甲冑と長柄の武器

ここでは甲冑の基本的な知識と、甲冑を着た武士達がどのように戦っていたのかを思い付くままに書いてみました。


平安時代の甲冑
大鎧、胴丸
南北朝時代の甲冑
大鎧、胴丸、腹巻
甲冑の弱点
平安時代の太刀拵 南北朝時代の太刀拵 槍について
平安時代の長柄武器 南北朝時代の長柄武器 鎧の着用手順
大鎧
当世具足
鎌倉時代の甲冑
大鎧、胴丸、腹当、腹巻
室町時代の甲冑
大鎧、胴丸、腹巻、腹当、当世具足、御貸具足
鎌倉時代の太刀拵 室町時代の太刀拵
鎌倉時代の長柄武器 室町時代の長柄武器


平安時代の甲冑

1.大鎧


大鎧着用図
柏書房 「日本の甲冑武具事典」 笹間 良彦氏著より

大鎧という大型の鎧は下の図のようなもので、平安中期頃にその祖形が出来たと言われ、この形式は江戸時代まで続きます。大鎧を開く(展開する)と真ん中の図のようになります。図の左側が前の部分右側は背中の部分となり、その中間は左脇部分になります。では右側は?ということになりますが、その部分には別部品を取り付けます。右端の図は真上から見た図で、右側の斜線部分の部品を別途取り付けることになります。

背には『肩上(わだかみ)』という肩に当たる部分が付いていて(展開図参照)、これを前に回して胴の上にある金具部分と連結します。鎧の合わせ目を『引き合わせ』と呼び、胴の端と背の端にある紐を『引き合わせの緒』、左横にあたる部分にある紐を『繰締の緒(くりじめのお)』と呼び、これらを締めて固定します。

大鎧の形式を言うと、引き合わせは右前立挙(まえたてあげ)2段後立挙(うしろたてあげ)3段長側(なががわ)4段草摺(くさずり)は脇楯(はいだて)を含めて4間5段下がり栴檀の板(せんだんのいた)、鳩尾の板(きゅうびのいた)を付け肩上(わだかみ)には障子板(しょうじいた)、背には総角(あげまき)付けの鐶を打ち、総角を結び、袖の緒をこれらと結ぶということになります。これらについては以下の部分名称をご覧下さい。

大鎧 大鎧展開図 大鎧の引き合わせ
大鎧全体の図 大鎧を展開した図 引き合わせ部分の図

大鎧のパーツは小札(こざね)という牛革や鉄などの小さな板を連結して作られています。小札に厚く漆を塗り、左側が上になるように、小札が半分重なるように横に並べ、下側の小さな穴で皮紐でとじ付けて行きます。とじ付けた部分は石英の粉と漆で塗り固められています。こうして頑丈な一枚の板を作ります。この横板を上から吊るように紐で連結することを「威し(おどし)」と呼びます。小札の上側の穴に紐を通して威していきますが、下の右端の図のようにずらして、上へ重ねて行くように威し付けます。従って下半分の硬い部分が体を覆うことになります。図のようにすれば3段威すということになります。背中は特に危険な部分ですので、特に厚くて丈夫な小札が使われ、鉄板を混ぜたり鉄板のみのものもあるようです。

小札 連結 威し
こざねの図 こざねの連結図 脅しの図

大鎧の部分名称


大鎧(前) 大鎧(後)
大鎧正面図 大鎧背後の図
柏書房 「日本の甲冑武具事典」 笹間 良彦氏著より

草摺・脇楯

大鎧は右側が空いてしまうので別部品を取り付けると書きました。この部品を『脇楯(わいだて)』と言います。脇楯は壺板(つぼいた)と呼ばれる鍛鉄板を革でくるみ、その下に「草摺(くさずり)」を取り付けています。草摺とは胴の下のスカートのような部分のことで(上図参照)、上で書いた小札を威し付けて作られていて腰周辺と太股を守ります。動きやすいように幾つかに分割されていて、一片を一間(いっけん)と呼びます大鎧の場合は前、左横、後ろ、脇楯に附属するのを入れて四間ということになります。

また壺板には中央に鐶、下部の左右と鐶の横あたりに孔(あな)があり、これを使って体と鎧に取り付けます。この孔は時代によって下部左右の二孔の場合と、鐶横に付け加えた三孔とがあり、それによって取り付け方が変わってきます。壺板と草摺は「蝙蝠付(こうもりづけ)」と呼ばれる方法で取り付けられています。コウモリが天井からぶらさがっているような形だからこう呼ぶのでしょうか。

壺板 脇楯 蝙蝠付
つぼいたの図 はいだての図 こうもりづけの図

栴檀の板・鳩尾の板・袖・総角

「栴檀の板(せんだんのいた)」は胴の右胸に、「鳩尾の板(きゅうびのいた)」左胸に取り付けます。大鎧は大きめに出来ていて、上の展開図の前部分(胴の部分)を見ると分かりますが、両脇のあたりが腕を動かしやすいようにくびれていますので無防備になります。この部分を守るのと、鎧を着用する場合には背に付いている肩上(わたかみ・肩の上にあたる部分)の先にある高紐と胴の上に付いている高紐を掛け合わせて連結するのですが、この部分を守る役割もあります。栴檀の板は小札が威し付けられていて、鳩尾の板は板のみと形が違っています。これは大鎧は騎馬戦を前提に作られているからです。

平安時代の戦いは、弓で戦うことが多いため、弓を引く右手側が板状だと弦がひっかかってしまうことがありこれを防ぐために草摺のように威し付けてあると言われます。草摺状であれば体に添ってしなやかになるからです。

も小札を威し付けて作ってあります。図は左袖です。袖の一番上の部分を「冠板(かんむりのいた)」と呼び、この板の高くなっている方が前方になります。大体6,7段威し付けてあります。これは腕に直接付けるのではなく、4ヶ所出ている紐で背の総角(あげまき・背にある蜻蛉十字に結んでいる紐)や総角付けの鐶、肩上の部分にある鐶に取り付けるので比較的自由に動かせます。

Aを『受緒(うけお)』、Bを『懸緒(かけお)』、Cを『執加の緒(しっかのお)』、Dを『水呑の緒(みずのみのお)』と呼びます。矢が飛んできたときや太刀で斬り込まれた時にその方向へ向けて一種の楯として使います。

栴檀の板(左)と鳩尾の板(右)
栴檀の板ときゅうびの板の図 袖の図

障子の板・弦走韋

肩に当たる部分には「障子の板(しょうじのいた)」というものが取り付けてあります。首の左右を守るためのものです。また胴の前面から左脇にかけて絵韋(えがわ/模様を付けた鹿のなめし革)を張ってあります。これを「弦走韋(つるばしりかわ)」と呼び、弓を引いたときに小札に弦が引っかかるのを防ぐために張られています。

