2004.08.12.東京告白教会平和講演会

 

戦争生還者の平和憲法擁護論

渡辺信夫



 今夜の題にある「戦争生還者」というのは私のことである。戦争から生きて還った人が全部このように考えると言うのではない。私が戦争から帰って、今に至るまでの歩み、これを縦糸とし、私が59年間にいろいろ見聞して来たこと、考えたこと、これを横糸として話したいと考えている。

 私が戦争生還者であることは、すでにあちこちで語っているが、実に惨めな思いを抱きながら帰って来たところから語り始めたい。還って来たのは全面降伏をした翌月であった。惨めな思いをしていたのは、一つには私の健康状態との関わりであった。健康を害して落ち込んだということではない。面目ない話だが、敗戦の翌々日から私は原因不明の高熱を出し、佐世保海軍病院に担ぎ込まれた。結局、病名が分からぬまま熱はやっと7度台に下がったが、入院して3週間経った日、「病院は明日米軍に接収されるので、嬉野と大村の海軍病院に分かれて移転する。患者はどちらか好きな方を選べ」と申し渡された。私はこのまま入院生活を続ける気にならず、というよりも正直に言えば里心がついて、自宅に帰りたいと申し出た。軍医は「まあ、いいでしょう」と退院許可を出してくれた。私は一旦艦に戻って、手続きをし、荷物を持って駅に向かった。艦内は乗組員が殆どいなくなりガランとしていた。

 軍隊が解体し、軍人たちが社会生活に戻る「復員」という営みが国内では一斉に行なわれていた。私のいた小艦艇は最も早く復員業務を始めた。召集されていた年輩の兵士は最初に帰った。私自身も身分からいうと予備役将校であるから、本来はもっと早く帰ることが出来た。病気のために動けなくなって、ジッとしていなければならないから、天井を見詰めて、ただ考えるほかなかった。死を覚悟し、如何に死ぬかしか考えていなかった者が、今度は生きるということを考えなければならなくなった。

 国の中の組織替えで万事ごった返しになっていた時期に、私は渦の外に置かれた。外界との繋がりは毎日届く新聞と、艦から連絡のために来てくれる衛生兵曹の齎す消息だけであったが、体は動かなくても精神生活は細々と再開できるようになったので、物を考え始めた。何かが掴めたとは到底言えない。しかし、あの戦争は何だったのかと問うことを始め、その時からずっと問い続けずにおられないようにされた。

 

 満員の復員列車は門司止まりで、あてもなく数時間待たされ、そこから仕立てられた京都行きの列車に乗り、自宅のある高槻の駅に着いたのは真夜中、降りたのは私一人であった。戦災で焼かれなかったかどうかも確かめていなかったが、見たところ焼けたところはなかった。駅から家まで誰にも会わなかった。会わなくてホッとした。とても人に会わせる顔はなかった。

 そのように恥ずかしい思いをしていたことについて、理解してほしいとは言わない。私はその時、恥ずかしいと感じており、そのような思いを持っていたこと自体を今は恥じているが、その恥を隠さずに語らなければならないと思っている。

 「なぜ恥ずかしかったのか分からない。お前が悪くて戦争がこういう結果になったのではないのだから、恥じることはないではないか」と言ってくれる人はいたかも知れない。今でも、私から戦争の話しを聞いて、「ご苦労様でした」と言ってくれる人がいるのだから、その頃いたとしても可笑しくない。

 私が恥ずかしい思いでいた理由に、共鳴して欲しいとは願わないが、そういう実際であったことは聞いておいてもらいたい。戦争に負けたことを恥ずかしく思う気持ちがあったことは事実であるが、戦争を続けるよりは降伏した方が良いと分かっていたから、それは割り切っていたつもりである。私は死んだ人たちのことを思っていた。戦争の中で沢山の人が死んで行くのを見た。勿論助けようとはした。だが、限界があった。さらに、復員列車の中から広島の広大な廃墟を眺め、心臓が凍りつくばかりの衝撃を受けた。一死覚悟の上軍隊に入った私が、生きて家に帰って行く。ところがその地では、戦闘員でない多くの人が殺された。生きていて申し訳ないという気持ちであった。

