讃  岐  中  寺  廃  寺

讃岐中寺廃寺

讃岐中寺廃寺塔跡:2007年史蹟指定

2004/10/31現地発掘調査説明会

中寺塔跡推定平面図

中寺塔心礎

塔跡発掘現場写真(下に掲載、「X」氏ご提供)から、塔跡の平面推定すれば、左上図(推定平面図)の様に推定できる。

心礎、四天柱礎2個(東北と南西の礎石)、脇柱礎が少なくとも10個、原位置にすると思われる。
南西隅の脇柱礎は原位置にはないと思われる。(南西隅礎石のやや南に動いたと思われる礎石らしきものも見える。)
また以上の他に、礎石と思われる2個程度の石も発掘されていると思われる。
残り後1個の脇柱礎(推定平面図の右上から一つ下の中央間の礎石)の礎石は原位置には無いと思われるが、根石が発掘され、礎石位置の確認は可能 なようである。
 ※残念ながら柱間の法量などの情報は全く無し。

2010/02/11追加:

2010/02/11追加:
下に掲載の中寺廃寺A地区遺構図に塔跡の遺構の概要が示される。
 ※左図は塔跡部分図

2004/10/31「X」氏撮影・ご提供画像
 讃岐中寺塔心礎:右上拡大写真)
   同    塔跡1:北より撮影          同    塔跡2:北東より撮影
   同    塔跡3:西南より撮影         同    塔跡4:東より撮影

中寺廃寺:琴南町造田
創建は平安期(10世紀前半)とされる。昭和59年の発掘調査で、三間四方の建物跡で心礎及び礎石13個を発掘する。
現地は標高約700mの地点で、今までの調査で堂跡平坦地4ケ所が確認される。
2004年度には塔跡が本格的に発掘調査され、10月31日現地説明会があった。今後も他の堂跡の発掘が継続されると云う。

2004/11/14追加:現地発掘調査資料より
伽藍は山岳頂上付近の南面を造成して建てられる。
 ※讃岐中寺廃寺全貌図・・・・ご覧のように、かなりの高所の南斜面に伽藍はある 。
塔跡基壇の状況は地山に粘土層と砂土層を交互に7層くらい重ねて構築した様子が確認されたと云う。
仏堂跡では2間×3間の礎石建物を発掘、塔のほか、鐘楼堂、墓地、坊舎跡10内外の存在が知られる。
また燈明皿、土器なども出土する。

讃岐中寺廃寺諸資料

2010/02/11追加:
◆「讃岐中寺廃寺の空間構造」上原真人(「忘れられた霊場をさぐる[3]」栗東市文化体育振興事業団、平成20年(2008) 所収)より
 廃寺跡は讃岐と阿波を分つ讃岐山脈第2の主峰、大川山の西北西約2.5km、満濃池の南東約4kmの急峻な山中にある。
中寺廃寺跡とはこの山中の4つの平場群の総称である。すなわち東南東に開いた谷を囲む西のA地区、北のB地区、南のC地区、谷の南東で尾根を越えたD地区である。A、B、C各地区には各々数箇所の平場が確認でき、これ等の遺構は調査の結果10世紀を中心とした平安期の遺構と判明した。D地区(桜の窪遺跡)は中世・近世の遺構であり、A、B、Cとは場所的にの離れ、中寺とは性格を異にする。
 中寺廃寺跡地形実測図
○A地区の遺構
ここでは仏堂跡(第二テラス・真南向)と塔跡(第三テラス・真南向)の建物跡を発掘する。塔跡は標高723mを測る。
塔跡一辺は5.4m弱。
 中寺廃寺A地区遺構図
塔心礎直下には土抗があり、中央には土師器甕1個とその周囲には5個の赤焼須恵器壷5個が立て並べてあった。これは鎮檀・地鎮の作法のためのものであろうと解される。
 なお、心礎石は心礎ではなく、鎮檀・地鎮具の土抗蓋である可能性もある。この場合方形堂の可能性もあるであろう。
しかしながら中心礎石が心礎でなくても、心柱は梁上から建つ層塔もしくは多宝塔の類であったとも考えられるであろう。
 中寺廃寺心礎下土抗:心礎石の下の土抗の甕・壷の配置と、出土した甕・壺実測図
 仏堂は3×2間と小規模であるが、塔より4m高いテラスに建立され、全面には広場が造成されるなどを考慮すれば、金堂もしくは中心部仏堂であろうと推測される。
○B地区の遺構
礎石建物跡1棟と掘立柱建物跡数棟を発掘する。
礎石建物は5×3間(10.3×6.0m)で、その中央方1間にも礎石を配する。
 ※この建物は仏堂ではなく、その礎石配列から割拝殿との指摘もある。(山岸常人氏)割拝殿だとすれば、この建物に東西にある平場の意味が明確になる。即ち一方の平場は本殿の跡であり、一方の平場は参詣場所と解釈が出来る。
掘立柱建物跡は小規模であり、僧の住居跡であろう。
○C地区の遺構
東西40m南北35mの範囲で方形石組遺構16期を確認する。
肥後池辺寺跡の百塚遺跡に見られるような「塔」の可能性が高いと思われる。