障子の板 弦走韋
障子の板の図 つるばしりの皮の図

胸板・前立挙・後立挙・長側・押付

鎧の背にあたる金具廻りのことを『押付の板(おしつけのいた)』と呼びますが、大鎧に限ってはこれを『押付』と呼びます。以下で説明する胴丸(どうまる)や当世具足(とうせいぐそく)などはこの部分が鉄板もしくは練革(ねりがわ・鎌倉時代の太刀拵参照)で作られていて、絵韋(えがわ)を貼って回りを覆輪にして作り、それに肩上(わだかみ)を別途作ってくっつけていますが、大鎧の場合は下の図を見れば分かると思いますが、肩上と押付部分の形に革を切り出しているのでこれらは一体となっています。ですから板を作って肩上を付けているわけではないので板に相当する部分がないので、単に押付と呼んでいます。

また背の方から肩上を回してきて、胴の前部の上にある部分と連結するのですが、この金具廻りを『胸板(むないた)』と呼びます。

胴をグルッと一巡りしている部分を『長側(なががわ)』と呼び、胸板と長側の間を『前立挙(まえたてあげ)』、背の押付と長側の間の部分を『後立挙(うしろたてあげ)』と呼びます。

脛当・籠手・貫・箙

大鎧着用時には『脛当(すねあて)』『籠手(こて)』を付けます。臑当は『千鳥掛け』といって下の図のような蝶番が付いている臑当を足に当てて、金具の部分で折り曲げて紐で千鳥掛け(交差させながら留めていく)という方式です。当初籠手は座盤(籠手の金属板の部分)が袖の表裏の生地の間に挟まれており、外からは見えなかったようです。なお籠手は弓を引く左手のみに指します(装着する)。
千鳥掛け脛当 箙と弦巻
『貫(つらぬき)』とは毛皮の沓(くつ)のことで、毛沓とも言います。ショートブーツのようなものもありこれを『馬上沓』と呼び、これは戦場でなくても乗馬の際は用いました。また、『箙(えびら)』とは弓の矢を入れておくもののことです。箙の図にはドーナツ状のものが書いてありますが、これは『弦巻(つるまき)』といって、予備の弓の弦(つる)を巻いておくものです。紐を腰に廻して締め、太刀の上に弦巻が乗るように付けます。この時代は馬に乗って弓を射るという戦法が主ですので、こういったものが必要なのです。

兜には『しころ』と呼ばれる首回りや肩を守る部品が取り付けてあります。これも小札を威し付けてあります。また両側面に顔より少し前に出っ張った反り返り部分があり、これを『吹返し』と呼びます。兜は三角形の鍛鉄板を重ねながら円状に並べ鉄鋲でかしめてあります。この鋲のことを『星(ほし)』と呼び、古い兜ほど星が大きく、いかめしいのでこれを『厳星(いかぼし)』と呼びます。鋲の表面が出ているものを『星兜(ほしかぶと)』、と呼びます。また兜のつばの部分を『眉庇(まびざし)』、兜のてっぺんの穴を『天辺の穴(てへんのあな)』と呼びます。先が矢印のような形をした別板を当ててあるものを『篠垂(しのだれ)』と呼び、星兜の場合はこれに星を打ちます。
この時代の兜は重量があるので、敵に対峙していないときはかぶらず、背に負うか家来に持たせていました
兜の各部名称 兜の作り方
兜には側面に穴の空いたものがあり、この穴を『響の穴(ひびきのあな)』と呼び、平安末期頃まではこの穴が左右に1個ずつあり、下の左の図のようにこの穴に紐を通し、髷を結ったまま烏帽子をかぶってこの天辺の穴から烏帽子にくるまった髷を出して兜を固定していました
紐のかけ方
大鎧の着用手順については、『鎧の着用手順』をご覧下さい。

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2.胴丸

胴丸(どうまる)大鎧とほぼ同じ時期に形作られたと言われ、下の図のような物です。パッと見では大鎧と変わらなく見えますが、まず胴丸は胴をくるっと体に巻いて右側で合わせます。つまり引き合わせは右側になります。この時背側から廻してきた部分を上にして重ねます(真ん中の図)。つまり胸側から巻いた方が下になり、背側から巻いた方をその上に持ってきます。なぜ背側を上にするかというと、組み打ちになった時にこれが逆だと敵にその合わせ目を掴まれる恐れがあるからです。
胴丸は大きめに作られているので、太った体でも着られるようになっています。その場合はこの引合わせの部分の重なりが少なくなるという訳です。大鎧と違うところは草摺です(スカートのような部分)。大鎧では五段威し付けで四間でしたが、胴丸では八間になっています。つまり大鎧は騎馬戦用ですので四間で良かったのですが、胴丸は徒歩戦を前提に作られている軽武装用なので、足さばきを考慮して細かく割られているのです。
胴丸の形式は、前立挙2段後立挙3段長側4段草摺8間5段下がり引き合わせは右で重なるとなります。なお胴丸は押付の板(胸板と同じ金属板)に肩上を別途作ってくっつけてあります。板を使わない大鎧のような押付では形が崩れやすいので、このように改良されたようです。従ってこれを『押付の板』と呼びます。
胴丸 胴丸の引き合わせ 胴丸の前後
柏書房 「日本の甲冑武具事典」 笹間 良彦氏著より
胴丸は元々軽武装であったので、この時代には胴丸だけを着ていることが多く、兜や籠手を付けることもありましたが、脛当、袖は付けていませんでした。袖の代わりに『杏葉(いちょう)』と呼ばれる大きめの銀杏形の防具を肩から上腕部に着けていました。
ところで、胴丸を着た徒歩武者は足軽という言葉通り俊敏に走り回って戦ったので、脛巾(はばき・膝下から足首までを覆う布)のみを付けて裸足で駆け回っていました。当時の人は足の裏の皮が丈夫でこの方が活動しやすかったのです。また、『半首(はっぷり)』という面具を付けたりしました。
胴丸着用図 杏葉 籠手・兜着用 半首

平安時代の長柄の武器

手鉾
鉾(ほこ)とは刺突用の武器で古くは石、銅などで作られのち鉄製になります。袋槍(日本刀の区分参照)のように筒状のものが付いていて、ここに柄をはめ込む形式のものが多いです。上のような形があり、中でも右端のように腰に反りを持たせたものを『手鉾(てほこ)』と呼び、図のような熊の毛の鞘をかぶせ、鉄の蛭巻を施した2m程の柄を付けた手鉾を持っている検非違使の兵が駆けつける様子が『伴大納言絵巻』に描かれています。
槍は鉾が転化したものなどとも言われますが、槍と鉾は使い方が違います。鉾は突きだして刺すという動作で時には片手で突きますが、槍は両手で持ち後方の手で柄を後に引き、前方の手の中を滑らせて繰り出し、また柄を後方に戻します。この動作を素早く行います。「槍は突くな。引いて繰り出せ」と言われる所以です。
鉾は末期には薙刀(なぎなた)に取って代わられています。ただこの時期の薙刀は「長刀」という字を充て、菖蒲造の刀に長い柄を付けた、室町時代の長巻(ながまき)のようなものであったようで、平安時代の後三年の役(ごさんねんのえき/1083年-1087年)の時には既に使用されていたようです。
※:伴大納言絵巻(ばんだいなごんえまき)は866年に起こった「応天門の変」の経緯を描いたものです。
熊手と薙鎌
『熊手(くまで)』『薙鎌(ないがま)』は源平の舟での合戦時によく使われています。熊手本体には鎖が取り付けてあり、それを柄に蛭巻に巻き付けて手元に一緒に持っておき、敵の舟に引っかけたり、敵に打ち込んだりします。万が一柄を切られても熊手が相手に引っかかっていれば、手元の鎖でたぐり寄せられます。先の熊手は取り外せるようになっていて、鎖を持って振り回したりも出来ました。薙鎌は『藻外し(もはずし)』とも呼ばれ、敵の舟の帆や網を切ったりするのにも使いました。これらは後の水軍の必須武器となります。