 私は全面降伏の1年8ヶ月前に、所謂「学徒出陣」で海軍に入った。1年の訓練を受けて海防艦の乗組員となり、船団護衛に従事したのであるが、私の護衛した船団は結局ほぼ全部沈没した。勿論、護衛している海防艦とか駆潜艇とかが先ず襲撃されるのが普通であるが、海軍の船は小回りが効くように造ってあるので、魚雷の航跡を早く見つけて針路を変えれば、何とか魚雷をやり過ごすことが出来た。そういうことが何度もあった。ところが、荷物を運ぶために造られた貨物船はそうは行かない。潜水艦に狙われると、こちらの護衛艦が先に攻撃を掛けない限り必ず沈められた。

 見たのは戦争の極く一部の局面に過ぎないし、比較的短い期間であるが、それでも、言いようもなく空しい死が夥しく繰り拡げられた。もし、戦争が勝利に終わっていたなら、この空しさの感じは多少誤魔化され、和らげられたかも知れない。しかし、勝つまでは頑張れと言われて、全てを失いながら我慢していた人々、とりわけ犠牲者の肉親にとって、敗戦は戦争の空しさをゴマカシの効かない明確さで示すものであった。犠牲者の肉親は、生きて帰って来た私に対し、怒りと恨み言を述べるであろう。生きている申し訳なさ、負い目の感。これが、うつむいて歩かねばならない理由の第一である。

 

 第二の理由はもっと恥ずかしい、そして本質的なものであった。私は戦争中、軍服姿で得意になって歩いていたとは思わないが、クリスチャンとして恥じるところのない、清潔で凛々しい生き方をしようとし、また、しているつもりであった。その態度が、今は自分にさえ醜悪と思われるようになったのである。学徒出陣の海軍予備学生、これは祖国の難に赴く若き勇士たち、とオダテられたが、格好よさは海軍が宣伝のための演出であって、実質は奴隷であり、しかも軍隊の中での格式は特権階級であった。その特権に支えられて、清く凛々しく生きるプライドを維持しただけのことである。

 この事情をもう少し踏み込んで述べて置かねばならない。私は子供の時からクリスチャンとして育てられた。家の宗教に反発する深刻な時期もあったが、自らの生きる意味を問い詰めて、決断してこの道を生涯歩んで行こうと決めていた。その頃、クリスチャンとして生きるには相当に強い逆風に耐える覚悟が要った。

 その私が軍隊に入らざるを得なくなっている。キリスト教信仰と戦争が矛盾するのではないかという疑問は、私にもあった。クリスチャンとして立派で、軍人としても尊敬される人がいるという話しは聞かせられていたが、聖書を読むとそうならないのが正しいのではないかという気がする。それが分かっていながら、黙々と時代の流れに調子を合わせて軍隊に入って行く敗北主義には耐えられない。これでは、ものを考える人間として失格であるから、そういう惨めな流され方はしたくない、と思った。では、どうするのか。私は戦争に参加する意味を見出さなければならない。その意味は見出せたか。――私はこのように考えた。

 「戦争の行なわれている時代の中で、人々はみんな苦しんで生きている。私はその人々と苦しみを共に負わなければならない。苦難を回避しないようにしよう。それがキリスト者としての私の存在理由である」。

 自分で考えたつもりでいたが、後から見直すと、そう考えるように誘導されていたに過ぎないことに気がつく。つまり、こういう理由付けによって、戦争に批判的な傾向の人を戦争協力者に取り込もうという宣伝が、どれほど意図的であったかは分からないが、キリスト教の内部では行なわれていた。キリスト教の看板を下す人は別として、真面目に信仰の生涯を貫こうとした人は、みなこういう考えに達して割り切った。私もその宣伝に乗った。自分こそこの苦難を担うのだ、と思っていた。しかし、敗戦になって気付いたのだが、私は逃げたわけではないが、比較的楽な道を歩いていた。苦難の道を選ぶなどと言ったのは、全く独りよがりの空論、絵空事であった。

