『「子猫殺し」を語る 生き物の生と死を 幻想から現実へを読んで
坂東眞砂子 著<双風舎>


 思うところあって、五年前に急逝した高校の同窓生が遺した十年前の対談集(2009年3月1日発行)を手にしてみた。思うところというのは、障碍者への強制不妊手術に係る昨秋の提訴に端を発した問題が、俄かに注目を集めながらも、十三年前の愛猫への不妊手術を是としない坂東眞砂子の書いたエッセーが引き起こした炎上に比べると、大した関心を集めているようには思えないことで、当時の記憶を呼び起こされたからだった。人間のことなのだから、犬猫どころの問題ではないはずだと僕などは思うのだが、世間ではそうはならない。では、あの異様にヒートアップしたように見えた「子猫殺し」事件を当の坂東は、どのように観ていたのか、知りたくなったのだった。

 本書の構成は、問題となったエッセイが共通するテーマの元に書かれた一連のエッセイの一つであることから、当時の連載エッセイ二十四本の全文を掲載した第一部「生き物の生と死を考えると、三人の識者との対談を採録した第二部「「子猫殺し」を語るという形になっている。まえがきでその趣旨を記しているのが坂東ではなく、双風舎編集部の谷川氏であることが目を惹いた。知らない出版社だったから、どんなものを出しているところか当たってみたら、なかなか志のありそうな会社だったが、数年前に倒産していた。

 第一部の連載エッセイで特に印象に残ったのは、モノが多様な役目を果たす場では、人の発想によって、モノにはたくさんの命が宿りうる。…しかし、用途が固定化された社会では、モノの命は短くて、しかも単一の運命しか持っていない。同時に、モノに関わる人の発想の柔軟性は失われる。それは、人の想像力、創造力の欠如に繋がっていく。近年ではこの傾向は、人間にも及んできた。人の職種も細分化、専門化され、それに合致しなくなった者は簡単にリストラされる。(P017~018)と記された『付喪神のいる島』最近、気になったことがある。議論などの時に、相手の意見を「感情的」とか「感情論」とか言って切り棄てる傾向だ。…感情的であることは、常に非論理的とは限らない。情熱や悲しみ、苦しみを露わにしつつ、感情的に語っても、意見は論理的でありうる。それはむしろ情熱的といえるものではあるが、いま、この「情熱的」も「感情的」に含まれて語られることが多い。「感情的」とか「感情論」という理屈のもとで、情熱的な他者の意見を唾棄する傾向の底には、日本の武士階級が美徳とした感情抑制の歴史が横たわっている。つまり、感情発露はみっともないという捉え方に源を発する、感情全般に対する侮蔑意識だ。(P025)と記された『感情抑制の負の遺産』平らでまっすぐな道や空間は、人の反射運動能力も減退させる。…食べ物も同様で、口に快適なもの、食べやすいもののもたらすものは、咀嚼力の減少、歯の弱化だ。これは人の意見についてもいえる。痛くない、快適な、平らな意見が、今の社会では好まれ、ちょっとばかりでこぼこしていると厭われる。…意見に対して痛くないもの、快適なものを求める傾向は、思考能力の退化を招く。それは、広く、文化の停滞、退廃にも通じてくる。(P043)と記された『でこぼこ』やるべきこと、やりたいことがいっぱいあって、気がつくと時が過ぎている。夢中になっている間に、時間がいっぱいいっぱいになっている。「時充ちる」とはこんなことかもしれない。これと対照的なのが「待つ」時間だ。銀行やスーパーのレジで並んで順番を待っている時ほど、つまらないものはない。うっかり列を離れると、順番を抜かされてしまうから、そこにじっとしていなくてはならない。「待つ」以外、なにもできないことが苦痛である。…現代人の生活は、この種の「待つ」がやたら多い。…ところが、欲しいコンサートのチケットや、人気の食べ物屋が目当てとなると、どんな長い行列でも苦にならない人も多いようだ。…彼らにとっては、「待つ」こと自体に意味があるのだろう。行列も、「待つ」行為を盛り上げる要素なのだ。…この捉え方が正しいかどうかはわからないが、いずれにしろ、行列を苦にしない人の心理、私には理解できない。できる限り「待つ」時は避けて、「充ちる」時の中で暮らしていたい(P062~P063)と記された『充ちる時と待つ時』だった。


