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本当の宮本武蔵 |
歴史のいたずら ~ 恐らくこれが本当の宮本武蔵 ~
これらの疑問が頭の中を何度も巡っているうちに、次第に本人達が記したものではないという確信に変わって行きました。更に先人たちの発掘史料を何度も拝見するうち、四百年近い「堂々めぐり」のメカニズムの一部が解明できたと考えますので以下に紹介します。ご一読頂き、ご意見を頂戴頂ければ幸いです。 【出典】 |
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第一章 武蔵主要史料・史跡 1.1
武蔵塚 根拠は後述しますが、武蔵生存中に新免を名乗った形跡は確認できず、遺言として新免を希望し、熊本(細川)藩がこれに応えたものと考えます。 文面は松延市次・松井健二『決定版 宮本武蔵全書』の小倉碑文(小倉郷土史会会長・今村元市作成)8) をベースに、原田夢果史『真説宮本武蔵』9)、福田正秀『宮本武蔵 研究論文集』10) を参照させて頂きました。
こちらでも当時、「新免」は併用姓であることだけを頭の片隅に留めておいて下さい。 1.4泊神社棟札
1.5.2小倉碑文と五輪書
と述べても不思議に思われる方はあまりいらっしゃらないと思います。なぜなら五輪書は1645年に武蔵本人が、小倉碑文は1654年に養子・伊織が書いたことになっていますので当然、「五輪書を小倉碑文が写した」と思われるのが自然です。そこでこの表を個々に確認して見たいと思います。 判断は内容の正否ではなく、あくまでもどちらが写した可能性が高いかです。小倉碑文が写した可能性が高い場合は[五→小]、五輪書の場合は[五←小]、どちらか判断がつかない場合は[五=小]とします。 1.5.3生國播磨
こちらは後半の新免武蔵玄信は同じで、五輪書は「生國播磨の武士新免」と武蔵が播磨生れと述べているのに対して、小倉碑文では「播州英産赤松」と播磨産は赤松だよと述べています。五輪書を写したとすると武蔵本人が播磨生れと言っているのに、養子の伊織がそれは違うと言ったことになり、あり得ないと考えます。一方、小倉碑文を写した場合は地名表記がなかったので唯一の播州を流用したと考えられます。 更に関ヶ原以降は基本的に一国一城ですが、それ以前は一国に多数の城(国人領主)が存在しました。1645年頃ではまだ関ヶ原以前の雰囲気を残していると考えますので、赤松の場合は播磨国全体の守護なので国だけでも十分ですが、通常本人が出生地を語る場合は「○○國××」と表現するのが自然で、この表記は本人でないことを示していると考えます。 以上から、この部分の判断は[五←小]です。
こちらは五輪書では「年つもりて六十」があるのに小倉碑文には関係記述がありません。小倉碑文はお墓です。行年として年齢情報は是非とも欲しいと思うのですが書いてないことから小倉碑文が先に完成した可能性が高いと考えます。つまり、[五←小]です。
こちらは「初めて(初而・而始)」に係る対象が異なっています。五輪書は「初めて勝負」で、小倉碑文は「初めて播州に到る」です。小倉碑文が写したのであれば武蔵本人が播磨生れと言っているのに、伊織が「初めて播州に到る」と否定していることになり不自然です。一方、五輪書の場合は播磨生れになっているので「初めて播州に到る」は使えず、「初めて」に「勝負」をくっつけたと自然です。従って、[五←小]です。
こちらは小倉碑文には「十六歳春」とありますが五輪書では「十六歳」のままです。「十三歳」「十六歳」「廿一歳」と揃った表記を見て、十六歳に春を付記するのは難しく、「十六歳春」と不揃いだったので、春を削除した方が自然と考えます。従って、[五←小]です。
こちらは五輪書には「廿一歳」があり、小倉碑文には吉岡・岩流の戦いがありますが、それぞれ他方には記載がありません。五輪書の「廿一歳」は「十三歳・十六歳」とあるのでそのまま類推できる内容です。一方の吉岡・岩流の戦いについてですが、吉岡とは二勝一敗となっていますので次の「六十余度で無敗」に疑義が生じる可能性と記述が異常に長いので割愛した可能性が高いと考えます。岩流の方は細川藩の寺尾孫之丞やその弟子達が内情14) を知っている可能性が高くそれ故、吉岡との戦いと同様に割愛した可能性が高いと考えます。従って、こちらも[五←小]です。