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鎌倉時代の甲冑

1.大鎧

鎌倉時代の大鎧は前期よりも幾分丈が短くなり、中期になると胴が裾広がりではなく真っ直ぐか、やや裾搾り気味になります。

脛当・籠手・貫

脛当は平安時代の『千鳥掛』から、上の緒、下の緒式に代わり、この方が便利で取り付けやすいので以後この方式になっています。籠手は座盤が表面に出されその位置もほぼ決まってきたようです。貫も前代同様使用されています。
上の緒、下の緒式脛当 籠手

兜に打たれる星は細かくなり数も多くなってきます。また吹返しの反りが強くなり二つ折りのような状態になってきます。
平安時代の兜(左)と鎌倉時代の兜
響の穴が4個(片側2個ずつ)になり『四天の穴』と呼ばれ、天辺の穴から烏帽子を出して固定する必要もなく図のように紐を掛けて固定できるようになりました。こうなると大鎧を着るときには、髷をといてザンバラにし、烏帽子をかぶって兜をかぶるようになります。響の穴の上に鋲が打たれていることがあり、これは兜を固定する紐を切られないようにするためのもので、『四天の鋲』と呼ばれます。このこのような紐の掛け方は南北朝期まで続きます。
四天の穴と四天の鋲 兜の緒の取り方

2.胴丸

鎌倉時代には正式の鎧は今だ大鎧でしたが、大鎧よりも活動しやすい胴丸を上級の武士達も使用し出します。胴丸に兜をかぶり袖を付け脛当を付けて籠手を装着すれば、大鎧と何ら変わることなく重装備出来ました。
胴丸に兜、袖、籠手、脛当装着

3.腹当

腹当は前と左右を覆うだけのごく簡単な防具で、草摺もわずか三間です。大鎧や胴丸に比べて格段に制作費も安いことから身分の低い者が身に付ける鎧です。彼らは烏帽子に半首(はっぷり)を付け、腹当を身に付けて、長刀(なぎなた)を持って脛巾(はばき)に裸足で駆け回りました。
また衣服の下にいざという時用に着込んだりもしたようです。
腹当 腹当着用図

4.腹巻

腹巻は腹当が進化し鎌倉末期に現れたものだと言われ、腹当が発展したものだと言われます。引き合わせは背中で、草摺は七間、のち九間のものも作られました。平安時代から室町時代の古記録にはしばしば『下腹巻』という言葉が出てきますが。今言う腹巻(引き合わせが後ろのもの)や胴丸(引き合わせが右側のもの)は我々が付けた形式上の名前です。古くは胴丸を指して腹巻と言っていたと言われます。従って古記録に出てくる下腹巻という言葉は胴丸を衣服の下に着込んでいることを指す場合もあります。
腹巻の前後 腹巻の引き合わせ
柏書房 「日本の甲冑武具事典」 笹間 良彦氏著より

長柄の武器

薙刀
前代の菖蒲造の刀に長い柄を付けただけの長刀では先が軽く斬れ味が悪いので、鎌倉時代になると先幅を広くし反りも深く作りました。極端に反ったものが絵巻や古画に描かれています。熊手なども使用されていて『蒙古襲来絵詞』などにも描かれています。薙刀の柄は槍などのものとは違い、普通は楕円形で樫の木などで作られています。鐔はないのが普通ですが中には鐔を付けたものもあったようです。
『鉞(まさかり)』は斧を大きくして長い柄を付けたもので、刃の部分が特に広く作られています。今では木を切ることに使いますが古くは武器としても使用しました。塀や門などの破壊に使い時にはこれを持って敵と戦いました。


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南北朝時代の甲冑

1.大鎧

南北朝期の大鎧
柏書房 「日本の甲冑武具事典」 笹間 良彦氏著より
鎌倉中期も終わりに近いころ、いわゆる『蒙古襲来』がありました。それまでの名乗りを上げて一騎打ちという戦法と違い、相手は集団でしかも『てつはう』という鉄の玉に火薬を詰めて爆発させる今まで見たこともない武器で襲ってきました。何とか危機は乗り越えたものの、今までの武器や甲冑を改良する必要が出てきました。日本でも一騎打ちから集団戦へと移行し、今までの馬に乗って弓を射るのが主であった戦法から徒歩戦、太刀打戦へと移行していきました。これによって鎧は徒歩戦に都合の良いように変化し、太刀も「日本刀の見所」で書いたようにその姿が変化します。簡単に言うと猪首切先で蛤刃であったものが、刃肉を落としそれによって重ねが薄くなった分を身幅を広くして強度を補い、身幅が広くなったので切先は大きく延びることになったのです。この変化の絶頂がこの南北朝期に現れます。
また甲冑については、今まではあがきがきくように胴はゆったり目で寸法も長く裾広がりになっていましたので、肩に鎧の重量がかかっていました。しかしこれは馬に乗るのでこれでよかったのです。馬に乗った時、鞍の『輪』という部分に胴の裾を乗せておけば、胴が少し浮き上がって肩への負担を軽減できたからです。しかし徒歩戦になるとこれでは都合が悪いので、胴の腰がすぼまりそれに上帯を強く締めて腰に密着させ、肩への負担を幾分軽くしました。また、軽快に行動できるように寸法も鎌倉時代よりも随分短くなりました。
胴の裾を輪に乗せる

脛当・佩楯・草履

胴の寸法が短くなると、大腿部が露出してしまいます。これを防御するのに『佩楯(はいだて)』という防具が使われるようになります。これは『膝鎧(ひざよろい)』とも言われ、前掛状のもの、前掛状に踏み込みを付けたもの、小袴式のものなどがあります。踏み込みとは前掛の裏に足を入れ込む生地を取り付け佩楯が足から離れないようにしたものです。前面には中程より下に革や鎖、鉄などで作った防具を綴じ付けています。上には帯が付いていて、中央にある環に帯を通して結ぶようになっています。
前掛式佩楯 踏み込み式 小袴式 立挙 佩楯と立挙
また、脛当には『立挙(たてあげ)』というものが取り付けられます。これは膝を防御するためのものです。南北朝期以降は、脛当には立挙が付く決まりとなります。この立挙の大きいものを『大立挙』と呼びます。そしてかなりの上級武士でも草履をはくようになります。

