 この「パン割き」を聖晩餐の礼典と同一視するにはかなり無理がある。「愛餐」と呼ばれるものに近かった可能性が大きい。(「主の晩餐」と、共同の食事である「愛餐」が結び付いて行なわれていたことは、Iコリント11:20以下から読み取られる。その意義も接近したものとして捉えられていた)。しかしとにかく、こういうことが五旬節の日に突然始まったのではなく、主イエスの在世当時からの弟子との共同の食事、食卓の交わりを引き継いだものであることは論じるまでもない。
 主イエスと弟子との共同の食事は常時なされていたのであるから、弟子たちの思い出の中に強く生き続け、弟子たちだけでも食事をともにし、新しい入信者を交えて守られた。キリストの臨在は共同の食事という形で把握された(ヨハネ黙示録3:20)。それが世の終わりまで引き継いで守られるべきものであることを確定的にしたのは、共観福音書における最後の晩餐、すなわち主イエスの渡される夜の、過ぎ越しの食事の中での「私の記念としてこのように行え」の命令を思い出して再確認した時であった。すなわち、食卓の交わりを越えた「主の記念」が主題となる。
 この最後の晩餐の記念に大きく重なって来たもう一つの思い出は、四福音書に出て来るガリラヤでの五千人の給食の奇跡(マタイ14、マルコ6、ルカ9、ヨハネ6)の感動であったに違いない。さらに五千人の食事は、イザヤ25:6-8の山の上での終末的祝宴、神の国の祝宴を想起させるためのものであったと確認して良い。また、ヨハネ伝6章で見られるように、荒野のマナの食事を想起させ、新しい出エジプトを確認させたと推測することは無理でないと思われる。
 したがって、主イエスと弟子の共同の食事、五千人の食事、預言されていた終末的祝宴、過ぎ越しの成就としての最後の晩餐、それらと一丸となったものとして、初期教会のパン割きは味わわれたのである。この一貫性の細部についての整合には問題が残るが、大まかに捉えて、神の国の輝きを味わうものであったことは疑えない。
 さらに、初期キリスト教は形の上ではかなりの部分ユダヤ教の祭儀を引き継いでいたから、除酵祭と過ぎ越しの祭りも引き継いだ(Iコリント5:6-8)。しかしそれは、年中行事としてでなく、過ぎ越しの成就として守られ、語彙はそのままであっても、意義は変化し、形態は早い時期にすでに異なったものとなったはずである。したがって、キリスト教的過ぎ越しは、年に一度ではなく、常時祝われるものとなった。Iコリントの記述は過ぎ越しが常時祝われたことを示している。
 このパン割きがかなり早い時期に「主の死を示す」ものと意義づけられ、「主の晩餐」と名付けられ、主によって制定されたと確認されることになった(Iコリント11)。「私は主から受けたことを、また、あなた方に伝えた」という言葉は、すでにこれ以前に「主の晩餐」の伝承が成立していたことを示す。これは新しい形式の創設・追加と言うべきでなく、彼らが感じ取っていたキリストの現臨とキリストの贖いのリアリティーの確認であった。「我が記念として」という言葉は、過去の追憶を示すものでなく、現実性の確認を意味する。のちにこの行事に「サクラメント」という称号が与えられたが、それによって新しく付け加わったものはない。
 上述のような跡付けは、パウロの伝道活動の場において考察できるが、ヨハネのサークルにおいては違うのではないか、第一、主の死の捉え方が違うではないかと言われる。
 すなわち、そこでは「苦しみを受けたもうた」という表現は退き、「栄光を受けたもうた」、「挙げられたもうた」という表現になっている。しかし、ヨハネ伝6章で学ぶ通り、キリストの「肉」による約束の成就のリアリティーを確認しようとする意図に関する限り、パウロとヨハネの違いを論じることには意味は殆どない。ただし、ヨハネでは葡萄酒を用いる食事ではなく、パンだけである。それでも、ヨハネ伝における葡萄酒の役割は決して小さくないから(2:1-11)、葡萄酒が主の記念として用いられることに支障はなかった。
 教会は主の晩餐と福音の説教を結び付けた。説教は主の現臨を眼目とし、主の晩餐も主の現臨を眼目とするから、両者は本質的に結び付いたのである。主の晩餐が単独で祝われたならば、密儀宗教になってしまったかも知れない。しかし、福音の説教と結び付いて行なわれた。ヨハネ伝6章をそのような説教として捉えるならば、テキストの読みが俄然深くなる。
 説教と聖晩餐の結び付きが神学的に深められたのは宗教改革である。しかし、聖晩餐の実践の意識は進まなかった。そのために、カルヴァンの指導下のジュネーヴでも、カルヴァンの意向に反して、年に4回しか行わないという慣行が行き渡る。その結果、プロテスタントにおける聖晩餐の意識は退化して行った。すなわち、実行されること少なく、ただ語られ、考えられることのみ多いと、理解はあっても概念化し、抽象化して行く。実行の頻繁な反復によってこそ確認がなされるからである。そのことをプロテスタント教会の中で強調するようになったのは20世紀である。
 年4回というのは、カトリックの規定で年1回の聖体拝領であったものを、ここまで増加させたのであるが、本当は説教の時は毎回聖晩餐が伴うべきであった。言って見れば、証文を書いたあとで、捺印するように、捺印が約束を確かにするのである。約束の条項ははんこがあってもなくても同じであるように、説教の内容が聖晩餐によって増加するわけではない。しかし、説教を聞いて、その後に信仰をもって聖晩餐を受けるならば、御言葉によって差し出されていた約束はさらに固いものとして受け入れられるのである。