こちらは「廿八九」と「壮年」の違いはありますが同じ内容で、[五=小]です。 1.5.9 検証結果 以上、個々に比較検証した結果をまとめますと、五輪書が写した可能性が高い場合[五←小]が5件、どちらとも言えないもの[五=小]が1件、小倉碑文が写した可能性が高い場合[五→小]はありません。 検証時にもお示ししましたが小倉碑文で記述されている不都合な部分を五輪書では上手に回避している箇所が見受けられ、文書の構成においても小倉碑文では力量の誇示に終始しているのに対して、五輪書では三十歳以降は心を磨いたとレベルの高さが見受けられます。つまり小倉碑文が初版とするなら五輪書は二版・三版と言った印象です。 これらを踏まえて、五輪書・冒頭の武蔵自身に関する部分は小倉碑文を見て記述されたと判断します。 この部分の作者は当然、武蔵ではあり得ず、可能性が高いのは本書を授けられた寺尾孫之丞かその弟子達ですが、寺尾孫之丞は慶長十六(1611)年生れ、寛文十二(1672)年死去51) で、小倉碑建立(1654)後18年生存していることや武蔵自身に関する部分が五輪書写本のほとんどに見られることから弟子の可能性は低く、寺尾孫之丞であると考えます。 黒田家は黒田職隆が赤松氏の一族である播磨の有力豪族・小寺氏に仕え、その養女を迎えて自らも小寺氏を称しました。職隆の子・孝高は織田信長に従い、その重臣である羽柴秀吉の麾下に入りました。その際、小寺氏が織田氏に敵対して衰退すると孝高は氏を黒田に復しています。天正15(1587)年豊前国中津城主12万石となり、関ヶ原の戦い(1600)で孝高・長政父子は徳川方につき、軍功により筑前国52万3千余石を与えられ、福岡藩を立藩。長政が初代藩主になり、以後黒田氏は代々福岡藩主となり国替もなく幕末に至ります。15) この分限帳は福岡藩立藩時のもので、福岡地方史研究会『福岡藩分限帳集成』(a) 16)、福岡地方史談話会『黒田三藩分限帳(増補復刻)』(b)(c) 17) を参照しました。一二列目は関ヶ原で西方につき城を追われた新免家当主と息子です。三列目は武蔵の父と目される新免無二です。 父が居るなら息子も一緒だろうと武蔵東軍説の根拠になっています。18)
(b)慶長七年諸役人知行割 同九年知行書附
(c)慶長年中士中寺社書附
まず一二列目ですが全て「新目」になっています。新免家当主と息子です、本来なら「新免」を家臣に与えていた人達です。最初は新免の知名度や黒田家祐筆のレベルを疑いましたが、むしろいたわりの意図があることに気付きました。同時期に上司の宇喜多秀家は薩摩まで逃れましたが、結果的に八丈島へ配流となっています。19) 秀家の有力家臣{慶長三(1598)年調:新免伊賀守3650石,新免勝蔵1000石,計4650石}20) である新免家としては切実な問題だったのです。そのため黒田家が文書だけでも匿う意味で「新目」にしたと考えます。 それにもかかわらず無二の欄は三史料のうち二史料が「新免」になっています。 このことから前二者(筑前新免)と無二は記述時期が異なると考えます。 それを裏付けるのが(a)の添書き「武州師(むさし)父」です。武蔵が生れたのは天正十(1582)年とも天正十二(1584)年とも言われており、この分限帳が記されたのが慶長六(1601)年で、十八歳か二十歳です。この歳の人がマスコミも存在しない江戸初期に一般に知られる方法があるでしょか。更にはその父親を無二としています。このような情報が慶長六(1601)年にどこから得られたのでしょうか。 また、関ヶ原を無二・武蔵が東軍黒田家で出陣した18) と言われる方もいらっしゃいますが、それにしては分限帳の掲載順位や石高が圧倒的にそぐわないのです。掲載順位については武士268人中262人目、つまり後には6人しかいない位置です。石高については百石ですが(c)の添書き「古御譜代」とあり、これは関ヶ原の前に豊前中津で仕えたもの21) で、関ヶ原前後で藩全体の石高(52.3/12)は4.3倍になっていますので、中津では無禄かせいぜい20石程度と考えられます。 一方、無二は新免を名乗っていますので美作の新免家臣です。 『新免家古書写』11) から、新免家で無二を名乗っているのは平田無二しかいません。