平安、鎌倉時代のしころ 南北朝期のしころ
兜に付いている『しころ』が、平安、鎌倉時代には肩のあたりまで覆うように垂れていたのが、南北朝期には笠のように水平に近くなってきます。これを『笠しころ』と呼びます。また兜に取り付けてある『鍬形』は平安時代からあるようですが、その語源など詳しいことは分からないようで、南北朝期には太くて大きな鍬形が用いられました。
兜もこの時代には『筋兜』が流行します。これは兜に打っていた鋲が小型化して来てそれを叩きつぶして星と見えないようにしたものです。
筋兜 母衣
南北朝時代の大鎧の図(この項目の一番上)には、マントのようなものを背に付けていますが、これを『母衣(ほろ)』と言い、幌、保呂とも書きます。馬に乗って走るとこれが風にたなびき、また裾を腰に結んでいると風でふくらむので威厳を増すために使われました。しかし後には、立っているとふくらまないので竹などで球状の骨格を作り母衣をかぶせてふくらんでいるように見せたようです。上の図がその骨格を使ってふくらませたものです。

2.胴丸

袖付胴丸と金砕棒 折冠式の袖 喉輪
この時代になると胴丸がますます重要視され、上級武士にも愛用されました。元寇以来戦闘方法も変わり、接近戦、集団戦へと移行し、馬に乗るにしても、徒歩で戦うにしても大鎧よりも機能的であることが分かってきたからです。ほとんどが兜をかぶり袖を付けています。また袖を付けるようになると、杏葉(いちょう)の行き場が無くなり、背と前の部分の接続部である高紐のあたりをおおうような位置に移動します。
袖にも改良が加えられています。大鎧の場合は肩上に障子の板が付いていて、横からの攻撃から首を守るようになっていましたが、胴丸には障子の板はありません。そこで冠板(袖の一番上の部分)が障子の板の代わりをなすようになり、またこの部分が折り曲げられるようになって、図のように腕を上げても冠板が頬に当たらないように工夫されています。また首には図のような『喉輪』を付けることもありました。

3.腹巻

腹巻は軽武装用の鎧でしたが、胴丸が大鎧に代わって重武装化していったように、腹巻も重武装化していきます。南北朝期の全国的な戦乱が多くの鎧の需要を生んだと思われますが、大鎧では制作が間に合わないなどの理由もあって、胴丸、腹巻が重武装化していったと思われます。兜をかぶり、袖を付けて籠手や佩楯、脛当を当てて武装しました。なお腹巻には大鎧のように袖の水呑の緒を結びつけるための総角(あげまき)がないので、背に鐶を取り付けてここに結びつけていました。
腹巻の背の鐶

長柄武器

菊地槍
菊地槍(きくちやり)は、南北朝期に肥後国の菊池氏が延寿一派(えんじゅいっぱ)に作らせた物で、千本も注文が来たため、鬼二匹を使って一夜で作り上げたと伝わっています。鵜の首造(うのくびづくり)で区(まち)があり、身幅狭く重ねは厚くなっています。は太く長い物です。6寸前後の物と1尺前後の物があり、長い物は隊長が使用したと言われます。
金砕棒
『金砕棒(かなさいぼう)』とは、2mくらいの樫の木などの棒を八角に削り、鉄板に尖った星を打ったものを貼り付けているもので、後には鉄製に変わったようです。剛の者がこれで敵を打ちのめしました。
袖搦
『袖搦(そでがらみ)』は別名『狼牙棒(ろうがぼう)』『やがらもがら』とも呼ばれ、江戸時代には捕物道具として使われています。2,3mの樫の棒に袖にからめやすいように鉄製の小鈎が付いた槍のような中心付きのものを入れ込み、その下を2cmくらいの先の尖った針を植え込んだ鉄の板で巻き、敵が掴めないようにしたものです。
大薙刀と小薙刀
大薙刀や小薙刀という言葉がありますが、明確な区分の既定はありません。この言葉は柄を含めた大きさのことで、大きいもので刃渡り六尺くらいで五尺の柄が付くとして柄を含めて3mを越え、小さいものでは刃渡り二尺五寸くらいに四尺の柄が付くとして柄を含めて2m程になります。


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室町時代の甲冑

1.大鎧

室町時代の大鎧
柏書房 「日本の甲冑武具事典」 笹間 良彦氏著より
室町時代になると、胴丸や腹巻が武装の主体になってきますので、大鎧の着用は減ってきます。しかし伝統を重んじる家柄の者や、戦闘の指揮をする立場の者などは、好んで着用しました。小札がさらに短くなったので、鎧自体も短くなっています

脛当・脇曳・空穂

脇曳 空穂
この時代の特徴として、大立挙脛当の裏にはふくらはぎを守る板が付けられるようになり、これを『臆病板(おくびょういた)』と呼びます。これはこの時代以降は見られません。また脇の僅かな隙間を保護するために『脇曳(わきびき)』という防具も装備しています。
『空穂(うつぼ)』とは箙(えびら)と同じく矢を入れておくもので、狩猟用や旅行用でありましたが、戦場でも使用されています。『間塞(まふさぎ)』とは蓋のことで、この中に矢の先を上にして入れておきます。これも箙と同じく右腰に付けます。

阿古陀形 笠験 兜の緒の取り方
兜のしころはますます笠しころとなり、鍬形にも色々な種類が現れ特に剣の形をした『三鍬形(みつくわがた)』が流行しました。兜の形も『阿古陀形(あこだなり)』という形が流行します。これは筋兜の前後の膨らみが増し、当時輸入されて珍重された「あこだ瓜」に形が似ているからこう名付けられたと言われます。
この時代は大人数が入り乱れての戦いですので、敵味方識別のための『笠験(かさじるし)』という小旗を用いました。また兜の緒はこの時代から兜の縁に環が付き、ここに取り付けられましたので図のような結び方をし、『頬当』も付けています。
中期になると大鎧は衰退しますが、重圧感を与えるなどの理由から着用する者もありましたが、末期になると戦場では大鎧はほとんど着用されなくなっていきます。

2.胴丸

室町時代初期の胴丸
室町中期頃になると、胴丸は腹巻とともに全盛期を迎えます。兜は大鎧同様、笠しころの付いた筋兜で、南北朝期に続いて袖を付けることが常になってきましたので、袖の紐を結びつける『総角(あげまき)』が背に付けられます。
寸法が短くなってきているので、大腿部を守るために佩楯を用いますが、『宝幡佩楯(ほうどうはいだて)』という筒状になったものを使用するようになってきます。また、臆病板も装着しています。
室町末期の胴丸 目の下頬 篠籠手
末期になると顔には『目の下頬』が付けられ出します。南北朝期から半首を逆さにしたような、顎と頬を守る『頬当』が使われたようですが、それに顎や喉を守る垂れが付き、鼻が付いたもので、図のAは汗を外へ流し出すための管で、Bの折釘と兜の緒をからめて固定します。目の下頬や半頬などを総称して『面頬(めんぼお)』と呼びます。
『篠籠手(しのこて)』の篠とは、一枚の板状であったものを腕になじみやすいように細長い板状にしたもので、鎌倉時代にもあったようですが、現存するものは室町時代のものです。
脛当にある『ホ具摺(かこずり)』とは、脛当の内側の下部のみに革を貼ったもので、馬に乗る時に丁度この部分が鐙(あぶみ・馬に乗って足を乗せておく所)に当たるので、痛むのを防ぐためのものです。
『揺ぎの糸(ゆるぎのいと)』とは、胴と草摺を繋ぐ糸のことですが、この頃から胴からぶら下がっているように長くなり、そのため草摺が動きやすくなっています。胴丸や腹巻が重武装化してくると、草摺は短くなる傾向にあったのでこの糸が長くなりました。この上に上帯を締めても草摺が固定されることなく動きやすくなっています。ただこの糸の下は無防備になるので、鎖を置いたりしたそうです。
揺ぎの糸
柏書房 「日本の甲冑武具事典」 笹間 良彦氏著より
室町末期は甲冑の需要も多く制作の簡略化と防御の効率化が図られています。今までは小札(こざね)を横に重ねて一枚の板を作っていましたが、半分くらい重ねて並べていたので二重になっていました。しかし鉄の板であれば一重でも充分強度はあり、あるいは練(上の鎌倉時代の太刀参照)でも充分であることが分かり、伊予札(いよざね)の手法、すなわち小札を半分重ねるのではなく、鉄板などを端っこの部分のみを重ねて作っていくという方法が流行しました。しかも今までは縄目のように小札に紐を通して威していましたが、数カ所のみでも良いことが分かってきたので簡略化が進みました。
このように硬い板で作られた胴を身に付ける時に、引き合わせを開いて着用するには無理がありました。そこで前後左右に帳番を付けて開くように工夫されましたが、これを『最上胴(もがみどう)』と呼びます。この最上胴や西洋の甲冑などの影響を受け、胴丸を主体として活動的で、防御の面でも優れた甲冑が生まれていきます。これが『当世具足』です。