2016/10/04追加:
◆まんのう町内遺跡発掘調査報告書 第8集「中寺廃寺」まんのう町教育委員会、平成22年 より
 A地区仏堂・三重塔復元図:西南より

2016/10/04追加:
◆まんのう町内遺跡発掘調査報告書 第3集「中寺廃寺跡」まんのう町教育委員会、平成19年 より
○本格的調査に至る経緯:
 調査地付近は、「中寺」「信が原」「鐘が窪」「松地(=末寺)谷」という寺院関係の地名が所在し、寛政11年(1799)の「讃岐廻遊記」中に「中寺」の表記があること、大川七坊といわれる寺院が山中に所在したと近隣集落において伝承されることより、古い寺院の存在が想定される地点である。ただ寺院の詳細が記された文献は未確認であり、中寺廃寺跡は長らく幻の寺院であった。
 昭和56年、中寺廃寺跡付近の分布調査を実施し、現在のA地区付近において数箇所の平坦地を発見する。続いて昭和59年、ボーリング棒による調査を実施し、第2テラスで礎石を確認する。また第3テラスにおいては試掘調査により塔跡を確認する。塔心礎石の下部からは地鎮・鎮壇具と想定される10世紀前半の遺物が出土し、10世紀前半に塔が建立されたことを確認する。
 心礎下部出土遺物
○平成15年度調査:
現地踏査を実施する。その結果、約1km四方の範囲に多数の平坦地が分布することを確認する。また、遺跡は大きく4つの地区に分けることが可能であり 、A〜 D地区とした。
 それぞれの地区の詳細は以下の通りである。
A地区…字中寺の中央に位置する地区で、 6ケ所の平坦地からなる。
B地区…A地区から 東へ約300m離れた丘陵先端部において確認された地区で、5ケ所の平坦地からなる。
C地区…A地区から 南へ約400m離れた丘陵斜面部において確認された地区で、3ケ所の平坦地からなる。人頭大の角礫を直径約1〜2m、高さ約70cm程度積み上げた集石を数基確認する。
D地区(桜の窪遺跡)…A地区から 南へ約900m離れた丘陵斜面部において確認された地区で、4ケ所の平坦地からなり、他の地区に比べ最も広い平坦地を有する。また、昭和59年度調査において中世・近世の遺物を表採しており、中寺廃寺跡が中世以降に継続した地点と推測される。
A・ C・ D地区で確認した平坦地は標高約700〜730mの間に立地している。B地区は若千低く675〜700mに立地する。
○平成16年度中寺廃寺跡確認調査概要:
平成16年度発掘調査はA地区の第1〜3テラスを対象とした。
発掘調査の結果、第3テラスにおいては3間×3間の塔跡と考えられる礎石建物跡1棟を確認する。
第2テラスにおいては同位置で掘立柱建物から礎石建物に建て替えた建物跡を確認する。
第1テラスにおいては掘立柱建物跡の可能性がある柱穴列を確認した。
第1〜3テラスの建物跡は建物の面が東西南北に沿うため、これらのテラスに所在した建物は関係が高いと考えられる。
第3テラス:
第3テラスは標高723m前後に位置し、南面する平坦地である。昭和59年度調査により3間×3間で並ぶ12個の礎石と心礎石を確認しており、心礎石下部からは10世紀前半の上器を埋納した土坑を検出した。
塔跡礎石:
礎石は3間×3間の外側のものと1間×1間の内側のものに分かれ、それらの礎石の中 央に一回り大きな心礎石がある。
礎石は和泉砂岩製でいずれも不定形な形状である。心礎石を含むいくつかの礎石は上面を平坦に 加工した痕跡が認められるが、大半は平坦面を持つ自然石である。同様の石が付近の谷に露出しているため山中の自然石を礎石として調達したと考えられる。
外側の礎石の内、西南隅の礎石は欠落しているが、礎石を据えるための掘り方と思われる遺構を検出した。
内側の礎石は南東と北西の礎石が欠落しているが、何時しか失われたものであろう。
なお、北束の礎石付近には礎石同様の石材を確認しており、うち数石は平坦面をそろえている。
建物の幅は南北約5.4m、 東西約5.2m、床面積は約28平米である。
南北列における礎石の間隔は約1.8m、東西列における礎石の間隔は約1.7mである。


