2005.08.12.
日本キリスト教会東京告白教会
平和講演会

 

「戦争の責任を担い得る国」

渡辺信夫


  東京告白教会は敗戦を記念して毎年8月15日前後に平和講演会を教会の主催で 開きます。この集会は教会の開くものではありますが、キリスト教の宣伝ではなく、教会の業績をあげようとするものでもなく、平和国家として再生しようと世界に向けて誓ったこの国、またその国の中で平和な社会を構築して行こうとする全ての市民を支援することを目的とします。来会者に対しては何も押し付けず、要求もしません。むしろ平和のために尽くそうと志す方なら、この社会の中ですでに共有されている常識があれば受け入れることの出来る見解を鮮明にして、それを各自の平和活動の助けとして用いてもらうようにしたいと考えています。久しく、一貫して小川武満先生に講師をお願いしていました。満州事変の始まった夜、一学生として軍の非常線要員に徴用され、のち陸軍の軍医となり、戦後は北京で現地除隊して戦犯者の処刑に立ち会って死体の火葬までした先生は、15年戦争を初めから終わりまで目撃した類のない戦争の証人でした。最後の2003年、90歳になった先生は講演の原稿を起こす体力がなくされたので、挨拶をしていただき、講演は東京告白教会の渡辺信夫牧師が受け継ぐことになりました。渡辺牧師も学徒出陣した海軍士官であり、 沖縄海域で幾度も死線をくぐって生き延びた人で残った命を伝道者として用い尽くすとともに、戦争の無意味さの証人として立ち続けています。

 


 崩壊する世界

 

 私はここ数年、「世界の崩壊」ということを頻りに考えさせられ、また語るようになった。私は一つの教会の牧師をしているが、教会の説教として、「世界の崩壊」という預言者的なメッセージを語っているわけではない。聖書には預言者という名で分類されるタイプの、独特な信仰指導者が登場する。彼らは後々の世に残る言葉を語り、自らは悲劇的生涯を送り、信仰者の一つの典型とされる。
 預言者という人たちは、神からこういう言葉を受けた、ということを人々に語る。しかし、私は神から「世界の崩壊を語れ」と命じられたのではない。私はもっと素朴に、聖書の伝えるイエス・キリストの教えを語る平凡な伝道者に過ぎない。世界の崩壊は聖書に書かれている項目の一つであるが、そのことを特に語るよう命じられているのではない。――ただし、神を信ずる者として、今、このように考え、また人に語ることが神のみこころに反するものではないとの確信を持っている。
 「世界の崩壊」という言葉を聞き、また世界の崩壊を語っている人を目の前に見ても、今の人は驚かない。それは現代人が鈍くなっているからだけでなく、そういう言葉を耳にする機会が多いからであると思われる。あるいは、昔なら特殊な人でなければ考えつきもしなかったことを、今では普通の人でも口にするようになった、と説明する方が適切であるかも知れない。私が世界の崩壊と言っても、反論されることはない。
 反論がないとは、支持されているということでは必ずしもない。反論しないとは、反論の根拠、また反対の論法を今のところ見出せないというだけのことだと私も承知している。今分かっていないことが将来ハッキリするかも知れない。今は崩壊しているように見えるが、そのうち修復されるということになるかも知れない。しかし、崩壊が始まったと言われて、積極的に同意はしないけれども、そうかも知れないと内心思っているのかもしてない。
 統計の上で危機が指摘されるようになってすでに久しい。しかし、人々は警告に無関心で開発を進め、地球の温暖化や砂漠化が進んだ。その変化は統計としては顕著であるが、人間の感覚では気付きにくかった。しかし、気候の変化はどうもおかしいのではないかと思う人が増えている。
 かつてはあり得ないと思われていた犯罪が頻発する。犯罪者に罪の意識がない場合が多い。人類の社会を保っていたタガが抜け、樽がこわれたのである。人間である以上は必ず持っているはずだと思われていた枠は案外脆かったのである。人間性というものに信頼を置いてはならなかった。人間について根本的に考え直さなければならない。
 そこへ2001年の9月11日、私、いや私などは取るに足りない小さい人間で、私よりもっと偉い人、また多くの人々が憂えることだが、世界の崩壊が目に見える形を取った。――ニューヨークの一隅で世界貿易ビルが崩壊したことが、世界の崩壊の手始めであったと言うわけではない。ただ、そこに世界の崩壊の信号が読み取れる、と多くの人は言いだしたのである。

 

 修復は不可能か

 

