『バイス』(Vice)
監督 アダム・マッケイ

 かねがねアメリカの竹中平蔵のような人物(国がデカい分、悪辣もデカいのだが)だと感じていたチェイニー米副大統領は、いつか必ず映画になるに違いないと思っていたのだが、ようやくにして出てきたなと、楽しみにしていた作品だ。これまでの経験から、エイミー・アダムスの出ている映画にハズレはないのだが、彼女がディック・チェイニー(クリスチャン・ベール)の妻リンを演じた本作は、気分が悪くなるほど痛烈で、観応えのある作品だった。

 劇映画ながら、語り口にはマイケル・ムーア作品のテイストがあり、実に強烈だ。出藍の誉という言葉があるが、芯から下衆っぽいドナルド・ラムズフェルド(スティーヴ・カレル)の感化によって、チェイニーがどんどん“理念”を嘲笑う方向へ邁進していく姿がやりきれなかった。そして、どこかアイヒマン的凡庸さを漂わせていたように思うが、最後にカメラに向かって居直る姿には、その凡庸を突き抜けた悪辣を感じた。

 奇しくも竹中平蔵お得意のトリクルダウンを説いた書も映し出されていた。今ではインタビューに対して私はトリクルダウンと言ったことはありません。などとすまし顔で応えているらしい実に腹立たしい竹中が、小泉政権当時、首相にしきりと“頑張った者が報われる社会”などと吹聴させて、金持ちの投資欲を駆り立てる利権再編成のための規制緩和と優遇税制を軸とした経済政策を、金融担当大臣も兼務した経済財政政策担当大臣として推し進め、日本に格差社会の出現を促した張本人であるのは間違いない。

 その奢れる強者の論理の象徴とも言うべきトリクルダウンの書のみならず、情報操作と姑息な遣り口、朝三暮四的な言い替えによる大衆操作、メディアへの圧力…etc、権力におごり、「一元的執政府(と訳されてた気がする)」を“ねじまげ法解釈”で押し通す姿など、本作に映し出されていたものが、なにやら今の日本で毎日のように見せられているものと被ってきたことが、観ているうちに気分が悪くなっていった一番の原因だという気がする。本作は、別に日本の現政権を意識しているわけではなく、エンドロール後に現れたように、アメリカにトランプ政権を誕生させた国民を撃っているのだが、日米現政権がいかに同じ穴の狢であるか、を思わずにはいられない。世界にネオコン菌を振り撒いた元凶としてのチェイニーを余すところなく描出していたように思う。

 彼の娘がまだ幼なかった時分に、父親の趣味であるルアーフィッシングについて、餌の付いていない毛鉤で魚を騙す釣りに対する疑念をぶつけていた場面が利いていて、エンドロールで映っていたのがありとあらゆる毛鉤だったことが、なかなか意味深長で印象深い。アメリカのみならず世界中の人々が、あのチェイニーの毛鉤に掛けられたわけだ。無念極まりない。しかも、今なお、登場人物は替われど、世界中の政界で、そのルアーフィッシングが大流行となっている惨状を思うにつけ、憤懣やるかたない気分になった。

 本作の中盤で突如現れたエンドクレジット然とした政権交代による退場のところでチェイニーが政治家生命を終えていたら、世界は今ほど不幸になってはいなかったはずだとの作り手の想いを感じた。愚息ブッシュは本当に罪深い。しかも、最初は「バイス(副)」なんて、とチェイニーは、乗り気じゃなかったらしく、それだけに余計に悔やまれる。本作を観る限り、レーガン時代の彼にしても、かなりのバイス(悪)にはなっていたが、後の有り様から思えば、まだまだ序の口だった。

 だが、最も恐ろしいのはそんな彼ではなく、彼が怪物になっていくことを止められないどころか、勢いづかせてしまう人々の流れだった。我が国の政権を取り巻く状況を見ても、党人官僚ともに嘗てないほどにポチ化しているので、尚更そう思う。そのうえで、もしそういった人物が怪物になったとしても、現行制度のなかには唯一それを抑えることのできる仕組みがあって、それこそが選挙だと作り手が最後に訴えている気がした。アメリカ国民以上に、我々が噛み締めないといけないことだと思う。




推薦テクスト:夫馬信一ネット映画館「DAY FOR NIGHT」より
http://dfn2011tyo.soragoto.net/dfn2005/Review/2019/kn2019_06.htm#01
by ヤマ

'19. 4. 9. TOHOシネマズ6



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