最近訪問した塔婆・ご提供画像(2004/07/31〜2004/10/31 )

過去の訪問塔婆履歴

2004/10/31 讃岐中寺廃寺塔跡 詳細は「讃岐中寺跡」のページを参照ください。「X」氏ご提供
2004/10/11 卯木山妙蓮寺三重塔跡 詳しくは卯木山妙蓮寺のページを参照ください。
山城安祥寺多宝塔跡 詳しくは山城安祥寺 のページを参照ください。
2004/09/18 播磨中西廃寺薬師堂
  同      心礎1
  同         2
  同         3
  同         4
  同      礎石
  同    露盤・刹1
  同         2
  同         3
  同         4
 
▲薬師堂境内に心礎および複数の礎石がのこされているようです。出土瓦から創建は7世紀末で、平安期まで存続したとされる。心礎は(日本の木造塔跡による) 2.2m×1.85mの丸石に、径76cm・深さ26cmの孔を持つ。さらに孔周囲に径88cmの環状排水溝を廻らせ、孔から環状孔に6本の連絡溝と外への1本の排水溝を持つ。
中西廃寺心礎図(「古代寺院からみた播磨」から加工)▲
△心礎1、円形造出側柱礎5を残存、伝慶明寺跡△
環状排水溝は巾4〜5cm深さ1,5cm。
薬師堂の境内には数個の礎石が残存する。寺跡は南に下るなだらかな丘上にある。
「石井(いわい)の清水」(弘法大師伝説を持つ)の井戸枠には廃寺の石造露盤と刹が転用されている 。「印南郡史」:露盤は「三方三尺許りの石に直径一尺三寸の穴を穿ちて、井の上に置けり。云々」
露盤は一辺97cm、内径上部45cm、下部49cm、高さ65cm。刹は外径46cm、内径30cm、高さ65cmで井の中にある。
播磨山角廃寺心礎1
  同        2
  同        3
  同        4
▲奈良期の瓦を出土。心礎は平荘小学校の校庭に保存。
なお報恩寺参詣曼荼羅図(報恩寺は寺跡に隣接、曼荼羅図は16世紀)には三重塔が描画されている。▲
この心礎および廃寺についての情報は少ないですが、小学校のすぐ北東にある報恩寺の心礎とも思われます。が、関係ははっきりしません。
実測:大きさは130×120×75cm、径33×15.5の孔を穿つ、径70×高さ2〜3cmの柱座を持つ、小型の心礎です。なお残念なことに孔の底にはセメントが残り、底の状態は観察できません。おそらく、何かの台座として使用されていた名残りと思われます。凝灰岩製という。
播磨報恩寺本堂
 同 石製十三重塔
報恩寺参詣曼荼羅(室町末期・加古川報恩寺蔵):荒廃した堂塔の再興勧進に用いられたようです。
楼門の正面に本堂があり、楼門を入ったすぐ右に三重塔が描かれています。
報恩寺参詣曼荼羅  報恩寺参詣曼荼羅部分図
報恩寺は和銅6年(713)証賢上人の開基と伝える。境内には隆盛を極めたころの鎌倉〜室町期に賭けとの有銘の多くの石造の塔・板碑・石仏を残す。写真十三重塔は元応元年(1319)のもので(相輪は後補)、19尺(約5.64cm)、常勝寺の銘がある。
鎮守社は明治の神仏分離で平荘神社となり、東隣に現存。山角廃寺との関係ははっきりしません。
播磨石守廃寺復元土壇
  同      心礎1
  同         2
  同         3
  同         4
  同         5
  同         6
  同 心礎排水孔内
  同 心礎排水孔外
  同       礎石

 
▲1983-84年の発掘調査で、塔(西)、金堂(東)、中門(南)跡を検出。回廊ではなく柵列が廻らされていたとされる。出土瓦から8世紀初頭から9世紀ころまで存続したようで、寺域はほぼ1町四方と推定。
塔基壇は1辺約11Mで石積基壇とされる。また側柱の根石も検出され、塔は1辺6Mの規模とされる。
心礎が現存する。石守廃寺心礎図(「古代寺院からみた播磨」から加工)
なお風鐸・水煙(破片)も出土しているようです。▲
「日本の木造塔跡」では「川原寺式(上に石碑あり)」とあり、近年まで台石であったようです。
心礎は現在、土中に埋められ、そのため上記の心礎図の向かって右の大部は土中に隠れ、そのため見た目には柱穴が極端に端に寄り、異形な心礎に見えます。 上図から判断すると、土中に見えない部分もかなりあり、下記実測の大きさより、実際はもうひと回り大きい心礎と思われます。
実測:見える範囲の大きさ190×180cm、径60×20cmの円穴を彫り.円穴底から外に向かって水平に排水穴 が1本貫通している。これは心礎の一側面が約45度の傾斜をもつため可能な造作と思われます。排水穴の長さは約13cmで、出入口の径6cmで中間部の径は約4cmくらい であろう。