 これまでなら、地球上に何か問題が起きても、対策が講じられ、修復が行なわれ、その問題は概ね克服されて行ったと言えよう。ところが、9・11の事件に直面した時、人は言葉を失った。対策を考え出す力も失った。対策を立てることが出来るという安心感・信頼感はなくなっていた。
 勿論、狭い範囲では対策が講じられた。交通機関のセキュリティー・チェックは直ちに厳しく実施された。人々は極めて不愉快に感じながら、従順に持ち物と体のチェックを受けるほかなかった。だから、9・11事件と同じ手口の犯罪は起こっていないと一応言える。けれども、手口をチョットだけ変えれば、チェックをすり抜けることは出来る。実際、大規模な事件が頻々と続いて起こるようになった。
 根本的な解決はこれだと信じて、(あるいは信じたふりをしただけかも知れないが)アメリカ大統領は、多数者の支持を強引に取り付けて、イラク戦争を始めた。その段階で、この戦争では解決にならないと確信出来た人は少なからずいる。ここに集まっている人の大多数はそういう認識を持っている。
 日本でも、世界でも、アメリカにおいても、イラク戦争に対する反対運動が起こった。戦争を始める唯一の合法的理由はイラクが大量破壊兵器を隠しているという言い分であったが、それは実在しないと分かった。では、理由が無くなったから戦争はなくなったかというと、もともと理由なしで企てられた戦争であるから、理由がないことがハッキリしても、戦争は終わらない。ブッシュが根本的解決だと言ったものは、破滅の割れ目を大きくするだけのものであった。
 戦争が始まった時、我々が感じたもう一つの悲しみは、戦争反対のまともな理由が唱えられ、運動がかなり盛り上がっていても、戦争を停めることができなかった、ということである。我々、戦争をくぐって来た者が60年来持っている考えは、「あの時反対しておけば良かったのに」という言葉で表明される自責の念であった。
 この慨嘆の言葉は「きけ、わだつみのこえ」という題の、何本も作られた映画の中の最初の映画の終わりに出て来るセリフである。これが戦後の平和運動を支えていた言葉だと言うなら、それは持ち上げ過ぎであろう。それでも、まともな反対をすれば、戦争は防げるという期待がズッとあった。ところが、まともな反対があっても、戦争を阻止出来なかったということを「わだつみ世代」は、イラク戦争によって思い知らされたのである。十分な支えにならない幻影を支えにしていたという空しい思いに突き落とされた年配者がいるに違いない。
 昔から、「無理が通れば、道理が引っ込む」という諺がある。その通りのことが起こっているのだから、驚くに当たらないと言われるかも知れない。しかし、この諺も、これが世間の通例だから従うほかない、と言おうとしたものではない。確かに、道理について、あるいは道理を盾に取ることの無力さについて、自嘲気味な響きが感じ取られる。それでも、道理が引っ込む異常事態は、間もなく終わるのだ、という或る種の安心感を秘めて言われたものだと私は思う。
 その安心感は今やない。破綻しても修復される、という復原力を世界は持っていた。したがって、危機の克服、破壊の復原が期待できた。しかし、そういう期待は失なわれた。――諦めるのは早過ぎると言われるかも知れない。それが正解であることを期待したい。けれども、これまでの人類の経験であれば、これだけ失敗が続けば、考え直しに取りかかって、もう解決の曙光が見え始めているはずなのだ。ところが、事態はどんどん悪くなって行く。悪がより大きい悪を生んで、根本的なところでは修復のしようがない。

 

 閉塞状態の日本

 