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3.腹巻

室町時代も中期頃になると、胴丸とともに腹巻は重武装化していきます。兜を付け、袖、面頬、籠手、脛当、佩楯を装備して完全武装となります。そして引き合わせの紐(この場合は背中側)を締めて結ぶと腰が細くなり、極めて小さく見えます。また、末期頃からは背中の隙間を埋めるために『背板』を取り付けるようになります。南北朝期には背の鐶に袖の水呑の緒を結びつけていましたが、戦闘が激化するに従い、袖の動きを調整する必要が出てきたので、背板に総角付の鐶を取り付けて、大鎧と同じようにここに結びつけるようになっています。
背板と総角付の鐶

4.腹当

この時代には集団化した射手の足軽達が現れ、集団で矢を射るのが任務の下卒達ですが、敵と接近戦になれば刀を使っての戦いもありますので最低限の防備は必要で、弓を射る妨げにならない装備をしました。足軽の名の通り、脛当などは付けず、鉄や練革を鉢巻きに綴じ付けた『額鉄(ひたいがね)』に腹当などで武装し裸足で駆け回りました。
ちなみにこの足軽達は応仁の乱でも大活躍し、それどころか京の町を荒らし回り、略奪、放火を繰り返し、京の町を破壊していきました。
腹当に額鉄

5.当世具足

『当世具足(とうせいぐそく)』とは、戦国時代以降に流行した鎧の形式で、具足とは兜、胴、袖、佩楯、脛当、籠手、面頬が全て揃っている状態を言い、甲冑だけを指す言葉ではありません
当世具足は胴丸を主体として千差万別の形態がありますが、特徴は、胴の左側を切り離して二枚胴にしたということです。大量の需要に応えるためにこの時期に起こった効率よく甲冑を制作する方法として、練革や鉄の板を使って作る方法が成されましたが、これでは小札で作った時のように柔軟性がないので、着用時に開くのが大変でした。そこで胴を左側で2つに分けて棒式の帳番で留めるようにしたのです。従って引き合わせは右側で、背側から回した方が正面側から回した側の上にかぶさります。また当世具足は押付の板、肩上共に鉄で出来ていますので肩上は押付の板に鋲留めされています。
草摺は5段下がりの7間が多いようで、揺ぎの糸の長さは札の倍くらいと長くなっています。これはこの上に上帯を締めて刀を差すからです。
二枚胴 二枚胴の引き合わせ 棒式の帳番
また、背には旗指物(はたさしもの)を支える『合当理(がったり)』、竿を差し込む受筒が付けられています。
当世具足の背 合当理
肩上(わたがみ)には顎回りを守るために『襟回し(えりまわし)』『小鰭(こびれ)』が付けられています。活動性重視のため兜のしころが小さくなり、袖も小さくなったので顎回りを守るために付けられます。襟廻しは図のように肩上の内側に縦襟のように取り付けられ、下の方まで続いています。生地に鎖を縫いつけたもの、革や鉄の亀甲形のものを綴じ付けたものなどがあります。当世具足は袖が小型になり籠手も肩上に付けられるものもあるため、肩上周辺の防御が手薄になっているので、小鰭で守ります。素材は襟廻しと同様のものが使われます。
襟廻し 小鰭
また当世具足着用時に『満智羅(まんちら)』と呼ばれる首回りから腕の付け根、胸の上部、背の上部を守るものが着用され出します。胴を着る前に着用する物で鎖や亀甲金などで作られています。
足の甲というのは重要なところで、ここを斬られると歩けなくなってしまいます。そこで『甲懸(こうがけ)』という防具を、足袋をはいた上から付け草履を履きます。これも鎖などを綴じ付けて作られています。
満智羅 甲懸
当世具足特有の特殊なものに『鼻紙袋(はなかみぶくろ)』『前袋(まえぶくろ)』があります。鼻紙袋は胴の前側、下よりに付ける蓋付きの袋で、薬品や小物などを入れるものです。前袋は鼻紙袋を前の草摺裏に付けたものです。これらは全ての当世具足に付けられたわけではありません。
鼻紙袋 前袋
以下では当世具足と呼ばれる多くの甲冑の中から幾つかを紹介します。

桶側胴

桶側胴 日根野形兜
柏書房 「日本の甲冑武具事典」 笹間 良彦氏著より
『桶側胴(おけがわどう)』とは板を鋲で留めたもので、桶の形に似ているのでこう呼ばれます。左側で帳番付けになっています。板を横向けに留めるもの(図のようなもの)と、縦に留めるものがあり、横留めの分は蛇の腹に似ているので『蛇腹胴』とも呼ばれ、これに朱の漆を塗ったものは『海老殻胴』とも呼ばれます。当世具足の中で一番多いタイプです。
『日根野形兜(ひねのなりかぶと)』の日根野は考案者の名前で、5枚の鉄板から成っています。眉庇が兜の前面に取り付けられ、しころは『日根野しころ』と呼ばれるもので、肩のあたりの部分がまくり上がり後側が首の下まで覆うように垂れ下がっている独特の形になっています。
袖はかなり小振りのものになっており、篠脛当には板状の立挙ではなく、亀甲金という鉄または練革の六角のものを生地に綴じ付けたものを使います。

仏胴

仏胴具足
柏書房 「日本の甲冑武具事典」 笹間 良彦氏著より
『仏胴(ほとけどう)』とは胴に継ぎ目のない、一枚板で作られたように見えるものを言います。なぜ仏胴という名前が付いたかははっきり分かりません。これらは西洋の甲冑の影響から生まれたものと思われますが、一枚板で作るにはかなりの技術が必要で、実際は桶側胴のように何枚かを継ぎ合わせて、革を着せたり漆を厚く塗ったりして、一枚板のように見せたものが多いようです。これに様々な文様を打ち出したもの、蒔絵を施したものなどもあります。

