上社村




日吉神社   観音寺   津島社   上社四丁目   猪高小学校 

その他の史跡




 上社村絵図(史跡の会活字化)


 上社村絵図

この村絵図は、藤森村絵図と同じ弘化4年(1847)に作られたもの。

村の中央を植田川(東→西→南)が流れている。

右端の「長久手かいと池」は長久手村への街道沿いにあり、「長久手街道池」のなまり。その後、どういう訳か「平池」と呼ばれるようになった。

その左の「小堤池(こつみいけ)」も、「古鼓池(こつみいけ)」と漢字表記が変わる。

その上の「念仏」は、「南無阿弥陀仏と彫られた念仏碑」があった所で、その念仏碑は現在観音寺墓地入口にある。

左端の「しんぞう池」は「神蔵寺池」のことで、一色村の人々によって造られた。『寛文村々覚書』に、「上社村神蔵寺池は当村(一色村)より立合用水取る」とある。

その上の「田池」は、現在の「社口一丁目」付近。

「山王権現」は現日吉神社で、「貴布祢明神」は現猪高保育園。その両者を結ぶライン上に、「鳥井ノ木(鳥居松)」があった。

中央の「城山」は、「上社城」があった山。


 上社村の主な字名

神田(じんで/じんでん)・・・油田。
(ながれ)・・・植田川が流れる。
除東(よけひがし)・・・西側に植田川から水を引いた用水路があった。
柄杓場(ひしゃくば)・・・「ひしゃぐ」という動詞からついた地名で、崩壊場所を示す。
足廻間(あしばさま/あしはざま)・・・足は葦、廻は谷の意で、水のあった低地を示す。
平池(ひらいけ)・・・この地に「長口海道池」という名の池があり、通称「平池」と呼んでいた。
鋳物師洞(いもじほら/いものしほら)・・・寺の鐘や仏像等の鋳造、武器や農具、鍋、釜などの製造、修理を行い、仕事が済むと他の土地へ移動して行った鍛冶屋集団が住んでいた。
(ほら)・・・崖、谷の意。
池ノ表(いけのおもて)・・・塚の杁池の表。
池ノ浦(いけのうら)・・・池の裏。


 沿革

藩政時代に入ってから、地頭小瀬新左衛門忠次の知行地となったが、それ以前は上社城を築城した加藤勘三郎(城主失踪後は家老の山田左衛門)の支配下にあった。

この山田左衛門重忠が、観音寺を再興したので、後世「やまだ(山田)きて たてしいしづえ かとう(加藤)なり あとをぜ(小瀬)ひとも のちのよまでも」という観音寺創立者読込御詠歌ができた。

城下には12戸(「森本家文書」では、37戸)の人家があり、その中には「やしろこげても(こけても)円蔵はこげぬ。せめて持ちたやかね蔵を」と歌われた森円蔵という豪農がいたと伝わる。

 戸数(人口)

 慶長6年(1601)          53戸(316人)

 文政年間(1818〜1830)   112戸(497人)

 大正6年(1917)         110戸(542人)

 ※ 慶長から大正までの300年間、人口は倍にもなっていない。人口が爆発的に増えるのは、昭和の区画整理後となる。




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