現在日蓮宗宝塔寺境内と思われる場所にある。 境内?自体が造成工事中で、心礎も現在(写真のように)土壇が造成されているが、これも個人(寺院)の工事なのか公共工事なのか、見当がつきません。その心礎は動かされているのか、造成された土壇は、発掘成果から見て、ある程度忠実なのかなどは全く不明です。なお土壇上には、礎石らしき石が2,3個置かれている。心礎と同質の石と思われ礎石であるようには見えます。宝塔寺自体の実体も皆目分かりません。
播磨西條廃寺復元基壇1
  同           2
  同      心礎1
  同         2
  同         3
  同         4
  同      塔礎石
  同  復元瓦積基壇1
  同  復元瓦積基壇2
▲1981年からの発掘調査で、塔(西)、金堂(東)、講堂(北)跡を検出。ただし回廊は無かったようです。瓦の年代から7世紀末創建で、9世紀頃 退転したとされる。
塔基壇は1辺約11Mで瓦積基壇とされる。塔跡・金堂跡には礎石痕のみ認められた。心礎は、戦後すぐに亡失を避けるため、近くの永昌寺墓地に移されていたが、史蹟公園化により、現在は元に戻されている 。
心礎は(日本の木造塔跡による)方形で辺は1.05×1.03m、高さは64cm、径44×22cmの孔があり、孔の周辺には径72cmの環状排水溝(もしくは柱座)と4本の放射状排水溝を持つ。▲
実測:115×105cmの方形に整形、径78cm(外径)巾2〜3cmの浅い溝がある、径45×19cmの孔を穿つ。
廃寺は標高約30mの丘上に位置する。現状、史跡公園として整備され、塔や講堂・金堂などの建物の基壇(基礎)、中門・回廊跡などが復元されている。塔基壇は一辺11m高さ1,2m、瓦積基壇とされ、減殺は基壇保護のため、ひと回り大きい基壇が復元されている。基壇の西面と南面の瓦積は出土した飛鳥・奈良期の瓦で復元されている。
なお、発掘調査(1981-83)で出土した風鐸・九輪・瓦などは加古川市総合文化センター博物館に展示されてるようです。
国鉄高砂線野口駅附近 おまけ
播磨鶴林寺三重塔1
  同        2
  同        3
  同        4
  同        5
  同        6
  同        7
  同        8
  同        9
  同       10
  同     本堂1
  同     本堂2
  同     本堂3
  同     本堂4
  同  本堂太子堂
  同    太子堂1
  同    太子堂2
  同    太子同3
  同     常行堂
  同      鐘楼
  同     護摩堂
  同     業者堂
再訪
播磨無量寿院 詳しくは播磨無量寿院・よみうりランド多宝塔のページを参照下さい。
2004/10/02
「X」氏ご提供
常陸来迎院多宝塔1
  同        2
室町後期。弘治2年(1556)江戸崎城主の土岐治英によって建立されたといわれる。
2001年修復工事が終わり、落慶法要。天台宗。一辺4,15m、高さ19.7m。
今回の修復で、柱の墨書や宝輪、飾り金具の刻印などに、弘治2年塔を修理した記録があり、建立されたのはそれ以前と推測できることや、天井がなく、斗栱に化粧を施そうとした形跡があることから、塔そのものが未完成だった可能性が強いことなどが判明したようです。
修理により、赤塗り銅板瓦葺きであった屋根は柿葺きに変更されたようです。
常陸台渡里廃寺塔跡1
  同         2
  同      伽藍図
「日本古代地方寺院の成立」;数次の発掘調査が実施され、南方地区では一辺9mの方形基壇(おそらく南)と12×10mの掘込地業(おそらく北)が発見された。方形基壇は塔跡と想定される。
出土遺物に「仲寺」と墨書した土器及び「徳輪寺」という文字瓦があり、郡名で呼ばれまた徳輪寺と称した寺院であったようです。現状塔と思われる土壇は保存されていると思われます。
「X」氏情報:2004/10/02に現地説明会。史跡。
戦前の高井悌三郎氏の調査では、塔跡基壇には10個の礎石(花崗岩製)が据え置かれている状況が確認されていた。さらに中心部には心礎と考えられる粉々に割れた花崗岩の破片が、1.5mほどの範囲に広がっていることが知られていた。今回の発掘では礎石3個を確認、基壇中央部のトレンチでは地下に心礎は確認できず、破砕された石が心礎であるならば、地上式心礎とされる。
北方の観音堂山地区では寺院址が想定され、これは区画の寺院であることも判明した。南方地区寺院区画は240m南北210m以上の寺域を持つことも判明、また塔は9世紀の半ば以降になってからの造営であることも確認された。
塔基壇は約9m、現存石はいずれも側柱礎である。観音堂山地区は、伽藍の方向も一致している、観音堂山地区の遺構は7世紀前半と推定。
