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~ 恐らくこれが本当の宮本武蔵 ~

  大変長いものになってしまいました。
  まず全体の概要を表した第七章を一読頂き、興味を感じられた章にお進み下さい。
(まえがき)
 第一章 武蔵主要史料・史跡 第四章 小倉碑文 
  武蔵塚/小倉碑文/新免姓/五輪書
泊神社棟札/福岡(黒田)藩分限帳
  六十余場/岩流嶋/吉岡一門
関ヶ原と大坂の陣
 第二章 新免無二  第五章 武蔵の人脈形成
平田無二/平田系図
羽柴秀吉副状
 大名ネットワーク
郷土ネットワーク
 第三章 武蔵の姓と出生地  第六章 武蔵年表
 武蔵書状/武蔵兵法書
伊織・松井寄之の往復書簡
第七章 本当の宮本武蔵
謝辞、連絡先


原田夢果史『真説宮本武蔵』1984で「武蔵研究に関する著書は、約三百人の人が書いており、おびただしい数にのぼる。そしていまだに堂々めぐりをしているのは、小説と伝承が先行して史料の発掘がおくれているからである。」と述べられています。1) この時点から現在までに37年が経過し、メディアも多様化していることから著者は四百人程度にはなっていると考えられますが、堂々めぐりの方はいまだに継続しています。これは当方だけの感覚かも知れませんが宮本武蔵の関係書に触れてから幾つかの疑問が今日まで頭の中に残っています。主なものを二つ紹介します。

最初は武蔵自身が書いたとされる「六十余度迄勝負すといへども一度も其利をうしなわず」2) ですが、剣聖とも評され六十を過ぎ、人生の最後を感じていると思われる人が書く文言でしょうか、もし本人が書いたとしたらこの人の人生は寂しいものだったのではないでしょうか。

次は武蔵養子・伊織とその弟・玄昌が武蔵の死後8年めに奉納したとされる泊神社棟札』の「作州之顕氏神免者」3) ですが、新免姓の者としては強い違和感を覚えます。同姓の方にはご理解頂けると思うのですが「新免」よりも「免」の方がいいからこちらにしなさいと他人から強制されているような感覚を覚えます。新免姓は推定で1500人程度4) ですので圧倒的な少数意見でしょうが、他姓の方も別の苗字を強制された場合を考えて頂ければご理解頂けれる思います。実際翌年建てた小倉碑』には正確に「新免」5) としており、たとえ養子であっても父・武蔵が名乗った「新免」を疎かにするとは考え難いのですが、こちらも本当に伊織本人が書いたのでしょうか。

これらの疑問が頭の中を何度も巡っているうちに、次第に本人達が記したものではないという確信に変わって行きました。更に先人たちの発掘史料を何度も拝見するうち、四百年近い「堂々めぐり」のメカニズムの一部が解明できたと考えますので以下に紹介します。ご一読頂き、ご意見を頂戴頂ければ幸いです。

 

【出典】
1) 原田夢果史『真説宮本武蔵』
1984,p219
2) 松延市次・松井健二『決定版 宮本武蔵全書』2003,p10
3) 福田正秀『宮本武蔵 研究論文集』2003,p205
4) HP『苗字の履歴書』新免姓 ,2022/01/22確認

5) 松延市次・松井健二『決定版 宮本武蔵全書』2003,p295
 

 
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第一章 武蔵主要史料・史跡

1.1 武蔵塚
武蔵の死{正保二(1645)年五月十九日}後、熊本(細川)藩が建てた石碑で、現在の熊本県熊本市北区龍田町弓削の武蔵塚公園内にあります。石碑には「新免武蔵居士石塔」と記されています。6)

根拠は後述しますが、武蔵生存中に新免を名乗った形跡は確認できず、遺言として新免を希望し、熊本(細川)藩がこれに応えたものと考えます。
「新免武蔵」の初出と考えます。

1.2 小倉碑文
武蔵の死後9年目の承応三(1654)年に養子の宮本伊織が、北九州市小倉北区赤坂の手向山に建てたものです。7)

文面は松延市次・松井健二『決定版 宮本武蔵全書』の小倉碑文(小倉郷土史会会長・今村元市作成)8) をベースに、原田夢果史『真説宮本武蔵』9)、福田正秀『宮本武蔵 研究論文集』10) を参照させて頂きました。
内容については後述しますが、初出で武蔵の父が「新免無二」と記述され、伊織も「新免武蔵」と熊本・武蔵塚の「新免」を追認する形になっています。この文面は伊織から見ると義祖父:新免無二、義父:新免武蔵、本人:宮本伊織で、「新免・新免・宮本」と伊織のみが宮本であるかのような印象を受けます。この関係だけを頭の片隅に留めておいて下さい。

 小倉碑文
天仰実相円満兵法逝去不絶
兵法天下無双
干時承応三年四月十九日孝子敬建焉
正保二暦五月十九日於肥後国熊本卒
播州赤松末流新免武蔵玄信二天居士碑
臨機応変者良将之達道也講武習兵者軍旅之用事也遊心於文武之門舞手於兵術之場而逞名誉人者其誰也播州英産赤松末葉新免之後裔武蔵玄信号二天想夫天資曠達不拘細行蓋斯其人乎為二刀兵法之元祖也父新免号無二為十手之家武蔵受家業朝鑚暮研思惟考索灼知十手之利倍于一刀甚以夥矣雖然十手非常用之器二刀是腰間之具乃以二刀為十手理其徳無違故改十手為二刀之家誠武剣之精選也或飛真剣或投木載北者走者不能逃避其勢恰如発強弩百発百中養由無踰干斯也夫惟得兵術於手彰勇功於身方年十三而始到播州新当流有馬喜兵衛者進而決雌雄忽得勝利十六歳春到但馬國有大力量兵術人名秋山者又決勝負反掌之間打殺其人芳声満街後到京師有扶桑第一之兵術吉岡者請決雌雄彼家之嗣清十郎於洛外蓮台野争龍虎之威雖決勝敗触木刃之一撃吉岡倒臥于眼前而息絶予依有一撃之諾輔弼於命根矣彼門生等助乗板上去薬治温湯漸而復遂棄兵術雉髪畢而後吉岡伝七郎又出洛外決雌雄伝七袖于五尺余木刃来武蔵臨其機奪彼木刃撃之伏地立所死吉岡門生含寃密語云以兵術之妙非所可敵対運籌於帷幄而吉岡又七郎寄事於兵術会于洛外下松邊彼門生数百人以兵杖弓箭忽欲害之武蔵平日有知先之歳察非義之働竊謂吾門生云伱等爲傍人速退縦怨敵成群成隊於吾視之如浮雲何恐之有散衆敵也似走狗追猛獣震威而帰洛陽人皆感嘆之勇勢智謀以一人敵万人者實兵家之妙法也先是吉岡代々爲 公方之師範有扶桑第一兵法術者之号當于霊陽院義昭公之時召新免無二与吉岡令兵術決勝負限以三度吉岡一度得利新免両度決勝於是令新免無二賜日下無双兵法術者之号故武蔵到洛陽与吉岡数度決勝負遂吉岡兵法家泯絶矣爰有兵術達人名岩流与彼求決雌雄岩流云以真劔請決雌雄武蔵對云伱揮白刃而尽其妙吾提木戟而顕此秘堅決漆約長門与豊前之際海中有嶋謂舟嶋両雄同時相会岩流手三尺白刃来不顧命尽術武蔵以木刃之一撃殺之電光猶遅故俗改舟嶋謂岩流嶋凡従十三迄壮年兵術勝負六十余場無一不勝且定云不打敵之眉八字之間不取勝毎不違其的矣自古決兵術之雌雄人其算数不知幾千万雖然於夷洛向英雄豪傑前打殺人今古不知其名武蔵属一人耳兵術威名遍四夷其誉也不絶古老口所銘今人肝誠奇哉妙哉力量早雄尤異于他武蔵常言兵術手熟心得一毫無私則恐於戦場領大軍又治國豈難矣 豊臣太閤公嬖臣石田治部少輔謀叛時或於摂州大坂 秀頼公兵乱時武蔵勇功佳名縦有海之口渓之舌寧説尽簡略不記之加旃無不通禮樂射御書数文況小藝巧業殆無爲而無不爲者歟蓋大丈夫之一躰也於肥之後州卒時自書於 天仰實相円満兵法逝去不絶字以言爲遺像焉故孝子立碑以傳于朽令後人見鳴呼偉哉

 1.3 新免姓
武蔵塚・小倉碑文に記されている「新免姓」についてご存じのない方が多いと思われますので、簡単に紹介します。『苗字の履歴書』新免姓4)、『新免家古書写』11) を主な出典としています。

(1)新免姓1350年代に現代の岡山県美作市粟井に誕生しました。
(2)新免家は同地から粟井城、山王山(小原)城、竹山城と居を移します。
ただし、これらの場所は半径5kmの円に収まる位置関係にあります。
家臣の居住地を考慮しても半径10kmの円には収まってしまい、全国から見ると非常にピンポイントです。つまり新免と言うと居住地を特定されます。
(3)関ヶ原では西方として出陣し、城を追われます。城主一族は筑前の黒田家の家臣となり、他の家臣は地元で帰農します。
(4)新免姓の使用について、新免家直系子孫は日常的に新免を名乗りますが、有力家臣も使うことを許されました。日常的には従来姓で晴れの日や公式行事には新免を用いるといった、言わば併用方式です。武蔵の父と目される「平田無二」が「新免無二」を名乗った文書が存在します。12) 詳細は後述します。
(5)落城後は現代の新免姓分布から見て、全ての家臣に永代使用を許したと考えられます。ただし、江戸期はほとんどの家臣が帰農しており、表面に出ることはありませんでした。

こちらでも当時、「新免」は併用姓であることだけを頭の片隅に留めておいて下さい。

1.4泊神社棟札
武蔵の死後
8年目の承応二(1653)年、即ち小倉碑の前年に宮本伊織と弟・
玄昌が、現在・加古川市木村の泊神社を再建した際、奉納したと言われています。
文面は福田正秀『宮本武蔵 研究論文集』3) を参照させて頂きました。

 泊神社棟札(田原家傳記) 無二・武蔵・伊織関係分のみ
有作州之顕氏神免者天正之間無嗣而卒于筑前秋月城受遺承家曰武蔵掾玄信後改氏宮本亦無子而以余為義子故余今稱其氏
時承應二癸巳暦五月日宮本伊織源貞次謹曰
作州の顕氏に神免なる者有り、天正の間、嗣無くして筑前秋月城に卒す。于遺を受け家を承くるを武蔵掾玄信という。後に宮本と氏を改む。亦た子無くして、以て余を義子と為す。故に余、今其の氏を称す。
承應二癸巳暦五月日
宮本伊織源貞次みてす。

 この棟札は武蔵の養子である伊織が「武蔵は養子」と述べていることから、「播州生れ美作育ち」の武蔵養子説の根拠になっています。
本当に伊織が書いたのでしょうか。伊織ではない根拠を二つ述べます。

