BARRIER FREE 

 第2回 私が考える日本のバリアフリーの系譜
 

 私が思う日本のバリアフリー黎明期


「バリアフリー」が大きく世に出たのは、1974年の国連専門家会議報告書の表紙に「バリアフリー・デザイン」と言われています。その後に日本にも「バリアフリー」は入ってきたようですが、国連報告書のような「これだ!」というものは無いように思っています。
それぞれの専門家(殆どが建築関係者)が、書籍や研修会、講演会で使い始めていたようですが、その専門性の高さから、なかなか「バリアフリー」は一般社会には広まりませんでした。

私が持っている本で、表紙に「バリアフリー」の記載がある一番古い本は、1981(昭和56)年に出版された「図解 バリアフリーの建築設計 障害者・老人のための設計マニュアル」彰国社です。
「図解 バリアフリーの建築設計」の著者は、大学の教授で「老人向け住宅の設計」や「身体障害者向け住宅の設計」の研究者です。
当時にこの分野の研究者は、稀有な存在(失礼(*_ _))でした。
 

私はこの本を仕事の資料にしていたのですが、定価は1,800円です。当時はサラリーマンで安月給だったので、書籍に1,800円は決して安くはありません。よく買ったなあ、頑張ったなあと思います。

その後に「バリアフリー」を見たのは、1986(昭和61)年「バリアフリー・デザイン」です。
この本は、長崎県と長崎県身体障害者福祉協会が出版しているのですが、編集に長崎バリアフリー研究会が携わっています。
その研究会のメンバーである光野有次氏の講演会が徳島県であり、その講演で「バリアフリー・デザイン」を知りました。ですので私がこの本を知ったのは、出版6年目の1992(平成04)年でした。
 

「バリアフリー・デザイン」は、自費出版のようで書店では売っていませんでした。また、当時はネット環境などもありませんので、講演後に長崎県諫早市にある光野氏の工房へ個人的に話を伺いに行った際に手に入れました。
光野氏に「ここまで来るのも、もの好きだが、その本を買うのも、もの好きだなあ。」と笑われましたが。

1980年代は「バリアフリー」関連の書籍を探していましたが、地方在住者には限界があり、上記の2冊だけでした。80年代の建築関連本のトレンドは「ハンディキャップ」と「リハビリテーション」でした。それが「バリアフリー」に変わるには、90年代まで待つ必要がありました。
       

 私が思うバリアフリーの流れ<高齢者介護>


私の(頼りない)記憶によれば、1990年代初頭から雑誌や新聞で「バリアフリー」の文字を見たように思います。その背景には二つの流れがありました。
一つは「高齢者の在宅介護」と、もう一つは「まちづくり」です。

一つ目の「高齢者の在宅介護」です。

日本が「高齢化社会から高齢社会」になったのは1994(平成06)年ですが、高齢社会に向けた施策の転換は、1989年に旧・厚生省が出した「ゴールドプラン」です。
スローガンは「施設福祉から在宅福祉へ」でした。これにより福祉施策が「施設」ではなく「在宅」になったのです。

国民側からすると、それまで普通に住んでいた家がいきなり「福祉の受け皿」になりました。言い換えれば、在宅が「介護の場」となったわけです。
それまでの住宅には核家族が進んでいたため、高齢者が一緒に住んでいることは少なかったと思います。そして高齢者世帯はどちらかが介護が必要になったら、施設にお世話になるのが一般的でした。そんな住まいが「介護の場」になるのですので、住宅を改造して「福祉の受け皿」にならざるを得なかったのです。

そんな混乱の中、「住宅改造」のニーズが高齢者の在宅介護から出てきたことで「一般の住宅改造」と「介護用の住宅改造」を区分けるため、後者に「バリアフリー」を使い始めました。

この頃に注目を集めたのが、東京都江戸川区の「すこやか住まい助成事業」です。
有名になった要因は、1990年10月から介護用の住宅改修(バリアフリー)に、「所得制限なし、給付額金の上限なし」の事業を始めたからです。

全国の市町村でも、国が打ち出したゴールドプランの「在宅を福祉の受け皿にする」ために、住宅のバリアフリー化事業は初めていました。しかし、多くの行政区では受給要件に、非課税世帯などの所得制限がありました。
「福祉は低所得者施策」の考え方が色濃くありましたので、江戸川区が打ち出した「所得制限なし」はびっくりしました。

また、現在の介護保険制度の住宅改修にもありますが、行政には「(住宅改造が)個人資産の形成につながらない」があります。そのためバリアフリー化事業は、給付額が10万円から30万円で、大きな行政区でも50万円から70万円位で、上限がありました。
その中で江戸川区は、工事内容に制限はあるものの事業の趣旨に沿うものには「給付額の上限なし」でしたので、とても驚きました。

私は、1993年1月に東京都総合社会福祉センターであった「高齢社会環境整備連続シンポジュウム」で、江戸川区の発表を聞いて、「所得制限なし、上限なしは、都市伝説ではなく、本当にある事業なんだ」と思ったことを覚えています。
ただし、この時に江戸川区の担当者は「住宅改造」と説明しており、「バリアフリー」という表現は使っていませんでした。しかし、他の演者は、バンバン、バリアフリーを使っていましたので、私は「バリアフリーはトレンドになったなあ」との感想を持ちました。