「東国の初期寺院」:南方地区では東に金堂跡、西に塔跡を確認、観音堂地区では礎石建物群を発掘。台渡廃寺塔跡(西から撮影):「東国の初期寺院」から転載。
2004/08/28 丹波多保市廃寺心礎1
  同         2
  同         3
  同         4
  同         5
土師川西岸の多保市にある。
多保市廃寺のものと伝える心礎は現在下六人部小学校校庭に移されている。円穴には石と砂が一杯詰まった状態でした。なお陰刻について詳細不詳。
多保市廃寺は奈良後期の創建とされる。
福知山市史:多保市とは塔のあった寺の前の市場という意味から生じた地名と言われる。
心礎は巾1m余り、高さ約60cm、径30×20cmの円孔を彫る。
この礎石はもと(今の善光寺の北7、8町の)通称多保市山田にあったといい、明治末期に現位置に運んだと云う。
山田には七堂伽藍があったと言い伝え、堂屋敷・観音屋敷・堂ノ尾の地名がある。『丹波志』には「・・・観音堂屋布(敷)有、字ナ堂屋布ト云、今田地ト成、此所ニ山門ノ跡、・・・礎石残レリ・・・」 とある。
また布目瓦を出土する。
同じく『丹波志』多保市古跡に「出雲路山豪摂寺古跡、天神の森ヨリ東奥ナリ小浜山トモ駒場山トモ云、四間四面ノ塔ノ跡有、壷ノゴトクナル穿抜ノ石ヲ伏セ・・・」とあり、昭和12年の調査での古老のに話では「・・塔の大礎石を中心に、直径3間くらいの周囲に小礎石の並んでいた跡は近年まで残されておったものである」といい、昭和の初頭には塔跡・礎石は残っていたとされる。
但し出雲路山豪摂寺は一向宗の寺院といわれる。『丹波志』:寛政7年(1795)刊
播磨柏原八幡宮三重塔
  同   本殿・三重塔
  同     三重塔2
  同         3
  同         4
  同         5
  同         6
  同         7
  同         8
  同         9
  同      本殿1
  同      本殿2
  同      社務所
再訪
山門に八幡山の扁額の掲げた社務所があります。今は社務所ですが、別当であったとも思われます。(推定)
丹波三塚廃寺全景
  同 伽藍復元基壇
  同    東塔心礎1
  同         2
  同 東塔復元基壇1
  同         2
  同         3
  同 西塔復元基壇1
  同         2
  同 金堂復元基壇
  同    金堂礎石
1972年発掘調査。金堂基壇の東西に塔基壇を残す。
東塔は方10,8mの瓦積基壇で、心礎は地下式(壇上面から1.4m)で、ほぼ径1.5mの薄手の花崗岩製とされる。上面は径89cmの浅い柱座と径11cm、深さ11cmの孔を穿つ 。壇上の礎石は全て流失。
西塔基壇は半分は削られていたが、礎石4個を残す。心礎は既になかったが地下式であったと確認された。
金堂跡には4個の礎石を残し、5×4間の建物と推定されている。奈良前期の創建とされる。
その他中門跡(構造は簡単な木戸門程度とされる)南門跡(中門南35m、西10mにあり、中門金堂の中軸線より西に振れた位置にある)などの遺跡が復元されています。
現在は史蹟公園として整備されています。 以前は松の茂った3ツの塚で、東塔跡は大きな穴が開けられ、その穴に斜めに突っ込んだ形で心礎が横たわっていたという。
全景は北より撮影。左より東塔、金堂、西塔。
但馬立脇廃寺心礎1
  同        2
  同        3
  同        4
  同        5
  同        6
  同        7
通常地方の心礎は打ち捨てられた状態が多いですが、この心礎は大通院境内に大切に置かれています。以前は大通院の庭石に転用され、立てて置かれていたようですが、近年(まだ新築の様子でした。)、鐘楼下に、立派な檜造りの覆屋が建てられ(行政もしくは近隣の人々の尽力と思われます)その中に据えられています。地区の人のお話から、おそらく地区の「誇り」としてこの心礎 は守られているようです。
心礎の大きさは(実測)240×115cm×55cm(見える高さ)で、短巾の115cmはおそらく欠損して狭くなったと思われます。高さ55cmは、はぼ見えているので全高と思われます。上面には、外径85cmの溝(巾約3cm)を環状に彫り、その中央に径28×12cmの円穴を穿つ。この地には大宝年間に寺院があったとの伝承があり、布目瓦を出土するという。
別の情報では二重孔式心礎で、1.8×1m高さ50cmの花崗岩製。径30cm深さ12cmの孔を穿孔し、周囲に浅く径83cmの柱座を穿つ。北方約500mで布目瓦が採取され、寺院跡が有る可能性がある。寺伝でいう大宝年間創建の晋勝寺の関連のものと推測されている。
なお大通院は禅宗で、4,5年前から無住になっているとのことでした。
