2005.10.31.


東京告白教会宗教改革記念公開講演会


「憲法九条の精神的支柱」

渡辺信夫


 キリスト教の講演会であるから、キリスト教の宣伝であろうと受け取っている方もあろうと思う。私はしかし、そういう話しをするつもりはない。むしろ、この国の、また世界の平和のために役立つことを客観的に語りたい。それを聞いて平和を守って行こうとする志を固める方がおられるなら嬉しい。
 客観的に述べるのであるから、キリスト教の犯した過ちについても当然触れる。キリスト教が教会の名において戦争をしたことが幾度もある。典型的なものとして、中世、11世紀から13世紀に掛けて、ヨーロッパから近東へと何度も攻めて行った「十字軍」がある。かつてキリスト教の地域であった所、特に聖なる都と呼ばれたエルサレムがイスラムの人々に征服された時、これを奪還するために戦争を起こした。彼らは十字架の旗を掲げ、十字架の徴しを身につけ、それで「十字軍」と呼ばれる。十字架がキリスト教信仰を象徴するものであることは知られる通りである。
 この戦争に反対するのは、神に対する反逆であると言われた。信仰の篤い人は戦争に参加し、あるいは資財を捧げた。純朴な人たちは大人も子供も踊らされて戦争に協力させられたという事実がある。――実際は、戦争によって儲ける人は大いに儲け、それ以外の人はこのために命を失い、財産を失い、社会全体が大きい傷を負うという結末になり、初めに掲げられていた戦争目的はウヤムヤになった。
 「十字軍」という言葉は、キリスト教国以外でも言葉としては知られているが、その言葉で人々の思いが燃え上がるというようなことは、日本では、我々クリスチャンの間でもない。しかし、ヨーロッパや特に北米合衆国では、「十字軍」という掛け声は、今でも人々を聖なる目的のために動員する力を持つようである。
 十字軍についてこれ以上長話しをするつもりはない。十字軍に触れた話しを締め括るに当たって、3つの点に纏めることが出来る。一つは、攻めて行く側にも攻められる側にも、何一つ得るところのない、惨憺たる結果であったこと。ただし、儲ける人はこれで儲けた。
 二つは、こういう愚かで邪悪なことを始める体質がキリスト教のなかに今日も残っていること。これはアメリカの現大統領のアフガニスタンやイラクなどの他国侵略の理由付けに用いられている。また、それに必ずしも賛成でないにも拘わらず、アメリカのクリスチャンの多くが戦争を止めさせる力がなかったことに表われている。見方を換えるならば、無宗教の人たちの間では、このような理屈による戦争の動機付けは働かない。では、世界を平和に保つためには無宗教の方が良いということになるか。そうでないことは言うまでもない。