 実際は身勝手な誤魔化しに過ぎないことを悟らず、自己判断で良心的という気になって戦争参加の意義付けをし、一生懸命に生きて来たつもりの私にとって、日本の全面降伏は私の生き方を全面否定する判決であった。私の論じ方がゴマカシであったことを曝け出したと言っても良い。顔を上げて歩けない理由はそれである。

 

 今日は憲法や平和の獲得について語ろうとしているのであるから、私の戦争責任、その意識について論じるのは、内容的に関連があるとはいえ、時間的には無理がある。私自身の戦争責任の告発は別の機会に述べることにせざるを得ない。しかし、私が平和を考える時、平和を踏みにじって来た自分自身の責任を覚えつつ考えないではおられなかったという事情は語らなければならない。

 今言ったことは、私より少し遅れて生まれて来た人たちには当てはまらない。被害を受けたという点では世代の比較は出来ない。大量の戦死者を出したという点では私の世代が重荷を負わされた。しかし、生き残った者だけで比較するならば、私の後の人の方が損失は大きいはずである。

 私よりも若い人は、勤労動員によって、享受すべき青春を失い、若いうちでないと学べないことを学ぶ機会を失ったが、勤労動員という体制の中で彼ら自身の責任はない。彼らは奴隷労働に服しただけである。私の世代は、結局は同じ奴隷であったが、もう少し物を知っていたから、疑うことも出来、情報を批判的に聞くことも出来た。そして、私自身そうであったが、号令を掛ける立場についた。学徒出陣で予備学生になり、訓練が終了すれば少尉になるコースが自明であるように言われていたが、試験に落ちるように答案を書けば、予備学生にならずに済んだのである。要するに、責任がより大きいのである。

 ところが、戦後ズーッと見て来たが、私の世代よりは、一つ若い世代の方が、平和を守ることに掛けては熱心なのである。私の世代には、自分を被害者として美化する自己陶酔気味なところがあった。私の年で今なお平和の演説をする人は殆どいなくなっている。もともと反戦に熱心な人は少なかった。

 それでも、自分の世代のために一言弁明する。彼らは軍務に追われる時期が終わると、すぐさま生活に追われるように生活を切り替えさせられ、物を考える機会を失った。実際、彼らは戦後の復興の担い手である。私は短期間ではあるが、病院に担ぎ込まれて、広い士官病室に一人だけ寝かせられ、何もすることがなかったので、あれこれ考えた。そのうちに考えなければならぬことがますます増えて、考えるだけでは済まなくなった。だから私は同じ世代の人の分も背負って平和のための働きをして来た。

 

 それでは、生き延びた者の責任を果たすべく、戦後はずっと平和のために叫んで来たのか、と言われると、そうではない。戦争の不合理と空虚さという問題は考え続けていたのだが、平和のことについては5年間沈黙していた。――なぜか。

 実際問題として、差し当たってしなければならない仕事が山のようにあった。みんなが飢えていた時で、食糧と燃料の確保のため、平和を考えたり、論じたりは出来なかった。もう一つ、戦争に行っていた間の空白を埋めるために、時を惜しんで勉強しなければならなかった。戦争の空白と言うのは、戦争で学問が出来なかったというだけのことではない。戦争経験を経たから学びなおさねばならないと気付かせられたことが沢山あった。しかも、海外の情報が入って来ると、こちら側の遅れが惨憺たるものであることが分かったので、戦争の中で歯を食いしばって努力したに劣らぬ努力をしなければならなかった。

 今言ったことは、自分の知的貧しさを弁えた謙遜を身につけた、という意味を当然含むはずである。だが、私は戦争で死ぬほどの目にあっていながら、謙遜を身につけないで帰って来た。むしろ、権威ぶっている者に対しては以前に増して批判的・反抗的になった。もう怖い者なしである。それは、私でさえ戦争中の行動と思想についてこれだけ痛み入って反省しているのに、私を戦争に送り込むのに一役買った指導者たちは、どうして反省しないのか、どうして生き方を変えないのか、という不信感と怒りが募っていたからである。彼らは昨日まで軍部に追随し、今日は占領軍の意向に服する。その変わり身の早さを私は軽蔑した。