因みに、江戸川区は、介護保険制度が始まってからは「すこやか住まい助成事業」は「住まいの助成事業」に変わっており、緩いですが「所得による負担金や工事金の上限」があります。

 私が思うバリアフリーの流れ<まちづくり>


もう一つは「まちづくり」です。

「まちづくり」にバリアフリーが結びつくきっかけは、「福祉のまちづくり」だと思います。
「福祉のまちづくり」は、1974年に田中角栄内閣が打ち上げた「福祉元年」のスローガンが始まりだと思います。しかし、同年にオイルショックがあり、福祉元年を打ち出した首相も逮捕されて80年代初頭まで国の福祉施策の進展は見られませんでした。

混沌とした社会情勢の中で、1986年に東京・八王子に「CIL運動・Center for Independent Living」が始まり、全国に広がって行きました。
広がっていく過程で、「脱施設」や「施設から地域へ」「福祉から権利へ」という言葉を聞くようになりました。

私は1990年代の初頭に、地元のCIL運動を少しだけお手伝いをしていました。その時の支援者(介助者でもある)のリーダーは、私より10歳前後上の人達でした。リーダー達は団結力が強く、何事にもブルドーザーのように突き進んでいました。特に、お役所に対しての風当たりはとても強いものでした。私は、このような文化があるのだと知って、ノンポリ世代の私には、すごく刺激的でした。

ある日の飲み会でCIL運動の支援者らは、学生運動(全共闘運動)の経験者だったことを知りました。あのパワーが障害者解放闘争(彼らはそう呼んでいた)に繋がったことに、私は学生運動の未経験者ながら何か納得しました。

1991年にCILの全国組織の「全国自立生活協議会」が設立され、各種の各研修会が開催されていました。私は介助者として車いすの街づくり研修会に参加したことがありますが、非常に熱気あふれる会でした。
その熱のままに「建物が使えないのはバリアがあるからだ」「バリアは除去することが必要。バリアフリーだ」「バリアフリーで建築関係者に再教育を」が連呼されて、「バリアフリーは人権問題だ」との発言には、建築士としては非常に肩身が狭かったことを覚えています。

しかし、その時に私が建築士ということは依頼人しか知らないので、ただだた、じっと二日間を面の皮を厚くしていました。介助者は透明人間であれと教えられていたので、研修会のシュプレヒコールに耐え忍ぶにはいいポジションだったと思います。

また、1990年代に入ると停滞していた行政の「福祉のまちづくり」も、各地で先行していた仙台市や神戸市、町田市を追うように条例化が進んで行き、1995年には全国の殆どが福祉のまちづくり条例を設定していました。
ただ、条例化は進んでも、街のバリアフリー化が進んだ訳ではなく、まだまだバリアフルな街並みではありました。
 

1994年に政府は「福祉のまちづくり」を集約させる「生活福祉空間づくり大綱」を発表しました。この中には「バリアフリー」の文字が多く使われています。ということは、政府は「今の生活空間の中はバリアフルである」を認めたことになります。だから「バリアフリーが必要だ」と纏めています。

また、同年に建設省は「高齢者、身体障害者等が円滑に利用できる特定建築物の建築促進に関する法律(通称、ハートビル法)」を施行しました(ハートビル法は、交通バリアフリー法と統合・拡充したバリアフリー法になった)。

これ以降、行政関係では「バリアフリー」を使うことはスタンダードになったように思います。

 朝日新聞社の社説 高齢社会はバリアフリーで


私は朝日新聞を取っていないので、リアルタイムで見てはいないのですが、知人から「朝日新聞の社説、読んだか?」と電話がありました。
急いで駅の売店(その頃にはコンビニは自宅の周辺には無かった)まで買いに行きました。

掲載されたのは、朝日新聞の1993(平成5)年9月4日です。

この社説は、少人数ではありますが、関係者の間では非常にインパクトがありました。
なにより見出しで大きく「バリアフリー」と印刷されているわけですので、建築業界には新たな門戸が開かれた感がありました。
電話をくれた知人には「見た見た、新聞にバリアフリーがデビューしたね」と折り返し、喜び合いました。

社説には、その後に重要になる「バリアフリー住宅」「建築業界の景気回復」「住宅金融公庫」「バリアだらけの住宅」「寝たきり老人」「長寿社会対応住宅設計指針」などのワードが載っています。素晴らしいと思います。

しかし、最後に「機は熟しているようだ。」とありますが、実際はまだまだでした。

バリアフリーが新聞に掲載された翌年の花見の席で、「そういえば新聞に載っていましたね、バリファイヤー!」と仕事仲間(工務店勤務)から声を掛けられました。宴席でしたので結構大きな声で。(ファイヤー?お前は大仁田厚か!と思ったけど…。この表現、分かります?)
周りの人も「そうそう、載っていたねぇ、バリファイヤー」と…。

「バリファイヤー(正しくはバリアフリーですが)は、徳永」との思いで声を掛けて頂いたのは、ありがたかったのですが、私は、「誰か訂正してくれー」をぐっと飲み込んでいました。

1994年は、そういう年でした。
 

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