三つ目は、キリスト教には自分の過ちを反省し、是正して行こうとする力がもともとあることである。この力がキリスト者なら必ずある、また強くある、ということは差し控えて置く。そうあるべきだということは確かであるが、現実はそうでない。キリスト教では、罪と悔い改めということを教えの根幹としているが、その教えがキチンと受け入れられていない。先に言ったように、十字軍という言葉を不用意に口にして自分を破滅させ、人も破滅させる人がいる。あるいは、自分の利益になると考えて、十字架!十字架!と唱える人は今も少なくない。
 なぜ、こういうことになるのか。――私は若い時、戦争にはそれなりの意味があると考えていたので、信仰を持っているつもりであったが、「学徒出陣」と呼ばれる戦争キャンペーンに乗ってしまった。前線に出て、戦争の実態を見、自分の考えが間違っていたことに気付いて以来、どうしてこういうことになったのか、長年考えて来た。けれども、まだ十分良く分かっていない。
 宗教が戦争宣伝に用いられたのは、キリスト教の特質と言うよりは、人間一般の持っている人間性の中にある闘争心が、宗教を利用して人々を戦争に駆り立てていると考えた方がスッキリするのではないか。――そこまでは分かって来た。
 それにしても、宗教が何故、良くないことに利用されるのか。利用されないための抵抗力、この世の動向を見分ける判断力がどうして足りないのか。この問題について私は60年間考えて来たと言っても誇張ではないが、まだ人を納得させるだけの理論を発見するに至っていない。ただ、自分自身は戦争の中を潜って来た経験があるので、戦争は絶対にいけないことだという結論を持っている。
 私のような戦争経験はないけれども、戦争は悪なのだと私に同調してくださる若い人がある程度いてくれるので安んじることが出来たが、今年9月11日以後、私は、自分に戦争経験があると主張することが無意味になっていると自覚するようになった。
 戦争経験者がドンドン死んでいっていることは分かっていた。それでも、まだ生き残っている人はいる。そして戦争に生き残った人は、たとい保守政治家であっても、戦争の経験のない人とは違い、戦争は避けなければならないと心に決めている。そう考えていた人は私の他にも多いと思う。しかし、戦争経験を経た人は世代交代というような名目のもとに全部責任ある地位から追われた。その後で選挙が行なわれた。
 政局の話しはしないが、少なくとも衆議院の大部分は戦争への抵抗力を持たないチルドレンで占められるようになった。その中には軍縮の専門家と言われた学者さえいる。宗教は平和を目指すと先頃まで言っていた宗教政党も内閣に入っている。そういう人たちが戦争を積極的に唱える人に変身することはないとしても、戦争勢力に抵抗するだけの思想も信念もないことは明らかである。
 戦争経験を頼りにして平和輿論を支えることが出来た時代はもう終わったと言わなければならない。第二次大戦の時、戦争反対をあくまで貫いて下獄した少数の人はいたが、かつて平和主義を掲げていた人の殆どは、大東亜戦争は有意義な戦争だから、遂行しなければならないと言い始めた。それがクリスチャンの大部分である。変節を表明するように拷問を受けたのは指導者層で、それだけの影響力を持たない人は強制もされなかったし、強制されなくても従順を誓った。また、拷問があったという事実は余り知られていないが、拷問に屈したことが知られると宗教人として名誉失墜になると分かっているから、言わなかっただけである。彼らは自発的であるかのように戦争支持に変身した。そして、戦後ただちに、何事もなかったかのように平和を唱え始めた。
 この変節を嘲る人は或る程度いたと思うが、昔の話しは今日はしない。あの日が間もなくやって来る、ということを私は考えずにおられない。これが現代日本で憲法を考える状況である。今日の講演会が計画されたのもそのためである。不吉な予想をするではないか、と嫌われるかも知れないが、その日が近いと覚悟した方が賢明であろう。生き残った戦争経験者の中には考えを変える人は比較的少ないとは思うが、影響力を持つ人には変節が強制される日が来る。彼らは平和についての発言を減らして行く。
 もう戦争経験のあるなしは大した違いでないようになった。それでも、あの戦争のあの場面で、自分は死んでいたのだから、もう死の脅迫を恐れてはいない、と言う人は幾らかいるかも知れない。

 