 ハッキリ言うが、そういう人がキリスト教会の指導者と思われている人の中に結構多かったのである。確かに、キリスト教には露骨な悪人はいなかった。それは善人ぶっている人が多いということか。そうだと思うが、そのことについては人を批判できない。私も善人ぶっていた一人なのだ。ただし、上に言ったように、私はそれまでの自分の行動と思想について自己批判を始めている。彼らはどうして私と一緒に徹底した反省をしてくれないのか。私から批判される側の人々は、自己批判なしで、以前から平和を守り続けたかのように、大きい顔をして、平和、平和と言っていた。私はその人たちとは別の道を行くほかない。戦争の忌まわしさについては割合よく知っているつもりの私であるが、その人たちと一緒に平和を口にすることをむしろ避けた。

 戦争と平和については人一倍関心を寄せざるを得ないにも拘らず、耳に入って来る「平和」という言葉が、空しい言葉としてしか聞こえなかった。戦争中、私は特に思慮深い人間でも知識ある者でもなかったが、戦争の実情を幾らか知っているから、勇ましい掛け声を聞いても、空しい言葉にしか聞こえないようになっていた。ところが、その言葉の空しさ、これが戦後も引き継がれているとしか感じられなかった。無条件降伏で戦争は終わったことになっているが、確かに一変した面はあるとしても、戦争の言葉の虚妄さは、平和の言葉の虚妄さに振替えられて、引き継がれる。

 

 平和憲法が制定されたとき、私は憲法制定の過程に無関心ではおられなかった。情報源は新聞しかなかったが、ジックリ読んでいた。この憲法で良かったと思った。もう戦争で無意味に殺される人はいない。これからの若い人たちは、私がそうであったような、無意味な戦争を意味づける空しく愚かな業に携わらなくて良いのだ。

 しかし、この憲法をこれから担って行くのは誰か。その大部分は風見鶏のように、風の吹き方によってどちらにでも向きを変える人ではないか。人間がそういう不安定なものであることが分かっているのに、その点は見て見ぬ振りをして、平和憲法を謳歌して喜んでおられるのか。こういう国会決議も何年かの後には覆されるであろう。私はそう予想したから、真剣にこれを支持しようという気にはならなかった。

 その予想は今ハッキリしているように、不幸にして的中したのである。しかし、私は「それ見たことか、私の予想が当たったではないか」とせせら笑うことは出来ない。私は悲しいのである。人間がそのような変わり易いものであることをそのままにして、「恒久の平和」というような、結局はウソになってしまう言葉を持ち出して来るゴマカシが悲しい。その時はそう思っていた。今はどうか。人間の本質は変わらない。しかし、人間を見る私の見方は変わった。だから、あそこで平和の学びを始めるべきであったと考える。

 

 もう一つ、キリスト教としての問題があった。伝統的キリスト教では絶対平和主義は避けて来た。ほとんど異端扱いであった。それは必ずしも偏狭な思想ではない。絶対平和ということを受け入れるためには、ヒューマニズムに接近し、アナーキズムを受け入れなければならないと考えられていたので、それに躊躇する人がいたのはもっともである。

 日本では国家の憲法が先行して、平和主義を先取りした。教会はその時、疑問を提出できたがしなかった。あの時、問題だとハッキリ言ったのは共産党だけである。

 私も疑問を提起しなかったのであるが、ただ一人で異を唱える勇気がなかったということも事実だが、戦争の理由付けのイカガワシサをすでに掴んでいたので、むしろ戦争放棄の方に利があるという考えに傾いていた。その判断は正しかったと思う。ただし、その正しさとの整合性を持つためには、大々的な国家論の組み直しを始めなければならない。この点で手落ちがあった。

 平和憲法制定の段階で、平和のための営みを熱心に始めなかったのは、私が依怙地過ぎたからかも知れない、と今では思う。あんな人たちと一緒にやれないという潔癖さは、その時としては当然であったとしても、他日に備えて平和憲法の学びの基礎工事に取り組むべきではなかったか。ここに5年近い時間の損失があったと認めなければならない。

