古鼓池と小堤池 上の写真は、上社公園にある陸橋と記念碑である。 区画整理以前に古鼓池があり、それを埋め立てて上社小学校ができた。 古鼓池と小堤池(共に、こつみいけ/「こづつみいけ」のなまり)は、同じ池の年代による漢字表記の違いである。 しかし、『猪高村誌』は「池の項」で、以下の様に記載し、明確に区別している。 所在地 面 積 灌漑反別 小堤池 大字上社字東山 31反(9307坪) 11.9反(11.9町) 古鼓池 大字上社字東山 26.6反 200反 ※( )内は、『尾張国愛知郡誌』のデータで、「古鼓池」は記載がない。1反は300坪。1町は10反。 『猪高村誌』の池のデータは、基本的に明治22年に発行された『尾張国愛知郡誌』(田中重策編)に依拠している。 「灌漑反別」においては、「11.9町」の数字を10倍して「119反」とすべきところを、数字をそのままにして単位を変えるというミスを犯している。 編纂時に「古鼓池と小堤池は同一の池」という認識に欠けていたので、古鼓池の方は昭和初期頃のデータを持ち出し、あたかも2つの池があったかのような記載となってしまった。 ※『猪高村誌』は、おそらく「2つの池は同じ」と認識していたであろうが、その様な説明は一言もない。 「並列記載」をすると、後世の者が誤解することになる。 古老によると、 「子どもの頃から『古鼓池』の名称を使用していた。 あくまで推測であるが、小堤池は、灌漑の用をなしていなかった。 土盛りして堤を高くしたので、池の面積は減ったが水量は増え、灌漑面積は大幅に増えた。 この改修工事後、(小さな堤ではなくなったので)古鼓池と漢字表記を変えたのでは」という。 上社区画整理完工記念「いこいの塔」 上社公園いこいの園にある。 (裏面)上社土地区画整理事業完工記念 この地は、古く山田庄に属し、尾張志によれば、上社城(城主加藤勘三郎)跡の観音寺南の丘陵地にあり、柴田権六勝家が上社村の人と記され、寛文覚書には、寛文11年(1671)家数53、人数316からなる集落の記録がある。 上社村は、明治22年高針村と一社村とが合併して高社村に、同39年には猪高村となり、太平洋戦争を経て、昭和30年4月に名古屋市に編入された。 その当時の上社地区は、農地約5割、山林原野約4割、人口1100人程の農村であったが、我国の高度経済成長のなかで、名古屋の交通の東玄関として、又ベッドタウンとして、注目され、都市計画に基づく広小路線と東名高速道路との連結、地下鉄東山線の建設促進等を契機として、良好な市街地建設の気運がたかまり、市の技術援助を得て、昭和40年組合を設立し、東西約2.8キロメートル、南北約0.9キロメートルの区域で土地区画整理事業を開始した。 本事業には、困難な問題が山積していたが、道路公園等の公共施設の整備はもとより、地下鉄東山線の延長に伴う用地及び上社駅前用地の寄付をはじめ、名古屋インターチェンジ、区役所、社会教育センター、土木事務所、小中学校等の用地確保に組合員の協力を得て健全で優良な市街地としての形成発展に多大の寄与をした。これらに対し、昭和56年に内閣総理大臣、昭和58年に建設大臣から各々賞を授与された。 ここに組合の総力により、左記の事業が完工するに当り、この地域の発展と平和で安全なくらしを祈念し、記念塔を建て後世にこれを伝える。 記 一、事業開始 昭和40年10月2日 一、事業面積 2,005,948.28平方メートル 一、総事業費 142億8600万円 一、事業完工 昭和60年7月吉日 一、組合員数 1,591人 うとう坂 区画整理前の道幅は、三尺(約90センチ)しかなかったという。 『猪高村誌』に、 「長久手合戦の時敗残兵が逃げて来たので、これを追撃した兵が、此所で『鉄砲をうとう』と言ったのがこの坂のもとになり、現在『おとう坂』といいならわしている」とある。 「うとう」とは「細長い谷」という意味だが、その語感から「鉄砲をうとう」という話が出来上がったと思われる。 中山道に、「謡坂石畳」(岐阜県可児郡御嵩町)という史跡がある。 その話の出来方が、上社の「うとう坂」とよく似ている。 以下、『中山道往来(御嵩町教育委員会発行)』というガイドマップの説明文。 《京から東へ向かう旅人は、「牛の鼻欠け坂」からこのあたりへと続く坂道に息をきらせました。そこで、苦しさをまぎらわすために唄をうたいながら坂を登ったことから、「うたうさか」から「うとうざか」へと転化し、地名になったのではないかと伝えられています》。 トップページにもどる 上社村にもどる |