 ここで話しを戻して、十字軍の結末の話しを続けようと思う。どの宗教も容易に戦争のために利用され、戦争にノメリこむ体質を持つのだが、キリスト教はチョット違っているのではないかと感じている人はいる。思慮深い人の中に多いのではないか。表面的な違いだけで、程度の差に過ぎないと一蹴されるかも知れないが、平和の問題について、キリスト教は他の宗教よりは反応が早いということは、一応認めないわけに行かない。特に、日本のように、キリスト者の人口が1パーセントにも満たない所で、キリスト教側からの平和に関する発言は割合多い。これを誇るべき美徳であると言うのではない。むしろ、恥ずかしい点が多々あると言うための前置きとして語るのである。
 キリスト教が立派なように見えるのは、人数が少ないので、その分頑張っているからだ、と論じる人もあろう。必ずしもそうだとは思わないが、そうだとしても、何故、平和のためのそのような頑張りが出て来るのかという問いは残る。
 今度こそは頑張らねばならない、という思いを起こさせられる失敗の経験があったからではないか、と思う人があろう。この解釈は或る程度当たっている。今日、平和を口にし、また平和のために何ほどかの行動をしているクリスチャンは、例外なく、第二次大戦時の日本のキリスト教の姿勢が、神を信じる者としてあるまじきものであった、と考えている。そして、そういうことを言わないクリスチャンは、平和のために何か行動しなければならないという気持ちを起こしていない。これはハッキリ言い切ることが出来る、と私は思う。
 「あるまじきことをした」という自責の念があるということは、「かくあるべき」姿勢が分かっていたにも拘わらず、そこから逸脱したことを認めていることである。つまり、キリスト教には、あるべき姿についての意識が、他の宗教と比較して見ると、かなり鋭いのだ。言葉を換えて言うならば、キリスト者としてかくあるべし、という規範、これが比較的ガッチリしていること、したがってこれを丁寧に教育すること、そして、この規範に適っているかどうかを自分で検討して行く自己点検の姿勢、その意識、これがもともと強いのである。
 どうしてこういうことになるか。それはキリスト教が書物の宗教で、聖書をシッカリ教えていたからである、と説明出来ると思う。キリスト教ではみんなが聖書を読む。そして、聖書に従おうとする。こういう共通意志が他の宗教と比べて顕著である。そこで、信ずる者はこうでなければならない、という線がハッキリする。
 
 それでは、「かくあるべきこと」として何があるか。これを取り上げるためには、沢山のことを論じなければならないのであるが、議論が広がり過ぎて収拾がつかなくなるから、二点だけを今日は取り上げる。
 一つは、「平和」がキリスト教の教えの中で最も重要とされているという事情である。もっとも、その平和について、大切だということはハッキリしているが、具体的に、どのようにして自分の、また他の人々の平和のために尽くすべきかは示されていない。分かっているのは、絶対的非暴力、生命の尊重、隣人を己れ自身のごとく愛せよとの命令、復讐心の否定、殺人の禁止の絶対命令、また力を行使する抵抗の否定であり、イエス・キリスト御自身が十字架につけられて殺されるという理不尽を忍んでおられる。それに見習うほかない。しかし、原則は明確であるが、細かい点については指示が与えられていない。そこで、具体的指示がないことがむしろ良い方向に作用して、平和のために何をすべきかということが、いつもいつも考えられる。キリスト教は考える宗教である。

 

 今挙げた原理的な条項は、みな素晴らしいことであるが、実践がなかなか難しいと誰にも思われる。それでは、現実の教えとして追求するのが不可能な理想なのか。――ナザレのイエスとその後に随いて行く人たちは、理想主義を追求する思想家集団であったのかというと、そうではない。彼らはみな汗水たらして苦労する実践家なのである。もっと正確に言えば、彼らは神を信じるから、神の与えて下さる恵みによって、目指すところを達成しようとした。「平和を作り出す者は幸いである」とイエス・キリストは言われたのである。平和は憧れの彼方にあるのではなく、ここで作り出すものである。作り出すための力が足りないから、その力が与えられるよう祈るのである。
 ところが、平和は絶えず脅かされ、また崩されて行く。平和を維持する労苦は止むことがない。人々が平和だ平和だと謳歌している時でも、本当の平和になっていない場合が多い。例えば、マスコミを支配する人が「今は平和なのだ」という宣伝を流す。そうすると余り考えない人たちは、「そうだ、我々は平和なのだ」と思い込む。しかし、この世を良く見ると、平和を味わっていない人が沢山いる。その人たちは「我らに平和を」と叫んでいるのであるが、その叫びは人にはなかなか届かない。何も考えない人は、平和なのだと思ってしまう。けれども、私の周囲1キロ四方にいる人が本当にみんな平和なのかを考えて見れば、答えはたちどころに得られる。様々な不幸、苦しみ、それが満ち満ちているのに、隠されている。
 不幸や苦しみが隠されるのは、それに気付こうとしないからである、と言われるであろう。それもある。しかし、これを隠そう、人々の目に入らないようにしようとする力が働いていることに目を付けなければならない。その力を悪の力と言い切るのは言い過ぎかも知れない。しかし、そのような力が積もり積もって人々の苦しみをガンジガラメにしている。それと結び付いているのが戦争を起こす力である。ハッキリ言うと政治の歪みである。
 だから、キリスト教では、平和を守るだけでなく、平和を作り出すための努力と、平和について一心に考え、平和の思想を築いて行く歴史がズッと続いて来た。その思想が深いか浅いかは問題ではない。比較してみてそうだと言いたい人は、そう言えば良い。そして、このことについて私は今日はさらに突っ込んで論じようと思わない。