 

 朝鮮戦争が始まった頃、私は大阪府の高槻で牧師をしていた。ちょうど教会の会議で東京に来ていた間、1950年6月25日に戦争になった。会議に全国から集まった人たちは動揺しているようには見えなかったが、私はいたたまれない感じで動揺していた。帰り道、東海道線の下り急行は、停車する度に軍用列車に追い抜かれて行く。それは戦争中の雰囲気そのものであった。忘れていた戦争の空気の匂いが漂う。また戦争に逆戻りしたか、と暗澹たる気分に陥ったが、今度はもっと破滅的な第三次世界大戦になるに違いないと私には思われた。すなわち、前の戦争では一方的に核兵器が2回使われるだけだったが、今度の戦争ではアメリカとソヴィエトが核兵器で殺し合いをするのが目に見えている。戦場は朝鮮半島に限定されないであろう。もうジットしてはおられない。私は行動を起こして、同志を募ろうと考えた。

 しばらく「平和」を口にしなかったが、戦争が終わって5年にまだ満たない時、もっと大きい戦争が始まった。それまで「平和、平和」と言っていた人が一斉に黙り始める。私が尊敬出来ないと感じていた人の本性がいよいよ見えて来た。彼らは戦争反対に反対であった。

 認めたくないことだが、2種類の人間がいるということがいよいよハッキリ見えて来た。権力に靡く人と、靡かぬ人である。人間をそう簡単に分けてはいけないということは心得ているのであるが、短期間のうちに戦争遂行の掛け声から平和の謳歌へ、そしてまたアメリカのする戦争、もしくはソ連のする戦争への追随へ、こういう変化を見せ付けられると、人間に対する信頼が保てなくなったのである。さらに付け加えて言うならば、近年に飛ぶのであるが、この政治家たちの変化、また教育行政に携わる者の平和への裏切り、あるいは挑戦。それらの現象は人間に二種類あるという、早く葬ってしまいたい仮説を、また復活させている。これは今始まったことではなく、ずっと前から続いていることではないかと思われる。そのことの解決が大事だということを人は忘れている。

 本当は、そういう単純な分類ではいけない。人間には、コロコロ移り変わるという変わり方でなく、変わらぬものへと変わる、生まれ変わる、その再生に憧れ、そういう道を求めなければならないのではないか。そういう求めの叫びを聞くことは、実際には稀であるが、人々の心の奥にはそういうものを求める疼きがあるに違いない。そして、それだから宗教が求められるのである。ところが、キリスト教の中を見ても、コロコロ変わる人と、変わるまいとする人の違いがあるのではないかと思われる。頭の痛い問題である。

 

 朝鮮戦争が始まり、平和の声が消えると、多数の人々は平和の希求を諦め、戦争への流れに抵抗しなくなったように感じられた。その時、私が考えたのとほぼ同じことを考える人があちこちにいて、平和を守るために何とかしなければならないと立ち上がった。労働組合と社会主義政党が当時はまだ元気があり、平和のための力であった。それ以外にはキリスト教の一部の人々が声を上げるだけであった。

 キリスト教の中で平和を叫ぶ人は、初め微々たるものであった。これは主として左翼アレルギーのせいだと思う。戦前、左翼の大弾圧があった時、キリスト教は左翼と自分たちとは違うということを必要もないのに強調して、反共体質を作り上げた。だから、平和は結構だが、共産党が関係しているから危険だ、と思うクリスチャン大衆が勢力を持っていた。大まかに言うと、キリスト教の中で「平和」を叫ぶ人と、叫ばぬ人、その顔触れがその時入れ替わった。

 5年近い時間の損失があったと私は言うが、平和憲法の基礎的な勉強をその間行なって置くべきだった。朝鮮戦争に促されて、平和のための実践を始めずにおられなかったのであるから、私の場合特にそうだったのだが、平和についての基礎的知識を持たないままで、実際の行動に入った。後からでも学べるではないかと言われるであろうが、後からは学べなかったのである。なぜなら、ジックリ学ぶことを差し置いて、取り組まなければならない緊急の問題が次から次へと課せられて来たからである。