播磨溝口廃寺石碑
  同    土壇1
  同    土讃2
  同  土壇礎石
  同   大心礎1
  同   大心礎2
  同   大心礎3
  同   大心礎4
  同   小心礎1
  同   小心礎2
  同   小心礎3
  同   小心礎4
  同  枘孔付礎石
  同     礎石
現地説明板では東西両塔(薬師寺式)伽藍をであるとも、聖徳太子が関係するという縁起も伝えられるが、一切は不明とする。出土瓦などから奈良前期の創建とする。
また古い石碑では聖徳太子大塔跡と表示している。
現状は土壇の上に大心礎、小心礎と多くの礎石を残す。大心礎の現状は、円穴には水が溜まり、孔は良く観察は出来ません。また円孔の廻りの石の割れ目には雑草が根を張り、強固に繁茂し、心礎が相当痛んでいるようです。憂うべき現状と思われます。石に根を張った雑草は早急に除去すべきで、このままでは心礎が割れる惧れがあると思われます。
また小心礎と同じような形状と大きさで、小円穴(円筒形ではなくて、椀形(半球形))を持つ礎石も小心礎の東側に置かれています。円孔が浅く雑でなかったら心礎である可能性もあります。東西両塔であるなら、むしろ釣り合いの上からは、この心礎と小心礎とが対であるとも思えるような礎石です。
「日本の木造塔跡」:巨大な心礎があり、大きさは2.7×2.2mの巨大な心礎で、径89×22cmの円穴を彫り、さらにその中央に径16×11cmの孔を穿つ。
大心礎の廻りには柱座の造出のある礎石が10個が並んでいるが、動かされていない思われる北側4個の礎石及び残存基壇の石積みとの関係から、この礎石は塔ではなくて金堂あたりの礎石であり、大心礎は後から運びこまれたものであろうとする。
小さい心礎は1.5×0.97mで、径25×10cmの円孔を彫る。
同じ時期に東西両塔が有ったとするには余りに心礎の大きさが違いすぎ、無理であり、小さい方の心礎は別の寺の心礎であろうとする。様式上小さい心礎は奈良期であろう。
2004/08/01
「X」氏ご提供
陸奥遍照院三重小塔 三重小塔の細目は不明ですが、木造の伝統工法で作られたものと思われます。
遍照院は太平山と号し、弘法大師生誕1200年の記念して、昭和48年起工、昭和50年竣工、開山されたようです。三重小塔・薬師堂などがあるようです。福島市信夫山中太平山にある。
陸奥堂庭廃寺宝塔跡 仙台市泉区根白石堂所ですがかなり山中と思われます。:礎石及び土壇が残るようです。写真で判断すると円形の礎石配列で宝塔であったと思われます。
「X」氏情報:礎石は3個露出し、残りはコンクリート製円筒があり、鉄板で覆いをするが、中には何も無いようです。
N氏情報:堂庭廃寺から宝塔の礎石と瓦積み基壇が出土。
以下の情報がありますが、遺跡の性格については未掌握です。
多賀城国府から七北田川沿いに古道があったと推定され、この古道沿いの堂庭山(どうば)で平安期の大日宝塔遺跡が発掘されたようです。 堂庭山(252m)山頂南斜面にあり、宝塔跡は正12角形という。建立は10世紀頃。
2004/08/02
「X」氏ご提供
下野薬師寺塔跡1
  同       2
詳細は不詳ですが、写真のように土壇が残るようです。
1995年五重塔跡を検出。ただしあまり明瞭なものではないようです。
奈良期に東大寺・観世音寺とならび天下三戒壇に一つとして建立された大伽藍です。
20次の発掘調査で、寺域はおよそ南北350m、東西250mという。
下野薬師寺伽藍復元図」(「日本古代地方寺院の成立」から転載)
2004/08/03
「X」氏ご提供
武蔵成就院三重塔1
  同        2
享保14年(1729)建立。一辺2.24m、24M高さ約11m。小型塔のようです。
何より異形の三重塔で、通常の初重平面が一間四面堂の平面を採らず、初重正面は1間(擬似の3間)初重の残り3面は2間、2〜3重は1間の設計を採る。組物は2手先とする。
武蔵歓喜院多宝塔 妻沼聖天、昭和33年建立。一辺3.7m、高さ約15m。基本的には本格的な木造塔と思われます。
2004/08/04
「X」氏ご提供
下野村檜神社塔跡 六所宝塔の内、安西宝塔の跡とされるようです。
「X」氏情報:大慈寺に隣接する村檜神社参道脇にある。礎石が6個ほど残存する。
なお現在大慈寺には享保10年(1725)に再興された相輪橖(トウ)が残っています。径80cm、高さ3.2m。
六所宝塔
安東 上野 宝塔院 在上野国緑野郡(緑野寺)、江戸期の再興塔現存
安南 豊前 宝塔院 在豊前国宇佐郡(宇佐神宮)
安西 筑前 宝塔院 在筑前国:太宰府市内山、竈門神社下宮に礎石残存という。
安北 下野 宝塔院 在下野国都賀郡(大慈寺)、上述現存
安中 山城 宝塔院 在比叡山西塔院
安総 近江 宝塔院 在比叡山東塔院
上野武井(廃寺塔跡)