 

 キリスト教と平和との関係について、今論じたのは全く平板なことであって、誰にも理解出来るのではないか。ところが、これから語ることはそれほど平易ではない。しかし、こちらこそが大事であると私は思う。だから、ここは分かってもらうようにジックリ論じたい。
 キリスト教会では、「教会と国家」ということを頻りに論じて来たのである。これは、初めて耳にされたことかも知れない。キリスト教会と名乗っていても、こういうことを全然説いていないところが多い。キリスト教会でこういうことを論じる人は少数である。しかし、これは新しく唱えられるようになった学説というようなものではない。古い時代からキリスト教の思想の柱と言って良いほどの重要なもので、教会の学者と呼ばれる程の人なら、みんな考えていた。
 そういうことが聖書に書いてあるのか。――この通りの言葉、「教会と国家」という言葉は聖書には出て来ない。しかし、理論を整えて考えを練ろうとすると、こういう言い方になる。こういう見方を採り入れることによって、理屈っぽくなってキリスト教の大事なところが失なわれるか。それはない。
 そして「教会と国家」という視点から見るなら、聖書から随分多くのことが読み取れる。聖書といっても新約聖書だけを言うのでなく、旧約聖書からも多く読み取ることが出来る。――聖書の読み方はいろいろある。書物であって、本屋で売っているのだから、買って来て読むとき、いろいろの条件をクリヤしなければ読めないというようなことはない。しかし、自分一個人の心の平安のために読むというのと、これを読めば世界のいろいろのことが見えてくるというのでは、同じ物を読んでいても非常に違うのである。
 もう難しくて、ついて行けないと感じ始めている方がおられるかも知れないが、分かっても分からなくても、信じるか信じないかは別として、キリスト教ではこういう捉え方をすると見るようにして貰いたい。
 イエス・キリストが当時ユダヤを支配していたローマの総督によって裁判され、ローマの軍隊によって刑の執行が行なわれたことは誰もが知っている。ここを取り上げただけでも、教会と国家についてのいろいろな問題がザクザクと出て来る。
 ユダヤ人は当時すでに久しく何百年にも亘って国を失なった状態にあった。支配者は次々と変わったが、この頃はローマ皇帝がこの地域一帯を支配していた。イエス・キリストが、ガリラヤのナザレで育ち、ナザレのイエスと普通に呼ばれ、しかし、生まれた場所はユダヤのベツレヘムという町であったという事情も、当時における教会と国家の関係を見なければ分からない。
 キリストが語られた譬えなどは、教会と国家というようなことをまるで知らなくても良く分かるではないか、と言われるかと思う。しかし、そういう譬え話でも、教会と国家という観点から捉えたなら、もっと良く分かる。
 今、こういう話しをしていては今日の主題に今日のうちに辿り着けないので、先に進むようにさせて頂く。

 