まず、まえがきでも述べた免」です。たとえ養子であっても、対象が神社であっても親の苗字をないがしろにするとは到底思えません。伊織ではないと考えます。

次に、「改氏宮本(宮本と氏を改む)」です。前項(1.3)で述べましたように、新免姓は日常姓と併用するので、言い換えれば新免姓は使いたい時に使う姓なので、改姓の必要はありません。この棟札の作者はこのことを知らないのです。伊織は前述(1.2)しましたように小倉碑で祖父・父を新免としながら本人は宮本としているのですから当然、併用は知っています。実際に記したとされる弟・玄昌も伊織に相談なしに独断で記述することはありえないでしょう。再度文面を眺めて頂きますと、小倉碑で述べた「義祖父:新免無二、義父:新免武蔵、本人:宮本伊織」の通りに展開していないでしょうか。伊織が改姓したのでは理由が必要になるので武蔵が改姓したことにしたのではないでしょうか。

作者は伊織や玄昌であれば当然持っている関係知識なしに小倉碑から得た知識のみで物語を展開しています。子の世代では親族の誰かは情報を共有しているでしょうから、少なくとも孫以降の世代、時期は十八世紀以降の田原家子孫の方が書かれたものと考えます。

1.5五輪書
1.5.1 五輪書
五輪書は武蔵が寛永二十(1643)年十月十日に筆を起こして、正保二年五月十二日に弟子の寺尾孫之丞に「独行道」と共に授けたとされています。13)
文面は松延市次・松井健二『決定版 宮本武蔵全書』2) を参照しました。

 五輪書 地の巻 ※冒頭部分
 兵法の道二天一流と号し数年鍛錬乃事初而書物に顕さんと思ふ時寛永二十年十月上旬の比九州肥後の地岩戸山に上り天を拝し観音を礼し仏前に向比生國播磨の武士新免武蔵守藤原玄信年つもりて六十我若年の昔より兵法の道に心をかけ十三歳にして初而勝負をす其あひて新当流有馬喜兵衛という兵法者に打勝十六歳にして但馬の國秋山といふ強力の兵法者に打勝廿一歳にして都へ上り天下の兵法者にあひ数度の勝負をけつすといへども勝利を得ざるといふ事なし其後國々所々に至り諸流の兵法者に行合六十余度迄勝負すといへども一度も其利をうしなわず其程年十三より廿八九までの事也われ三十を越てあとをおもひみるに兵法至極してかつにはあらずをのつから道乃きようありて天理をはなれざるゆへか又は他流の兵法不足なる所にや其後なをもふかき道理を得んと朝鍛夕錬して見ればをのつから兵法の道にあふ事我五十歳の比也其より以来はたつね入べき道なくして光陰を送る兵法の利にまかせて諸芸諸能の道となせば万事におゐて我に師匠なし今此書を作るといへども仏法儒道の古語をもからず軍記軍法の古きことをももちゐす此一流のみたて實の心を顕す事天道と観世音を鏡として十月十日の夜寅の一天に筆をとつて書始る者也

1.5.2小倉碑文と五輪書
小倉碑文と比較すると似通った記述が多いことに気づかされます。下表に並べて見ました。武蔵の名
(3項目)を除いても17項目が一致又は酷似しています。これだけ多くが一致・酷似しているのはどちらがもう一方を写したとしか考えられません。

No  五輪書 (1645)  小倉碑文 (1654) 
 1  生國{①播磨}の武士{②新免}{③武蔵}守藤原{④玄信}  {播州}英産赤松末葉{新免}之後裔{武蔵}{玄信}号二天
 2  年つもりて六十  
 3  {⑤十三歳にして}{⑥初而}勝負をす其あひて{⑦新当流}{⑧有馬喜兵衛}という兵法者に{⑨打勝}  {⑤方年十三}{⑥而始}到播州{⑦新当流}{⑧有馬喜兵衛}者進而決雌雄忽{⑨得勝利}
 4  {⑩十六歳}にして{⑪但馬の國}{⑫秋山}といふ{⑬強力の兵法者}{⑭打勝}  {⑩十六歳}春到{⑪但馬國}{⑬有大力量兵術人}{⑫秋山}者又決勝負反掌之間{⑭打殺}其人芳声満街
 5  廿一歳にして{⑮都へ上り}天下の兵法者にあひ数度の勝負をけつすといへども勝利を得ざるといふ事なし  {⑮到京師}有扶桑第一之兵術吉岡者請決雌雄
 6  矣爰有兵術達人名岩流与彼求決雌雄
 7  其後國々所々に至り諸流の兵法者に行合{⑯六十余度}{⑰勝負}すといへども{⑱一度も其利をうしなわず}{⑲其程年十三より}{⑳廿八九まで}の事也  {⑲凡従十三}{⑳迄壮年}{⑰兵術勝負}{⑯六十余場}{⑱無一不勝}

と述べても不思議に思われる方はあまりいらっしゃらないと思います。なぜなら五輪書は1645年に武蔵本人が、小倉碑文は1654年に養子・伊織が書いたことになっていますので当然、「五輪書を小倉碑文が写した」と思われるのが自然です。そこでこの表を個々に確認して見たいと思います。

判断は内容の正否ではなく、あくまでもどちらが写した可能性が高いかです。小倉碑文が写した可能性が高い場合は[五→小]、五輪書の場合は[五←小]、どちらか判断がつかない場合は[=]とします。

1.5.3生國播磨

No  五輪書 (1645)  小倉碑文 (1654) 
 1 生國{①播磨}の武士{②新免}{③武蔵}守藤原{④玄信} {播州}英産赤松末葉{新免}之後裔{武蔵}{玄信}号二天

こちらは後半の新免武蔵玄信は同じで、五輪書は「生國播磨の武士新免」と武蔵が播磨生れと述べているのに対して、小倉碑文では「播州英産赤松」と播磨産は赤松だよと述べています。五輪書を写したとすると武蔵本人が播磨生れと言っているのに、養子の伊織がそれは違うと言ったことになり、あり得ないと考えます。一方、小倉碑文を写した場合は地名表記がなかったので唯一の播州を流用したと考えられます。

更に関ヶ原以降は基本的に一国一城ですが、それ以前は一国に多数の城(国人領主)が存在しました。1645年頃ではまだ関ヶ原以前の雰囲気を残していると考えますので、赤松の場合は播磨国全体の守護なので国だけでも十分ですが、通常本人が出生地を語る場合は「○○國××」と表現するのが自然で、この表記は本人でないことを示していると考えます。
従って、この文言を武蔵本人が書いたとは到底思えません。

以上から、この部分の判断は[五←小]です。

 1.5.4年つもりて六十

No  五輪書 (1645)   小倉碑文 (1654)
 2  年つもりて六十  

こちらは五輪書では「年つもりて六十」があるのに小倉碑文には関係記述がありません。小倉碑文はお墓です。行年として年齢情報は是非とも欲しいと思うのですが書いてないことから小倉碑文が先に完成した可能性が高いと考えます。つまり、[五←小]です。

 1.5.5十三歳

No   五輪書 (1645) 小倉碑文 (1654) 
 3  {⑤十三歳にして}{⑥初而}勝負をす其あひて{⑦新当流}{⑧有馬喜兵衛}という兵法者に{⑨打勝}  {⑤方年十三}{⑥而始}到播州{⑦新当流}{⑧有馬喜兵衛}者進而決雌雄忽{⑨得勝利}

こちらは「初めて(初而・而始)」に係る対象が異なっています。五輪書は「初めて勝負」で、小倉碑文は「初めて播州に到る」です。小倉碑文が写したのであれば武蔵本人が播磨生れと言っているのに、伊織が「初めて播州に到る」と否定していることになり不自然です。一方、五輪書の場合は播磨生れになっているので「初めて播州に到る」は使えず、「初めて」に「勝負」をくっつけたと自然です。従って、[五←小]です。

 1.5.6 十六歳春

No  五輪書 (1645)  小倉碑文 (1654) 
 4  {⑩十六歳}にして{⑪但馬の國}{⑫秋山}といふ{⑬強力の兵法者}{⑭打勝}  {⑩十六歳}春到{⑪但馬國}{⑬有大力量兵術人}{⑫秋山}者又決勝負反掌之間{⑭打殺}其人芳声満街

こちらは小倉碑文には「十六歳春」とありますが五輪書では「十六歳」のままです。「十三歳」「十六歳」「廿一歳」と揃った表記を見て、十六歳に春を付記するのは難しく、「十六歳春」と不揃いだったので、春を削除した方が自然と考えます。従って、[五←小]です。

 1.5.7都へ上り

No   五輪書 (1645) 小倉碑文 (1654) 
 5  廿一歳にして{⑮都へ上り}天下の兵法者にあひ数度の勝負をけつすといへども勝利を得ざるといふ事なし  {⑮到京師}有扶桑第一之兵術吉岡者請決雌雄
 6  矣爰有兵術達人名岩流与彼求決雌雄

こちらは五輪書には「廿一歳」があり、小倉碑文には吉岡・岩流の戦いがありますが、それぞれ他方には記載がありません。五輪書の「廿一歳」は「十三歳・十六歳」とあるのでそのまま類推できる内容です。一方の吉岡・岩流の戦いについてですが、吉岡とは二勝一敗となっていますので次の「六十余度で無敗」に疑義が生じる可能性と記述が異常に長いので割愛した可能性が高いと考えます。岩流の方は細川藩の寺尾孫之丞やその弟子達が内情14) を知っている可能性が高くそれ故、吉岡との戦いと同様に割愛した可能性が高いと考えます。従って、こちらも[五←小]です。

 1.5.8六十余度

No 五輪書 (1645)  小倉碑文 (1654) 
 7  其後國々所々に至り諸流の兵法者に行合{⑯六十余度}{⑰勝負}すといへども{⑱一度も其利をうしなわず}{⑲其程年十三より}{⑳廿八九まで}の事也  {⑲凡従十三}{⑳迄壮年}{⑰兵術勝負}{⑯六十余場}{⑱無一不勝}

こちらは「廿八九」と「壮年」の違いはありますが同じ内容で、[=]です。

1.5.9 検証結果

以上、個々に比較検証した結果をまとめますと、五輪書が写した可能性が高い場合[五←小]5件、どちらとも言えないもの[=]1件、小倉碑文が写した可能性が高い場合[五→小]はありません。

検証時にもお示ししましたが小倉碑文で記述されている不都合な部分を五輪書では上手に回避している箇所が見受けられ、文書の構成においても小倉碑文では力量の誇示に終始しているのに対して、五輪書では三十歳以降は心を磨いたとレベルの高さが見受けられます。つまり小倉碑文が初版とするなら五輪書は二版・三版と言った印象です。

これらを踏まえて、五輪書・冒頭の武蔵自身に関する部分は小倉碑文を見て記述されたと判断します。

この部分の作者は当然、武蔵ではあり得ず、可能性が高いのは本書を授けられた寺尾孫之丞かその弟子達ですが、寺尾孫之丞は慶長十六(1611)年生れ、寛文十二(1672)年死去51) で、小倉碑建立(1654)18年生存していることや武蔵自身に関する部分が五輪書写本のほとんどに見られることから弟子の可能性は低く、寺尾孫之丞であると考えます。