 第二部第一章「管理できないものは愛されない」で、ヒロシマ平和映画祭実行委員会事務局長を務めてもいた音楽評論家の東琢磨が述べている坂東さんの文章よりも、ホントに反応のほうがすごいですね。まさに病理を感じます。ほんとうに日本・日本人てどんどん気持ち悪い国・人々になってきてますね。…「猫を殺すことは、とにかくよくないことだ」という論点だけが目立つ、ヒステリックな論争でした。いや、正確には論争なんてなかったし、誰もする気がなかった。市民がファシズムを楽しむ。それに近い現象を目の当たりにした気分でした。(P082,P085)というのは、当時、僕も強く感じていたことで、彼女が「子猫殺し」と題するエッセイを書く半年前の映画日誌には同世代で、同じ学舎に過ごしたことも作用しているのか、かねがね自分の思っていることと符合していて、大いに溜飲を下げたと記しているように、共感することが多かったので、尚更だった。

 東の「我慢」の対照が不明確でありながら、なんとなくイライラしている人が日本にはたくさんいるのではありませんか。…誰もがイライラしている。そして、白黒はっきりさせる場合には、なぜか白いほうにつかなくてはならない。なぜ白につかなければならないのか疑問に思い、「それはちょっと違うんじゃない」と思ったら、立ち止まって考えればいい。しかし、考えないままイライラして、けっきょくは白についてしまう。でもイライラは止まらないので、「子猫殺し」のような話が出てくると、取り敢えず叩いて溜飲を下げる。そんな構図ができつつあるような気がします。(P086,P093)との弁に坂東が経済や物質を中心とする世界になってくると、ものごとを速く進めないと、何をするのにも乗りおくれてしまう。だから、瞬時に「白か黒か」「イエスかノーか」を判断する必要に迫られます。でも、「白か黒か」とか「イエスかノーか」とかを瞬時に判断するのはむずかしい。ものごとは、そんな簡単に割り切れませんからね。すると、判断しなければいけないのに、判断できずにいるのでイライラする。(P093~P095)と応じ、敢えて戦中の山下奉文中将がイギリスの司令官に「イエスかノーか」と迫ったうえで、降伏文書に署名させた話を持ち出し、当時の日本人が山下中将のこの言葉に快哉を叫んだと言いますと言及しておいてから戦後になると、「イエスかノーか」という思考が顕著になり、ファッションになってしまったような気がします(P095)と述べていることに、それこそ快哉を挙げた。

 この「イエスかノーか」については、'04年に観たドッグヴィル』の映画日誌で僕も言及していて、ある種アメリカ的というイメージを僕が兼ねてより抱いているものに通じる部分があって興味深かった。それは結論や結果に対する明快志向ともいうべきもので、極論すれば二元論に集約し、そのいずれかを選択することとその選択に対する割り切りへの潔さにおいて迷いのなさを体現することに価値を置くような行動基準を自らの文化として醸成しているように感じている部分だ。僕などは二元論の効用を選択肢のイメージで捉えることに違和感があって、二元論に対しては、ある種の明晰さを求めるうえでの分析手法としての有用性を感じるとともに、それに則れば、むしろ、一方しか選択しなければ、そのことによって他方が捨て去られ、結果的に二元にならず一元論になってしまい、そもそも二元論たり得なくなる矛盾を無視できないという感覚のほうが支配的だ。曖昧さは排除して明晰を得たいけれども、解りやすい明快さを求めることは、明晰を損なうような気がしてならない。と記していたので、強く響いてくるものがあった。

 また、この件に関して坂東が東京の空気のなかでは、別に急いでいるわけではないのに、電車を一本遅らせることも躊躇してしまい、ついつい駆けこみ乗車をしてしまったりします。切符を買うときにも、うしろに人が並んでいると、あせって券売機にお金を入れてしまう。横断歩道の青い歩行者信号が点滅しはじめると、小走りになってしまう。 都市で暮らすと、まるでうしろから押しだされるような流れのなかにおかれます。もたもたしていると、まわりの人から「なにしてんだ」という眼で見られる。社会がそういう状態だからこそ、「子猫殺し」に対する糾弾の雰囲気が出てきたんだと思います。(P094)と述べているのを読んで、'05年に観た村の写真集』の映画日誌大学に入って間もない時分に新宿駅で、ホームに入って来る電車の音に反応して、階段を駆け上がり始めた神奈川生まれの友人に「五分もせんうちに次の電車が来るのに、なんで走るんや?」と声を掛けたところ、駆け上がるのを止めた彼からやけに感心されたことがあって、今だに印象深い。と記してあることを思い起こしたりした。