 
 セミナーの報告は以上です。



渡辺牧師が「聖書テキストから説教へ」というテーマで聖書講解セミナーを開きます。

主催は恵みシャレー軽井沢。時期は311日(月)から13日(水)まで。この期間に5つのセッションがあり、各回ヨハネ伝から1箇所のテキストを学び、釈義から始めて説教を聞いて終わることになります。

東京告白教会のホームページをご覧になっている方は、これらの説教がどのようにして生み出されるかを知ることが出来るでしょう。

問い合わせ先:恵みシャレー軽井沢 東京事務所
Tel.03-3353-7448
 
 
 



「信教の自由を守る講演会」

東京告白教会は毎年211日前後に「信教の自由を守る講演会」を開催しています。 
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11日が「建国記念の日」と定められる時、私たちはこれを思想・信教の国家統制の復活の兆しと見て反対したのですが、あっけなく通ってしまいました。 

211日は明治憲法の発布の記念日です。明治憲法は日本ではじめて信教の自由を保障したものですが、最初から骨抜きになっていました。だから、本当の信教の自由はなく、政府は歯止めを掛けられることなく無謀な戦争に突入することが出来たのです。その211日が建国記念の日として祝われるようになるとは明らかに危険信号です。 

それ以来、私たちは211日を、かつて不完全きわまる信教の自由によって民衆を欺き、国を破滅させた過ちの初めを記念する日、また今度こそ欺くことのない信教の自由を獲得する決意の日としてマモルようになりました。 

その日には中央集会も開かれますが、各個の教会でも近隣の社会の人々とともに信教の自由や、人権を集会を開くべきであると考えて、私たちの東京告白教会は毎年、211日前後に講演会を開いて来ました。 
 

今年は212日(火)午後7時から烏山区民センター3階集会室で開きます。 
講師は ピアニスト・崔善愛(チェ・ソンエ)氏
講演題 「私が受け継いだ日の丸の恐怖」



京告白教会秋季伝道会の予告
 

1111日(日)午後2
講演題「少数者にこそできること」
講師 渡辺信夫牧師


自分たちは少数だから何も出来ない、という閉塞感に陥っている人はいませんか。真面目に考えることがうとんじられる世の中です。真実だと思うことを話しても、相手にしてもらえないで、ウツウツとしている人はあちこちにいます。そういう人たちに語り掛けたいと願って今回の主題を選びました。
  私たちも少数者であり、人から相手にされないのに、これこそ大事だと信じるところを、勇気をもって行なっています。いや、少数者だからこそこれを行なうことが出来るのだと確信を持っているのです。
  少数者だからこそ出来る。これは真理です。その真理を一生懸命に語っているグループがあることを知ってもらいたいと考えます。
  この講演会は人集めではありません。人が集まり過ぎれば私たちの教会は少数者であることが出来なくなり、少数者にこそ出来ることが出来なくなるので、イラッシャイ、イラッシャイと呼び掛けることはしません。しかし、なぜ少数者なら出来て、多数者には出来ないのか。それを話しますから、聞きに来て下さい。



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30日から83日に亘って実施された東京告白教会教会学校の台湾キャンプの反省会が819日午後行われました。