  同     (心礎)

史跡;奈良期の遺跡とされる。
心礎の大きさは1.6m×2mで上部径107cmの造出があり、造出の中央に径42cm深さ39cmの孔を穿つ。
しかし地形あるいは発掘調査の結果は、寺院跡とするには根拠が薄いようです。現段階では心礎と称する巨石は石製蔵骨器、遺跡は火葬墳の可能性が高いようです。写真で見る限り心礎 とするのは異形と思われます。

上野二宮赤城神社心礎

群馬県の地名:境内に鎌倉期のものと推定される塔跡と心礎がある。心礎は舎利孔を穿ち、裁石が心礎を取り巻いている。
南東にある無量寿寺境内から、文明18年(1486)大本願頭白上人、大旦那妙昌栄梁、小旦那妙珎によって木造三重塔を造営した旨の石製銘文が発見されたという。 塔跡は本殿東にあるようです。
なお天台宗慈照院(二之宮町1811)本尊十一面観音(鎌倉後期・秘仏?)は二之宮の本地仏と云う。
慈照院は中島山と号す。江戸中期以降無量寿寺が無住になり、赤城神社の別当になるという。
昭和34年、二宮赤城神社前の一角、鐘楼の東から観音堂と共に移されたという。
永承四年(1049)全国諸社中から赤城大明神を含む55社が選定され、勅願神社?となり、そのときに社域内に造塔があり、心礎(根巻石)内に仏舎利が奉納されたと も伝える。戦国期北条氏により破壊、大胡に入封した牧野氏によって再興される。
境内地にはいくつかの石製宝塔、梵鐘(元和9年1623銘、鐘楼)などがあるようです。
なお三夜沢赤城神社との間には御神幸が今でも行われているようです。

上野上植木廃寺塔礎石1
  同           2
「亡失心礎」の「上野上植木廃寺」の項を参照。
2004/08/05
「X」氏ご提供
上野山王廃寺心礎1
  同        2
大正年間に地下式の心礎を発見。円形柱座を持つ礎石なども発見されたようです。
心礎は3m×2.5mで、中心に径65cm深さ18cmの孔を持ち、更に径27cm深さ30cmの孔を持つ2段式で、孔の周囲には排水溝が彫られ、更にこの溝から4方に放射状の溝が彫られた精巧なものとされる。
近年の発掘で塔基壇(一辺14m)の西で金堂跡と見られる基壇を発掘。
また「放光寺」とヘラ書きされた平瓦が出土し、山上碑文中の「・・・長利僧母為記定文也 放光寺僧」でいう放光寺と関連があった もしくはこの廃寺が放光寺であったとされる。白鳳ー平安期の寺跡と推定されている。
「日本の木造塔跡」:心礎は2.7×2.5×1.5mで、中央に径65×17cmの穴があり、さらにその中央に径26×27.7cmの孔を穿つ。穴の周囲には径110cm幅6cmの環状溝があり、この溝から4本の放射上排水溝が出ている。
上野国分寺塔基壇
  同    塔礎石
榛名山東南山麓の扇状地に続く台地に位置する。南大門・中門・金堂・講堂・北面僧房が一直線に並ぶ。回廊は中門から東西に金堂に取付くと推定。
塔婆は中門・金堂の西に建立され、塔の基壇は一辺19.2m、塔の一辺は10.8mとされ、相当な大型塔とされる。
基壇と心礎および塔礎石15個が残されているようです。写真によると、塔基壇上に礎石が露出した状態で残されている。
天平感宝元年(749)頃に主要伽藍が完成。長元3年(1030)<上野国交替実録帳>には金堂・講堂は健在だったが、その他の堂宇は既に退転した旨の記載があると云う。14世紀後半には金堂跡も墓地と化す。天明6年(1786)には礎と瓦が残るだけの畑地となる。
「幻の塔を求めて西東」:心礎は一重円孔式、330×166cm、径62cmの円孔を穿つ。
現在は史跡公園として整備されているようです。
上野柳澤寺五重塔 平成12年(2000)3月落慶。
上野貫前神社塔跡 三重塔跡が現存する。三重塔は神仏分離で棄却されたかあるいは元禄年中に火災焼亡とという。
 現 境 内 図
上野一峰公園塔 富岡市一峰公園にある。忠霊塔と称するようです。粗雑ゆえ塔婆参考。
2004/08/23 駿河久能山東照宮 詳しくは「駿河久能山東照宮」のページを参照ください。
駿河浅間神社

賎機山の麓に鎮座し、神部神社・浅間神社・大歳御租神社の三社を総称して静岡浅間神社と称する。
□「浅間神社境内図」(天正頃、浅間神社蔵);三重塔 が建立されていたようです。
寛永11年(1634)徳川家光によって寛永の造営がなされる。
□「浅間神社寛文絵図」(寛文10年<1670>、浅間神社蔵)本殿・拝殿・麓山神社・百段などは、ほぼ現在の規模と位置であるようです。さらに今はない北側の薬師堂・虚空蔵・神宮寺・護摩堂、北東隅の詞利帝堂、中央の鐘楼・経蔵、南東の池辺の三重塔が描かれています。
安永2年(1773)と天明8年(1788)の火災で全焼する。
文化元年(1804)から慶応元年(1865)まで、再度造営が行われる。費用は10万両といわれる。