 私が何を言いたいのか、まだ掴めないと感じている人が多いと思う。私自身は教会と国家という角度から光りを当てて聖書を読み、また世界を考えて来て、これが一番分かり易いと思っているが、語り馴れてはいないので、ギゴチない言い方しか出来ない。それで、教会と国家の関連ということはまだスッキリ分かったと言えないと思うかたの方が多いが、とにかくこういうものだと無理にも呑み込んで頂いて、次に、教会と国家とは性質の全然別のものなのだということに移って行きたい。
 イエス・キリストはある日こう言われた。「異邦の王たちはその民の上に君臨し、また、権力を振るっている者たちは恩人と呼ばれる。しかし、あなた方はそうであってはならない。かえって、あなた方の中で一番偉い人は一番若い者のように、指導する人は仕える者のようになるべきである」。(ルカ22:25-26)
 王たちは人民の上に君臨する。権力を振るっている者は権力の下に抑圧されている人から「恩人」と呼ばれさえする。つまり、人々はそう呼ばせられている。本当は恩を蒙ったわけでも何でもないのに、恩になっていると思わせられている。これが国家の正体だとキリストは言っておられると取って良い。
 それから、「あなた方の間では、指導する者は仕える者にならなければならない」と言われたのであるが、これが教会なのだと考えて頂くとかなり良く問題が見えて来るのではないか。
 ただし、国家の本質は権力を持つ者のやりたい放題のことが出来る仕組みであって、恩人でもないのに恩人と思わせる偽善が行なわれている、とキリストが言われたかどうか。このことで黒白をつける必要は必ずしもない。確かに悪しき権力者は多い。それは言って間違いない。しかし、権力者でなければ皆善人か。そうは言えない。
 だから、ここでは権力者がすなわち悪人であるかどうかという問題にハマリこまない方が良い。「権力者はどうであろうと、あなた方はそうしてはならない。あなた方は仕える者になりなさい」と言われる方に重点を置いて考えよう。
 あなた方の間では権力を振るってはならないのである。良い目的のためなら権力を振るって良いのではないか、と考える人があろう。「国家」ならそれをして良い。「国家」の中では恩人でない者が恩人と考えられ、そう考えられることによって社会の秩序が安定する場合がある。余り酷い場合は別であるが、権力の支配するところでは、そういうことも起こる。それが「国家」である。その秩序は守らなければならない。しかし、それと違った秩序がある。
 支配することによって存在意味を発揮する力がある。それはそれで一応の意味を持っている。だから、無政府状態が理想だというような軽薄なことは言うべきではない。ただ、あなた方はそうであってはならない。あなた方は支配するのではく、仕えるのだとキリストは弟子たちにお教えになった。それが「教会」なのだ。
 余り丁寧な言い方ではないが、ここに「教会」と「国家」の違いが描き出されたと言って良いと思う。これは。先ほども若干触れたが、教会が善で、国家や支配が悪、教会が光りで国家が闇だという意味ではない。この世にある秩序としては、この二様式があるということが示される。そして、教会は教会として、国家は国家として、その職務を正しく果たさなければならない、というのがキリスト教の原理である。
 ここで余分なことに少し触れて置かねばならない。というのは、先に引いたイエス・キリストのお言葉は「教会と国家」を説明するものとして受け取れば、分かり易いと言ったが、二つを対照して見ればこの通りであるが、「あなた方の間ではそうであってはならない」と言われたことがキリスト教会の中で徹底しているわけではない、ということを断って置きたいのである。私たちの教会はこれを徹底させようと努力しているが、そういうことをしていない教会が圧倒的に多い。教会がそのように仕えることをすべきだという点をさらに論じて良いのだが、今日のテーマではないので、これ以上は別の機会に語りたい。

 