 そして、東がちょっと嫌な言い方になりますけど、「意識が高い」とか「進歩的」といわれている人たちがいますね。「朝まで生テレビ」に出演しているような人たちとか、そういうのをつい見ちゃうような人たちです。田原総一朗が典型的ですが、彼は「イエスかノーか」はっきりさせることばかり気にしている。パネリストに対して、「あなたはどっちなんですか?」としょっちゅう聞いてます。 しかし、田原が好むように「イエスかノーか」で話がすむのなら、対話する必要がなくなります。…とても違和感のある状況ですね。(P095)と返していることに大いに共感した。

 これに対して坂東が共感または感動を与えるはずの詩の言葉が、他者に暴力をふるう装置のイメージとなっていることに、私は反発を覚えます。(P096)と挙げた「詩のボクシング」への違和感の表明もさることながら、いま日本では国内で治らない病人を海外で治療するために、有志の人が募金をつのるということが、いろんなところでやられています。そうした行動を悪くいうつもりはありません。また、募金をする人を悪くいうつもりもありません。しかし、募金をつのる人にも、募金をする人にも、私は違和感を持っています。(P098)との東の弁に賛意を覚えた。「その違和感は、どこから来るのでしょうか。」と続けられていたことに対して「僕は、はっきりしている。カネで命が買えるという現実の仕組みに加担したくない。」との思いが湧いた。

 東からの他の生き物であればあのようにならない可能性もある。にもかかわらず、「子猫」に関しては、どうしてあのようにエキサイティングかつヒステリックな議論になるのか。(P099)との弁に首肯しつつ、「猫かわいがり」という言葉は何故あるのだろうと思ったりした。

 そして、坂東のいまの日本には、「論理的に言葉で説明できないけれど、排斥したいもの」は、すべて「不快」という感情でまとめてしまう傾向を感じます。その背景には、「他者に対しては、いつも愛想よくしなくてはいけない」とか、「他者は快くさせてあげるべきもので、不快にさせるのは罪である」という日本文化特有の強い「おもてなし」意識がある。 だから、先に「不快だ」といってしまった者の勝ち。他者を不快にさせた者が悪者となる。表現における差別語問題にしても、「不快だ」の一言が糾弾する理由だと決めてしまうところから発していることが多く、議論がちっとも深化しない。(P106)いまクレームをつけることが流行っている…何でそんなに文句が言いたいのか。文句をいう前に、対処したり、対策をねったり、自分の身体を動かしたりということを、なぜしないのか。…私には、身体を使わなくなった、という点が気になります。…自分でなんとかしようとすることなく、安易に問題解決を…ゆだね、それが実現しないからといって文句をいう。自分の身体を使って問題を解決しようとすることなく、他者に問題を押しつけるので解決しにくい、そこで文句をいうのでしょう。 自分の身体を使うということは、自分の頭を使うことにもつうじる。(P116~P117)に大いに共感を覚えた。

 坂東と東が…原則は、個人個人が設ければいいんだと思います。自分の原則を他人に押しつけてはいけない。自分で考えて、自分で実行すればいい。…潔癖に考えていたら、窒息してしまいますよ。息苦しくなれば、イライラもたまってしまうし、そもそもつづかないでしょうし。(坂東)とにかく過剰なんですよね、何に対しても。一方では想像力が過剰に欠如していて、もう一方ではやたらと想像力を働かす。(東)とした(P126)うえで、坂東が私が言いたいのは、人はほかの生き物を選別したり差別しながら、生かしたり殺したりしているということに、もっと自覚的になるべきではないか、ということです。それを踏まえたうえで、自分が関わった生き物に対して責任を持つということです。 ペットショップで買ってきた子猫に不妊手術を施して、責任を持って大事に育てあげることもけっこうです。ただし、この場合は猫に子どもを産ませないという選択をしていることに、自覚的であってほしい。不妊手術をして子どもを産ませない飼い主も、避妊手術をしなくて生まれた子猫を殺す私も、生き物に対して人間主体の勝手なことをしているのは同じです。(P136)と述べていることに強い納得感があった。


 第二部第二章「生き物の命と向き合うために」での、犬猫の殺処分を主業務とせざるを得ない「県動物愛護センター」を取り上げた『ドリームボックス』を著したノンフィクション作家小林照幸との対談では、坂東が「子猫殺し」論争から三カ月後の二〇〇六年十一月には、徳島県で崩落防止用擁壁のコンクリート枠に野良犬が迷い込み、六日後に救出されたというニュースが報じられました。…その後、この犬を引きとりたいという人がたくさんいたと聞いて、あきれました。 おそらく、この犬が救出された日にも、動物愛護センターで多くの犬猫が処分されている。他方、たった一匹の犬であっても、世の中の脚光をあびたとたんに、洪水のような同情が寄せられる。殺処分される犬猫には寄せず、たまたま報道された一匹の犬には寄せる彼らの同情とか愛情というのは、いったい何なのでしょうか。(P174)としたうえでいわゆるペットと呼ばれる動物を特殊なものとしてとらえる過剰な意識を、もうすこし健康な意識に引き戻すということです。 健康な意識とは、人も動物も命ある生き物だということを認識するということです。(P175)とし、動物には愛護されるものとされないものがあり、愛護される動物には自分らが愛を与え、幸福を与えることができるという共同幻想を抱いている人たちが、地球をグローバルにおおっているのであれば、それは薄気味のわるいことだといわざるをえません。(P204)と述べていることに賛意を覚えた。