キャンプ参加者全員は勿論、関心のある人々も得たものの分かち合いのために出席しました。 
 この夏は教科書問題と靖国神社問題が世論を二分して、アジアの中にある日本を特に意識させたのですが、この嵐の時期に台湾に行ったことは時宜にかなって有益でありました。教会学校の行事としてこの企てが有意義であったかを問われる時が来ると思いますが、確かに、子供たち(中高生)の未成熟から問題が捉えられなかった面があります。 
 しかし、今後も関心を分かち合うことを止めなければ、学習開始を早め、幼い心に問題意識の種を焼き付けたことは、それだけの良い実りを齎らすでしょう。 
 大人たちは考えるべき材料を沢山与えられました。アジアとの関わりの中で日本の教会が自分自身を見出すべきであるとのこれまでの考えは一層堅くされましたが、交流のためには歌や踊りに終始するのでなく、台湾社会の少数者であるキリスト者と、日本社会の少数者であるキリスト者の間の討論が出来るようにならねばならないことでは一致しました。そして、実のある討論をするためには、語学力を身につけなければならない点も共通して痛感したところです。ただ、全員が議論の出来るほどの語学力をマスターすることは現実には不可能ですから、簡単な日常会話は全員が習うとして、外に通訳の出来る人を養成しなければならないというかねがねの考えが、一歩足を踏み出すことになりました。



東京告白教会ホームページのハングル版を準備中です。(2001.8.5)



信州夏期宣教講座のこと
講座が始まって、この8月末で第九回になります。長野県丸子町霊泉寺にある中屋旅館というひどくひなびた宿を借りて行っています。私は最初からのメンバーではないのですが益するところ大きいので、今では常連になっています。また、益を受けているだけでは相済まないと思い、役を引き受けることもあり、また顧問をつとめています。東京告白教会のホームページを読んで下さる方々は、まだご存じないなら、是非関心を持って頂きたいと願っています。
参加ご希望の方は、e-mail  keiji@janis.or.jp に連絡して下さい。

最近、講座の第七、第八回の記録が出版されました。題して「『日本』とキリスト教の衝突」(いのちのことば社)。うまいネーミングだと思いました。内村鑑三不敬事件の後、井上哲次郎が「教育と宗教の衝突」という、哲学者にふさわしからぬ扇動的な書物を書きました。しかし、それよりもっと恥多きことは、日本のキリスト教の大勢が「衝突」しないキリスト教になったことです。その反省をこめて、本来、キリスト教は「日本」と衝突すべきものであると態度決定をしたのです。キチンとした論文が載っていますから、是非お読み下さい。



「沖縄で宣教を考える会 III」のこと

13年前から日本キリスト教会宜野湾告白伝道所を会場にして、沖縄戦争の記念日の頃「沖縄で宣教を考える」という会が開かれています。沖縄から見れば日本の問題点が見える、という言葉がほとんど流行語といってよいほど流布しましたが、その割に、日本の問題点は克服されません。 
福音の宣教についても、沖縄から考えることによって、本土で考えるよりは一層本質的な検討が出来るに違いないと信じて、この会を重ねて来ました。昨年の基調報告はこのホームページで紹介されました。 

今年は、627-28日に行われました。内容は説教の検討でした。4人の別々の教派に属する説教者が立って、説教とその検討に2時間半ずつ掛けるという、真剣勝負そのものである2日間を過ごしました。 

その前夜、信州夏期宣教講座の沖縄エクステンションが同じ会場で行われ、「歴史における福音の説教」という講演が登家勝也牧師(横浜長老教会)によって行われました。「沖縄で宣教を考える会」と「信州夏期宣教講座」は別組織のものですが、一貫した催しになったわけです。 
詳しい報告は後日出版されます。今ここでは報告に代えて、短く私的感想を述べますが、説教者自身と説教とを俎上に載せて、問題点を抉り出そうという真剣さに全く圧倒されました。またそのような真剣な説教者が何人かはいるということが確認されただけでも、大きい励ましでした。 

説教テープのダビングについて

毎週の説教を読んで下さる固定読者があって、励まされていることを感謝します。教会では以前から説教を全部テープ録音しています。それを聞きたい、という方がおられるようですから、ご希望の方にはコピーを取ってお送りすることにしました。 

現在、教会では専用のテープコピー機はなく、専任担当者もいませんので、大量の需要に応じることは出来ないことをご了解下さい。 

ご希望の方は、宛名入りで切手を貼った返信封筒と、生テープとを東京告白教会にお送り下さい。費用は要りません。