 戦争に反対する人たちの予告通り、イラク戦争は解決をもたらさず、悲劇的な破綻は一日一日規模を拡大して行く。アメリカは初め、フセインを倒せば戦争は治まると言っていたが、戦争というものについてもすでに洞察を失っていた。サダム・フセインが全く戦闘能力も感化力も持たない囚人となったが、フセインと立場の違う人が別の意味の反米戦争を続けている。イラク国内でもテロによる悲劇は大きくなる一方だし、紛争は他の国に飛び火する。解決の見通しは立たない。今、我々に予想されることは、もっと深刻な事態が起こるということで、その予想は必ず的中するであろう。しかも、予防策はない、治療法もないということである。
 人は自分の力を過信していた。「自分の力は正しい、暴力には勝つことが出来る」と思っていた。しかし、正しい力だと思っていたものは暴力そのものであった。その洞察がないので、テロの暴力を制するため、と言っていたことがテロ以上の暴力になり、しかも反省を断ち切っているから、出直そうとしても金縛りに掛かって、動きが出来なくなっている。
 解決策としては、効果の期待できない理想主義だと言われるであろうが、「悪をもって悪に報いず、善をもって悪に勝つ」こと、復讐は神に委ねて、非暴力を貫くこと。これだけが、遠回りであるけれども、唯一考えられる生き残りの道ではないか。それは、戦後の日本に押し付けられたものかも知れないが、日本人これを選んだことは正しい選択であった。世界の崩壊に拍車を掛ける方向に留まるか、そうでなければ、完全な方向転換をするか、そのどちらを選択するかが59年前に日本に問われた。今、そのことの再確認が問われている。
 不幸なことに、日本政府は世界の崩壊を促進する方向に舵を切った。自衛隊をイラクに派遣して、「人道支援」という看板を掲げながら、イラク民衆から次第に疎ましく思われるようになっていることは我々の知る通りである。また、自民党が作った憲法改悪の草案は、暴力によって問題を解決しようとする方向をとっており、暴力は暴力を呼ぶという見通しを欠いたまま、日本を破滅の中に入れようとするものである。
 このような国内政治の動向は、日本における国家主義の復興に後押しされたものと説明されており、その説明は当たっているが、日本における国家主義の今日の興隆は、戦時中の軍国主義の跋扈について、戦後においてキチンと整理をつけなかった怠りの結果に違いない。国家主義というものはまた、日本独自の動向でなく、閉塞感に陥った世界において屡々行なわれる愚かな選択に過ぎず、選択肢の一つに、自覚なしに乗ったものであると私は考える。つまり、アメリカを中心として世界が動いているかのように思い込んで、日本がどこに立っているかを見る目を失い、アメリカ政府の言いなりになっていることである。
 こういう問題を論じるためには世界全体を考えて行かねばならないのであるが、私自身にはそれを十分論じるだけの力量を欠いていると自覚している。そこで、今日は主として小さい規模で、つまり、小さい人間として私が考えた知恵、また私にも関わることが出来る範囲のことを論じようと思う。

 

 60年前の空白

 

 私は60年前、海軍の下級将校として海防艦に乗っていた。海防艦は輸送船団を護衛するのが本来の任務であるが、守るべき輸送船はどんどん沈み、船団護衛業務はなくなった。45年5月末からは、九州北岸に機雷を敷設する敷設艦の護衛しか仕事がなかった。一日中陸地の見える所にいた。それが日本では、軍艦として動いている殆ど唯一のケースであった。その仕事もなくなり、燃料も乏しくなったから、動くことも出来ず、このままでは座して死を待つようだと呟きながら、無条件降伏の日を迎えた。
 どんどん敗けていることは分かっていたが、日本が敗ける前に私は死ぬであろうと予想していたので、敗戦のもとでどう生きるか、日本の国をどのように再建すべきか、というようなことは考えていなかった。だから、空っぽの頭で戦後の生を生き始めた。60年先でまだ生きているという予想もなかった。
 戦争中は毎日、今日が私の人生の最後の日になるのではないかと本気で考える生活をしていた。だから、今日は偽りなく生きようと心を決めていたが、今日の次の日のことまでは考えなかった。一日一日を真実に生きようとしていたことは嘘ではないが、如何に真剣に生きようとしたとはいえ、その真剣さは無意味であったと思う。ちょうど、いわれのない戦争で命を落とすことが無意味な死であるのと同じく、戦争のために生きている生も無意味であった。頭が空であったと言ったが、一日一日、その日の死に向かい合うことで知恵は燃え尽きた。
 だから、戦後、空の頭に毎日知恵を注いでやらなければならなかった。そのように毎日ものを考えることが出来て幸いであったではないか、と言って下さる方もあろう。そうかも知れない。私は自分に与えられた生について神に感謝しているのではあるが、このような生を普通は「幸い」と言わないのではないかと思う。私は悔いてはいないし、誰をも恨んでいないのだが、毎日毎日、今日が終わりかと思う生活を送ることは決して良くないと若い人たちには助言したい。若い人は一日一日精神を燃え尽きさせるのでなく、精神的な宝を蓄積し鍛えて行くのが使命である。
 
 一億総懺悔?

 