 第二部第三章「「子猫殺し」バッシングはファシズムである」では、『子猫殺し』を発表する前に『天の邪鬼タマ』で犬を処理した話を書きながら、犬の始末では爆弾が爆発せず、子猫殺しでは爆発したことに対して猫は人間の自己愛を過剰に反映できる動物だから(P218)と述べている元外務事務官の作家佐藤優との対談が置かれていた。

 この件についての僕の見解は少々異なり、他の動物との違いにおける犬猫の特殊性については首肯するものの、「天の邪鬼タマ」と「子猫殺し」での違いは、犬と猫の差異にあるのではなく、いわゆる「意識が高い」系の愛猫家が熱心に推し進めている避妊手術にケチをつける形になっていたことにあると僕は見ている。

 この対談では坂東さんの作品では、魂の問題をあつかう場合が多いですよね。すべての作品の底流に、「魂の苦悶」が通奏低音として流れている。としつつ僕の場合はキリスト教徒なので、人の魂と動物の魂はまったく異なるものだと考えています。(P230)と述べている佐藤の提起した“生き物の商品化”と“愚行権”の問題が目を惹いた。

 たとえば、アメリカンショートヘア。この猫は、耳のかたちや尻尾のかたちなどがマニュアルどおりでないと売れません。売れない猫は、殺処分されます。それも、マニュアルどおりの一匹の猫をつくるために、何十匹もの猫が殺されている。 なんでこのようなことが起こるのか。それは、猫が貨幣としてまわっているからです。(佐藤)…ヨーロッパのキリスト教国のように、人と動物の魂は異なるものだと理解していたら、猫の魂は人と違うから、貨幣として見なしてもいいんじゃないか、という発想が生まれてもおかしくはない。資本主義がヨーロッパにおいて発生したことも理解できますが、いまはそれが行き過ぎている。(坂東)猫を商品にすると、そこから人間を商品にするまでの距離は、それほど遠くありません。(佐藤)といった対話(P234~P235)は、別物だと理解しているからこそ生じることを根拠に同一視までの距離を近いとするロジックに矛盾がある気がしてならないが、現象的には、まさしく指摘しているとおりのことが起こっていると僕も感じている。なにもキリスト教など持ち出さなくても、もともと日本人が持っていたアミニズム【ママ】(精霊信仰)的な思考を持っていれば、犬猫を商品化することなどありえなかった。犬も猫も、木も草も、神様となりうるのですから、貨幣として見なすなんてとんでもない、ということになったはずです。 いまの世の中になって、なぜ神をも恐れぬ傍若無人なことをしはじめたのでしょうか。(坂東)それは、繰り返しになりますが、商品経済の浸透によって貨幣が異常な力を持ってしまったことが原因だといえます。貨幣など、生活のごく一部で流通させておけばよかった。しかし、それが生活のすべてになってしまうくらい浸透してしまった。(坂東)という対話(P236)は成立するし、結語に異議はないものの、人を含めた生き物の商品化に抗する力がアニミズム的思考にあるとまでは思えないところが僕のなかにはある。しかし、この“別物”という言葉がひとつのキーワードであるのは間違いない気がする。佐藤が語るある日、モスクワに駐在する日本の外交官夫人たちが、…レストランで北京ダックを食べながら「『矢ガモ』って、かわいそうよね」なんて議論しているんですよ。 矢で射抜かれたカモはかわいそうで、自分たちが食べているカモはおいしくいただく。その奥さんの話を聞きながら、何かが狂っていると思いましたね。いずれにしても、この人たちにとって、矢ガモと北京ダックのカモは別物なんですよ。(P239)との指摘は、重要な部分であって、ある者に狂っているとまで言わせるほどに差異の無いものが、別な者にとっては至極当然に別物になるという境界線というものが一体何なのかということが、最も重要なポイントなのだが、肝心の部分へとは進展せずに異常さの指摘にて思考停止していたのが、残念だった。