中寺廃寺塔跡出土遺構:左図拡大図
第1〜3テラス平面図
A地区遺構配置図
塔跡礎石平面図

○中寺にあったと伝承する寺院:
 浄楽寺:丸亀市垂水町
藤田山城守頼雄、天台宗に属し塩入に開く。その子西園が永禄年中(1559-)に浄土真宗に改宗。9代日正円の時に現位置に移転。塩入地区の伝承によると浄楽寺は元々中寺にあったとのこと。現在でも塩入には浄楽寺の門徒が二十数件ある。
 願誓寺:丸亀市垂水町
天文年間(1532-)沙門連海が江畑に浄土真宗の庵をむすぶ。江畑 地区の伝承によると願成寺は元々中寺にあったとのこと。現在でも江 畑には願成寺の門徒が十数件ある。
 永覚寺:綾歌郡綾川町東分甲
「永覚寺縁起」によると永覚寺の開基空円(大和の法蔵寺)が天禄2年(971)に大川宮の別当職をしたと伝えている。まんのう町中通に 所在したが、天正年間に火災にあい現在の土地に移る。現在でも琴南地区には永覚寺の門徒が多い。
 称名寺:まんのう町内田
大川中寺の一坊で杵野の松地にあったが造田に移ったとされる。長禄年間(1457-)に浄土真宗に改宗し 内田に移転する。琴南地区の伝 承によると 浄楽寺は元々中寺にあったとのこと。
 教法寺:徳島県三好郡東みよし市足代
大平地区の伝承によると、もともと中寺にあったが、大平の庵に移り、その後現在の場所に移ったとされる。
 (中寺廃寺を起源とする寺院(『琴南町誌』1986 より)

保存・整備工事後の遺構

基本的に、保存・整備は、遺構保護のため、遺構には盛土を行い、礎石建物については元の礎石によく似た石で礎石の位置を表す方針で行われる。
2016/10/09撮影:
中寺廃寺跡には柞野(くにぎの)道にて登山する。
 満濃池遠望     象頭山遠望:いずれも中寺跡ピークより撮影、小雨模様で霞んで見える。
塔跡:
3間(5.4m)×3間(5.4m)の礎石建物跡で、強固な盛土の上に礎石を配する。心礎直下からは、中央に長胴甕を置き、周囲には赤く焼かれた壺5個が配された状態で出土する。地鎮・鎮檀具であろう。
 中寺廃寺塔跡11     中寺廃寺塔跡12     中寺廃寺塔跡13     中寺廃寺塔跡14     中寺廃寺塔跡15
 中寺廃寺塔跡16     中寺廃寺塔跡17     中寺廃寺塔跡18     中寺廃寺塔跡19     中寺廃寺塔跡20
 中寺廃寺塔跡21     中寺廃寺塔跡22
仏堂跡:
3間(6.7m)×2間(4.0m)で、同位置で掘立柱建物から礎石建物に造替されている。
 中寺廃寺仏堂跡1     中寺廃寺仏堂跡2     中寺廃寺仏堂跡3
大炊屋跡:
3間(5.6m)×2間(3.6m)の掘立柱建物で、建物内から食器や調理道具、竈跡が出土し、そのため大炊屋跡と推定される。
 中寺廃寺大炊屋跡1     中寺廃寺大炊屋跡2
割拝殿跡:
5間(10.3m)×3間(6.0m)の礎石建物で、通路の基礎となる礎石を確認する。正面には大川山を望むことができる。背後の高まりは本殿?跡か。
 中寺廃寺割拝殿跡1     中寺廃寺割拝殿跡2     中寺廃寺割拝殿跡3     大川山を望む:割拝殿跡より撮影
僧坊跡:
3棟発掘される。大きさは3間(約5.9m)×2間(約3.5m)の掘立柱建物である。
 中寺廃寺僧坊跡1-1    中寺廃寺僧坊跡1-2        中寺廃寺僧坊跡2-1    中寺廃寺僧坊跡2-2


2006年以前作成:2016/10/23更新:ホームページ日本の塔婆