この平田無二は同書に12回(平田無二10回, 平田2回)登場し、家臣としては最多登場の人物です、同書には役職等の表記はありませんが、トップクラスの家臣であることは間違いありません。新免家全体4650石ですので最低でも百石程度は貰っている筈です。この無二が豊前中津で仕えたとすれば同じく百石は貰っていると考えられます。これで関ヶ原を親子で戦ったとすれば最低でも三百石から、場合によっては千石貰っても不思議はありません。それが百石としたら、あり得ない結果でしょう。本人達が固辞した場合も考えられますが、その場合でも組頭などの役職任命や掲載順位を上げる等の配慮がある筈で、ここにはそれがありません。 以上を総合すると慶長六(1601)年には新免家とは無縁の人物が記載されていて、ある時期に現在のように書替えられたと考えます。 元の人物は(c)の添書き「一真」と見え、「○○無二一真」から「宮本無二一真」と考えます。 きっかけになったのは「小倉碑文」しかないと考えます。無二・武蔵父子の姓名が一緒に確認できるのは後にも先にもこの碑しかなく、更に福岡と小倉は隣藩で、交流も深いと思われます。
この「宮本無二一真」と美作の「新免(平田)無二」の同一人物説には再度、分限帳の掲載順位や石高からあり得ないことを強調しておきます。 【出典】 |
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第二章 新免無二
この記述が物議を醸しました。武仁を武蔵の父・無二としていますが、武仁は1580年に死去しており、1582年か1584年生れの武蔵が武仁の子ではないことになります。これによって播磨生誕派が活気づきました。 吉川英治氏と同様の内容は明治期に発行された宮本武蔵遺蹟顕彰会『宮本武蔵』(原本:1901)23) にも示されており、両者とも美作生誕派です。私見ではありますが、この点はいささか旗色が悪いですが、熊本でも小倉でもどう見てもマイナーな「新免」を名乗っており、なおかつ簡単に関ヶ原・西方が特定され子孫に危害が及ぶ恐れを抱えています。そのようなリスクを冒してまでも新免を名乗っており、美作生誕と考えるのは自然の流れです。美作の方には申し訳ないですが平田無二を巡る情報整理が不十分ではないかと思われます。情報を列挙します。
また、世襲と考えれば当然ですが、平田武仁が亡くなった天正八(1580)年以降にも平田無二が登場しています。 2.2羽柴秀吉副状 次に『羽柴秀吉副状』25) を紹介します。 (新免) まず、天正六年と比定されていますが長水城攻め以降と考えられ、天正八(1580)年と考えます。また,「宗実」とあるのは「宗貫」です。 『新免家古書写』11) に関連したものがありますので紹介します。
この副状に関して「吉野郡・佐用郡・八頭郡の三郡をくれてやろう」という内容との見解もありますが、地名が並ぶので領知のことと考えられるのも尤もですが、そんな景気のいい話ではなく、天正八(1580)年六月に秀吉によって新免(伊賀守)宗貫の実父・宇野政頼と兄・祐清の長水城が攻められて両名は討死し、残った家族や家臣たちが長水城(佐用郡)・因州(八頭郡)・竹山城(吉野郡)に散らばっており、これらの人々を引取りたいと願い出て、許可をもらった文書と考えます。長水城落城は天正八(1580)年六月五日26) 、本状は天正八(1580)年十一月廿二日、約半年かかっています。 そして、この時の使者が「新免無二斎」となっています。前述しましたが、新免家中に無二は平田無二しかおりませんので、平田無二が使者のため新免無二と名乗ったことになります。平田武仁は天正八(1580)年四月二十八日に亡くなっていますので、平田武仁死去後にも平田無二が存在するという事で、平田無二世襲説が証明されます。同時にこの使者の人物こそが武蔵の父である可能性が高い人物ということになります。 2.3平田系図 原田夢果史『真説宮本武蔵』に掲載の「平田系図」27) を紹介します。 また、福田正秀『宮本武蔵 研究論文集』の美作訪問時28) に「生誕地とされる平田家では、当時平田武仁の弟武助の子孫登氏一家の住居であった。」と記されています。つまり本来跡継ぎである武仁の子孫が自然ですが、実際にはその弟・武助の子孫の住居になっており意外に思われたと解釈します。 