五枚仏胴

五枚胴
柏書房 「日本の甲冑武具事典」 笹間 良彦氏著より
前、後、左脇、右脇2枚の五枚に分割されたもので、仏胴に多いタイプです。また、この前、背の部分でさえ一枚板で作ることは難しく、3枚くらいの板を縦に並べて(上の桶側胴の縦版)留めて、こくそ(漆に木粉などを混ぜたもの・隙間を埋める時などに使います))を塗って平らにし、仕上げの漆を塗って一枚板のように見せています。『雪の下胴』とも呼ばれ、関東で流行したので『関東具足』とも呼ばれます。伊達政宗がこれを好み、伊達藩の形式として採用し、御貸具足(おかしぐそく・後述)にもこの形式を採用したそうです。従って『仙台胴』などとも呼ばれたそうです。

南蛮胴

南蛮胴
仏胴の制作に当たっての参考になったのが『南蛮胴(なんばんどう)』です。西洋から甲冑なども輸入され、当時の武将などに好まれたようで、これを日本的に改良したものが南蛮胴です。前後二枚の二枚胴になっていて、左脇で帳番留めになっています。胴の中央は高く鎬筋が立っていて、鎬筋の部分でわかし付けされています。下へ行くほどすぼんで尖ったようになっていますが、この奇妙な形は敵の攻撃を滑らせて防ぐという工夫です。兜にも同じように中央に鎬筋があります。
『小田籠手(おだごて)』とは瓢箪のような形の金具が付いたもので、瓢型(ふくべがた)』とも言われます。江戸時代には瓢箪のような部分が蓋付きのものになり、薬や小物を入れるようになりました。
小田籠手

肋骨胴

肋骨胴
仏胴に様々な文様を打ち出したものが発展し、人間の体を打ち出したものが作られました。仁王像の荒々しい肉置きを模倣したもので『二王胴』とも呼ばれ、肋骨を打ち出しているので『肋骨胴(あばらどう)』とも呼ばれます。
髪型の兜
兜の鉢に毛を植えることも行われ、『野郎頭(やろうとう)』というのは髷の付いたもので、その他に様々な髪型のものが作られました。これは兜を雨や湿気、乾燥から守るためのものです。
また、『陣羽織』は元々防寒用などに着たものですが、次第に自己をより目立たせるような用途に使われ、袖付きのものは高級武士が用い、一番普及したのは袖無しのもので、普通陣羽織と言えばこの袖無しを指します。

6.御貸具足

御貸し具足
室町後期には『足軽』が組織化され、長柄足軽弓足軽鉄砲足軽などが構成され、彼らは自分の武器や甲冑など持っていないので、雇う側が一切を準備し、貸し与えました。これらを『御貸具足(おかしぐそく)』『御貸刀』と呼びます。誰もが着られるように大きめに作られていて、胴に籠手、陣笠もしくは兜が一式になっています。陣笠や胴には前後に識別のための紋が朱または金箔で描かれていることもあります。雑用で走り回るので、手甲(てこう・手の甲を守る金具で普通籠手に付いている)無しの籠手を付け佩楯や脛当などは付けずに脛巾(はばき)に草履履きです。
陣笠の後方には日光を避けたり、雨よけのために布が垂れていて『兵糧玉(ひょうろうだま)』を片たすき、または両たすきにかけています。兵糧玉とは干飯(ほしいい・蒸したご飯を乾燥させたもの)が入っており、玉1個が一食分になっています。このままポリポリ食べても良いし、湯をかけて食べても良く、昔の保存食品です。なお陣笠は鍋代わりにも使いました。その他所属する隊によって矢箱など関連する物を携帯します。
兵糧玉と矢箱 胴の下に刀を帯びる
御貸刀は質素な造りで鞘などに通し番号を打ったものもありました。
この御貸具足は時代劇などでも頻繁に登場しますが、多くは着方が間違っています。合戦の様子を描いたものを見ると、どれも具足の下に刀を帯びているように描かれています。つまり、刀を帯びてから胴を着ているのです。草摺の揺ぎの糸の間から柄が覗いて見えます。これなら例えば川に落ちた時でも胴を脱げば泳ぐことが出来ますし、刀を捨てずに済みます。役務上何らかの理由で胴を脱ぐ時があったのでしょうか、お借りした刀だから胴を脱ぎ捨てた時でも刀が残るようにするためでしょうか、とにかくこのように着用しています。

長柄の武器

熊手と薙鎌
平安期より使われてきたもので、水軍の必須武器となっています。
長巻
この時期に登場した武器で、柄の長さは二尺程の樫の木でこれに二尺三寸程の刀身を付けます。柄の上半分には鮫皮を着せ、柄巻を施します。鐔や切羽も付けて、柄のお尻には石突をはめ込んでいます。
 筑紫薙刀
 筑紫薙刀の図

筑紫薙刀(つくしなぎなた)は、九州の筑紫(筑前国と筑後国)で使用された特殊な形状の薙刀です。平造の刀を2つくっつけたような形状で、茎はなく茎にあたる部分が筒状になっており、ここに長い棒を差し込んで使用しました。

甲冑の弱点
当世具足は完全防備の甲冑です。頭、こめかみ、喉、首筋という急所は兜、しころ、面頬、喉輪などで守られ、腕や肩は袖と籠手、手甲で、上半身はで、下半身は草摺、佩楯、脛当、甲懸などで守られています。あえて斬り込む隙間もないくらいです。ではどうやって戦ったのでしょうか。
当世具足
甲冑はじっとしてれば隙間なく攻め込むポイントがないように見えますが、動きやすいように工夫されているので必ず可動部があり、隙間もあるのです。例えば腕を上げればに、もしくは腕の裏側(外側は籠手に付いた金具がありますが、裏側にはない)、胴と草摺を繋いでいる揺ぎ糸周辺草摺の間膝周辺足の甲などです。じっとしていればこれらは守れますが、動くとどうしてもわずかな隙間ができてしまいます。そこのわずかなスキを狙って攻撃するのです。
薙刀での摺り付け 金砕棒で殴る
もしくは金砕棒などで打ち付ければかなりのダメージを与えられますので、体制が崩れた瞬間に攻撃するなどの方法もあります。あるいは薙刀で下からすりあげて草摺の中の股ぐらを狙って摺り付ける(スカートのようになっている草摺はこの攻撃に最も弱い)、薙鎌でかぶとのしころを跳ね上げて首筋を狙うことも出来ます。甲冑は重いので足を払われるとすぐに倒されてします。従って敵と対峙している時は足を開いて腰を落としその状態で飛び歩きしなければなりません。

槍と長巻について


薙刀(なぎなた)は、敵を薙ぎ切る(横に払って切る)ための武器で、平安時代には使用されていましたが、これは「長刀」と書かれているように室町時代の長巻(ながまき)のような、菖蒲造の刀に長い棒を取り付けたような物でした。鎌倉時代になると、先の張った極端に曲がった物と、菖蒲造の2種類となり、南北朝期には極端に曲がった物はなくなり、菖蒲造に反りを付けた物が主流となりました。

