上社四丁目



 猪高保育園      上社4-262にある。

猪高保育園昭和27年6月、観音寺住職小瀬弘道(おせこうどう)氏は、本堂を開放して保育事業に当たり、園児の収容保育の為、美空保育園を開設した。

その後、独立した保育園を創る必要から、昭和28年8月、旧貴船神社の境内に新築し、猪高村立美空保育園(昭和30年、猪高保育園と改称された)として再発足した。

※ 旧貴船神社は、「やしろ」という村が、上社・下社・一色の三村に分かれる前の氏神。
「貴船大明神」が祭られ、人々はこの地を「下ノ森(八郎)」と呼んでいた。
明治44年、日吉神社に合祀。









 鳥居松付近
鳥居松付近の鉄塔字「前田」と「流」の境に、「鳥居松」と呼ばれる松が昭和40年頃まであった。

『猪高村物語』には、
「日吉神社から眺めると、本殿から下る参道の延長線上にこの松が見え、さらにその延長線を延ばすと下ノ森の貴船神社に達していたそうです」とある。

実際に鳥居松のあった位置は、この鉄塔下の道の反対側であるが、それは鳥居のなかった日吉神社の鳥居の役目をしていた。

「この鉄塔ができた時、松の上部を切ったので、それが鳥居に見えたから」という人もいるが、すでに「村絵図」に「鳥井ノ木」としてこの鉄塔付近に描かれている。

付け加えると、村絵図の「貴布祢明神」に鳥居は存在している。










 上社城    上社4丁目交差点東方にあった。

今でもかなりの急坂であるが、区画整理前は崖の様になっており、かなり削り取られているので、城跡の場所はなくなっている。

『尾張志』に、「上社村西島といふ民戸の南の方前山という地にあり。・・・長三十間(約54メートル)、横八間(約14メートル)」とあり、この城があった場所が、前山と呼ばれていたので、「前山城」ともいった。

城主加藤勘三郎は、本能寺の変で、二条城で自刃した主君の織田信忠(信長長男)を尋ねて京都へ出た後、行方不明になった。

城は家老の山田左衛門が留守を守っていたが、長久手の戦いで秀吉方に味方したので、城は焼かれたと伝わる。




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