 特に憲法の平和理念についての集中的研究をしていない。その時その時、必要に迫られて、憲法に関することも泥縄式に学ぶのがやっとであった。そのような姑息な実践をしないで、ジックリ研究する人になるべきではなかったか、と言われるかも知れない。それは出来ない。私が一生の仕事とする道は定まっていた。私が平和のことに携わるのは、職業的平和運動家としてでなく、ヴォランティアとして、一市民の義務として、聖書の中に「幸いなるかな、平和ならしむる者」と呼び掛けられていることへの応答として、また戦争に参加した一人の人間の償いとしてである。

 だから、今夜の話しは平和憲法擁護論と看板を掲げても、憲法学者のように整った理論を語るわけには行かない。戦争から生きて帰った素人の話しである。

 

 50年の朝鮮戦争を契機にキリスト教の平和運動が細々と立ち上がり、60年には安保改定反対の動きが国会を十重二十重に取り巻いた。運動としては大きくなったが、様々に複雑化し、平和のための力としては必ずしも強くならなかったと思う。憲法に違反する日米安全保障条約はますます定着して行った。

 私は政治に関わることに向かない人間であるが、平和のためにはこれらの政治的な問題にいちいち反対しなければならない。時間を取られる。好きでないと出来ない。しかし、好きになれない。戦争に参加したため、罰を受けて、生きている間じゅう平和を叫び続けなければならなくなったと、自分を寓話の主人公になぞらえる気持ちがふと起こる。

 70年には70年安保があったが、キリスト教の運動の主たる精力は靖国神社国営化反対闘争に注がれた。今では靖国神社が如何に危険なものであるかを、多くの人は知るようになったが、あの頃は神道の復興をキリスト教が邪魔しているというようにからかわれていた。またキリスト教の中にも教会が政治に関与すべきでないと論じて、結果的に日本の右傾化を援助する人も出て来始めた。

 目を外に向けて、世界の大勢を瞥見して置く。第二次大戦が終わってから、東西の冷戦が90年までズッと続く。平和を守ろうとするヴォランティアにとって辛い日々が続いた。こちらのアッピールは殆ど無視されると分かっているが、この声を絶やしたならば、戦争になるかも知れない。だから、叫びは止められなかった。

 ベルリンの壁が崩壊し、ソ連が解体したことは、平和のための行動に動員されることがなくなったということかと、素人考えで一安心したが、それどころか、それからが平和の本格的な危機であった。二大勢力の対立という形で抑制されていた忌まわしいものが、今や抑えがなくなった。圧倒的に高性能の近代兵器を持つ者が、安全な場所から、時代遅れの兵器しか持たない者を攻撃するというパターンの戦争が始まった。湾岸戦争、アフガン戦争、イラク戦争、と立て続けに、弱い者いじめの戦争が続く。弱い者いじめの戦争とは、弱い国の中の弱い者に皺寄せの行く戦争である。

 この段階に入って、日本の平和憲法はいよいよ危なくなった。平和憲法を覆そうとしているのは右翼勢力であると言われているが、私は日本国憲法の転覆を図っているのは、右翼勢力を威嚇する装置として利用しようとしている兵器産業だと思っている。兵器産業資本の主張が、憲法改正、武器輸出禁止原則の撤廃を露骨に推進し始めている。

 冷戦以後、兵器の性質が変わり、戦術思想が変化した。昔、軍隊を象徴する最も適切な言葉が「野蛮」とか「血なまぐさ」であった。実態は変わっていないと思うが、今ではそのような軍のイメージはかなりなくなった。精密機械や電子機器と、これを駆使する技術者が戦闘集団になった。血が流れているのを見ないで、遠い所にいる人を殺して行く。高価なハイテクノロジー兵器をドンドン買わせ、消費させることによって、兵器製造業は大きい利益を上げて来た。