 1.6 福岡(黒田)藩分限帳

黒田家は黒田職隆が赤松氏の一族である播磨の有力豪族・小寺氏に仕え、その養女を迎えて自らも小寺氏を称しました。職隆の子・孝高は織田信長に従い、その重臣である羽柴秀吉の麾下に入りました。その際、小寺氏が織田氏に敵対して衰退すると孝高は氏を黒田に復しています。天正15(1587)年豊前国中津城主12万石となり、関ヶ原の戦い(1600)で孝高・長政父子は徳川方につき、軍功により筑前国523千余石を与えられ、福岡藩を立藩。長政が初代藩主になり、以後黒田氏は代々福岡藩主となり国替もなく幕末に至ります。15)

この分限帳は福岡藩立藩時のもので、福岡地方史研究会『福岡藩分限帳集成』(a) 16)、福岡地方史談話会『黒田三藩分限帳(増補復刻)(b)(c) 17) を参照しました。一二列目は関ヶ原で西方につき城を追われた新免家当主と息子です。三列目は武蔵の父と目される新免無二です。

父が居るなら息子も一緒だろうと武蔵東軍説の根拠になっています。18)

 (a)慶長六年正月中津ゟ筑前江御打入之節諸給人分限帳

但新免カ
弐千石 新目伊賀

 
三百石 新目右兵衛

  武州師父
百石 新免無二

(b)慶長七年諸役人知行割 同九年知行書附


貳千石 新目右兵衛

「朱」本ノママ 右兵衛
三百石 新目右太夫

 
百石 新目無二

(c)慶長年中士中寺社書附

 新参
貳千石 新目伊賀
     宗貫、又則種

 
三百石 新目右兵衛
 
            伊賀宗貫子

    古御譜代
百石 新免無二

       一真、播磨人

まず一二列目ですが全て「新目」になっています。新免家当主と息子です、本来なら「新免」を家臣に与えていた人達です。最初は新免の知名度や黒田家祐筆のレベルを疑いましたが、むしろいたわりの意図があることに気付きました。同時期に上司の宇喜多秀家は薩摩まで逃れましたが、結果的に八丈島へ配流となっています。19) 秀家の有力家臣{慶長三(1598)年調:新免伊賀守3650,新免勝蔵1000,4650}20) である新免家としては切実な問題だったのです。そのため黒田家が文書だけでも匿う意味で新目」にしたと考えます。

それにもかかわらず無二の欄は三史料のうち二史料が「新免」になっています。

このことから前二者(筑前新免)と無二は記述時期が異なると考えます。

それを裏付けるのが(a)の添書き「武州師(むさし)父」です。武蔵が生れたのは天正十(1582)年とも天正十二(1584)年とも言われており、この分限帳が記されたのが慶長六(1601)年で、十八歳か二十歳です。この歳の人がマスコミも存在しない江戸初期に一般に知られる方法があるでしょか。更にはその父親を無二としています。このような情報が慶長六(1601)年にどこから得られたのでしょうか。

また、関ヶ原を無二・武蔵が東軍黒田家で出陣した18) 言われる方もいらっしゃいますが、それにしては分限帳の掲載順位や石高が圧倒的にそぐわないのです。掲載順位については武士268人中262人目、つまり後には6人しかいない位置です。石高については百石ですが(c)の添書き「古御譜代」とあり、これは関ヶ原の前に豊前中津で仕えたもの21) で、関ヶ原前後で藩全体の石高(52.3/12)4.3倍になっていますので、中津では無禄かせいぜい20石程度と考えられます。

一方、無二は新免を名乗っていますので美作の新免家臣です。

『新免家古書写』11) から、新免家で無二を名乗っているのは平田無二しかいません。この平田無二は同書に12(平田無二10, 平田2)登場し、家臣としては最多登場の人物です、同書には役職等の表記はありませんが、トップクラスの家臣であることは間違いありません。新免家全体4650石ですので最低でも百石程度は貰っている筈です。この無二が豊前中津で仕えたとすれば同じく百石は貰っていると考えられます。これで関ヶ原を親子で戦ったとすれば最低でも三百石から、場合によっては千石貰っても不思議はありません。それが百石としたら、あり得ない結果でしょう。本人達が固辞した場合も考えられますが、その場合でも組頭などの役職任命や掲載順位を上げる等の配慮がある筈で、ここにはそれがありません。

以上を総合すると慶長六(1601)年には新免家とは無縁の人物が記載されていて、ある時期に現在のように書替えられたと考えます。

元の人物は(c)の添書き「一真」と見え、「○○無二一真」から「宮本無二一真」と考えます。

きっかけになったのは「小倉碑文」しかないと考えます。無二・武蔵父子の姓名が一緒に確認できるのは後にも先にもこの碑しかなく、更に福岡と小倉は隣藩で、交流も深いと思われます。

 これらを時系列に述べますと次のようになります。

(1)関ヶ原(1600)直前、宮本無二一真が「播磨人」と言って豊前中津の黒田藩に仕官し、関ヶ原を迎えます。 
 (2)慶長六(1601)年の分限帳には「古御譜代/ 宮本無二 /一真、播磨人」と記述されます。そして、このまま53年が経過します。
 (3)承応三(1654)年、小倉に碑が建ちます。碑文に「新免武蔵/ 父新免無二」とあります。これに先立って正保二(1645)年、熊本(細川)藩が建てた石碑に「新免武蔵」とあります。武蔵は生存中「宮本武蔵」を名乗っていましたので、人々の頭の中に「宮本=新免」の構図が刻まれています。
 (4)そしてここでも「新免武蔵」ですので、「宮本武蔵」と読替えます。当然父も同じだろうと「新免無二→宮本無二」と読替えてしまいます。
 (5)これを隣藩の福岡(黒田)藩の人々が知り、分限帳に「宮本無二」を発見し、「新免無二」に書替えます。
 (6)これを見た人々が父が黒田藩に居るなら息子も居るだろうと考え、このことを事実と信じ、様々な武蔵神話が生れたというのが真相と考えます。

この「宮本無二一真」と美作の「新免(平田)無二」の同一人物説には再度、分限帳の掲載順位や石高からあり得ないことを強調しておきます。

 

【出典】
6) 熊本県観光振興課HP 武蔵塚公園2022/01/23確認
7) 北九州市役所HP 宮本武蔵と手向山,2022/01/23確認
8) 松延市次・松井健二『決定版 宮本武蔵全書』2003,p295
9) 原田夢果史『真説宮本武蔵』1984,p211
10) 福田正秀『宮本武蔵 研究論文集』2003,p198
11) 東京大学史料編纂所蔵『新免家古書写』筆写:1897
12) 兵庫県史編集専門委員会『兵庫県史 史料編 中世九・古代補遺』1997,p358
13) 福田正秀『宮本武蔵 研究論文集』2003,p186
14) 福田正秀『宮本武蔵 研究論文集』2003,p157
15) Wikipedia 「黒田氏」,2022/01/26確認
16)福岡地方史研究会『福岡藩分限帳集成』1999,(a)p4,6,11

17)福岡地方史談話会『黒田三藩分限帳(増補復刻)1980,(b)p11,13,19,(c)p25,29,38
18) 福田正秀『宮本武蔵 研究論文集』2003,p93
19) Wikipedia 「宇喜多秀家」,2022/01/26確認
20) 岡山県立図書館所蔵『岡山城主宇喜多中納言秀家侍分分限帳』デジタル岡山大百科,2022/01/26確認
21) 福岡地方史研究会『福岡藩分限帳集成』
1999,p729
51) Wikipedia 「寺尾孫之丞」,2022/03/02確認 

 
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第二章 新免無二

 2.1 平田無二
吉川英治『随筆宮本武蔵』(原本:1939)22) に次のような記述があります。

文亀三(1503) 癸亥 十月二十一日
武専院一如仁義居士   平田将監
永正三(1506) 丙寅 年七月十五日
智専院貞実妙照大姉   平田将監妻 新免氏娘政子
天正八(1580) 庚辰 年四月二十八日
真源院一如道仁居士   平田武仁少輔正家(年五十歳)
光徳院覚月樹心大姉   平田武仁妻   (四十八歳)
(天正十二(1584) 三月四日)

この記述が物議を醸しました。武仁を武蔵の父・無二としていますが、武仁は1580年に死去しており、1582年か1584年生れの武蔵が武仁の子ではないことになります。これによって播磨生誕派が活気づきました。

吉川英治氏と同様の内容は明治期に発行された宮本武蔵遺蹟顕彰会『宮本武蔵』(原本:1901)23) にも示されており、両者とも美作生誕派です。私見ではありますが、この点はいささか旗色が悪いですが、熊本でも小倉でもどう見てもマイナーな「新免」を名乗っており、なおかつ簡単に関ヶ原・西方が特定され子孫に危害が及ぶ恐れを抱えています。そのようなリスクを冒してまでも新免を名乗っており、美作生誕と考えるのは自然の流れです。美作の方には申し訳ないですが平田無二を巡る情報整理が不十分ではないかと思われます。情報を列挙します。

 まず、毎度の東京大学史料編纂所蔵『新免家古書写』11) です。平田無二が12[平田無二:10,平田:2(※を付記)]登場します。新免家中に無二を名乗るものは平田家しかなく、平田家は無二しか名前はありません。
 

①延徳三(1491),②明応七(1498),③明応八(1499),④文亀二(1502),⑤京禄(1529),⑥天正六(1578),⑦天正六(1578),⑧天正七(1579),⑨天正九(1581),⑩天正十七(1589),⑪天正十八(1590),⑫文禄元(1592) 

 平田無二は101年間に渡って登場しており、とても一人の人とは考えられず、代々に渡って使用している、即ち世襲している名前と考えます。世襲は珍しいことでは無く、領主の新免伊賀()、本位田駿河守や小倉藩の宮本伊織24) などの例があり、かなり一般的に用いられていたと考えます。

また、世襲と考えれば当然ですが、平田武仁が亡くなった天正八(1580)年以降にも平田無二が登場しています。

2.2羽柴秀吉副状

次に『羽柴秀吉副状』25) を紹介します。

新免文書【羽柴秀吉副状】

(新免)
御同名無二斎殿被差越, 様子承候, 得其意候, 被成御朱印候間,
吉野郡・佐用郡・八頭郡之事, 進置候, 八幡大菩薩御照覧候へ,
不可有相違候者也, 仍状如件
   (天正六年)       羽柴筑前守
    十一月廿二日      秀吉
(花押)
          (宗実)
     新免弾正左衛門尉殿 御宿所

まず、天正六年と比定されていますが長水城攻め以降と考えられ、天正八(1580)年と考えます。また,「宗実」とあるのは「宗貫」です。

『新免家古書写』11) に関連したものがありますので紹介します。

【新免家古書写】

[天正八(1580)] 新免伊賀守より長水城加勢を遣し引取の儀秀吉公へ聞へなば 落去近きに有へしと家中思案する所に
羽柴筑前守殿より伊賀守へ在城不可有相違の由にて誓紙被召上けるにより 秀吉公の朱印之許状を賜わる


