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            苗字成立


 
『苗字の履歴書』の考える苗字の成立ち
苗字誕生時期 ①苗字は日本人が稲作で定住生活を始めた縄文時代後期(紀元前20世紀頃;四千年前)に誕生しました。当然この時代には文字はなく話し言葉のみによるものです。
苗字誕生理由 ②定住化で一箇所に生活する人が多くなり、同じ名前の人を識別する必要から苗字が生まれました。
身分による差 ③従って全員に付ける必要があり、身分の上下などによる差はありません。
原始的日本語 ④苗字以外の名前・地名・生活用具などの言葉は、2~3人以上の生活から必要であり、苗字よりずっと以前から存在していたと考えられますが、いずれも数十人規模の集団内でのみ通用するもので、異なる集団との整合はあまりないと考えます。
新しい日本語 ⑤現代に通じる日本語という意味では苗字と同じ定住化した時期と考えられ、最初は一箇所に生活する複数の移動集団の間で次第に他地域に住む人々の間でお互いの言葉の整合が行われ新しい日本語体系が完成されたと考えます。
苗字と地名 ⑥同じ名称の苗字と地名は一番近いもので平均8km離れており、近地にはあるが同一地域にはないという関係であり、名称が生まれた際に、その名称が一軒のみに関係する場合は苗字に、多数の家に関係する場合は地名になったと考えられます。
「地名から苗字」説 ⑦「多くの苗字は地名からできた」とする説が根強く存在しますが、双方が近地にあることと「地名は公で苗字は私」のイメージが重なった錯覚と思われます。
苗字の最初 ⑧新しい日本語の最初は異なる集団が共同生活を始めたことからかなり限定され、苗字では共通の関心事である「神への役割分担」を表す数語であったのではないかと考えます。【おかみ】【おいわい】【おそなえ】【おはやし】【おまつり】などから始まり近隣に同じ名称が増えると、それらを識別するために枝分れを繰り返して増えていったものと考えます。
発展のメカニズム ⑨発展のメカニズムとしては『象徴化』『多様化』『前後入替』『同意置換』『同読置換』などが考えられます。
苗字の漢字化 ⑩話し言葉の苗字が誕生して二千数百年後の1~6世紀に漢字が伝来し、苗字も漢字化されます。この時点で現代の17万種の苗字のほとんどが完成していたものと考えます。ただし漢字を読み書きできる人や記録媒体・保存方法なとが限られていたので、一般には話し言葉でのみで伝承されます。結果として漢字の当てはめは後世にも活発に行われました。
中世苗字発祥説 ⑪「苗字は中世に発祥した」という説を多く目にします。 『正倉院文書』と呼ばれる古文書に日本最古の全国戸籍(702~733年)が記載されており、全ての戸(世帯)に苗字が付いています。従って中世発祥ということはありえないのですが、なぜそのように信じられているかを考えて見ますと、第一は漢字の読み書きや記録する紙の確保や保存が寺社などで可能になりはじめたこと、言い換えれば中世までは伝承する手段が口伝しかなかったことと、第二に「本姓」の存在が考えられます。
本姓

源平藤橘
⑫「本姓」とは苗字とは別のグルーピングした苗字で源氏・平氏・藤原氏・橘氏などが代表的ですが朝廷が任官の際、この本姓を求めたため養子縁組や果ては詐称などによりこれらの苗字に集中します。特に藤原氏は官職では七割以上を占めることになります。
 この際新しい苗字が誕生したされることが多いのですが、代表格の佐藤さんで分布を見ますと確かに東北地方が格段に多くなっていますが、全都道府県に居られます。元々全国各地に住んでおられ、中世に東北地方を中心に第二の発祥があったと考えるのが自然と考えます。
 同様に藤原さんも669年、中臣鎌子(鎌足)に藤原氏を賜姓されたのが最初とされていますが、全都道府県に居られ、佐藤さんと同様に元々全国各地に住んでおられたと考えます。 言わば「本姓」という制度が生んだ歴史のいたずらで古代苗字として古文書に記載のある苗字でも四氏全ての系統が存在するものもあります。当時の人はグルーピングにすぎないことが理解されていたのでしょうが「本姓」というネーミングと任官の必要性などから後世の人々がこぞってこの四氏に関係付けを行った結果と思われます。
 なお、この本姓は明治初頭まで続きます。古代~明治初年までの公卿の任官を記した『公卿補任』によりますと本姓は二十氏程度なので明治新姓の際、明治政府がこちらを採用すれば日本の苗字も極端に少なくなっていたかも知れません。
氏(うじ)