 戦後、すぐに作られたヒガシクニ内閣が「一億總懺悔」というキャッチフレーズを打ち出した。敗戦によって既に政府の威信が落ちていたから、人々は大っぴらにこの標語をあざ笑った。これを嘲笑したのにはそれだけの理由があると思うが、「一億總懺悔」ということ自体は間違っていたとは思われない。日本人全体が間違っていたから、懺悔しなければならなかったのである。
 しかし、これが敗戦にあたっての正しい処置であったとは思われない。誰が誰に対して呼び掛けた言葉なのか。自分には懺悔の必要はないと思っている人が、自分以外の人に「懺悔せよ」と言ったように聞こえるではないか。つまり、これは自分には責任がないという開き直りである。懺悔は、その必要を悟った人自身が実行してこそ意味がある。そうでなければ、虚妄な言葉になる。――これまで戦争の号令を掛けて来た最高責任者がホントウの懺悔を先ず実行したならば、この言葉は日本に根付いたのである。言うまでもなく、その責任者とは昭和天皇である。彼は責任を問われた時には逃げ回って醜態を曝した。
 敗戦の時、かなり多くの人は、敗戦についての責任が自分にあるのではないかと考えた。軍が白旗を掲げたその夜、これはどこでも見られた風景ではなかったかと思うのだが、私の乗っていた海防艦でも、予備学生上がりの士官が3人集まって深刻な顔でながながと語り合っていた。その中の先任の者が、「やっぱり俺たちが悪かったのだ」と言って、談話は閉じた。貧しい結論であったと言う他ないが、それなりの真面目さはあった。だが、その真面目さからは次の言葉が出て来なかった。思想が空白だったからである。空白な思想で懺悔しても空転するだけである。
 「一億總懺悔」という言葉からさらに考えなければならない問題がある。「一億」という数、これは植民地に住む人を加えたものである。植民地支配のもとに苦しんでいた人も同じように責任を負え、という残酷な押しつけがこの標語には含まれていた。そして、この理解は今日に至るまで、日本国民の大多数が抱いている。旧植民地の人で戦争被害を被った人たちは少なくない。その人たちが補償を求めて裁判を起こす。その裁判は全部負けている。あの時は日本国民だったから、戦争被害を受けたのは已むを得ない、と一方では逃げる。しかし、日本国民で被害を受けた者への補償がされているのに、旧植民知人には補償しない。どうしてか、と問われると、日本政府は国籍のない人には補償する責任はないと居直る。
 おかしいではないか。しかし、日本の政府や裁判所はこれで合法だと思っている。なぜ正しいと言うのか。法律の条文に抵触していないし、自国民でない者に支援する法律はないからであると彼らは言う。条文よりも正義そのものの方が大事であって、条文が行き届かぬところは、正義そのものによって解釈すべきではないか、と追求しても、そのような見解はこの国では通用しないと拒否される。裁判官たちは「国家無答責」という原理があるかのように言うが、これは架空の原理である。この問題はもっともっと追求しなければならないのであるが、今日のところはここで留めておく。要するに、権力を持つ者らの無責任を擁護するために法があるという理解であるが、そういうことを考える国は滅びると言っておく。

 

 ホントウの懺悔とはどういうことか?

 

 「一億總懺悔」についてもう一つ言って置かなければならないことがある。懺悔、これは仏教用語としてもとからあった。仏教では昔「サンゲ」と言ったようである。キリスト教では「悔い改め」という言い方の方が良く用いられるが、懺悔でも十分通じる。とにかく、これは宗教用語である。宗教用語は独特の意味合いを持つから宗教を信じていない人には分かり難い。大まかに言えば、最も奥深く掘り下げなければ掴めないものである。では、宗教を信じる人は「一億總懺悔」をどのように受け止めたであろうか。
 一応は懺悔の必要を考えたと思う。しかし、型通り言っただけの人も多く、型通りでないつもりの人でも、一度くぐればそれで罪が赦され、あるいは潔められたと解釈するのが普通であったと思う。
 しかし、懺悔とはそのような一過性のものではなく、通過儀礼ではない。他の宗教のことは問わないが、キリスト教では確かにそういう理解ではない。16世紀の宗教改革者マルチン・ルターは、宗教改革の口火を切ったと言われる「95箇条提題」の冒頭でこう言った。「我らの主であるイエス・キリストは、汝ら悔い改めよ、と仰せになったが、これはキリスト者の生涯が、不断の悔い改めでなければならないことを言われたものである」。
 「悔い改め」、また「懺悔」というものが、生涯を通じて反復・持続されなければならないものであることについて反対する人はいないと思う。では、敗戦とともに絶える事なき懺悔がキリスト教会の中で始まったか。……殆どなかった。ある詩人は筆を折った。ある作曲家は音楽活動を止めた。ある哲学者は「懺悔道としての哲学」という書物を書いた。韓国では神社参拝を拒否したため投獄された牧師たちは、解放された時、全ての牧師は2週間断食して悔い改めの祈りをしようと呼び掛けた。しかし、日本の牧師の中からはこういう声は挙がらなかった。ここには深刻な問題がある。
 「そういうお前はどうだったのか」と問われるであろう。その頃、私は牧師ではなかったし、キリスト教のことが良く掴めていなかったから、断食して悔い改めなければならないという発想には至らなかった。しかし、どういうやり方であるかは分からないが、懺悔を続けなければならない、したがって、自分自身が変わって行かねばならないと思った。
 私は敗戦の時、自分の歩んで来た道は間違っていたと感じた。だが、どういうふうに間違っていたのか。その間違いについて、戦時中、盛んに戦意昂揚を説いていた先生から教えて貰おうとは思わなかった。その人たちの言うことがウソっぽいことは、戦争中から気付いていた。ただし、彼らの言うことに納得して戦争に行ったわけではない。自分が間違ったのである。そこで自分の建て直しも自分で考えるほかなかった。だから、時間を掛けなければならなかったのである。
 