江戸時代になると、菖蒲造の物は男型(おとこがた)と呼ばれるようになり、男型よりも刃渡りが短かく先幅が広く、大きく反った形は女型(おんながた)と呼ばれました。これは女性の体力に合わせて刃長を短くすると、重みが少なすぎてしまうので先幅を広くして適度の重みとし、力が弱い女性でも容易に切れるように反りを強くした物です。江戸時代には薙刀は武家の婦女の武術となり、薙刀は嫁入り道具の一つとなりました。なお、後には男型を静型(しずかがた)、女型を巴型(ともえがた)と呼ぶようになり、「静」とは源義経の妾である静御前、「巴」は源義仲の妾である巴御前に由来します。

一方、長巻(ながまき)は室町時代に登場した武器で、柄(つか)の長い刀です。長い柄には鮫皮を巻き、柄巻を施し切羽(せっぱ)も付いています。

静型・巴型  長巻 
巴型と静型の薙刀の図   長巻の図
 雄山閣出版「日本刀大事典」福永酔剣氏著第四巻より   

ところで、薙刀と長巻を区別する人と、長巻とは薙刀の外装のことで外装が違うだけで中身は同じとする人がいます。一般的に、菖蒲造りのもの、あるいは横手を切ったもので外装の柄が短いものを長巻、先が張って大きく反り寸法が短いものを薙刀と呼びます。

従って横手のある大太刀を磨上げて棟側を落としたようなものを長巻直し、先が張り気味で横手の無いものを薙刀直しと呼びます。どちらにも薙刀樋を彫ったものがあります。

長巻直しの刀  薙刀樋 
長巻直しの刀の写真  薙刀樋の写真 
備前長船博物館「くろがねの美」より  工芸出版「刀剣見所勘どころ」得能一男氏著より 

なお、薙刀直し、長巻直しについては偽物と繕いで詳しく解説していますのでそちらをご覧下さい。

槍について
南北朝末期から室町にかけて槍は戦場の主要武器として盛んに作られています。戦国期になると武功を表す『一番槍』という言葉が生まれ、ひとかどの武士であるならば槍を持つようになり、この時期の傭兵である『足軽』達にも貸し与え、戦場で大活躍しました。槍は太刀や刀、弓などと違って全くの素人でも扱える便利な武器でした。
江戸時代になると表道具として使われ、正式な外出時には供に持たせ、鞘には各家独自の文様や形を用いて格式を表しました。時代劇などではこの槍はあまり登場しません。江戸時代の集団での斬り合いに関してもこの槍を持つ者が一人でも加われば、そちら側が圧倒的に有利になったのです。特に室内での乱戦であればなおさらでした。ここではこの槍について少し解説したいと思います。

槍の起源

鎌倉時代の古文書には「槍」という文字が使われておりますが、これを「ほこ」と読むのか「やり」と読むのかは定かでなく、南北朝期の「太平記」において『鑓』という言葉が使われてから広くこの文字が用いられるようになったと言われます。
南北朝期の合戦報告書に「矢利を持って胸を突かれ」という記述が見られ、江戸時代の学者である新井白石はその「軍器考」という書物の中で、「也利というものは古(いにしえ)の”ほこ”の制により作り出されにしや、建武より先には此のものの事、見るところなければ、元弘建武の間より始れること一定なるべし」と述べ、”ほこ”に槍の文字を充てています。つまり槍というものは「ほこ」の制度で作り出され南北朝期の元弘、建武の頃から世に広まったという意味のことを書いています。
平安時代の長柄武器の項で、検非違使の兵が手鉾(てほこ)を持っている絵が「伴大納言絵巻」に描かれていると記しましたが、「比古婆衣」という古文書には「手鉾の柄を細く長くし、鉾刃を小にしたものなり。也利という由は手鉾よりも遠く突き鑓る義にて・・・」とあることから、「突き鑓る」が訛って「突き鑓」になり「鑓」になったなどと推測されています。槍が発生した時期などについては諸説ありますが、鎌倉末期から南北朝期にかかる頃であろうと思われます。

鉾と槍

鉾(ほこ)は袋槍(ふくろやり/下図)のような筒状になった部分に柄を取り付けるものですが、これらの利点は袋槍や鉾の先の部分のみを保管しておけるということです。懐にでも入れておいて、いざという時には適当な棒を拾ってきて筒に合うように削れば良いのです。その反面、欠点は茎(なかご)がないので折れやすく、下手をすると柄の部分を切り落とされてしまいます。従って手鉾などはすきを見て素早く突くという動作で、動作的には銃剣で突くというような動作になります。また時には片手で突いたりもします。
これに対して槍は刀同様に茎があり、しかも槍の刃渡りに対してかなり長くなっています。この長い茎を長い柄に差し込んで目釘で固定します。茎が長いのは、鉾のように相手に斬り落とされない工夫ではないかと考えられます。なお、槍にも袋槍(ふくろやり)といって、茎が無く茎にあたる部分が筒状の金具になっているものもあります。また、袋槍の現存する物のほとんどは新刀期の筑前信国一派の物です。
袋槍 
袋槍の写真 
雄山閣出版「日本刀大事典」福永酔剣氏著 第四巻より 
槍は突いて使う武器であると思われがちですが、両手で扱います。左手の中を柄を滑らせるように右手を後方に引いて前に繰り出し、また右手で後方に繰り込むという動作になります。「槍は突くな、引いて繰り出せ。石突に心をつけよ」という言葉があり、石突に心をつけよとは、後に障害物などがあって槍のお尻の石突がつかえてしまうと相手に柄を掴まれたりするので、後方の余裕を持てということで、槍の操作を的確に表現しています。
槍の構えと動作

槍の部分名称


A:穂(ほ) 槍の刀身の部分です。
B:けら首 中心と刀身の境のくびれた所をこう呼びます。
C:口金(くちがね) 柄の先端にある金具で、柄の中心を入れる口の周辺を折れないように守る金具です。
D:銅金(どうがね) 輪状の金具で口金と同じ目的のものです。複数入れる場合があります。『印付けの環』というわっかを付け、ここに『槍印(やりじるし)』を付けます。槍印とは各隊などの識別票のようなもので様々な種類があります。
E:太刀打ち Fのかぶら巻の上から口金の間の柄をこう呼びます。
F:かぶら巻 『血留め』等とも言われ、太刀打ちに流れてきた敵の血がかぶら巻より手前(自分より)の柄に流れてこないようにかぶらのように丸くした工夫です。
G:石突(いしつき) 柄のお尻に付ける金具です。様々な形があります。

槍の種類

槍は大きく分けると『素槍(すやり)』、『鎌槍』、『長柄槍』、その他『特殊な槍』に分けられます。素槍というのは穂が棒状で柄に鐔など付かない槍のことで、槍は素槍から始まり、最も広く使用されたものです。この素槍に工夫を凝らして鎌槍や特殊な槍が生まれました。
素槍 鎌槍