三重塔については文化10年の「浅間総社御社中御絵図面」には描かれてなく、再興はされなかったようです。
駿河浅間神社三重塔推定地:ほぼ当時の位置の神池の名残りらしき池は現存するも、塔跡を偲ばせるものは何もないと思われます。写真中央・橋の左手辺り?にあったのではと思われます。
現在文化年中以降に造営された以下の社殿24棟が重文指定されている。
神部神社浅間神社本殿(文化10年、比翼三間社流造)、中門(2棟)、拝殿(文化11年)、透塀(3棟)、舞殿(文政3年)、楼門(文化13年)、回廊(2棟)、総門、
大歳御祖神社本殿(天保7年)、中門、透塀、境内社麓山神社本殿(天保5年)、中門、透塀、拝殿、
八千戈神社本殿(入母屋造銅瓦葺、元摩利支天社で、徳川家康念持仏摩利支天を祀る、明治の神仏分離に際し摩利支天像と金印は大岩臨斎寺に遷される)、中門、透塀(2棟)、
境内社少彦名神社本殿(元神宮司薬師社と称したという、仏堂であった可能性があります、入母屋造銅瓦葺)。仏堂の大部は、明治維新の神仏分離で破壊されたと思われます。
  駿河浅間神社楼門1  駿河浅間神社楼門2  駿河浅間神社楼門3  駿河浅間神社舞殿など
  駿河浅間神社拝殿1  駿河浅間神社拝殿2  駿河浅間神社拝殿3
  駿河八千戈神社本殿  麓山神社本殿1      麓山神社本殿2      麓山神社本殿3

2004/08/14 丹波和久寺廃寺心礎1
  同         2
  同         3
  同         4
  同         5
  同        礎石
和久寺地区の鹿嶋神社境内に心礎が残存する。心礎には柱座は無いとされるが、良く見ると円穴の周囲にうっすらと柱座の痕跡とも思える跡があるようにも見える。現状は心礎及び礎石(推定)以外に何もありません。 伽藍配置などは不明。
福知山市史:心礎は以前、鹿島神社西南約30mのところに約1坪の土壇(と思われる)があり、近年に現地に移した。大きさは136×91cmで、径37×11cmの円穴を彫る。付近からは奈良期とされる瓦を出土する。この地は南北西が岡であり、おそらく伽藍は東面していたものと思われる。
「幻の塔を求めて西東」:心礎は一重円孔式、136×112×42cmで、径37×11cmの孔を持つ。奈良後期。側柱礎2個残存。
和久寺三重小塔1
  同       2
  同       3
  同       4
  同       5
和久寺跡のすぐ北の岡上に建立されています。下記の記事のように、本職の仕事ではありません。
確かに粗い点も眼に付きますが、立派に完成しています。
なお写真2の背後右の社叢が和久寺廃寺心礎のある鹿島神社です。
京都新聞「2003.10.01 記事」及び 両丹日日新聞「2002.1.7 記事」より要約:
福知山市和久寺の大西信雄氏(元中学校教員)が同地区にあった奈良期創建の和久寺三重塔の再現に取り組んでいる。
1998年に基壇の造成を始め、完成予定は2008年11月という。完成品は、和久寺廃寺が見渡せる自宅近くの丘に設置する予定のようです。スケールは推定される実寸の8分の1程で、高さ3m、初重で1.75m。
古建築研究家から入手した図面を基に、宮大工のアドバイスを受けながら制作していて、使う部品は数千点に及び、工務店、製材工場などから譲り受けた檜を中心に使い、相輪は金属加工の専門家に制作を依頼したようです。
大西氏邸近くに和久寺跡があり、現在は鹿嶋神社が鎮座している。一帯では奈良期と推定される布目瓦など多くの遺物が発見されているほか、1982、83年の発掘調査で塔の礎石などが見つかっている 。
但馬府中新心礎1
  同       2
  同       3
  同       4
城崎郡日高町府中新の鹿島神社境内にある。
「幻の塔を求めて西東」:一段円孔式、280×125×74cm、60×10cm、出所不明、付近に古瓦出土地あり、白鳳。
この心礎の伝承は皆無のようで、いつからこの神社にあるのかなどは不明。心礎は地方としては大型です。
但馬温泉寺多宝塔1
  同        2
  同        3
  同        4
  同        5
  同        6
再訪。
丹後俵野廃寺心礎1
  同        2
  同        3
  同        4
  同        5
  同   廃寺遠望
網野町木津;現在網野町郷土資料館前庭にある。
心礎石は、径約180cm、高さ58cmの円形の自然石を削平し、その中央に径15/16、深さ16cmの舎利孔を穿つ。<径1.5m 高0.6m 舎利壷は径約15cm高約11cm>
心礎出土時はこの孔の上部に薄い石の蓋があり、中に麻織物のようなわずかな布片と薄い金属製の壺状容器の首部が3/1ほど残っていたとされる。