平田武助正常 (添書) 竹山城落後農夫となる 「平田系図」を中心に検証して見ますと、まず将監と武仁とは没年が77年離れていて武仁の行年が50歳なので親子はあり得ません。何代か離れています。 次に美作市HPに武蔵の兄とされる次郎太夫の情報がありました。29) 没年が万治三(1660)年で、行年が八十三歳なので生年は天正六(1578)年になります。その次郎太夫の両親を武仁とその妻とすると年齢的にはかろうじて親子関係が可能ですが、前述の使者を3歳で迎えることになりますので、武仁と次郎太夫兄弟の親子関係はありえません。この間に一代存在します。
以上から、小倉碑文に記された武蔵の父・新免無二は平田武助正常であると判断します。 【出典】 |
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第三章 武蔵の姓と出生地 3.1 武蔵の姓 ここでは武蔵の姓は実際にはどうだったのかを検証して見たいと思います。武蔵は多くの書画・骨董も残していますが、残念ながら姓名までは記しておりませんので、書状・兵法書や伊織・松井寄之往復書簡から確認したいと思います。 3.2 武蔵書状
武蔵の呼称に関して、伊織の方は武蔵死去前後も一貫して「宮本」ですが、松井寄之は生前では同じく「宮本」ですが、死後は「武州」として「宮本」の使用を避けているようです。どちらにしても武蔵生存中は「宮本」で一貫しており、新免は出ていません。
個々に検証します。まず、⑭五法之太刀道は武蔵自身の筆と言われていますが、奥書はありません。⑮独行道は本文については武蔵自身の筆ですが、奥書は、丸岡宗男『宮本武蔵名品集成』で「後世、入れられた」35) と述べられています。つまり、武蔵自筆とされる⑭⑮両方共、奥書はありません。 「宮本」姓は出生地を隠すには最適の苗字と考えています。 武蔵書状の寺尾左馬は尾張藩家老で直政、越前守、土佐守とも称し、父・正俊は伊予松山の出身とされています。37) 残念ながら根拠は示せませんが、藩主・徳川義直は家康の九男であること38)、つまり細川家のように出生地をそのまま言う訳にはいかなかったことや武蔵に仕官を勧めたことなどから寺尾兄弟と同郷ではないかと思われます。 【出典】 |
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第四章 小倉碑文 4.1小笠原忠真主導の小倉碑文 小倉碑文が小笠原忠真主導と思われる点を列挙します。 まず、石碑用地として関門海峡を見下ろす一等地を伊織に与えたことです。41) 以下は小倉碑文の内容に関してです。 4.2 六十余場
この有名な部分ですが、元ねたがありました。 伊勢桑名藩主・本多忠勝は「生涯において参加した合戦は大小合わせて57回に及んだが、いずれの戦いにおいてもかすり傷一つ負わなかった」と伝えられています。この本多忠勝は小笠原忠真の正室・円照院の祖父で、忠真からは義祖父になります。従って、この文は主君・小笠原忠真の義祖父・本多忠勝を上回るという意味です。これを領内に建てる碑に伊織が独断で書けるとは思われず、忠真の方から持ち掛けたと考えます。 となると他の部分にも忠真の手が入っているものと思われます。当然、伊織しか知り得ない部分があるので、伊織が草稿を忠真が脚色といった役割分担と思われます。 4.3 岩流嶋
ここも有名な「岩流・佐々木小次郎との巌流嶋の戦い」の部分ですが、福田正秀『宮本武蔵 研究論文集』43) で次のように述べられています。大変長いものなので要約します。解釈に誤りがありましたらご容赦下さい。