姓(かばね)
⑬苗字以外のグルーピングは本姓が初めてではありません。古代に用いられた「氏(うじ)と姓(かばね)」があります。氏(うじ)は現代の苗字そのままですが、姓(かばね)は時とともに意味が変化し、なおかつ中世には自然消滅してしまいましたので、現代の私たちにはわかり難くなっていますが現代風に言えば、県人会や学校の同窓会、クラブ・サークル等の所属グループと考えられます。当方で勝手に三世代に分けました。
◇第一世代 …この世代では各自で他グループとの区分に使われていたもので、姓(かばね)間のランク差等はありません。
 職業集団の長を君(きみ)、彦(ひこ)、梟(たける)と呼んだり、出身地や職業で隼人(はやと)や蝦夷(えみし)、他に末尾に「人」が付くものが多く見掛けられます。
◇第二世代 …第一世代はそれぞれの自由意志で使われていましたが、それを朝廷が関係を示すために利用し始めます。この段階でも、朝廷との関係を表すことが主で、緩やかな格差はあっても明確ではありません。
 著名なのは第一世代に登場した臣(おみ)と連(むらじ)ですが、造(みやつこ)、国造(くにのみやつこ)、県主(あがたぬし)、村主・勝(すぐり)等が見掛けられます。
◇第三世代 …684年に朝廷が「八色之姓(やくさのかばね)」を出します。これにより、今まで同格だった姓(かばね)に順位がついてしまいます。①眞人(まひと) ②朝臣(あそみ)  ③宿禰(すくね)④忌寸(いみき) ⑤道師(みちのし) ⑥臣(おみ) ⑦連(むらじ) ⑧稲置(いなき)
 眞人は天皇の直系子孫に限られるため、一般には朝臣以下で、皆がその最上位を求めるようになり、朝臣が多くなり、最終的には朝臣のみが後世に残り、他は形骸化(自然消滅)したと考えられます。
苗字発祥は
漢字伝来(1~6世紀)
より前か後か
⑭苗字発祥時期の推定にはまず漢字伝来(1~6世紀)より前か後かを考える必要がありますが、次の三つが漢字伝来以前の主な根拠です。
◆日本最古の全国戸籍(正倉院文書:8世紀前半)において全ての戸(世帯)の苗字が存在しました。する。漢字伝来から間もない(数百年)時期であり、漢字伝来以前から苗字が存在したと考えられます。
◆漢字に日本古来の読みの「訓読み」や音のみを当てる「万葉仮名」が存在する。漢字が最初の文字と考えられており、それ以前に話し言葉の日本語が存在したことを示しています。
◆苗字自体にも漢字からできたとすれば説明できない多くの事例が見受けられます。苗字が漢字から発祥したと仮定すれば好まれる漢字を使った苗字が多くなるはずですが、実際の苗字では漢字と苗字がアンバランスです。

  苗字1位(佐藤さん)…漢字(佐)12位(藤)2位
  苗字2位(鈴木さん)…漢字(鈴)31位(木)10位
  苗字3位(高橋さん)…漢字(高)16位(橋)21位
  漢字1位(田)…苗字8578位(田さん)
  漢字2位(藤)…苗字1361位(藤さん)
  漢字3位(山)…苗字4101位(山さん)

