「宮本武蔵何でも事典」は宮本武蔵に関する事柄をQ&A方式で記述して行きます。 |
【001】宮本武蔵は実在の人物 |
宮本武蔵は実在の人物です。 |
吉川英治の小説『宮本武蔵』があまりにも有名なので、架空の人物と思われる方もいらっしゃるかも知れませんが、次のような史料があります。
第三者的には水野勝成陣で大坂夏の陣(1615)に参戦した記録「大坂御人数付」1)や武蔵に扶持を決定した記録「細川藩奉書」(1640)2)が、武蔵自筆書状では「有馬直純宛(1638)」や「長岡佐渡宛(1640)」3)などが存在します。 宮本武蔵は実在します。
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1) 森田栄『定説の誤りを正す 宮本武蔵』2014,p111
2)
原田夢果史『真説宮本武蔵』1984,p51
3) 福田正秀『宮本武蔵 研究論文集』2003,p194
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【002】お通は 本位田又八は |
吉川英治の創作(架空の人物)です。 |
こちらは逆に実在していたらいいなと思われる方もいらっしゃるのではないでしょうか。
本位田又八については吉川英治氏自身が仮想人物(随筆宮本武蔵)4)と述べています。お通についての言及はありませんが、三百年以上前の個人名が残っているとも思われず同様に仮想と考えます。
なお、新免家の公式記録集とも言える『新免家古書写』1897に「大方」「お捨」や「本位田又五郎」の名が見えます。5)
朝日新聞への連載開始(1935)まで38年ありますので、この書を参考に命名したことも十分あり得ます。
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4) 吉川英治『随筆宮本武蔵』1963,
原本:1939,p232
5)
東京大学史料編纂所蔵『新免家古書写』筆写:1897
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【003】「六十余度負なし」は本当か |
小笠原忠真の創作です。 |
これは『小倉碑文』6)7)8)の「凡従十三迄壮年兵術勝負六十余場無一不勝」ですが、元ねたがありました。
小倉城主・小笠原忠真の義祖父・本多忠勝が「57回の戦いでかすり傷一つなし」としており、武蔵はこれより強いという意味の創作です。武蔵の世代には戦いの機会が激減しており事実ではあり得ません。また忠真の祖先を冒とくすることになり、発案者は忠真以外にはあり得ません。従って『五輪書』に同様の記述がありますが、小倉碑文を写したものです。 |
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6) 松延市次・松井健二『決定版 宮本武蔵全書』2003,p295
7) 原田夢果史『真説宮本武蔵』1984,p211
8) 福田正秀『宮本武蔵 研究論文集』2003,p198
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【004】巌流島の決闘は本当か |
巌流島の決闘はなかった。
忠真の懺悔の意味も。
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小倉碑文 (巌流島の決闘) |
爰有兵術達人名岩流与彼求決雌雄岩流云以真劔請決雌雄武蔵對云伱揮白刃而尽其妙吾提木戟而顕此秘堅決漆約長門与豊前之際海中有嶋謂舟嶋両雄同時相会岩流手三尺白刃来不顧命尽術武蔵以木刃之一撃殺之電光猶遅故俗改舟嶋謂岩流嶋 |
巌流島の決闘は『小倉碑文』にある105文字の記述ですが、モデルがありました。 福田正秀氏の詳細な研究9)がありますので、参照させて頂きます。
伊勢出身の雲林院(うじい)弥四郎という人が柳生宗矩の紹介状を持って細川藩(細川忠利)を訪れ、家臣となった。忠利も含めて藩内に柳生流が活発になったが、弥四郎は幕府の隠密で藩内の状況が幕府に筒抜けの疑いが生じた。そこで忠利らは弥四郎の兵法指南役の面目をつぶし自主的な退散を狙って秘密の御前試合を仕組んだのではないか。そのために弥四郎に勝てる相手として宮本武蔵を招いて立ち会わせたのではないか。試合は生命に関係するようなものではなく、武蔵が勝ちを納めた。その後、弥四郎も長生きするが、試合直後二男を「岩尾」と改姓し、商人にした。その子孫が細川藩の窮状を何度も救った。
これまでの内容と通説を併せて一覧表にしました。
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小倉碑文 |
福田氏 |
時期(原文) |
不明 |
寛永十七年
(1640)
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時期(通説) |
慶長十七年
(1612)
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相手(原文) |
巌流 |
雲林院弥四郎
二男:岩尾姓へ
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相手(通説) |
佐々木小次郎 |
場所 |
巌流嶋 |
熊本藩内 |
一見すると両者は異なる話のようですが、注目点は弥四郎の二男の岩尾姓と碑文の巌流です。「岩尾→巌流」の流れが容易に想像されます。ここから雲林院弥四郎をモデルに「巌流嶋の決闘」が作られたことが分かります。
つまり、実際には「巌流嶋の決闘」はなかったのです。
細川藩の小倉から熊本への国替えの際、弥四郎は同行せず小倉に留まります。その弥四郎に熊本入りを促したのが小笠原忠真です。更に、武蔵の熊本招聘も当然相談を受けています。忠真からすれば、この二点がなければ弥四郎の武士生命を絶つことは無かったのでは、一方の武蔵にも熊本派遣で寿命を縮めさせたのではとの後悔の念が想像されます。小笠原忠真の両者への懺悔の気持ちが「巌流嶋の決闘」を作らせたと考えます。 |
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9) 福田正秀『宮本武蔵 研究論文集』2003,p130,158 |
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【005】佐々木小次郎は実在か |
佐々木小次郎は後世の創作です。 |
巌流島の決闘で有名な佐々木小次郎ですが、『小倉碑文』1654では「巌流」としか出ていません。
ここでも福田正秀氏の研究9)を参照させて頂きます。
まず佐々木姓は天文二(1737)年、歌舞伎台本、藤本文三郎『敵討巌流島』の「佐々木巌流」で、小倉碑文(1654)から122年後の安永五(1776)年、豊田景英『二天記』で「佐々木小次郎」が登場します。
122年後ですので、当然「巌流」と同一視は出来ず、佐々木小次郎は実在せず、後世の人々が作り上げた人物です。
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9) 福田正秀『宮本武蔵 研究論文集』2003,p130,158 |
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