これによると試合時期は通説の慶長十七(1612)年ではなく寛永十七(1640)年、相手は佐々木小次郎ではなく雲林院(氏井)弥四郎、場所は巌流嶋ではなく熊本のどこかで碑文や伝承の内容とはまったく異なります。 細川藩は寛永九(1632)年豊前小倉から肥後に国替えになっていますが、弥四郎は同行せず小倉に留まります。その弥四郎に西国の目付役の小笠原忠真が肥後入りを促した記述が残っています。43) 更に武蔵招聘の際も武蔵が小倉藩内に居るのですから小笠原忠真に相談がない筈はありません。 つまり、忠真は弥四郎にも当然武蔵にも関係していてこの出来事には熟知しています。従って「岩尾→岩流」を利用して、話題作りのため石碑の眼下にある小島を岩流嶋と名付け、ドラマチックに仕立てました。 目論見は見事にあたり、江戸期中名所として多くの観光客を呼び込むことになります。幕末に描かれた歌川広重(2代)『諸国名所百景 豊前小倉瀬海岸景』に小倉碑が宮本墓として登場します。44) 巌流が佐々木小次郎になった経緯は福田氏が詳細に調べられており、まず佐々木姓は天文二(1737)年、歌舞伎台本、藤本文三郎『敵討巌流島』の「佐々木巌流」で、小倉碑文(1654)から122年後の安永五(1776)年、豊田景英『二天記』で「佐々木小次郎」が登場します。49) なお蛇足ながら、この雲林院弥四郎という方は相当の人物とお見受けします。まず城下のどこに住んでもよいとの許可を取り付け町方に住んでいます。55) 兵法指南という立場から城主や家臣(武士)とは日常的に接していますが、世情を反映する町方情報を得るため町方に住み、たった一人で城下の隅々の情報を集めていたと考えられます。そして武蔵に負けると子孫を商人にします。その子孫が藩の窮状を度々救います。また細川藩が小倉から肥後への移封の際、弥四郎は小倉に居続けます。それを小笠原忠真が説得して肥後へ向かわせました。弥四郎にとっては藩にお世話になりながら、一方では藩の内情を徳川家に報告することに心を痛めて、同行することに躊躇し、武蔵との勝負も最初から勝利することは考えてなかったのかも知れません。そして子孫を商人にすることで城下に留まらせ、藩への恩返しをさせたのではないでしょうか。 4.4 関ヶ原と大坂の陣
この部分が一番述べたい部分と思います。つまり、関ヶ原と大坂の陣を並べ、かつ関ヶ原を三成謀叛時としています。武蔵は大坂の陣には東方が確実ですので、これを読んだ人々の多くは「関ヶ原も東方」と思ってしまいます。これこそが忠真・伊織の意図していることだと考えます。冒頭の「新免」から西方を連想させるのをここで打ち消したと考えます。 4.5 吉岡一門
ここまで来ると、吉岡一門との戦いにも何か意図がありそうです。 まず、無二が義昭公の前で吉岡と戦い、二勝一敗で勝利したので将軍から「新免無二」の名を賜ったとありますが、前述(2.1)しましたように少なくとも延徳三(1491)年から平田無二を名乗っており、その後は代々の平田家跡取りが無二を世襲しています。従って、この部分は明らかに創作です。無二の名に箔をつけるためと吉岡との戦いの必然性のため考えついたのではないでしょうか。 戸部新十郎『考証 宮本武蔵』50) に吉岡家について詳しく述べられています。
つまり小倉碑文(1654)を建立した時点では染物業に専念しており、武家は廃業したとも見え、過去の大物であり、利用してもあまり迷惑はかからないと考えて創作したのではないでしょうか。 また、吉岡家は足利将軍家の兵法指南役ですが、次の将軍は徳川家で、その兵法指南役は柳生家です。小笠原家といえども、雲林院弥四郎とは形を変えた隠密を送り込まれている可能性があり、これらを撃退したことを比喩的に述べているかも知れません。 4.6 十三歳
この部分は武蔵の播州生れを支持する人々にとっては最も見たくない箇所と思われますが、どう見ても「年十三にして初めて播州に到り」と読めます。たとえ美作に養子で入ったとしても、播州で生れた人が播州に戻っても「初めて」や「到り」とは表現しないでしょうから、播州生れではないことを示しています。 武蔵が生れ育ったと考える美作國吉野郡宮本と播州(播磨国)の地理的関係は 国土地理院「地理院地図」によりますと、宮本から國境(現在の県境)の釜坂峠まで直線距離で1km、宮本の平地部分の標高は217m、釜坂峠は360~400m、標高差140~190m、峠から播州側の最初の集落まで1km、大きな集落の平福までは宮本から直線で7kmです。 4.7 十六歳春