<素槍>

素槍の穂を柄(え)に取り付ける方法は2種類あり、刀のように中心(なかご)があるもの、穂の下が筒状になっていて、ここへ柄の先を入れ込む式のものとなります。また素槍は寸法では3種類に分けられます。短穂(一尺まで)、中身(一尺以上二尺まで)、大身(二尺以上)となります。
穂の形状には正三角穂平三角穂笹穂などがあり、正三角穂は断面が正三角形なので丈夫で折れにくく、硬いものを貫くのに適していますが、穂で斬りつけるには角度がゆるいので適していません。一方平三角穂の断面は二等辺三角形になっていて、平面に樋を彫ったものが多いです。刺すにも斬るにも適した形となっています。笹穂は中央部がふくらんでいて平面に樋を彫ったものが多いです。この形は敵を刺した場合の傷口が広くなり、殺傷力が強いものです。なお樋を彫る理由は重量の軽減もさることながら、敵を刺した時に筋肉が収縮して穂が抜けなくなることを防ぐためです。
正三角穂(左)と平三角穂(右2点) 笹穂

<鎌槍>

鎌槍とは素槍の穂の横から色々な形の鎌穂が突き出ているものです。

<長柄槍(ながえやり)>

戦国時代から江戸時代にかけての合戦で使用された、槍組の雑兵(ぞうひょう)が使用した槍で、4mから6m50cm程の柄に短い穂を付け、槍印を付けるための環が太刀打にある槍を総称してこう呼びます。
長柄槍
戦国時代の合戦は、まず石を投げつけることから始まります。お互いに敵に向かって石を投げつけるのです。その後に鉄砲や弓、長柄の槍、騎馬隊の突入となります。
この頃から、雑兵達が合戦の中心となっています。農民などを兵士として徴収し、足軽として戦場へ向かわせたのです。この雑兵達が使う武器が長柄槍なのです。これらの槍の柄は下で説明している打柄(うちえ)で作られていてよくしなりました。戦場に於いて厄介なのは騎馬の武者です。南北朝期にはこの騎馬武者を阻止するために雑兵は弓を持ちましたが、これには当てるための訓練が不可欠でしたが、槍ならさほど訓練などいらなかったのです。
なぜ特に訓練が要らなかったかと言うと、指揮官の陣太鼓に合わせて前進、叩き、槍衾、後退などをすれば良いからです。そして突かずに調子を合わせてひたすら打ち叩けばよかったのです。これなら武芸を会得するのとは違って、足軽達にも出来たのです。
『槍衾(やりぶすま)』とは長柄槍を持った兵が先を交差させて何列も並ぶもので、敵から見ると穂先が密集して遮って見えるので、よほどの命知らず以外は突進してこれないのです。もし突進してくる騎馬があれば、腰を落として片膝を付き、柄を立てた膝の上に置き、石突は地面に突き刺すように固定し体制を低くして待ちます。これを横に一列または何列も並び、騎馬が突進してきたら一斉に大声をあげながら柄を地面に打ち叩きます。そうすると馬はビックリして止まります。それでも止まらず突っ込んできたら穂先を上げて馬の胸を狙って柄は両手で固定し、石突は地面に突き刺したままにしておきます。馬がこの長柄槍に突っ込んで刺さると柄は大きくしなりますが、元に戻って何百キロという馬を跳ね返す弾力性がこの打柄にはあり、落馬した武者を一斉に突き殺すのです。
槍衾(やりぶすま) 馬の胸を狙う
まず石を投げつけるのはこの長柄槍隊を崩すためで、これでダメなら長柄槍対長柄槍の壮絶な叩き合いが始まるのです。敵の穂先を上げさせずに打って打って打ちまくるのです。一部が崩れるとそこから攻め入ります。強い部隊はこの長柄槍隊の統率が非常によく取れ、よく訓練されています。
ひたすら叩き合う

<特殊な槍>

管槍

特殊な槍のひとつに『管槍(くだやり)』があります。素槍の柄に拳一握りほどの管を通したものです。管槍の場合は柄が長く二間(約3m60cm)ほどもあります。管に鐔を付けたもの、その鐔に発条を付けたものもあります。管は鉄や銅、真鍮、練革などがあり、手貫緒を付けたものもあります。鮫皮を貼ったり籐巻にしたり、刀のように柄巻風に紐を巻いたものもあります。管の鐔は左手を守るためで、管自体は槍を繰り出すスピードを上げ、貫通力を高めるためのものです。管が先へ抜けてしまわないように管止めの銅金を付け、石突側も下へ抜けてしまわないように太めに作られています。
管槍 管の発条
素槍は雨露などに濡れると滑りが悪くなり、手の平に汗をかいても同じく滑りが悪くなります。管を付けてこれを左手で握り、後の右手で槍を繰り出すと、管の中を重い槍が滑って飛ぶように繰り出されます雨露や手の汗なども全く影響せず、万が一、管を持つ左手に傷を受けても手貫緒を手首にからめておけば、管を握れなくなっても影響なく使えますこの貫通力、スピードはすごいらしく、鎧の胴をも貫くと言われています
管の鐔に付けた発条は、管止めの小鐔に引っかけて柄の石突を地面にトンと打つか、柄を一振りするとはずれるようになっていて、管が手元に落ちてくるといった工夫が成されています。これは槍の一流派の特殊な装置だそうです。
管槍の使い方

突槍(楯倒し)

戦場で甲冑を着た武者と戦う場合、槍のように先の尖ったもので突いても効果がありません。そこで先が鈍角のもので突き倒したり、殴りつけたりします。また最前線に潜む敵兵は木楯を立てて内側の様子を隠したりしますが、これに鉄砲や弓を射ても意味がないので、これらを突き倒すのが『突槍(つきやり)』です。
木楯 突槍

柄(え)について

槍の柄の材料は樫、竹などです。踏み折ろうとしてもしなって折れない柄が良いと言われます。竹の場合は竹のみで作るのではなく、木の芯を入れて回りを竹で包むという技法を使います。これを『打柄(うちえ)』と呼びます。中心の芯には杉などのしなる材質を使い、その周囲を三角に削った竹で包むようにくるみ、麻布で巻いて紐や革で巻き、その上から漆をかけます。
打柄
樫の柄の場合、その肉置きには様々な工夫が成されています。一般的なのは手元を太く、先に行くに従って徐々に細く削る『筍形』と呼ばれる物で、先がしなるので使いよいようです。また、鎌槍などでは柄に『さぐり』が付けられている場合が多く、これは柄の断面が正円ではなく桃形をしているもので、暗闇で握った時でも鎌の向きが分かるように工夫されたものです。
鎌槍を使う場合に、鎌を水平にして構えることを『平鎌(ひらかま)』といい、これは防御の構えで、鎌を縦にして構えることを『切り鎌』といい、これは防御にもなり攻撃する場合は深く刺すことが出来ます。平鎌と切鎌をくるくる変えることで敵の槍や刀を押さえたり巻き上げたりします。素槍の場合は太刀打を掴まれればどうしようもないですが、鎌槍の場合は鎌の前後どちらにも刃が付いているので、押しても引いても切ることが出来るので、迂闊に手を出せません。
桃形 平鎌と切鎌
槍は江戸時代には武士の表道具となり、よほどの軽輩でない限り座敷の欄間に槍を掛けられるようにしていました。甲冑相手の戦いの場合は甲冑の隙間を狙って繰り出す必要があるため、斉藤道三は竹の柄に針を付けて軒先に吊した一文銭(5円玉のように穴が空いている)を揺らし、竹の柄の針でその穴を突き通すという訓練を行ったそうで、彼の行くところ皆甲冑の隙間を突かれ倒れていったという話があります。