この副状に関して「吉野郡・佐用郡・八頭郡の三郡をくれてやろう」という内容との見解もありますが、地名が並ぶので領知のことと考えられるのも尤もですが、そんな景気のいい話ではなく、天正八
(1580)年六月に秀吉によって新免(伊賀守)宗貫の実父・宇野政頼と兄・祐清の長水城が攻められて両名は討死し、残った家族や家臣たちが長水城(佐用郡)・因州(八頭郡)・竹山城(吉野郡)に散らばっており、これらの人々を引取りたいと願い出て、許可をもらった文書と考えます。長水城落城は天正八(1580)年六月五日26)
、本状は天正八(1580)年十一月廿二日、約半年かかっています。

そして、この時の使者が「新免無二斎」となっています。前述しましたが、新免家中に無二は平田無二しかおりませんので、平田無二が使者のため新免無二と名乗ったことになります。平田武仁は天正八(1580)年四月二十八日に亡くなっていますので、平田武仁死去後にも平田無二が存在するという事で、平田無二世襲説が証明されます。同時にこの使者の人物こそが武蔵の父である可能性が高い人物ということになります。

2.3平田系図

原田夢果史『真説宮本武蔵』に掲載の「平田系図」27) を紹介します。

また、福田正秀『宮本武蔵 研究論文集』の美作訪問時28) に「生誕地とされる平田家では、当時平田武仁の弟武助の子孫登氏一家の住居であった。」と記されています。つまり本来跡継ぎである武仁の子孫が自然ですが、実際にはその弟・武助の子孫の住居になっており意外に思われたと解釈します。
 

平田系図
┬平田将監──平田無二少輔正家─┬次郎太夫
│               ├女 おぎん 平尾与衛門に嫁す
└平田武助正常         ├女 川上村岡平田家に嫁す
                └宮本武蔵政名

平田武助正常 (添書)

竹山城落後農夫となる
文禄二
(1593)年三月十四日卒 無戯院入阿幽真居士

妻 新免氏娘
慶長七(1602)年七月七日卒  真月院観阿慈海大姉

「平田系図」を中心に検証して見ますと、まず将監と武仁とは没年が77年離れていて武仁の行年が50歳なので親子はあり得ません。何代か離れています。

次に美作市HPに武蔵の兄とされる次郎太夫の情報がありました。29) 没年が万治三(1660)年で、行年が八十三歳なので生年は天正六(1578)年になります。その次郎太夫の両親を武仁とその妻とすると年齢的にはかろうじて親子関係が可能ですが、前述の使者を3歳で迎えることになりますので、武仁と次郎太夫兄弟の親子関係はありえません。この間に一代存在します。

 一方、武助正常は没年が文禄二(1593)年になっており、福田氏の「武仁の弟」の方が妥当と思われますが、妻が新免氏娘となっており、跡継ぎでもない男に領主が娘を嫁がすだろうかという疑問が湧きます。恐らく、小倉碑文で武蔵の父親が無二と記されていて、無二が世襲名とは知らないので、無二と同じ読み(むに)ができる武仁を父親と思い込んでしまったため、武助正常が離れた位置に置かれたのではないでしょうか。武仁の子が武助正常でその子が次郎太夫兄弟というのが一番自然です。新免家を中心に美作の歴史を記した『美作逸史』に「宮本 平田氏 将監武助次郎太夫次郎兵衛六左衛門」30) とあり、武仁こそ入っていませんが、武助正常が惣領であることを示しています。当方の考える平田系図を次に示します。

平田系図 ※当方加工

平田将監─ 武仁─武助正常┬次郎太夫
  (この間、何代か)     ├女 おぎん 平尾与右衛門に嫁す
                         ├女 川上村岡平田家に嫁す
              └武蔵

以上から小倉碑文に記された武蔵の父・新免無二は平田武助正常であると判断します。
平田武助正常は文禄二(1593)年卒であり、「宮本無二一真」とは当然別人です。
武蔵は次男であり、当然養子ではなく実子で、平田家の田地を分割させないために美作を出たと考えます。時期は母が亡くなった慶長七(1602)年か翌年ぐらいと考えます。

 

【出典】
22) 吉川英治『随筆宮本武蔵』
1963, 原本:1939,p230
23) 宮本武蔵遺蹟顕彰会『宮本武蔵 復刻』2003原本:1901
24) 原田夢果史『真説宮本武蔵』1984,p227
25)兵庫県史編集専門委員会『兵庫県史 史料編中世九・古代補遺』1997,p358
26) 東京大学史料編纂所データベース検索 (長水城落城),2022/03/28確認
27) 原田夢果史『真説宮本武蔵』
1984,p144
28) 福田正秀『宮本武蔵 研究論文集』2003,p228
29) 美作市HP宮本武蔵の父・平田無二と兄・次郎太夫
,2022/01/28 確認
30) 岡山県立図書館所蔵『美作逸史』デジタル岡山大百科,2022/01/28確認

 
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第三章 武蔵の姓と出生地

3.1 武蔵の姓

ここでは武蔵の姓は実際にはどうだったのかを検証して見たいと思います。武蔵は多くの書画・骨董も残していますが、残念ながら姓名までは記しておりませんので、書状・兵法書や伊織・松井寄之往復書簡から確認したいと思います。

3.2 武蔵書状
福田正秀『宮本武蔵 研究論文集』①②31)、原田夢果史『真説宮本武蔵』③32) から引用させて頂きました。
書状は全て「宮本」になっており、「新免」は使われていません。
 

 No 暦年  署名  宛先 
 1  1638  宮本武蔵  有馬直純
 2  1640  宮本武蔵  長岡佐渡
 3  1641-5  宮本武蔵  寺尾左馬
 
3.3 伊織・松井寄之の往復書簡
原田夢果史『真説宮本武蔵』33) から引用させて頂きました。
細川藩にやって来た武蔵の体調が思わしくなくなった時、武蔵の養子・伊織と細川藩の松井寄之が交わした往復書簡で、武蔵が亡くなった正保二(1645)年五月十九日を挟んだ正保元(1644)年十一月十五日から正保二(1645)年六月五日までのものです。なお、この年は閏で五月が二回あります。

 No  月日  署名  宛先  武蔵呼称
 4  11.15  宮本伊織  松井寄之  同名(宮本)
 5  11.18  松井寄之  宮本伊織  御同名(宮本)
 6  5.27  松井寄之  (7の表題)  宮本
 7  5.27  宮本伊織  松井寄之  同名(宮本)
 8  5.2  松井寄之  宮本伊織  武州
 9  5.29  宮本伊織  松井寄之  同名(宮本)
10  6.5  松井寄之  宮本伊織  武州

武蔵の呼称に関して、伊織の方は武蔵死去前後も一貫して「宮本」ですが、松井寄之は生前では同じく「宮本」ですが、死後は「武州」として「宮本」の使用を避けているようです。どちらにしても武蔵生存中は「宮本」で一貫しており、新免は出ていません。
こうした時期に細川藩は新免武蔵と記した碑を建立したのですから、「新免」は武蔵の遺言によるものとしか考えられません。

3.4 武蔵兵法書
魚住孝至『宮本武蔵 日本人の道』34) から引用しました。
表中で[/](写本)は原本はなく写本のみで、(原本)は原本が存在します。奥書は宛先、年記、署名です。[奥書有無](無あり)は写本の中に奥書のないものがあるという意味で、(後入れ)は奥書が後で書かれたという意味です。

 No 暦年  書名  渡先例   / 署名例  奥書有無 
 11  1605  兵道鏡  落合忠右衛門  写本  宮本武蔵  無あり
 12  1638  兵法書付  なし  写本  新免武蔵  無あり
 13  1641  兵法三十五箇条  細川忠利  写本  新免武蔵  無あり
 14  1645  五法之太刀道  寺尾求馬助  原本  なし  なし
 15  1645  独行道  寺尾孫之丞  原本  新免武蔵 後入れ 
 16  1645  五輪書  寺尾孫之丞  写本  新免武蔵  全てあり

個々に検証します。まず、⑭五法之太刀道は武蔵自身の筆と言われていますが、奥書はありません。⑮独行道は本文については武蔵自身の筆ですが、奥書は、丸岡宗男『宮本武蔵名品集成』で「後世、入れられた」35) と述べられています。つまり、武蔵自筆とされる⑭⑮両方共、奥書はありません。
次に⑪兵道鏡⑫兵法書付⑬兵法三十五箇条はいずれも奥書の無い写本が存在します。写本する意味を考えると原本に奥書があるのにその部分を写さないとは考えられません、誰が書いたのかもわからず写本の意味がありません。つまり奥書のない写本が存在するということは、原本に奥書が無かったことを示しています。
最後の⑯五輪書は既に少なくとも一部は武蔵が書いたのではないことを述べており、同時期の⑭五法之太刀道⑮独行道に奥書がないのに五輪書だけに、かつその五巻全てに奥書があるとは到底考えられません。

以上から、武蔵は兵法書に奥書
(署名)は記していないと判断します。

現存写本に奥書(署名)があるのは、武蔵から受け取った弟子が更にその弟子に相伝するため書き入れたものと考えます。

3.5 武蔵の姓と出生地
武蔵は美作を出る時、あるいはその直後から亡くなるまで「宮本」しか使っていません。そして遺言で「新免」を名乗っています。
兵法書の「新免」は後世に弟子が相伝のために書き入れたものです。
一方、五輪書での「生國播磨」は後世のものと考えますので、武蔵は生存中に「新免」も出生地もは語っていません。

「宮本」姓は出生地を隠すには最適の苗字と考えています。
例えば「新免」だと知っている人ならばすぐに美作と特定してしまいますが、「宮本」の場合は全国に居られますので出生地を問われても「西の方です」程度のあいまいな答えでも、質問者自身の地元の「宮本」さんや神社ひいては故郷を連想し、質問そのものはあいまいな形で終わることが多いと考えています。

ではなぜ出生地を隠す必要があったのでしょうか。答えの一つは福岡(黒田)藩分限帳の「新目」にあると考えます。関ヶ原西方で出陣した新免家当主・新免宗貫を匿うために「新目」にしたと考えられるのです。

宗貫の場合は生命の危機ですが、一般の関ヶ原西方の人々には次のような問題があります。仕官地を失われ、帰農します。そこに検地です。検地はご存知のように田地を再測して使用者を割り付けて行くというもので、それまでは権利関係が明確でなく何処から年貢を要求されるか分からない状態でしたが検地後は藩のみに固定され、概ね好感されたようです。使用者の方は従来が村や家単位でしたが、検地帳には二・三男を含む個人名が記載されました。実際の運用はまちまちで従来通りの村や家単位も多かったようですが、どちらにしても従来の家を示す長男名義の田地は減ってしまいます。そこで二・三男は故郷を去るという選択が出てきます。

しかし徳川の世です。徳川に敵対した人々はそう簡単には雇ってもらえません。故郷を離れた二・三男たちは名を変えたり(改名)、出生地を偽って(出生地偽装=産地偽装)、雇ってもらうしか方法は無いのではないでしょうか。