 国家の問題に戻るが、その国家の姿勢がどうあるか、というところに教会の関心は当然向かう。教会は国家権力に対して監視する機能を持つのである。だが、この点を強調し過ぎることはこれまで殆どなかったし、今後も余りないに違いない。なぜかと言うと、教会と国家は担当する領域が違うし、持っている力が違うからである。教会は自己自身の務めについて厳しく自己点検をしなければならない。しかし、領域が別であるから、国家の領域に介入することは原則的にはない。そして、教会の持つ力は霊的な力である。はじめの話しに戻るが、教会は教会の本領を発揮するために、威嚇したり、圧力を掛けたり、刑罰を加えたり、武装したりすることはない。
 国家権力に強く反省を求めねばならないような状況は、全くないととは言えない。むしろ、近年はその必要が多くなった。本来の務めではないが、務めの外のことでも、果たさなければならない非常事態というものはある。今はそのような非常事態になっているのではないかという危惧される。この問題を棚上げするのではないが、教会の務めまたキリスト者の務め、ということについてはもう少し論じなければならない。
 教会は地理的には国家の範囲のうちにあると見られるが、その外まで張り出しているものでもあると捉えるべきである。かつて、戦争中、「人間であることよりも先に日本人でなければならない」という暴言が横行した。その後こういう暴言を吐く人はいなくなって、日本人であるのは人間の限界の中だと分かったが、昔の考えの人が近年また急に増えている。
 かつて交通の不便な時に、人は自分の生まれ育った地域しか見ていず、自分の国を外から見る経験を持つ人は例外であった。だから、狭い範囲の中でしか考えを練ることができなかった。今では、外から日本を見た人は飛躍的に増えた。それなら、さぞかし人々の視野や識見は広がったであろうと思われるのだが、近年の日本人の考えや行動を見ると、戦争中よりも視野が狭まっているのではないかと思われる。つまり、物理的に視界を拡大しても、見えていないことが多いのだ。
 日本だけの問題でないということにも触れておかなければならないであろう。世界中を飛行機で駆けめぐっている某大国の政治家が、広い視野で物を考えているかというと決してそうではない。物を広く見るとは、どこまで行ったかということとは無関係で、人間をどれだけ深く見ているかに掛かっている。
 それではキリスト教はどうなのかということになる。この点でキリスト教は優れているとは恥ずかしくて言えない。それでも、キリスト教の組織自体は国際的な連絡網を持っているから、余程かたくなに拒絶しない限りは、海外の情報が入って来る。古い話しになるが、1937年12月、有名な南京大虐殺があった。あの時、日本のキリスト教会の指導者たちは、アメリカに引き揚げて行く宣教師たちからこの事件を聞かされるとともに、この事実を日本中に伝えてくれと頼まれた。しかし、彼らはこの情報を誰にも伝えなかったようである。
 その頃、サンフランシスコの神学校にいた或る日本人から後年聞いたことであるが、中国から引き揚げて来る宣教師が上陸後、次々神学校を訪ねて来て虐殺と暴行の模様を伝えた。それでも、この人は帰国してからも、この話しを誰にも伝えなかったそうである。事実があっても、事実がフィルターを通すと、事実が消えてしまうという構造があるらしい。だから、折角広い情報網があっても、自分でそれを狭めてしまう。同じ様なことが今日もあるかも知れないから、良く注意しなければならない。こういうことが起こるかも知れないが、本当はないようにして置かねばならない。キリスト者は一つの国籍を持つとしても、教会に繋がるので、どの国にも属さない天国の国籍を持つ。そういう目で見ている。これが、教会と国家について押さえて置くべき要点の一つである。

 

