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『海と毒薬』 | |||||
監督 熊井 啓 | |||||
厳しい作品である。これを観て、昔はひどいことがあったのだなあ、とか、医者って怖いなあ、だとか思える人は幸いである。この作品の投げ掛けている、人間というものの怖さとか、人間の良心といった問題は、決して昔の話ではなく、また、特殊な立場の人だけが問われるものでもなく、さらには、チラシに書かれているような「もし、あなたがその立場にいたら、どうする!」といったよそよそしい問題でもない。我々は、現実に、今この地球上で起こっている大量の殺戮や搾取、あるいは飢餓といった事実を知識としては知っていながら、それに対する自らの意志を表明していない者が殆どなのである。目をそらしたまま、やれ車だ、ビデオだ、グルメだとかに夢中になっている。もし、そのことを突きつけられれば、自分一人が足掻いてみたってどうなるものでもないだとか、自分のことで一杯で、とてもそこまで余裕はないといった弁解をするだろう。勝呂研究生は、弁解もするが、そのことを苦しみながらも考え続ける。また、戸田研究生は、割切りながらも凄じい自己認識へと至る。翻って我々はどうなのか。漫然と、あるいは曖昧に、自分に目をつぶっているだけである。それどころか、自分にもダイレクトに返ってくる、その厳しさにいたたまれなくなるわけでもなく、最後まで見終え、平然と良い映画だったとか言って憚らない。このことは、自覚するとしないとに関わらず、戸田の日記にある、「罪悪感の乏しさだけではない。僕はもっと別なことにも無感覚のようだ。はっきり言えば、僕は他人の苦痛やその死に対しても平気なのだ。」に通ずるものである。ヒルダに対する上田看護婦の苛立ちに共感したり、戸田を米軍調査官のように罵ったりできないのは、そのためである。 しかし、良心の呵責というのは、戸田の言うように、他人の目、社会の罰に対する恐怖だけなのであろうか。確かに、人間認識という点では、戸田は間違っていないと思う。だが、所詮、人間とはそういうものだと見切ってしまい、それを不気味で不思議なものと言い切ってしまったゆえに、彼は恐ろしい人間になってしまった。良心の呵責というのは、まさに勝呂が陥っていたあの不安というものではなかろうか。社会への恐怖ではなく、自身への不安である。しかし、勝呂は、戸田のように厳しく人間の現実を見つめるだけの強靭さを持たぬゆえに、良心に近い処にいながらも、それを実現できない。迷いと苦しみに苛まれる弱々しい存在に過ぎない。しかし、彼らは二人とも、自身や人間について真摯に内省している。それゆえに、ヒルダや他の医師、軍人のような思い上がりや醜悪さ、嫌悪感といったものを覚えない。それは、彼らが若かったからかもしれないが、逆に言えば、若い時に持っている真摯な内省を失えば、人間は、醜悪さに侵されるということでもある。 一般に、強さを持つ人間は戸田のように、良心にこだわる人間は勝呂のように、というのがまた人間の哀しい現実で、戸田のような認識と勝呂のような不安とを併せ持つようなシャープで謙虚な人間というのは、多分、少ないのだろう。しかし、ここで所詮というならば、戸田と同じ道を辿るのである。所詮というのは、結果主義である。結果が同じなら同じことだというならば、それこそ戦死も病死も死刑も生体解剖も、死には変りがない。殺人とて同じことだ。しかし、人間が人間であるのは、物事に意味を見出すからである。同じ結果でも、プロセスの持つ意味合いによって、それぞれを違うと感じるからこそ人間なのである。むしろ、結果以上に、意味のほうにこだわるのが人間ではないだろうか。いつの頃からなのだろう、そうは言いながらも、意味より結果のほうが幅を利かせ始めたのは…。そして、その傾向は、ますます助長されてきている。それとともに、世の中が、どんどん非人間的な社会になってきている。効率性や数字が今ほど力を持った時代は、かつて存在しなかったのではないだろうか。 | |||||
by ヤマ '87. 2.27. 名画座 | |||||
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