 思考の停止

 

 自分の考えの誤りについては前線に立つ初日に分かった。しかし、そこをキチンと考える時間がなかった。考えている間に殺されてしまう酷い状況だったからである。そこでは考え始めたことを凍結して、身を守るために瞬時も緊張を解かずに集中しなければならない。
 どういう点で自分の間違いに気付いたかというと、戦争で死ぬことには何の意味もないのに、それを意味づけていた。死ねば「名誉の戦死」と呼ばれること、しかし、ホントウのところ意味のない死だということは前から分かっていた。だから、海軍省から天皇の名によって「名誉の戦死」と評価されるのでなく、自分で納得できる意味の死を考えていた。それは隣人のために自分を犠牲にする死である。私はそういう死に向かって行くのだと考えた。
 しかし、戦争の中でそういう死があり得ると考えたのは、無知に基く空想に過ぎない。私が誰かの身代わりになったとしても、それで助かった人も、殺されるか、誰かを殺すかである。戦争という枠の中では生の全てが空しくなり、生きていても空しいし、死んでも空しいのである。その無意味さが、私の姿勢如何で意味あるものになり得ると思ったのは、全く軽率な独り善がりであった。このことが分かっていながら、掘り下げなかったのは何故かというと、前線に置かれたなら、考えることを停止して、反射的に身を護るために行動してしまうからである。
 戦争が終わった途端に感じ始めたもう一つのことがある。当然死んだはずのところを生き延びた者として、死んだ人に対する申し訳なさを感じないわけには行かなかった。それまでは「次は私の番だ」という感じで、人の死を親近感をもって受け留めていたが、それは言えないことだったと気付いた。その時までは、感じることだけで、考えて見ることはなかった。だから、感じたことは心の中に蟠っているとしても、道は開けない。だから、感じていたことを問い直して考えなければならなかった。
 特攻隊で死んで行った人の遺書に、「後に続く者あるを信ず」という言葉が割合多くあった。続く人々との一体感を仮想することによって、彼らは無意味感を逃れようとしたのである。
 これは逆に言うと、後に続くはずの者が続かなかったなら、先に行った者は見殺しにされたのである、敗戦によって死に向かうベルト・コンヴェイアが止まって、ベルトに乗っていた者は散ってしまう。散った人がそのまま忘れてしまうのが自然であるかも知れないが、乗せられていた時の印象は強烈であったから、意識は残る。それは人を見殺しにしたという罪責感と同じである。そういう罪責感を持って戦後を始めた人は少なくない。
 しかし、この罪責感は解ききれない難問である。戦争の非合理をそのまま背負い込んだものであるから、戦争の非合理に立ち向かう覚悟がなければ、問題は乗り越えられない。戦争から帰って来た兵士たちが遮二無二働いたのは、この問題の彼らなりの解決をさぐる努力であった。しかしこの勤勉は、物が溢れる時代になると、方向を失い、日本は志を持たない国家になった。
 罪責感の問題に戻るが、原爆の直接経験者の中に、事実、助けを求める人を見殺しにしたことによる罪責を感じて責められる思いを味わう人が非常に多い。前線において生と死が分けられる経験も同じである。生き残ることがどうして罪責感になるか、経験のない人には理解し難いかも知れないが、これが洞察出来ようになって貰いたい。この理解がないと戦争経験を引き継ぐことが出来ない。このことについては別の機会に論じる必要のある重要な問題である。とにかく、ここには生き残った者の責任という意識がある。そういう責任意識を生み出す危機体験が戦争体験であって、戦時の不便さや飢餓感だけでは戦争体験とは言えない。

 

 自分自身の負っている罪責

 