熊本で武蔵の看病をした寺尾孫之丞・求馬助兄弟の祖先は宇喜多家の家臣とされ36) 、細川家の度量の大きさを感じられる例ですが、『新免家古書写』11) に宗貫の子孫の動向を示した部分があり、二名に「旗本の内になる」と一名に「都で領知を給う」と記述されていますが、江戸期の人名録等を見ても新免は発見できていません。やはり改名・産地偽装しているものと思われます。

更にこの中の宗貫の孫・三木之助に「播刕姫路城主本多中務大輔殿ニ仕へて寛永ノ頃中務大輔殿逝去ニ追腹を切ル」とあります。この記述が新免家に利するものとは考えられず、新免家から孫の就職を頼まれた武蔵が、お世話になっている水野勝成に相談し、一旦水野家臣の中川志摩之助の子として貰った後、再度養子とし、つまり世間的には中川家からの養子として、武蔵と一緒に播州姫路城主・本多忠刻(中務大輔)に仕官したというのが実情ではないでしょうか。

『筑前新免系譜』にその名がないので誤りだ39) との意見も有りますが、筑前新免家が正統なものであることは何度も述べていますが、書かれたものについては、宗貫子孫の名や前述(2.2)の『羽柴秀吉副状』の見解等、残念ながら史的信憑性は感じられません。

武蔵書状の寺尾左馬は尾張藩家老で直政、越前守、土佐守とも称し、父・正俊は伊予松山の出身とされています。37) 残念ながら根拠は示せませんが、藩主・徳川義直は家康の九男であること38)、つまり細川家のように出生地をそのまま言う訳にはいかなかったことや武蔵に仕官を勧めたことなどから寺尾兄弟と同郷ではないかと思われます。
その際、派遣された竹村与右衛門ですが、武蔵書状32)には苗字はなく「此与右衛門儀」となっており、細川藩に同行していた平尾与右衛門とは異なる人物だ40) との意見もありますが、身近に同名の人物がいる可能性は少なく、もし二人いれば苗字も記載するだろうと考えられますので、武蔵が「平尾」では出生地が特定される懸念を覚えて、書状は名前のみにし、苗字を「竹村」にして送り出したと考えた方が自然ではないでしょうか。
竹村も宮本同様に出生地を特定され難い苗字ではないでしょうか。

さて、まず武蔵が播磨の出身であれば、たとえ美作で育ったとしても、「播磨出身」をアピールすればいいと思います。それがありませんので、美作と考えることに無理がないと考えます。美作離郷直後は自身のために宮本を名乗り、出生地は沈黙したのでしょうが、次第に関ヶ原西方への追及は弱くなります。しかし本人も養子もが徳川家中枢の大名達にお世話になっておりますので、関ヶ原西方が世に出てしまいますと、本人達はもちろんですが大名達にも迷惑を掛けてしまいます。本人の自制は勿論、養子達に厳命したと考えます。ただ、次第に郷愁の感が強まります。そこで遺言という形で「新免」を名乗ったのではないでしょうか。そして武蔵死後、熊本藩が「新免武蔵」の石塔を建て、本人には分かりませんが悲願を達成します。

さて、ここからは全くの想像ですが、新免と言ってしまったので困った宮本伊織は小倉藩主・小笠原忠真に相談し、武蔵・伊織父子に心酔していた小笠原忠真が一計を案じ、伊織に命じて領内に碑を建てさせたのではないでしょうか。
一般には伊織が建てたと伝わっていますが、小笠原忠真でなければ発想できない事項が多く見られます。

 

【出典】
31) 福田正秀『宮本武蔵 研究論文集』2003,p192,194
32) 原田夢果史『真説宮本武蔵』1984,p45
33) 原田夢果史『真説宮本武蔵』1984,p194
34) 魚住孝至『宮本武蔵 日本人の道』2002,p53
35) 丸岡宗男『普及版 宮本武蔵名品集成』1984,p99
36) 魚住孝至『宮本武蔵 日本人の道』2002,p129

37) 日本掃苔録HP 寺尾直政 ,2022/01/30確認
38) Wikipedia 「徳川義直」, 2022/01/30確認
39) 福田正秀『宮本武蔵
研究論文集』2003,p27
40) 福田正秀『宮本武蔵 研究論文集』2003,p90

 
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第四章 小倉碑文

 

4.1小笠原忠真主導の小倉碑文

小倉碑文が小笠原忠真主導と思われる点を列挙します。

まず、石碑用地として関門海峡を見下ろす一等地を伊織に与えたことです。41)

以下は小倉碑文の内容に関してです。

 

4.2 六十余場

凡従十三迄壮年兵術勝負六十余場無一不勝

この有名な部分ですが、元ねたがありました。

伊勢桑名藩主・本多忠勝は「生涯において参加した合戦は大小合わせて57回に及んだが、いずれの戦いにおいてもかすり傷一つ負わなかった」と伝えられています。この本多忠勝は小笠原忠真の正室・円照院の祖父で、忠真からは義祖父になります。従って、この文は主君・小笠原忠真の義祖父・本多忠勝を上回るという意味です。これを領内に建てる碑に伊織が独断で書けるとは思われず、忠真の方から持ち掛けたと考えます。

となると他の部分にも忠真の手が入っているものと思われます。当然、伊織しか知り得ない部分があるので、伊織が草稿を忠真が脚色といった役割分担と思われます。

 

4.3 岩流嶋

爰有兵術達人名岩流与彼求決雌雄岩流云以真劔請決雌雄武蔵對云伱揮白刃而尽其妙吾提木戟而顕此秘堅決漆約長門与豊前之際海中有嶋謂舟嶋両雄同時相会岩流手三尺白刃来不顧命尽術武蔵以木刃之一撃殺之電光猶遅故俗改舟嶋謂岩流嶋

ここも有名な「岩流・佐々木小次郎との巌流嶋の戦い」の部分ですが、福田正秀『宮本武蔵 研究論文集』43) で次のように述べられています。大変長いものなので要約します。解釈に誤りがありましたらご容赦下さい。

伊勢出身の雲林院(うじい)弥四郎という人が柳生宗矩の紹介状を持って細川藩(細川忠利)を訪れ、家臣となった。忠利も含めて藩内に柳生流が活発になったが、弥四郎は幕府の隠密で藩内の状況が幕府に筒抜けの疑いが生じた。そこで忠利らは弥四郎の兵法指南役の面目をつぶし自主的な退散を狙って秘密の御前試合を仕組んだのではないか。そのために弥四郎に勝てる相手として宮本武蔵を招いて立ち会わせたのではないか。試合は生命に関係するようなものではなく、武蔵が勝ちを納めた。その後、弥四郎も長生きするが、試合直後二男を「岩尾」と改姓し、商人にした。その子孫が細川藩の窮状を何度も救った。

これによると試合時期は通説の慶長十七(1612)年ではなく寛永十七(1640)年、相手は佐々木小次郎ではなく雲林院(氏井)弥四郎、場所は巌流嶋ではなく熊本のどこかで碑文や伝承の内容とはまったく異なります。

細川藩は寛永九(1632)年豊前小倉から肥後に国替えになっていますが、弥四郎は同行せず小倉に留まります。その弥四郎に西国の目付役の小笠原忠真が肥後入りを促した記述が残っています。43)

更に武蔵招聘の際も武蔵が小倉藩内に居るのですから小笠原忠真に相談がない筈はありません。

つまり、忠真は弥四郎にも当然武蔵にも関係していてこの出来事には熟知しています。従って「岩尾→岩流」を利用して、話題作りのため石碑の眼下にある小島を岩流嶋と名付け、ドラマチックに仕立てました。

目論見は見事にあたり、江戸期中名所として多くの観光客を呼び込むことになります。幕末に描かれた歌川広重(2)『諸国名所百景 豊前小倉瀬海岸景』に小倉碑が宮本墓として登場します。44)

巌流が佐々木小次郎になった経緯は福田氏が詳細に調べられており、まず佐々木姓は天文二(1737)年、歌舞伎台本、藤本文三郎『敵討巌流島』の「佐々木巌流」で、小倉碑文(1654)から122年後の安永五(1776)年、豊田景英『二天記』で「佐々木小次郎」が登場します。49)

 

なお蛇足ながら、この雲林院弥四郎という方は相当の人物とお見受けします。まず城下のどこに住んでもよいとの許可を取り付け町方に住んでいます。55) 兵法指南という立場から城主や家臣(武士)とは日常的に接していますが、世情を反映する町方情報を得るため町方に住み、たった一人で城下の隅々の情報を集めていたと考えられます。そして武蔵に負けると子孫を商人にします。その子孫が藩の窮状を度々救います。また細川藩が小倉から肥後への移封の際、弥四郎は小倉に居続けます。それを小笠原忠真が説得して肥後へ向かわせました。弥四郎にとっては藩にお世話になりながら、一方では藩の内情を徳川家に報告することに心を痛めて、同行することに躊躇し、武蔵との勝負も最初から勝利することは考えてなかったのかも知れません。そして子孫を商人にすることで城下に留まらせ、藩への恩返しをさせたのではないでしょうか。

 

4.4 関ヶ原と大坂の陣

 豊臣太閤公嬖臣石田治部少輔謀叛時或於摂州大坂 秀頼公兵乱時武蔵勇功佳名縦有海之口渓之舌寧説尽簡略不記之

この部分が一番述べたい部分と思います。つまり、関ヶ原と大坂の陣を並べ、かつ関ヶ原を三成謀叛時としています。武蔵は大坂の陣には東方が確実ですので、これを読んだ人々の多くは「関ヶ原も東方」と思ってしまいます。これこそが忠真・伊織の意図していることだと考えます。冒頭の「新免」から西方を連想させるのをここで打ち消したと考えます。

 

4.5 吉岡一門

後到京師有扶桑第一之兵術吉岡者請決雌雄彼家之嗣清十郎於洛外蓮台野争龍虎之威雖決勝敗触木刃之一撃吉岡倒臥于眼前而息絶予依有一撃之諾輔弼於命根矣彼門生等助乗板上去薬治温湯漸而復遂棄兵術雉髪畢而後吉岡伝七郎又出洛外決雌雄伝七袖于五尺余木刃来武蔵臨其機奪彼木刃撃之伏地立所死吉岡門生含寃密語云以兵術之妙非所可敵対運籌於帷幄而吉岡又七郎寄事於兵術会于洛外下松邊彼門生数百人以兵杖弓箭忽欲害之武蔵平日有知先之歳察非義之働竊謂吾門生云伱等爲傍人速退縦怨敵成群成隊於吾視之如浮雲何恐之有散衆敵也似走狗追猛獣震威而帰洛陽人皆感嘆之勇勢智謀以一人敵万人者實兵家之妙法也先是吉岡代々爲 公方之師範有扶桑第一兵法術者之号當于霊陽院義昭公之時召新免無二与吉岡令兵術決勝負限以三度吉岡一度得利新免両度決勝於是令新免無二賜日下無双兵法術者之号故武蔵到洛陽与吉岡数度決勝負遂吉岡兵法家泯絶矣

ここまで来ると、吉岡一門との戦いにも何か意図がありそうです。

まず、無二が義昭公の前で吉岡と戦い、二勝一敗で勝利したので将軍から「新免無二」の名を賜ったとありますが、前述(2.1)しましたように少なくとも延徳三(1491)年から平田無二を名乗っており、その後は代々の平田家跡取りが無二を世襲しています。従って、この部分は明らかに創作です。無二の名に箔をつけるためと吉岡との戦いの必然性のため考えついたのではないでしょうか。