 以上の三点から苗字発祥は漢字伝来以前であることがご理解頂けたと思います。
なぜ苗字は
縄文時代後期
に発祥したか
⑮それではなぜ苗字発祥を縄文時代後期としたかですが、さすがに直接的な証拠は見出せませんが、意思疎通の必要性という観点からこの時期を導きました。
 日本語を構成する地名・地形・名前・生活用具なども全て意思疎通の必要上から生まれていると考えます。
 例えば近くに山が二つ見えるとします。一人で生活している場合にはどちらの山かを自分の頭に記憶するだけで足りますが二人以上になるとA山・B山と決めておかないとお互いが反対の山に出掛けることになってしまいます。
 名前の場合も二人まではお互いに「わたし」「あなた」で済みますが、三人以上になるとそれぞれの名前が必要になります。
 苗字が必要となるのは同じ名前が現れる人数で概ね百名以上のレベルと考えました。

 狩猟が中心の移動生活ではさすがに百名を越えるような集団を構成することは困難と思われますが、稲作などの農耕が始まり、定住化するようになると生活集団は数百人に達するようになったと考えられます。この定住化が開始された時期に苗字が生まれたと考えます。
 稲作開始の時期が従来の弥生時代から、住居跡からの籾殻などの発見により、最近では縄文時代後期(紀元前20~同前8世紀)とされており、その年代を苗字発祥期としました。
江戸時代の
公家・士分以外の
苗字公称禁止
について
⑯江戸幕府は公家・士分以外の苗字公称を禁止していますが、苗字は為政者にとっても徴税・徴兵などのために個人を特定する有力な手段であり、なぜこの時代のみ苗字公称を禁止したかのはっきりした理由は不明ですが、この時代になると五人組に代表されるように村を上中下や東西南北などに分割表示して細かい地域割ができるようになったため苗字にたよらなくても目的を果たせると考えた結果かも知れません。
 ただ苗字の四千年の歴史から見れば禁止されたのは最大でもこの270年だけで、更にはその前の時代までは身分制度はなく、皆が戦に徴集される国民皆兵の時代で、江戸期になって突然に身分が定められて苗字公称を禁止されたとしても人々がそのまま受け入れたとは考え難く、それぞれの家で苗字はそのまま受け継がれて来たと考えます。
 この時代には何度も幕府・諸藩から「百姓の苗字禁止令」が出ており、また明治8年の布告(苗字必称令)にも「祖先以来の苗氏が不明の向きは新しい苗氏を設けてもよい」と先祖からの苗字継承が前提に考えられており、苗字はそのまま生きていたと考えられます。
明治新姓 ⑰明治3~8年に政府は富国強兵に伴う徴税・徴兵のために戸籍制度を準備して苗字を届け出ることを要求します。前述の苗字必称令で先祖の苗字がわからない方がつけた新しい苗字を明治新姓と言います。
 最近でも「自分の家は百姓だったので明治新姓だ」とおっしゃるのをよくお聞きします。他にもご自身の苗字が明治新姓だと信じておられる方も多いのではないかと思われますが、次の理由により明治新姓はほとんど存在しないと考えます。
 第一に前述の苗字必称令が先祖からの苗字継承が前提に考えられていること。
 第二は明治8年の内務省発行の『日本全国戸籍表』によると総人口は3400万人で、華族・士族で190万人、平民その他で3210万人で苗字届出対象者は全体の94%にもなります。先祖からの苗字がわからなければ自由に苗字をつけてよい訳ですから勢い特定の苗字に集中する筈です。ところが現代苗字ランキング1位の佐藤さんでさえ全国で1.6%、最も比率が高い秋田県でも7.9%と集中傾向は見られません。すなわち、この時点でほとんどの方が先祖からの苗字を認識していたためと考えます。
 ただこの時期までの庶民の伝承は口伝が一般的と考えられますので読みが同じ異なる漢字を採用したケースなどが考えられます。鯛さんや鱸さんは海岸近くに多く居住される一方で全国各地の内陸部にも居られますので田井・田居さんや鈴木さんと同じ源と考えられます。