 もう一つの“愚行権”について、僕は初めて目にした用語だったが、憲法第十三条に規定する幸福追求権のことだとも述べられていて(P223)得心した。幸福・愚行のいずれにしてもやや極端な表象だが、自由権の根幹をなすものであるのは間違いない。この愚行権について佐藤がどこまでが愚行権の範囲内で、どこからが愚行権の範囲外なのか。現在の日本には、その線引きができなくなっている人がたくさんいるような気がします。と述べたことに対して坂東がいつの時期から、そのような傾向が顕著になってきたと思いますか。と問い掛けたことへの回答(P251~P253)が目を惹いた。曰くそれは、小泉純一郎元首相がおこなった小泉改革が、ひとつの契機になっていると思います。 小泉さんがやろうとしていた改革は、すこし思慮深い人であれば、圧倒的大多数の日本人には不利な政策であると理解できたでしょう。まず、貧困をつくり出し、中産階級をなくすことにより格差が拡大する。つぎに、食の安全がおかしくなる。食品も商品です。その目的が金儲けだけということになれば、バレさえしなければどんなものでも売ってもいいということになりかねない。この二点は、小泉改革の弊害として考えられるわけです。 しかしながら、自分の首を絞めるような政治家を、国民は領袖として選んでしまった。何がよくて何が悪いのかが、よくわからない人が多いからこそ、このようなことが起きるのでしょう。…当人には起きたことの真相を探る能力があるにもかかわらず、手間がかかるからそれをせず、他人からの情報で事柄の真相を理解しようというような態度を、ハーバーマスは「順応の気構え」と言います。…「順応の気構え」を持つかどうかについて、その人の教育水準や社会的地位など、まったく関係ありません。だから、高等教育を受けた政治エリートを含め、誰もが持ちうる気構えであるだけに、恐ろしいのです。としていることに呼応するように、先ごろ観たばかりのバイス』の映画日誌小泉政権当時、首相にしきりと“頑張った者が報われる社会”などと吹聴させて、金持ちの投資欲を駆り立てる利権再編成のための規制緩和と優遇税制を軸とした経済政策を、金融担当大臣も兼務した経済財政政策担当大臣として推し進め、日本に格差社会の出現を促した張本人であるのは間違いない。と記したばかりだったことを想起した。

 そして、国のみならず地方も含めた政府と個人の関係についての対話(P262~P267)が目を惹いた。何か問題が起きても、個人と個人がコミットするのを避けて、行政の条例で解決しようとするのは、あまりいい傾向とはいえませんね。(坂東)その傾向はよくないというよりも、まちがっています。国家が社会に介入する領域を拡大してしまう。前にも述べたように、国家はその本質において暴力的な存在です。国家の社会への介入が高まるということは、社会に占める暴力の比率が高くなるということです。…地域の人たちがコンセンサスをつくり、実践していけはいいんですよ。…基本的に、物事というのは普遍的でなく、多元的なのですから、普遍を旗印にして、それを他者に押しつけてはいけません。 コンセンサスをつくるにしても、おたがいの顔が見える範囲の世界と、そうでない世界とは、まったく別物だと考えたほうがいい。そして、まずは顔の見える範囲の世界と向きあうことからはじめたほうがいい。…十年くらい前から、けっして健全とはいえない社会になっています。まず、人々がばらばらになってしまった。そして、何かを見るときにすべてを数値化し、計量化するようになった。さらに、ほとんどの問題をカネで解消するようになってしまった。また、何か問題が起こると、すぐに国家を頼るようになった。(佐藤)

 これらに関することについて言えば、僕が海と毒薬』の映画日誌結果が同じなら同じことだというならば、それこそ戦死も病死も死刑も生体解剖も、死には変りがない。殺人とて同じことだ。しかし、人間が人間であるのは、物事に意味を見出すからである。同じ結果でも、プロセスの持つ意味合いによって、それぞれを違うと感じるからこそ人間なのである。むしろ、結果以上に、意味のほうにこだわるのが人間ではないだろうか。いつの頃からなのだろう、そうは言いながらも、意味より結果のほうが幅を利かせ始めたのは…。そして、その傾向は、ますます助長されてきている。それとともに、世の中が、どんどん非人間的な社会になってきている。効率性や数字が今ほど力を持った時代は、かつて存在しなかったのではないだろうか。と綴ったのは、三十年以上前のことになるのだが、日本社会の現況は、その成れの果てのような気がして嘆かわしくてならない。本書が著された当時よりも確実に今のほうが酷くなっているように思う。


by ヤマ

'19. 4.30. 双風舎



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