 ここまで憲法九条の話しがひとことも出て来なかったが、それを持ち出す地均しをしているのだということにお気付きの方も多いであろう。
 憲法九条がキリスト教と関係があると考える人は多い。それは間違った考えだとは思わない。しかし、キリスト教の教えがストレートに憲法の条文になったというのではない。イエス・キリストは「自分にして欲しいことは人にもそのようにせよ」と言われた。これは、なかなか良い教えであるから、この教えを法律にしよう、と言う人がいるかも知れないが、それは出来ない。それが出来ないのは、人間に罪があって、人からして貰いたいという欲望の方が強くて、人のために何かするということが考えられない。それを法律によって無理矢理に実行させようとすると、国中の人が殆ど皆刑務所に入ってしまうことになるから、駄目なのだ、という理由を考えて納得している人が多い。しかし、この理由付けは正しくないであろう。
 教会と国家という二つの領域、これは宗教によって纏まっている集団と、政治によって纏まっている集団というふうに言っても良いのであるが、この二つの領域が全然別個のものであると考えたことをここで思い起こそう。それは教会が善であって、国家が悪だという意味ではない。宗教を国家に持ち込んでは、国家もおかしくなり、宗教自体もおかしくなる。人類の歴史を見て行くと、宗教と国家権力の分離ということが大事だということに人々はだんだん気付いて少しずつ実行して来た。
 昔の日本では、政治と宗教は一体だと捉えられていたらしい。政治のことを「マツリゴト」と言ったが、祭りをすること、これが政治権力者の主たる務めであった。そういうことが今ではなくなった。これは多くの国、多くの民族の中に共通して見られることで、アメリカでは合衆国の建国以前に出来たヴァージニア憲法、フランスではフランス革命などを経て、世界的に認知されるようになった原理である。――世界的に行き渡ったと言ったが、イスラム法はまだ別の原理をもっている。そのことについて、今日はこれ以上は触れない。
 宗教を信じる人のうちには、宗教が全てであるのが本当ではないか、という考えが根強い。これは教会と天国を混同した危険な考えだと私は考える。この混同の考えが残っている限り、宗教の名において悪を征伐すべきだという十字軍の発想が湧いて来る。良いことをしていると思いながら、人を不幸に陥れる。そして、そのことを自己検討しない。この不条理に気付いて、混同を整理したのが政教分離である。
 人間が進歩したというふうに考えない方が良い。進歩という考えはここに持ち込まないで置きたい。実際、昔と比べて、人類は少しも幸福になっていないし、少しも善良になっていない。考えが深くなった訳でもない。ただ、ものごとを整理するやり方は進歩した。そこで、「教会と国家の分離」ということを決めて置かなければ、自国も他国も不幸になるし、宗教が不純になると分かったので、政教の分離という原理を憲法に盛り込むに至った。残念なことだが、日本ではこの原理の分かっていない人が多い。これが全然分かっていない人が政治のトップになって、近隣諸国が大騒ぎをしているのに、なぜ大騒ぎするのかが分かっていないから、いよいよ難しいことになって来る。
 教会と国家の分離、あるいは政教の分離は、憲法九条の問題と結びついていないと思っている人が多いが、近年の自民党の政治家が起こす紛糾を見れば、ことの大切さは多くの人に分かったと思う。彼らは九条だけをなくそうとするのでなく、二十条を廃止したがっている。

 