 戦争の中で、死と対座して、頭が空になっていたと先に述べたが、その空の頭を充たす中で、考えなければならないことが何かが、だんだん明らかになって来た。第一のことは、自分自身の戦争責任の中味である。死んだ人との対比において生きている自分の負い目を考えることは、早い時期に取りかかることが出来た。しかし、如何にすれば負い目を負うことが出来るかは、掴めていなかった。大体のことが分かるまでに。30年近く掛かった。
 30年とは遅過ぎる、と言われると思う。そう言われるのに対して弁明は出来ない。ただ、これはある程度年期を入れなければ見えて来ないものだということは言っておく。公共機関や会社で何か不都合があった時、「申し訳ありません」という謝罪が行なわれるが、ホントウに悪いと思っているのか、過ちを二度と繰り返さないだけの処置をしているのか、疑問に感じることが多い。「スミマセン」と言えば済むと考えられているように思われる。だから、同じ過ちが繰り返される。謝るなら、同じ失敗を繰り返さないように自分自身を作り換えねばならない。このためには時間を掛けて考えなければならない。
 出来合いのものを借りて来ることは出来なかった。ほかの人にとっても同じである。私が自分の悔い改めはこういうことなのだ、と2-3頁の文章、いや一冊の本に書き、人がそれを読んで、「よし、分かった」と言うようにするのは難しいことではない。しかし、それで私の悔い改めが正しく伝達出来たか。そうでない。では、何が足りないのか。その説明はしないで置く。これは皆さん銘々に考えて貰いたい。
 ところで、私の場合は悔い改めの中味が分かるまで30年掛かったとしても、みんなが30年掛けなければならないということではない。もっと短縮出来る。それでも、最小限捉えて置かねばならないことを捉えなければならないから、認識の量も必要だし、その認識も熟成されねばならない。一回の説明で即座に分かるということは、ないとは言えないが、時間を掛けて苦しむことを省略しようと狙っては道から外れる。

 

 ようやく見えて来たもの

 

 戦後30年掛けてどういうことが分かって来たかも簡単には説明できない。そこを敢えて簡単に言うとすれば、私は一方で自分自身の内面を掘り下げ、自分の罪について探求した。罪とその克服はキリスト教では初歩的事項である。私はとっくに信じていたことである。しかし、それをホントウに理解していなかった点もある。
 そして、もう一方、私の罪と関わりながらそれを越えた巨大な悪、社会悪、国家悪と呼ばれるものについて考えた。一見、合法的な装いを持つため、国家の悪が見逃されることが多いが、それを国家自身に分からせる働きをしなければならない。それは教会の使命のかなり重要な一項目である。当然、この問題を考えた先人の思想について私は研究した。こう言っただけでは良くお分かりにならないと思うが、理論の説明に時間を費やすことは今日は出来ないので、機会を改めるほかない。ただ、極く簡潔でも、その悪にどう対決するかという問題が大事な部分を占める。
 深いところの問題の説明の代わりに、私がどう変わったかを語れば、分かり易いと思うが、表面的な説明に終わる恐れがある。それでも、表面的なことから語り始めるほかない。30年すれば私は50代になっていたが、その年齢になって私は初めて外国に行くようになった。しかも次々と行くようになった。
 それまでは外国に行くまいと考えていた。戦争責任のこだわりがあったからである。戦争で人殺しはしなかったが、戦争に参加したこと自体が責任を問われる罪であると考えていた。責任があるから、一生国内に蟄居しなければならないと考えていた。
 軍隊に入ったのは自分の意志でなく、国家の権力によって強制されたのだから、責任はないではないか、と言ってくれる人は多い。その通りだと言えば気が楽になる。しかし、人からは咎められないとしても、自分を誤魔化すことになる。さらに、自分が気付いているほどであるから、神はもっと厳しく私を見ておられる。
 「自分を誤魔化した」と言ったが、戦争の時期、私は「おかしい」と感じることがあっても、おかしいと思わないようにしていた。「おかしい」と言うだけで警察に引っ張られる時代であったから、人々は思ったことを口にしないようにしていた。私はそれだけでなく、おかしいと思うことさえしないように自分の考えをネジ曲げ、骨抜きにしていた。ネジ曲げた自分の思想を人に語ることは幸いにしてなかったが、自分の内でしたことだから責任が問われないわけではない。先に戦争で死ぬことの意味付けをしたと述べたのも同じである。
 軍隊に入って良く分かったことであるが、みんな本心では戦争に取られて嫌だと思っている。表向き本音は隠しているが、仲間同士でくつろぐ時には、密告者がいないと分かっているから、本心を丸出しにする。
 例えば、マルクスを学んでいた者はマルクスなら今日の戦争をこう解釈するのだと言う。つまり、彼の思想は変わっていない。マスクで隠すだけだ。私の場合は、クリスチャンであることを隠さなかったし、キリスト教信仰の原理的なところは曲げなかったつもりだが、私のキリスト教信仰は自分でネジ曲げ、骨抜きにしていた。国家の巻力に対して何も異論を唱えないものになった。簡単に言えば、牙を抜き取られて、天皇のためのキリスト教になっていた。
 そういうようなクリスチャンは私だけではない。私はむしろそのように教え込まれてそうなった。ではあるが、自分に責任がないとは言えないことに気付いていた。自分の責任を棚上げすることが出来るような信仰は自己満足のための理念であって真の信仰ではない。それで満足出来るような宗教なら信じる意味がない。
 しかし、私にそのような過ちを犯させたキリスト教指導者がいるのであるから、その人たちの責任追及の方が先決ではないか。――そうかも知れないと思う。ただし、私自身はその指導者と同罪であるから、告発者にはなれない。
 私の一つ二つ下の世代の人なら戦争中の指導者を告発する資格はある。その世代の人たちは70年代に盛んな問題提起をした。しかし、その頃元気のある議論をしていた人たちの殆どは、昨今鳴りをひそめている。それどころか、その世代の中から右よりの牽引役が生み出されるのではないか。このことは、今日はこれ以上は突っ込まないが、彼らがかつて追求した戦時中の指導者よりももっと哀れな状態になっている。