心礎は半裁され、半分強が現存すると思われます。
心礎は大正11年に俵野耕地整理組合事業として、俵野川の流路変更工事の折に発見された。付近には塔の坪・寺口・寺屋敷・防垣などの地名が残り、寺域の大きさは方100m以上と考えられる。出土瓦から創建は白鳳期とされる。
『木津村誌』の記載は以下のようです。:
・廃寺は、大正11年の耕地整理事業で、俵野川(谷の中央→西に)の流路付替工事で発見された。
・心礎の大きさは上記の通りで、心礎発見時の状況は舎利孔には薄い石蓋があり、舎利孔には麻織物(推定)のわずかな布片と薄い金属製の壺状容器の首部が三分の一ほど残っていた。
・柱と思われる丸木柱の根の部分(直径50〜60cm、長さ1m)が、1間半の間隔で出土した。
・礎石の出土付近近に、瓦積み基壇と思われる瓦層が発見された。
・昭和14年頃、礎石の出土位置約100m下流で、柱の根部数本と鬼瓦1個が出土。
・上記約100m東方の水田地下1mで基壇らしい遺構がある。:
また、昭和58年には礎石出土地点の少し上流で瓦などが多数出土。
郷土資料館の談では現地(俵野公民館)に心礎の残り半分弱があるという。しかし現地には無く、付近の人の聞き取りでは、あったと思う・見たことが無い・全部資料館へ運んだという様々なもので、現地にも心礎の残りはます無いと思われます。現段階では心礎の残欠の行方は不明です。
廃寺遠望:楕円あたりが心礎出土地と思われます。(聞き取り)
2004/08/01 甲斐身延山 詳しくは「身延山」のページを参照ください。
重須本門寺 詳しくは「重須本門寺」のページを参照ください。
駿河大石寺 詳しくは「富士大石寺」のページを参照ください。
駿河浅間社本宮本殿1
  同         2
  同         3
(参考資料)
富士宮市:浅間造りと称する二重の楼閣造、棟高45尺。初重は5間4面、2重は3間×2間の流造りで共に桧皮葺。重文。慶長9年徳川家康の造営になる。
伝駿河国分寺心礎1
  同        2
  同        3
  同        4
  同        5
静岡市指定文化財(考古資料)では伝駿河国分寺の塔心礎とする。あるいは長谷寺心礎とも云われるようです。長谷は現駿河国分寺の寺号を名乗る寺院のある辺りの古くからの地名のようです。
現在は沓谷の
菩提樹院にある。
心礎は粗面岩(安山岩)製で、大きさは約2.02×1.42×約1mくらいで、径約1m×20cmの柱座を造り、その柱座に現状47/35cmの楕円形の穴を彫る。本来、穴は鑿の跡から径34cmの円穴と推定される。石に陰刻があり、それによると「明和8年(1771)駿府城代武田信村により駿府城三之丸駿府城代屋敷内の社に手水鉢として奉納された」という。昭和5年駿府城内にあった日本赤十字社静岡支部の庭にあるのが発見され、昭和28年駿河国分尼寺の後身との伝承のある菩提樹院に寄進されたと云う。<現地説明板より>
菩提樹院(正覚山):もとは寺町4丁目(現常盤公園)にあったが戦後まもなくの区画整理で現地に移転。開山は多田(源氏)に関係するとも、養老5年定額寺に列するとも、古えは安倍川北辺にあったともいう。また由比正雪の首塚もあるようです。
駿河蓮長寺三重塔1
  同        2
  同        3
  同        4
  同        5
  同        6
  同    多宝小塔
  同   三重塔本尊
平成3年落慶。木造。総高16.85m。各層脇間は花頭窓。舎利安置、塔内畳敷。日蓮宗。
常慶山と号する。貞松蓮永寺(日持上人の開基)末で日持上人の法系に連なるようです。
ご住職のお話ではご住職自らが山門・水舎・塔婆の大工仕事・彫刻を手がけてたとのことでしたが、真偽の程は分かりません。(素人で出来るような仕事とは何れも思われません。)
蓮長寺は 正保元年(1644)養珠院の発願で、駿府牢獄死者と無縁行路病死者の霊を弔うために長嶽院日永を開基として建立されたという。安政の大地震に悉く崩壊、18世日理上人の代に再興。明治初頭に類焼。貞松蓮永寺から清正堂を移建し復興。昭和6年23世日鳳上人代に本堂・庫裡を建立。昭和20年空襲で焼失、同22年に都市計画により旧地三友町から現在地に移転。
駿河攝取寺(その他) 臨済宗妙心寺派。本堂と思われますが、二重堂に三輪を載せた堂がありました。粗雑です。
2004/07/31 伊豆日吉廃寺塔跡1
  同        2
  同        3
  同     心礎1
  同     心礎2
  同     礎石
  同  創建伽藍図
  同  再建伽藍図
  同  礎石配置図
沼津市HP(沼津の史跡)より要約転載:
沼津駅東北約1qの東海道本線の線路沿いに山神社と称する少祀があり、この付近が寺院址中心とされる。神社の境内には17個の礎石が移され 、礎石は完存する。以前は適当な置き方だったようですが、現在は史跡整備に伴い、原位置ではないが、復元配置されています。
