津島社 



 津島社    上社3丁目(観音寺の北東方面)にある。


 津島社天王祭り (2013/7/11) 天王祭りのご案内

「おしゃと」説明文 おしゃと

2013年、古老の記憶を元に、約40年ぶりに「おしゃと」が復元された(写真上左の左端)。

現在の津島社は、土地区画整理によってこの場所に建てられたものであるが、それまでは毎年「おしゃと」と呼ぶ仮殿を、現在地より少し北にあった天王の祠(現在は観音寺境内にある)の前で、竹と小麦悍(ムイカラ)を使って、一日がかりで作っていた。

「おしゃと」の漢字は、「御社頭(天王の祠の前の意)」か「御社塔(見た目)」ではないかと推測される。

また、写真左の「本文」で、「木造の本式本殿」とあるが、津島社は鉄筋コンクリート製である。

写真の小麦悍(ムイカラ)は、豊明市から貰ってきたもの。

この辺の事情は、日吉神社の棟札(昭和50年7月吉日付)に、
「社殿はその都度竹材をもってつくり麦のカヤで屋根を葺き、竹の丸柱をもって地上五尺程の高さに安置した。
然るところ現下の諸状勢は特殊技術と資材難とにより、この伝統ある慣例も止むなく桧造りの社殿とせざるを得なくなり、協議の結果、旧来の臨時社殿はそのまま日吉神社倉庫内に保存し今回新たに鎮座地を選定、新社殿を構築した」と記されている。


津島社は、日吉神社の管理下にあるので、氏子総代が中心となって、毎年7月11日に天王祭りが行われている。

例えば猪子石では、天王祭りを「7月15日以前の日曜日」に行っているが、上社では曜日に関係なく、7月11日(2013年は、木曜日)である。

上社には神職がいないので、地元の行事優先の宮司さんを、日曜日に呼べないという事情もあるようだ。

天王祭りは、11日午後4時から、日進市岩崎の白山宮の宮司さん(名東区の日吉神社・高牟神社・貴船神社・貴船社兼職)を招いて行われていたが、2013年から午後5時に変更された。

式次第は、まず宮司さんの祝詞(のりと)。その後、笛・太鼓の奉納があり、最後に、氏子総代長・奉賛会代表・太鼓保存会代表・消防団団長・子供会代表等による玉串奉奠(ほうてん)がある。この間、20〜30分あまり。

この式典が終わると、大人たちは直会(なおらい/神事の後の飲食会)。学校帰りの子ども達は、法被(はつぴ)姿で津島社周辺を廻ってきて(2013年は、中止)、お菓子を貰って解散となる。

天王祭は、悪疫や病害虫が発生しないよう願う農民によって盛んになった。

天王といえば津島神社をさすようになったが、これは京都祇園の後霊会(ごりょうえ)が起源。

この頃は、疫病がはやり出す季節であると同時に、農村では田畑の作物につく病害虫に悩まされる季節でもあり、「虫送り」の行事がこの頃(夏の土用=7/20〜8/7 とも)に行なわれた。

虫送りのルートは、「大幸〜猪子石〜藤森(おんか松)〜上社〜おんか山」であり、神事なので、観音寺に上がらず、この津島社(移動前の)が使われたのではないかと推測するが、『猪高村物語』では、「藤森(了玄院)〜上社(観音寺)」となっている。

古老からは、「神職がいなかったので、観音寺の故小瀬弘道(おせこうどう)和尚が祈祷役を務めた」という説と、「神事に観音寺の住職は一切関係していない」という説とを聞いた。


 おんか山と棚田 (猪高緑地) 棚田の手前にある「行列絵図」


 おんか祭

「おんか祭り」とは、「虫送り」のことである。

「おんか」は虫の「うんか」がなまったもので、「うんか」は、イネの害虫となる体長5ミリぐらいの昆虫。

大発生して米の収穫に大打撃を与え、江戸時代に起きた享保の大飢饉の原因とされる。

大繁殖して大群をなす様は「雲霞(うんか)のごとき」と形容されている。

この祭では、鳥(虫を食うから)や馬に乗った斉藤別当実盛(さねもり)の張りぼて人形(上の行列絵図は、実盛の藁人形のようだ)が使われた。

田を回りながら、終点の「おんか山」まで来ると、飾り物はそこで捨てられ(焼いたという説も)、区長(大字上社の長のことで、猪高村ができる前の上社村村長にあたる)から酒がふるまわれた。

「おんか山」は、江戸時代に「石亀堂山」と呼ばれ、長久手との境なので道祖神が祭られていたという。


 斉藤別当実盛

民俗学者・宮本常一氏の『ふるさとの生活』に次の様にある。

 《実盛は平家物語では、手塚太郎というものにうたれたことになっていますが、いっぱんのいいつたえでは、馬が稲株につまずいて倒れたために敵にうたれ、きのどくな死に方をしたので、稲虫になって害をするようになったなどといっています。
そして昔は田植えのすんだあと、人形をつくって虫送りということをしていましたが、この人形を「実盛さま」などといっています。
きっと田の植えじまいを「サナブリ」とか「サノボリ」とかいっているのをサネモリとなまって実盛に結びつけたのでしょう》


 上社村の中心地


上社村の中心地観音寺の北側にある。

道(電柱下)の手前の狭い駐車場(軽自動車が駐車)付近に火の見櫓・津島社・秋葉の常夜灯・馬頭観音があり、道の向こうの現有料駐車場付近には行者堂があった。

※行者堂の位置については上社の古老に聞いたのだが、「ここではなく、現在の津島社がある辺りが正しい」との指摘がある。
一色村の行者堂の位置も、古老の話と村絵図とではかなりの隔たりがある。
一色村の場合は「時期は不明だが移動した」と思われる。

両駐車場の間の道を観音道(かんのんみち)と呼び、かつては写真(止まれの標識)右側付近に公会堂もあって、上社村の様々な行事の中心地だった。






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