 さて、憲法九条であるが、これが今危うくなっている。それで、この条項を守らねばならないという声が起こって来ているが、その声は大きいとは言えない。各地で講演会が開かれて、主宰者の予想を超えた人が集まるという事実もあるが、それでも、国内全体の機運は盛り上がっていない。
 そういう時に、私が論じているようなことを言っていては、間に合わないのではないかと心配する方もおられる。それは尤もだ。私もこういうまどろっこしい話しだけでは足りないということを知っている。しかし、教会と国家の区別、宗教と政治の区別、というような事も大切なのだ。こういうことをもっと早くから、もっと大きい声で言って来るべきだったと言われる。その通りである。だから、我々は40年以上前から政教分離の原則が破られると危険だと叫んでいたのである。
 昔叫んでいたのに、あなた方はどうして聞いてくれなかったのか、と人の責任を追及しても意味がないから、我々は人が聞いても聞かなくても、言うべきことは言う。
 私自身は60年来戦争責任の反省ということをずっと語って来た。他の人の責任はともかく、私は自分自身で納得して戦争に出て行った。そして戦争が如何に馬鹿げた、人を欺くことであるかにすぐ気付いた。それはまた、直ぐに分かるような偽りを見抜くことが出来ないほど自分が馬鹿だったから、自分の負い目について主として語るべきであるということになる。
 しかし、憲法が出来て、戦争放棄、交戦権の否定の条項が出来た時、良かったとは思ったが、心から喜ぶ気にならなかった。なぜかと言えば、この条項はそのうち抹殺されるようになると予感したからである。戦争中は「聖戦完遂」と叫んでいた人が、「今度は平和だ」と言っても信用出来ないのは当然だからである。その予感通り、1946年11月3日に公布された日本国憲法は、4年経たないうちにグラつき始めた。50年の6月に朝鮮戦争が始まり、占領軍は日本に一旦廃止させた軍隊を作らせる圧力をかけた。予想しなかったわけではないが、それまで、平和、平和、と叫んでいた人が一斉に黙り始め、それどころか、平和運動を取り締まるように豹変した。私自身が平和運動に関わり始めたのは、戦後5年経ってからである。その5年間、平和を論じる人は沢山いたが、私はその人に随いて行きたくなかった。
 平和憲法が発布されても、私はこれの宣伝をする気にならなった。何年かすれば覆されてしまうようなものを担ぎ廻っているのは馬鹿ではないか、と思ったからである。このことについては、私は自分の考えに問題があったと認めている。
 憲法が出来た初めの頃、人は皆この憲法を謳歌した。中には賛成が出来ないが反対すると占領軍に睨まれるので、恐れて黙っていた人がかなりいることは知っていた。私は良い憲法だと思ったが、良く分かっていないからであるが、こういうことを憲法で規定してよいのだろうかと疑っていた。宗教的な要素が大き過ぎるように思われたのである。
 聖書には「剣を捨てて鎌とし、戦争のことはもう学ばない。そういう日が来る」ということが書かれている。これはクリスチャンの間では喜んで読まれている箇所であるが、これが具体化したのが憲法九条であると受け取られ、手放しで喜んでいる人が多かった。私はそれはオカシイとは思ったが、どこがオカシイか分かっていなかった。勉強が足りなかったのである。
 どの点で私が間違っていたかと言うと、剣を捨てて、それが戦争で使えなくするという聖書に教えを実現することが憲法九条だと考えたのは、教会と国家の分離ということをキチンと捉えていないことだと気付かなかった。戦争放棄は聖書の言葉によって導かれたと理解するのが正しいとしても、聖書に言われているから正しいと言うべきではない。聖書と一致するならばクリスチャンは守るであろうが、そうでない人は守らなくて良い、とても守れない、それは理想に過ぎない、ということになってしまう。こういう言い分が憲法を覆そうとする人たちの動機になっている。
 戦争放棄が正しいのは、聖書に書かれていなくても、したがって聖書を信じていない人にとっても、正しいことだからである。実際、戦争を放棄し、軍隊を持たず、国の交戦権を否定しないなら、人類は自滅を食い止めることが出来ないということがいよいよ明らかになっている。軍隊や武器があったから助かったという実例があったであろうか。軍隊や武器を作ることで大儲けした人がいるという実例は昔からある。その悪はますます露骨になっている。日本の憲法を改めさせようとしているのは、武器を売り込んで儲けようとしている人たちだということが明らかである。なぜ武器作りかというと武器ほど儲けの多い商品がないからである。そういうことが分かっているのに、そのことが余り取り上げられなくされている。
 人類は自分の手で環境破壊をし、自分の墓穴を掘っているということがかなりハッキリして来たから環境破壊には気を遣う人も増えた。軍備と戦争に関しても同じ事が言えるようになっている。

 

 それではキリスト教などというものは要らないのではないか、と言う人があろう。要らないと思う人には要らない。しかし、神を信じて神の戒めを守って、神の造られた世界と人類を守って行く人は必要なのである。
 私自身にとっては、平和憲法を守って行く私、その私の確信を支えてくれるもの、それがキリスト教信仰であって、私にとってはその支えがいよいよ大切になっている。それで、最後に皆さんに問いかけるのであるが、皆さんは、日本の平和を守って行く自分自身を支えるものとして何をお持ちであろうか。本当に支えになるものを支えとして見出して頂きたい。これで、今日の私の話しは終わる。

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