 その利益に目を着けた経団連は、不景気に懲りている輿論を追い風に、憲法改正を経済戦略として進めようとしている。利益優先の方策が、今や遠くで行なわれている人殺しを意に介さぬ、極度に危険な段階に入った。私は59年前から軍事知識と関わりを持たなくなったので、実情を良く捉えているとは思わないが、昔の感覚から見ると、今日の海上自衛隊はかつての帝国海軍より存在を小さく見せかけていながら、能力的には比較にならない殺傷力を持つハイテクノロジーの艦隊である。戦場のモラル、そういうものがあると言うのも可笑しい議論だが、戦争する者の道義の感覚は著しく変化したと思っている。

 

 さて、戦争との関わりで終始念頭を離れなかったのは沖縄のことである。それにも触れないではおられない。私は海防艦に勤務したと言ったが、初めは沖縄根拠地隊司令部付ということで赴任した。司令部の近くには垣花という今は跡形もない部落があって、その村の住民が生活していた。沖縄の陸上戦闘の始まる2ヶ月と少し前である。

 間もなく上陸戦が始まる。私は気が気でなかった。というのは、こんなお粗末な防備では忽ちやられてしまう、と予想したからである。当時、知人がいなかったから、沖縄と聞いて思い起こす顔はなかったのだが、司令部にいた同僚たちのことよりは非戦闘員の方が気になった。なぜなら、軍人は死を覚悟し、またそれなりの待遇を受けるのだが、民間人は身を護る盾を持たず、軍人が民間人の盾となるべきであったからである。

 戦後、かなり経ってから実情を知った。沖縄で、盾となって死んだ軍人よりは、保護されないまま死んだ沖縄人の方が多かった。私はいずれ海防艦に乗る人間として滞在したのであるが、沖縄の民間人からは守ってくれる側と見られたことは確かである。ところが、私は生き永らえ、沖縄の民間人が殺された。「生きて帰って、済まない」という思いについては初めに述べたが、この感じを沖縄の人々に対して一層深く持った。だから、戦後、占領下でなかなか渡航許可が出ないうちから、沖縄を訪れることを始めた。もう何十回にもなるが、沖縄を知ることによって日本を知ることが出来たと思っている。

 海防艦にいた時に話しは戻るが、艦内に沖縄出身者が2人いた。その1人は私の直属の部下であった。沖縄の陸上戦闘が始まった時、私は彼に家族のことを尋ねた。家族はすでに熊本県に疎開していた。そのとき彼は驚くべき答えをした。「自分の家は祖父の代に内地から移って来たのであって、沖縄人ではない」。言外に、「沖縄人と一緒にしないでくれ」という拒絶があるのを私は感じた。

 彼には戦後会っていないので、考え方が変わったかも知れないが、戦前の沖縄に移住した本土の人の感情をこの言葉からよく汲み取ることが出来る。彼の頭には内地と外地の区別がある。沖縄は外地である。日本人によって征服された琉球人の住むところ、本来の日本ではない、と彼は思っていた。

 なんという酷い差別か、と思う人があろうが、今ではそう露骨な差別はなくなった。だが、差別していないつもりの人のうちに厳然たる差別が残る。例えば、米軍基地が沖縄に占める割合で本土に基地が確保されたら、民衆の不満で内閣は倒れる。沖縄に基地を押し付けて置くことを日本人は何とも思っていない。それは沖縄を低く見ているからである。

 私が今こういう話しを持ち出したのは、国の内に差別を設けて、そこに皺寄せして、表向き恰好をつけて行こうとの考えでは、国は結局、立って行かないと言いたいからである。そういう点で、現在の憲法にもいろいろ不備なところがある。ただし、現在の憲法でもキチンと実行すれば、不平等はなくなる。

 今、憲法を変えよというかまびすしい声が上がっているが、どういう憲法になるかよく見えて来ない。しかし、憲法を変えよと叫ぶ人がどういう人であるかを見れば、差別のない社会を作って行こうとする人でないことは確かではないか。

 

 日本では憲法改正と叫ぶ人が多くなったが、目を転じて、今日、世界が直面している問題は何かを考えよう。象徴的な事件は2001年9月11日の事件である。その事件が突きつけた問題、それに対する解答は出ていない。ブッシュは解答を出そうとしてアフガン戦争を始めた。けれども、彼が手を出せば出すほど事件は泥沼化した。だから、半分放棄したような状態である。