まず但馬國についてですが平成4年のNTT電話帳で新免姓を調べたところ兵庫県城崎郡日高町(現・豊岡市日高地域)に10件の掲載がありました。4) この件数そのものは驚くほどのものではありませんが、問題は地理的関係です。岡山県東北部発祥の新免姓は東南の姫路を経て瀬戸内海沿いに神戸・大阪に到る地域に大部分の方が居住しておられます。この日高は東北方向に日本海に至るルートで、言わば反対方向であり、何らかの意図があると考えられます。この日高は新免家の交易拠点であったと考えています。 新免家の交易にはまず吉野川・吉井川を経て瀬戸内海に至るルートが自然ですが、これには流域の多くの氏が共同利用しており、自由な流通にはとても無理があります。 次に志戸坂峠を越えて鳥取・日本海に至るルートが近いのですが、途中に争いを繰り返している草苅氏が居り、鳥取には全国区の山名氏が陣取っているので、とてもこのルートも選択できません。 そこで第三のルートとして釜坂峠を播州(平福)に出て東北方向に進むと千m級の山が点在する地域があり、これらの山あいを抜けて進み、日高を経て日本海に至ります。山が天然の軍事的緩衝地帯になり、周囲からの妨害を最小限に抑えることもできます。 武蔵の父・武助正常が亡くなったのが文禄二(1593)年、長男・次郎太夫が天正六(1578)年生れなので、父没年時は十六歳です。跡を継ぎますが若年なので力仕事の交易拠点との間の物資輸送に従事し、弟の武蔵はそれに同行し、道中の播磨や但馬で決闘を行ったと考えてはどうでしょうか。 また「十六歳春」とここにだけ「春」と季節が入っています。これはこの年の夏以降に大きな事件が控えているとも考えられます。思い浮かぶのは関ヶ原の戦い{慶長五(1600)年九月十五日}です。56) 武蔵の生年は『宮本家系図』57)から天正十(1582)年と『五輪書』を書き始めた寛永二十(1643)年に「年つもりて六十」とあるので天正十二(1584)年の二つの説がありますが、天正十三(1585)年も候補に加えてもらえないでしょうか。 4.8 『武蔵塚』『小倉碑』『五輪書』の系譜 4.8.1 『武蔵塚』 ずっと出生地を秘匿してきた武蔵ですが晩年になるとどうしようもなく郷愁感が募ります。そこで遺言で「新免」を名乗りたい伝えます。その意を汲んだ細川藩は武蔵の死後、「新免武蔵」と記した石塔(武蔵塚)を建てます。 4.8.2 『小倉碑』 当然養子の伊織も同様趣旨は聞いていたでしょうが、これが石塔で公になることで「武蔵は美作出身、即ち関ヶ原西方」であると知れ渡ってしまう恐れがあります。そこで城主・小笠原忠真に相談します。武蔵・伊織父子に心酔している忠真は一計を案じ、武蔵の遺志を尊重しつつ関ヶ原東方の偽装等を行った碑文と関門海峡を一望できる一等地を伊織に与え、碑を建てさせます。 4.8.3 『五輪書』 新免家と同じ宇喜多秀家の家臣であった父を持ち、晩年の武蔵の身の回りの世話もした寺尾孫之丞は『小倉碑文』を読み、より完璧に偽装を行うため武蔵から託されていた『五輪書』の草稿に「生國播磨の武士」を加えます。その結果、武蔵自らが播磨生れと述べたと解釈され、現在に至ります。 【出典】 |
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第五章 武蔵の人脈形成 5.1 武蔵の印象 武蔵は「孤高の剣聖」などと表現され、孤独な印象がありますが、実は人脈形成の名人です。武蔵は有名だったので大名達と交流が出来たとの意見もありますが、マスコミが存在しない江戸初頭にどうして有名になれたのでしょうか。二十歳前後の田舎から出てきた青年がどうして大名達と交流出来たかを考えてみます。この章は特に断らない限りWikipediaのお力をお借りしています。各大名の関係を見つけるのはWikipediaさん無くしてはありえませんでした。感謝申し上げます。48) 5.2 大名ネットワーク
武蔵が最初に書いた兵法書ですが、この『兵道鏡』の項目が宮本無二一真の『当理流目録』に似ているとの指摘45) があります。 この宮本無二一真と平田無二との接触はありませんが、武蔵は直接なのか間接(目録のみ)なのかは判りませんが何らかの関わりはありそうです。
美作を離れてから水野勝成に行き着くまでの関わりが不明だったのですが、これしか無いと思われる組合せに気付きました。美作を離れた武蔵は美作の外では唯一の知合いとも言える筑前の新免家を訪ねます。そこで直接にか間接にかは判りませんが藩主の黒田長政を紹介されます。この黒田長政が兵法書を書くことを勧め、水野勝成に紹介します。 水野勝成は一時期、長政の父・黒田孝高に仕官して出奔しており、長政には言わば頭の上がらない関係です。更に勝成は徳川家康の従兄弟で、徳川家臣で一二を争う暴れん坊で、初めて仕官する武蔵には一番可能性を感じさせると考えたのではないでしょうか。