戸部新十郎『考証 宮本武蔵』50) に吉岡家について詳しく述べられています。

吉岡家は足利将軍家の兵法指南役で、大坂の役で大坂方について籠城し、落城後は京に帰り、染物を業とした。憲法染めとして繁盛した。

つまり小倉碑文(1654)を建立した時点では染物業に専念しており、武家は廃業したとも見え、過去の大物であり、利用してもあまり迷惑はかからないと考えて創作したのではないでしょうか。

また、吉岡家は足利将軍家の兵法指南役ですが、次の将軍は徳川家で、その兵法指南役は柳生家です。小笠原家といえども、雲林院弥四郎とは形を変えた隠密を送り込まれている可能性があり、これらを撃退したことを比喩的に述べているかも知れません。

 

4.6 十三歳

方年十三而始到播州新当流有馬喜兵衛者進而決雌雄忽得勝利

この部分は武蔵の播州生れを支持する人々にとっては最も見たくない箇所と思われますが、どう見ても「年十三にして初めて播州に到り」と読めます。たとえ美作に養子で入ったとしても、播州で生れた人が播州に戻っても「初めて」や「到り」とは表現しないでしょうから、播州生れではないことを示しています。

 

武蔵が生れ育ったと考える美作國吉野郡宮本と播州(播磨国)の地理的関係は

国土地理院「地理院地図」によりますと、宮本から國境(現在の県境)の釜坂峠まで直線距離で1km、宮本の平地部分の標高は217m、釜坂峠は360400m、標高差140190m、峠から播州側の最初の集落まで1km、大きな集落の平福までは宮本から直線で7kmです。

 

4.7 十六歳春

十六歳春到但馬國有大力量兵術人名秋山者又決勝負反掌之間打殺其人芳声満街

まず但馬國についてですが平成4年のNTT電話帳で新免姓を調べたところ兵庫県城崎郡日高町(現・豊岡市日高地域)10件の掲載がありました。4) この件数そのものは驚くほどのものではありませんが、問題は地理的関係です。岡山県東北部発祥の新免姓は東南の姫路を経て瀬戸内海沿いに神戸・大阪に到る地域に大部分の方が居住しておられます。この日高は東北方向に日本海に至るルートで、言わば反対方向であり、何らかの意図があると考えられます。この日高は新免家の交易拠点であったと考えています。

新免家の交易にはまず吉野川・吉井川を経て瀬戸内海に至るルートが自然ですが、これには流域の多くの氏が共同利用しており、自由な流通にはとても無理があります。

次に志戸坂峠を越えて鳥取・日本海に至るルートが近いのですが、途中に争いを繰り返している草苅氏が居り、鳥取には全国区の山名氏が陣取っているので、とてもこのルートも選択できません。

そこで第三のルートとして釜坂峠を播州(平福)に出て東北方向に進むと千m級の山が点在する地域があり、これらの山あいを抜けて進み、日高を経て日本海に至ります。山が天然の軍事的緩衝地帯になり、周囲からの妨害を最小限に抑えることもできます。

武蔵の父・武助正常が亡くなったのが文禄二(1593)年、長男・次郎太夫が天正六(1578)年生れなので、父没年時は十六歳です。跡を継ぎますが若年なので力仕事の交易拠点との間の物資輸送に従事し、弟の武蔵はそれに同行し、道中の播磨や但馬で決闘を行ったと考えてはどうでしょうか。

 

また「十六歳春」とここにだけ「春」と季節が入っています。これはこの年の夏以降に大きな事件が控えているとも考えられます。思い浮かぶのは関ヶ原の戦い{慶長五(1600)年九月十五日}です。56)

武蔵の生年は『宮本家系図』57)から天正十(1582)年と『五輪書』を書き始めた寛永二十(1643)年に「年つもりて六十」とあるので天正十二(1584)年の二つの説がありますが、天正十三(1585)年も候補に加えてもらえないでしょうか。

 

4.8 『武蔵塚』『小倉碑』『五輪書』の系譜

4.8.1 『武蔵塚』

ずっと出生地を秘匿してきた武蔵ですが晩年になるとどうしようもなく郷愁感が募ります。そこで遺言で「新免」を名乗りたい伝えます。その意を汲んだ細川藩は武蔵の死後、「新免武蔵」と記した石塔(武蔵塚)を建てます。

 

4.8.2 『小倉碑』

当然養子の伊織も同様趣旨は聞いていたでしょうが、これが石塔で公になることで「武蔵は美作出身、即ち関ヶ原西方」であると知れ渡ってしまう恐れがあります。そこで城主・小笠原忠真に相談します。武蔵・伊織父子に心酔している忠真は一計を案じ、武蔵の遺志を尊重しつつ関ヶ原東方の偽装等を行った碑文と関門海峡を一望できる一等地を伊織に与え、碑を建てさせます。

 

4.8.3 『五輪書』

新免家と同じ宇喜多秀家の家臣であった父を持ち、晩年の武蔵の身の回りの世話もした寺尾孫之丞は『小倉碑文』を読み、より完璧に偽装を行うため武蔵から託されていた『五輪書』の草稿に「生國播磨の武士」を加えます。その結果、武蔵自らが播磨生れと述べたと解釈され、現在に至ります。

 

【出典】
41) 福田正秀『宮本武蔵
研究論文集』2003,p198
42) Wikipedia 本多忠勝,2022/01/30確認
43) 福田正秀『宮本武蔵
研究論文集』2003,p157
44) 東京都歴史文化財団蔵
歌川広重(2)『諸国名所百景 豊前小倉瀬海岸景』1859
49) 福田正秀『宮本武蔵 研究論文集』2003,p135
50) 戸部新十郎『考証 宮本武蔵』1981,p147
55) 福田正秀『宮本武蔵 研究論文集』2003,p175
56) 東京大学史料編纂所データベース検索 (関ヶ原の戦い),2022/03/28確認
57) 福田正秀『宮本武蔵 研究論文集』2003,p208

 

 
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第五章 武蔵の人脈形成

 

5.1 武蔵の印象

武蔵は「孤高の剣聖」などと表現され、孤独な印象がありますが、実は人脈形成の名人です。武蔵は有名だったので大名達と交流が出来たとの意見もありますが、マスコミが存在しない江戸初頭にどうして有名になれたのでしょうか。二十歳前後の田舎から出てきた青年がどうして大名達と交流出来たかを考えてみます。この章は特に断らない限りWikipediaのお力をお借りしています。各大名の関係を見つけるのはWikipediaさん無くしてはありえませんでした。感謝申し上げます。48)

 

5.2 大名ネットワーク

まず慶長七(1602)年か慶長八(1603)年に美作を離れます。

慶長十(1605)年『兵道鏡』を記します。

 

武蔵が最初に書いた兵法書ですが、この『兵道鏡』の項目が宮本無二一真の『当理流目録』に似ているとの指摘45) があります。

この宮本無二一真と平田無二との接触はありませんが、武蔵は直接なのか間接(目録のみ)なのかは判りませんが何らかの関わりはありそうです。

 

慶長十三(1608)年『宮本武蔵 奥伝』を水野勝成に授けます。46)

慶長二十(1615) 水野勝成陣で大坂夏の陣に参戦します。47)

 

美作を離れてから水野勝成に行き着くまでの関わりが不明だったのですが、これしか無いと思われる組合せに気付きました。美作を離れた武蔵は美作の外では唯一の知合いとも言える筑前の新免家を訪ねます。そこで直接にか間接にかは判りませんが藩主の黒田長政を紹介されます。この黒田長政が兵法書を書くことを勧め、水野勝成に紹介します。

水野勝成は一時期、長政の父・黒田孝高に仕官して出奔しており、長政には言わば頭の上がらない関係です。更に勝成は徳川家康の従兄弟で、徳川家臣で一二を争う暴れん坊で、初めて仕官する武蔵には一番可能性を感じさせると考えたのではないでしょうか。

 

元和三・四(16178) 養子・三木之助を播磨姫路新田藩主・本多忠刻に出仕させます。

 

養子・三木之助の顛末は前述(3.5)しましたのでここでは省略します。本多忠刻は本人が徳川家康の曽孫で、妻・千姫は孫なので義孫といった家柄、水野勝成とは同じ徳川家臣ですが関ヶ原の際、父・本多忠政が島津義弘の攻撃に手を焼いて勝成に救援を依頼した経緯があり、勝成には借りがある関係です。

勝成にすれば家康は親代りですが、他の家臣には少々煙たい存在で、将来を考えて由緒正しい徳川家臣の本多忠政・忠刻父子に託したのだと考えます。

 

 寛永三(1626) 本多忠刻死去で三木之助殉死します。
 寛永三(1626) 養子・伊織を播磨明石城・小笠原忠真に出仕させます
 寛永九(1632) 小笠原家、播磨明石から豊前小倉へ移封。

 

小笠原忠真の正室・円照院は本多忠政の次女、本多忠政は養父で忠刻とは義兄弟です。

 

寛永十五(1638) 延岡藩主(旧島原藩主)・有馬直純に書状。31)

 

小笠原忠真と有馬直純とは奥さん同士が本多忠政の娘で、両者は義兄弟です。

 

寛永十七(1640) 細川藩筆頭家老・長岡佐渡守に書状。31)

寛永十七(1640) 細川藩主・細川忠利の客分になります。

 

細川忠利は小笠原忠真の妹・千代姫が正室でこちらも義兄弟です。

 

No

領主等

名前

関係

0

 

宮本武蔵

新免家臣・家族

1

新免家

新免宗貫

新免家当主/黒田家臣

2

姫路・中津・福岡

黒田長政

黒田家領主

3

刈谷・郡山・福山

水野勝成

一時期、黒田家臣

4

姫路新田

本多忠刻

父が水野に応援依頼

5

明石・小倉

小笠原忠真

忠刻と義兄弟

6

島原・延岡

有馬直純

忠真と義兄弟

7

中津・熊本

細川忠利

忠真と義兄弟

 

以上の関係を一覧表にしました。表から分ることは武蔵が決して有名だったから多くの大名達と知り合えた訳ではなく、伝手を頼って交流域を増やして行った結果です。そして知り合えた大名達を確実に虜にし、徳川の中枢にいる人に対して、出生地等も含めて本音で語り合えるような関係を構築しているように見受けられます。その結果、各大名達が武蔵にとって一番いい方向を模索しながら、その方向に導いてくれているように感じます。

違う見方をすると武蔵とその養子がそれだけ魅力に満ちた人物ということもできます。

 

黒田長政については当方の推測の域を出ませんが、徳川家康の従兄弟で、徳川家臣一番の暴れん坊で、武蔵の未知数の才能を引き出してくれそうな水野勝成を紹介します。

水野勝成は武蔵を兵法指南役とし、大坂夏の陣では息子の警護役として出陣させます。その後、武蔵が新免家から三木之助を託されると、一旦家臣の中川家の子とし、再度武蔵の養子として、武蔵・三木之助を本多忠政の子・本多忠刻に送り込みます。