 次に彼はサダム・フセインを潰せば、事態は収まると予想して、多くの良識者の反対にも拘らず、イラク戦争を強行した。そして、警告されていた通り、イラクの国内はますます乱れ、収拾の見通しはますますつかなくなり、人はドンドン死んで行く。問題解決がいよいよ遠のいて行くのを日ごとに感じないではおられない。

 ブッシュの政治では駄目だということは明らかであるが、ケリーに置き換えれば良くなるというものではない。政治家の首の挿げ替えではなく、国家観というものの根本的な建て直しをしなければならない所に人類は来た。このままでは、近代国家は得する者はますます得をし、損をする者はますます損をする仕組みに他ならない。ブッシュが言い、アメリカの多数者が支持し、日本の政治家が追随している「正義」は、本当の正義でないのではないかと私は考える。つまり、アメリカの多数者にとって、正義は聖書から聞くべきものであったはずだのに、そうでないものになっている。信仰とは別のコダワリだけが残っている。

 私自身のことだから控え目に言わなければならないが、戦争経験と関連すると思いながら、戦後ずっと、自らの専門的研究としては、16世紀の宗教改革、中でもカルヴァンの宗教改革、わけても彼における教会と国家、また国家権力に対するキリスト者の抵抗権というところに的を絞って学んで来た。広く知られているように、カルヴァンと近代の立憲民主主義国家とは関連が深い。非常に大まかな言い方をするが、カルヴァンの宗教改革は憲法を持つ教会を建て上げ、その感化を受けて、憲法を持つ国家が成立するという歩みをしたのである。

 ヨーロッパで、カルヴァンの宗教改革が行き渡った地域において、会議制の教会が形成され、それと連動して民主主義の国民国家が成立したことは事実である。しかし、カルヴァンが考えていたものと一見似ていながら、実質かなり違った方向に、近代の国家、そして近代の教会が行ってしまったと私は考えるようになった。どこが違うか。かつては国家が無制約の肥大化をしないように、教会は精神的にこれを抑えていた。それだけの力を持っていた。今では、アメリカの例を見ても分かる通り、肥大化した国家機構を教会は抑えることが出来なくなっている。

 そして、肥大化は自己崩壊に繋がる。ハイテクノロジー兵器をドンドン生産し、消費して、それの廃棄物をどう処理するのか。60年前の軍隊廃棄物であるイペリットガス弾の処理さえ、まだ出来ていないことを見れば、戦争を起こした後始末の大変さを理解しなければならない。戦場に放置された劣化ウラン弾の破片はどうなるか。相手を撃つ兵器の齎す災害は撃ったもの自身に還って来る。

 

 十分言葉を尽くさぬうちに話しを閉じなければならない時になった。最後に呼び掛けたい、憲法9条が言っているのは、行き詰まった世界、とくに近代化し、崩壊を始めた大国が生き延びる道を示しているのだと確信を持とう。

 世界は行き詰まった。平和の危機が来ていることは確かであるが、それよりも、世界そのものの危機に陥っている。いや、それどころでない。世界は崩壊を始めた。あのニューヨークの世界貿易センターのツインビルの崩壊は、世界がその文明と富の先端部分から崩壊を始めたことの象徴であると考えなければならない。

 日本も好い気になって先端を走っているつもりのようである。だが、至る所で赤信号のランプが点滅しているではないか。絶対安全だと宣伝されていた原発は綻びを示しているではないか。犯罪と縁がないと思われていた小学生も、今では凶悪犯罪を犯すではないか。世界も日本も崩壊を始めている。その崩壊を食い止め、修復するためには何をすべきか。ここにいる者の一致出来ることとしては、日本の危機と世界の危機に目を開き、日本国憲法を守り、その規定を実行することがあろう。そこから始めるべきである。□

 

 付言。上の講演の始まる前に、教会の人々による「日本国憲法」前文と第9条の群読が行なわれました。

 

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