養子・三木之助の顛末は前述(3.5)しましたのでここでは省略します。本多忠刻は本人が徳川家康の曽孫で、妻・千姫は孫なので義孫といった家柄、水野勝成とは同じ徳川家臣ですが関ヶ原の際、父・本多忠政が島津義弘の攻撃に手を焼いて勝成に救援を依頼した経緯があり、勝成には借りがある関係です。 勝成にすれば家康は親代りですが、他の家臣には少々煙たい存在で、将来を考えて由緒正しい徳川家臣の本多忠政・忠刻父子に託したのだと考えます。
小笠原忠真の正室・円照院は本多忠政の次女、本多忠政は養父で忠刻とは義兄弟です。
小笠原忠真と有馬直純とは奥さん同士が本多忠政の娘で、両者は義兄弟です。
細川忠利は小笠原忠真の妹・千代姫が正室でこちらも義兄弟です。
以上の関係を一覧表にしました。表から分ることは武蔵が決して有名だったから多くの大名達と知り合えた訳ではなく、伝手を頼って交流域を増やして行った結果です。そして知り合えた大名達を確実に虜にし、徳川の中枢にいる人に対して、出生地等も含めて本音で語り合えるような関係を構築しているように見受けられます。その結果、各大名達が武蔵にとって一番いい方向を模索しながら、その方向に導いてくれているように感じます。 違う見方をすると武蔵とその養子がそれだけ魅力に満ちた人物ということもできます。 黒田長政については当方の推測の域を出ませんが、徳川家康の従兄弟で、徳川家臣一番の暴れん坊で、武蔵の未知数の才能を引き出してくれそうな水野勝成を紹介します。 水野勝成は武蔵を兵法指南役とし、大坂夏の陣では息子の警護役として出陣させます。その後、武蔵が新免家から三木之助を託されると、一旦家臣の中川家の子とし、再度武蔵の養子として、武蔵・三木之助を本多忠政の子・本多忠刻に送り込みます。 勝成として自分の手元に置いておくという選択肢もあったでしょうが、勝成自身が家康には可愛がられていたものの、周囲には少々煙たい存在になりつつあることを自覚していて、言わば正統派の本多忠政父子に預けることにしたのではないかと思われます。 本多忠刻の元で武蔵は兵法指南を、三木之助は小姓として仕えますが、忠刻は早死にし、三木之助も後を追います。 忠刻の義兄弟である小笠原忠真が、武蔵と二番目の養子・伊織を引き取ってくれます。小笠原忠真の武蔵・伊織父子に対する心酔ぶりは並々ならむものがあり、伊織を筆頭家老に抜擢し、かつ子孫も代々筆頭家老を勤めています。更に武蔵の死去後は関門海峡を見下ろす一等地を提供し、伊織に顕彰碑を建てさせます。名義人こそは伊織ですが、文面から実質的には忠真であることが分かります。 更に武蔵は現代の都市計画とされる町割や庭園造営59)、前述(3.4)した「兵道鏡」などの兵法書、「鵜図」「達磨図」などの画、「木刀」「鞍」などの細工、連歌60)など非常に幅広い分野で才能を発揮しています。 加えて武蔵が厚遇される理由として徳川家の兵法指南・柳生家の存在があります。本人達が意識していたかどうかは分かりませんが柳生家と武蔵は兵法指南の領域で競合していました。大名達は家康・秀忠・家光から柳生家の兵法指南を勧められます。この際、武蔵のような指南役が既に居ればやんわり断ることができますが、居なければ柳生家を受け入れることになり、結果として内部情報が徳川家に筒抜けになる危険を含んでいます。つまり大名達にとっては文字通りの死活問題を、武蔵を雇うことで同時に情報漏洩をも防ぐことができ、一挙両得です。 以上、大名達のネットワークを見て来ましたが、次は武蔵の郷土ネットワークを見て行きたいと思います。 5.3郷土ネットワーク 5.3.1 宮本三木之助 前述(3.5)しましたように筑前黒田藩の家臣となった新免宗貫の孫と考えます。 5.3.2 伊織の妻・美作津山藩中村氏の娘 『宮本家系図』の貞次(一代目 宮本伊織)の項に「室ハ作州津山城主森美作守家士中村氏女」53) とあります。伊織の仕官地である明石城下・小倉城下か出身地の播州印南郡から迎えるのが一般的と考えますがその何れでもなく、美作津山藩から迎えています。伊織が妻を迎えたと考えられる1620・30年代からは少し後になる元禄二(1689)年の『森家分限帳』54) に三人の中村氏が記載されていますが、三人合わせても三百石程度です。