勝成として自分の手元に置いておくという選択肢もあったでしょうが、勝成自身が家康には可愛がられていたものの、周囲には少々煙たい存在になりつつあることを自覚していて、言わば正統派の本多忠政父子に預けることにしたのではないかと思われます。

本多忠刻の元で武蔵は兵法指南を、三木之助は小姓として仕えますが、忠刻は早死にし、三木之助も後を追います。

忠刻の義兄弟である小笠原忠真が、武蔵と二番目の養子・伊織を引き取ってくれます。小笠原忠真の武蔵・伊織父子に対する心酔ぶりは並々ならむものがあり、伊織を筆頭家老に抜擢し、かつ子孫も代々筆頭家老を勤めています。更に武蔵の死去後は関門海峡を見下ろす一等地を提供し、伊織に顕彰碑を建てさせます。名義人こそは伊織ですが、文面から実質的には忠真であることが分かります。

 

更に武蔵は現代の都市計画とされる町割や庭園造営59)、前述(3.4)した「兵道鏡」などの兵法書、「鵜図」「達磨図」などの画、「木刀」「鞍」などの細工、連歌60)など非常に幅広い分野で才能を発揮しています。

 

加えて武蔵が厚遇される理由として徳川家の兵法指南・柳生家の存在があります。本人達が意識していたかどうかは分かりませんが柳生家と武蔵は兵法指南の領域で競合していました。大名達は家康・秀忠・家光から柳生家の兵法指南を勧められます。この際、武蔵のような指南役が既に居ればやんわり断ることができますが、居なければ柳生家を受け入れることになり、結果として内部情報が徳川家に筒抜けになる危険を含んでいます。つまり大名達にとっては文字通りの死活問題を、武蔵を雇うことで同時に情報漏洩をも防ぐことができ、一挙両得です。

 

以上、大名達のネットワークを見て来ましたが、次は武蔵の郷土ネットワークを見て行きたいと思います。

 

5.3郷土ネットワーク

5.3.1 宮本三木之助

前述(3.5)しましたように筑前黒田藩の家臣となった新免宗貫の孫と考えます。

 

5.3.2 伊織の妻・美作津山藩中村氏の娘

『宮本家系図』の貞次(一代目 宮本伊織)の項に「室ハ作州津山城主森美作守家士中村氏女」53) とあります。伊織の仕官地である明石城下・小倉城下か出身地の播州印南郡から迎えるのが一般的と考えますがその何れでもなく、美作津山藩から迎えています。伊織が妻を迎えたと考えられる162030年代からは少し後になる元禄二(1689)年の『森家分限帳』54) に三人の中村氏が記載されていますが、三人合わせても三百石程度です。

払升廿五石 五人扶持  中村

百三十石       中村権右衛門

百五十石 御金奉行    中村善右衛門

一方の伊織は小倉移封の寛永九(1632)年に二千五百石、島原の乱後の寛永十五(1638)年に四千石であり、石高でも一桁異なっています。58)

また『美作逸史』に新免家臣として「中村源□兵衛」と「中村刑部」の名が見えます。30) この家臣には『宇喜多秀家分限帳』の「地侍 弐拾石 平尾清六」20)のように厳密には新免家の家臣ではない人も含まれていますが、一緒に行動していることには変わりありません。従って伊織の妻の実家・中村氏は武蔵と同郷の美作國吉野郡出身である可能性が高く、武蔵の郷土への強い執着心を感じます。そして、この妻が郷土との連絡役を務め、後述の平尾与右衛門も呼び寄せたと考えます。

 

5.3.3 寺尾孫之丞・求馬助

前述(3.5)のように寺尾兄弟の父は宇喜多秀家の家臣で宇喜多家が備前国・美作国を治めていたため、寺尾家は(岡山)県南部、新免家・平田家は県東北部と少々離れていますが、同じ宇喜多家臣でもあり、共通の話題も多かったと考えます。

 

5.3.4 寺尾左馬

こちらも前述(3.5)のように父が伊予松山出身と擬装したものと考えられ、武蔵を招聘しようと考えていたことから、寺尾兄弟と同郷と考えます。

 

5.3.5 平尾与右衛門

こちらは平尾家に嫁いだ武蔵の姉・おぎんの子と考えます。

尾張藩に出向いた際は平尾のままでは武蔵の身近の人間ということで武蔵の出身地を斟酌されてしまうことを恐れて「竹村」に改姓したと考えます。

 

孤高と言った形容詞で表現される武蔵ですが実際には高い教養と多彩な芸術性に溢れ、人との交わりや和を大事にする人情味にも溢れた人物です。

 

【出典】
45) 魚住孝至『宮本武蔵 日本人の道』2002,p294
46)
森田栄『定説の誤りを正す 宮本武蔵』2014,p82

47) 森田栄『定説の誤りを正す 宮本武蔵』2014,p111
48) Wikipedia「黒田長政」「黒田孝高」「水野勝成」「本多忠政」「本多忠刻」「小笠原忠真」「有馬直純」「長岡佐渡守」「細川忠利」,2022/03/18確認
53) 福田正秀『宮本武蔵 研究論文集』2003,p208
54) 岡山県立図書館所蔵『美作津山森家御系譜並諸士方分限帳』デジタル岡山大百科,2022/03/12確認
58) Wikipedia 「宮本伊織」,2022/03/18確認
59) 福田正秀『宮本武蔵
研究論文集』2003,p50
60) 魚住孝至『宮本武蔵 日本人の道』2002,p375,402

 
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第六章 武蔵年表

 

No

和暦

西暦

事項

関連

0

延徳3

1491

新免家臣として平田無二、初見

これより文禄3(1592)までの101年間に12回登場。平田家の跡継ぎが代々無二を世襲。

2.1

1

天正6

1578

武蔵兄・平田次郎太夫誕生

2.3

2

天正8

1580

(428)武蔵祖父・平田武仁(世襲名:無二)死去

平田武助正常、無二を世襲

2.1

3

 

 

(65)播州・長水城落城。

竹山城主・新免宗貫の実父・宇野政頼、実兄・祐清 討死。

2.2

4

 

 

(1122)新免無二、秀吉許状持ち帰る

新免家臣の無二は平田無二のみ。武蔵父・平田武助正常と考える。

2.2

5

天正10

天正12

天正13

1582

1584

1585

武蔵 誕生

:平田武助正常、母:新免氏娘、第四子・次男

出生地:美作国吉野郡宮本(:岡山県美作市宮本)

4.7

6

文禄2

1593

武蔵父・平田武助正常 死去

武蔵兄・平田次郎太夫、無二を世襲

2.3

7

文禄3

慶長元

慶長2

1594

1596

1597

(13)武蔵、播州で新当流有馬喜兵衛と戦う

4.6

8

慶長2

慶長4

慶長5

1597

1599

1600

(16歳春)武蔵、但馬で秋山某と戦う

4.7

9

慶長5

1600

(915)関ヶ原の戦い

4.7

10

 

 

新免家当主・新免宗貫、

福岡藩主・黒田長政の家臣となる

他の新免家臣は帰農(平田家も帰農)

1.6

11

慶長6

1601

福岡(黒田)藩、分限帳を作成

1.6

12

慶長7

1602

(77)武蔵母 死去

2.3

13

慶長7

慶長8

1602

1603

武蔵、美作を離れる 「宮本」を名乗る

黒田藩の新免家を訪ね逗留。黒田長政を紹介される。

2.3

5.2

14

慶長10

1605

武蔵、初の兵法書「兵道鏡」を書く

3.4

15

慶長13

1608

武蔵、水野勝成に「宮本武蔵奥伝」を授く

5.2

16

元和元

1615

大坂夏の陣に勝成の子・勝俊の警護役で出陣

5.2

17

元和3

元和4

1617

1618

水野家臣・中川家の子・三木之助を養子に

三木之助と共に姫路藩主・本多忠刻の元へ

新免宗貫の孫を一旦、中川家の子としたと考える。

3.5

18

寛永3

1626

本多忠刻死去、三木之助追腹を切る

3.5

19

 

 

伊織を養子とし、

共に明石藩主・小笠原忠真の元へ

5.2

20

寛永9

1632

小笠原忠真、明石から小倉へ移封

5.2

21

寛永14

1637

島原の乱

5.3.2

22

寛永17

1640

武蔵、熊本へ出向く

5.2

23

 

 

雲林院弥四郎と秘密の御前試合を行う

4.3

24

寛永20

1643

武蔵、「五輪書」に着手

1.5.1

25

正保2

1645

(519)武蔵、死去

3.3

26

 

 

細川藩、武蔵塚建立

1.1

27

承応3

1654

伊織、小倉碑建立

1.2

28

以降

以降

黒田藩分限帳、「宮本→新免」と変更される

1.6

29

寺尾孫之丞、五輪書草稿に「生國播磨」等を加筆

4.8.3

30

田原家子孫、泊神社棟札作成

1.4

 
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第七章 本当の宮本武蔵
 
7.1 伝説化された宮本武蔵
7.1.1 擬装された作者

a)『黒田藩分限帳』1601の「新免無二」は53年後の黒田藩の人々が変更

 豊前中津の黒田藩へ関ヶ原直前、美作とは無関係の「宮本無二一真」がやって来て、関ヶ原の戦いに参加します。その功により、分限帳に「宮本無二一真、百石、古御譜代」と記されます。ただ掲載順位は武士268人中262人目、組外です。そして53年後、小倉碑が建立され、武蔵の父は新免無二であることを知ります。武蔵は生前「宮本武蔵」と称していましたが、武蔵塚では「新免武蔵」になっています。つまり、人々は「宮本=新免」と思い込み「新免無二=宮本無二」と解釈し、分限帳に「宮本無二」があるのを発見し、「新免無二、武州師(むさし)父」と書き換えてしまいます。 (1.6項参照)


b)『五輪書』1645は武蔵の草稿に
    寺尾孫之丞が
小倉碑文
1654を見て加筆

 『五輪書』の武蔵自身を記述した部分と『小倉碑文』には多くの類似点があり、これらを比較すると『五輪書』は『小倉碑文』を見て記述されたとしか考えられません。更に複数ある写本のいずれにもこの部分の記述があることから、武蔵から草稿を託された寺尾孫之丞が加筆したとしか考えられません。 (1.5項参照)
 なぜ9年以上経て「生國播磨の武士」などを加筆したかですが、これには宇喜多秀家臣であった父を持つ寺尾孫之丞ならではの危機感がありました。 (4.8項参照)


c)『泊神社棟札』1653は宮本伊織の孫以降の世代(18世紀以降)が記述

泊神社棟札』には二つの大きな違和感があります。
最初は「新免」を「神免」としていることです。伊織が義父・武蔵の大事に思っている「新免」を疎かにするとは到底考えられません。
 次に武蔵が「新免」から「宮本」に改姓したという点です。当時の新免姓は他の苗字と併用する姓で、改姓する必要はありません。この棟札の作者はそのことを知りません。
 伊織は翌年(1654)建立したとされる『小倉碑文』で本人は「宮本」としながらも義祖父・義父は「新免」としており、この点を十分理解しています。弟・玄昌を含む同世代の人であれば伊織に断りなしに記述することはあり得ないでしょう。子の世代でも一族の誰かは親から聞いているでしょう。となれば作者は孫以降(時期は18世紀以降)の世代と考えます。(1.4項参照)