 

 隣人の発見

 

 外国に行くようになったと話し始めたところに戻るが、私が幾らか名を知られる研究をしていたので、アジアの国々から講義に招かれるようになった。私はアジアの人々に対する加害責任を弁えているから、加害者の謝罪という意味を含めて、講義に行った。そして、もっと早くからこういうことをしているべきであったと悟る。
 自己宣伝に思われはしないかと気にしながら語っているのであるが、自分で感じたことを語らなければ、汲み取って貰えないと思って、こういう言い方をしている。同じような経験は他の人にも出来ると思う。
 アジアの幾つかの国のキリスト教会と神学校を訪ね、インドネシアを訪ねる機会が訪れたのは1980年であった。幾つかの神学校を廻って講義をしたが、最初に行ったのはジョクジャカルタの神学校であった。着いた日の夜、神学校の教授たちが歓迎の晩餐会を開いてくれた。こちらからも感謝のスピーチをしなければならない。私が日本の戦争責任、また私自身キリスト者として育ちながら、侵略戦争に加担した責任を考えに考え、侵略された国々訪ねて謝罪しているが、ついに赤道を越えて謝罪に来たという話しになった。
 その後すぐに校長が立ち上がって、教授たちに、明日のこの先生の講義は、宗教改革者カルヴァンについての予定になっているが、今語られたような話しを学生にも聞かせたいがどうか、と同意を求めた。この方は中国系インドネシアであるから日本の侵略戦争について良く知っているらしかった。彼の提案通り、予定は変更された。
 翌日、私は用意して来た原稿を用いず、原稿なしで前夜よりは詳しく、私自身が戦争中と戦後、どういうことを考えて来たか。また日本国家の戦争責任、その責任感の稀薄さ、そして、そういう国の中で、教会がどのような戦いをしなければならないか、というような話しをした。昨夜、予期しない反応を聞いたので、私は大いに緊張して、渾身の力を振り絞って語った。
 この時の旅行は、日本の改革派教会からインドネシアに宣教師として派遣されていた入船尊という先生が招いて下さったことによって道が開かれたものである。先生はズッとついて廻って下さった。こういう主題は、入船先生とかねてからいろいろ語り合っていた内容であるから、打ち合わせの時間はなかったが、私の言うことは的確に汲み取られて、良く意味の通じる翻訳になったようである。
 講義の後、前夜は出席していなかった前校長が立ち上がって謝辞を述べ始めた。謝辞を述べることは予定されていたらしいが、私の講義の内容は彼には予想されなかったことだけに、感銘が深かったようである。彼の謝辞は長いものになり、終わりには涙とともに語られ、私も非常に感動した。

 

 自らを知ることによって隣人としても回復が起こる

 