大正6年東海道熱海線敷設工事に先立ち、柴田常恵・三島通良の両氏により簡単な調査がなされ、その結果、奈良期の寺院跡であるとされた。その際、塔礎石17個のうち、北側の10個が南方の山神社境内地に移動したという。寺院は白鳳期(7世紀後半)から平安初期(9世紀)にかけて存続していたとされ、寺域は東西1町南北2町とされる。
昭和30年代の数次の発掘調査により、地表の塔の礎石の下から更に古い形式の瓦が発見され、その他柱穴・基壇等も発見された。以上により(調査にあたった軽部慈恩氏の推論 )、伽藍配置については当初は飛鳥寺式であったが、奈良期に焼失し、まもなく法起寺式新金堂が再建されたが、これも焼失し、奈良期末から平安初期かけて、規模を縮小した法起寺式伽藍となっていったのではないかと推定されている。
「幻の塔を求めて西東」:心礎は出枘式、165×150cm、27.5×14cmの出枘を持つ、創建時のものではない、白鳳.。
心礎以外の礎石は2重の柱座を造出す手の込んだ礎石です。
伽藍図・礎石配置図は現地案内板より
沼津香貫山五重塔1
  同        2
  同        3
  同        4
  同        5
昭和40年1965建。戦没者慰霊。高17m、鉄筋コンクリート製。
香貫山中腹の岡上にあり、どこからでも良く見えます。全体の形は優れていますが、残念ながら細部は省略され簡単な造りです。戦没者慰霊塔として建立される。
伊豆三島社 詳しくは伊豆三島社のページを参照ください。
伊豆市ヶ原廃寺心礎1
  同         2
  同         3
  同         4
  同         5
  同       石碑
祐泉寺境内に小屋掛けして保存されている。心礎は1.6m×1.2mで、径91cmの柱座があり、その中央に径30cm、深さ15cmの円形の孔を穿つ。昭和7年祐泉寺西側の下田街道橋 梁工事現場より発見され、町内の川島兼助により、現在位置に置かれたという。その旨を標した石碑が心礎脇に建立されています。(写真石碑の背面)
市ヶ原廃寺は白鳳期の建立とされ、昭和28年の発掘により金堂、西塔、回廊跡の一部を検出し、この結果薬師寺式伽藍配置と推定されている。また当寺は、承和3年(836)伊豆国分尼寺焼失 、その後,代用国分尼寺となったとされる。
「幻の塔を求めて西東」:心礎は三重円孔式、170×130×90、径88×3cmの円柱座を造り出し、径30×15cmと径13,6×9cmの孔を穿つ。相塔式の東塔。白鳳。
伊豆国分寺塔跡1
  同       2
  同       3
  同       4
  同   伽藍図1
  同   伽藍図2
 
史跡:昭和31年の調査で、南門から中門・金堂・講堂が一直線に並ぶ伽藍配置が確認された。回廊は金堂に取り付くようです。
塔は回廊外の中門西に配置されたようです。塔跡(史蹟)は、現国分寺の本堂裏手に、北半分の礎石8個を残している(心礎は残存しない)。 礎石8個にはいずれも枘孔と思われる孔を穿つ。
「わが心の国分寺」によると、「平安末期には、真言宗の寺院としてかなりの規模を持ち、門前の左右に塔頭寺院がならんでいた」とあるようです。また、天文年間(1532〜1554)の後に北条氏と武田氏の兵火で焼亡。現国分寺は、三島代官・井出正次が1600慶長5年(1600)に法華宗蓮行寺として再興し、さらに昭和29年に伊豆国分寺と改称したようです。
心礎については亡失という。「亡失心礎」の「伊豆国分寺」の項を参照。
この心礎の伝承ははっきりしませんが、形式は現地の残存礎石と同一と思われますが、大きさが縦横1.5倍内外はあると思われ 、同一形式ながら大きさから心礎である可能性は高いと思われます。
 井出正次は今川家臣であったが、後には家康に仕える。初代・三代の三島代官を務める。法華宗日興門派に対する信仰が篤く、重須本門寺・大宮本光寺・吉原本国寺・蒲原妙隆寺・長窪円蔵寺等に寺領を寄進する。慶長5年廃寺同様の当寺を再興する。
伊豆願成就院南塔跡1
  同         2
  同         3
  同         4
  同         5
史跡:昭和45年の発掘調査で、大御堂、南新御堂、南の塔などの遺構を発見。
文治元年(1185)北条時政が建立し、その後50年の間に南の塔、北条御堂、南新御堂(義時による)北の塔(泰時による)などが建立されたと伝える。
現在南の塔は基壇が復元整備されている。発掘された状態なのか復元基壇なのかは不明。
南の塔:承元元年(1207)時政塔婆供養。
北の塔:嘉禎2年(1236)北条泰時が父義時13回忌のため建立。

過去の訪問塔婆履歴