7.1.2 『小倉碑文』にも何かが

こちらは作者擬装とまでは言えませんが、影の強力な推進役が存在します。 小倉碑の場所ですが関門海峡を見下ろす一等地です。
また伊織は筆頭家老となり、子孫にも代々引き継がれます。
これらが可能なのは小倉城主・小笠原忠真しかありません。更に碑文にも忠真しか発想できない内容が多く含まれています。小倉碑の建立者は伊織とされていますが、実際には武蔵・伊織父子に心酔していた小笠原忠真が場所提供や碑文推敲などお膳立てしたものと考えます。
(第四章参照)
 

7.1.3 擬装の内容

 ■『黒田藩分限帳』1601の「新免無二」は53年後の黒田藩の人々が「宮本無二(一真)」から変更。 (1.6/7.1.1項参照)
 ■この「宮本無二一真」と美作出身の「平田(新免)無二」とは分限帳の掲載順位・石高などから別人。
 ■同時に「宮本無二一真」と『小倉碑文』の武蔵父「新免無二」とも別人。
 同人が「新免」を名乗った形跡も認められず、かつ名乗る必然性も見い出せません。
 ■『五輪書』の武蔵自身を記述した部分は武蔵の草稿(1645)に寺尾孫之丞が小倉碑文』1654を見て加筆。
 ■「生國播磨の武士」は小倉碑文の「播州赤松」を流用。
 ■「十三歳」「十六歳」「六十余度迄勝負すといへども一度も其利をうしなわず」も小倉碑文の流用。
 ■『泊神社棟札』は宮本伊織の孫以降世代の作。
 ■武蔵養子説は『小倉碑文』の義祖父・義父は「新免」、伊織は「宮本」を見て、新免は併用姓であることを知らない人が、苦し紛れに考えた、根拠のないものと考えます。
 ■『小倉碑文』は小倉城主・小笠原忠真が場所提供や碑文推敲などお膳立てし、実質的な建立者。
 ■「凡従十三迄壮年兵術勝負六十余場無一不勝」は忠真の義祖父・本多忠勝が「57回の戦いでかすり傷一つなし」としており、武蔵はこれより強いという意味の創作。
 武蔵の時代にはこれほどの戦いの場がなく、事実ではあり得ません。
また武蔵・伊織では城主を傷つけることになり自らは発想できません。小笠原忠真でなければ出来ない発想で、『五輪書』の同部分は武蔵作ではあり得ません。
 ■「巌流嶋の戦い」も忠真の創作。
 モデルは雲林院(うじい)弥四郎、二男を「岩尾」と改姓。
 ■佐々木小次郎は歌舞伎台本や豊田景英『二天記』で小倉碑文から122年後に登場。
 ■「吉岡一門との戦い」も忠真の創作。
 武蔵の実戦記録があまりに少ないので水増しの意味と、吉岡家は足利将軍家の兵法指南役であり、徳川家の兵法指南役は柳生家で、この柳生家との陰陽な争いを比喩的に述べているかも知れません。

7.1.4 平田系図の解釈の誤り

 ■平田家では代々惣領が「無二」を世襲。
 ■平田無二を1491~1592年に確認。(新免家古書写)
 ■平田無二が「新免」を名乗る記録が存在。(羽柴秀吉副状)
 『小倉碑文』の武蔵父「新免無二」と合致。
 ■碑文の「無二を足利将軍から授かった」は忠真の創作。
 ■酷評の『平田系図』から新事実。
 系図作者は「無二」が世襲名であることに気付いていない。
 ■系図では「無二」に似ている「武仁」を武蔵父とした。
 ■更に80歳前後離れている「将監」を武仁父とした。
 将監弟とされている「武助正常」は文禄二(1593)年卒で、新免氏娘を妻としており惣領の可能性が高く、秀吉副状の無二である可能性も高い。
 ■【平田系図の新解釈】
   平田将監-(何代か)- 武仁-武助正常-次郎太夫・武蔵
 ■武蔵の父は平田武助正常(無二)。

7.1.5 武蔵の姓 (平田、宮本と新免)

■美作では当然、「平田」。 
 ■「宮本」は美作離郷時(推定:1602~3)から水野勝成に奥伝を授ける(1608)までの間に、出身地隠蔽のため使用開始。
 ■この「宮本」を生涯使用。 (第三章参照)
 ■兵法書の「新免」は後世の加筆。 (第三章参照)
 ■遺言で「新免」を表記。{武蔵塚/小倉碑文}  (3.3項参照)

7.2 本当の宮本武蔵
7.2.1 誕生~離郷

■武蔵の父は平田無二(武助正常)、母は新免氏娘。 
 父には「新免」を名乗った記録が存在。(秀吉副状1580)
 ■武蔵は第四子(二男)として誕生。
 兄弟は次郎太夫、おぎん(平尾与右衛門妻)、平田分家妻、武蔵。
 ■誕生時期は1582、1584、1585年のいずれか。
 1585年は『小倉碑文』の「十六歳春」から類推。
夏以降に大きな出来事(=関ヶ原)として逆算。
 ■父・平田武助正常死去(1593)。
 ■長男・次郎太夫(当時16)が跡を継ぐ。 {武蔵は9~12}
 若年のため、交易拠点との間の物資輸送に従事。(推定)
ルートは播磨(平福)、但馬(豊岡)を経て日本海へ。
推定根拠は豊岡市に多くの新免姓が居住。
武蔵も同行し、播磨(13)、但馬(16春)で決闘。
 ■新免家は関ヶ原に宇喜多秀家に従い参戦(西方)。
 ■武蔵の関わりは不明。
 ■新免一族は福岡・黒田藩へ、他の家臣は帰農。
 ■武蔵母 死去(1602)。
 ■兄の相続等の負担減のため、離郷(1602-3)。 {推定}

7.2.2離郷~水野勝成

これより「水野勝成に奥伝を授ける(1608)」までの行動不明。
 なぜ田舎出の青年が徳川家康の従兄弟・水野勝成に奥伝を授ける(兵法指南)ことになったのかが謎。考えられる展開は。
 ■福岡・黒田藩の新免一族を訪問。 ⇦美作外での唯一の知人
 藩主・黒田長政と面談。
長政から兵法書の執筆や兵法指南役などの勧め。
 初の兵法書『兵道鏡』執筆(1605)
 水野勝成を紹介される。  勝成は一時期、黒田家臣
 水野勝成に奥伝を授ける(1608)
 美作離郷からこれまでの間に「宮本」を名乗り始める。

7.2.3水野勝成~本多忠刻

水野勝成陣で大坂夏の陣に参戦(1615) 
■水野家臣・中川家の三木之助を養子に。
 『新免家古書写』に新免宗貫の孫・三木之助に「姫路にて追腹」の記録あり。新免家に利するとは考えられず、新免家から孫を託された武蔵が、勝成に相談し、一旦、中川志摩之助の子とし、再度養子とした。(推定)
■三木之助と共に姫路藩主・本多忠刻の元へ。(1617-8) 
水野勝成には家康は親代り、他の家臣には煙たい存在。
 将来を考えて家康の曽孫・義孫の忠刻に託した。
関ヶ原で忠刻父・忠政を救援。
■本多忠刻死去で三木之助殉死。(1626)


7.2.4小笠原忠真~細川忠利~死去

■養子・伊織を播磨明石城主・小笠原忠真に出仕。(1626) 
 忠刻と忠真は義兄弟。武蔵、明石の町割を実施。(1619)
■小笠原家、播磨明石から豊前小倉へ移封。(1632)
■島原の乱に出陣。(1638)
■細川藩主・細川忠利の客分に。(1640)  ⇦忠真と義兄弟
兵法指南役・雲林院弥四郎の対抗役として招聘。
弥四郎は巌流のモデル。子を「岩尾」と改姓。
■武蔵死去。 (1645)


7.3 宮本武蔵の実像と後世の展開


武蔵は町割(都市計画)や庭園造営、「兵道鏡」などの兵法書、「鵜図」「達磨図」などの画、「木刀」「鞍」などの細工、連歌など非常に幅広い分野で才能を発揮しています。 
 また、1608~1645年の37年間、水野勝成・本多忠刻・小笠原忠真・細川忠利の四大名の実質的な兵法指南役を勤めており、剣術レベルも相当高かった想像されます。
 文武両道に秀でた武蔵ですが、戦国時代と異なり戦いの機会は激減しており、華々しい業績は見い出せません。
 また、熊本には「新免」と記した武蔵塚があります。
このままでは出身地を特定される可能性もあります。
 武蔵の顕彰と出身地秘匿の両方のため、小笠原忠真が伊織を名義人として小倉碑を建立したと考えます。
 「六十余場無一不勝」、「吉岡一門との戦い」や「巌流嶋の戦い」を創作し、無二・武蔵共に「新免」としながらも出身地は記さず、関ヶ原と大坂夏の陣を列記することにより、関ヶ原も東軍であったかのように思わせる細工をしています。
 この小倉碑が九州有数の観光地にあり、多くの人々に影響を与えます。
 武蔵から『五輪書』草稿を託され、宇喜多秀家臣であった父を持つ寺尾孫之丞には忠真や伊織とは異なる危機感があったようです。即ち『小倉碑文』では[新免表記、出身地記載なし、関ヶ原東軍(擬装)]ですが、孫之丞には[新免表記]でいずれは出身地が特定されてしまうと考え、万全を期すため、「生國播磨の武士」を加筆したと考えます。
 『黒田藩分限帳』『泊神社棟札は前述の通りです。
また、歌舞伎も江戸期を通じて上演されています。 
 更にこれらを基に多く文書が作成されています。
 
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 謝辞
多くの方々のご著書を参考にさせて頂きました。特に次の御三方からは多くを引用させて頂きました。

   原田夢果史『真説宮本武蔵』1984
   魚住孝至『宮本武蔵 日本人の道』2002
   福田正秀『宮本武蔵 研究論文集』2003

御三方とは出生地論争では立場を異としますが、真摯な研究には頭が下がります。
原田夢果史氏からは平田系図や細川家と伊織の往復書簡を、魚住孝至氏からは武蔵の兵法書の解釈や写本を、福田正秀氏からは最も多くの引用をさせて頂き、特に巌流島の決闘に関してはそのまま引用させて頂きました。 感謝申し上げます。

また、多くの図書を長期間に渡ってお借りした横浜市立図書館を始め、神奈川県立図書館、岡山県立図書館(デジタル岡山大百科)、東京大学史料編纂所(新免家古書写・データベース検索)、国立国会図書館(デジタルコレクション)など多くの図書館にお世話になりました。ありがとうございました。

Wikipediaさんにも多くを検索させて頂きました。特に大名間の関係を調べるには他の方法では膨大な時間を要し不可能でした。感謝申し上げます。

 2022 625 掲載
20221010 2
第七章、謝辞
追記

新免幸男
 
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