 多くの日本人がインドネシアに来て盛んな経済活動をしていることに、インドネシアの人々は必ずしも反感は持っていないと聞いていたが、学生運動の中には日本資本が跋扈していることについて、厳しい批判があった。そして反感を持たない人も、親しみと尊敬は感じていない。耳の痛いことであるが、例えば、ジャカルタの町には日本人クリスチャンが或る程度住んでいて、その人たちがインドネシア人の教会を借りて日本語礼拝を守る。しかし、日本人クリスチャンはインドネシアのクリスチャンと交わりを持とうとしない。まして、内的な問題を論じ合う機会はないようである。
 彼らは経済活動のためにその地に滞在しているだけで、生活の本拠は日本である。日本が戦争中ここで何をしたか、戦後は何をしなかったかについて殆ど関心を持とうとしない。また、日本の投資がインドネシア政府に汚職を引き起こし、この国の自然を破壊していることにも殆ど関心がない。
 そのように見られている日本の国から来た人が、日本の戦争責任を論じ、謝罪を表明するというような経験は、インドネシアの人たちにとっては初めてのことであったらしい。日本人は共存できる人々だという新しい発見があった。
 前校長は、インドネシア国をオランダから独立させる戦いを戦い取った闘士であるが、この国の独立以後の頽廃について深い憂慮を持っていた。この国のキリスト教についても、言いたいことがあったようだ。
 彼は言った。日本は自立している。日本の教会も思想的に自立している。インドネシアの国は辛うじて自立したが、政治面で自立しただけであって、思想的にはまだ自立出来ていない。インドネシアの教会も精神的自立に至っていない。精神的自立についてはイスラムの神学者の方が進んでいる。近年、日本から学ばねばならぬというので「ルック・イースト」と言われるが、我々は経済や工業で日本から学ぶだけでなく、むしろ思想的なことを日本から学ばなければならないと、声涙ともに降る大演説になった。
 腹を割って話し合うというところまで行ったとは言えないが、その方向に道が開けたことは確かである。では、討議が続行されたかというと、それはなかった。責任は主に私の側にあると思うが、その後20年以上インドネシアには再々訪れているが、ジャカルタで乗り換えて、そこからまた8時間の飛行が必要な西パプアとの関係が深まって、ジョクジャカルタ再訪の機会はついに来なかった。
 一回の話しに良い反応があったからといって、こういう姿勢こそが受け入れられると言って良いのか、との疑問があるであろう。私は一つしか例を挙げなかったが、基本的にはどの国も共通していると理解している。勿論、国によって事情の違いはある。ヨーロッパではオランダの人が良く反応してくれる。アジアではどこも日本の植民地支配と侵略で大きい被害を受けているから、同じように受け止めてくれるだろうと思われるかも知れぬが、一様ではない。
 台湾では、日本の戦争責任について論じると、「先生、そこまで言わなくても良いですよ」と言われる。それを聞いて得意になっている日本人が多い。しかし、日本に対して批判しない人に、もう少し丁寧に説明すれば、必ず同意して貰えることを私は経験している。その詳しい話しは今日は省略する。
 とにかく、アジアのどの国に行っても、日本人は大きい顔をしてはならない。へりくだることによってこそ、互いに信頼し合う関係を結ぶことが出来るのである。そして、近年の日本人には、その「へりくだり」がかなり急スピードで失われているのを私は憂えるのである。これが日本の崩壊の一側面である。
 すでに語り古されたことだが、ドイツと日本の戦争責任の取り方の違いが問題にされる。ドイツでは莫大な戦後補償を支払い、戦争裁判を自国の責任で続行している。この比較を示すことは効果的な説得策のように思われていたが、最近では必ずしもそうでないようになった。
 かつてドイツの大統領であったヴァイツゼッカーは戦後40年の記念講演で、ドイツの罪と責任について論じた。これは日本の思慮ある人々に少なからぬ刺激を与えた。すなわち、政治のトップの座にいた人が国家の道義的責任を捉え、政府はその責任を政治の面で、戦後補償という形で具体化した。これは戦争の時、大きい被害をドイツから受けた近隣諸国との関係を修復するとともにドイツ人自身の心の傷を癒した。隣り人を顧みることを通して、自分自身も癒され、祝福される。
 この元大統領が来日して講演した時、ドイツと日本の戦争責任への対応の違いは、文化の違いだと軽く片付けた。もっと深い次元で、せめて精神文化として、さらには宗教として捉えなければならないことであって、私には不満がある。文化が違うなら一律に比較することは出来ないということになり、日本人は劣等感を持たなくて済むのかも知れない。実際、日本では明治の時からであるが、ドイツから学んでいるという知的優越感をチラつかせて、他の日本人を見下して自己満足しする傾向があった。
 それに反発を感じていた人は、近年の国粋主義の盛り上がりを追い風にして、「ドイツ何するものぞ」と開き直るようになっている。そして、近隣諸国との関係はますます悪くなっている。
 ドイツと比較しなくても、インドネシアの評価から学ぶことが十分ある。自分の罪を自分で摘発し、謝罪する国、それが自立した国だというふうに向こうの人たちは教えてくれる。豊かな富や、高い技術よりも、自分の国が何をしたか、何をしなかったか、自国の歴史を美化しないで見据える国、そういう国が国際社会において尊敬と信頼を得るのである。こういうことを日本は60年間怠った。世界の崩壊が目に見えて来たこの時、再出発を決意しないならば、日本の崩壊は止まることがないであろう。

終わり

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