一方の伊織は小倉移封の寛永九(1632)年に二千五百石、島原の乱後の寛永十五(1638)年に四千石であり、石高でも一桁異なっています。58) また『美作逸史』に新免家臣として「中村源□兵衛」と「中村刑部」の名が見えます。30) この家臣には『宇喜多秀家分限帳』の「地侍 弐拾石 平尾清六」20)のように厳密には新免家の家臣ではない人も含まれていますが、一緒に行動していることには変わりありません。従って伊織の妻の実家・中村氏は武蔵と同郷の美作國吉野郡出身である可能性が高く、武蔵の郷土への強い執着心を感じます。そして、この妻が郷土との連絡役を務め、後述の平尾与右衛門も呼び寄せたと考えます。 5.3.3 寺尾孫之丞・求馬助 前述(3.5)のように寺尾兄弟の父は宇喜多秀家の家臣で宇喜多家が備前国・美作国を治めていたため、寺尾家は(岡山)県南部、新免家・平田家は県東北部と少々離れていますが、同じ宇喜多家臣でもあり、共通の話題も多かったと考えます。 5.3.4 寺尾左馬 こちらも前述(3.5)のように父が伊予松山出身と擬装したものと考えられ、武蔵を招聘しようと考えていたことから、寺尾兄弟と同郷と考えます。 5.3.5 平尾与右衛門 こちらは平尾家に嫁いだ武蔵の姉・おぎんの子と考えます。 尾張藩に出向いた際は平尾のままでは武蔵の身近の人間ということで武蔵の出身地を斟酌されてしまうことを恐れて「竹村」に改姓したと考えます。 孤高と言った形容詞で表現される武蔵ですが実際には高い教養と多彩な芸術性に溢れ、人との交わりや和を大事にする人情味にも溢れた人物です。 【出典】 |
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第六章 武蔵年表
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第七章 本当の宮本武蔵 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
7.1 伝説化された宮本武蔵 7.1.1 擬装された作者 a)『黒田藩分限帳』1601の「新免無二」は53年後の黒田藩の人々が変更
7.1.2 『小倉碑文』にも何かが
7.1.3 擬装の内容
7.1.4 平田系図の解釈の誤り
7.1.5 武蔵の姓 (平田、宮本と新免)
7.2 本当の宮本武蔵
7.2.2離郷~水野勝成
7.2.3水野勝成~本多忠刻
7.3 宮本武蔵の実像と後世の展開
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謝辞 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
多くの方々のご著書を参考にさせて頂きました。特に次の御三方からは多くを引用させて頂きました。 原田夢果史『真説宮本武蔵』1984 魚住孝至『宮本武蔵 –日本人の道』2002 福田正秀『宮本武蔵 研究論文集』2003 御三方とは出生地論争では立場を異としますが、真摯な研究には頭が下がります。 原田夢果史氏からは平田系図や細川家と伊織の往復書簡を、魚住孝至氏からは武蔵の兵法書の解釈や写本を、福田正秀氏からは最も多くの引用をさせて頂き、特に巌流島の決闘に関してはそのまま引用させて頂きました。 感謝申し上げます。 また、多くの図書を長期間に渡ってお借りした横浜市立図書館を始め、神奈川県立図書館、岡山県立図書館(デジタル岡山大百科)、東京大学史料編纂所(新免家古書写・データベース検索)、国立国会図書館(デジタルコレクション)など多くの図書館にお世話になりました。ありがとうございました。 Wikipediaさんにも多くを検索させて頂きました。特に大名間の関係を調べるには他の方法では膨大な時間を要し不可能でした。感謝申し上げます。 |
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2022年 6月25日 掲載 2022年10月10日 第2版 第七章、謝辞 追記 新免幸男 |
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